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Walk With God Ministries


27 06月

霊的成長 ウエイド・テイラー 2011年6月28日


霊的成長

ウエイド・テイラー 

 「ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。』すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。」マルコ1:16-18

シモンとアンデレに対しイエスは、彼らが容易に理解できる言葉で話されました。イエスは「あなたがたはこれからも漁をします。でもそれは今までより重要な仕事であり、そのためにわたしはあなたがたを召しました。これからは、魚ではなく人間をとる漁師になるのです。」と言われたのです。シモンとアンデレは人生の一つの場所からより高い地点(
イエスに呼ばれて人生の新しい目的を与えられる)へとあげられようとしていたのです。

主は私たちにも 古い欽定訳聖書の言葉ではなく、私たちが日常使っている平易な言葉で 話しかけられるかもしれません。

何年も前のことですが、ある農夫が畑で働いていると大雨が降ってきました。そこで彼は小屋に入って嵐が過ぎるのを待つ事にしました。彼がとうもろこし畑をながめていると、とうもろこしの持つ特徴について考察するようにと主に促され、とうもろこしによって表される霊的メッセージと悟りを与えられました。次に主は
「農場から出て行って、とうもろこしに関して与えられたすべての悟りを人々に教えるように」と彼に告げられたのでした。

とうもろこしは黄金色をしています。黄金は土の器である私たちの中に形造られる「神のご性質」を表しています。


「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」第二コリント5:17

 私たちが罪を告白し、悔い改め、罪を清めるイエスの血潮の力を信じた時に、私たちは義とされます。私たちの救いの非常に重要な部分として「聖霊による新生」があり、それによって私たちは新しい性質を受け取ります。新しい創造となった私たちは、主の聖なるご性質(黄金)にあずかる者とされます。

「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」第二ペテロ1:4

私たちは 霊的乳飲み子、ベ―ビー、として救いの体験を始めます。そして霊的大人へと成長していくのです。

「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」第一ペテロ2:2

救いは無償の贈り物ですが、霊的成長はみずから勝ち取っていかねばなりません。私たちが受ける「神のご性質」を、肥沃な地に蒔かれた種にイエスは喩えられました。

「ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」マタイ13:23

土の器である私たちの中に「神のご性質」という宝が隠されているように、黄金色のとうもろこしの実は殻の中に隠されています。私たちと同じように、とうもろこしも頭に毛があります。とうもろこしにははっきりと等級があります。すべてのとうもろこし(私たち)が同じレベルに成長し成熟するわけではありません。

農夫は 広いとうもろこし畑の片隅の小屋で雨の止むのを待っていましたが、その時に、「クリスチャンの霊的成長はとうもろこしが育つのと同じプロセスを経て、同じような結果を迎える」という真理を主が教えてくださいました。

「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。」マタイ13:3

種を蒔く人は、 蒔いた種が十分に成熟して豊かな実りが得られることを当然期待しています。 土地の状態(私たちの状態)は収穫量と深く関係しています。

ある種は道に落ちて鳥に食べられました。石地に落ちたものは根をはることができませんでした。いばらの中に落ちたものは塞がれてしまいました。しかし良い地に落ちた種は三十倍、六十倍、百倍の実を結んだのです。

これと同じように霊的ベイビーの私たちの中に、主は主のご性質を蒔いてくださり、それが完全に成熟するようにと期待されているのです。主はこの喩え話を用いて、私たちの内なる態度と願い(良い地)や、
人生の中に入り込むのを私たちが許してしまう事柄(道ばた、石地、いばら)が霊的成長の度合いに大いに影響を与えることを教えておられます。

もし庭のトマトが初霜の下りる時になってもまだ青かったら、摘んで日の当たる窓際に置けばいいのです。だんだん熟して真っ赤になります。しかし、実が三十倍ついているけれどもまだ熟していないとうもろこしを窓際に置いたとしたら、それはそのまましなびて堅くなってしまいます。それは六十倍や百倍のとうもろこしにはなりません。クリスチャンの人生もそれと同じなのです。

霊的に言えば、私たちはトマトではありません。むしろ、とうもろこしなのです。私たちの霊的成長は、私たちの「根」がまだ今の環境という土の中にある間になされねばなりません。

多くの人が、「私たちは携え挙げられるときに変えられるのだ」という間違った考えを持っています。「キリストにある乳飲み子として地上を離れて行き、成熟した聖人として天国に到着する」というように想像しているのです。しかし、主の取り扱いをうける土壌から私たちの人生が引き抜かれると、それからの成熟は不可能であり、遅すぎるのです。摘まれたとうもろこしのように、それ以上の成長、成熟はおこりません。

私たちが完全に霊的成熟を遂げるための時間は限られているのです。とうもろこしが、その根がまだ土の中にある時にその実を成熟させねばならないように、私たちも地上にいる間に、私たちの内に主が働き、取り扱ってくださるときに私たちが正しく適切に応答することが必要です。

イエスはご自分の道におかれた妨害に打ち勝つことにより、御父と共に御座に着く資格を受けられました。

「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与えるものとなり」ヘブル5:8-9

それによって、主は私たちに「わたしが苦しみに打ち勝ったと同じように、あなたがたも打ち勝ちなさい。」と言うことがおできになるのです。

イエスがシモンとアンデレに話されたとき、彼らの仕事上の言葉を用いることは、彼らがイエスの言葉を間違って理解してしまう危険性がありました。主は彼らに「人間をとる方法(how
to )を習うために私に従いなさい。」とは言われませんでした。そうではなく、彼らが今より大切な仕事をする資格を得るための教育、訓練というプロセスを受けるように「わたしについて来なさい。Come,
follow me.人間をとる(立派に成熟した)漁師になるようにしてあげよう。I will make you to become
fishers of men(マルコ1:17)」と言われたのです。

イエスは「行きなさい Go」と言われたのでないことに注意してください。そうではなく、主は「来なさい Come」と言われたのです。
「召し」とはまず主のもとに来ることです。
私たちは「その場所(良い土地)」へ「来る(願いと姿勢)」ことが必要であり、そこで、主は私たちの内に変化を起こしてくださり、魚ではなく人間をとるにふさわしい成熟した漁師にしてくださるのです。

道に落ちた種は、主が耕される畝から離れたところに落ちてしまったのです。「良い地」とは神の鋤が土を耕すところです。この鋤は私たちのやり方をひっくり返し、私たちの霊的成長を阻むすべてのものを明るみに出すのです。気をつけていないと、神の鋤が自分の方にやってくるのを見て、私たちはそれを避けて横に逃げてしまいます。

私たちの人生 の畝を「神の鋤」が耕されるときに起こる問題は、それがすべてのことをひっくり返してしまうことです。こうすることによって神は
私たちの奥深いところに潜んでいる内なる問題に触れることできます。そして
私たちの存在そのものの根本から私たちを変えてくださるのです。もし私たちがそれに正しく応えて委ねるならば、
完全に成熟し、三十倍、六十倍、百倍もの豊かな実をもたらすことになるのです。

エペソ2:10に「私たちは神の作品である」と書かれています。私たち自身の
完全に成熟してなった(変えられえた)新たな性質こそ、私たちが蒔かれた良い地から主が収穫したいと願われているものです。

その時人々は私たちの内に 、完全に成熟した主イエス・キリストのご性格と人格の見本(百倍になったとうもろこし)を見るのです。

 八百屋に行ってとうもろこしの殻をはがしてみたときに、まだ熟れていない三十倍の実しかなかったならばがっかりします。私たちは多分、
それをもとに戻して、もっと実が熟したよいものを探すでしょう。

私たちもそれと同じなのです。 私たちが主のより高い目的のために、主と一つとされ、今ある人生の場所から
引き上げられるときには、必ずや主のご性質を百倍表す者となった(主の命が私たちの命に中に、又、私たちの命を通して生きている)と見ていただけるようになろうではありませんか。

その時、私たちは次のステップ(即ち神の千年王国に入り、そこで十分主のために働けるように整えられる)に進む用意ができるのです。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」ガラテヤ2:20

イエスが最初に来られたときに、一つ(ずつ)の身体(個人)を通してされたすべてのことを、
再臨のとき、もう一度「キリストの身体」という人間の集合体を通して主はなさるのです。

この農夫のように、自分の仕事から主によって召し出された私たち一人ひとりが、地上という殻をはなれて、どうかイエスの命を見ることが出来るものとなりますように。(終)

21 06月

日々の恩寵  グラハム・クック  2011年6月22日


日々の恩寵


グラハム・クック

 

新しくされた心とは、一日なりとも神からの恩寵を受けないで過ごすことは考えられないと言う心です。

 

御父が私たちをキリストの内に置いてくださったとき、ご自分が(ご自分の一人子)イエスと持っておられるすばらしい関係と同じものを、私たちとも持つことを心に描いておられました。

私たちはキリストの内にあるのですから、主が今御父から受けておられるすべてのFavor(恩寵、 好意、親切、恩恵 }は、私たちも受けることができるのです。

 

私たちが恩顧を受けるのは、自分がどういう者であるからという理由ではなく、イエスというお方の故に頂くのです。主が受ける恩寵は、即ち私たちのものです 。なぜならば私たちも神の相続人であり、キリストとの共同相続人だからです(ローマ8:17)。

 

信者として私たちがとる行動の故ではなく、キリスト・イエスの内に私たちがある故に、私たちは恩寵を受けるのです。

 

恩寵とは、人がある人に対して特別優先的な好意を持つ(関係にいる)ことです。上の者が下の者に対して与える便宜advantageです。

 

恩寵とは意図的に偏り見ることです。誰かを「一番好きだ」と思うことです。

 

私たちは恩寵によって御父から価値あるものとみなされ、承認され、大いに愛されるのです。

 

御父がイエスに与えられたすべてのものは、自動的に私たちとの関係の中にも与えられます。恩寵とはリレーションシップ、交わり、関係です。

 

それは、神との交わりのために私たちが必要とするすべてのものを購うことができる通貨であり、キリストにあって神と共に歩むライフスタイルです。

 

キリストの弟子である私たちは、 恩寵を受ける(関係にある)ことが、キリストにある者にとっての最高のポジションであることを知っています。

 

恩寵は、神が私たちの必要に必ず答えて下さるといる絶対的確信をもって一歩前に踏み出す力を与えてくれます。

 

恩寵は神の私たちに対するお気持ちheartを保証するものです。恩寵は私たちの交わりの中で最も強固な部分です。

 

また、困難な人生経験や状況に立ち向かうとき、キリストにある私たちがどんなにパワフルであるかということを証明するものです。

 

恩寵は私たちを神に対して生き生きとさせ、信仰を強め活性化してくれます。

恩寵は私たちを大胆不敵にし、敵に屈せず、おかれた状況の中で勝利させます。

 

恩寵は私たちを変化に適応させ、私たちがより高いレベルに進級、増加することを可能にします。

 

恩寵の中で私たちは、自分がキリストにあって何者であるかという自覚を強められ、活力を得ます。

 

恩寵は、私たちが人生の旅路を喜びに満ち、確信と明るい希望をもって歩む力を与えます。

 

私たちの上に恩寵がなくなくことは決してありません。恩寵により私たちは神との親密さを深め、より大胆に祈れるようになります。

 

私たちが過ごす毎日が、新しい新鮮な恩寵を私たちに経験させてくれます。まことのキリストの弟子であれば、必ずそのような恩寵に満ちた新鮮な毎日を迎えるのです。(終わり)


16 06月

ジュディス夫人快方に向かう


ジュディス夫人は危機を脱し快方に向かっています。

皆様のお祈りを心から感謝します。ヘンリー・グルーバー師より「皆様のお祈りが聞かれたと信じます、心より感謝します、くれぐれも宜しくお伝え下さい」とのことでした。しかし、未だ血糖値が500とかで非常に高く、夫人のために続けてお祈りいただけますようお願い致します。取り急ぎご報告まで。坂 達也


13 06月

油注ぎを受けて流し出す  マへシュ&ボニー・チャブダ 2011年6月14日


油注ぎを受けて流し出す

 

マへシュ&ボニー・チャブダ

 

私たちが生かされている今、主は 一世紀以来なかったほどの油注ぎを神の民に与えておられます。主は私たちに油を注いでくださるだけではなく、私たちがその油をどのように管理し他の人に分け与えていけばよいのか、又、自分の人生の中の油注ぎを増し加えるためにはどうすればよいのかという事も教えたいと願っておられます。主は私たちに霊的勝利を与えたいと願っておられるのです。私たちは、神があらかじめ定めておられた特別なシーズンに 入っていくことをはっきりと自覚し、そのための準備をしなければなりません。それは非常に重要です。 教会の歴史の中で最も栄光ある今という時に、私たちが主の油注ぎを心から喜んで受け取り、自分の役目を果たすようにと神は私たちを招いておられるのです。

 

神は私たち自身の癒しや解放のために油注ぎを与えてくださいますが、それだけではありません。 私たちが油注ぎを受けて力を増し加えられ励まされることにより、他の人々のために主が奇跡を起される時に 用いられる器となることを主は望んでおられるのです。油注ぎがくびきを砕くのです。私たちは今、新たな預言的シーズンに入っているのであり、 私たちが神の栄光を持ち運ぶ者となり、束縛、罪、病というくびきを砕いてどこに行っても主の民を解放する者となるようにと、神は私たちを召しておられます。

 

御霊の息吹

 

簡単に言えば、油注ぎとは神の力が私たちのただ中に現れるということです。それは神の聖なる臨在の風であり、聖霊の息吹です。それはキリストの命と光が私たちの中に、そして私たちを通して輝き出ることです。油注ぎとは、神の命の泉からこんこんと湧き溢れるものであり、私たちの心から流れ出る「生ける水の川」です。

 

イエスは常に御霊の油注ぎの中を歩まれていました。主は公のミニストリーを次の宣言をもって始められました。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」(ルカ4:18—19)イエスは偉大なみ業をされるときは常に、油注ぎに全面的に依り頼んでおられたのです。ルカはこのように書いています。「ある日のこと、イエスが教えておられると、、、、、イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられた。」(ルカ5:17) 主の御力とは油注ぎです。もしイエスが油注ぎを必要とされたとしたら、私たちはどれほどそれが必要なことでしょうか!

 

第一のものに焦点を当てる

 

主は私たちを御力で満たしたいと願っておられます。私たちが主の油注ぎの中を歩むことにより、主の愛、主の祝福、主のあわれみ、主の癒しの恵みがこの世界に流れ出ていくことを願っておられるのです。ほとんどのクリスチャンにとっては油注ぎを受けることは簡単です。難しいのはそれを保つことです。悔い改めと信仰をもってイエスのもとに来るとき、私たちは油そそぎを受けます。聖霊が 私たちの心の中に来て永遠に住んでくださいます。主の御声を聞いて従うことを私たちが学ぶとき、そして私たちが御霊に満たされるとき、私たちの人生に油が注がれ、それがどんどんと増し加わっていく顕れを私たちは見るようになります。

 

私たちが油注ぎを保つためには、一番大切な事柄に焦点を当てることを学ばねばなりません。まず第一に、 イエス・キリストに焦点を当てねばなりません。イエスは私たちの救い主であり、主であり、私たちのすべてのすべてだからです。イエスに焦点を当てるとは、主をますますよく知り、主をますます愛するようになることです。

 

二番目に大切なことは、 聖霊との個人的な関係を培うことです。聖霊をよく知り、歓迎し、聖霊の命の水を毎日深く飲むのです。聖霊は一人のお方、パーソンです。神と共に存在し、 神と共に永遠で、神と同等の方です。聖霊は私たちの助け手であり、教師であり、慰め主です。教会に在住される主です。聖霊は私たちに力を与えるために御霊の賜物をくださり、栄光の花婿イエスを映し出す者とするために油を注いでくださいます。 私たちを栄光から栄光へと変えてくださいます。

 

私たちの人生の油注ぎの力を必ずや減少させてしまうことの一つは、聖霊との個人的関係をおろそかにすることです。私たちは、自分のかたくなさ、ゴッシップや他のクリスチャンの陰口を言う事、クリスチャンらしからぬ言葉や行動、思い等によって聖霊を悲しませてしまいます。聖霊と常に一つ思いになるためには、日々の悔い改めが必要です。即ち、 あなたの思いや態度を聖霊の完全な光によって照らし出していただき、聖霊とその恵みによってもっとキリストの似姿へと変えていただくことです。

 

すべては愛による

 

ルカ4章で見たように、聖霊の油注ぎによって、イエスは失われた魂、貧しい者、傷ついた者のところへ導かれました。イエスのミニストリーの原動力は、燃えるようなあわれみの心でした。油注ぎの中を歩み、それを流し出して行くための鍵は、愛なのです。イエスがなされたすべての業はあわれみの心が動機となっていました。「また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」(マタイ9:36)

 

それと同じように、誰でも癒しの油注ぎを持つ人の心は、助けが必要な人へのあわれみで溢れるようでなければなりません。プライドや批判、断罪、偏見、律法主義、人を裁く態度等の霊は、聖霊の油注ぎとは全く相いれないものです。イエスの業をなすためには、私たちもイエスのようでなければなりません。イエスのようになる唯一の方法は、 主によみがえりの命をもって私たちの内で 生きていただくことです。私たちの肉が自己を焼きつくす祭壇で 焼かれる匂いだけが、油注ぎの香りと力を放つことができるのです。油注ぎを自分のためにだけ溜め込むことはできません。油注ぎを保ち続ける唯一の道は、それを流し出し与えることです!

 

私たちが油注ぎの中を歩むとき、 自分中心から離れて外にむかっていきます。自分のための油注ぎではなく、自分を通して他の人々のため、即ち奉仕とミニストリーへのために油注ぎを用いる道を進むようになります。

 

この国や社会、そして地上のあらゆる国は、聖霊の油注ぎに餓え渇いています。ヒューマニズムや知性偏重主義、偽りの宗教など空しいものは、空虚さを埋めることも暗やみが襲ってくるのも押しとどめることができません。世界はイエスとイエスの力を見ることに餓え渇いているのです。私たち主の教会は、キリストの花嫁であり、主の命に満たされ、主の命を与えるために整えられ油注がれた者であり、希望を失い死に瀕している世界への主の光、主の癒しの力そのものなのです。主の御霊が私たちの上に注がれています。私たちが福音を伝え、癒し、捕われ人を解放するために主は私たちに油を注いでくださったのです。

 

Mahesh and Bonnie Chavda
Chavda Ministries International
Email: info@chavdaministries.org

 


12 06月

「時のしるし」―今、主はあなたの心を聖める  坂 達也 2011年6月13日


「時のしるし」―今、主はあなたの心を聖める

 

最近、しばらく振りにモーニングスター(リック/ジョイナー師)の「今週のビデオ」を開いて、最近録画された5分程の短いボブ・ジョーンズ師の話を聞きました。

彼は主からヨハネ9:37−40を見るように示されました。

 

【新共同訳】ヨハネ9:35−40

◆ファリサイ派の人々の罪

9:35 イエスは彼(イエスに癒された、生まれ付き盲目であった男)がファリサイ人たちによって)外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子Son of Godを信じるか」と言われた。

9:36 彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」

9:37 イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」

9:38 彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、

9:39 イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」

9:40 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。

 

主が言われる。今は非常に危険が迫っている時。それは特にアメリカの情勢、ひいては世界情勢において。又、個人的にも霊的、精神的、肉体的に非常に危険な時である。そのような時期にあって、今、主はクリスチャン(選ばれた者)のあなたの内にある「貴いもの」と「そうでない一切の汚いもの」を選り分けて、汚いものを除去する作業が必要であることをジョーンズ師に強調したそうです。つまり、一切の「神からでないもの」を今こそ、あなたの内から排出するようにと言う緊急のメッセージです。

自分は何でも分かって見えていると自負するパリサイ人のようであっては、これからの危険な時期を乗り切ることは出来ない。むしろ、この盲目的にメサイヤを信じる(「ブラインド/フェイス」を持つ)元盲目であった男がイエス・キリストだけを信じ、自分を空っぽにしてイエスだけを頼りにする故に、彼は「眼が見える」ように開かれた。この人のような信仰だけに頼って生きる必要があることを人々に伝えるようにと、ジョーンズ師は命じられたそうです。

 

それで思い起こされるのは、しばらく前5月15日に掲載したフランシス・フランジペン師の「聖い心とオープン・ビジョン」のメッセージです。私はこのフランジペン師の記事は最近では最も重要なメッセージであったと思います。もしよろしければ、ぜひご再読をお勧めします。

そこで本日は、特にその中から下記の部分を引用したといと思います。

 

まことのイスラエル人は霊で見ることができる

 

イエスはナタナエルのことを「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」(ヨハネ1:47)と言われました。イエスがこのように感嘆したこの若い弟子はどのような人物だったのでしょうか。この若者の心の中には狡猾さや偽りがなかったのです。私たちもこのような清さを持ちたいものです。ナタナエルは「内側の目」を持っていました。彼は自己欺瞞に陥らないように自分を護っていました。私たちは内なる真理をしっかり握っていれば、外にある真理を認知することができます。ですから、ナタナエルはイエスを見てこう宣言しました。「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」(49節)

イエスはナタナエルに言いました。「あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。まことにまことにあなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」(50—51節)ナタナエルが清くまっすぐな心を持っていたので、必ずオープン・ヴィジョン(霊の世界を見る目)が 与えられることを主は知っておられたのです。オープン・ヴィジョンは清い心の当然の結果です。罪と戦う人たち、偽りを憎む人たち、聖さの中を歩むことを熱心に追い求める人たち、あなたがたの努力は神を見るための準備です。あなたがたは天が開くのを見るでしょう。(引用終わり)

 

フランジペン師の言わんとするところは、ジョーンズ師のメッセージに共通する、特に今必要なメッセージであると思います。

 

ところで、私はヨハネ9章を開いているうちに、次の10章に眼が移り、9章の終わりの箇所と関連する重要なメッセージがイエスによって語られていることに気付かされましたので、それを引用して終わります。

 

はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。

わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。である。門から入る者が羊飼いである。

門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。

イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。イエスはまた言われた。

はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。』」(ヨハネ10:1−10 新共同訳)

 

私たち羊は、羊飼いの声だけを聞いて、他の声に惑わされないことです。他の声とは盗人、強盗と言う人間の声(それに自分の声も含めて)であり、悪魔のささやきでもあります。眼のよく見えない羊は自分の羊飼いの声だけを頼ります。(終わり)


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