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Walk With God Ministries

21 8月

神の通訳者     ショーン・ボルツ                 2017年8月21日


神の通訳者

 

ショーン・ボルツ(ボルツ・ミニストリーズ)

 

私は「Translating God(神を翻訳する)」という本を2015年に出版しました。何か外国語を翻訳や通訳するときは、ただ言葉の意味をそのまま訳すだけではなく、その言語の背後にある精神とカルチャー(文化生活様式)を理解し、それが聞く人に伝わるように訳す必要があります。それと同じように神の言葉(預言)を聞いた時は、その言葉に含まれる天国のカルチャーを正しく理解し、人に伝えねばなりません。

 

神は今の時代に生きる私たちに親しく語りかけたいと願っておられます。そして今まで教会で不当な扱いを受け覆い隠されていたものを現し、それによって私たちにもっと自由を与え、新しいレベルに引き上げたいと神は願っておられるのです。それは即ち「知識のことば」と「知恵のことば」で、神はこの二つを預言のムーブメントの中に今、回復しようとしておられます。

 

「知識のことば」は、1コリント12章にある御霊の賜物の一つです。その働きは、ある人の過去や現在に関する情報を神から得ることによって、その人を神の愛の中に招き入れることです。もしあなたがレストランにいるとき、神が突然そのウエイトレスの誕生日を教えられたとします。それは「知識のことば」です。誕生日は子どもでも70歳の人でもとても大切なものです。もし誰かがあなたの誕生日や生まれた場所を知っていたならば、「どうして知っているのか?」と驚くことでしょう。一人ひとりユニークに造られていることをみんなでお祝いする日ですから、いつ生まれたのかは大切です。神は私たちに関するすべてを愛しておられるので、私たちの人生のすべての情報は神のこころの中に入っているのです。

 

神がその人の誕生日を知っていたということで、その人は神に心を開きます。そして神が自分のすべてを知り、愛しておられることを知ることによって、神からのことばに心を開きます。このような「知識のことば」を用いるミニストリーは今まで失われていました。しかし、イエスは何度もそれを実行されましたし、弟子たちやパウロも何度もこの賜物を用いました。それなのに、現代のキリスト教では用いられておりません。実際のところ、それは魔術だとか心霊術だとか言われるのです。今まで私が知識のことばを用いた時、他のクリスチャンからどれほど非難されたか数えきれません。前もってその人のことを調べたのだろうとか、カルトではないかと言われるのです。

 

 次に「知恵のことば」は、あなたがすでに持っている神からの預言や啓示をどのように扱えばよいのかを教える神からのことばです。あなたの人生に預言が与えられたならば、その預言に関して実際どのように行動して行けばよいのかを具体的に神から聞く必要があるからです。

私たちは同じ事を何度も複数の人から預言されることがあります。私もある事に関する預言をいくつも受けて「もう結構です、十分です!」と叫びたい時がありました。預言のことばを受けても、それを実際にどう成就して行けばよいのか全くわかりませんでした。「神様、知恵をください。」と私は祈りました。ヤコブは知恵の無いものは神に願えば豊かに与えられると言っています。

 

「知識のことば」と「知恵のことば」がキリストのからだに現在欠けている要素です。あなたは「でも私は預言的ではありません。」というかもしれません。しかしヨハネ10章には「わたしの羊はわたしの声を聞く」とあります。あなたが救われているのなら、あなたは預言的なのです。なぜならばあなたは主の声を聞いたから、あなたのうちで何かを聞いたから救われたのです。

 

ある人が教会にやってきて「これは皆さんすべての人のためです。」とか「すべての人ができます」とか言いますが、そんなことはありません。

祈ってもらって倒れる人もありますし、倒れない人もあります。私は2度ほどお義理で倒れたことがあるだけで、本当に倒れたことはありません。みな一人ひとりユニークなのです。ユニークなアイデンティティーを持っていますから、自分に合わない型やモデルもある、それでいいのです。

 しかし、すべての人は預言的です。それは他の預言的な人の型にははまらないかもしれません。私は現代の預言者を何人かそばで見ながら成長したので、彼らの真似をしてみましたが、彼らの型は全く私には合っていませんでした。

神を知るに従って、私たちは自分を知るようになり、自分自身を受け入れ自分に合った方法で出来るようになります。でもすべての人に共通しているのは「主の羊は主の声を聞く」ということです。ヨハネ16章でイエスは、聖霊がやがてこられ、御父のこころから出ることを告げる、と言われました。聖霊は例外なく、すべてのクリスチャンに御父の思いを告げてくださいます。

 

長年の間、私は大富豪や有名な俳優、プロデューサー、ディレクター、また極貧にある人や癩病人と話す機会がありました。15分か20分も話すと、誰の人生でも神がすでにその人に語られたことがあるのが分かってきます。

神は私たちの人生を通して私たちを追い求めておられ、私たちが神の慈しみの中で生きることを望んでおられます。

ある教会では、もし預言者がそこにいるならばその人だけが神から聞けるのだ、というように考え勝ちです。私はカンサスシティーの教会に1993年から2005年まで行っていました。最初の2年間は、教会に複数の預言者がいたので、他の人が預言をすることは推奨されていませんでした。

ある時、預言者の一人が3ヶ月留守をするので、彼の受け持ちの祈り会を私が担当するようにと頼まれました。私が19歳のときでした。私は「このグループではいつも皆さんはどのようにしていたのですか?」と尋ねると、「まずリーダーである預言者が啓示を語ってくれて、その後で私たちは彼のミニストリーのために祈りました。」ということでした。

預言者のために祈るのは悪いことではありませんが、 みんなの人生とはあまり直接関係はないように思えます。彼らは20年間、このようにしていたのというのです。

私は「皆さん、わかりました。じゃ、壁にむかって立ってください。そして『自分には権威がある』と感じるまで『ジーザス、ジーザス』と言い続けてください。」と言いました。彼らは「一体どういうことでしょうか?」と聞きました。私は次のように説明しました。「私は皆さんが、自分が持つ権威をまだ感じていないように思います。ですから神というお方を教えてくださる聖霊とあなたがコネクトして、自分の神にある権威を確信するようになってほしいのです。あなたがパワフルになり、『イエスは私が願うことをしてくださる』という確信を得るのです。

あなたは力を得て、他の人から力を貰うのを待つ必要はなくなります。あなたはうちに力を持っているのです。

1ヨハネ2:20に、『あなたがたには聖なる方からの油注ぎがあるので、だれでも知識を持っています。』とあります。他の人から教えを受ける時もあるかもしれませんが、それが一番のライフラインではありません。神が私たちのライフラインです。」

 

そこで、彼らは皆、壁に向かって立ち「ジーザス、ジーザス」と言い始めました。だんだん私も聖なる畏れを感じ始めました。これらの成熟したクリスチャンが自分の権威を認識し始め、すべてが変わり始めました。彼らは自分で神に聞くことを許されたのです。それはただイエスの名を呼ぶ事によって起こりました。

 

カリズマや使徒的ムーブメントの中で、何かが変っていってしまったように感じます。それは、周りで起こっていることがとても素晴らしく興奮するようなことなので、私たちがもうそれを見るだけで満足してしまうということです。しかし、私たちは本来、自分を通して神がされることに感激し興奮するべきなのであり、周りで起こることは「おまけ、ボーナス」だと考えるべきです。今、教会に霊的倦怠、霊的鬱が蔓延しているように私は感じるのですが、それは自分自身の内におられる神がどのようなお方であるかを、私たちが認識していないからだだと思います。

私たちは人びとに預言する以前に、まず神がその人に持っている御心を知り、それを同じ心を持たねばなりません。ですから一人ひとりが神の御こころを聞く訓練をしなければなりません。そうすれば神をもっと尊ぶようになり、それと同時にあなたも神にとって尊いもの、価値のある者であることがわかります。あなたは最早「神よ、私は無価値なものです!」と叫ぶ必要はなくなります。あなたは価値あるものです。祭壇の前で、「私は罪人です。あなたは私を愛してはおられません。罪が私をあなたから引き離しました。」と言う必要はもうないのです。あなたがどういう者であって何をしてきたかに関係なく、神と私たちを結びつけてくださるイエスという方がおられるからです。

 

その土台からスタートするならば、それは傲慢でも、自己陶酔でもありません。それは実に健全な自己表現であり、残念ながら現代のキリスト教で失われているものです。なぜならば「神を愛するためには私たちは自己を否み、自己に死ぬ必要がある」と教えられてきたからです。しかし私たちが殺さねばならないのは肉の罪の業です。私たちはずっと「神を愛するには自分を憎まねばならない」という二元論のようなものを教えられてきました。しかし実は私たちは神を愛するためには自分自身を愛さねばならないのです。

主の戒めも「あなたの隣り人を愛せよ」ではなく、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」です。ですから自分を受容し、自分を愛し、イエスによって力を受けることがなければなりません。

そして預言は愛という枠の外では機能しないのです。ある時、私はある有名な牧師の教会に行きました。彼のメッセージはすばらしかったのですが、途中である女性のポップスターの非難を始めました。そのスターは世の中に非常に悪い影響を与えていると言って、びっくりするような口調、言葉で非難したのです。でも私は、彼女が前の晩に私の友人のクリスチャンと出会い、「これから神を求めて行きたい」とその友人に語ったと聞いたばかりでした。この有名な牧師の言葉はきっと多くの人に影響を与え、人びとのうちにポップスターに対する憎しみを起こしてしまうでしょう。私は悲しみで打ちのめされました。

 

その時、 神が私に「あなたが愛さないものに対して、あなたは決して権威を持つことはできない」と語られました。その牧師はポップスターを愛してはいませんでした。彼の言葉によって、彼女はもう多くの人の心の中で「近づいてはならない人」として分類されてしまったのです。私はこのことから多くのことを学びました。この牧師は彼女を愛していなかったので「宗教的不寛容さ」をむき出しにしてしまったのです。預言とか御霊の賜物は、愛がなければその権威を持つことはできません。今教会に権威が欠如しているのは、愛が欠乏しているからだと思います。

 

私たちが愛で心を開くならば、神は私たちに権威を与えないわけにはいかないのです。1コリント14:1でパウロは、本当に預言的になるためには、命がけで愛を追い求めなさい、そして預言を熱心に求めなさい、と言っています。どうして神の愛を追い求めて、そして預言を熱心に求めるのでしょうか?

それは、預言とは「神の御国、神の愛、神の御心」を、ここで今(here and

now)ある一人の人に現すことだからです。神は遍在される方ですが、今ここに預言を通してご自分を現してくださるのは、神の最大の贈り物の一つです。

 

神は時間と空間の中にいる方ではありません。ですから「今ここに」という私たちの時間と空間の中に現れてくださるのは、神が時間を割いて私たちを尊重してくださるということです。時間というものは、何よりも尊いものです。それはお金より、他の何よりも尊いものです。私たちの人生は一回だけで、そこに栄光の王、王の王、すべての名にまさる神が顕在し、私たちに出会ってくださるということは、本当にすばらしいことです。それはただの聖書の情報ではありません。神がことばと霊をもって現れてくださるのです。その出来事は永遠にその人の一部となるでしょう。現代のキリスト教はこの部分をずっと失っていたのです。

 

神ご自身が語られるので、その人は素早く変革されます。カウンセリング、心理学、精神学、量子論など、いろいろなものは人の人生を変えます。研究が進み、以前にはなかった新しい技術や方法が今私たちのために用意されています。私もそれは素晴らしいことだと思いますし、神は油を注がれていると思います。しかし、これらのものは、神との一度の出会いに代われるものではありません。あなたは神の友となるように召されているのであり、それによってあなたの周りの世界に神との出会いをもたらすことが出来るのです。あなたは神のこころを周りの世界に通訳するように召されています。そして人びとの複雑な人生の問題に神の愛のシンプルな解答を与えることができるのです。(終り)


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