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Walk With God Ministries


29 03月

主により頼む   ベンジャミン・イスラエル・ロビンソン   2015年3月29日  


主により頼む

 

ベンジャミン・イスラエル・ロビンソン

(祈り会でのメッセージ)

 

あなたは神に拠り頼んでいますか? イエスを信頼していますか? 本当にそうですか? ではどうして心配しているのですか?

 

お父さんが運転している

 

家族5人でアイダホー州をドライブした時のことを私は思い出します。私たち兄弟三人がまだ小さかった時でした。雪が積もっていたので車が突然滑り出し、道から逸れそうになりました。車にチェインを装備していなかったからです。

両親はすぐに異言で祈り始めましたが、私たち兄弟はけらけらと笑っていました。私たちにとってそれは愉快なことだったのです。子供の私たちにはその時の私たちが非常に危険な状態にさらされているなどとは思いもよりませんでした。「お父さんが運転しているんだから、危険なことなどないに決まっている。」と信じきっていました。子供にとって父は、常にすべてをコントロール出来る人であったのです。「車がつるつる滑って回っても、それはお父さんが何かの理由でわざとそうしたに違いない。危険など一つもない、お父さんが運転しているのだから。」と私たちは信じていたのです。

皆さんは、「それは本当に大変なことが起っていたんだよ。」と言われるかもしれません。しかし、当時の私たちにはそれは面白いことであったのです。

 

あるいは「あなたは私が抱えている問題の大きさを知らないからそう言えるんですよ。」とあなたは言うでしょう。

ではお聞きします。「天のお父さまが運転しているのではないのですか? あなたは神を信頼していますか? 本当にイエスを信頼していますか?」

 

主イエスが十字架につく前、弟子たちに何と言われたか知っていますね。もし私だったら こう言っていたでしょう。

「よく聞くんだよ。とても大変なことがもうじき起ころうとしている。みんなとても悲しむだろうし、それは無理もないことだ。すごく困難な状況になるから互いに励まし慰め合うようにしなさい。」

でも、イエスはこう言われたのです。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」

あなたが心を決して騒がせないためには、イエスのこのことばに従わねばなりません。

 

主に拠り頼む

 

皆さん、私は今ほとんど不可能に近い3つの厳しい状況に直面しています。同時に3つです。毎朝起きるとそれは私の面前にあります。一日中それは私を苦しめます。寝るときもまた、それはまだ面前にあります。私はこの問題とともに24/7、365日、生きているのです。私は自分の祭壇の前で先週私が語った説教に従うようにと自分に幾度も語りかけています。

この祈り会に来る直前にも、私は一つの状況に関する否定的なメールを受け取りました。私は「ああ、どうしよう。神よ、どうしたらいいか教えてください。」と、とっさに思いました。でもすぐに「待てよ、確か日曜日にそのような祈りは避けるべきであるという説教を自分でしたのではなかったのか...」と思いました。そして「神よ、私はあなたに信頼します。心から信頼します。」という祈りに変えました。

心配する心から発せられる祈りは意味がありません。私は「主よ、どうしたらいいのか教えてください。」と祈るのを止めて、「主よ、あなたに信頼します。どうしてこうなっているのかは理解できませんが、わからなくてもいいのです。理解することが大切なのではありません。あなたを認め、信じ、喜び、感謝します。あなたを信頼します。自分の理解に頼りません。」と祈り始めました。

 

パウロは第一テサロ二ケ5:17で、「絶えず 祈りなさい。Pray without

ceasing.」と言っています。それは神が答えを示してくださるまで祈り続けることを意味しています。答えは来ます。皆さんに保証しますが、神は、私が置かれている3つの状況に対する答えを必ずくださいます。しかしその答えは、私が「神よ、私はどうすればよいのか教えてください!」と叫んだから来るのではなく、むしろ、「神よ、私はあなたを信頼します。」と言い続ける、私の神に対する心からの信頼に対して神が答えてくださるからです。

 

信頼するのは忘れることではない

 

「神を信頼する」ことに関して次のことを知らねばなりません。信頼は恐れないことではありますが、忘れることではありません。多くの人は、神に信頼していると言って頭から心配事を追いやって、もう考えないようにします。もう考えない、という事は、あなたが神に信頼しているということではありません。それは時として「怠惰」であり、時として「無責任」ということです。

信頼とは、しっかり心に留めていて、それと同時に恐れてもいないということです。主の御前で恐れずに考えることです。ことばを代えれば、恐れの心からではなく信頼の心から主に祈ることです。

 

つまり次のように祈るのです。「主よ、私はこの問題をあなたに差し出します。私はあなたに感謝し、この件についてあなたを信頼いたします。それはあなたの御手に中にあります。あなたが私のために答えを持っておられることを感謝します。そしてあなたにとってそれは難しいことではありません。私が不信仰に陥ったときは、それはとても難しいことに思えました。でも信仰の中にいるとき、『私の天のお父さんが運転しているのだから、この車は絶対に道を逸れない』とわかります。私は心からあなたに拠り頼み、自分の理解に頼みません。」

信仰で祈るとはこういうことです。神が答えをくださるまで、この問題から目をそらしません。そして私の祈りのテーマは「答えをください!」ではなく、「主よ、あなたに信頼いたします!」というものです。

 

今あなたの心を悩ませているものが何であったとしても、今主に明け渡しましょう。主に明け渡すというと、主がそれを取り去ってくださると考えがちです。でもそうではありません。自分の夫や妻のことで悩んでいる人がいるでしょう。神はあなたから配偶者を取り去ることはありません。配偶者に関する重荷は取り去ってくださるかもしれません。あなたは問題を主の御前に差し出し、答えが来るまで主の臨在の中でそれを支え続けることを学んでいるのです。それを訓練してください。

箴言3:5に「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」とあります。今あなたの心があなたに何と言っているか注意してください。もしあなたが心を悩ませているならば、あなたは主に拠り頼んでいないことがわかるのです。

 

愛において成長する

 

パウロは、エペソ4:15で「愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためです。」と言っています。

しかし、ほとんどのクリスチャンは愛においてではなく、恐れにおいて成長しています。恐れにおいて成長するとは、あなたが恐れで訓練されるということです。毎日、あなたがすでに恐れていることについて新しい面を発見するのです。私たちは恐れから本を読んだりインターネットで調べたりして、もっと完全に恐れることができるように学んでいるのです。

完全な愛はすべての恐れを取り除きますが、完全な恐れはすべての愛を取り除きます。少しでも恐れが忍び込むと、すべての愛を追い出してしまうのです。しかしあなたが恐れで一杯になっていても、ほんの少しでも完全な愛が入ってくれば、すべての恐れは追い出されるのです。

「主よ、今、私たちはあなたの完全な愛に心を開きます。恐れではなく、聖い愛において完成されるようにします。」と祈りましょう。

 

一時的無神論者

 

心配とは、神は不意打ちを喰らったと考えることです。

心配とは、神はそれを知らなかったと考えることです。

心配とは、神にはご計画はないと考えることです。

心配とは、神はどうしていいかわからず、答えもなく、この状況を取り扱う力はないと考えることです。

 

神にとって難し過ぎることがあるでしょうか?それがあなたに問われていることです。詩編14:1に「愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている。」とあります。クリスチャンが一瞬にして無神論者になってしまうのは興味深いことではありませんか。つまり心配とは、状況によって一時的に無神論者になることであるのです。

私たちは心配を始めると愚か者になります。イエス・キリストを信じる者として出来る一番愚かなことは、心配することです。心配は私たちを愚か者にします。

 

どうすることもできなくなると、「神はいない」と言う。行き詰まると、「神はいない」と言う。今の状況に答えがないと、「神はいない」と言う。癒しがないと、「神はいない」と言う。悲しみが癒えないと、「神はいない」と言う。

 

このように思うとき、心の中で神はいないと言っているのですから、私は愚か者になったのです。私は頭の中では言わないかもしれません。でも心の中で言うのです。頭が「神よ。私はあなたがおられることを知っています。」と言ったとしても、もし私の心が恐れ、心配しているならば、頭が必死で求めている真理を私の心は拒み打ち消しているのです。心で主に拠り頼んでください。

クリスチャンの多くは頭の中だけで信頼しています。「私は主に信頼する」と頭で考えても、自分が考えているように心が従っていないのです。

信頼は究極的に「考え」ではなく、「心のあり方」です。

今あなたの心を主に明け渡してください。今あなたの愚かさから抜け出してください。あなたは恐れの中をあまりにも長く歩んできました。そのような無神論的愚かさから抜け出してください。心を信仰にもどしてください。

 

「ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、今肉によって完成されるというのですか。」(ガラテヤ3:1−3)

今は肉を抜け出して霊に来るときです。肉の心配から抜け出して、霊で確信する時です。不信仰を捨て去り、信仰にくるときです。声に出して宣言しましょう。(終り)


23 03月

神の御心とは   ベンジャミン・イスラエル・ロビンソン        2015年3月23日


神の御心とは

 

ベンジャミン・イスラエル・ロビンソン

 

 

御心はリストではない

 

神の意志、御心(the will of God)とは、神が望んでおられることです。あなたの人生に対して神が何を望んでおられかをはっきりと知り、神の願いを成就するのがあなたのつとめです。私たちは往々にして神の御心とは規則表だと思ってしまいます。「これこれをするように、これこれはしないように」というリストです。「主よ、あなたは私にこのことをして欲しいですか?して欲しくないですか? これは罪ですか? 罪ではないですか?」というような考え方です。

 

「してはいけないこと」に関しては、リストに書いてあることさえしなければいいだろうと私たちは考えてしまいます。しかし神の御心とは、最低ぎりぎりの許容範囲のことを言っているのではありません。私たちに対して神が願っておられることが御心です。「神よ、あなたは何を望んでおられるのですか?」と私たちは訊かねばなりません。

 

人の願いというものは常に同じではありません。もしあなたが私に「何を食べたいですか?」と訊いたとしたら、私の答えはその日によって違います。もし神の私たちに対する願いが「するべき事、してはいけない事」というリストになっていて、それさえ守っていれば自分は神の御心を毎日満たしているのだと考えるならば、それは間違いです。神はそのような規則表に収められるような方ではありません。毎日、今日神が願っておられることは何かを知る必要があります。ですから、もしあなたが神に仕える者となりたいのならば、神の願いを見出すように努めねばなりません。

 

あなたのまわりの人の「御心」

 

私たちが神の御こころを行なうことを阻止するものがあるとすれは、その第一として、私たちが神ではなく「自分に対する人々の希望」を行おうとするところにあります。即ち、仲間、妻、夫、親、牧師、友人たちの「御心」を行ってしまうのです。

 

あなたに対するある人の希望や願いが悪いものとは限りません。多くの場合、その人はあなたにすばらしいことをしてほしいと願うのです。あるいはその人があなたに望むことと、神があなたに望むこととが同一かもしれません。又ある時は、その人はあなたに「神の望むようにしてほしい」と言うかもしれません。

 

しかし、ポイントは何をするか、ということではなくあなたの心のあり方なのです。あなたはその人が望むからするのか、それとも神が望むからするのか、それが問題です。あなたの心の動機が重要なのです。もしあなたがある人の願いのゆえに何かをするならば、いつかあなたはその人を恨むようになります。いつかその人に腹を立てます。なぜならば、事がうまく行かなくなったとき、あなたは誰の責任だと言いますか? その人でしょう!

あなたはこう言うのです。

「あの人の言うことなど聞かなければよかった!」と。

あなたはその人の願いを実行するべきではなかったのです。あなたの神との歩みに対してその人には責任はありません。彼はあなたにただ提案したのです。あなたはその提案を携えて自分の祈りの場所に入り、神の御心を直接聞くべきだったのです。残念ながら多くのクリスチャンは、ある人の願いが神の御心であると取り違えて行動してしまっています。

 

牧師に言われたからという理由で奉仕をしているとしたら、あなたは神の御心からはずれています。牧師に従順であるために行動したのならば、あなたは神に対して従順ではありませんでした。その結果、あなたは燃え尽き、失望、落胆などを経験するかもしれないのです。

 

外面への希望と内面への希望

 

ある人のあなたへの希望は、常にあなたの外面的行動に関してです。その人はあなたの心に対しては権威を持ってはいないからです。あなたに何かの行動を取ってほしいというのがその人の願いであり思いです。しかし神の御心は、外面的な行動ではなく、あなたの内面の心に関することです。

又、あなたが神の御心を求めて祈っていると思っていても、実際はほとんどの場合、あなたは外側の行動について祈っています。

 

「ああ神様、この人とデイトするべきでしょうか。」

「ああ神様、どの教会に行くのをお望みでしょうか。」

「ああ神様、この人と結婚するべきでしょうか。」

「ああ神様、お金を何に投資したらいいでしょうか。」

 

しかし神様は、あなたが誰とデイトするかよりも、どのようにデイトをするかに関心があるのです。第一テサロニケ4:3、4に「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたは不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち・・・」とある通りです。

 

又、1テサロニケ5:16−18にこう書かれています。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(for this is the will of God in Christ Jesus concerning you.)」

あなたに対する神の御心を行ないたいですか?

では、いつも喜び、絶えず祈り、すべての事に感謝してください。それこそが神の御心であるからです。

 

御心は私たちの思いから

 

神はあなたがどの職場にいるかよりも、どのように働いているかに関心を持たれています。どんな車を運転しているかよりも、あなたが運転しているときに何を考えているかに関心を持っておられます。義への道は外側のことにあるのではなく、あなたの思いのうちにあるのだからです。神の御心は私たちの思いから始まるのです。

私たちは状況によって霊的に左右されてはなりません。

私たちは仕事が見つかった、給料が上がった、と言って喜びます。しかし、聖書はいつも喜びなさいと言っています。それはあなたの状況がどうであれ喜ぶことを止めないということです。主にあっていつも喜ぶとは、あなたが主にある時は喜ぶ理由があるということです。サタンはあなたの喜びを奪うことによって、あなたを神の御心から引きずり出してしまうのです。

 

仕事が見つかったから喜ぶのではなく、あなたが主にあるから喜ぶのです。イエスはルカ10:20で「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるさるされていることを喜びなさい。」と言っておられます。それこそが大いなることです。イエスがあなたを愛しておられる、それこそが大いなること、絶えず喜ぶべきことなのです。

 

成長には順序がある

 

私が大学に入るとすぐにアドバイザーが、各学年の必須科目、卒業するための単位数などを教えてくれました。すべてに順序がありました。2年生の授業を取るためには一年の授業を取る事が必要でした。

入学してすぐに4年生の授業をとって学位を取りたいと言ったらどうでしょうか? それは無理です。各学年をスキップすることはできません。

 

それと同じように、霊の成長にも順序があります。真理はあなたの中で正しく整理されねば、あなたを真の自由に導くことはできません。正しい順序を踏まなければ、あなたは真理を知ってはいても自由にはなれないでしょう。神の御心に関しても、ほとんどのクリスチャンは1、2、3年を通りすぎて直ぐに学位をとろうとするのです。

箴言3:5、6を見てみましょう。

1年生「心を尽くして主に信頼せよ。」

2年生「自分の知識にたよってはならない。」

3年生「すべての道で主を認めよ。」

4年生「そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。(He will direct your paths)」

 

しかし、私たちはどうするでしょうか?

すぐに4年生になって「ああ主よ、私の行く道を示してください。」と言うのです。神は「しかし、あなたは私を信頼してはいない。」と言われます。でもあなたは「ああ主よ、道を示してください。」と言います。

神は「でもあなたは自分の知識にたよっている。」と言われるのです。

 

私たちが「ああ神よ、私の経済をどうすればよいか教えてください。仕事はどうすればいいでしょうか。この状況で何をすればよいかを教えてください。」と祈り始めるならば、私たちは一年生に戻らねばなりません。

 

神は「あなたは全く焦点がずれているよ。あなたはわたしを信頼していないから、何か悪いことが起こるとすぐにパニックになるんだよ。」と言われるのです。

神に「道を示してください」と頼む代わりに、どうすれば神を信頼できるのかをお聞きするべきです。

 

又、自分の悟りに頼らないとは、「主よ、私は理解ができません。しかし私は自分の悟りを知る必要はありません。私は理解できませんが、あなたが知っておられます。」と言うことです。

そうすれば、また、いつも喜び、絶えず祈り、すべての事を感謝することが出来ます。そして私たちは主の御心の中にいることが出来るのです。たとえ何かに失敗したとしても、喜び、祈り、感謝することをやめないならば、私たちは神の御心の中にいるのです。(終り)


16 03月

新しいレベルの使徒的恵み     ダッチ・シーツ         2015年3月17日


新しいレベルの使徒的恵み

 

ダッチ・シーツ

 

私が見た夢

 

テレビのニュースを見ますと、アメリカの現状をこれほどまでに懸念したことは未だかってなかったと思います。しかしながら、聖霊にチャンネルを合わせますと、これほど励まされたことも今までにはなかったという強い思いを持ちます!事実過去25年間で、今日ほどアメリカが正しい方向に変ると信じ期待したことはありませんでした!

去年の11月でしたが、私が今までで見た中で一番鮮明な夢の一と言える程鮮やか夢を主からいただきました。聖霊が語ってくださったことによれば、今まさに私たちは未だかってない新しいシーズンに入りつつあることを、私は100%信じるに至りました。

 

この夢の中で、私は主から受け取ったことばをある使徒的な友人に伝えていました。私は主から聞いたことばを一言も違えずに伝えようと、ゆっくりと慎重に次のように語りました。

「新しいレベルの使徒的恵みが、今人びとに配られています。その恵みによって与えられつつある賜物は、霊的に言っても spiritually 又、目に見える形としでも and  physically、新しいレベルの大きなものであるのです。」

 

そして気が付いたことは、私は夢の中でそうであったように、目が覚めた後でも、特に私は最後の2つのことばに注目させられたのでした。それは「又、目に見える形で and physically」ということばです。

この夢を通して主が語られたことは、私たちはこれから神の御国が地上に降りて来るのを具体的に目に見える形で見ようとしている、と言う意味であると私は信じます。すなわち、教会は今まで私たちが霊的に戦って来たことが現実となり、今までに約束されたことが成就されるのを見ようとしていると言うことです。そしてこれからは私たちは祈りの結果をずっと早く見るようになるのです。私たちは祈った結果、いつか何らかの変化があらわれることを信じるのではなく、素早く目に見える形で変革が起るのを見るのです。多くの魂が将来救われると信じるだけではなく、大勢の人がキリストのもとに来るのを私たちは現実に見るでしょう。私たちは霊的賜物をただ求めるだけでなく、実際にしるし、不思議、奇蹟を賜物の現れとして見るようになるのです。

この新しいレベルの使徒的恵みは、使徒的権威を使徒的な力として御国において行使し、それにより実際に具体的でリアルな変化を地上にもたらすでしょう。使徒4:33には初代の使徒たちがイエスの証をする時に豊かな恵みを受け、大いなるしるし、不思議、力が彼らを通して解き放たれていたと書かれています。使徒的な教会に神からの恵みの窓が今開かれています。私たちの人生で最大の恵みの窓です。それは御国の権威といのちを地上に解き放つものです。天のブループリントをどんどん遂行するのに必要な神の戦略と力が、全面的に解き放たれる時に、私たちは今入ろうとしているのです。

 

教会の リーダーの多くが、私たちはすでに私たちの油注ぎと霊的召命の中をフルに歩んできていると考えています。しかし実際は、今までのものはこれから来ようとしているものへの備えであったと私は思います。過去数年間は、主が私たちの賜物を精錬して、この新しい恵みの領域のために私たちを調えておられたシーズンだったのです。主は私たちの心を取り扱い、多くの啓示を解き放たれ、多くの重要な連携関係を結ばれました。

これらの準備によってもたらされる満ち満ちた恵みのシーズンへ踏み出すようにと、主は今私たちを招いておられるのです。今まで主が私たちの内側でしておられたことを、今は私たちを通して外に向かって解き放ちたいと願っておられます。

 

チャンスの窓 

 

神が恵みを解き放つと言われる時、「恵み grace」とは「受ける資格のない私たちへの好意」という意味だけではないことを理解することが重要です。恵みは、超自然の能力、私たちが願ったり、考えたり、想像したりすることをはるかに越える能力が解き放たれることをも意味しています。(エペソ3:20参照)

第二コリント9:8で使徒パウロは「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」と言っています。これこそ主が今のシーズンに私たちの上に解き放ってくださる恵みの種類です!すべてのことに満ち足らせるあふれるばかりの恵みです!

このシーズンに入ろうとしている今、次の6ヶ月が非常に重要であり、私たちが決断することはこれからの私たちの人生をある意味で明確に定めることになります。今のカイロスのシーズン、私たちはこの恵みの傾注を受けるために神を熱心に求め、正しい位置に立つ事が大切です。そうするならば、私たちは新たなマントルを受け、新たな召しを受け、新たな活力を得て、未来へと勢いよく送り出されるのです。

 

歴史のかなめに私たちは立っている!

 

チャンスの窓は開いています。そしてあふれるばかりの恵みが用意されているのです。主が解き放っておられる宣言に私たちが一致するようにと主は招いておられます。そうする者には、今まで経験しなかったような方法で、神の力の現れがあるでしょう。それを信じ、その力を受け、今神が全地で起されつつある使徒の軍勢に参加してください!(終り)

Dutch Sheets
Dutch Sheets Ministries
Website: dutchsheets.org


10 03月

神は愛です                  坂  達 也       2015年3月10日


神は愛です

                 坂  達 也

 

ジョッシュ・マクドエル師は壇上に立つと、いきなり会衆に向かって「この世の中で定義するのが最も難しく、しかも最も重要なことと言えば何でしょうか」と問い掛けた後、「それは愛です」と答え、次のように続けました。「私は今までの経験から、98%の福音的クリスチャンが愛の定義を明確には知らないと確信します。牧師も含めてです。クレイジーな話ですが、愛の定義を知らないでどうして愛を実行出来るのでしょうか。どうして真の愛の関係が持てるのでしょうか。

多くの人は1コリント13章が愛の定義であると答えます。それではお聞きしますが、この13章の中でどこに愛の定義が書いてありますか。どこにも書いてありません。書いてあるのは、愛 agape が何をするかの説明であって、愛が何かは書かれていません。愛が造り出すものが、寛容であり、親切であり、ねたまず、自慢せず、高慢にならない・・・ではありますが、これらは『愛の実』です。

又若い人の多くから必ずと言ってよい程出て来る答えは『愛とは感情 feelingである』と言う定義です。もし愛が感情であるなら、神は感情に対して『よい気持ちになりなさい』と命令出来るでしょうか。出来ません。例えばある人に『レバーの料理は好きですか』と聞くと、多くの人は嫌いですと答えます。その人に神は『食べなさい』とは言えても『好きになれ』と命令は出来ません。

愛の結果はフィーリングであっても、愛はフィーリングではありません。誰でも命令できるのは『行動する』ことにおいてです。それはその人の選択の結果によるもので、人は選択してアクションを起こします。すなわち愛はフィーリングとは無関係に意志決定をすることです。

このように100人のクリスチャンに聞いて2−3人しか正確な答えが出て来ないなら、つまり、教会では愛を定義出来なくて、この世の一般人に定義させるとすれば、それは大変危険なことではないでしょうか。」

 

以上はリック・ジョイナー師のモーニングスターでの集会の一部ですが、私はこれはチャレンジングなとてもよい質問だと思いました。クリスチャンの皆さんは同じ質問をされたら、とっさに何とお答えになりますか。

 

私が先ずしたことは、キリスト教と関係のない一般の辞書類を調べることでした。それで分かったことは、成る程、メリアム・ウエブスター辞書にしても、オックスフォード辞典にしても、その他のインターネット辞書の多くを含めてその答えを要約すれば、総じて「愛は強い感情、好ましく思う強い思い、敬慕、恋慕・・・」と書いてありました。

これで先ず分かることは、キリスト教に於ける愛と、キリストを知らない一般人の愛の解釈とは決定的に違うと言うことです。

 

アガペの愛

 

人間が持つ愛には色々な種類の愛がありますが、その中で最も重要で、不可欠な愛は、先ず神に愛され、その神の愛で、人間が神を愛し、他人を愛し深い交わり持つ愛です。愛は元々創造者の神から出たもので、神の性質、あるいは特質そのものです。なぜなら、神は「人間をご自分のイメージに似せて造られた」からです。(創世記1:27)しかし最初の人間アダム以来、人間は罪を犯し神から離れてしまいました。従って神を知らない未信者の人たちは愛が神から出ていることを知りませんし、神の愛を受ける道も閉ざされました。しかもキリスト教の神ご自身が、私たちにすべて必要なものを与えて下さる「愛」の方であることも知りません。

その神の愛はギリシャ語で agapeと言われます。この神の愛とは、無条件の愛(ロマ書5:8)あるいは、代償を要求しない無償の愛(ルカ6:35)と言われますが、この愛の根底にあるものは犠牲の愛です。(ヨハネ3:16等)すなわち、父なる神と子であるイエス・キリストの間で実行され、特に十字架で顕された愛です。

従って私は、ジョッシュ・マクドエル師の質問に対する端的な答えは「愛とは十字架の業」と答えたいと思いますがいかがでしょうか。十字架の業とは「他人のために自分を犠牲にする行動」です。(1ヨハネ3:16)

 

十字架の愛

 

神は、自由意志を与えて創造した人間が罪を犯すことを初めから予知していましたから、その人間を救うために、子であるイエスを人間として生まれさせる計画を創造以前から持っておりました。そして父ご自身が先ず、ご自分の最愛の一人子イエスを、人間が犯す罪の身代わりとして死なせることを決意していたのです。愛の神にとってこれ以上の犠牲はありません。それは自分自身を殺すに等しい、あるいはそれ以上の犠牲的行為でした。そう決意した父は、子である人間イエスに自らが死ぬことをして見せたのです。(ヨハネ5:19)それを見た子は、父がされたのと同じことを、自ら決意して、実際に十字架につかれました。こうして私たちすべての人間の犯す罪の身代わりになることが成立しました。

従って信仰でイエス・キリストの十字架の御業を信じる人間は、みな罪が赦され、永遠のいのちを受けることが出来るようになりました。しかし神は、キリストを信じた私たちが、キリストと同じように自らの命を神に差し出すことを要求しました。それは、私たちがキリストのからだとしてキリストと結合するためです。

 

クリスチャンの究極の目標は、イエスに全く似た者となることであり、それが私たちのアイデンティティーです。そうであるなら、イエスが十字架につかれた以上、私たちも十字架につくのは当然です。

それが、キリストを信じた時に私たちが水の洗礼を受けることの意味です。私たちは、信仰でキリスト・イエスの死にあずかるバプテスマを受け、キリストと共に葬られ、又キリストが死人の中からよみがえったように、私たちもキリストと共によみがえったのです。こうしてクリスチャンはキリストのからだの一部となったのです。その「よみがえりのいのち」とは、この世では考えられない程パワフルな永遠に生きるいのちです。「このようにして、私たち自身も、信仰で一度死んだ者となり、キリスト・イエスと共によみがえって信仰で神のために生きる者となったのです。」(ロマ書6:3−11)

この十字架に示された「神の愛」と「よみがえりのいのち」は、主イエスを信じてキリストの後を追うクリスチャンにならなければ絶対に受けられないものです。

 

「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」

 

これはマタイ5:44に書かれている主イエスの御ことばです。神はアガペの愛で、どんなに憎んでも憎みきれないような悪人でさえ愛されます。

最近の大きなニュースの一つは、日本からヨルダン・シリヤ近辺で難民の報道活動を続けて来た後藤健二兄弟が ISIS の人たちを赦しつつ、殉死したことです。

その後エジプトのクリスチャン21名がリビヤでISIS に殺害されました。

その中に、未だ若いビショイとサムエルと言う二人の兄弟が含まれていましたが、この二人の兄のベシャーさんは、インタビューに答えて「私は二人の兄弟を誇りに思います。クリスチャンとしての誇りです。ISIS は私たちが望む以上のことをしてくれました。彼らが世界に流した映像の中で、殺されたクリスチャンたちは自分たちの信仰を告白し、イエス・キリストの名前を高く宣言しましたが、ISISはその部分をカットせずに世界中に伝えてくれたからです。それによってISIS は私たちエジプトのクリスチャンの信仰をより強いものにしてくれました。今回私たちの村から多くの殉教者が出ましたが、そのことを私たちは互いに感謝し合い、喜び、祝っています。決して悲しんではいません。・・・ローマの時代以降、クリスチャンが迫害を受け、殉教することがキリストの栄光を表すことを知っている私たちにとって、今回の事件は、私たちが迫害の危機を耐え忍ぶための助けとなりました。なぜなら聖書は私たちの敵を愛しなさいと語っているからです。

今日私は自分の母に、もし同じISIS の殺人者たちが目の前を歩いていたらどうするかと尋ねました。すると母は、神に彼らの目を開いて下さるように祈り、彼らは私たちが天の御国に入ることを助けてくれたので、私の家に喜んで招き入れる、と答えてくれた。」と語っています。

 

これは何とすばらしい神の愛の証ではないでしょうか。若い21名の殉教者たちは、主の栄光のために喜んで主の十字架の後を追って死んで行き、それを世界中の人たちに証して見せたのです。又、エジプトに残った遺族たちも、自分の息子と多くの同胞を殺した相手を赦し、その人たちの救いのために主に祈りを捧げたのです。これこそ人間の感情的な愛では絶対に出来ないアガペの愛です。

 

今世界中でクリスチャンが「イスラム国」によって迫害され殉死しています。世界中が残忍極まりない ISIS を憎み、彼らを撲滅しようと立ち上がっています。

神を信じる者として私も彼ら ISIS の行為は憎みます。しかし、彼らのためにもキリストは死んで下さったこと、父なる神は、彼らをも100%無条件で愛し、彼らが神に立ち返ることを願っておられるのです。

私は上記のエジプトのクリスチャンの証を私たちの教会の祈祷会でベンジャミン牧師が紹介してくれたことによって知りました。そして彼は集会の最後に「過激派のISIS だけが問題なのではない。むしろ過激的な愛を持つクリスチャンが少な過ぎることの方が問題ではないでしょうか。」と語っておりました。

 

十字架の愛はものすごい祝福をもたらす力の源

 

「神は愛である」と第一ヨハネ4:8に書かれています。そうであるなら、創造者である神がなさるすべてのことがアガペの愛の行為です。そのような神の愛は、尽きることなく永遠に神から流れ出てこの宇宙に溢れております。又、その神の愛には不可能は何もないという超自然の霊の力が内に秘められており、神はそのような宇宙で最もパワフルな愛で私たちを愛して下さっているのです。

私たちがキリストを心から信じる時に、私たちの内には聖霊が入られます。その聖霊が「生ける水の川」のごとく私たちが生きて行くために必要なあらゆる超能力の「霊の力」を与え続けて下さっているのです。その神の愛を受けて、私たちは熱烈に神を愛するだけではなく、他人をも愛せざるにはおられないようになります。その水は私たちの必要のすべてを満たしてくれるだけでなく、私たちから溢れ出て周りにいる人々にもふんだんに与えられるのです。これが「永遠のいのち」です。

しかし、私たちの多くは、往々にしてそのことを忘れてしまっています。そこで今回私は、改めて皆さんと、キリストの十字架の御業による恩恵の偉大さをもう一度思い返してみたいと思います。

 

罪が赦されたことの意味

 

考えてもみて下さい。私たち個人の一人一人が過去から今日現在に至るまでに犯した一切の罪、それに加えて、将来私たちが犯すすべての罪の代価を、キリストは私たちに代わって十字架上で支払い、すべてを処理して下さったのです。それは私たちの上に重くのしかかり、私たちには絶対に返せない大きな借金以上の重荷でした。私たちはキリストの十字架の御業によってそのような負債から完全に解放されたのです。

罪がないところと言えば天国がそうです。であれば、罪から解放されたクリスチャンは、地上にあっても既に「天の御国」に生きていると言って過言ではありません。問題は、地上は未だに罪の元兇である悪魔の支配下にあり、罪が蔓延し、未信者の多くは罪の泥沼の中で喘いで生きています。それを一日も早く罪のない天の御国にすることが、十字架上で悪魔に完全に勝利されたキリストの下で、私たちが地上ですべき仕事であり、最終目標であるのです。

 

しかし簡単に「すべての罪が処理された」と言いましたが、それは罪そのものだけではなく、その犯した罪の報いとして残る「のろい」と、罪の後遺症と言える「トラウマ」に縛られ、多くの人が断ち切れずに引きずっている「お荷物」の一切も、実は十字架上で既に処理済みであることに私たちは気が付かねばなりません。

それだけではありません。私たちがキリストと共に十字架につき、キリストと共によみがえったことによって得た「永遠のいのち zoe」で本格的に生きることは、私たちに更に大きな恩恵をもたらしてくれます。なぜなら、永遠のいのちとは奇跡を起こせる超能力と知恵そのものであり、それを活用することによって私たちはイエスがされた以上の奇跡を日常茶飯事として起こすことが出来るーこれが神の約束であるからです。これこそ、未だ地上に住む私たちが、天の御国そのものを地上に持ち込むことであり、今がその時です。そのために必要なものは「信仰」だけです。

その信仰が成熟するように聖霊が助けて下さっています。それには神の愛をいつもいただいている必要があります。それが聖霊によってふんだんに与えられる生ける川の水に例えられる神の愛であり、それは他人にどんどん与えなければ細って涸れてしまうのです。

 

今は自らの十字架を背負って主の後を追う時

 

世界中に今 ISIS の動きが広がっています。これを見て、世の終わりの時代が来ていることを疑うクリスチャンはいないと思います。いよいよ最後のリバイバルの時が目前に迫って来ました。

そこで思い出すのは、主を三度否んだペテロのことです。主はそのペテロを赦し、使徒のリーダーに復帰させるためにペテロに三度「あなたはわたしを愛するか」と問われました。(ヨハネ21:15−17)今主は、私たち一人一人に同じ質問をされているように思います。

そして主は、他の使徒たちの面前で、ペテロが晩年十字架刑に処せられて死ぬことを伝えました。どうしてでしょうか。ペテロが三度主を否んだのは公衆の前でした。そのペテロに対して主は公衆の前で十字架刑につけられて死ぬことを予告したのです。十字架刑で死ぬことは殉死を意味しないでしょうか。

私は21人のエジプトのクリスチャンが全世界の公衆の前で栄誉の殉死を遂げたことと、主がペテロになさったことは無関係ではないと思います。主はそれを励ましのことばとしてペテロに伝え、又、私たちへの励ましとして21人の殉死を全世界に見せたのであると信じます。(終り)


02 03月

神はあなたを知りたいと願っておられる    ロビン・マクミラン      2015年3月2日


 

神はあなたを知りたいと願っておられる

 

ロビン・マクミラン

 

主は「私たちについて」知る(訳者:情報的に)ことだけでは満足されておられません。私たちを本当に知りたいと願っておられるのです。

次の聖句が今までとは違う新しい意味を持って、私の注意を引きました。

マタイ7:21−23「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣言します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」

 

主はここで、「主を知り主の力で業をなす者たち」と、「主が個人的に知っている者たち」とをはっきり区別しておられます。私たちは両方のグループに入っていなければいけないのです。聖霊の力によってわざをなすことは重要です。それによって人びとが解放され主を知るようになるためです。しかし、主を知っていることと、主から私たちが知られていることとは同一ではありません。

 

神が私たちに関するすべてのことをご存知であるのと、神が私たちを個人的に(親しく)知っておられるのとは同じではありません。ヘブル4:13に「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」

とあります。神は私たちに関することはすべてご存知です。しかし実際に経験的に私たちを知っておられるでしょうか?

主は、ご自分が私たちに関する事をすべて(私たちが秘密にしていることも含めて)知っておられることと、私たちを親密に知っておられることとを明らかに区別しておられます。主は私たちと個人的に関係を持ち、私たちと話をすることを願っておられます。私たちは主に私たちの内側を見ていただき、自分がどのような者であるかをもっと知っていただくようにお話する必要があります。

 

主がアブラハムを訪れ、ソドムとゴモラについて話されたときのことを見てみましょう。

創世記18:20−21「そこで主は仰せられた。『ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重いので、わたしはいま下って、わたしに届いた叫びのとおりに、すべて彼らがおこなっているかどうかを見て、それを知ろう。』」

主は、ソドムとゴモラの状態をすでに知っておられたにもかかわらず、

もっと個人的に知りたいと願われ、ご自分でそれを実際に見るために行かれました。物事に関して知っているだけでは主は満足されないのです。主は人びとの人生のすべての面において彼らと関係を持ちたいと願われています。それは彼らを個人的に知るためです。

 

イエスは私たちが神の御国に入るための接点です。では、神がこの世界に入るための個人的な接点は私たちである、ということが言えないでしょうか?

主は私たちが上に行くためのドアであり、私たちは主がこの世の人生の出来事の中に下りて来られるためのドアです!

次にように考えてみてください。ある家の持ち主が誰かにそれを貸したとします。すると貸借の契約により持ち主はその家に入ることは出来なくなります。彼は確かにその家を所有しているのですが、勝手にそこに入ることはできません。

神はすべてを創造されたのですからすべてものを所有しておられます。しかし、神は人間に権限を与えられ、人間に関する事柄に勝手に介入することを自ら制限する道を選ばれたのです。

 

雅歌2:14には、ご自分の民を親密に知りたいという神の深い願望が表されています。

「...私に、顔を見せておくれ。あなたの声を聞かせておくれ。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。」

その人が誰であるかを一番はっきり認識できるのは、その人の声と顔によってです。「顔」を主に見せるのは、主があなたは誰であるかを本当に「見る」ためです。「声」も又、あなたが誰であるのかを主に告げる力があります。主は「あなたの顔は美しい」と言われます。主にあなたの顔を見せてください。主は「あなたの声は愛らしい」と言われます。主にあなたの声を聞かせてください。あなたがどのような人であるのかを主に話してください。

 

もう主に話しましたか?

 

もしも主があなたのことを、あなたが意図的に声に出して主にお話ししたこと以外はご存知でないとしたらどうでしょうか?

主はあなたのことをどのくらい知っておられるでしょうか? 今まで意図的にあなたが誰であるのかを主にお話ししたことがありますか?

私たちがそうしない理由の一つは「主はすべてをご存知である」という事実であり、 それが主に自分を深く知っていただくのを妨げているのです。

 

私が主を知ってから45年以上経ちました。しかし最近、私と主との個人的な交わりが、今までずっと待ち望んでいたものへと開花してきたのです。それは、あたかも主は私のことを何もご存知ではないかのように、私のすべてを主にお話ししようと私が決意した時から始まりました。その結果、すばらしいことには、私が予期しなかった方法で、主は私の人生に関わる深いことを語り始めて下さいました。それは、主に心を開いてすべてをお話しした結果、主は私が置かれている状況をもっと明確に知り、それによって主が私と深く関わることが可能となったからだと私は気がつきました。

私は「私は1951年1月10日に南キャロライナ州のアンダーソンで生まれました。父はアースキン大学でフットボールのコーチをしていました。」というようなことを主に話しました。この新しい関係を築く中で、ある時私は自分の過去の人生の中で恥と思っていることを話しはじめました。そして「主よ、あなたは何も恥じるようなことをされなかったから、こんな風に感じることはないですよね。」と申し上げました。主はこう答えられました。「ロビン、そんなことはないよ。私は十字架の上で自分を恥かしいと感じていたよ!」主のこの答えに私はびっくりしました。しかし、すぐにヘブル12:2を思い出しました。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめ(恥ずかしく思うこと)をものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」

長年にわたってこの箇所は読んでいましたので、意味はわかっていましたし、暗唱することもできました。しかしイエスが実際に恥じと感じたとは全く思いも及びませんでした。続けて主は、恥じている人を深く同情し憐れむために、主ご自身が恥を感じる必要があったのだと言われました。このようなイエスを愛さずにおられる人がいるでしょうか!

ご自分が十字架ですばらしい業を成し遂げたのだから、誰でもその事実を完全に理解するならば、もはや決して二度と恥と思う必要はないのだ、と主は言われました。主は十字架で死んだとき、すべての人の恥と思う思いをご自分において死なせたのです。主は恥の代価をも支払われたのです。

 

さあ、次はあなたの番です

 

人生で非常に破滅的な経験した多くの人を私は知っています。あなたもその一人かもしれません。多くの人は主に助けと解放を求めましたが、何が起ったかを本当に主に話した(訳者:自分がその時内心どう思ったかと言うような)人は何人いるでしょうか?

あなたの話(訳者:あなたの心の動き、思ったこと等を正直に隠さず)を主にしてください。あなたの心と口とを開けて、あなたが誰であるのかを主に話してください。そうするならば、思いもよらない方法で主はきっとあなたを慰めてくださるのです。主にあなたの顔を見せて下さい。あなたの声を聞かせてください。主は「あなたの顔は美しく、あなたの声は愛らしい。」と言われるのですから。(終)