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Walk With God Ministries

07 12月

柚実子のハワイ便り  12月7日


マーケットプレイス・ミニストリー

今回も、ラウリマ・ミニストリーのディーンさんから聞いたお話です。
ホノルルの市役所にクリスチャンが集まって、週一度の祈り会を始めたそうです。最初はかなり集まったのですが、次第に人数が減ってきてしまいました。そこで、ディーンさんが、祈り会の代わりにヒーリング・サービス(癒しの集会)をしたらどうかと提案し、その案が受け入れられました。つまり、すでに市役所で働いている人たちがランチをしている所に行って、「癒しの必要な人はおりませんか? もし、いらしたらお祈りさせていただきます。」というのです。

 第一回目は3週間前だったのですが、二人の方が「祈ってください」と言われ、二人とも癒されました。そして、2週間後に行ったとき、別の方が来て、「2週間前に、私は祈ってもらいませんでしたが、あなたが他の人のために祈っておられたとき、神様の臨在を濃く感じて、私の神経痛が治ってしまいました。この2週間の間も、ずっと痛みは戻ってきていません。」と伝えてくださったそうです。神様の臨在はなんとすばらしいことでしょう。

この日は、新しく、車いすに乗った中年の婦人が、祈ってください、と来られたそうです。ディーンさんが祈ると、神様が7歳の少女が白いドレスを着て、くるくると回りながら、楽しそうに踊っているヴィジョンを見せてくださいました。それは、彼女が障害を持つ前の姿でした。彼女はディーンさんといろいろと話すうちに、神様がどれほど彼女をずっと見守り、慈しんでおられたかを感じ、心が喜びで満たされました。神様は「あなたは、身体が不自由だけれど、それだけに他の人が感じない霊的なことをもっと知ることが出来ているのです。あなたの心は自由なのです。」と彼女に言いました。彼女はこの日は車いすからは解放されませんでしたが、心はまったく変えられ、喜んで帰っていったのです。

この秋の日本旅行でも、悩みのある方がグルーバー師に祈って頂き、暗い顔つきだったのが、祈られたあとは表情が明るくなり、微笑みをうかべ、全く別人のように変わるのを何度も目撃してきました。「主にある喜び」を霊のうちに体験されたのですね。

ハワイでは今、多くのクリスチャンがハワイのトランスフォーメーションのために各所で祈り会を持っています。その中で、始まっているのが、マーケットプレイス・ミニストリーです。教会の中に人々を連れて来なければならない、というメンタリティーから開放されて、この世に出て行って、自分たちや人々が働いている場所でもクリスチャンとして証のある生活をしていこう、というムーブメントです。 レストランで食事をするときは、いつもの食事の前の感謝の祈りの中に、そのレストランとそこで働く人々を感謝し、神が祝福してくださるようにという祈りを入れます。職場でも、クリスチャンたちが集まって、祈りをし始めています。また、一軒ずつ家を訪ねて、「何かお祈りできることはありますか?」と聞いて祈りのリクエストがあればすぐ祈ってあげるという働きもあるそうです。クリスチャンがどこでも自分の行くところに「神様の臨在」を持ち運んでいくときに、神様がすばらしいことをしてくださるのですね。(終わり)


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07 12月

主と個人的に深い交わりを持つ理由  12月6日


なぜ主の御声を聞く必要があるのか(1)
            
              坂  達 也



 パウロはアテネの町が偶像で一杯なのを見て心に憤りを感じたと、使徒行伝17:16に書いてありますが、日本も当時のギリシャに劣らず、至る所偶像だらけではないでしょうか。
 聖書では神様が偶像を極端に嫌われることが書かれています。その理由は、私たちが信じる真の生きている神様は、ものを言われる神様であるからであると思います。その事実を人間に知ってもらいたくないサタンは、人間にものを言わない偶像を作らせ、それを有難がって礼拝させようとして来ました。つまり偶像とは、私たちが真の神様と親しく語り合うことをさせないようにするためのサタンの策略である訳です。
 そのサタンの策略にまんまと引っかかったのは未信者だけではありません。多くのクリスチャンですら普通、神様が親しく個人的に「語られる神」だとは思わないようにさせてしまったのです。
 私はクリスチャンが偶像を見る度に、サタンの計画を逆手に取って、「私たちの神様は生きていて、ものを言う神様である」と偶像に向かって宣言すればよいと思います。そしてそのことを心から神様に感謝すべきであると思います。

 聖書を見ますと、私たちの信じる神様とは、初めから終わりまで徹頭徹尾、「語られる神」であることが明らかです。第一、神様の創造は、神様が言葉に出して命令されることによってなされましたから、神様の話す言葉にはものすごい力があることが分かります。サタンはそのことをよく知っています。ですから私たちが神様の御声を聞いてそれに従うことを、何よりもサタンは恐れるのです。
神様はアダムに地球上のすべてを支配する権威と責任を与えました。そしてアダムに親しく語られ、指示をしながら導いたことでしょう。神様の言われる通りに行う時、アダムは超自然的知恵と力が備えられることを知っていたはずです。
 同じように、神様は荒野で40年間毎日モーセに語り続けました。私は、神様の御声を聞いてそれに忠実に従う時に、物事がその通りになることをモーセほど経験した人はいないと思います。
 神様の御声を聞く時には、それを実行に移す信仰の力が与えられると私は信じます。それに反して、人間が自分の頭で考えて行動する時には、そのような神様の知恵と力が普通は得られないと思います。

 私たちの日常の生活において「信仰がなくては、神によろこばれることはできない。」(ヘブル11:6)とありますから、私たちが常に神様に喜ばれる信仰で生きるためには、神様の御心をいつも知り、それに忠実に従って生きる必要があります。
 それではどうしたら神様の御心を知ることが出来るのでしょうか。その答えは「神に近づき」「神を求める」ことであると書かれております。つまり分からない時は何事でも神様に聞くことです。そうすれば神様は忠実な方ですから、それに必ず「報いてくださる方」、答えて下さる方であると、同じヘブル11:6に書いてあります。
そこで、その神様が「報いてくださる」方法ですが、多くの場合、神様が聞いた人に答えを「語ってくださる」のです。これが「主の御声を聞く」ことです。

 御心を知るための最も重要な方法は聖書を読むことであることは、クリスチャンなら誰でも知っていることです。少なくとも、神様がどう言う方で私たちに何を望んでおられるかという基本的な知識を得ることが出来ます。しかし、聖書をいくら読んでも、それが頭だけで読むなら単なる頭の知識に過ぎず、しっかりと心の中(霊的)にとどまりません。
 ところが聖書を読んで、主にその意味するところを個人的に聞いて「祈りながら待つ」時に、主が語って下さいます。あるいはその御言葉の「はっきりとした理解」が自分の心に飛び込んで来ると言う表現も出来ます。それが聖書を通して主の御声を聞くと言うことです。ですから聖書を毎日読むことが大切なのです。
 しかし、主の御声を聞くのは聖書を読む時だけとは限りません。私たちに内在される聖霊様は、いつも私たちの霊に語っていて下さいますから、いつも霊の聞き耳を立てていれば主の御声が聞こえてくるはずです。
 主の御心を知ることは非常に大切ですが、それ以上に大切なことは、主の御心を知ってその御心を実行するだけの信仰を持つことであると思います。実はこの信仰を得るのも主からです。そのためには、主からの「御声を聞く」ことによってその信仰が得られると、私は信じております。

 さて、神様が「語られる神」であることが一番普遍的に知られているのは、神様が預言者を立てて、その預言者を通じて語られることです。預言者、あるいは預言的な賜物を持っている人は今の時代にも大勢おります。ですから、クリスチャンであるあなたが、自分の将来について神様がどのようなご計画を持っておられるかを知りたいと思う時に、そのような預言の賜物を持つ人を通して、主へ「おうかがい」を立ててもらうことが出来ます。そのこと事態は決して悪いことではありません。
 しかし大切なことは、そのいただいた「預言」をよく吟味することです。自分の牧師とか霊的に信頼の置ける友人にその預言の内容を吟味してもらうのがよい、と一般的に言われておりますが、それ以上に重要なことは、本人自身が主の前に出て、その預言が本当に主からのものであるかどうかを、直接主に確かめることであると思います。
 なぜかと言えば、主から直接いただく答えとしての「御声を聞くこと」によって初めて、私たちはその御言葉(預言)を本当に「信仰で受け取る」確信が得られるからです。その確信とそれだけの信仰が得られれば、それが実現・成就するまでに少々時間がかかっても(時には何十年も掛かる場合もあります。)その確かな信仰によってそれを祈り続け、そのための準備(の行動)をし続けることが可能になると思います。もしこの預言の吟味と確認を直接主にしないとすれば、それは未信者がよく求める、単なる「八卦見」で終わってしまうことになりかねません。

 又、本人が預言的な賜物を持つ人であっても(私たちは皆、預言的であるべきですが)、その人が重要なこと、あるいは自分の特に関心のあることだけは主におうかがいを立ててその答えを得るにしても、後のことは主に聞かないで自分の判断で勝手に行動をしながら生きているとすれば、これは真の信仰で生き、常に主に喜んでいただけるクリスチャンとは言えません。そう言う人のことを聖書は「 二心の人たち」(ヤコブ4:8)と言っていると思うのです。これは逆に、霊的に成熟しつつあるクリスチャンにとって大変危険な落とし穴であると言う気がします。
ヤコブ4:8には「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」と書かれています。真の霊的なクリスチャンとは、必ずしも霊の賜物を多く持つことではありません。なぜなら賜物は肉で生きているクリスチャンでも用いることが出来るからです。霊的なクリスチャンとは、常に神に近づいた状態で生きる主と個人的に親しい人です。

 私たちクリスチャンとは、すべてを主に委ね、自分の十字架を負って(と言う意味は自分で生きることをやめることですが)イエス様のあとについて行く者なのですから、常に主を見上げ、主の御声に聞き耳を立てて、主に近く(とどまって)生きると言う霊的なライフスタイルを身に着けねばなりません。それが出来るようになるにつれて、私たちは段々と主の思いが自分の思いとなり、自然に主の御心の中で平安を得て、御心を生きられるようになると思います。それと同時に、人間的なもの、あるいは悪魔の策略をより敏感に察知し、忍び寄る敵の誘いの手を決然と退けることが出来るようになります。それが「主と共に歩く」ことではないでしょうか。
 そのために最も重要なことは、毎日主と個人的な深い交わりを持ち、主とは切っても切れない親密な関係になることです。そうすれば私たちは、単に聖書を読んで知る以上に、主の御心と思いが分かるようになると思います。(終わり)



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03 12月

聖霊は今御国の精鋭を用意しておられる  12月3日



   卵をひなに孵すめんどりのように
            今私たちを覆って下さっている主のご臨在
                                           ウエード・テーラー


  「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人々を石で打ち殺す者よ。ちょうどめんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。」(ルカ13:34)
 めんどりは、次の世代を生み出すために、本能的に卵の上に坐って卵を温めます。それと同じように、主が私たちをより高い霊的領域と使命へと生み出したいと思われる時には、聖霊がその人を卵を抱くように静かに覆われるのです。特に今の時代にそれが起こっています。

 「 勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。それは、わたし自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。」(ヨハネの黙示録2:26,27)
 世の中は一段と混乱とフラストレーションの様相を呈しています。しかし、その間にも主は、主のご計画の時が満ちた時に、政府の高官となって「鉄の杖」で世を治める者たちを今静かに準備されています。
 卵の殻の内側で命が形作られていくのと同じように、今、聖霊によって命を与えられて胎動を始めた私たち一人一人の内に、新しい時代への生きた希望が形作られています。
 たとえ、私たちが自分に一体何が起こっているのか、又何のために自分が整えられているのかが分からなくても、聖霊の取り扱いを内に感じそれに呼応していく時に、聖霊は私たちを覆うことによって、私たちが主に取り扱われる過程を完成させて下さっているのですから、その聖霊の働きを妨げないで、積極的に協力していくことが大切です。その過程を経て初めて、私たちは終末の時に主の協力者として活動する者となる用意が出来上がるのです。

 「万軍の主は言われる、見よ、炉のように燃える日が来る。その時すべて高ぶる者と、悪を行う者とは、わらのようになる。その来る日は、彼らを焼き尽して、根も枝も残さない。しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。また、あなたがたは悪人を踏みつけ、わたしが事を行う日に、彼らはあなたがたの足の裏の下にあって、灰のようになると、万軍の主は言われる。」(マラキ書4:1-3)
 この聖霊の内面的な深い取り扱いは、私たちの存在の中核に作用し、私たちを変え、それによって主のより高い使命(目的)にかなって用いられる者としてくれます。そうなってはじめて、主がこれからの時代に与えようとされている力を私たちが正しく使えると言う信頼を主から受けることが出来るのです。
 
 すべての被造物が終末の贖いの顕れを待ち望んでうめき始めています。イエス様は私たちに命を得させ、もっと豊かに得させようとこの世に来てくださいましたが、この世はまだイエス様のもとに来ようとはせず、むなしく探し続けています。それゆえに聖霊は、ご自分のしもべたちの上を静かに覆って、主が力をもって来られる時に効果的に働くことができるようにと今、備えをしておられるのです。
 主は今、ご自分が懐に抱いて暖め育てている人々にこう言われます。-「私をいまだに拒絶しているすべての者たちを、私は愛し、慈しんでいる。彼らが感じているフラストレーションを私も共に感じているのだ。」と。
 それ故に、主は今、聖霊によるひなに孵す覆いの臨在に喜んで応える者たちの内側を整える準備の作業を急ピッチでしておられます。これらの人々は、主がなさろうとしている準備の作業に、自分の存在、身体、魂、霊のすべてを無条件で差し出すことが要求されています。この主の働きに反するすべてのものを、私たちのうちから取り除かれようとする主の作業に私たちは一切を委ねなければなりません。

 「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」  (ロマ書12:1)
 主はご自分のしもべたちを今召しておられます。それは召された者が今の時に主への忠実な信仰で立つだけではなく、その生き方によってこの世の中で真の命を表現し、実演・実証してゆく者となるように召しておられるのです。この真の命こそ、主が、傷つき迷っている世の人々に与えたいと心から願っておられるものです。
 
 私たちが生み出され、より高い霊的領域で機能し始めるためには、「天が開く」ことを堅く信じ、又、それを勝ち取っていかねばなりません。私たちはその「開かれた天」の下で主を待ち望み、すべてをなさしめ、そのための力を与える主の恵みを受け取るのです。
 この終末のミニストリーを生み出すために、主が私たちの上を今はぐくみ覆っていて下さるのですから、私たちは主に対する愛と、又、聖霊が私たちの内に働いて私たちを変えようとしておられることを心から受け入れると共に、それへの感謝の念を常に言い表さねばなりません。それは、終末に主が解き放そうとしておられる王国の権威を私たちが正しく扱えるようにと今聖霊が私たちを整えていて下さるからです。
 聖霊様の覆いが続けられ、私たちがその聖霊の働きを受け入れて従う時に、主が私たちを整える準備の作業を必ず完成させて下さると言う望みを抱いて、私たちは安息に入ることが出来るのです。(終わり)



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27 11月

アメリカからのメッセージ 11月26日


キリストの内にある宝を受ける時
                ポール・キース&ワンダ・デイビス

                 (WhiteDove Ministries)

2003年の終わり頃は、私にとって、今までで一番すばらしい啓示を与えられた幸いな時となりました。私は天の宝の部屋へ行くという驚くべき旅をしたのです。この経験を私は“Books of Destiny”という本に著しました。

使徒パウロはコロサイ人への手紙2:2-3で、我々がキリストにあって受けることができる豊かな遺産に関しての、励ましの言葉を書いております。

「それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって、結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」

私たちが得るのは、この世の富ではなく、キリストのうちに隠されている知恵と知識という極めて貴重な宝です。啓示の御霊の助けによって、私たちがキリストの心の深みを探り求め、この膨大な富の価値を知ることができるのは、クリスチャンの特権であり、恵みです。

私たちが生かされている今という時代には、イエス・キリストのうちに隠されている神の奥義と秘密を知る機会が、以前よりずっと多く与えられています。預言者ダニエルはこのことを予知していました。ダニエル書12:3-4には次のように書かれています。

「賢い者は、大空の輝きのように輝き、また多くの人を義に導く者は、星のようになって、永遠にいたるでしょう。ダニエルよ、あなたは終わりの時まで、この言葉を秘し、この書を封じておきなさい。多くの者は、あちこちと探り調べ、そして知識が増すでしょう。」(口語訳)

神の国とその偉大な真理が、キリストのからだなる教会に回復されることが、終末の時代の特徴でしょう。それは啓示の時代であり、真理が回復する時であり、またそれと共に、闇の力の策略があらわにされる時ともなるでしょう。

神の真理がどのように私たちに知らされるか

真理は神の御言葉を通して啓発され、様々な手段で伝達されるでしょう。天からの啓示を受けた神の息子や娘たちによる美術や文学がおこってくるでしょう。創造者なる神の御心を知る、油注がれた芸術家たちによって、絵画や詩はもっと崇高なものへと引き上げられるでしょう。 天から新しい技術を授けられるクリスチャン建築家によって画期的な青写真が引かれることでしょう。

科学はものすごい進歩を遂げるでしょう。 細胞や分子の構造が、以前よりもっと明らかに解明されるでしょう。

真の教師イエスに出会って、彼から直接教えを受けた教師たちが、教会に真理をもたらし、その真理によって教会は、エゼキエル書44章にあるように「聖なるものと俗なるものとの違い、汚れたものときよいものとの区別」ができるようになります。偉大な奥義は神の御心の中に蓄えられていますが、それが終末の教会によって、探し求められ、発見されるでしょう。

教会の歴史の中で、非常に重要な節目に置かれている現在のクリスチャンが受ける分とは、このようなものなのです。この世代は、神のスケジュールのなかの「時が満ちた」という部分に突入し、扉を大きく開いたのです。 今はまさにカイロス、神が定められた特別の時であるのです。

もっとも重要な事は、神の力と栄光が、具体的な形で地上に現されるという点です。私たちの中におられるキリストが、栄光の望みです。神にすべてを委ねた人生の価値や、キリストの性質を持つことによって与えられる霊的な富のすばらしさは、到底量ることができないほど偉大なのです。

一つの実証

私はアイダホー州のカンファレンスで、コロサイ2章の宝の部屋について語ったのですが、そのあとでエリヤ・ハウス・ミニストリーの理事であられるジーン・ニーデルクラインさんから、私の話を実証するすばらしい証を聞くことができました。彼は私の話を聞いて、私に手紙と新聞の切り抜きを送ってくださいました。その記事には、このような子供は世界で一人しかいないと専門家たちが口を揃えて言っている、詩と絵画の天賦の才を備え持った10歳の女の子のことが書かれていました。

その子の名前はアキアンといい、彼女は4歳の時、超自然的に天国に行き、主にお会いして、主から芸術の賜物をいただいたというのです。彼女は「私は神様に会って天国に連れて行ってもらったの。」と言ったと、記事には書かれていました。

その体験をしてから、彼女はすぐに肖像画やスケッチを描き始めたのですが、それは明らかに4歳の子供の域を超えたものでした。彼女は詳細ネ天使の絵を描いたり、驚くべき霊的真理を表す詩を書いたりしたのです。彼女の家庭は無神論で、神に関しての知識はなにも教えられていなかったのですから、まったくそれは驚くべきことだったのです。

これから来るべきものの前兆

アキアンは、まさに、これから天の宝庫に招かれて、キリストのうちにかくされた知恵と知識の富を受け取ることが許される人々の、最初のしるしなのです。彼女は「神様が私にビジョンを与えてくださるので、私はただそれを描くだけなの。夢のようなかたちで私はそれを受け取るのよ。」と言っています。

彼女は毎日祈りの時を持つのですが、多くの場合、その祈りの時に神からのインスピレーションを受け取るようです。彼女の絵の多くは、今の時代の霊的状況を反映する深い意味を伝える寓意に満ちています。

彼女は神様から、すべての人類の顔を描きなさい、と言われたということです。その結果、彼女の作品の中で一番印象的なものは、一人のアジア人の女の子のものと、アフリカ人の兄と妹を描いたものです。 彼女の体験や作品は驚くべきものなので、彼女はオプラ・ウィンフリーの番組やCNNにも出演しました。彼女のゴールは「自分の絵を通して人々を神様に近づけ、自分の詩を通して人々の心を神に引き止めておくこと」だと言っています。

CNNのルー・ドブスは感歎して、彼女について次のように語りました。「彼女の絵が他の天才少女、少年のものを引き離しているのは、彼女のものは本当にリアルで、感情にあふれていることだ。普通、天才と言われる子供たちの絵は、抽象画が多い。子供でありながら、このような高度のリアリティを持つ絵を描くことができるのは、まったく驚くほど珍しい。彼女の細密な描写やセンスのよさはまったく信じられないほどだ。これは天賦の才だ。驚くべき才能だ。なんと
26 11月

パラ・チャーチ 11月25日


ホノルルのパラ・チャーチ
11月半ばに日本からハワイにもどりました。ハワイはすっかり「冬」になっていて、朝夕は涼しく、雨も多くなっています。帰国後、最初の我が家の食事は、畑から大根と人参を抜いてきて、冷凍庫の中にあった豚肉と煮てたべました。主人は日本各地でいただいた豪華なお食事が懐かしそうでしたが、それでも「おいしい。」といって食べてくれました。

さて、今回の日本旅行も、神様の恵みのうちに無事終えることができました。もう10年近く親しくさせていただいている方々との懐かしい再会や、また主のご計画で今回初めて訪ねさせていただいた教会の方々との出会いの数々は、私の心に大きな喜びを与えてくれました。主にある交わりはなんと幸いなことでしょうか。

今日は、ハワイで今週、私が参加したある集会のことをご報告いたします。
ラウリマ・ミニストリーズというパラ・チャーチ(地方教会を側面から助けるミニストリー団体)の働きで、「癒しのミニストリー」ということでした。
最初に責任者のディーンさんが、こんなお話をされました。
「個人にミニストリー(一人のひとに対して祈ったりすること)をする場合、自分の霊が力んで、『主よ、この人を祝福してください。今、どうか祝福してください。』と主に求めるときに、それはかえってサタンに働く機会を与えることになる。 自分の霊が休みに入る(安息する)ときに、主の力が働かれる。主と自分との関係、リレーションシップ、がまず確立されるときに、その結果として相手へのミニストリーが起こる。」

以前、ある伝道者からミニストリーを受けたとき、ぐいぐいおでこを押されて、内心「倒れてなるものか!」と決意したことのある私は、思わず笑ってしまいました。その時はその伝道者が人間的な肉の力でやっていると思いましたが、サタンの入りこむ余地さえも与えていたのだと知り、恐ろしいことだと思いました。考えてみると、これは個人ミニストリーの場合に限らず、すべての働きに通じる真理なのだと思わされました。だいぶ以前に聞いた「神様はご自分の邪魔をしない働き手を捜しておられる」という言葉を思い出しました。

さて、この集会での実際のミニストリーは、個人のニードに合わせて、さまざまな形で行われているようですが、普通、一人に対して二人一組のミニストリー・チームが椅子に座ってじっくりと時間をかけて対応していきます。そして、霊・魂・身体の癒しのために、カウンセリング、断ち切り、宣言、明け渡し、癒しの祈り等々、決して急がないで1時間でも、2時間でも対応するのです。このようなミニストリーの働きに熟達するには、かなりの霊的成長と訓練が必要なのがよくわかりました。
癒し、開放のミニストリーがホノルルではラウリマ・ミニストリーズ(沢山の手をつないで、という意味だそうです)として、いろいろな教会の協力のもとに行われて、多くの教会の牧師が自分の教会の中でニードのある人々をここに送り込んでいるのを知って、主を崇めました。フィジーの教会が一致し、トランスフォーメーションが起こり、多くのパラ・チャーチの働きが生まれたことを知りました。これこそ、ひとつのキリストの身体のあるべき姿なのかもしれません。
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