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Walk With God Ministries

11 12月

信仰がそれを可能にするーー神を完全に信頼することによって クリスタル G.H.ロウリー


信仰がそれを可能にするーー神を完全に信頼することによって

 

クリスタル GH.ロウリー

 

 

ヘブル11:19「アブラハムは、神が人を死者からよみがえらせることもおできになる、と信じたのです。それで彼は、その信仰によってイサクを死者の中から取り戻したのです。これは象徴的な型です。」(意訳)

 

神の声を知る

 

私たちは、物事に対する考え方・見方を、常識とは違ったやり方に変えて行かねばなりません。自分の生き方・考え方を、この世的、常識的な基準で行うならば、物事をはっきりと「信仰の目で見る」という見方が汚され曇らされます。ですから何であっても私たちが、物事への見方を信仰の目で見るようになれば、その信仰的な考え方が私たちの心と魂の中に取り込まれ、育まれ大きくなって行くのです。

この世が指し示す方法や方策が必ずしもすべて間違っているというわけではありません。しかし、 この世的な観点から物事を見始めるようにしないことが肝要です。すなわち私たちは、「神の声を知る」という土台からスタートせねばなりません。これが人生のすべてにおいて鍵となります。

大抵の場合私たちが「信仰」ついて考えるとき、それは「普通世の中の人々が考えるようなロジック(論理的で、理屈にあったこと)とは異なるだろう」と考えます。 「信仰で一歩踏み出すこととは、クレイジーと思えるような事を神は私たちにさせるのだ」と私たちは思いがちです。

しかし私が強調したいのは、もし自分の思考パターンが変革されれば、神が「せよ」と言われることがすべて通常のことのように思えるようになるのです。それが出発点です。歪められた考え方から出発するのではありません。真理であり純粋であられる神ご自身から出発するのです。ですからそれがロジカルでないことはあり得ないのです。

 

神をどのように喜ばせるか

 

ヘブル11:6「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」

神に喜ばれるには、神を信じなければなりません。つまり神を信じ信頼することが不可欠です。 信頼することなしにその人と関係を持つ事ができるでしょうか?健全な関係を築くためにはその人を信頼する信仰が必要です。そうでないとよい関係にはなりません。例えば、相手を信頼することなしに健全な結婚生活ができるでしょうか?結婚がうまく行くためには絶対に信頼が必要です。

神と私たちの関係においてもそれは真理です。私たちは神にのみ信頼せねばなりません。もし神への信頼という信仰が100%でなければ、私たちは完全に神を信頼してはいないのです。神が言われることは真理です。神は人のように偽りを言うことは決してありませんから、神のことばは絶対的な真理です。神は私たちの造り主です。私たちがどのように機能するかをご存知です。

神は私たちに何が必要かをご存知です。神は私たちが必要なものはすべてご存知です。神は私たちのすべてをご存知です。製品を作る人がそれを使用するためのマニュアルを作るように、神は私たちを完全に働かせる方法をご存知です。

 

信仰の父

 

アブラハムや彼が辿った信仰の旅路を思うとき、本当に多くのことを教えられます。アブラハムは信仰の父と呼ばれます。信仰についてより理解し自分のものとしたいならば、私たちは彼の人生から学び彼の信仰を調べてみるべきでしょう。

あなたがアブラハムだったらどうでしょうか。彼は故郷を出て約束の地へ行きました。どこに行くのか知りませんでしたが、出かけたのです。神は彼が多くの国の父となると告げました。

神は彼の子孫は天の星や海辺の砂のようにおびただしくなると言いました。アブラハムに約束された子孫の数は驚くべきものです。しかし、彼は年老い、サラも年を取っていました。彼らには子どもがなく、サラは子を産むには年を取り過ぎていました。アブラハムは一人の子を何十年も待ちました。待っている間にアブラハムは「年寄り」から「すごい年寄り」になってしまいました。お分かりでしょうか?アブラハムはただのお話の中の人物ではなく、実在していた人なのです。そしてついに、アブラハムとサラは約束の子イサクを授かりました。イサクから子孫が生まれました。イサクは賞品であり贈り物でした。彼は神の約束の最初のものでした。多くの子孫を得るために彼は不可欠でした。

 

信頼する決意

 

しかし、神はアブラハムにイサクを生け贄にするように命じられました。何ですって? そんなことがあり得るでしょうか?イサクは約束の子です。イサクが生け贄になったら、空の星や海辺の砂のようにおびただしい数の子孫がどうやって生まれるのでしょうか?イサクにはまだ子がいませんでした。アブラハムとサラにもっと子が生まれるのでしょうか?人間の思いの中にはこのような思いが起り始めることでしょう。

しかし驚くべきことにアブラハムは神に従ったのです。彼は従うことを嫌がりませんでした。私たちはこの話にあまりにも精通しているので、アブラハムがひとりの人間であったことを忘れてしまいそうになります。しかしアブラハムが私たちと同じ人間であったことを知るならば、私たちはここからすばらしいことを学べるのです!

アブラハムはひとりの人間にすぎませんでした。しかし、約束のものを取り去られるという事態に直面したときでも、彼はなお従ったのです。これがほとんどの人が信仰の崖からころげ落ちてしますポイントです。しかしアブラハムは堅く心に決めていました。彼は神に信頼することを、すでに堅く決意していたのです。彼は神が自分にとってすべての源であることを知っていました。これは本当にパワフルなお話です!

 

神のタイミングは完全

 

アブラハムがイサクに刀を振り下ろそうとしたとき、雄羊が丁度その時にあらわれました!神のタイミングは常に完全です。神を信じる信仰によって、神の完全なタイミングに働いていただくならば、私たちは完全な状況を生み出す結果が得られるのです。雄羊が生け贄としてささげられ、イサクは祭壇で殺されることはありませんでした。

もしアブラハムが友人たちからアドバイスを受けていたならば、どうだったであろうかと想像します。もしアブラハムが当時の専門家からアドバイスを受けたならば、多分確実に神に従うことと反対のことを言われたと思います。

アブラハムの友人たちやアドバイザーたちからのすべてのアドバイスは、この世が「良いアドバイス」と呼ぶものであったことでしょう。それは心配してくれる友人たちや専門家が良かれと思って与えてくれたアドバイスでしたが、「違う出発点」からのものだったのです。それは神の声を知ることに基づいていないのです。

 

この世の常識で生きるというベースラインを神のライフラインに変える

 

詩編101:6に「私の目は、国の中の真実な人たちに注がれます。彼らが私とともに住むために。全き道を歩む者は、私に仕えます。」とあります。もし私たちが誰かからアドバイスを受けたいならば、その人が真実で全き人であることを100%確信せねばなりません。その場合でさえ、神の声を知ることを土台にせねばなりません。それが私たちのベースラインです。それが私たちのライフラインです。

確かにアブラハムは神の声を聞いて知っていたのです。彼は神を絶対的に信頼していました。アブラハムは一生神と共に歩み、神を信頼し、信仰によって生きたことにより、自分の考えを変革できたのです。彼はロジカルと言われるこの世のベースラインを退けて、神の声に従うことがロジカルな最高の基準と受け入れたのです。信仰する対象は何でもいい、誰でもいいと言う訳ではありません。私の言う信仰とは神への絶対的信仰です。

絶対に神への信仰によってのみ生きると決意したとき、私たちは自分の考えを変革するのです。御ことばと神の声を自分の人生に注ぎ込むとき、それは生き生きと盛んになり成長します。信仰が人生の中に常に蒔かれ成長するならば、それはロジカルなものとなるのです。信仰は約束のものへのライフラインとなり、私たちは「信仰がそれをロジカルなもの、最も理にかなっている考えとしてくれた。」ということができるようになるのです。(終り)


03 12月

「ただ一度のまなざしで」 フランシス・フランジペイン 2018年12月3日


「ただ一度のまなざしで」

 

フランシス・フランジペイン

 

 

雅歌6:10「このしののめのように見え、月のように美しく、太陽のように輝き、恐るべき事、旗を立てた軍勢のような者はだれか。」

人間は単に「宗教」を信じれば満足するようには創造されておりません。

自分の魂の奥底にある強い渇望を満たすためには「宗教」は不十分であることが、はっきりわかる時がくるのです。「宗教」は私たちを満足させないばかりか、イエスをも満足させません。キリストは私たちを実際に個人的に知りたいと思っておられることが聖書に書かれています。

 

マタイ7:22−23

「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」

 

あなたは「でも、主はちゃんと私たちを知っておられます!」というでしょう。勿論、主は全知であられますから、すべてをご存知です。しかし主は愛ゆえに、

主と常に一つに結び合わされた花嫁として私たちを知ることを願い求めておられるのです。主は私たちをご自分の血潮の代価で買い取られたのですから、私たちの魂、私たちの秘密、私たちの夢を所有する権利を持っておられます。主は誰も見ていないときのありのままの私を求めておられます。しかし、力づくでそれをしようとはされません。それは愛の方法ではないからです。

主がまず私たちを愛してくださった故に私たちは愛するのです。主がまず永遠の愛を誓ってくださった故に、私たちも誓うのです。キリストと共に生きる私たちの人生(愛によってキリストと私たちが一つとなる人生)だけが唯一キリストを満足させる教会のデスティニーです。終末の時代に私たちを支えるのは、キリストと一つになること以外何もないのです。

 

神は愛です

 

私は主を恐れることを知っていますし、それが真の知識の初めであることも知っています。そして主を恐れることを喜びとしています。しかしヨハネが言っているように、私たちは皆、神が私たちに持っておられる愛を知り、また信じる必要があります。

第一ヨハネ4:16「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は、神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」

 

パトモス島でイエスの足元に倒れて死者のようになった使徒が、後に「愛には恐れがありません。(第一ヨハネ4:18)」と言っていることを考えてみましょう。「聖なる恐れ」は私たちを罪から遠ざけ、義しく歩むための強い力になることを主は知っておられます。

しかし主に近づくためには、私たちは神への恐れ以上のものを知る必要があるのです。私たちは「私たちに対する神の愛」を知らねばなりません。第一ヨハネ4:18に「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。」とあります。私たちはこの「恐れを締め出す神の全き愛」を知らねばならないのです。この愛だけがキリストの花嫁をデスティニーへと導くことができるのです。

 

神の御こころ

 

今この文を読んで、「神を求めキリストに近づきたい」という思いがあなたの心に沸いてきたかもしれません。そのような思いが起こり、「主の臨在を求めよう」とあなたが感じたその時、キリストのこころの中にも何かが起こるのです。

主は「私の妹、花嫁よ。あなたの一度のまなざしであなたは私の心を奪った。(雅歌4:9)」と言われます。

あなたが 主を見るとき(それがほんの一瞬、「主と共にいたい」と願っただけであっても)、主の胸はときめき高鳴るのです。これが、「主と共にいたい」という私たちの願いに対するキリストの応答なのです。

イエスはただ悪を滅ぼすために地上に帰って来られるのではありません。主は花嫁のために来られるのです。終末における私たちの務めは、単に携挙や艱難ために備えをするだけではなく、キリストご自身をお迎えする備えをすることです!

黙示録19:7「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。」

 

お分かりでしょうか、私たちの準備はキリストのためなのです。花嫁は、どんなことが世界を襲うのかという恐れでおののいてはなりません。花嫁はこの世に来られる方への愛で満ち溢れているのです!私たちは単なるデイトではなく結婚のために整えられているのです!イエス・キリストにとって花嫁(教会)ほど重要なものは他には何一つありません。主が死なれたのは花嫁のためであり、生きてとりなしをされているのも花嫁のためなのです。

主の愛は私たちを完全に贖う力を持っています。私たちが果たすべき最も尊い務めは、私たちの一瞬のまなざしにさえ胸をときめかせてくださる主に、全てを臆することなく投げ出しお委ねすることです。

 

(祈り)主よ、告白いたします。私は忙しさのために集中できず、私がしなければならないことにだけ心を騒がせていました。実際あなたのために働くことをさえ、あなたの御臨在に留まることの代わりにしていました。私の魂を愛する主よ、悔い改めます。あなたが私を知っておられるように、私もあなたを知ることを願います。主よ、御そばにまいります。(終り)


26 11月

2018年秋の日本訪問を終えて(3)          坂  達 也   2018年11月25日


2018年秋の日本訪問を終えて(3)

 

         坂  達 也

 

 

霊の目が見え、霊の耳が聞こえるようになる訓練

 

 エペソ人への手紙1:18に「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって・・・」と書かれていますが、それがどういう意味かお分かりでしょうか。喩えるならば、あなたが誰か高貴な人を後ろの座席にお乗せして車を運転しているとします。その時あなたは後ろは見えなくても、そこにその方がいることを実にリアルに感じるはずです。その方がイエス様であれば尚更です。これは「あなたが主の臨在を心の目で見ているから」と言えないでしょうか。そうであれば「心の目で見る」こととは、そんなに難しいことではないはずです。

 しかし主は「・・・彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。」(マタイ13:13)と嘆かれました。その後に続いて「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見ているが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。」と主は叱責され、イザヤ6:9の預言が成就したと言われました。この叱責は私たち多くのクリスチャンに対して当てはまります。

 これからしても先週の報告(2)の冒頭で私が述べたように、人間がこの世に生まれた目的を果たすためには私たちの霊の目と霊の耳を訓練することがまず最低限必要であることが分かります。そして、多くのクリスチャンは分かってはいても、いつまでたってもそれができないのです。「でも私は聖書を既に何度も読んだのになぜできないのか」と言われるかも知れません。その理由は、聖書を只読むだけでは単に頭の知識として知っているだけで「絵に描いた餅」に過ぎず、実際に訓練しなければ「霊の目、霊の耳」は出来てこないのです。

 それではどうすればよいのでしょうか。それは全ての技術習得に通じますが、訓練です。そこで私は今回の旅行でその訓練の方法の一例として私自身の経験をお分かちしました。

 

霊的な意識と感覚を磨ぐ訓練

 

1)先ず第一に「私はどうしても主の御声を聞きたい、御姿を見たい」と日夜願い、主にしつこく嘆願することから始めなければなりません。断食祈祷もよいでしょう。問題は「やる気」と「決意」です。それには持続する情熱が必要です。

 

2)次にどこに行くにも必ずノートと筆記用具を携帯する。特に、寝る前にベッドの横にノートを用意しておくことから始めてください。その理由は、人間は自分の意思とは無関係に夢を見ますが、時に神は夢とか幻で私たちに伝えたい「メッセージ」を見せてくれます。しかし問題は、多くの場合朝起きた時、肝心の夢の内容を忘れてしまうーそんな経験をしたことがありませんか。従って、ノートを用意し「主よ、その時は必ず起こしてください。」と日頃お願いしていれば、主は起こしてくださり、書き留めることができるようになります。これは「意識の訓練」と言えますが、大切なことは、書き取った主からのメッセージを何度も見直すこと、そして、必ず実行に移すことです。

 

3)主は多くの場合、不意に全く予期していないときに語られます。しかし、それが本当に「主からだ!」と気づくためには、いつも主への意識と期待を持っていなければなりません。私にとっては、これこそが「常に主と共に歩む」ための最も重要な訓練であると思っています。そして主が語られたことを、出来るだけ早くノートに書き付けます。私はこのために今回日本でポケットに入る小さなノートブックを追加で入手しそれ一杯に走り書きしました。ある時は紙が無くて咄嗟に近くにあった買い物の包み紙の上に書きました。大事なことは、それらのノートを時間ができた時に、毎日付ける日記に書き写し、時折、見返すことです。

 特に、礼拝で説教を聞いているとき、あるいは人の話を聞いている最中に、主がその話している人を通して「あなたへのメッセージ」を語って下さいます。これはその場に聖霊が溢れているような時によく起こります。

 くどいようですが、なぜノートを取る必要があるのでしょうか。それは、そうすることによって私たちが誠心誠意主のお話を一つでも聞き漏らさないという「決意・決行の態度」を主が大変喜ばれるからです。そうすると主は常に私たちと歩きながら、どんどん語ってくれるようになります。

 私はこの方法をリック・ジョイナー師から学びました。彼はそうすることによって段々に主から預言をいただけるようになった言われます。

 勿論、私が今ご紹介した方法は、むしろ補助的な意味で申し上げたのであって、要は、いつも栄光の主を心で見上げ、意識して「絶えず賛美し、祈る」ことにあることは言うまでもありません。そしてその目的が、主との絶え間ない個人的なコミュニケーションを持つことを助長する「主と共に歩む」訓練であるからです。

マタイ6章にある「主の祈り」を祈る大切さ

 

 今回、私が日本で語らせていただいたメッセージの一つに「主の祈り」の大切さがあります。そこで重要なことは、当時の使徒たちが、他のことはともかく、敢えて主に「祈り方」を教えて欲しいと願い出たことです。皆さんなら何を主に教授して欲しいとお願いするでしょうか。「あらゆる病気の癒し方」「悪霊追い出し」や「死人を蘇らす方法」あるいは「風とか湖水を静めること(自然に向かって命令すること)」でしょうか。主イエスはこれらを全て弟子の見ている前でなさいました。弟子はそれ等が全て信仰さえあれば可能であることを実習訓練を通して学び納得していたのです。その上で何をどうしても主から学びたかったのでしょうかーーそれは「主の祈り方とその態度」であったと思います。主は人里離れた場所で一人になり、天の父と向き合うその真剣で熱烈・真摯な主の姿を見ていたからです。

 

 主の祈りとは元々マタイ6:6にあるように「祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。・・そうすれば報いてくださいます。」と主が言われる祈りです。ところが多くの教会では、毎週日曜日の礼拝時に全員で声を出して祈リます。残念なことに、それは形式的、宗教的な虚ろの祈りになってしまっていないでしょうか。

 むしろ主の祈りとは本来、私たち神の子と御父との深い絆の関係、すなわち真のコイノニアの祈りであり、完全な霊の祈りであると思います。

 

 そこで主が教えてくださった祈りを見てみましょう。ここで一つ重要なことは、これは主が祈れと言われた祈りですから、この祈りを正しく信仰で祈れば間違いなく聞かれるはずであることです。ですから主は今回最初に私が訪ねた教会に行く前に「主の祈り」を「こんなうまい話はない。」と前置きして語りなさいと、おっしゃいました。しかしその意味するところが、実はとても深いことが段々と示され、旅の終わりには予想もしなかった究極の真理を教えられました。

 

 6:9「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますようよ。」ーーこれは親密な父と子の間にだけある深い愛の告白、それは私たちが持つ御父への心からの敬慕と栄光を讃える祈りであると思います。ビル・ジョンソン師は、父とそのような関係に入るには、父との間に「継ぎ目のないつながり seamless connection」を築くことであると言い、その例としてヨハネ15章で主が例えられた「ぶどうの木と枝の関係」を挙げています。私たちと主がいつもつながっていれば、何もしないでもそれだけで多くの実を結ぶ、同時に主は「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」と言われたことは本当に心すべきです。

 

 6:10「御国がきますように。御心が天で行われるように地でも行われますように。」ーー私たちがこの祈りを祈れば、天に行かなくとも、その前にこの世が天のようになり、すべて御心が行われるようになるのですから、こんな素晴らしい話はありません。しかし、私は思わされました。ーこの祈りを私たちに教えられた主イエスは、ゲッセマネで弟子たちが見ている前で「わが父よ。できますならば、この盃をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と祈られたことを。(マタイ26:39)そうであるなら、私たちもこの祈りを祈る時、この地で私たちの願いが実現するために祈るのではなく、すべてのことが主の御心でなされることを願う祈りとして祈るべきではないでしょうか。キリスト者である私たちは、主と共に十字架について死に、主と共によみがえって、今は一心同体で生きているのですから。

 

 6:11「私たちの日毎の糧をきょうもお与えください。」ーー6:8で「父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」と書かれていますから、私たちに日毎必要な肉の糧はすべて必ず与えられます。しかし10節の祈りと同じく、私たちが望むものではなく、すべて神が与えて下さるもので満足すると決意して祈ることが重要なポイントですし、その祈りが神に栄光を与えるだけでなく、私たちにとっても究極的に最高の結果を得ることになることであることを思わされました。

 

 6:12「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」ーー主イエスはすべての人間の罪(負いめ)を赦すために死なれました。そうであれば私たちが、主に忠実に従う弟子であり、また永遠に主の花嫁として一心同体となるのであれば尚更のこと、単に私たちに負いめのある人だけを赦すのではなく、一見負めのないすべての他人の罪をも、主が赦されたと同じように赦すべきではないのでしょうか。そのことがマタイ6:14、15に書いてあります。

 そうであるなら一番赦せないのが夫婦となった相手であり、加えて一番親しいはずの肉の兄弟姉妹とか、家族の間での不和話が絶えないのがこの世の現実であるというのはどうしてでしようか。神がこの世を造り、最初の人間に罪を犯させた上で、そんな罪だらけのこの世に人を生まれさせて苦労させることに目的があるのではないでしょうか。

 人間を男と、そして男の一部から女を造り、その一対の男女から子供が生まれ、それが家族となって子孫を残すようにされたことには、本当に深い意味があると思いませんか。この「夫婦関係」はこの世だけのもので天に戻れば解消されます。これからしても私が先週書いた報告(2)の冒頭で述べたように、「天で霊と魂で生まれた人間に、創造主の神は霊的成熟を目的として一時的にこの世に生まれさせ、苦労をさせて霊的訓練するのがこの世で生きる目的である」と申し上げたことが事実であると思いませんか。

 

6:13「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」ーー

「私たちを試みに会わせないで」という意味は、私たちが耐えられないような試練には会わせないように」という意味です。そのことは1コリント10:13に書かれていますが、私たちに霊的訓練をさせることの目的がヤコブ書1:2−4、12に次のように書かれています。

「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つかけたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。・・・試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」

 

 上記のみ言葉は前にも書きましたが、エノクを思い起こさせます。エノクは主にあっていつも喜んでいました。それで彼は死を経験することなく、天に挙げられたのです。それによってエノクは「主とともに歩んだ」人と書かれています。

 ご参考までに、「私たちが主に喜ばれるクリスチャンになるとは、どのような人間になるのか」について使徒パウロが次のように言っています。「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」(ロマ書14:7、8)

 そのようなクリスチャンになれば、勿論主は必ずいかなる悪魔の攻撃からも守って下さることは言うまでもありません。しかし主は私たち自身が主の御名で悪魔勢に勝利することを望んでおられます。なぜなら主イエスが既に勝っておられるからです。

 

 これで今回の日本旅行の報告を一応終らせていただきます。今回は各地で心から主に飢え渇いておられる方々がお集まりいただき、どの集会にも真ん中に立って喜んでおられる主のご臨在を強く感じましたことは、私たち夫婦にとってこの上ない励ましとなりました。その集会でいただいた油注ぎと、多くのWWGMの皆様のお祈りが相まって、来日前に患った私の軽い脳梗塞の症候が旅の終わりには全くと言ってよいほど無くなり、元気回復しました。最後にそのことをお伝えすると共に、主にあって心から厚く御礼申し上げます。

 リバイバルの兆しは日に日に増して来ています。主がそのための備えとして発せられた「大宣教命令」に今、呼応する選ばれた精鋭が続々と起こされつつあることを今回日本でも目の当たりに見させていただき、心からお喜び申し上げます。(終わり)


18 11月

2018年秋の日本訪問を終えて(2)  坂  達 也       2018年11月18日


2018年秋の日本訪問を終えて(2) 

 

坂  達 也

 

 

私たちの真の身分証明書

 

 初めて会う人同士は先ず「あなたはどこの生まれで、今は何をしていて、どこに住んでいるのか」をお互いに紹介し合います。その場合、クリスチャンの私たちはこう答えるべきではないでしょうか。

 「私はこの宇宙が造られるずっと以前に、天の父の中から生まれました。そして今はこの地球に送られて来て、キリストの弟子になる猛訓練を受けている最中で、いずれ天に帰ります。私の国籍と現住所は天の父の右座のキリストと同じところに神の家族として住んでいます。」(参考:エペソ1:3−5、ピリピ3:20、エペソ2:19)

 つまり私たちは元々「永遠の命を持つ霊と魂を持つ霊の人間」であり、真の「キリストに似た者」になるための「霊的訓練」を受けるために、父がその目的で造った地球という仮の世界に、肉を着せられた人間として送られ、目下猛訓練を受けている最中なのです。肉の世界は、そのための仮の道場に過ぎず、いずれ元の住処の霊の世界に帰って行きます。罪にまみれた肉という稽古着はイエスと共に完全に死んで脱ぎ捨て、イエスと共に天によみがえり、永遠にイエスと共に生きるためにあるもの。天に戻ればそのしるしとして霊の身体が与えられます。ーこれが私たちの真の身分証明ではないでしょうか。

 ですから、クリスチャンがいつまでたっても頭(肉)のクリスチャンのままで霊の目覚め、飢え渇きを覚えないなら、主は「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。・・・このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」(黙示録3:15、16)と言われます。このようなクリスチャンにだけはなりたくないと思いませんか。神はこのようなクリスチャンで終わる人を最も嫌われます。皆さんはこの意識をしっかりとお持ちでしょうか。もし、お持ちでないなら、今こそ抜本的な意識改革が必要です。

 

エノクは最初に神と共に歩んだ人

 

 エノクについては創世記5:21ー24に「エノクは65年生きて、メトシェラを生んだ。エノクはメトシェラを生んで後、300年神と共に歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は365年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が取られたので、彼はいなくなった。」と書かれています。そしてヘブル書11:5に「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」と書かれ、彼の信仰が神に喜ばれていたことがわかります。 エノクはノアと共に「キリストと共に歩んだ人間」であることが聖書に書かれておりますが、この「神と共に歩むようになる」ことが私たちクリスチャンの最終目標であり、地上における霊的訓練終了の卒業証書であることをエノクが実証しています。そのような人間エノクは今天でどのような人になっているでしょうか。

 

 私はエノクと聞けば、しばしば天に行かれるリック・ジョイナー師がそのエノクに天で会った時のお話を思い出します。生きたまま天に挙げられた人は他に預言者のエリヤがいますが、ジョイナー師は天で先ずそのエリヤに会いました。以下は私たちがWWGMで2014年5月1日のブログでご紹介した時の記事です。

 

エリヤとエノク

 

 私(ジョイナー師)はこのところエリヤによく会います。預言的経験の中ですから、実際のエリヤに会ったのか、霊的な経験だったのかはわかりません。エリヤはもうすぐこの世に来ます。それはエリヤの霊がキリストのからだに来るということです。

しかし、エリヤが私に「あなたはエノクに会うべきだ」と何回も言うのです。エリヤは又、「私とエノクは死を経験しませんでした。それは、終末の時の最後の神のムーブメントのときにキリストのからだに大きな霊的分与をするためです。あなたはエノクに会わねばなりません。」と言いました。私も会いたいと思っていました。・・・なぜならエノクはこの終末の時代に現れる力ある者たちについて預言しているからです。そして私はついにエノクに会うことができました。彼は私が想像していた人物とは全く違いました! エノクは私が今まで会った人の中で比べ物にならないくらい最もハッピーな人だったのです。いつも一緒にいたいと思うような人でした。彼が持っている喜びは信じられないほどでした。彼は地上に暗やみが広がっていた時代に生きていました。ネフィルムもいたし、人の悪が増大した時代であったにも拘わらず、エノクは最高にハッピーで喜びに満ちていたのです。

 エノクと会ったすぐ後で私はまたエリヤに出くわしました。彼は私に「エノクと会ってどう思いましたか?」と聞きました。「彼は、私が会った中で一番ハッピーな人でした。驚きました。」と私が答えると、エリヤは「何か質問がありますか?」というので、「ええ。あります。どうしてあなたはエリヤのようにハッピーじゃないのですか?あなたはずっと天国にいたのに、どうしてもっとハッピーじゃないのですか?」とぶしつけな質問をしてしまいました。どうしても聞きたかったのです。

 エリヤは答えてくれました。その答えは私に非常な衝撃を与えました。「どうしてか話しましょう。あなたが地上で生活する間に、天国に行ってからあなたが永遠にどのような人になるかが決められるのです。天国に行けば、あなたの苦しみ、悲しみ、嘆きはすべて取り去られます。私もエノクのようにハッピーになることは可能でした。でも私は地上にいる時、暗やみの方にばかり焦点を当てていました。『私だけが残って他は誰も主を信じる者はいない』というように悲観的になった事が多かったのです。私はもっとエノクのようになることもできたのです。そしてあなたもそうなれるのですよ。

 エノクはどんなに地上が暗くても神と共に歩き、神に焦点を当てていました。彼の中で神はどんどん大きくなって、まわりの様々な問題や状況はどんどん小さくなりました。主の臨在の中では喜びが満ちるのです。」エノクは主の臨在の喜びの頂点に達したのだと思います。だから天に上げられたのではないでしょうか。そして今も喜びに満ちているのです。

 勿論、私たちは天国に行けば皆ハッピーです。天国で一番ハッピーでない人でも、地上で一番ハッピーな人よりもっとハッピーです。それは確かです。でも私たちは今、自分の永遠の性格を決めているのです。エリヤは言いました。「あなたの信仰を増し加えるために一日も無駄にしてはいけません。神の喜び、神の平安へと成長できる時を無駄にしないでください。聖霊の実は育てられてだんだんに大きくなるものです。私は多くの日を無駄にしました。私も今のチャンスを逃したくありません.主の喜びが、これまでよりはるかに大きくやって来ようとしています。私たちには考えられないような喜びに満たされハッピーになるのです。主を間もなくお迎えしようとしているのですから当然ではありませんか。主の臨在の中で私たちはハッピーになるのです。いいえ、ハッピー以上のものー喜びです。ですからあなたの試煉を無駄にしないで下さい。 一日も無駄にしないでください。私たちは今、永遠に自分がどのような者になるかを決めているからです。ーー以上でジョイナー師の話は終わります。

 

 

 ところで預言者といえばエノクこそが聖書に現れた最初の預言者でした。(参照:ユダの手紙14−15)

 

エノク書から学ぶもの

 

 私は最近になって初めて聖書の外典と言われるエノク書なるものを読みましたが、私が読んだ解説付きエノク書とは、リック・ジョイナー師のミニストリーに携わるマイケル・フィッケス Michael Fickess 師の著作「Enoch’s Blessing- A Modern English Paraphrase of Enoch’s Ancient Writings 」です。彼はエノク書の研究の権威者の1人であり、エチオピア・オーソドックス教会系の原本写本を100年ほど前に英訳したR.H.Charlesの本の中で、エノク以外の人が書いた部分の混入、あるいは内容的に嫌疑のある部分を除去し厳選したものを、現代の人が理解できるように、より分かりやすく書き直して、2014年にモーニングスター・パブリケーションから出版されたものです。前書きでジョイナー師も彼の考え方に同意しています。

 それには終末に起こる黙示録とか大患難時代への預言だけでなく、驚くべきことに、創世記とか申命記というモーセの時代から旧約のイザヤ、エゼキエル、ダニエルと言った預言者たちの預言書に書かれていることと一致すると言われ、加えて1世紀の使徒たちと、その当時のクリスチャンも、このエノク書を他の旧約聖書と共に読んでいたことがはっきり伺われる程彼らに影響を与えていて、新訳聖書のユダ書、ヘブル書、ルカ伝等にその名が書かれています。

 また特に名前は出ていませんが使徒の1人であるヤコブの手紙1:2−4に「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」と書かれているのは、私は暗にエノクを見本として話しているように思えてなりません。

 また私の見たエノクの書5:6に「その(終わりの)日にはキリストを拒否し神を無視した人たちは罪とその呪いにとどまるが、全ての義 righteousness を持つ人は喜びに満ちるであろう。」とあり、又それに続くエノク書5:9には「このような義の人たちは二度と主に不従順の罪を犯すことがない。もはや彼らの一生は神の怒りから来る死の体験をすることなく、彼らは神から与えられた日々を全うし、平安が日毎に増す。彼らの喜びに満ちた日々は幾倍にも増され、遂には永遠に続く感謝と平安に到達する」という意味の言葉が注釈付きで書かれています。

 これは使徒パウロがロマ書14:17に書いた「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」 に通じますし、同じパウロが書いたピリピ書の「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」、そして1テサロニケ5;16の「いつも喜んでいなさい。」には、エノクの書からの影響が強く伺われます。またヨハネ16:24では「・・・求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」と書かれています。

 これは何を示しているのでしょうか?それは、エノクの書が使徒たちに大きな影響を与えていて、エノクこそが「主と共に歩む人生を極めた人」であり、そのような人は「いつも最高の喜びに満ちているキリスト者」であること、またそうなったエノクに対する主の喜びは極まり、主が彼を天に取られたのであると私は思いますがいかがでしょうか。

 

 エノクが神と共に歩むことができたのは、彼が天の霊の領域におられる主イエスに出会い、イエスに対して毎日全き従順な生活を送り始めたことを意味していると私は信じます。これは大変な信仰を持たねばできないことであり、またそれだけの信仰を持つようになったエノクは神に大変喜ばれたことでしょう。そのようなエノクであったからこそ神は彼を天に繁くビジョンとか夢で呼んでは、広く天の領域での活動を見分させ(御使いの働き、地獄の状態に至るまで)、そして世の終わりに起こる神のご計画を知らされたとしても全く不思議はありません。

 神と共に歩く人は当然ながら「預言的なライフスタイル」で生きる人です。それも時々の経験で満足するのではなく、継続的に毎日、主と真に親しいコイノニアの関係に入る人であるのです。

 

 私は今回の旅行で、いわゆる聖霊派の教会からカトリックの修道院まで様々なクリスチャンのグループをお訪ねしました。そしてどのようなグループであれ、最も重要なのは霊的な飢え渇きをもって主イエスを愛し求め、真に主とのリレーションシップを熱烈に追求することであるとわかりました。預言とか癒し、奇跡等はその結果として起こるのであり、本末転倒にならないように気をつけねばなりません。皆が聖霊派である必要は全くなく、それは教派の問題ではないという思いを強く持ちました。(続く)


12 11月

2018年秋の日本訪問を終えて (1) 坂 達也   2018年11月12日


2018年秋の日本訪問を終えて(1)
坂 達也
 
 マタイ24:37ー44「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らは分からなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。・・・だから目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。・・・なぜなら人の子は、思いがけない時にくるのですから。」 
                         
 今世界はまさに、「見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおう」時となりました。そしてそれ程遠くない将来に「あなたの光が来て、あなたの上に輝く」のです。それゆえに、主が教会に「起きよ。光を放て。」といわれる世の終わりが確実に近づいて来ています。
 それは最後の大リバイバルが目前に迫って来ていることを意味し、しかも東西の預言者たちが、いよいよこの二、三年のうちにそれが始まると言うのです。私たちは、その期待と緊迫感を、アメリカだけでなく、日本でも今回強く感じました。そうであれば、今最も必要なことは、自分の教会とか地域にどのようにしてリバイバルを起こそうかと思い計ることではありません。(但しリバイバルへの祈りは大事ですが)なぜなら、主が私たち教会に言い残された言葉は「リバイバルを起こしなさい」ではなく「大宣教命令」であったからです。
 リバイバルを起こすのは主であり、私たちはその火を消すことなく、持続させねばなりません。しかし最も急務なことは、その大リバイバルから生まれてくるベイビー・クリスチャンを、私たち教会ができるだけ短期間に霊的に養育することであると信じるからです。「その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。」と主はマタイ24:19で警告されています。
 そのためには、私たちの周りのクリスチャンを今こそ最大限に弟子訓練し、乳飲み子を霊教育する多くのリーダーを立て上げるのが私たち急務ではないでしょうか。しばらく前に天に召されたボブ・ジョーンズ師は、天への入り口で主から「これから10億のベービーを生まれさせるから、あなたはもう一度この世に帰り準備しなさい。」と言われて、地上に戻って来ました。

 

 最近私たちのWWGMのブログ・メッセージではリック・ジョイナー師とか、ラリー・クライダー師のものを集中して掲載し、「霊的コイノニアの交わり」とかスモール・グループでのミニストリーの重要性を強調して参りました。なぜなら、週一度の礼拝の集まりだけでは「キリストの花嫁訓練とか弟子訓練」は十分にはできないからです。現にイエスご自身は12人の弟子を3年半の間に地上で育て上げましたから、10億の幼児が生まれるなら、そのために少なくとも一億の育ての親が必要です。しかも最後の大リバイバルは10億に止まりません。
 そこで重要なことは、そのスモール・グループでの集まりで養育係の中心となるのは、あくまで主ご自身であることです。このことをグループメンバーは先ず抜本的に認識する必要があります。そして、それぞれ個人が毎日主と直接交わって得たことを、週に一度のグループ会合で分かち合い、それが牧師に伝えられ、全てが一致して聖霊に導かれて主のご計画が実行に移されねばならないのです。
 そのためには基本的に、すべてのメンバーが主の預言的ビジョンと主の御声を聞く訓練をすることが先決であることは言うまでもありません。そして、そのように訓練されてゆくためにはグループごとに少なくとも1人の霊的に成長したリーダーが必要であると思います。
 就きましては、今回私たちが日本各地を回って語らせていただいたことを下記に要約してご報告させていただきます。
終末の教会に必要なノアの信仰
 神を信じるアベルをいきなり殺してしまったカインの子孫はその後どんどん「生めよ増えよ」で人口が増大しました。そして、悪魔の影響が強く作用した結果、その当時の人間の罪があまりにもひどくなり、彼らの心はいつも悪いことだけに傾くようになったと創世記6章に書いてあります。
 そこで神はついに「わたしが創造したひとを地の面から消し去ろう。」と決意しました。そして、当時一人だけ神に従う人間として残しておいたノアに箱舟を造らせた後、ノアとその家族を含めた八人と地上の動物・地をはうもの・鳥類のすべての種類からそれぞれ雄雌一対を箱舟に乗せた神は、地球上に前代未聞の大洪水を起こし、悪を極めた人類を一掃したのです。
 そこで主が8−9節で言われました。ノアは主の心にかなっていた。・・・ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。と。これだけでも充分に彼がどんな人間であったかが窺い知れます。上記で「その時代にあっても」と書かれている意味は、当時、地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた...実に、それは、堕落していた。すべての肉なるもの、地上でその道を乱していたからである。」と言う状態であったのです。そこで神はノアに「人も家畜も空の鳥に至るまでわたしが創造したものを地上から消し去ろう」と言い、ノアに一艘のゴフェルの木から箱舟を造るように指示しました。
 この船の大きさは長さ300キュピト、幅50キュピト、高さ30キュピトと言う三階建ての巨大な木造船でした。(注:但し原語で使われている cubit  と言う単位は元々「人の腕の肘から、手の指のくるぶし間の距離、あるいは中指の先までの距離」と言う曖昧な寸法であって、その実寸の解釈が聖書学者によってまちまちです。ほとんどの聖書で1cubit  =18インチ=46センチで計算していて、それによると箱舟の長さは140M、横幅23M、高さ14Mですが、ある注釈書によれば1cubit  =22インチで計算し、これらの寸法で箱舟の排水容量トンを計算すると最大3万4千トンになると書かれていました。私は少なく見積もっても2ー3万トンにはなると思いました。と言うのは昔、私のアメリカでのビジネスは、アメリカの国有林を入札して買い付け、それを切り出して自らの工場で製材したもの、あるいは丸太のままで、商社が用意する木材専用船に積み込んで日本に運んでいたので分かるのですが、箱舟はおよそ当時の専用船の大きさに匹敵します。)
 従って私はこのノアの箱舟の話を読む度に興奮し胸が躍ります。何故なら、ノアはこの巨大な木造船を造るのに、恐らく巨木の切り倒しから、運搬、それに製材経験も、造船技術に関する何の知識も無く、また必要な工具とか運搬車も無い時代に、神から言われて「やりましょう」と引き受けたのです。これは当時の人間にとっては先ず絶対に不可能な仕事でした。しかし、22節に「ノアは、すべて神が命じられた通りにし、そのように行った。」と書かれています。
 いや、ノアは考えたに違いありません。「人間には不可能でも、相手は全知全能の神がやれと言うのだから、すべて神に聞き、神に一切を教えてもらい、それを忠実に実行すればできる。」そう腹をくくったのです。ーこれこそ、マルコ11:23で、主が言われた「だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ。』と言って、心の中で疑わず、ただ自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」の信仰そのものではないでしょうか。
 ノアは、ひたすら神からの指示だけを頼りに毎日こつこつと造り上げたのです。山から何らかの方法で巨大なゴフェルの木を切り倒して運んで来る。それを製材・造作して建て上げる。寸法に切った木材を組み立て、その隙間にピッチを塗り込んで防水加工をする。一切を神に頼った。彼の仕事を助ける人は自分の家族以外には誰もいませんでした。何故なら彼の周りは、彼と家族を除いて皆、神が滅ぼそうとしているほど罪で堕落した人たちであったからです
 そこで、箱舟を造り上げるのにどの位の時間が掛かったのでしょうか。一般に100年とかそれより短いと言う人もいますが、私が読んだ二、三の注釈書(Bob Utley’s How it all begun Genesis 1-11,  The Teacher’s commentary,   Alfred Edersheim ’s Bible History: Old Testament)  等によれば、1ペテロ3:20、2ペテロ2:5等を引用して、神は120年間、辛抱強く箱船が出来上がるのを待ったと言う解釈をしています。後日ノアの三人の子どもたちが育って父親を助けたとしても、僅か数人でこれだけの仕事量に100年ー120年掛かることはうなずける話です。
 その上ノアは船を造る傍ら、船を造る目的は神の裁きが来るからだ、悔い改めなさいと説教しても(参考2ペテロ2:5)、恐らく誰も聞く耳を持たず、かえってノアを嘲笑するだけであったのです。クリスチャンとしてこれほどの忍耐を要する経験があるでしょうか。 私が驚嘆するのは、ノアは本当に神と毎日親しく会話できたことです。これこそ「WALK   WITH  GOD」で生きるライフ・スタイルの最高の見本と言えないでしょうか。
 当時の人々は、陸の上で巨大な船を造りながら、人々に世の終わりが来ると警告し続けたノアをからかい嘲笑するばかりで、洪水が押し寄せるその日まで分からずに死んで行ったのです。
 このノアの洪水と箱舟の話は決して単なるおとぎ話ではありません。事実その箱舟の遺跡を発見した人がいます。その人とは考古学者のロン・ワイエット氏で、私はヘンリー・グルーバー師に紹介されて、その人がポートランド大学で公演した際に会い、その発掘の話を詳しく聞きました。発見した場所は今のトルコに当るアララト山の高い山の斜面に遺跡が残っていると言います。
 実は、このノアの方舟の話が非常に重要な意味を持っていることは、本書の冒頭で引用したマタイ24:37−44をお読みいただければよくお分かりになるはずです。神はこの世の終わりに、頑なに真の神を拒否し続ける、ノアの時代と同じような不信仰な人間に対して「最後の裁き」の審判を下すことが聖書では明確に預言されています。しかも、最後の裁きは洪水によるのではなく火によるものであると預言され、2ペテロ3:3−13にこう書かれています。
 「終りの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。・・・何事も創造の初めからのままではないか。』こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。・・・・しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。・・・しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」

 

 神の人間創造のプロセスは、六千年経つ今の時点においても決して完成してはいません。神はET US  MAKE  MAN と言いましたが、その質的な創造行為はこの地球のすべての営みが終わる日まで続きます。何故なら、神がこの地球を造った理由は、ひとえに人間の創造を神の家族の一員として完成させるためであるからです。

 

 度々天を訪れるリック・ジョイナー師は、「地上で苦しみと試練を通して霊的訓練を受けた人と、受けないでベービークリスチャンのままで天に挙げられた人との間にできる霊的成長の差は未来永遠に残る。」と警告します。それは、主イエスが私たちに命じた「大宣教命令」による霊的訓練こそが、神がこの宇宙と地球を造り、そこに人間を生まれさせた究極の目的であることを示しているのです。次回はノアの時代の直ぐ前の時代に生きたエノクの信仰に触れたいと思います。(続く)

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