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Walk With God Ministries


29 10月

人生をシンプルに生きる       坂  達 也         2013年10月29日


人生をシンプルに生きる

 

坂  達 也

 

シンプル・ライフと言う言葉がありますが、私は新しい年に向かって(ヘブル暦では既に入っています)この言葉を改めて私の生活目標にしたいと思っております。それは毎日をシンプルに主の御心に適った生活をしたいと言う願いからです。この目標はずっと前からのものですが、残念ながら未だ完全には実行出来ておりません。

シンプル・ライフとは何かと言えば、クリスチャンなら誰でもよく知っているマルタとマリヤのお話しに例えるのがこの際一番適当であるように思います。いつも主の御心を知って生きる、―主の御心の中に住む abide in Him ―ためには、マリヤのように常に主の傍にいる以上のよい方法はないように思えるからです。ところが実際には。自分はマリヤを目標にして来たつもりが、やはり、マルタ的に生きてしまっていることに相も変わらず気が付かされております。しかし、そんな自分がマリヤに徹して生きることをもう一度初心に返って試みたい、そのためのカイロスの時を主が具えて下さっておられるという思いを今強く感じています。

 

主は忙しく仕えるマルタに言われました「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10:41-42)

私は今までややもすれば多くのことを欲張って「し過ぎる」傾向が自分にはあることは前から知っておりました。勿論私の意図はマルタと同じで、すべて「主のために」出来るだけ多くの事をしたいと言う願いから出ているのでしょう。であるとすれば、それはみな「良いこと」であると言えます。皆さんの中にも、主のために「もっと何かをしなければ」といつも願っている方が多くおられるのではないでしょうか。しかしその思いがなかなか実現しないのは、もしかして、主がそうさせないようにしておられるからかもしれません。

 

御存知のように、主はそれぞれのクリスチャンにそれぞれに必要な訓練を、シーズンを決めて与えられます。私の場合は、最近、と言うより今年に入ってから「多くのことをすることが、必ずしも主のために生きることではない。むしろ、主が言われた、私にとっては少な過ぎると思える程のことだけを忠実に行なう」と言う訓練の中に私を置かれていることがやっと最近分りました。

 

ヨハネ15:1、2に「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」と書かれています。

ここで注目したいことは、天の父は実を結ばないものを取り除かれるだけでなく、「実を結ぶもの」すなわち「良い枝」の中からも多くの枝を剪定して取り除かれると言われることです。(口語訳では「手入れをしてきれいにされる」と訳しています。)これはどう言うことなのでしょうか。

私はぶどうの木のことはあまりよく知りませんが、多くの果樹では、たとえよい枝であっても多くの枝を取り除けば、選んで残した数少ない良い枝に特別大きくて、美味しい果実が実ることを知っております。もしそれをしなければ、小さくてあまり美味しくない果実が数多くは出来ても、本当によいものは実りません。特に日本の果物の栽培ではそうすることがよく知られています。

主がよい枝であるにもかかわらず、その多くを剪定されるのは、それら多くの「良いこと」が主からのものではなく、自分で考えた「良いこと」であるからではないでしょうか。

 

天の父は、私たちが父からいただいた賜物を十二分に使ってよい実をならすことを期待しておられますが、その実の数はそれ程多くはないように思います。主は、能力的にも時間的にも私たちが出来る範囲と言うものを私たち以上によく御存知ですから、私たちが多くのことをし過ぎないように、私たちがしたいと思うこと(枝)の多くを、切り捨てておられることに私は気が付きました。それと私が学んで来たことは、マルタのように、何でも「自分がやらなければ」と気負わないことです。そして主から言われたことだけをする、これが主に忠実なしもべであって、自分で主をさしおいて、勝手にあれもこれもと心を煩わせないことです。それは即ち、主を完全に信頼していない、すべてを委ねていないことをあらわしているようなものであるからです。

 

そこで私について申し上げれば、今年は主が私たち夫婦を日本の教会を訪れるミニストリーに遣わせない御計画であることがやっと最近はっきりして来ました。これは今までの17年間毎年少なくとも一度は訪ねて来た日本旅行ですから、私たちのミニストリーの最も重要なものであると信じて来ただけに、私自身驚いています。しかし主は、去年からの私たち夫婦の最重要ミッションはニューヨークに来ることであることを何度も念を押されました。

ニューヨークで主に仕えることとは、先ず家内が孫の面倒をみること、私がそれを助けることです。そして家族、特に息子夫婦を霊的に励ますことでした。それ以外のミニストリーとしては、WWGMのインターネット・ミニストリーに、今は時間的に参与出来ない家内に代わって私が今まで以上に専念すること、それに加えて、マンハッタンの街を祈って歩くことです。これだけで確かに私たち夫婦は、時間的にも体力的にも充分に忙しく、これ以上は出来ない限界に来ていることを主は色々な形で示して下さっております。

 

主は、私たちが出来ないような用事を決して命じられないと思います。むしろ、余裕をあり過ぎるぐらい与えて―それは祈りの時間を充分に取ることを考慮されておられるからと思いますが―主に忠実にしかも丁寧に愛と誠意を持って、決して急がずに出来るだけの仕事量を「これをしなさい」とおっしゃって与える主であると信じます。

 

最後に、御心を行なうことについて主が何と言われているかを見たいと思います。黙示録3:20に「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」と主はおっしゃいました。

終わりの時、特にこれからは今まで以上に主は私たちに声を掛けられることがこの聖句から窺われます。ここで主が言われる「食事」とは何を意味するのでしょうか。それについて主は「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」(ヨハネ 4:34新共同訳)と言われました。

主は私たちに主の御計画と御心を行なわせるために、私たちに声を掛けられます。そしてそれに応えて戸を開ける人には、主がその人の中に入って来られ「その人と共に食事をし、その人もわたしと共に食事をする」と言われたのです。

食事(食物)とは「父の御心を行い、その業をなし遂げる」ことであるなら、食事を共にする時、話をしない人はいないと思いますから、主イエスは「父の御心」について私たちに語られ、又私たちもそれをどのように遂行するかを主に聞いて、よくコミュニケーションをすることが絶対に必要です。

そして「わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし」と言うことは「主が私たちを使って主の目的を果たす」と言う意味であると思いますが、なさる(食事をする)のはあくまで主であり、しかし主は、主のしもべである私たちを使って主の目的を果たされるのです。一方「彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」は、私たちが主の御心をよく知った上で、実際に行動する(食事をする)のは私たちであることを意味していると思います。つまり主も私たちも同じように「共に食事をする」、即ち「父の御心を行なう」という共通の目的を持つ切っても切れない間柄である(一体である)ことを強調していると解釈したいと思います。

 

ヨハネは「あなたがたがわたし(主)におり、わたしがあなたがたにいる」と言うテーマを繰り返し述べております(ヨハネ14:20、15:4.5等)が、上記の「わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」の御言葉も全く同じ線でキリストと私たち花嫁の親密な一体の関係を強調しております。(終り)


20 10月

四つの風と三本の柱(その3) リック・ジョイナー          2013年10月20日


四つの風と三本の柱(その3)

   -モーニングスター・ハーベスト・カンファレンス 9月29日

     日曜礼拝でのメッセージ -

リック・ジョイナー

 

イエスは祈られました。「わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」(ヨハネ17:26)【新共同訳】

すなわち、父がイエスを愛しておられるその愛が私たちの中にあるように、そしてそれはイエスが私たちの中にいつもいるためにである、と祈られたのです。

ですから私は「父よ、あなたが御子イエスに対して持っておられるのと同じ愛を私にも下さいますように。」と毎日祈っています。前にも言いましたように、イエスの祈りは100%聞かれます。そうであれば私たちが同じことを父に祈れば聞かれるはずです。パウロが、2コリント5:14,15に書いているように、彼はイエスの愛が私たちの行動のすべてを支配する(駆り立てる)ようになることを祈ったのです。彼のその祈りが本当に実現したら、私たちの人生はどんなにすばらしいものに変えられるでしょうか。私たちのするすべてのことの動機が、私たちが唯々キリストを愛するゆえであると言う生き方、それ程に私たちのキリスに対する愛が大きくならねばならないのです。それは御父の御子に対する愛に匹敵する位に大きな愛です。そして私たちがそうなれるように私たちが祈れば、聞かれると信じます。

 

ヨハネは「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。」(1ヨハネ 5:14)【新共同訳】と書いていますが、私は、イエスの祈りは間違いなく父の御心に適ったものであり、そうであるなら、私たちは、このヨハネ17章でイエスが祈られた信じられないような(すばらしく、重要な)祈りが成就することを祈るべきであると確信します。お互いに愛し合って、父とイエスの間にある一致と同じ一致をもって私たちも歩むべきではないでしょうか。私たちがその域に達する唯一の方法は、御父が御子を愛するのと同じ「父の愛」で―それは人間的感情からではありません―私たちがイエスを愛することであると思います。

 

そしてイエスは「わたしは、あなた(父)がわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも(わたしたち父と子と)一つであるためです。」と祈りました。(ヨハネ17:22)

上記で言う「栄光」とは「わたしたちが一つである」と言う父と子の関係を指しています。しかしイエスがその栄光の関係に私たちを加えるために、自ら十字架に付いて下さった結果として、私たちがその栄光に与れるようになったことを意味します。そうであれば、それは私たちも十字架に付き苦しみの中を通ることを意味します。ですから、もし私たちが、御父の御子に対する愛をもって何事も行なおうとするならば、たとえ他人がどれ程あなたを攻撃し傷つけようと、私たちはその人に対して攻撃し返すことはしないはずです。なぜなら、クリスチャニテイーの基本は「赦す」ことにあるからです。

 

私たちクリスチャンは(大祭司イエスと共にある)祭司です。祭司はかさぶたを持つことが禁じられています。(かさぶたとは完全に癒されいない傷口に出来るものです。)つまり、あなたが他人から攻撃されて傷つき、それが癒されていないのであれば、祭司として失格です。その人を完全に赦していなければ傷は癒されません。ここで気を付けねばならないことは、多くの人は自分を傷つけた人を赦すとは言っても、主がその人を罰する、あるいは仕返しをしてくれることを内心望んでいることです。しかし、イエスは御自分が赦すだけでなく、御父に「その人を赦してください。なぜなら、その人は自分が何をしているのか分かっていないからです。」と祈られたことを忘れないで下さい。

 

あなたのベスト・フレンドと言う人たちがいて、その人たちは、3年半もあなたと共同生活し、あなたに心から尽くして来ました。ところが状況が一変すると、その翌日に、あなたの友人たちは人に尋問された時、皆あなたを知らないと言って逃げてしまい、あなたを裏切ったとします。もしあなたが事前にそうなることを知っていたとしたら、あなた方のうちの何人が、その前の夜にその友人たちの足を洗い、もう一度だけ最後の夕食を共にしたいと心から願うでしょうか。イエスが一番いて欲しい時に、弟子たちはイエスを裏切って逃げてしまったのです。これ程の屈辱を受けたにもかかわらず、イエスは愛をもって弟子たちを赦しました。

 

パウロは、人の行為で自分が傷つく時こそ、真の権威を得るためのよい機会であると言いました。パウロは自分の使徒としての権威が問われた時、使徒として行動した彼の働きには触れずに、彼が負った数々の傷と受けた災難のことに触れました。鞭で打たれ、石で打たれたこと、あるいは難破した時のことを指摘しました。(2コリント11:23-27)彼が受けたそれらの災難と傷が彼の権威を築く機会となったのです。なぜかと言えば、自分の受けた苦難が真の霊的権威の基礎だからです。

しかし、受けた傷は完全に癒されなければなりません。罪を犯したこともないキリストは、ののしられてもののしり返さず、自分の十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。そして「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」

 

イエスは傷を負ったところで私たちに対する癒しの権威を持たれました。そのことは私たちにも当てはめられます。あなたが傷を負った場所で、あなたはそのことに対して権威を受け取ることが出来ます。他の人があなたと同じところに傷を負った時に、あなたはあなたの得た権威でそれを癒すことが出来るのです。

ですから主ご自身は私たちを傷つけることはなさいませんが、他人によって私たちが傷つけられることを許されるのです。人に傷つけられることを自分の権威の範囲を広げる最もよい機会であると理解して下さい。そうすることによって、次に傷つけられた時に「これを機会に私が霊的に次のレベルに引き上げられるようにして下さい」と祈れるのです。そのために主は誰でも、あなたのベスト・フレンドをすら用いて私たちを引き上げてくださいます。弟子がイエスを置き去りにして逃げましたが、後には彼らとイエスとの関係は前よりよくなりました。

ペテロはその後も大きな間違いを犯し続けましたが、主は私に「義人は七回転んでも起き上がる。あなたが七回転ぶことに対して、わたしは、それを悲しむ以上に、あなたが又起き上がって戦い続けることへの喜びの方がより大きい」と言われました。

どんな大きな間違いを犯しても(ペテロのように)信仰を持ち続けて下さい。皆さんはトッド・ベントレイー(師)が今は前よりもっと大きな奇跡を起こしていることをご存知です。彼は転んでも、転んだままではいませんでした。彼は起き上がりミニストリーを続けました。勿論、彼が又転ばないと言う保証はありません。しかし義人は七回転んでも起き上がり続けるのです。

もし誰かが転んだ時に、私たちがその転んだ人を足で蹴る代わりに、お互いが助け合うとしたら、何が起こると思いますか。ですから、あなたが会う試練を決して無駄にしないで下さい。あなたに与えられる機会を無駄にしないで下さい。

 

主よ、最後にお願いします。ここに朝早く起きて来られた、あなたに飢え渇いている人々が、今これから光と闇の戦いの最前線に帰ろうとしております。どうぞ主よ、主の力ある武器と油注がれた真理によって、この人たちが人間的なマインドをではなく、人々の心に触れることが出来るようにお祈りします。主よ、あなたのすばらしい愛と言う最もパワフルな武器、それは決して失敗に終わるとか未遂に終わることはありません。どうか今週、私たちがあなたの愛を増し加える機会を逃すことがないように助けて下さい。又、自分の十字架をかつぐことによってそれを見た人が永遠の命を受け取る機会を逸することがないように助けて下さい。

主よ、私たちは今こそ、内にいて助けて下さる聖霊を必要としています。どうぞ助けて下さい。イエスの御名でお祈りします。アーメン (終り)


16 10月

四つの風と三本の柱(その2)  リック・ジョイナー 2013年10月16日


四つの風と三本の柱(その2)

   -モーニングスター・ハーベスト・カンファレンス 9月29日

     日曜礼拝でのメッセージ -

 

リック・ジョイナー        

 

歴史家はペテロ、パウロ、ヨハネの三人を称してクリスチャン教会の三本の柱( あるいは柱石)pillarと呼んでいます。ペテロは主から天の御国のかぎを与えられました。私はそのペテロは御国のかぎを使って御国における色々なドアを開けた中心人物であったと信じます。そして、その後にパウロが現われました。私はパウロがキリスト教を確立するための最も卓越した力の変革者であったと思います。しかし彼らが去った後に、最後の言葉を残したのはヨハネでした。

教会の歴史を振り返って見ますと、ペテロは支配的な立役者として多大の影響を与えました。ペテロはエバンジェリストでした。彼は信じられないような信仰の行為を実践した結果、信じられないような功績を挙げたのです。その例の一つは、最後には溺れそうになって助けられましたが、彼は水の上を歩こうとして舟を離れ、数歩でも歩いたのです。勿論彼は数々の大きな間違いをしましたが、間違いを恐れず、それは大きな成長・進展につながったのでした。主は「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」と彼を誉めました。(マタイ16:17)そして、彼に天の御国のかぎを与えました。(16:19)しかしその5分後に、いや、2分後かもしれませんが、主から「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。」(16:23)と叱責されました。彼は天の父から直接に啓示を受けた(16:17)その直後に、地獄(サタン)からも直接の啓示を受けたのです。(16:22,23)私たちも、重大で大きな預言を主からいただくような時には、直ぐその後に敵の攻撃が来ることを学びました。

私たちも気を付けねばなりません。と言うのは、そのような時にしばしばプライドが持ち上がるからからです。御国のかぎを与えられたペテロもそうでした。主が十字架に着く前の夜、イエスが弟子たちに「今夜あなたたちは皆つまずいてわたしを否む」と言われたのに対して、ペテロは「あなたは間違っている、たとえ他の皆がそうするとしても私だけは絶対にそうしない」とイエスに口答えをしたのです。考えてもみてください。相手が他ならぬ神である御子イエスに対して、「あなたは間違っている」と言い返したのです。余程のプライドが無い限り神に対してあなたは間違っているとは言わないでしょう。そして彼はイエスから「あなたは今夜三度わたしを知らないと言う」と言われました。

又、ペテロは弟子の中でも最も勇気のある者の一人でした。彼はイエスを捕らえようとしてローマ軍一隊の兵士、当時の一隊とは800人ですが、それだけの兵士に立ち向かって剣を抜き、兵士と共に来ていた大祭司のしもべの一人の耳を切り落としたのです。しかし彼はその勇気の力がどこから来ているのかを気が付きませんでした。それが証拠に、朝が来る前に捕らえられたイエスを前にして、イエスの弟子であると咎められた時、イエスを知らないと打ち消しました。これから見てペテロ自身が本当の勇気を持っていなかったことが分かります。

 

私たちクリスチャンはしばらくクリスチャン生活をしていると、宗教的になり独善的self righteousに陥る傾向を誰でも持っています。それは大変危険なことであり、自分へのプライドを持つことには本当に気をつけなければなりません。又、私たちは宗教的な決まり文句をさえ言えば神のめぐみ graceに与れると安易に考えてはならないのです。私たちが本当に神のめぐみに与りたい、あわれみ mercyに与りたいと願うならば、機会がある毎に、先ず自らがへりくだって、他人にめぐみとあわれみを与えると言う種まきをすべきです。イエスを見て下さい。彼は罪人に対してはあらゆる種類の忍耐と許容力を持っていましたが、自分は正しいと高ぶる独善的 self righteousな宗教的リーダーに対しては全く許容範囲を持ちませんでした。

 

キリスト教が広まった最初の1200年を見てみますと、そこにはペテロの功績が目立っています。信じられないほどのペテロの業績、しかしその後に「下がれ。サタンよ」が来るのです。この悪霊の仕業はどこから来たのでしょうか。それは教会が宗教化して堕落した結果であることは明らかです。ですからその後に現われたマーティン・ルーサーとかカルビンによる宗教改革は、ちょうどパウロがペテロを叱責したことの再来であると言えると私には思えます。マーティン・ルーサー等の改革者がしたことは歴史上最も偉大な征服者が行なった改革以上の大きな変革をクリスチャンの世界に起こしたのでした。神学的調査によれば、宗教改革以降においてクリスチャンが書いた書物で引用された聖書箇所の95%がパウロの手紙からであると言われております。そして今の時代はどうかと言えば、今以上にパウロの深遠な神学が必要とされる時は他になかったと思います。現在のキリスト教界は、多くの全く怪しげな神学とかクレイジーとしか言えないような教義が大っぴらに横行している時代です。今こそパウロが聖書の中で綿密に解き明かした新しい契約、新約聖書の正しい教義が必要とされる時です。

しかし、ヨハネの言葉が最後にものを言う時が来ます。私たちは今もう一つの大きな(神学的)境界設定がなされる時点に近づきつつあると信じます。ヨハネのミニストリーこそ最後に最も必要でかつ重要なミニストリーであり、又メッセージであると思います。しかし、だからと言ってペテロのミニストリーとかエバンジェリストとしてのペテロがもはや必要ではないと言っているのではありません。又パウロの正しい神学的教義の教えが必要でなくなったと言っているのではありません。三本の矢を一つに束ねれば折れ難いように、私たちは今こそペテロ、パウロ、ヨハネの三人が必要であり、それが一つとならねばならないのです。

 

ヨハネのメッセージとは何でしょうか。「神を愛し、お互いが愛し合う」ことです。1コリント13章でパウロが言っているように、どんなに優れた賜物とか知識を持っていても、どんなに大きく完全な信仰を持っていても、どんなに多く貧しい人に与えても、自分の身体を焼かれるために渡しても、愛がなければ何の役にも立たないと言うのですから、これは本当に重大なことではないでしょうか。私たちはこのパウロのメッセージを本当によく理解しなければならないと思います。

ヨハネはイエスの心臓の鼓動を聞いて(親しく深く理解して)それを書き記した人です。そのヨハネの召しとは何でしたでしょうか。ダビデはイスラエルの「羊飼い」として召され、ペテロは人を取る「漁師」として召されました。ヨハネは魚を取る網を使えるようにする「網の修繕役」として召されたのです。網とはハーベストのためのものです。その収穫が漏れて失われないように彼は網のやぶれを修繕して「使えるようにする役目」に召されているのです。

それを言えば、彼の福音書は他の福音書を一つにまとめ、彼の書いた手紙は新約聖書全体を、そして彼の書いた黙示録は聖書全体を一つに適合して(使えるようにする)「まとめ役」であると言えないでしょうか。私たちは今こそ彼のミニストリーを必要としています。

 

聖書の中でイエスの心を最もよく表している箇所があるとすれば、それはヨハネ伝17章であると信じます。ヨハネは隣席のイエスの胸にもたれかかってイエスのハートの鼓動を聞いた人として知られているように、私はヨハネはイエスの心の内を一番よく知っている人であると思います。そのヨハネが、イエスの父に対する心からの心情と願い(ハート・ビート)を祈りの形で訴えたものをヨハネ伝17章に書き記したのです。この章に書かれていること程イエスの深い愛の心の発露を書いた人は他にいないと思います。

 

聖書に「天は、主の天であり、地は人の子らに与えられた。」(詩篇115:16)と書かれているように、神は人間に与えた地上のことは、人間が祈りで要請しない限り御自分からは何もされません。ですから地上でのイエスは御自分をいつも「人の子」と呼ばれました。そしてイエスは御自分が地上で人間として父にお願いすることは、ある意味では天にいる時以上に力と権威があり、父がその願いに答えて下さることをよく知っておられたのです。

あなたが今地上で祈る祈りは、天で祈る以上に大きな影響力を持っているのです。あなたが地上でする礼拝は天でする礼拝以上に、天におられる父の心に触れることが出来るのです。なぜなら、私たちが天に行けば、いつも神の栄光の前にいますから、誰でもいつでも当然のように神を礼拝することになるからです。それに引き換え、今の私たちは地上で色々な困難の中を通され、霊の攻撃にあって多くの失敗を経験しながら、それでも尚且つ主を心から礼拝するのですから、父は心打たれるのです。

ある時、私は天に引き上げられ、天でのすばらしいワーシップを聞いていました。それは地上では経験したことのないすばらしいものでした。その時突然、父なる神がその礼拝を中断するように言われたのです。そして御父は霊的には全くドライな地上の小さな教会の水曜日の祈り会のワーシップに耳を傾けられたのです。これは私の解釈ですが、この事実はすべての闇の支配者たちである主権と力に対する証人となるのです。彼らの時は終わりに近づいて来ました。

最初のアダムの花嫁はパーフェクトで理想的な世界に住んでいたにもかかわらず罪を犯すことを選びました。それ以来サタンは神によって用いられて来ました。神の最高の創造である人間は完璧な環境に置かれても罪を犯すことを選んだのですが、しかし最後のアダムの花嫁は、最も暗黒な時を過ごす中ですべての地獄の悪霊たちによる攻撃の的となる逆境にありながら、それに屈せず花婿に従うことを選ぶのです。そのことを悪魔の軍勢たちはよく知っており、彼らの時が短いことが今証明されつつあると信じます。ですから最終的に花嫁こそが自分たちを治めるにふさわしいと御使いたちが言うのです。(1コリント6:3参照)

暗闇の中に住むあなたにとって今がチャンスです。あなたが通る試練を無駄にしないで下さい。試練の中で主を礼拝して下さい。その中で神を心から信じ、従うことを選び取って下さい。

さてヨハネ17章にもどりますが、イエスは地上で最後の時を過ごしています。もしあなたが明日は拷問の処刑に着いて死ぬことが分っていたら、今日あなたは最後の祈りをどのように祈るでしょうか。あなたにとって最も重要なことと、最も愛している人のことだけを祈らないでしょうか。イエスにとってこれが最後の祈りの機会となるのです。イエスは心の中にある御自分の最も深く心に掛かることをこの17章で祈られました。

最も深くイエスの心にあったこととは17節に書かれている「真理によって彼らを聖め別って sanctifyください。」であったと私は思います。単に真理を信じるのではありません。Sanctify するとは真理を心から信じることによって、彼らを分け離ち、聖めることです。イエスが絶対的に真の救い主メサイヤであることは悪霊たちも信じています。彼等はイエスが神の子であることも、十字架の贖いの意味もすべて信じています。私たちもそれを知識として知ることは出来ます。しかし、あなたの心が聖められ、変えられなければならないのです。それはロマ書10:10にある「人は心に信じて義と認められ・・・」と書かれている通りです。あなたは頭で正確に知ることは出来ても、あなたは本当に心で信じ、それを生きなければなりません。そうでなければ、あなたはさばかれることになるのです。

 

それからイエスが何度も繰り返し祈られたことは、17:21で祈られた「 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。・・・」【新共同訳】でした。これは大変重要な祈りです。イエスは私たちが単に教義的知識において一致することを望んでおられるのではないのです。イエスは私たちが、イエスと御父が一つとなっているのと同じように、名実共にイエスと一つとなる、それはすなわち、御父と御子と私たちが全く一つとなることを祈られたのです。

私はこの御子イエスの父への祈りは、その通りに聞かれ実現すると堅く信じて疑いません。と言うことは、私たちのうちの誰かがそうなる、つまり、私たちがなるのでなくて誰がなるのでしょうか。(続く)


09 10月

四つの風と三本の柱(その1)


四つの風と三本の柱(その1)

    -モーニングスター・ハーベスト・カンファレンス 

        9月29日 日曜礼拝でのメッセージ -

 リック・ジョイナー     2013年10月9日

 

私はこのカンファレンスの直前に御使いの訪れを受け、変化の風がこれから吹いてくると言われました。今世界的に大きな変革が来ようとしていると言う知らせはよいことであると思います。

そこで先ず、黙示録 7:1を見てみたいと思いますが、そこに大地の四隅から吹く「四つの風」が出て来ます。「 この後、わたしは大地の四隅に四人の天使が立っているのを見た。彼らは、大地の四隅から吹く風をしっかり押さえて、大地にも海にも、どんな木にも吹きつけないようにしていた。」【新共同訳】

 

ここで、出来るだけ手短に人間の歴史を振り返ってみたいと思います。このことは前にもお話しましたが、二十年ほど前に、主が私にこの四つの風が何であるかを示して下さいました。それは人間が築いて来た世界文明の歴史の中で、文明を変えるほどの大きな革命的な変化を起こさせたのがこの四つの風であると言われたのです。それは天からの霊的な風ではなく、地上で人間とか国々の間に変化を起こす力の風です。最初の強い風は武器と武力で相手を征服する軍隊のパワーでした。次に起ったのが宗教間の戦いをもたらす宗教のパワーです。三番目が政治的な争いの力-すなわち封建君主制から民主主義、共産主義等の力の台頭とその争いです。そして最後に来るのが経済力-エコノミカル・パワーです。これら四つの力が、それぞれの時代に、主な力となってその力による闘争が見られ、一つの力が表立って強力な風として吹く時に、他の三つの力はそれに従属的に働きます。

 

二十世紀に入ってからは、世界を支配する力の闘争は主に経済力によるものに変わって来ました。それが世の終わりが近づくに従ってより明瞭になります。ハーベストの時とは世の終わりの時、すべてのものが成熟して刈り取られる時です。悪魔が世界を支配しようとして起こす経済力による戦いが頂点に達し、すべてをマネーが支配し、金融と通貨の力によって世界の国々の景観が今過激的に変わりつつあります。

 

そこでこれから終末に向かっての大きな問題の一つは、黙示録に出て来る「獣の刻印―mark of the Beast 」を受けるか受けないかです。その刻印を受けなければ誰であっても「買うことも、売ることもできないようになる」と黙示13:15-17に書かれています。そうなると、私たち世界中のすべての人間は、世界を経済的に完全に支配するかに見える「獣」の支配下に入り、その印しを得なければ生きていけなくなります。

 

しかし、この刻印を受けない方法が一つだけあります。それは簡単です。それは「主の刻印」を受けることです。(訳者注:黙示7:3)なぜなら獣は主の刻印が付いている人の上に獣の刻印を付けることはしないからです。獣の刻印を受けることそのものは罪ではありません。獣を礼拝することが罪なのです。しかし、獣の刻印を受けると言うことは即ち獣の経済力を頼りにすることの証拠ですから、獣を礼拝することになるのです。これが理由で私たちクリスチャンは神を礼拝します。神だけがすべてよいもの、必要なものの供給者であり、その源であることを信じるからです。

 

大きな変革の風がやって来ます。ダニエル書2章に書かれているネブカデネザル王の夢を解き明かしたダニエルは、王が夢で見た「一つの大きな像」が人間の王国の歴史を表し、最後にイエス・キリストの王国を表す「ひとつの石」があらわれ、その像の足を打って像を打ち砕き(ダニエル2:31-45参照)その石は大きな山となって全地に満ちると言う預言が成就する時がいよいよ近づいて来ました。

神の王国(御国)においては国の政府が無くても国の経済は存在します。しかし、この世では強力な政府がなければ経済は存在しません。基本的に神の王国を理解するには神の経済を理解しなければなりません。今は経済の力がすべてを支配する時代ですから、特に私たちクリスチャンは、イエス・キリストの「王国の経済」のことをしっかりと理解しなければなりません。かといって経済学を改めて学ぶ必要はありません。すべて聖書に書かれています。神がすべての財源であることさえ理解していれば充分です。王国の経済 kingdom economy はこの世の経済とは違った通貨を持っています。その通貨とは愛であり、信仰です。

 

このことに関連して主はかなり以前に「この世の中で最も成功する方法を教えよう」とおっしゃったことがあり、私は待ちました。そして教えられたのが1コリント13:8の「愛は決して絶えることがない。 Love never fails. 」と言う愛の法則でした。(訳者注:この言葉のギリシャ語の原語 ekpipto の意味の中には「失敗することがない、無能であることはない」という意味があります。意訳すれば、英語の訳のように文字通り「愛をもってすれば、決して失敗しない、必ず成功する」の意味になり、Joyner 師はそのように解釈しています。)

あなたが新しくビジネスを始めるとき決して失敗しないやり方があるのです。それは、あなたは先ずあなたが扱う商品を心から愛することです。そしてその商品の仕入先の会社を愛し、お客さんを愛し、あなたの会社の社員を徹底的に愛するのです。そして、その商売に関連するいかなる事とかそれに関わる人たちを愛するならば、あなたの商売は決して失敗しないと神はおっしゃるのです。

私はその頃、とてもビジネスでうまく行っていました。私が投資したり売買する株で随分儲けました。一番安い時に買って一番の高値で売ることが出来ましたから、儲かるのは当たり前でした。しかし、主はそのような私に言われました。「あなたは一番高い時に売っているがそれはよくない unrighteous なことです。それよりも、程ほどの儲けが得られる時に売りなさい。」と言われ、続いて「わたしの経済は愛です。刈入れ時に貧しい人が来て落穂拾いが出来るように少しは畑に残しておいてあげるのが愛です。根こそぎ自分のために収穫を全部刈り取ってはいけない。」と主は言われました。そして主は「あなたが株を最高高値で売るのではなく、あなたの株を買った人がそれを売るときに少しは儲けられるチャンスを与えなければいけない。」と諭されました。

 

さて、元にもどりますが、主は黙示7:1の後、2、3節を指摘されました。「2 わたしはまた、もう一人の天使が生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上って来るのを見た。この天使は、大地と海とを損なうことを許されている四人の天使に、大声で呼びかけて、3 こう言った。『我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない。』」【新共同訳】

 

神の刻印を受ける人とは、神の「しもべ bond servant 一生を主人のどれいとして仕える召使い」になる人です。私たちクリスチャンとは、聖書の標準から見れば皆この「しもべ」になっているはずですが、実際に真の「しもべ」となる人は非常に少ないです。それは丁度大宣教命令で主が「あらゆる国の人々を弟子 disciple としなさい」と命令したのに対して、実際にはほとんどのクリスチャンが単なる「改心者 convert 」でしかないのと似ています。

これは主が期待している真の「クリスチャン」に対する、ひどい「思い違い」か「惑わし」とも言えることであり、あるいは経済用語で言う「平価切下げ」を意味し、聖書と神の言われることの価値を勝手に大幅に落としている由々しき問題です。

 

「弟子」とは主と共に住んで主から学び、主に似た者になることですが、「しもべ」とは、それより一歩進んで、自分の人生をもはや自分のものとして生きるのではなく、主のために一生を尽くす人のことを言います。そのような人は、朝目が覚めてすばらしい日であったときに「こんな良い日に、今日は何をしようか」と思う代わりに、「このようなすばらしい日を与えて下さって感謝します。今日私は主のために何をすればよいかお命じ下さい。」と言う人です。「今日もすばらしいあなたの日です。私の時間はあなたのもの、私はあなたの『しもべ』です。」と言うのです。そのような「しもべ」は給料日に自分のものとして、大きな金額を期待しません。お金も持ち物も、すべて主人のものです。主のために最も良いように使います。すべてを主のために生きるのがbond servantです。

 

又、そのような人は毎日のすべてを「キリストの愛 love of Christ 」で生きます。あなたはクリスチャンとして、そのように毎日を生きていると言えるでしょうか。あなたが判断し決めることがすべて「キリストの愛」によっているでしょうか。

主はある時「ほとんどのクリスチャンが地理的に正しい(御心による)場所に住んでいない。」と私に言われました。あまり物事がうまく行かないとすれば、私たちが主の望まれる場所に住んでいないことが第一の原因である可能性が大きいのです。

多くの人が私のところに来て「私の住むところにはよい教会がありません。」とか「親しくコイノニヤの関係になるクリスチャンがいません。」とこぼします。私は「そんなところになぜあなたは住んでいるのか」と聞き返したくなります。その場所を選んだ理由が多くの場合「そこによい仕事が見つかったから」とか、「そこが住みやすいところであると思ったから」と言う話を聞きます。すべて自分のしたい、自分の都合で決めていないでしょうか。その場所に行くことが本当に主の御心であるのか、あるいは、あなたに対する主の御計画に沿ったものであるかどうかを主に確かめて決めているでしょうか。私は仕事の理由だけで転地した人と話をすることがよくあります。その人に「仕事はうまく行っていますか」と聞くと、うまく行っていると答えます。しかし「家族の皆さんはどうですか」と聞くと、崩壊しかかっています」と言う答えがよく返ってきます。「その他の面であなたの人生はうまく行っていますか」と聞くと、「うまく行っていない」と言う答えが多く聞かれます。

 

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ 6:33)と言う御言葉がありますが、私たちは何事においても先ず主に御国のプランを聞くことです。住むところに関しても、仕事で転任の場合でも必ず主のお考えを聞くことが第一です。そうすれば後のことはすべて主が与えて下さいます。あなたの人生は、自分でやろうとするよりも主にお任せした方が余程うまく行く事を経験されたことのない方はいないと思います。(続く)