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Walk With God Ministries

18 02月

希望と信仰を高く掲げよ! ラナ・ヴァウサー(Lana Vawser Ministries)


希望と信仰を高く掲げよ!

ラナ・ヴァウサー(Lana Vawser Ministries)
最近、主がびっくりするような方法で私に語ってくださいました。先日私がお皿を洗っている時、突然ある歌が私の心に響いてきたのです。それは私がサビの部分2行だけ知っていた歌で、ずっと以前私が結婚する前、まだ実家に住んでいたときに母がよく聞いていた歌でした。
私の心の中でその2行が繰り返し大きく響きました。「奇蹟を迎える用意はできているか? もちろん十分に! Are you ready for a miracle? As ready as I can
be!」というもので、私の霊に何度も大きく響きました。私はすぐにこれは主が語っておられるのだと悟りました。それで私は早速この歌の歌詞を捜したのですが、本当にびっくりしました。
イエスは井戸に行って   水をぶどう酒に変えた
ラザロをよみがえらせた  盲人の目を開けた
ガリラヤ人 イエス    水の上を歩いた
「あなたはこれより偉大なことをする」と言われて
あなたと私に力を与えてくださった
奇蹟を迎える用意はできているか?もちろん!
御霊があなたを自由にされる
私は奇蹟の用意ができている!できている!
大きな興奮が私を包みました。神がご自分の民の人生にすばらしくパワフルに働かれようとしておられ、奇蹟が頻繁に起こるようになるのです。物事が好転していくのです。神の超自然的な力が御民の人生に、今までなかったほどにパワフルに顕われるのです。
耳を傾けて主の御こころを知ろうとしたとき、私は「あなたの希望を堅く持ち続けなさい! 信仰を高く掲げなさい!わたしはもうすぐ行きます!」という主の言葉を何度も聞いたのです。
天が地に下ってくるような激しさをもって、神はご自分の民の人生に今まさに来られようとしています。神の力が御民の上に再び大きく導入されようとしているのです。人生の筋書きが変ってきます。新しいページが開かれ、神はキリストのからだの中にご自分を非常に強く顕されようとしておられます。
ユダの獅子が吼えるのを私は霊のうちに聞いています。主は御民のところに、御民を助けるために来られます。主の御名が吼え叫ばれるところに反抗するものは何もなく、神が来られる時に人々の間にシフト(転換)とアラインメント(神との一致、整列)が起ります。その時キリストのからだは、主の誠実さの響きを聞いて震えます。主の誠実さが大きく鳴り響こうとしています!
完全なる変革
主は「わたしはユダの獅子として来る」と告げました。やがて大きな吼え声が多くの民の上に解き放たれ、彼らの人生で最もパワフルな主との一致がもたらされます。彼らの人生の「ある部分」だけが変革されるのではなく、すべての部分が完全に変革されるのです。
イエスは多くの人々にこれまで無かったほどに御力をもってご自分を顕されます。肉体が突然癒されるばかりでなく、状況が突然転換し、鎖や巨人が突然くずれ去り、敵が占領していた地は突然奪回されます。イエスの御名に逆らうものは何一つなくなります。クリスチャンの人生の中でイエスの御名に服従することを拒んでいたものが、イエスの御名により神の力で引き抜かれ除かれようとしているのです。
第二コリント1:20が大きく鳴り響きます!
「神の約束はことごとく、この方において、『しかり。』となりました。それで私たちは、この方によって『アーメン。』と言い、神に栄光を帰するのです。」
今まさに起ころうとしているいくつかの奇蹟の中に、神の約束の大きな成就があります。あなたの生活の中に信仰が高められる環境を造り出し、今まさに起ころうとしている大いなる約束の成就と奇蹟を見るようにとお勧めします。あなたは主の御ことばの約束をずっと信じてきましたが、あまりにも多くの困難や戦いがあったので、落胆し希望を失ったのです。
暗闇の中での戦いは例を見ないほど烈しかったのですが、しかし今、あなたは人生で最大の奇蹟へと導かれようとしています。それはあなたの手とか力によるものではなく、神の御霊によってなされるのです。
イエスの御名によりあなたに今預言いたします。今年、あなたは神の御力を見るでしょう。そして今まで見た事がないような奇蹟があなたの人生に爆発的に起こるでしょう。あなたが「神がなされたことを見てください!」と叫ぶ声が大きく響き渡ります。
詩編70:4「あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、『神をあがめよう。』と、いつも言いますように。」
奇蹟の場所で新しいマントルが与えられる
敵の攻撃が多くのクリスチャンを烈しく襲い、2019年に入ってもそれが続いていることを、主が私に教えてくださいました。主が言われるのを私は聞きました。「敵は今まであなたを砕こうとしてきました。しかしわたしはあなたに『新しいこと』への打ち破りを与えようとしています。」
敵の攻撃がそのように烈しかったのは、「人々が攻撃されていたまさにその領域にユダの獅子が力を帯びて来られ、大いなる奇蹟が解き放たれ、その領域での新しいマントルが与えられるからである」と主が教えてくださいました。敵が必死で戦っていたのは、主が今解き放たれようとしている奇蹟を神の民が受け取るのを阻むためだったのです。
神が解き放たれている奇蹟の中で多くの新しいマントルが与えられます。そして私は見たのですが、キリストのからだの多くの者の上に落ちたマントルの一つは、癒しのマントルでした。
間もなくキリストのからだに 神の癒しの大波が打ち寄せてきます。多くの者が
パワフルな癒しのミニストリーのためにこのマントルを受け取りますが、特に、長い間容赦なく身体を痛めつけられていた者たちがそれを受け取ります。主は人々の身体に超自然的な癒しと健全さをもたらそうとしています。それによって人生が変えられるブレイクスルーが起こるのです。
敵は掴んでいた手を離し、病気の霊はユダの獅子の吼え声によって追い出されるでしょう。デリバランスと癒しが起ります。肉体や精神の大きな
癒しが起り、癒された人たちの上に主は大きな癒しのマントルを与えます。彼らの人生を通して癒しのミニストリーは爆発的に発展するでしょう。彼らは、敵がなぜこれまで自分に病気を与え引き止めていたのかを悟ります。
メディアが奇蹟を報道する
私は主が言われるのを聞きました。「この新しい時代に、メディアは奇蹟が起こったことを報道する。」
主はキリストのからだの中や世界中で、ものすごい力で働かれるので、説明がつかない出来事(すなわち超自然的な奇蹟)が起こったことをメディアは報道し、イエスの御名は高く揚げられ全世界で証されます。
主はご自分を教会に再び顕し知らせてくださるばかりでなく、世界中に力と栄光をもって再び知らせてくださいます。それによって多くの者をご自分に引き寄せられます。国々は震え、神は私たちが見た事もない方法で地上に来られるのです。(詩編27:7−9参照)
地上のものすべてはうめいています。栄光の王が来ること、そして顕された神の息子、娘たちが立ち上がることをうめきながら待っているのです。今は定められたカイロスの時です!今がその時です! 今まで見なかったように、多くの出来事が連鎖し始める時が来たのです。
ハバクク2:14「まことに、水が海をおおうように、地は、主の栄光を知ることで満たされる。」
私は主の布告を聞きました。「わたしが来る時、それはただ『いくつかの事』が変るだけではない。わたしが大いなる力をもって来るので、『すべての事』が変る!もとのままで留まるものは何もない! わたしの民よ、奇蹟の準備はできているか? わたしは来る!」(終り)

12 02月

自分のはかりごとをとりこにする フランシス・フランジペイン     2019年2月12日


自分のはかりごとをとりこにする

 

フランシス・フランジペイン

 

 

 クリスチャンであることで私たちは安心していますが、だからといって私たちが完全な者になったわけではありません。私たちのうちにはまだ多くの霊的要塞があるのです。

それらはどのような要塞であるのかを調べてみましょう。

要塞を一つも持たないクリスチャンはまれです。多くのクリスチャンは、次のような霊的要塞を持っています。ー 不信仰、冷めた愛、恐れ、プライド、不寛容、情欲、欲望等々です。

私たちは自分に対しては非常に寛容で、人生を圧迫している自分の中の要塞をはっきり見極め認めるのが非常に難しいのです。つまるところ、これらの要塞とは、かたくなな自分の思い、考え、態度、物の見方であり、私たちは自分を正当化し自己防衛するのと同じ烈しさで、この要塞を正当化し防衛しようとします。

 

箴言23:7を意訳すれば「人がその心で思うことこそ、その人の本質である。」という意味です。つまり、私たちがどのような人間であるかという本質は、私たちの思考の中にあるのです。

ですからどのような要塞であれ、真にそこから解放されるためには、まず正直に「自分は解放される必要がある」ことを認め、それを告白せねばなりません。「万事巧くいっています、大丈夫です」というふりはやめねばなりません。

へりくだって助けを求めてください。実際のところ、神があなたからまず取り除かねばならないのは「プライド」という要塞です。自分はデリバランス(解放)が必要であることをすすんで認めるまでは、あなたが解放されることは決してありません。

 

私たちのどこが悪いのかをはっきり認識するためには、まず「神が意図された人間のあるべき姿」を知る必要があります。ダビデが有頂天の高みから、或いはヨブが苦しみのどん底から、そして私たちがこの二人の間のあらゆる地点で発した問いは「人とは一体何者か?」という昔から言い古された質問でした。ヘブル書の著者も同じ問いをしましたが、御霊の助けにより次のように答えています。

ーーイエス・キリストこそ、 新しく造られた人間に対して神が望まれる姿のモデルです。イエスは単に私たちの救い主であるばかりか、私たちのうちに住まわれて、私たち、栄光ある多くの子たちを長子であるご自分と同じ姿に形造ってくださるのです。

「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者イエスキリストを、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」(ヘブル2:10)

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神はあらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」(ローマ8:28−29)

「またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造りだされた、新しい人を身に着るべきことでした。」(エペソ4:23)

 

しかしそれと同時に、「イエスのようになれるのは、イエスだけである」ことを私たちはしっかり認識する必要があります。そうなるためには、私たちがますます主に服従し、主の内に住まい、主のことばが私たちの内に住まうならば、主は私たちのうちに単に「主のいのちに似たいのち」を現してくださるのではなく、「主のいのちそのもの」を現してくださるのです!

 

キリストご自身が私たちの内に住まわれるということこそ神の永遠の目的の成就であり、それは即ち、「人をキリストの姿に創造する」ということです。この「主イエスの臨在が私たちの内に現われ出る」ことが、要塞を打ち砕く私たちの宣言に権威を与え、戦いを力強いものとするのです。

 

ですから、あなたの内に「イエスの姿に見習わず、イエスの教えに従わない考え、思い、態度」があるならば、それらを客観的に考察することを学ばねばなりません。あなたはそのような思考をとりこにし、間違った態度を十字架につけねばなりません。

 

私たちは、自分の内に主の来られる道を備えねばなりません。 あなたはただ「主を信じる believe in Him」だけではなく、「主が信じるように信じる believe like Him」まで主の御霊の中に入り一つにならねばなりません。そのためにあなたの上に主の統治、主の主権が増し加わることを願ってください。拒んではなりません。 その時、主の愛、思い、考え、願いがあなたの内から流れ出るようになるのです。

 

あなたがサタンの要塞を明確に見分けてそれを打ち砕こうとするときに、まず壊滅すべき二つ目の要塞 は「不信仰」 です。

I

「キリストと同じ姿になるなんて、私には絶対不可能だ」という偽りの思いを吹き込むのが敵の策略であり、それによってあなたのすべての霊的成長がとりこにされてしまいます。サタンの嘘や心を縛り付ける鎖を、私たちは自分の人生から除き去らねばなりません。

 

ですから、今この時にあなたの霊のうちに祈り始めてください。 あなたの心に聖霊を立ち上がらせあふれさせてください。もしあなたが「おまえは絶対にキリストのようにはなれない」と告げる要塞に苦しめられているならば、今それは打ち壊され始めます。

 

祈りましょう。

主イエスよ、あなたに服従いたします。「私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力あるものです。」(第2コリント10:3−4)

 

「私はイエスのようには絶対なれない」という偽りを、自分の罪の言い訳にし、又、自分の信念を妥協させるために用いたことを悔い改めます。

私は自分の弱く罪深い古い性質を、イエスの御名によって断ち切ります。そして神の恵みと御霊の力により、私の思いの中に存在している不信仰の要塞を打ち砕きます。

イエス・キリストの完全な生け贄の故に、私は新しく創造された者です。そして私は栄光から栄光へと進むことを信じます。神と共に歩くとき、私はキリストの姿へとますます変えられていきます。(終り)


04 02月

最近のヘンリーグルーバー師についてのご報告            坂  達 也  2019年2月4日


最近のヘンリーグルーバー師についてのご報告

 

                   坂  達 也

 

 

 ヘンリー師は、10日ほど前の、1月23日にサンフランシスコから韓国に向かって飛び立たちました。今頃は韓国から沖縄に向かい、沖縄でミニストリーをされているかと思います。韓国に真っ先に行かれたのは、昨年に続き医師(団)によるその後の状態の診察を受けるのが主目的ということでした。

 

 私が最後に師とお話ししたのは、出発の数日前の1月18日頃でしたが、その前に話した時(多分昨年の年末ごろでした)とはうって変わって、師は喜びに満ちた溌剌とした声で、再びアジア各地にミニストリーに出ることを大変喜んでおられました。昨年韓国で手術を強く勧められたのを断り、今は日本のキノコの粉末とエキスを飲んでいて、値段は非常に高いが効果はあると言っておられ、私が驚いたのは、痛みが全くないことでした。ハレルヤ!通常であれば周りに転移状態の末期ガンは背骨等を冒し、かなりの痛みがあるはずと聞いていたからです。今回は沖縄の後、台湾に行き、確かその後に日本本土に戻ってくるとのことでした。ぜひお祈りください。

尚、昨年私たちが来日時に師への献金をお預かりして帰国しましたが、その分は師に郵送させていただきました。もしヘンリー師に献金をご希望される方は、ぜひ私たちのWWGMの方へその旨を書かれて御送金ください。それをまとめて、私たちの方から師にお送りさせていただきます。それではよろしくお願いします。

 

 以下は英文の手紙で、ヘンリー師の家族が出したお礼を込めたニュースレターを訳したものですが、少々遅れて私たちのところにも送られて来たものです。どうぞご覧ください。あるいは既に森先生等から聞かれた方もおられるかと思います。

 

 

感謝のことば         ヘンリー・グルーバー

 

 主に愛されている皆様に、麗しく尊い主イエス・キリストの御名によってご挨拶申し上げます。

 

私と妻、そして家族にとって去年は非常に厳しい時でしたが、皆様が共に堅く立ち共に戦ってくださったことをまず心から感謝いたします。私の愛する妻が生死の戦いをしているときに、私自身も同じ戦いをすることになるとは思ってもいませんでした。私も妻もその戦いは非常に烈しいものでした。そして私の愛する妻ジュディスは、8月に天の家に召されて行きました。私の嘆願を主は受け入れてくださり、私はその時妻の傍らにいることができました。妻は私の腕の中で、2018年8月14日午前12時10分に、本当にやすらかに天に召されました。

 

皆様のお祈りととりなしは、私たちを高く引き揚げ、まるで天の翼に乗っているかのようであり、私たちはこよない平安と安らぎと愛で満たされましたことをお伝えいたします。その喜びと感謝は愛する者を失った痛みを凌駕し、毎日を勝利で進んで行く力を与えてくれています。皆様お一人お一人に心から感謝を申し上げます。

 

私たちの経済的必要にも豊かに答えてくださったことも感謝いたします。ジュディスの医療費、ホスピス代、葬儀のための費用と共に、私の医療費も多くかかりました。

病気のために私は4月から12月まで集会は2回しか持つことができなかったのですが、すべての必要は十二分に満たされました。皆様が喜んで愛をもって尊い献金や励ましの言葉を送ってくださり、私たちの心は感謝で一杯です。皆様に祝福がありますように!

 

2019年について主が私に語ってくださっていることを少しお分ちさせてください。私の家族がいろいろな困難に直面したように、皆様の多くもいろいろな試煉にあわれたことを私は知っております。

 

第一ペテロ5:9b−11「ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人人は同じ苦しみを通って来たのです。あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその栄光の中に招き入れてくださる神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。」

 

今年も又、 予断を許さない混沌とした世界状勢に私たちは面しています。キリストのからだの中では、繁栄の預言や

地上で神の力ある御業が解き放たれるという多くの預言が

語られています。(そして私もまたそれを叫び求めていることを主はご存知です!)しかしながら、私はこのところ神の御ことば、特にエペソ人への手紙で使徒パウロが繰り返し言っている言葉を黙想するときに感動させられています。

 

エペソ1:5−6、8−9

「神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。...神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって...」

 

ここに「ただみこころのままに according to His good pleasure ( 主のよき喜びに従って)」とあります。

どうかこの言葉に目を留めてください。今年はこの言葉を毎日黙想し、私たちの心と魂が再びはっきりとこの真理を理解するようにと祈ります。

 

今私たちはあまりにもメディアによって「自分に心地よいこと」を求めるようにと洗脳されてしまっています。

私たちは「自分が喜び楽しむために何を一番求めているだろうか? 私は日常生活や思いの中の何から喜びを得ているだろうか?何が私の気持を満足させるだろうか?」と自分に問うてみる必要があるのではないでしょうか。私たちはこのようなことから魂の糧と平安を得て、自分の価値を見出だすからです。

 

そして、私たちは今一度、父なる神のこころから流れる親しい交わりについて考えてみようではありませんか。御父の御こころが望まれ喜ばれることは何でしょうか。

次の箇所にそれが書かれていると思います。

 

第一ヨハネ4:16「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」

 

雅歌8:6「私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。愛は死のように強いからです。」

 

私の「天国の六時間」というあかしの中で、天国がどのようなところかを表した言葉を覚えておられるでしょうか。それは「天国では、すべてのものは仕えることを愛し、愛する故に仕えている。」です。神が最も喜ばれることは何でしょうか。それは「御こころが天で行われるように、地でも行われますように」です!

 

すべての国のクリスチャンはこの祈りを祈っています!

今年はこのことをしっかりと捉えましょう。それによって、神の御国が到来し、御心が天で行われるように地でも行われるようになるのです。

愛はすべてを覆うのです。

 

2019年が、 尊い救い主と天の御父に最大の喜びをもたらすことができますようにと祈ります。

 

イエスの御名において  ヘンリー・グルーバー


28 01月

神のフェイバー(特別な厚意) グラハム・クック 2019年1月29日


神のフェイバー(特別な厚意)

 

グラハム・クック

 

 

今回は「神のフェイバーは、私が今置かれる状況の中で、私の益のためにどのように働くのか」を考えてみたいと思います。

まず「神からフェイバーを受けている」とは、「神にお願いすることが許されていて、神に求めることができ、ドアが開かれるように叩くことができる」ということです。そして、キリストにあって神の約束はすべて「YesでありAmen」である故に、あなたの求めに対する神の答えは、必ず「Yes」であると確信することができます。これを忘れないでください。

 

又、「神からフェイバーを受けている」とは、「神は あなたの人生に深く介入することをとても喜んでおられる」ということです。

なぜならば私たちがもっと大きな夢を抱くように神は教えたくてたまらないからです。

神があなたに抱く願望を、あなたの霊がキャッチするならば、あなたの心は大きく広がるのです。

 

ですから 「神は私の味方であり、私と共におられ、すばらしい結末をすでに計画されておられ、その計画を見出すのは私たちにとってとてもうれしく喜ばしいことである。」というのが私たちの出発点です。確かに色々な問題、困難は起きてくるでしょう。しかし、神とあなたによって対処できないことなど一つもないのです。

 

神と私たちの関係は、神がまずあなたの心の中に働きかけてくださり、次にそこで起こることをあなたの思考の内に引き入れてくださるのです。

 

あなたはまず、 神のあなたへの愛情に自分自身を繋げるのです。神は意図的にあなたをすごく贔屓(ひいき)していることをいつも心に留めておいてください。

 

あなたは神の大のお気に入りであり、神があなたに与えようとしている有利な立場を今まさに受け取ろうとしているのです。

 

ですから、今 神のフィエバーの中にゆっくりと安息し、リラックスすることが大切です。それは必ず起こります。

そして神のフェイバーを得ているという確信は、あなたを安息、平安、喜びへと導きます。

 

ですから今、深く息を吸ってください。もしも心配していたり、パニックになっていたり、自分に否定的な思いを抱いているならば、あなたは学ぶことも受け取ることも出来ません。神は常にあなたの味方であり、決してあなたに敵対する方ではありません。

 

ですから、大事なポイントは「今、ここで、神はあなたのためにどのような方となり、何をしてくださるのか」ということであり、これが即ち、あなたへの神のフェイバーです。今の状況の中で神が目的とされるのは、あなたを神との更に深い関係、深い交わりへと導き入れることです。

 

神の「目的」に神との「関係」が合わさったとき、新しいあなたの領地が開かれます。領地とは、 あなたの職場、グループ、家族、友人等のなかで、それが何であれ、今起こっている状況のことです。

 

もしあなたが今外国にいるならば、特別な神のフェイバーを必要としているかもしれませんし、又は家の近所で何かが起こっているかもしれません。あなたの領地とは、神のフェイバーを受け取る訓練をする場所なのです。

 

私たちはフェイバーを受けるための訓練を受けています。

即ち、自分の領地の中でフェイバーを見つけ出す訓練を受けているのです。そこに必ず神のフェイバーが注がれていることを、常に意識し確信するためです。

 

新約の私たちに与えられている課題は、「あなたを決して離れず、すでにいつも共いてくださる神を、どのように捜し求めればいいのか」いうことです。

 

その意味は、あなたはいかなる状況の中でも、意識して神を捜し求めれば、必ずそこで「神を見る」ことができるようになるという事に他なりません。

 

疑いがあってはなりません。初めはなかなかそうならないかもしれませんが、やがてそれは必ず起こります。そのような経験を通して、私たちは主を信頼することを学び、主への信仰が強められるのです。

 

神のフェイバーを受けることは、一瞬にして分与されるというものではありません。それは神の愛をいつも喜びをもって意識することであり、そうすることによって、神は私たちと共におられるという平安に満ちた期待をいつも私たちの心に与えてくださるのです。

そして私たちが神のフェイバーを期待しつつ 神と共に歩く時に、私たちの心は喜びと楽しみに満たされるのです。

 

「喜びを持つこと」は又、 私たちが主と共に歩くことを学ぶための素晴らしい道具の一つとなります。

なぜなら、人生のどのような状況の中にあっても喜ぶことを学ぶならば、その喜びが生み出す神のフェイバーは、私たちが人生で経験するいかなる否定的な思いや感情によっても、侵害されることは絶対にないからです。

その時、私たちの状況の中で問題だったものは、神が造りだす可能性へと変えられていきます。

 

私の心が神の心によって治められることを神に委ねるプロセスを、私は非常に愛しています。そのプロセスによって、無邪気な幼子が持つような単純な信頼感が私の内に涌き上がるのです。

神はいつもまず「信頼」から事を始められます。なぜならば、信頼は信じる喜びと平安を作り出すからです。

そして信頼が確立されたときに信仰が生まれます。信頼と信仰は一つのコインの両面のようなものです。

 

信頼によって私たちは神が善いお方であることを信じ期待します。「神は私の味方である」と信頼し期待するとき、私たちは神の心を知り、神が私たちに与えてくださる約束を受け取る用意ができるのです。

そして、そのような神の約束を受け取る能力が与えられるのも、神からのフェイバーなのです。(終り)


21 01月

死に至るまでも(そのニ) ダニエル・コレンダ                    2019年1月21日


死に至るまでも(そのニ)

 

ダニエル・コレンダChrist for all Nations)

 

 

真の福音とは

 

ティーンエイジャーの頃、私は過激なクリスチャンで、仲間と一緒に「全ての人に福音を伝えよう!」と張り切っていました。サタンから逃げるのではなく、サタンを捜しに出かけて行き、その結果色々な問題を起こしました。ある時、ニューエイジのショップに出かけました。「そこにいるサタンを追い出して、そこにいる人達を救いに導きリバイバルを起こそう!」という意気込みでした。友人二人と一緒に店に入ると、片隅にピアノがあるのが目に入りました。私は当時ワーシップ・リーダーだったので、「ワーシップ・ソングを弾けば、主の臨在が満ちて、敵は慌てて逃げ出し、店中の人たちは救われるに違いない」と考えました。そこで私はピアノを弾きながら「イエスよ、あなたは聖なる方・・・」と歌い始めました。イエスの名を聞けば、サタンは恐れて逃げ去ると考えたからです。

 

しかし驚いたことには、店のオーナーが私の横に立って一緒に歌い始めたのです。私は「えっ、どうして?」と訝しく思い、ピアノを弾くのをやめ、「あなたはクリスチャンですか?」と訊ねました。彼女は「いいえ、私は魔女よ。」と言うのです。「でも、あなたはイエスの歌を歌いましたよね?」と私は驚いて訊きました。「そうよ。だって私たちはイエスが大好きですもの。」というので、私は「イエスが大好きって、どういう意味ですか?」と訊きました。すると彼女は、「イエスはすばらしい人でしたよ。悟りをひらいたグールーで、超越した人でした。大好きです。」と言いました。

 

私はその日、大変貴重なことを学んだのです。それは「みんなイエス様が大好き」ということです。イスラム教の人も、仏教の人も、ニューエイジの人も、無神論者さえ、皆イエスは大好きなのです。どうしてかおわかりでしょうか?

それはみんな「自分が考える自分のイエス」が好きなのです。「善良な人」「グルー」「話の中の人」「偉人」「預言者」等々、皆勝手なイエス像を作りあげています。しかし、あなたは「自分勝手に考える自分好みのイエス」を持つことはできません!イエスは聖書に書かれているイエスだけです!それ以外のイエスは、イエスでは全くなく、偽物です!

十戒の2番目は「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。」です。私たちは最早偶像を造ってそれを拝むことはしないでしょう。しかし、この戒めを現代版にすれば「あなたの神をあなたの形に造ってはならない。」となります。自分勝手に、自分の気分や好み、願望に従って神を形造ってはならないのです。

 

すでに死んでいる人達

 

マタイ5:29−30「もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」

 

私は皆さんに「殉教するために出かけなさい」と言っているのではありません。ジョン・チャウのような人たちが殉教したのは、矢が胸に刺さったときではありません。彼らは出発する前からすでに殉教していたのです。彼らはすでに自分に死んでいたので、誰も彼らから命を奪うことはできませんでした。これこそイエスが私たちすべての者に望むことです。肉体的に殉教するかどうかの問題ではなく、私たちが自分の命を主に明け渡しているかどうかです。

あなたが「私は出かけて行ってイエスのために命を捧げます」と言ったとしても、コンピューターを消すことも、ポルノを見るのを止めることも出来ないならばどうでしょうか。イエスは「あなたの目があなたをつまずかせるならば捨てよ」と言われているのです。これがキリスト教です。冗談ではありません。

 

本物の聖霊

 

1995年にフロリダのペンサコーラでリバイバルが起こったとき、多くのメディアが取材に来ました。ある番組が、そこで救われて聖霊に満たされ劇的に変えられた若い女性とその家族にインタビューをしました。その家族はそれまでずっと伝統的な教会に通っていました。自分達の娘が聖霊に満たされ、異言を語り身体を振るわせている様子を見て、両親は言いました。「私たちは、これは神の業だとは思いません。なぜなら、聖霊は家族の中に分裂をもたらすような方では絶対ないからです。」と。しかし私たちは自分勝手な聖霊を造ってはならないのです。イエスがどのように言われているか見てみましょう。

 

マタイ10:34~39「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについてこない者はわたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」

 

砕かれる者

 

マタイ21:44「また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。」

 

ここに究極の福音があります。私たちは砕かれるか、それとも粉みじんになるかのどちらかです。(broken or crushed)

あなたに与えられている選択肢はこの二つだけで、中間はありません。ある時私は、ワーシップソングを流しながら仕事をしていたのですが、突然「You saved me and now I am better off(あなたが私を救ってくださったので、物事がうまくいくようになった)」という歌詞が耳に飛び込んできました。「better off よくなった、うまくいくようになった」とは死刑を免れた者がいう言葉ではありません!

問題は救いが何であるかを私たちが理解していないところにあります。イエスが十字架で死んだのは、私たちが「少しうまく」暮らせるようになるためでしょうか?違います!地獄に行くことが決まっていた私たち罪人を解放し自由にするために、主は最も残酷な死を遂げられ、そして私たちにも十字架を担ぐようにと言われたのです。

 

イエスの血を飲む

 

ヨハネ6:53「イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。』」

 

イエスはこれを、血を食することを律法で固く禁じられているユダヤ人に向かって言ったのです。主はそれを4度も繰り返し言われ、ユダヤ人を激怒させました。イエスは人の気分を害さないように話す方ではありませんでした。

 

あかしの言葉とは

 

冒頭にあげた箇所をもう一度見てみましょう。

黙示録12:11「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至までもいのちを惜しまなかった。」

 

ここにある「あかし」とは、自分が救われたときのことを話す証ではありません。これはギリシャ語では「marturias」であり、英語のマーターと同じで殉教という意味です。即ち、信仰の故に裁判にかけられている者の口から出ることばであり、イエスを否まないで信仰を貫くならば「死に至る」ことを覚悟したことばです。最終的にあなたが殉教するかどうかが問題ではありません。私たちのある者は、殉教の特権(そうです、特権です)に与るでしょう。でも他の者はそうではないでしょう。「主のために死ぬか?」ではなく、「今主のために生きているか?」が問題なのです。主のために生きられないのなら、主のために死ぬことなどできません。

 

最後にパウロのことばを見ましょう。

第二テモテ4:6~8「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは義の王冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」

 

有名な箇所ですが、最後の「私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」という文に目を留められたことがありますか?

誰でも主のためにいのちを注ぎ出し、勇敢に戦い、走りぬき、信仰を守り通した者には義の王冠が待っているのです。あなたは自分のいのちを愛することもできますし、或いは主の現われを愛することもできます。しかし両方を愛することはできないのです。

 

現在キリスト教界ではしばしば福音は「良い選択肢の一つ」としてしか伝えられていません。説教者は人々が救われることだけに力を注ぎ、「救われるとは、何かを捨てることであり、犠牲を伴うことである」とは教えていませんし、勿論十字架を担うなどとは教えていません。ですから人々は「福音とは、素早く簡単に、安楽で幸せな人生を与えるもの」と思ってしまうのです。そして更に恐ろしいことがあります。私たちは今の世代に「自分のいのちを捨てても惜しくないほどの真の福音の尊さ偉大さ」を伝えない故に、彼らが福音に関心を持たないのだとしたら、何という悲劇でしょうか。

上よりの火が祭壇に下るのは、いけにえが供えられた時です。何もない祭壇に火は下りません。どうか私たちが福音のためにいのちを捧げ、イエスの足元で砕かれるようにと祈ろうではありませんか。(終り)


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