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Walk With God Ministries

16 09月

家族の絆を回復する ラナ・ヴァウサー 2019年9月16日


家族の絆を回復する

 

ラナ・ヴァウサーLana Vawser Ministries)

 

 

最近主を一人で礼拝しているとき、

多くの家族、人間関係の中の亀裂のヴィジョンを見ました。イエスがそのヴィジョンに入っていき、亀裂が主の御霊の力によって修復されていくのを私は見ていました。素晴らしいことに、亀裂がなくなったばかりか、家族間の関係が以前より深く、より良いものとなりました。これを見ていた私の心は畏敬と喜びで溢れ、「これこそ私の神様だ!」と叫びました。

 

これらの亀裂は、痛みやトラウマ、傷が原因でしたが、その他にも、単に忙しすぎたり、優先順位が間違っていることから起こっていました。又、

コミュニケーション不足や誤解、また混乱から起ったこともありました。様々な原因が入り組んで、複雑な亀裂が 入ってしまっていたのです。

 

家族間に亀裂があると感じている人たちにむかって「聖霊の力によって奇蹟的な絆の回復が起こっています!」と宣言せよと、主が言われているのを私は感じました。

 

主は今、家族の中にある亀裂を修復されています。主は多くの人が家族の中に感じている割れ目や大分裂を修復されるだけでなく、深い回復をもたらされるので、以前よりも深い絆と喜びが起ります。

 

家族の絆を強める優先順位と方法

 

主は家族の絆を強める戦略と家族生活の優先順位の大切さについて教えてくださりました。家族の絆の回復が起こっている時に、あなたが主の胸に耳をあてて主の御こころを知り、健全な関係、健全な家族、正しい優先順位を保つための知恵を主に訊ねることが重要です。

 

今家族やキリストのからだの中に、健全な人間関係を培うための知恵がより豊かに与えられています。

主の愛が教会や家族の上にもっと豊かに途切れることなく現われ、

主の御霊の大波が御民を愛で浸します。そして「互いに愛し合いなさい」という啓示が示されると共に、私たちをその実践へと導きます。

 

ヨハネ13:34−35「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることをすべての人が認めるのです。」

 

聖霊のささやき

 

聖霊がささやかれました。「わたしの愛は家族関係の中にある恐れを溶かしてしまいます。わたしは恐れの縛りを打ち破ります。わたしの愛は家族関係の中にある恥とトラウマを取り去ります。わたしの愛は昔の罪や傷を癒します。わたしの愛は家族を縛っていた鎖を打ち破ります。

 

今は家族が解放され新しい自由へと移行する時です。それはわたしのうちに家族がずっと持っていたものなのです。もはや亀裂はなく、フレッシュで深い絆の回復があり、

これから代々に影響を及ぼす健全で深い関係が生まれていきます。」(終り)

 

 

訳者コメント

 

 私がこの祈りに接した時、聖霊より強い示しを受けました。それは今の時代に最も神が望んでおられることであるという思いでした。

このラナ・ヴァウサーさんというオーストラリアの預言者は私たちの大好きな預言者の一人で、この終末の時代に私たちに最も必要で適切な預言をされる方です。

 どの家庭でも家族の間で、また、あらゆる人間関係の中で、何らかの亀裂のない関係はありません。それを主に祈れば聖霊が癒してくださいます。主の愛を心から感謝しつつ、この預言をお届け致します。アーメン。


10 09月

次のシーズンに入る時(その2) ダッチ・シーツ 2019年9月10日


次のシーズンに入る時(その2)

 

ダッチ・シーツDutch Sheets Ministries)

 

 

 

 

考え方を変える必要

 

一つの境界線を後にして次のシーズンに入ると、すべてが変わります。ですから私たちは考え方を変えねばなりません。バプテスマのヨハネが現われたとき、

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と言いました。悔い改め(メタノイア)とは悲しむことでなく、考え方を変えるということであり、ギリシャ語では「考え方を変え続ける。」という継続を意味します。

 

そしてヨハネは、考え方を変えねばならない理由は、「天の御国が近づいたから」と言っています。

彼は言うのです。「御国の王が来られて、アダムの堕落により混乱に陥ったこの世を正しくされるから、考え方を変えなさい。

四千年待ち続けたメシアが今私たちの中におられ、すべてが変ろうとしています。ですからもし罪の中にいるのならば、考え方を変えなさい。もし宗教的なシステムの中で縛られているのなら、考え方を変えなさい。もし自己満足してぬるま湯につかっているのならば、考え方を変えなさい。『悪が支配しているからメシアが来るまで待っていよう』と思っているならば、考え方を変えなさい。メシアはもうすでにここに来られ、蛇の頭を踏み砕こうとしているのですから。」と。

私たちはすでにヨルダンを越えてこちら側にいるのですから、考え方を変えねばなりません。ヨルダンを渡る前とは違う時代に入ったのです。そしてそれはただピクニックをして楽しむ時ではありません。

私たちは今、巨人たちを倒すために行くのです。ヨルダンを越えてその地方を解放するのです。それは即ち、祈りのチームを人身売買の源となっている国々に遣わし、混乱と戦うことです。まだ地上には二千年間福音が届かなかったところがあり、六千年間悪霊の支配下にあったところがあるのです。

今まで六千年の間、神の御業をみたことがない地があるのです。今私たちはその地に行き、「天の御国は今ここに来ている!御国の王は今ここにおられる!」と告げ知らせるのです。

 

キリストのからだの中で混乱していることが一つあります。

ある人たちは、「悪霊を打ち負かす必要はない。私たちはただ主を礼拝すればいいのだ。サタンはすでに敗北したのだから、私たちはただ神を讃美していればいいのだ。」と言うのです。勿論そうです。私たちは出て行ってもう一度サタンを打ち負かすことはありません。しかしカルバリでの勝利を実際に適用し行使せねばなりません。それは誰かがせねばならない仕事なのです。武具と剣が必要なのはそのためです。

私たちは新しい時代に入り、新しい領域に入り、歴史上最大の魂の収穫を見ようとしています。過去二千年間で救われた人よりもっと沢山の人がこれからの20年間で救われてくるのを私たちは見るのです。

 

今まで一度もブレークスルーがなかった人々や土地がブレークスルーを経験します。現在はイスラム国と言われる国が10年後にはキリスト教国と呼ばれるようになります。それは私たちが境界線を越え、新しい時代で用いられるように聖別されたからです。

 

私たちは信仰によって癒しや奇蹟を神から受け取ります。しかし、信仰がなくても癒し、しるし、不思議が豊かに上から注がれるシーズンがあるのです。そのような時には救われてない人でもそれを受けます。不可知論者や無神論者であってもです。

 

そのようなシーズンに私たちは入っていこうとしています。いろいろな集会で大勢が解放されていくシーズンです。私は霊でそれを見ました。でも実際にそれが起こり始める時には、やはり皆さんと同じようにびっくり仰天することでしょう。神と親しく交わるとき、御臨在が部屋に満ち、人々は口々に宣言し、神の力が部屋の空気を満たすのです!

 

集会にイエスの御臨在が顕れ、悪霊たちは「ああ、もうここには居られない!

とても耐えられない!」と叫んで出て行くのです。もし皆さんの集会に悪霊がまだいるならば、ちょっと考えた方がいいでしょう。もし主の栄光があるならば、そして神の顕在が部屋の中に入ってくるならば、悪霊たちはもうそこから逃げ去って行くのです。

 

ヨシュアの失敗から学ぶこと

 

私たちが神のことばを聞き、それに従うならば、敵は私たちを止めることはできません。しかし私たちが自己満足して高慢になるならば、敵にやられてしまいます。

それは、ヨシュアが約束の地に入ったときのようです。彼は2つ目の戦いに破れてしまいました。どうしてでしょうか。

 

それは彼らがジェリコを陥落したことによって悦に入って尊大となり、どのようにアイと戦えばよいかを神に祈り求めることをせず、自分たちの力で戦おうとしたからです。それによって小さなアイに敗北してしまいました。アイを征服するのが神の御心でなかったわけではありません。しかし神はアイがイスラエルを破るのを許されました。彼らが「これは本当に小さな町だから祈る必要はない。」と言って高慢とプライドで勝手に行動を起こし、神に聞いて従うことをしなかったからです。

 

ですから、神があなたを用いて働かれ始めたときでも、常に神に祈り求め、神が言われることに従うことを決して怠ってはなりません。そうすれば、あなたは新たな領地へと進んでいき、新しい時代に入れるのです。私たちは約束の地に入り、勝利と征服のシーズンに入ったのですから巨人たちを倒していくのです。

 

チャック・ピアース師の預言

 

私がチャック・ピアース師とエルサレムで集会をしていた時のことです。彼が

「あなたへの言葉を神から聞きました。意味は神が教えてくださると思いますよ。『わたしはヘブロンを再び開拓する I’m going to pioneer Hebron again.』という言葉です。」と言いました。私は「チャック、それはどう言う意味ですか?」と聞いたのですが、彼は「知りませんよ。でもこれがあなたへの言葉ということは確かです。神がその理由を教えてくれますよ。」と言うだけでした。

 

神はよくピアース師を通して私にそのようなことをされます。神はたった一言、二言を与えることによって、私がその意味を熱心に神に求め続け、

深い啓示と洞察を主から得るためのプロセスに入るようにされるのです。

 

ヘブロンはカレブが征服した町でした。イスラエルの中で最も重要な場所の一つで、ヘブロンという言葉は「契約、友情」をあらわしています。そこはアブラハムとサラが埋葬されている町で、それは彼らが神の友だったからです。又、ユダヤの学者たちによれば、アダムとイブもそこに埋葬されました。イサクやレベカをはじめ旧約聖書の多くの人物も埋葬されています。ですからヘブロンは非常に重要な土地なのです。

 

しかしヨシュアの時代には、すでにヘブロンは巨人アナクの父であるアルバによって征服されていました。彼はすべての巨人の中で最大のものであったと聖書は言っています。

 

 

創世記23:2「サラはカナンの地のキルヤテ・アルバ、今日のヘブロンで死んだ。」

 

創世記23:19「こうして後、アブラハムは自分の妻サラを、カナンの地にある、マムレすなわち今日のヘブロンに面するマクベラの畑地のほら穴に葬った。」

 

ヨシュア14:15「ヘブロンの名は、以前はキルヤテ・アルバであった。アルバというのは、アナク人の中で最も偉大な人物であった。」

 

 

最も巨大で邪悪であったアルバが、イスラエルで最も高い土地に位置していたヘブロンを征服したのは、悪霊は権威を象徴する高い所を好むからなのです。

しかしそれは悪霊が権威を欲し、高き所を占拠したかっただけではありません。悪霊が神をあざけり「神よ、あなたはここは契約とか友情の地だと言っているが、俺は悪霊に憑かれた巨人たちの砦にしてやるぞ。」と言って神の権威に戦いを挑んだのです。

 

カレブの働き

 

カレブは斥候の一人としてカナンの地を偵察したとき、「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」と言いましたが、それはただ高い地を取るためだけではなく、そこに住む巨人達を倒したかったからです。そして45年後に、85歳の彼はヨシュアのところに行き、「どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。」と言いました。(ヨシュア14:12)彼はアルバの町、キルヤテ・アルバに向かい、それを奪回したのです。そして又そこを「ヘブロン 」という名にもどしました。

 

又、ヘブロンはキリストの予形、型であり、のがれの町の一つとなりました。神が私に「ヘブロンを再び開拓せよ」と言われたのは、私たちと神との交わりを略奪していた霊的巨人たちを追放し、回復するという事なのです。

 巨人たちを失脚させ、ヘブロン(神の臨在、神との交わりの場)を再び取り返すのです。それは2007年に私が見たボクシングリングで巨人たちをノックアウトする夢の成就でした。

 

昨夜ピアース師は「ダッチさん、5人の巨人をやっつける時がきましたね。今ですよ。」と言いました。というのは、私は夢の中で倒した巨人は5人いたからです。私は主に5人の巨人とは何かをはっきりと教えてくださいと頼みました。その一人は「堕胎」です。もう一人は「不正な政治組織」だと思います。私たちは霊的要塞を取り除き、暗やみ、抑圧、偽りを地にはびこらせている巨人たちを取り除いて、その地を解放し、その地が福音の光を見ることができ救いが起こるように今からしていくのです!(終り)


03 09月

次のシーズンに入る時 ダッチ・シーツ 2019年9月3日


次のシーズンに入る時

 

ダッチ・シーツ(Dutch Sheets Ministry)

 

 

 

 20年ほど前に私はある宣言をしました。その時私は主に向かって

「主よ、私は今まだ起こらない事を宣言していることを知っています。でも油注ぎが私の上に注がれると、『これが起こる!起こっている!御国が来るように!御こころがなるように!』と私は宣言せずにはおられないのです。

霊のうちに20年はまだ起こらないことを感じているのですが、しかし、今それを宣言せねばならないことがわかるのです。 」と申し上げました。

 

ある時私は、イザヤ46:10を思い巡らしていたのですが、そこには「わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げる」とありました。すると主が私に語ってくださいました。

「わたしは『初め』から始めるのではありません。『終り』から始めるのです。わたしがすべてのことをすでにわかっているのは、そのためです。わたしには『やっとこれをすることができた。』とか『やっと決めることができた。』ということは決してないのです。

わたしは終りのことを初めから宣言し、わたしがすでに見て宣言したことを保証するのです。わたしから油注ぎを受けるとき、あなたはわたしと同じ霊的領域に入るのです。ですから、あなたが見るものを宣言し、わたしが語っていることを宣言し続けなさい。いつか遂には『その時』がわたしの宣言に追いつくのです。」

 

そして主は「何年も前の預言、約束、宣言、祈りが今という時と交わり出会っている。」と言われました。これはパワフルな言葉です!

神はアブラハムとサラに「あなたがたは、わたしの約束を信じ、また信じるために24年間努力し、もがいてきました。でも今、『時』がきました。今が『その時』です。」と言われました。

主は遂にアブラハムのところに来て 「来年の今ごろ、イサクが生まれます。」と告げられたのです。

 

それと同じように、「その時」というシーズンに今私たちは入っていこうとしているのです!

「あなたが20年前に宣言したとき、それが20年先まで起こらないことをあなたは知りませんでしたね。」と主が言われました。そして神は今アメリカに言っておられます。「あなたの祈りは聞かれています。あなたはわたしと一致しています。あなたが祈り、宣言し、語り、わたしと共に労苦したので、今わたしはあなたを通して働くことができます。今大いなる魂の収穫のブレークスルーのシーズンへと入っています。答えを見るシーズンに入っているのです。」

 

パウロの時

 

昨夜私はパウロのことを考えていました。使徒行伝13:2で聖霊が「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」と言われました。パウロはダマスコに向かっているときに神との劇的な出会いを経験しました。彼は殺人犯でした。クリスチャンの殺害を指揮していたのです。彼らを家から引きずり出し牢獄につなぎました。悪人だったのです。しかし彼は「自分は神に仕えている。」と信じてそうしたのです。神はパウロを捉え、彼の間違いを示しました。主はご自身を現し、パウロを変革させました。そして「パウロ、あなたはわたしのためにこのような働きをする。」と言われました。その後パウロは12、3年間の準備期間に入ったのです。

 

彼の準備の中には、ただ何かを与えられ学ぶだけではなく、彼がそれまで持っていた宗教的システム、宗教的思考態度、今までの学習の中の間違いを取り去るという作業もありました。そして遂に

「パウロとバルナバをわたしのために聖別せよ。」と神が言わる「その時」が来たのです。言葉を代えれば、「約束」と「その時」が交わり出会ったのです。

 

ORIZO 天命

 

昨晩主が思い出させてくださった言葉があります。オリゾ(ORIZO)というギリシャ語で、英語のHORIZON(水平線)の語源であり、天命とか目的という意味をもちます。水平線は境界線とか領域を示し到達すべき地点をあらわすので、自分の人生の天命とか使命、召し、目的を意味するようになったのです。即ち、神があなたのために目印をつけた地点であり、それがあなたの目指すべき目的であり、天命なのです。「これがあなたの人生でわたしがすることです。」とか「これが今のシーズンにわたしがすることです。」と神が言われる地点なのです。

 

Orozoの前にproをつけると、神が予め定められた目的、天命という意味になります。予め定められた(predestined)、とは、前もって決められているという意味です。即ち、神があなたの天命、デスティニーを用意して持っておられるということす。神はあなたの人生で何をしてもらいたいかを一生懸命頭をひねって今考え出そうとしているのではないのです。あなたが最初の息をする前から、神は天にある本にあなたの名前とあなたのための計画をすでに書かれているのです。

 

 そしてすべてのシーズンに、神はシーズンの境界を設けられ、私たちはシーズンからシーズンへ、栄光から栄光へと進んでいくのです。神が予めあなたのためにシーズン毎の「ゴール、目的」を定めておられるのです。一つのシーズンの境界線に辿りつき、それを越えるならば、あなたは次のシーズンに入り、次の境界線、即ちあなたのために主が約束され、用意された目的、召しのゴールにむかって進み始めるのです。使徒行伝13章でパウロとバルナバに起きたことは、彼らが一つの境界線を越えた時のことでした。彼らは次のシーズンに入り、次の境界線を目指して歩き始めたのです。今まで目指してきた境界線を後にして進み始めたのです。

 

神はあなたをも次のシーズン 、次の目的へと押し出しておられます。ここまであなたを導いてくださった神が、つぎの地点へとあなたを送り出されるのです。神は「パウロ、わたしは15年前に預言し宣言しましたが、今、その『宣言』とその『時』とが交わり出会ったのです。あなたはただ忠実にわたしに従ってきただけだと思うでしょうが、わたしはそれ以上のことをしてきたのです。あなたはここまで進んできたのです。さあ、ここを越えていきなさい。」と神は言われたのです。そして使徒行伝13章で歴史が変わりました。神が15年前に語られたパウロの伝道が始まったからです。それまでのシーズンはパウロにとって準備期間でしたが、これからのシーズンで彼は最初の宣教師となり、福音は西に広まっていき、彼の死後もそれは続き、やがては全世界が福音で変革されていったのです。

 

このシーズンで起こること

 

神が今私たちに告げている新しいシーズンへ越えていくとき、それはただ単に神が素敵なことをしてくださる次のハッピーな時に入っていくのではないことを、神はあなたに知ってほしいのです。そうではなく、あなたは個人としても、教会としても、又都市、州、国、世界としても、神からの定められた天命を成し遂げるために入っていくのです!(続く)


26 08月

裁かれている花嫁 キム・ブラック(Kim Black Ministries) 2019年8月26日


裁かれている花嫁

 

キム・ブラックKim Black Ministries)

 

 

 

 

花嫁のヴィジョン

 

ある時礼拝中に、主の御霊が私をヴィジョンの中に連れていきました。それは、姦淫の場で捕えられた女が公衆の面前で辱めをうけているところでした。(ヨハネ8:3−11)批判者、告発者、誹謗者、宗教家、懐疑論者などが彼女を囲んでいました。

宗教家達が女を裁くために彼女を真ん中に立たせました。そしてイエスに「あなたの下す判決は何か?」と問いつめました。心の中で彼らは「この女はモーセの律法に従って石打ちの刑に処せられるべきだ。」と思っていました。

 

当時のパリサイ人や律法学者と同じように、今の社会は「キリストの花嫁」に対して裁きを下しています。人々は「もう、教会など必要ではない。」と言うのです。教会は多くの罪を犯しています。即ち、言うべきときに沈黙していること、自己満足、無気力、物欲、偽善等ですが、その他、列挙すればきりがありません。

 

「神の花嫁」は裁判所の真ん中に立たされて、過去の様々な過ちの故に、その存在価値があるかどうかの評決を待っています。しかし、当時のパリサイ人が「キリストがもたらした新しい日とその恵み」を理解できなかったのと同じように、現代の批評家たちもそれを理解していないのです。

 

イエスはご自分の花嫁を今もなお愛しておられるのです。事実イエスはあなたを今もなお愛しておられます!主はご自分の教会を助けることを恥とはしておられません。あなたは確かに有罪かもしれませんが、主は今もなおあなたを求めておられます!今は新たなる恵みと救いの日であり、キリストはあなたの罪を全部消し去り、あなたを御そばへ招いてくださいっています。

 

イエスはあなたを告発する者を黙らせた!

 

イエスは地面に何を書いておられたのかと、 人々はいろいろと考えてきました。多分、主は周りの人々が犯した罪のリストを書いていたのだろうと思います。

人々はイエスの書かれた文字の中に自分の不誠実を見たのです。キリストが文字を書いたのは、人々の心という地面でした。彼らの心は罪の意識で満たされ、最早この女を非難して立っていることができなくなりました。

今、非難が「キリストの花嫁」に対して浴びせられています。教会に対する訴訟が集まってきています。教会は、社会や伝統的な宗教批評家、評論家たちの面前で裁きを受けています。

残念なことに、確かに教会は「花婿イエス」に対して数多くの不誠実な罪を犯してしまっています。あなたの愛情が他の愛人に向いてしまったことがありますか?金銭、名誉、成功、家、車、キャリア、ファッション、娯楽という愛人達に。

 

しかし、それらの罪にもかかわらず、「愛」が告発者たちの真ん中に立ち、

デスティニーという地面に文字を書くために身を低くされたのです。キリストが書かれている間、「兄弟の告発者」は非難や糾弾を投げつけます。でも安心してください。もうじき主は書き終わりますから。

 

「あなたの告発者たちはどこにいますか?」

 

年長者からはじめて人々は皆広場から立ち去り、イエスと共に残ったのは女一人となりました。すべての非難、告発は静まりました。「婦人よ。あなたを罪に定める者はどこですか?」と主は訊かれました。主の臨在の中では、非難や告発は声を失うのです。

主の臨在の中で私たちは自由に願い、自由に御父から受け取ることができるのです。大祭司なるイエスは、ご自分の花嫁に対してなされたすべての告発を取り消すことができます。イエスはご自分の血潮によってあなたのために弁護してくださるのです。イエスの血潮は花嫁の義を証言するのです。

 

コロサイ2:14「いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」

あなたは律法の要求事項から完全に自由にされたのです!

無罪で再出発することができるのです。今あなたは白紙の状態で新しい日を始めたのです。キリスト・イエスにある新しい始まりがあなたを待っています!

 

姦淫の場で捕えられた女のように、私たちも主と二人きりになり、「あなたは自由だ」という主の御声を聞かねばなりません。私たちの新たな日は主の臨在の中、主との親しさの中に始まります。キリストの花嫁の裁きが完全に終止符を打つためには、彼女は主に近づかねばならないのです。主との親密さが彼女を完全に無罪放免にするのです。

 

姦淫の女は、今や群衆や愛人たちに価値をおくのではなく、キリストに価値をおく者と変られてその場を去りました。彼女は素晴らしい高価な真珠を見つけたのです。

 

これからも私たちを非難し攻撃する武器は作られるでしょう。しかし私たちが受け継ぐものはキリストの義です。主こそが真の宝です。主の御声と主の血潮が告発者を黙らせ、私たちに敵対する武器を取り上げ、無力にするのです。

教会に対する裁きの声が上がっています。しかし私たちの遺産であり尊い宝は、花婿なるキリスト・イエスなのです。

 

イザヤ54:17「あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、さばきの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める。これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。主の御告げ。

 

鳩の目をください

今は私たちを最初に愛してくださったお方のもとに帰るときです。どうか鳩の目の油注ぎを主に願ってください。

雅歌5:12「その目は、乳で洗われ、池のほとりで休み、水の流れのほとりにいる鳩のようです。

 

鳩は一生同じ相手とつがいます。

二羽の間には大きな愛と献身があります。夫婦の鳩の目は他のものを見ることなく互いを見つめ合います。今日、もしあなたが他のものを見て気が散っているならば、花婿なる主に戻ってください。主はあなたを招いておられます!主をじっと見つめ、心を主に定めてください。

 

花嫁の焦点が花婿にもどるとき、花嫁は花婿の奥の間に引き寄せられ、そこで清められ、罪と恥から放免されます。そしてそこで花嫁は「神の御国が来ます!」と布告宣言する力が与えられるのです!

(終り)


19 08月

主の前に立つ者(その2) リック・ジョイナー 2019年8月19日


主の前に立つ者(その2)

 

リック・ジョイナーMorningStar Ministries

 

 

預言のミニストリーの中の惑わし

 

預言のミニストリーの中に侵入している惑わしがあります。

私は50年以上教会の歴史を研究していますが、偉大な預言者でもある一時、道を逸れてしまうことがあります。ですから、誰かが少し間違ったからと言って、簡単にその人を裁くことはしたくありません。私が尊敬する聖書の人物たちも、ある一時少し道をはずしたのです。しかし、もし「自分は絶対大丈夫だ。」と過信するならば、間違ってしまう危険性が大きくなります。ですから、私はここで注意を喚起したいと思います。

 

時々預言的な啓示を受ける人が、神はすべての事に関して自分と同じように考えると思いはじめ、神から聞くことではなく自分の考えを預言し始めることが起りますが、それは究極の惑わしです。たとえ素晴らしい預言的啓示を受けたとしても、神の深遠な考えと私たちの考えとは、かけ離れていることを知らねばなりません。彼らが自分の考えを「神から受けました」と言って預言し始めるならば、深刻な偽りとなります。ですから、「そのような感じがした インプレッションがあった」というようなレベルで「主が言われました」とは決して言うべきではありません。低いレベルの預言的啓示は非常に歪められやすいのです。

 

偏見や、自分の中にある癒されていない傷などによって歪められます。それは惑わしを生みだす肥沃な土地となります。サタンがベルゼブル(蠅の王)と呼ばれるのは、多くの預言が偽りの上に立っているからです。あなたに傷があると蠅が傷口にたかって化膿させ、傷が癒えないようにするのです。皆さんがどのような傷を持っておられるのかわかりませんが、主の祭司としての資格を持つことはできません。旧約時代の祭司もかさぶたがある者は仕えることができませんでした。かさぶたは癒えてない傷だからです。あなたは仕えることができないばかりではなく、それは惑わしと悪の温床となります。

 

多くの人が「私は傷つけられた」と言いますが、私たちクリスチャンは傷つけられる権利は持っていないのです!傷ついたままでいる権利はないのです!どのように裏切られたとしても、私たちには傷を持ったままでいる権利はありません!イエスよりも傷ついた者はいません!イエスより不正な手段で傷つけられた者はいません!しかし、イエスは何と言われましたか?「父よ、彼らをお赦しください。」と言われました。

 

私がクリスチャンになった時、「主があなたの戦いをしてくださる。しかし、まずあなたは赦さなければならない。」と教えられました。ですから誰かから悪いことをされた時、その人を赦す努力をしました。そして主がその人をコテンパにやっつけてくれるのを待ちました。しかし、イエスは「父よ、彼らをお赦しください。」と言ったのです。それは究極的な赦しです!

 

イエスは傷を受けたまさにそのところに、権威が与えられました。彼の打ち傷によって私たちを癒す権威です。

私たちが人に裏切られたりして傷つくのを主が許されるのは、その傷によって他の人を癒す権威が私たちに与えられるからです。

 

イスラエルが荒野で受けた最初のテストはマラの苦い水でした。彼らは3日間水なしで荒野を歩きました。どれほどの渇きだったことでしょうか。想像もできません。水を見たとき、彼らは狂喜しましたが、それは飲むことができない水でした。彼らが最初に学ばねばならなかったことは、「苦い水をどのように甘くするか」ということでした。モーセが木を投げ込んだときに水は甘くなリました。

ほとんどの場合木とは十字架を示します。私たちが約束の地に入るために、最初に学ばねばならないのは、苦いことを甘くすることです。そして癒しの権威を受けるのです。

 

私たちに確かにある印象が与えられることがありますが、それはそのまま「私はこのような印象、インプレッションを持ちました。」と言うべきであって、それを主からのものと言うべきではありません。

パウロも1コリント7:12で、「これを言うのは主ではなく、私です。」と「主からの啓示」と「自分自身の考え」とをはっきり区別しています。印象は神から影響を受けていることはありますが、そのレベルでは大抵の場合、他のものも混じっています。例えばコーヒーを飲まなかったからであることもあります。コーヒーを飲んだら、預言が変ることでしょう。(笑)自分の思い、感じを預言のように伝えるならは、神はほんとうに重要な預言をその人には委ねることはしないでしょう。私たちは「神の言葉」をもっと尊び大切にせねばなりません。

 

ある時私は主に文句を言いました。(私は主に文句を言ってもいいと思います。人に対して文句を言うのはいけませんが、主には言っていいのです。)「主よ、あなたはどうして私にはいつも厳しい預言をくださるのですか?」と。ジョン・ウインバー師は私を人に紹介するとき「これは私に対していい預言は一つもしたことがない人です。」とよく言いました。確かにハッピーでポジティブな預言を彼にしたことはないと思います。彼のことを全く知らなかったとき電話で始めて話したのですが、彼は「ヴィンヤード(ウインバー師のミニストリー)に対する神の言葉がありますか?」と私に訊ねました。私はヴィンヤードとはワインのためのぶどう園かと思いました。(笑)「ぶどう園に対する言葉などあるだろうか」と戸惑っていると、主が言葉を与えてくださいました。主は「スキャンダルがヴィンヤードに起ころうとしている、と伝えなさい。」と言われました。私は「ぶどう園にスキャンダルとは何のことか?」と思いましたが、主はそれだけしか言われなかったので、そのまま彼に伝えました。そしてまさにその翌日、彼のミニストリーで最悪のスキャンダルが勃発したのです。素晴らしいことに、彼は権威を持って大胆さと知恵でその問題に対処しました。

 

私は本当に厳しい預言を伝える役目をいつも主から与えられるのですが、今はそれを厭いません。幸いに私は、天の様子、王なるイエスの栄光を何度も見ることができたので、この世の艱難はすべて克服されることを確信できるからです。

 

 

臨在の中にある喜び

 

詩編16:11「あなたの御前には喜びが満ちています。In Your presence is fullness of joy. 」

 

戦争や災害がやってきたときに、どのようにしてそれを喜ぶことができるのでしょうか?

もし落ち込んだり、落胆することがあるならば、それは私たちが主の臨在から離れてしまったからです。主が私たちを離れたり捨てたりすることは決してありません。主が動いたのではなく、私たちが動いたのです。ですから不安や恐れに襲われたならば、私たちは先ずこう言うのです。「私は主から離れてしまっていた。主に近づこう。そうすれば主は私に近づいてくださると約束された。主のそばを歩くならば、喜びが満ちるのだ。」主に近づけば近づくほど、私たちの喜びは満ち溢れるのです。

 

「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。『聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満つ。』」イザヤ6:1−3

 

私がクリスチャンになり立ての時、この箇所を読んだのですが、「これはちょっと変だ。おかしい。」と思いました。「これほど世界に戦争、飢餓、病気、暴虐、悪があるのに、どうしてセルフィムは『栄光は全地に満つ』などと言えるのだろうか?」と。すると主が答えてくださいました。「それは彼らがわたしの臨在の中に住まうからです。もしあなたがわたしの臨在の中に住まうならば、あなたはただ栄光を見るのです。」

 

私たちは実際に起こっている様々な悪を見ない訳ではありません。しかし神の究極的な結末に栄光を見るのです。私たちは違う視点で見なければなりません。

神のすべてのメッセージは「回復」なのです。聖書の最初の3章と最後の3章で完全なストーリーとなります。創世記の最初の3章ですべてが失われましたが、黙示録の最後の3章ですべてが回復されたのです。

 

ヨハネが高い山に連れられたとき(黙示録21:10)、新しいエルサレムを見ました。その時までは、彼が見たのは、偽りの教会、バビロン、偽預言者、獣等でした。しかし次に彼は新しいエルサレムを見たのです。彼が高い山に連れていかれ、視点がかわったからです。私たちが谷から預言することは、正確かもしれません。そして多くの人がそこから「サタンの計画」を預言するのです。ボブ・ジョーンズ師はそれを「第二の天の啓示」と呼んでいました。彼らは将来起こることを見せられ、それを預言します。それは正確なのですが、彼らがそれを見せられた理由は預言をするためではなく、それが起こるのを止めるためなのです。しかし彼らは「サタンの計画」を見せられて、それをそのまま預言してしまうのです。しかし主がネガティブで悪いことを啓示されるのは、それが起こることを止めるか、少なくとも被害を軽減するためです。

 

私たちのするべき事

 

悪いことが起こるという啓示を受けたとき、私たちに出来ることが二つあります。一つは「悔い改め」であり、もう一つは「とりなしの祈り」です。新約の型であり影であった旧約においても、モーセはこれを理解していました。民数記16:45−46で主はモーセに「あなたがたはこの会衆から立ち去れ。わたしがこの者どもをたちどころに絶ち滅ぼすことができるように。」と告げられましたが、彼はアロンに「火皿を取り、祭壇から火を取ってそれに入れ、その上に香を盛りなさい。そして急いで会衆のところへ持って行き、彼らの贖いをしなさい。主の前から激しい怒りが出て来て、神罰がもう始まったからだ。」と命じ、民のために贖いのとりなしをしたのです。「香」は何を表していますか?

祈り、とりなしです。モーセはここで、とりなしの祈りがどのように神罰を止めることが出来るかを、私たちに語っているのです。

 

私たちが空しい思いをとりなしに変えるならば、私たちの世界はどれほど違ってくるでしょうか?

私たちは空しいことを考えたりいろいろな恐れで自分の思いを一杯にして、無駄な時間を過ごしていることが何と多いことでしょう。その代わりにクリスチャンが時間と思いをとりなしに用いれば、家庭や教会、地域、国はどれほど変ってくるでしょうか。

 

ヘブル7:25「キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」

 

もしあなたがイエスの臨在の中に生きたければ、主がしておられることをすることによって主と一つとなれるのです。

 

イザヤ6章でイザヤが主を見たのは、ウジヤ王が死んだ時であったのは興味深いことです。イザヤはウジヤ王に希望をおいていました。ウジヤ王は義しい王でした。どうして神は彼を取られてしまったのでしょうか。しかし、イザヤはそれよりももっと高い希望を見ることができたのです。彼はセラフィムが「全地は主の栄光に満ちる」と歌うのを聞いたのです。あなたがただ「悪いこと」だけを見て「主の栄光」を見ないならば、あなたの見るものは歪んできます。あなたは悪いことを見ないのではありません。人は罪を示されなければ悔い改めることができません。

主も人の罪を指摘されました。しかし主は「悔い改めなさい。あなたは罪人だから。」とは言いませんでした。主は「悔い改めなさい。神の国は近づいたから。」と言われたのです。あなたは「御国」が見えますか?

新しいエルサレムが見えますか?

 

これからの時代への備え

 

現在、どうでもいいような預言が多く語られています。 主からではなく人の魂からの言葉、人を喜ばせるための預言やお世辞、万事うまくいく、等というものです。そしてそれはひどい結果をもたらそうとしています。なぜならば、もうすぐに恐ろしいことがやってこようとしているからです。イエスご自身も「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるのです。(マタイ24:21)」と言われました。主はその時私たちがどのようにすればよいかと言われましたか?

主は3つの事を言われました。

 

1.固く立つ。自分の信じること、真理、義

のために、どのような代価を払おうとも、どのような結果になっても、それを世に表明する。クリスチャンはそのように召されている。

2.見上げる。御座におられる方を見つづける。何が起ころうとも主から目を離さない。必ず究極的には勝利があることを知る。

 

3.喜ぶ。決して喜びを失わない。あなたが喜びを失うならば、それは即ち主の臨在から離れることである。主と共に歩み、主の内に留まるならば、どうして喜びをなくすことがあるであろうか。

 

主がある時私に「終りには主の民はあまりにもハッピーなので、この世は私たちが知恵遅れだと思うくらいになる」と言われました。私たちは人々の苦難に対してハッピーなのではありません。それに目をつぶるのでもありません。しかし、主が「これらのことが起り始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。あなたの贖いが近づいたのです。」(ルカ21:28)と命じておられるのです。何が起こっても私たちは悲しむのではなく、主を見上げて喜ぶのです。

私たちが喜ぶとき、それは私たちが御国の住人であることの証拠であり、来るべき御国に入る者です。御国は「義と平和と聖霊による喜び」(ローマ14:17)なのです。

 

ではこの3つをするにはどうすればよいでしょうか。私たちにはできません。主は不可能な命令をされました。ただ一つの方法は「不可能のない方」に拠り頼むことです。私たちは自分の子供や近所の人たち、またすべての人に憎まれると主が言われました。憎まれるときあなたはわくわくしますか?しかし、もしあなたが揺るがないで真理に立ちつづけ、義と平安と喜びを失わないならば、あなたを憎んでいた多くの人があなたのそのような姿を見ることによって、偽りから解放されるのです。もしあなたが固く立たないならば、この世と共に流されてしまうのです。

 

詩編32:6「それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に。まことに、大水の濁流も、彼の所には届きません。」

 

今こそ主にお会いする時です。(終り)


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