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Walk With God Ministries

01 04月

十字架を抱いて命の木を生きる ポウレット・リード 4月1日


生まれるときと死ぬとき
 十字架を抱いて命の木を生きる


ポウレット・リード

預言的なヴィジョン

私は2002年にミネソタ州のミネアポリスで行われた女性の使徒的預言的カンファレンスに出席しました。そのとき、一つのヴィジョンを見せられたのですが、 最近そのヴィジョンを主が思い出させてくださいました。私が友人たちと共に王なる主を礼拝していたとき、そのヴィジョンを見て私はびっくりしたのでした。私は霊の目でそれを見て、震えました。そこには私の身体(多分キリストの身体なる教会をあらわしている)が、白いガウンを着てうつむきに川に浮かんでいました。ちょっと見たところそんなに変なことではありません。ただ単に水の中でいろんな変わった姿勢をして遊んでいるだけかもしれません。でも私の身体はずっとそのまま長い間浮かんでいるのです。私ははっとしました。そして聖霊に聞きました。「主よ、あんなに長い間うつむきに水に顔をつけて浮かんでいるということは、私は死んでいるに違いありませんね!」 その時、神様は力強い静かな「アーメン」で私を満たしました。

そこで、私はそのヴィジョンをもう一度注意深く調べて見ることにしましたが、3つのことに気がつきました。まず、それが普通の川ではなく、神の川であることがわかりました。第二に、私は救いの衣を着ていて花嫁の正義の外套をまとっているのがわかりました。(イザヤ61:10) 第三に、私の両腕はまっすぐ前に伸ばされ、その手は王の差し出した笏をしっかり握っていました。

絶えず祈りなさい

愛する皆さん、天の父は夢やヴィジョンで警告を与えてくださり、人生で起ころうとしている様々なことに対して私たちが祈りの備えができるようにしてくださいます。しかし、人々が実際にヴィジョンを生きはじめると、あらかじめ備えよという神からの警告を忘れ勝ちになります。そんなとき聖霊が「わたしの息子、娘よ、わたしはおまえの霊を備えようとした。わたしはおまえを守ろうとしているが、しかしまた、完全な霊にもしなければならない。」とささやかれます。伝道者の書3章でソロモン王が>「すべての営みには時がある。」と教えているとおりです。黙っているのに時があり、話をするのに時があります。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時があります。泣くのに時があり、ほほえむのに時があります。そして「生まれるのに時があり、死ぬのに時があります。」(伝道者の書3:2)

あるときには、私たちは神の川の中で障害物にぶつかってばかりいて、目的地につくのがどんどん遅くなるように思えるときがあります。私たちはそれに対して縛ったり解いたり、叫んだり泣いたり、障害物を横に押しやったりします。それは多くの場合正しいことです。しかし、私たちが懸命に祈ったり戦ったりしているときに、真に静まって全能の主に介入していただく心を持つならば、主がこうささやかれるのが聞こえるでしょう。「愛する子よ、聞きなさい。あなたが戦っているのは敵からの障害物ではないのだよ。それは木だ。わたしはその木の上で死んだ。おまえも神の川を流れていくとき、あなたが死ぬまではその木に何度でもぶつかるだろう。」

十字架を抱きなさい

あの荒削りの十字架に出会うたびに私たちは自分の世界が少し揺さぶられるのを感じます。そして実を結ばない枝が剪定される痛みを感じます。プライドは去らねばならず、高慢も取り払われなければなりません。肉欲、罪、嫉妬、疑い、野望、欲望等々、すべて肉なるものは十字架にかけねばなりません。実を結ばない枝は私たちから切り取られ、遠くに流れいって忘れられ、もはや決して木につながれることはありません。いのちの木は、私たちからイエスに属さないものがすべて取り払われないと、手に入れることはできません。私たちを十字架にかけて殺す木は、同時にそこから力が湧き出る木でもあるのです。パウロが「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者のなかからの復活に達したいのです。」と言う通りです。(ピリピ3:10,11)

神の川の水が増すに従って(エゼキエル47参照)、川は深くなり誰も渡れなくなります。しかしその川が流れていくところではすべてのものが命を得て生きます。私たちは神の道に出ていって神がご自身の素晴らしさを人々にみせることができるようにせねばなりません。木にぶつかって私たちが死ぬことによっていのちが生まれるのですから、その木を避けてはいけません。私たちの兄弟パウロのように言うことができますように。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、命にあって新しい歩みをするためです。」(ローマ6:4)

勿論「木」にぶつかるのは痛いことです。死と復活の間には必ず痛みが伴うに違いないのです。そのときのために祈りを積んで備えることは助けとなります。すべてのことにシーズンがあり、この痛みのときも又過ぎ去ると知ることができます。神が私たちを栄光から栄光へと変えてくださるのを知り、変えられるときにはいつも痛みが伴い精神的な危機感があることを覚えて、それを喜ぶことができます。愛する皆さん、困難だとあなたが感じるときはほとんどの場合、あなたが取った道は正しい道なのです。しかし、自分に死ぬことに焦点を当てるのではなく、自分に死ぬこととは神の静かで暗い胎内に入ることであり、そこで新しい命がはぐくまれていると言う新生の奇跡に目を留めようではありませんか。

私たちが恐れを覚えるときに天の父にそれを告白すると、即座に恐れを克服す信仰が与えられるのですから、どうか心配しないでください。それがイエスがマタイ26:39でなさっていることです。「それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。『わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。』」

私たちがいのちの川を流れていくとき、神は決して私たちが耐えられないようなことは与えられないのですから安心してください。主は教会をご自分の身丈にまで成長させてくださるのですが、それと共に次のように約束していてくださいます。「しかし、主は『わたしの恵みは、あなたに十分である。と
21 03月

第二バイオリンを弾く招き  ビル・ヨント  3月21日


第二バイオリンを弾く招き

ビル・ヨント


ピリピ2:3-11「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、 すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」


「私のために第二バイオリンを弾いてくれませんか?」

今まで自分の賜物や召命に従って忠実に主に仕え、重要な役割を担い、人々に祝福を与えてきた多くの人々にむかって、今、特別の招きが与えられているのを私は感じています。その招きとは、今まで神様のオーケストラの中で「第一の場所」(それを「第一バイオリン」に例えてみます。)で演奏することを許されてきた油注ぎのある人たちにむけて出されているのです。神様の御国の中で第一の場所を占め、特にソロで弾くような働きをしてきた人の上には、すべての人の目や耳が集中しますし、敵はその人に間違った音を出させようと日夜働きかけますから、その人には強いプレッシャーがかかります。

私が見た一つのヴィジョンの中で、第一奏者を照らしていた天のスポットライトが、だんだんと暗くなるのが見えました。そして、今までスポットライトが当たっていた多くの人たちに、「へりくだって他の人の下で働きなさい。彼らがあなたよりもっと高められるように助けて彼らを建て上げる役目を担いなさい。それが御国の中でもっとも偉大なものになることですから。」というプロモーションの招きが出されているのが見えました。

自由さと創造的な油注ぎは第二バイオリンから起こってくる!

ソロを弾く主役の演奏者(第一バイオリン)よりも、脇役の第二バイオリン演奏者のほうが実際もっと自由に創造的に様々な音を弾くことができるということは興味を惹きます。彼らは第一バイオリンが一番素晴らしく聞こえるように自由にハーモニーを造りだすことができるのです。聴衆は気がつかないことが多いですが、彼はスポットライトを浴びている主役の多くの間違いを自分の創造力でカバーしているのです。

ヨセフはエジプトの宮廷で、パロや自分の家族の下になって第二バイオリンを弾く地位に引き上げられ。エジプト全土は天のハーモニーを聞くことになった。

創世記41:40「『お前をわが宮廷の責任者とする。わが国民は皆、お前の命に従うであろう。ただ王位にあるということでだけ、わたしはお前の上に立つ。』
…41:43 ヨセフを王の第二の車に乗せると、人々はヨセフの前で、「アブレク(敬礼)」と叫んだ。ファラオはこうして、ヨセフをエジプト全国の上に立て、…」


創世記50:18-22「 やがて、兄たち自身もやって来て、ヨセフの前にひれ伏して、「このとおり、私どもはあなたの僕です」と言うと、ヨセフは兄たちに言った。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。 あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた。 ヨセフは父の家族と共にエジプトに住み、百十歳まで生き、」

第二バイオリンを弾くことは実はプロモーションである

詩篇75:6-7「 高く上げることは、東からでもなく、西からでもなく、荒野からでもない。それは、神が、さばく方であり、これを低くし、かれを高く上げられるからだ。」

神様が誰かの地位を下げるのは格下げだと、私は前は思っていました。でもそれは神様の見方ではありませんでした。それは私たちをもっと大きな目的にむかって昇格させるための神様のプロセスの一段階なのです。ヨセフに彼はどうやって宮廷の地位にまで昇格したのか聞いてごらんなさい。彼はきっと穴や牢屋に入れられたことが大切なプロセスであったと説明してくれるでしょう。また、ポティファルの妻から逃れるためにどれほど速く走ったかも! 神から与えられた夢が現実となるために必要な誠実な人格や徳を、ヨセフには持っていました。彼は賜物や夢により宮廷まで到達しましたが、そこのとどまることができたのは、彼の人格によってでした。

神様が私たちを低い位置に置かれるのは、私たちを私たちの目からではなく神様の目からみてもっと高く上げてくださるためなのです。神様はご自分の身体の中に沢山のメンバーをもっておられますから、一部の人だけをいつも使われることはありません。もしそんなことをしたら私たちは燃え尽きてしまいます。もしあなたが今低いところにいるならば、元気を出してください。今からあなたは昇っていくのです。もしあなたが今大いに用いられているのなら、あなたの賜物と人格を精錬するために主があなたをへりくだらせるような位置に落とされるかもしれませんから、そのときは驚かないでください。第二バイオリンの奏者になりたい人はいますか? すべてにおいて主イエスが第一の席に着かれますように、そして主にすべての栄光があるように他の人を高く上げることができますように。主もそれをされたのですから!(終わり)


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15 03月

神様へのシンフォニー  フランシス・フランジペン 3月15日


神様へのシンフォニー

フランシス・フランジペン

教会において会衆全員でとりなしの祈りをしたり、個人の家に集まって祈りをするとき、すべての人が霊の一致を保ち、神の心に触れるという目標にむかって互いにサポートし合い熱心に祈ることが重要です。それぞれの祈り方や祈りのスタイルは異なるかもしれませんし、与えられている重荷もまた違っているかも知れませんが、全員が心を一致させることは祈りによって霊的な成功を勝ち得るために非常に重要なポイントです。

たとえば、私と妻が二人で祈るときには、私は2つくらいのセンテンスの中にすべての祈りの中身を詰め込んでしまいます。「主よ、私の子供たちを祝福して満たしてください。」というように簡単に祈ります。このセンテンスの中に私は「主よ、彼らに触れてください。彼らの罪を赦してください。必要を満たしてやってください。導いてください。彼らを用い守ってください。」という意味が全部入っているのです。私の祈りはいわばコンピューターのジップ・ファイルのようなもので、外面は小さく見えるのですが、中身は沢山なのです。小さく見えますが、神様がそれをあけてみると沢山の意味が詰め込まれているのです。

それに反して妻の祈りは、私の祈りよりずっと長いのです。彼女は子供たちに関して主が知るべきであると彼女が考えるすべてのことを伝えます。あたかも主が子供たちのことを聞くのは始めてであるかのようにです。彼女は子供たちの人生に何が必要であるかを主に説明し、それがどうやったら将来彼らの人生にもたらされるかを主に提案します。彼女は子供たちに関してすごい情熱をもって祈るので、確かに神様の心を動かすことができます。

大切なことは、私たち夫婦が一緒に祈るときに、一致しているということです。お互いの祈り方を批判しません。お互いの祈りを聞いて、それぞれが違う祈りかたをするのを感謝して評価します。大抵二人で一緒に祈ったあとも、彼女は一人でとりなしの祈りを続けます。彼女が「主よ、子供たちにベッドのシーツを洗うように、そして十分の睡眠時間をとることも言ってやってください。それからジャンクフッドを食べさせないでください……」と主にお願いしているのが聞こえてきます。 母親としての子供たちへの愛で一杯なのですから、そのように祈っていいのです。

教会でグループとして集まるときも、これと同じ原則が当てはまります。みんなが一致するのです。一人の人が他の人より長く祈ったり、ずいぶんと細かいことまで祈ったりしてもいいのです。私たちの教会はアメリカのために祈り、また、他の国々やリーダーたちのために祈りますが、ある人たちは政府のリーダーのために祈り、またある人たちはギャングのリーダーのために祈り、また、ビジネス界のリーダーのために祈る人たちもいます。アメリカのために共に悔い改めて、プライドの罪、不正の罪、殺人の罪(特に堕胎の罪)を赦してください、と祈ります。また、私たちの貪欲さ、国家的な傲慢、テレビや映画などの不道徳な内容などに対する赦しも請います。一人ひとりに違った重荷があり、フォーカスも違いますが、私たちはお互いの祈りに情熱をもって心から一致します。

私たちが心を一つにして祈るなら、天の父はそれをかなえてくださるとイエス様は約束してくださいました。(マタイ18:19) 私たちが一致していることが私たちの祈りと同様に重要です。祈るスタイルは違っていてもいいのです。私は歩きながら祈ります。私の親しい友人は身体を前後に揺すります。また、ある人は空手チョップのように手で空を切りながら祈ります。それぞれ祈るスタイルは違いますが、心はしっかりと一致して共に祈りに燃えるのです。

興味深いことに、福音書で一致を表すために使われている言葉はギリシャ語の「sumphoneo」です。英語の「symphony 交響曲」はこれから来ています。つまり神様は、それぞれに癖のある一人ひとりの祈りを我慢しながら聞いている、というのではなくて、一致した熱心な祈りの声としてシンフォニーのように聞かれるのです。一つ一つの声がユニークな楽器でありながら、同じ栄光に満ちた一つの歌を一緒に歌っている声のシンフォニーとして聞いていてくださるのです。

愛する皆さん、共に祈るときは、常に一致を保とうではありませんか。不和はどんなことをしてでも避けねばなりません。祈りながら泣く人もあれば笑う人もあり、また、霊の戦いの祈りをする人もあれは、主を崇める人もありましょう。 しかし、私たちが一致して祈るときの祈りは、聞いてくださっている神様の心にはシンフォニーのように聞こえるのです。(終わり)


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14 03月

シンシア先生のハワイ訪問   坂 柚実子  3月14日


シンシア先生のハワイ訪問

シンシア・ケニヨン先生は、オレゴンの教会の日本人女性のための英会話教室で、もう10年間も教えていてくださっている先生ですが、今回ハワイに遊びにこられました。まず、オアフ島の横にあるモロカイ島で一週間のシニア・シチズンのための教育プログラムに参加されたあと、我が家に3泊してくださいました。彼女は私より一つ若いだけですが、エネルギー一杯で、主人と私は、今風にいえば「元気を貰った」というのでしょうか、大変楽しい時間をすごすことができました。



シンシア先生は、4年前にご主人様を亡くされましたが、その悲しみからやっと立ち直られた様子でした。モロカイ島では、毎日エクスパートからハワイの文化について講義を受けた由で、すでに2年半ここに住んでいる私たちよりずっとハワイについて博識でした。これは50歳以上の人が参加できるもので、いろいろなプログラムがアメリカ中にあるようです。ただの遊びではなく教育的なものなので、美術館の館長や教師をしているような人とかの参加が多いそうです。楽しそうですね。

さて、オアフ島での私たちとの3日間は、まずノース・ショアまでドライブして、サーフィンやカイト・サーフィンを見物し、夕食は
カフクのガーリック・シュリンプの一皿。次の日は日曜日だったので、一緒に教会へ。ランチは日本語教会のみんなとヤムチャ、そのあとワイキキ・ビーチへ。ワイキキで一番古いピンク色のロイヤル・ハワイアンの海に面したバーでハワイアンとフラダンスを見物。夕食はマリオットホテルの屋上でこれもハワイアンを聞きながら。月曜は真珠湾のアリゾナ・メモリアルとハナウマ・ベイでスノーケリング。

という具合に目一杯一緒にオアフ島を楽しむことができました。彼女はどこへ行っても、何をするにしても興味津々で、私たちだけならば、しないことをどんどんと実行されるので、彼女の人生はアドベンチャーが一杯です。

ロイアル・ハワイアンに行ったときのことですが、空いているテーブルがなかったので、主人と私はあきらめて出口に向かっていたのですが、彼女は老夫婦が座っているテーブルに行って、「一緒に座ってもいいでしょうか?」と聞いたのです。アメリカでもそんなことは普通しないので、老夫婦も一瞬、ぎょっとした様子だったそうですが、「勿論、どうぞ。」とか言ってくれたらしいです。彼女はそこで私たちを手ぶりで呼んでみんなで彼らと一緒に座ったのです。

シンシア先生はとにかく明るく、誰とでもすぐ友達になります。その老夫婦はカナダからハワイに2週間遊びに来た人で、笑いながら「この旅行はスキーの一環です。」というのです。スキーとは「SKI、Spending Kid’s Inheritance子供への遺産を使い果たす」ということだそうで、私たちには耳新しい言葉でした。アメリカ版、いやカナダ版「子孫に美田を残さず」というところでしょうか。しばらくの歓談のあと、老夫婦は丁寧に挨拶をして去っていかれました。そこはハワイアンの歌と踊りを見物する特等席でもあったので心ゆくまで楽しむことができました。

するとシンシア先生が「あのフラダンスをしている女性は78歳に見えるか?」と聞くのです。とても美人の女性で、せいぜい私には50歳くらいにしか見えません。先生がそう聞いたわけというのは、彼女がモロカイ島で出会ったある男の人が、自分の母親は78歳だけれど、今もワイキキのホテルで歌ったり踊ったりしている、と言っていたから、この女性がそうかもしれない、聞いてみる、というのです。彼女は本当に歌の合間を見てフラダンサーに近づき、「Do you have a son in Molokai? モロカイ島に息子さんがおられますか?」と聞きました。横で歌を歌っていた男性がそれを聞いて笑いながら、「彼女はモロカイ島に息子がいるかって!」と大騒ぎをしはじめました。その女性も笑いながら、もう一人の歌い手を指して「私の息子はこの子だけです。夫が知っているのはね。」などと冗談を言うのでみんなも大笑いになりました。それは夫婦と息子の三人のチームだったのです。夫婦喧嘩にならなくてよかった、、、、。 そのあとの歌は勿論モロカイ島の歌でしたよ。

シンシア先生は「ゆみこと一緒に礼拝できて嬉しかった。もしまた結婚したらハネムーンにくるからね。」と言ってオレゴンへと帰って行かれました。(終わり)


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09 03月

信仰を持ちなさい  ポール・キース・デービス   3月9日



信仰を持ちなさい。神に不可能はない。

ボブ・ジョーンズ師との会話

ポール・キース・デイビス



最近私はボブ・ジョーンズ師から、主が彼に与えられた啓示について聞くことができました。それは、西洋の教会ではどうして奇跡が起こらないのか、という問題に関してでした。彼に与えられた啓示はこうでした。「西洋の私達は、神はすべてのことが可能であるということは確かに信じている。しかし、問題なのは私たちの心にある『疑い』である。」

正直なところ、これを聞いた私は戸惑いを感じましたが、しばらくして私が十分理解できるようにと主は助けてくださいました。というのは、最初私にはこの啓示の内容は矛盾しているように思えたのです。なぜならば、神は偉大な神でありすべてのことが可能な方であることを信じるのは、信仰の最も基本的な土台ですから、なぜ信仰を持つ私たちがそれに関して疑いを同時に持つことがあるのでしょうか?


私の疑問への答えはマルコ11:22-23に見出すことができました。

そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。 はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。」


この箇所を丁寧に調べてみますと、主イエスは私たちの心の2つの領域を取り扱っておられることがわかります。:第一の領域は、神にとって不可能なことはない、と信じる信仰の領域であり、第二は、しかし神は私個人の祈りに応えて奇跡を起こしてくださるのだろうか、と疑う領域です。

信じて疑ってはならない

主がお弟子たちや私たちに教えておられることは、信仰という超自然的な領域のことであり、山をも動かすほどに偉大な信仰の領域のことです。ここでいう山とは、妨害の山かもしれませんし、実際の土と岩で出来ている山かもしれません。


主は私たちにむかって「神を信じなさい。」と宣言されました。そして次にこの原則を私達個人に適応して、「あなたがたに言います。」といわれました。主は私たちを個人的にとり扱われ、私たち一人ひとりがどのような信仰を持っているかを問われるのです。私たちのうちの誰であっても、山にむかって「動け」と言い、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになるのです。


主のお言葉の中に私たちは二つの次元を見ることができます。:信じなさいという信仰の次元と自分の中の疑いを取り去るという次元の二つです。主はこの原則について私に教えてくださったのですが、そのときに、西洋の教会の多くの人は神が全能の方であることを信じていることをも私に理解させてくださいました。過去において死人をよみがえらせた神ならば、又いつでも神は死人をよみがえらせるであろう、と私たちは信じているのです。


神は奇跡の神であり、何回でもしてくださる神であることを私たちは信じています。しかしながら、神が奇跡をなさる方であることは信じていても、神が実際に私たちを通して奇跡をなさるかどうかを私たちは疑っているのです。

神が誰か偉大な癒し手や伝道者を通して癒しや解放をされるのは信じるのですが、自分、即ち「私のような小さな者」を通して神が奇跡を起こされることには疑いを持ってしまうのです。多くの西洋のクリスチャンは、神は今も偉大な業をされることを信じています。しかし、神が彼らを個人的に用いられて偉大な業をされることはどうしても疑ってしまうのです。ですから、神の超自然的な大きな業の中に私たちが参与させていただけることを私たちが悟るには、神からの啓示によって知らされることがどうしても必要なのです。


どうして西洋では奇跡がおこらないか?


発展途上国で奇跡が起こるのを多く体験してきたミニストリーに携わる人たちにインタビューをした結果、とても興味深いことが分かりました。そのような国々の人々には疑いというものが全くないと彼らは言うのです。イエス・キリストが生ける神の子であると一度確信するや、彼らはすぐに奇跡を経験し始めるのです。なぜならば、彼らは我々西洋人のような疑う心を持っていないからなのです。


彼らは霊的に物事を見ることができる人たちです。それは確かに今までは偶像という間違った対象のために使われていましたが、一たび彼らの信仰が主イエスに正しく向けられたときには、奇跡がどんどんと起こり始めるのです。彼らは主を信じると、神は宣教師たちが言っていたことを必ず彼らのためにしてくださると、一つも疑わないで心から信じるのです。


エレミヤは次のように言っています。

エレミヤ32:17「『ああ主なる神よ、あなたは大いなる力と、伸べた腕をもって天と地をお造りになったのです。あなたのできないことは、ひとつもありません。』

私たちも今こそ、神が私たち一人ひとりに対して個人的に偉大な業をしたいと願っておられることを疑わず、このすばらしい現実に自分の信仰を目覚めさせようではありませんか。

ヤコブは次のように言っています。

ヤコブ1:5-6「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。 ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。」(終わり)
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