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Walk With God Ministries


21 08月

神の通訳者     ショーン・ボルツ                 2017年8月21日


神の通訳者

 

ショーン・ボルツ(ボルツ・ミニストリーズ)

 

私は「Translating God(神を翻訳する)」という本を2015年に出版しました。何か外国語を翻訳や通訳するときは、ただ言葉の意味をそのまま訳すだけではなく、その言語の背後にある精神とカルチャー(文化生活様式)を理解し、それが聞く人に伝わるように訳す必要があります。それと同じように神の言葉(預言)を聞いた時は、その言葉に含まれる天国のカルチャーを正しく理解し、人に伝えねばなりません。

 

神は今の時代に生きる私たちに親しく語りかけたいと願っておられます。そして今まで教会で不当な扱いを受け覆い隠されていたものを現し、それによって私たちにもっと自由を与え、新しいレベルに引き上げたいと神は願っておられるのです。それは即ち「知識のことば」と「知恵のことば」で、神はこの二つを預言のムーブメントの中に今、回復しようとしておられます。

 

「知識のことば」は、1コリント12章にある御霊の賜物の一つです。その働きは、ある人の過去や現在に関する情報を神から得ることによって、その人を神の愛の中に招き入れることです。もしあなたがレストランにいるとき、神が突然そのウエイトレスの誕生日を教えられたとします。それは「知識のことば」です。誕生日は子どもでも70歳の人でもとても大切なものです。もし誰かがあなたの誕生日や生まれた場所を知っていたならば、「どうして知っているのか?」と驚くことでしょう。一人ひとりユニークに造られていることをみんなでお祝いする日ですから、いつ生まれたのかは大切です。神は私たちに関するすべてを愛しておられるので、私たちの人生のすべての情報は神のこころの中に入っているのです。

 

神がその人の誕生日を知っていたということで、その人は神に心を開きます。そして神が自分のすべてを知り、愛しておられることを知ることによって、神からのことばに心を開きます。このような「知識のことば」を用いるミニストリーは今まで失われていました。しかし、イエスは何度もそれを実行されましたし、弟子たちやパウロも何度もこの賜物を用いました。それなのに、現代のキリスト教では用いられておりません。実際のところ、それは魔術だとか心霊術だとか言われるのです。今まで私が知識のことばを用いた時、他のクリスチャンからどれほど非難されたか数えきれません。前もってその人のことを調べたのだろうとか、カルトではないかと言われるのです。

 

 次に「知恵のことば」は、あなたがすでに持っている神からの預言や啓示をどのように扱えばよいのかを教える神からのことばです。あなたの人生に預言が与えられたならば、その預言に関して実際どのように行動して行けばよいのかを具体的に神から聞く必要があるからです。

私たちは同じ事を何度も複数の人から預言されることがあります。私もある事に関する預言をいくつも受けて「もう結構です、十分です!」と叫びたい時がありました。預言のことばを受けても、それを実際にどう成就して行けばよいのか全くわかりませんでした。「神様、知恵をください。」と私は祈りました。ヤコブは知恵の無いものは神に願えば豊かに与えられると言っています。

 

「知識のことば」と「知恵のことば」がキリストのからだに現在欠けている要素です。あなたは「でも私は預言的ではありません。」というかもしれません。しかしヨハネ10章には「わたしの羊はわたしの声を聞く」とあります。あなたが救われているのなら、あなたは預言的なのです。なぜならばあなたは主の声を聞いたから、あなたのうちで何かを聞いたから救われたのです。

 

ある人が教会にやってきて「これは皆さんすべての人のためです。」とか「すべての人ができます」とか言いますが、そんなことはありません。

祈ってもらって倒れる人もありますし、倒れない人もあります。私は2度ほどお義理で倒れたことがあるだけで、本当に倒れたことはありません。みな一人ひとりユニークなのです。ユニークなアイデンティティーを持っていますから、自分に合わない型やモデルもある、それでいいのです。

 しかし、すべての人は預言的です。それは他の預言的な人の型にははまらないかもしれません。私は現代の預言者を何人かそばで見ながら成長したので、彼らの真似をしてみましたが、彼らの型は全く私には合っていませんでした。

神を知るに従って、私たちは自分を知るようになり、自分自身を受け入れ自分に合った方法で出来るようになります。でもすべての人に共通しているのは「主の羊は主の声を聞く」ということです。ヨハネ16章でイエスは、聖霊がやがてこられ、御父のこころから出ることを告げる、と言われました。聖霊は例外なく、すべてのクリスチャンに御父の思いを告げてくださいます。

 

長年の間、私は大富豪や有名な俳優、プロデューサー、ディレクター、また極貧にある人や癩病人と話す機会がありました。15分か20分も話すと、誰の人生でも神がすでにその人に語られたことがあるのが分かってきます。

神は私たちの人生を通して私たちを追い求めておられ、私たちが神の慈しみの中で生きることを望んでおられます。

ある教会では、もし預言者がそこにいるならばその人だけが神から聞けるのだ、というように考え勝ちです。私はカンサスシティーの教会に1993年から2005年まで行っていました。最初の2年間は、教会に複数の預言者がいたので、他の人が預言をすることは推奨されていませんでした。

ある時、預言者の一人が3ヶ月留守をするので、彼の受け持ちの祈り会を私が担当するようにと頼まれました。私が19歳のときでした。私は「このグループではいつも皆さんはどのようにしていたのですか?」と尋ねると、「まずリーダーである預言者が啓示を語ってくれて、その後で私たちは彼のミニストリーのために祈りました。」ということでした。

預言者のために祈るのは悪いことではありませんが、 みんなの人生とはあまり直接関係はないように思えます。彼らは20年間、このようにしていたのというのです。

私は「皆さん、わかりました。じゃ、壁にむかって立ってください。そして『自分には権威がある』と感じるまで『ジーザス、ジーザス』と言い続けてください。」と言いました。彼らは「一体どういうことでしょうか?」と聞きました。私は次のように説明しました。「私は皆さんが、自分が持つ権威をまだ感じていないように思います。ですから神というお方を教えてくださる聖霊とあなたがコネクトして、自分の神にある権威を確信するようになってほしいのです。あなたがパワフルになり、『イエスは私が願うことをしてくださる』という確信を得るのです。

あなたは力を得て、他の人から力を貰うのを待つ必要はなくなります。あなたはうちに力を持っているのです。

1ヨハネ2:20に、『あなたがたには聖なる方からの油注ぎがあるので、だれでも知識を持っています。』とあります。他の人から教えを受ける時もあるかもしれませんが、それが一番のライフラインではありません。神が私たちのライフラインです。」

 

そこで、彼らは皆、壁に向かって立ち「ジーザス、ジーザス」と言い始めました。だんだん私も聖なる畏れを感じ始めました。これらの成熟したクリスチャンが自分の権威を認識し始め、すべてが変わり始めました。彼らは自分で神に聞くことを許されたのです。それはただイエスの名を呼ぶ事によって起こりました。

 

カリズマや使徒的ムーブメントの中で、何かが変っていってしまったように感じます。それは、周りで起こっていることがとても素晴らしく興奮するようなことなので、私たちがもうそれを見るだけで満足してしまうということです。しかし、私たちは本来、自分を通して神がされることに感激し興奮するべきなのであり、周りで起こることは「おまけ、ボーナス」だと考えるべきです。今、教会に霊的倦怠、霊的鬱が蔓延しているように私は感じるのですが、それは自分自身の内におられる神がどのようなお方であるかを、私たちが認識していないからだだと思います。

私たちは人びとに預言する以前に、まず神がその人に持っている御心を知り、それを同じ心を持たねばなりません。ですから一人ひとりが神の御こころを聞く訓練をしなければなりません。そうすれば神をもっと尊ぶようになり、それと同時にあなたも神にとって尊いもの、価値のある者であることがわかります。あなたは最早「神よ、私は無価値なものです!」と叫ぶ必要はなくなります。あなたは価値あるものです。祭壇の前で、「私は罪人です。あなたは私を愛してはおられません。罪が私をあなたから引き離しました。」と言う必要はもうないのです。あなたがどういう者であって何をしてきたかに関係なく、神と私たちを結びつけてくださるイエスという方がおられるからです。

 

その土台からスタートするならば、それは傲慢でも、自己陶酔でもありません。それは実に健全な自己表現であり、残念ながら現代のキリスト教で失われているものです。なぜならば「神を愛するためには私たちは自己を否み、自己に死ぬ必要がある」と教えられてきたからです。しかし私たちが殺さねばならないのは肉の罪の業です。私たちはずっと「神を愛するには自分を憎まねばならない」という二元論のようなものを教えられてきました。しかし実は私たちは神を愛するためには自分自身を愛さねばならないのです。

主の戒めも「あなたの隣り人を愛せよ」ではなく、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」です。ですから自分を受容し、自分を愛し、イエスによって力を受けることがなければなりません。

そして預言は愛という枠の外では機能しないのです。ある時、私はある有名な牧師の教会に行きました。彼のメッセージはすばらしかったのですが、途中である女性のポップスターの非難を始めました。そのスターは世の中に非常に悪い影響を与えていると言って、びっくりするような口調、言葉で非難したのです。でも私は、彼女が前の晩に私の友人のクリスチャンと出会い、「これから神を求めて行きたい」とその友人に語ったと聞いたばかりでした。この有名な牧師の言葉はきっと多くの人に影響を与え、人びとのうちにポップスターに対する憎しみを起こしてしまうでしょう。私は悲しみで打ちのめされました。

 

その時、 神が私に「あなたが愛さないものに対して、あなたは決して権威を持つことはできない」と語られました。その牧師はポップスターを愛してはいませんでした。彼の言葉によって、彼女はもう多くの人の心の中で「近づいてはならない人」として分類されてしまったのです。私はこのことから多くのことを学びました。この牧師は彼女を愛していなかったので「宗教的不寛容さ」をむき出しにしてしまったのです。預言とか御霊の賜物は、愛がなければその権威を持つことはできません。今教会に権威が欠如しているのは、愛が欠乏しているからだと思います。

 

私たちが愛で心を開くならば、神は私たちに権威を与えないわけにはいかないのです。1コリント14:1でパウロは、本当に預言的になるためには、命がけで愛を追い求めなさい、そして預言を熱心に求めなさい、と言っています。どうして神の愛を追い求めて、そして預言を熱心に求めるのでしょうか?

それは、預言とは「神の御国、神の愛、神の御心」を、ここで今(here and

now)ある一人の人に現すことだからです。神は遍在される方ですが、今ここに預言を通してご自分を現してくださるのは、神の最大の贈り物の一つです。

 

神は時間と空間の中にいる方ではありません。ですから「今ここに」という私たちの時間と空間の中に現れてくださるのは、神が時間を割いて私たちを尊重してくださるということです。時間というものは、何よりも尊いものです。それはお金より、他の何よりも尊いものです。私たちの人生は一回だけで、そこに栄光の王、王の王、すべての名にまさる神が顕在し、私たちに出会ってくださるということは、本当にすばらしいことです。それはただの聖書の情報ではありません。神がことばと霊をもって現れてくださるのです。その出来事は永遠にその人の一部となるでしょう。現代のキリスト教はこの部分をずっと失っていたのです。

 

神ご自身が語られるので、その人は素早く変革されます。カウンセリング、心理学、精神学、量子論など、いろいろなものは人の人生を変えます。研究が進み、以前にはなかった新しい技術や方法が今私たちのために用意されています。私もそれは素晴らしいことだと思いますし、神は油を注がれていると思います。しかし、これらのものは、神との一度の出会いに代われるものではありません。あなたは神の友となるように召されているのであり、それによってあなたの周りの世界に神との出会いをもたらすことが出来るのです。あなたは神のこころを周りの世界に通訳するように召されています。そして人びとの複雑な人生の問題に神の愛のシンプルな解答を与えることができるのです。(終り)


15 08月

偽りのへりくだり     マーク・ディジーザス    2017年8月15日


 

偽りのへりくだり

 

マーク・ディジーザス

 

真のへりくだりは霊的成長へのハイウェイですが、残念ながら多くの偽物が横行しています。実際のところ、偽りのへりくだりがあまりに多いので、それがあたかも真のへりくだりであるかのような誤解を生み、間違ったお手本になってしまっています。

 

真のへりくだりは、自分ででっち上げることができるようなものではありません。それは神との関係の人生上のプロセスを通して養われていくものです。人生の経験を通して養われた真のへりくだりは、あなたから自然に輝き出るのです。

真のへりくだりの見本があまりにも少ないので、へりくだりがどのような形で外面に現れるのかを、私たちにわからないことがあります。ほとんどの人は「自分を卑下して否むこと」が霊的でへりくだっているかのように思っているのです。

私たちは往々にして「自分を卑下する人ほど謙虚だ」と考えますが、それは偽りのへりくだりにすぎません。自己否定はへりくだりと何の関係もありません。

宗教的な慣習や文脈を無視した聖書解釈により、人びとは自己否定こそがへりくだりであるという間違った考えを長い間信じこまされてきました。多分これからも真実は隠されつづけることでしょう。

私たちは自分を好きではないことを隠すために、物事を霊的にすり替えて扱うことがよくあります。この機能障害を霊的に見せるためによく用いられる聖書箇所は、ヨハネ3:30です。「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」ということばは、「人の称賛や励ましを決して受け取らない方法」として用いられてきました。「私ではありません。主がなさったのです。」ということばは、人との本当の交わりを避けるために昔から使われてきたのです。

実は私もその欺瞞にずっと騙されていた一人です。人びとから誉められると、「いやいや、そんなことはありませんよ。」と言って、それが謙虚な姿勢だと思っていました。

「自分が嫌いなので、愛のあるやりとりの中で私は居心地が悪かった」という事実に気がついていませんでした。主の御前にひざまずく時には、自分を卑下すればするほどもっと神からの顧みがあると思いました。自分を打ちのめすことは偉大な霊的行為だとさえ考えていたのです。

 

自分のこころを直視する勇気

 

私たちがへりくだりと呼んでいるものは、 実は自己嫌悪や自己否定のなす業であることを認める勇気を私たちは持っているでしょうか?

勿論、この問題を持ち出すと大きな反発が起こります。なぜならば、それは人の心の奥深くにある問題を直視させるからです。自分の中に「自己否定」があることを認めるためには、真にへりくだった心が必要です。例えば他人がその事を本人に示そうしても、ほとんどの場合うまく行きません。本人の自己防御の機能が狂ったように起動するからです。

私たちは皆、プライドと高慢でいっぱいの人物に出会った経験があると思います。その時の嫌な経験から、「自分は高慢になることだけは絶対に避けたい」と思いますが、それが自己否定という落とし穴に落ちる結果となることが多いのです。あなたがもし自分を嫌いであるならば、自分を打ちのめし、それが謙遜だと思っている人に惹き付けられる可能性があります。

 

自分の破れを隠す言葉

 

「偽りのへりくだり」は、自分自身を嫌っていることを他人に見破られるのを嫌います。ですから私たちは「自己否定や自己嫌悪」にいろいろな衣を着せて装う技に熟達します。教会の中では聖書のことばを文脈からはずして用いる人たちにその傾向があらわれます。

私たちは心の中で本当はこう思っているのです。「私は誉められると、それにどう対処すればよいかわかりません。あなたから愛を受けると私は気詰まりで居心地がよくありません。ですからそれを拒否しますが、それがあたかも霊的でよいことであるかのように聞こえるような言い方をします。」

有名な牧師がある人を称賛したとき、その人が「私ではありません。主です、主がされたのです。」と言ったときの牧師の応答はとても傑作です。牧師は「まあ、主がされたほどには良くなかったですよ。」と言ったのです。私たちは「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」とか「私の肉を殺さねばなりません。」と言いますが、それも又、自己卑下や自己否定を繕うことばとして用いられていることがしばしばあるのです。

 

真のへりくだりが持つ確信

 

ダビデはゴリアテがイスラエルを侮辱し神を侮っているのを見て怒ります。彼の兄たちは、自信がなく恐れていました。「兄たちの臆病」は「ダビデの確信」と真っ向から向き合わされたのです。兄たちは、自分たちの姿勢が当たり前であり、ダビデの確信は傲慢であると考えました。

ダビデが個人的に築きあげた神と信頼関係は、真のへりくだりをダビデの内に養いました。しかし彼の神への確信を、人は傲慢だと見たのでした。

ダビデの言葉を聞いて、長兄のエリアブの怒りは燃え上がりました。そして「いったいおまえはなぜやってきたのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。私には、おまえのうぬぼれと悪いこころがわかっている。戦いを見にやってきたのだろう。」(1サムエル17:28)と怒鳴りつけました。おわかりでしょうか?

自信のない人には、真にへりくだった人が傲慢に見えるのです。

真のへりくだりを持つ人は、自分のうちにおられる神に大いに確信を持つのです。彼らは神の命令に服従し、神と個人的に交わるプロセスを通して得た確信を堅持するのです。彼らは自分を否定したり憎んだりせずに、神が造ってくださった自分という人間に「はい。アーメンです。」と言うのです。彼らは神がうちに働いてくださることに感謝し、人から認められるために自分を誇示する必要を少しも感じません。しかしいざという時には、真にへりくだった者は確信をもって

問題に立ち向かうのです。

 

兄たちはダビデが高慢で悪い心があると叱責しました。しかしダビデは主にあって確信があったのです。ダビデの神にある確信と信仰は、兄たちの自信の無さや自己否定を露呈しました。兄たちは、ただ敵に降参して負けてしまいたかったのです。ダビデが神に信頼し、神がダビデを強くされたので、彼は敵の挑戦に立ち向かい、その結果彼は巨人を倒した者として永久に知られる者となりました。

 

私は素晴らしく造られている

 

ダビデは又、 「私は、素晴らしい神の創造物である」というダイナミックな啓示を受け取り感謝していました。ある日、ダビデは自分が神にどれほど素晴らしく造られているかに気付き、神の偉大さを更に認識したのです。

 

想像できますか? ダビデは自分自身を鏡で見て、その結果神のご性質を崇めずにはおられなかったのです。詩編139:14に次のように書かれています。

“I will praise you, for I am fearfully and wonderfully made;

marvelous are Your works, and that my soul knows very well”

 

私はあなたを誉め称えます。私は恐れ多く素晴らしく造られているからです。あなたの御わざは奇しく、私のたましいはそれをよく知っています。(訳者私訳)

 

彼は「私はあなたを誉め称えます」と言っています。どうしてでしょうか?

「それは私が恐れ多く素晴らしく造られているからです。ですから私はあなたという方に深い敬愛を捧げずにはおられません。」とダビデは言っているのです。どうかこのことをじっと考えてください。ダビデは自分自身の姿を見るとき、創造主をもっと理解し、もっと誉め称える思いになったのです。

私たちは神の似姿に造られました。ですから私たちが自分の姿を見ることによって、創造者の力と創造力を誉め称えるように神は意図されたのです。

あなたが自分の姿を見ることによって神の姿を更に知るようになったのはいつのことでしたか?

ほとんどの人にとって、それは不可能に思われます。なぜならば私たちは自己否定することに馴らされていて、自分を完全に受容していないからです。私たちは自分のいのちをどのように喜び祝ったらいいかわからないのです。それは人からそのようにされたことがないからです。私たちは人を高慢にさせるのを恐れるあまり、互いに誉め合うことをしないのです。

 

自己否定によって、私たちは 「神の素晴らしい創造物である『自分』を見て神の偉大さを知ることが出来る」ということなど、思いもよらないようにされてしまっているのです。私の回りにいる人たちは、「もし神が私を愛してくださるように自分自身を愛するならば、それは傲慢なのではないか」という恐れを抱いています。彼らは、自己否定は、実のところ「偽りのへりくだり」という衣を着た「霊的プライド」であることを理解していないのです。霊的プライドは神の愛と受容をはねつけます。自己否定は神が差し出す愛と美を拒否し、押し返して、自分が真の祝福に入るのを許しません。

 

ではどうすればよいのでしょうか。

1.自分を辱め卑下することを「へりくだり」と呼ぶことを止めねばならない

真のへりくだりは、自分という人間に現れている神の偉大さを理解するところから来ます。それによって、畏敬と服従と感謝が生まれます。私も、主によって造られた自分を感謝し喜ぶことを学びました。それは姿形や声に至るまで、私という人間のすべてにおいてです。今まで長い間、私はそのようには生きてきませんでした。

以前は、鏡の前に立つと身体の部分の嫌いなところを全部呪いました。鏡を見たり自分の写真を見るのがとても嫌でした。人から投げかけられたひどい言葉をずっと引きずり、いつも自分の難点や欠点にフォーカスしていました。

 

2.神が自分をこのように造ってくださったことや、神が自分の人生に与えてくださっているすべてのことを感謝して生きる自己否定から抜け出す道は、私にとって意識的変革のプロセスとなりました。ある日私は、神が人生に置いてくださった沢山の麗しいものを押し返してしまい、その結果、「人生がうまく行かないのはどうしてだろう」と思っていたことに気がつかされました。そして私は自分自身の「最悪の敵」ではなく、「ベストフレンド」になることを学び、これから一生、自分を受容していく決意をする必要がありました。

私は毎日、神が私を用いてくださることに感謝します。私を通して誰かが癒されたり、誰かに悟りが与えられたりする時、私は心から感謝します。何故でしょうか?私は神を見てこう言うのです。「あなたは本当に良いお方です!

私のうちで、又私を通して働いてくださってありがとうございます!

私の人生にあるあなたの愛と慈しみを心から感謝しています!」と。神が造ってくださった「この麗しい私」を、もし自分が拒絶するならば、偉大な神を心から感謝することは出来なかったのです。

自己否定は本質的に、「神に造られた自分を喜び、自分のアイデンティティーにわくわくしながら生きること」をさせません。反対に、「本来の自分を無視し、人から期待されていると思う姿やイメージを作り出す」ために多くの時間を費やしてしまうのです。しかし実際あなたが最も美しくパワフルになれるのは、あなた自身であることなのです。

自分という者を神の創造として愛し大切にするとき、私たちは創造主に称賛を与えているのです。美しい芸術作品を称賛するとき、人はそれを製作した芸術家の才能を称賛しているのです。自分が好きな絵画を見るとき、私は「まあ、なんと美しい画家でしょう!」とは言いません。絵を見ながら私は「なんて素敵な絵でしょう!」と言うのです。

絵の美しさを称賛するのは、即ち私がその画家を称賛していることです。私は画家の才能を認めて称賛しているのです。誰かがピカソの絵を見てその美しさを「これはすばらしい芸術品だ」と称賛するならば、その人は何を称賛しているのでしょうか?ピカソの絵でしょうか。違います。それを描いた人を称賛しているのです。

3.神があなたをパワフルにデザインしたことを喜ぶ

自己否定を打ち破るためには、自分を受容し喜ぶことを学ばねばなりません。それによって全能の創造主に栄誉と賛美を捧げることになるのです。私たちはお互いを喜ぶことを学ばねばなりません。それは神を喜ばせることであり、神の力に更に感謝を捧げることになるからです!

 

4. あなたに対する神の愛を拒絶するプライドとの契約を破棄する

あなたへの神の愛を拒絶するのは高慢であることを考えてみましょう。

私たちはへりくだって自己否定という高慢を取り去り、自分に対する愛がしっかりと根を下ろすようようにしなければならないと思います。ダビデを通して「私たちは恐れ多く素晴らしく造られている we are fearfully and wonderfully made」と神が言われるのであれば、その御ことばと同意することが私の辿るべき道です。

神は私を愛し、私が自分自身と平安を保つようにデザインしてくださいました。今私たちは、「憎むべき自分の敵」であることをやめて、「ベストフレンド」になることを学ぶべき時なのです。あなたは愛されるように造られ、愛することを愛し、神があなたを愛するように自分を愛するように造られているのです。(終り)

 

Mark DeJesus has served as an experienced communicator since the

1990s. As a teacher, author, coach and radio host, Mark is deeply

passionate about awakening hearts and equipping people towards

transformational living. His message involves getting to the core

hindrances that contribute to the breakdown of our relationships, our

health and our day-to-day peace. He is well-versed on struggles that

originate within our thoughts. Through his own personal

transformation, Mark is experienced in helping people overcome and

live fruitful lives. He is the author of five books and hundreds of

teachings. He hosts a weekly radio podcast show called “Transformed

You” and blogs at markdejesus.com. His writings have been featured on

sites like charismamag.com.

This article originally appeared at markdejesus.com


07 08月

翼の上のおもり   キャシー・ウオルターズ            2017年8月7日


翼の上のおもり

 

キャシー・ウオルターズ

 

聖書は、私たちにすべての重荷(重いもの)をおろすようにと教えています。ビル・ジョンソン師は「信仰は安息するところから来る」と言いました。これは今、とても重要なメッセージだと思います。あまりにも多くのクリスチャンが、未だに肉で奮闘し努力をしていますが、それは必要ではないのです。鷲は翼をばたばたとは動かしはしません。気流に乗って舞い上がるのです!

神はあなたが天の領域にまで舞い上がるようにと招いておられ、そしてそれは簡単なことなのです。

 

宗教的思考 religious mindsets な考え方は人に重圧を加え、宗教の霊は常に何らかの肉の努力奮闘を生み出すことが、もうお分かりになりましたか?

奮闘、努力、頑張りはあなたを御霊からすばやく逸れさすのです。 聖霊は何かを起こすために奮闘したり頑張ったりはしておられません。

実際のところ、神はあなたにご自分のために働いてほしいとは望んでおられないのです。そうではなく、私たちが神の御霊に自分を明け渡し、「どうか私を通してお働きください」とお委ねすることを望んでおられるのです。私たちは明け渡し、主が事をされるのです。あなたが明け渡し、あなたを通して神に働いていただくとき、すばらしことが起ります。ピリピ2:13に「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」とあります。

 

願いを起こすのも実現されるのも神

 

人の心を変えることや、 御名に栄光を帰す超自然的な事をする能力があるのは、ただ神お一人なのです。クリスチャンの上に密かにのしかかっている一番大きな重圧を、私は「偽りの責任感」と呼びます。「偽りの責任感」の持つ問題は、それが聞こえがよく道徳的でありうるということです。私たちは「良いと思って」してしまい、「自分が何者であり、何者ではないか」を忘れてしまうのです。

 

よいクリスチャン、よいミニストリーになろうとする努力をすると、自分にはする力がない事をしようとしてしまいます。私たちは誰かを変えたり、何かをさせたりすることは不可能であることを忘れるのです。もしあなたが

あたかも自分が聖霊であるかのように一生懸命になると、しくじります。それは、人の心を変え、真の解放を与えて魂を救うことができるのはただ神お一人だからです。神だけが超自然的奇蹟、しるし、不思議を行えるのです。

 

「偽りの責任感」を知る

 

過去の多くのリバイバルは「偽りの責任感」によって消滅したことをご存知でしょうか?エヴァン・ロバーツは、1904年にイギリスのウェールズ地方で起こった大リバイバルにおいて神に力強く用いられた若者でした。ウェールズの地は神の栄光で覆われました。酒場やバーは閉店し、多くのスポーツ競技もなくなりました。ロバーツたちは、神ご自身が望まれることを神にしていただき、自分たちは神の邪魔をしないようにしました。

 

神の訪れが町から町へと広がり、神の力がいたるところで顕されました。そして人びとは神と神の臨在に応答したのです。リバイバルが始まって9ヶ月が過ぎたころ、幾つかの町で重い空気が漂い始めましたが、ロバーツのパワフルな油注ぎは持続されていました。

 

しかし、やがてロバーツは神経衰弱になり、人びとの上に大きな重圧をかけるようになってしまいました。お分かりでしょうか、私たちは自分の力で誰かを主に応答させることなど出来ないのです。人に何かを強制的にさせることは出来ません。しかしロバーツは(もちろんよいと思ってしたのだと思いますが)

群衆が自分が望んだように福音に応答しないとき、腹を立てるようになったのです。「彼らは御霊を消している!」と言って会場を去ったり、集会を中止したり、人びとを叱責するようになりました。

でも皆さん、ロバーツは聖霊ではなかったのです。人びとがどのように神に応答するかは、彼の責任ではなかったのです。それは聖霊の仕事でした。

 

ミニストリーをしている人達が、自分が聖霊になろうとすると、ノイローゼや神経衰弱になることがあります。偽りの責任感が働くときには真の自由はありません。それはその人の肉が働くからです。神にしか出来ないことを頑張って努力するならば、あらゆるストレスをあなたは持つ事になるでしょう。

 

あなたの責任は、神から言われたことをするだけです。人びとがそれをどのように受け取り応答するかは、あなたの責任ではありません。もしそうだとすれば、それはとてつもない責任であり、ひどい重圧となります。それはあなたの身体にも影響を与えます。もし誰かのために神からある言葉を受けたならば、それを告げるのはあなたの責任ですが、その人が何をしてどう応答するかは、その人と神との間のことです。

 

聖霊に導かれることが私たちの責任

 

多くの教会では「人びとの必要を満たすこと」が大切だと教えます。良いクリスチャンならばそうするのが当然といえるかもしれません。しかしイエスがエルサレムやベタニヤ、ガリラヤの町を走り回ったのは、人びとの必要を満たすためではなかった、と言ったら、あなた驚かれますか?

実際のところイエスは次の3つのことをしただけです。

1.御父が「せよ」と言われたことをした

2.御父が「言え」と言われたことを言った

3.御父が「行け」という所に行った

以上です!

ヨハネ11章のラザロの話はこのよい例です。ラザロはイエスの良き友でしたが、ある日彼が死にそうだからベタニヤに来てほしいという知らせが入りました。イエスは度々ラザロの家に泊まったりしたようであり、親しい友人でした。ですからラザロが瀕死の状態であるというのは、重大なことだと言わねばなりません。そう思いませんか?

ラザロが風邪を引いたとかではなくて、死にそうだというのですから。

もし私やあなたがそのような知らせを受けるならば、すぐさま出来るだけ早く走るらくだに乗って行くことでしょう。人びとの必要を満たし、助けるようにと教えられてきたのですから。でもイエスはすぐにはラザロの必要に応答されませんでしたね。主は2日間もその所に留まられたのです。誰かが死にそうな時の2日間というのは、とても長い時間です。

ベタニヤに行くには2日を要しましたから、4日後にイエスが到着した時には、ラザロはすでに死んでいました。人びとが集まっていてイエスを迎えました。彼らは「主よ、もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(ヨハネ11:21)と言いました。

この言葉には「責め」が含まれたていたと私は思います。イエスはそこで宗教論争はせずに、墓に行きラザロにむかって叫ばれました。

「ラザロよ。出て来なさい。」とイエスは叫ばれました。するとラザロが墓の中から出て来たのです。イエスがラザロという名を言わなかったならば、すべての死人が生き返ってベタニヤは大混乱したことでしょう。

ラザロを墓から呼び出す前に、イエスが何を言われたかご存知でしょうか?

主は「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」(ヨハネ11:40)と言われました。私たちのミニストリーの目的は神が栄光を受けることです。神の栄光は、私たちがするわざの上には決して顕れません。栄光は神がされることの上に顕れるのです。これが即ち

「私たちが神のために働くのではなく、神ご自身が私たちを通して働けるように自分を神に明け渡すこと」によって起こることです。それがピリピ2:13に書いてある「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」の意味です。

 

あなたの重荷を振り落としてください。それは重苦しく、あなたの喜びを盗むものです。あなたが努力奮闘するように仕向けるものです。私は世界中のミニストリーを沢山知っていますが、一つのことを申し上げることができます。私が知っている霊の領域で最もシャープな(鋭い)人たちは、最も軽々としています。重圧 weights =「思い責任を持つこと」はあなたも他の誰をも助けません。(自分で重い責任を感じてする)重圧はあなたを宗教の領域に閉じ込めるだけです。

ビル・ジョンソン師は、私のメッセージに加えて、こう言われます。「平安は私たちの心と思いを守るものです。不安や恐れは私たちのこころに根を下ろそうとしますが、私たちが平安を守るならば、その平安は私たちの信仰を守ることができます。そして信仰は奮闘努力によっては決してもたらされません。信仰は安息と服従からくるのです。」

常に平安と安息と信仰から働いてください。ヘブル4:10に「神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」とあります。私たちは、わざではなく信仰によって神の平安に入るのです。

神こそが人の心を変え、 御名に栄光を与える超自然的なわざをされる力を持つ方なのです。(終り)