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Walk With God Ministries

14 08月

二つの椅子     坂 達也        2018年8月14日


二 つ の 椅 子

                   坂  達 也

 

 

 私は最近両目が急に見ずらくなりました。実は4−5年前に医師から白内障の手術を受ける時が来たと言われていましたが、恐らく信仰で少し癒されてよくなっていたものが急に元の悪い状態以下に悪くなったと思われ、その手術を行いました。そしてその後、立て続けに痛風(左足親指付け根が痛み出す)から帯状疱疹(背中左側から左腕手首まで)に発展しました。どちらも主な原因がストレスにあり、いずれ過激な仕事をしていた若い頃やったものの再発です。そして未だ疱疹が治り切らない前に、突然急性一過性脳虚血と思われる発作が起き(これは脳梗塞の初期に起こる症状)急患で二日間入院してMRI検査等の結果でそれが分かりました。今は自宅で静養中ですが、更に精密検査を受けております。ということで現在は身体全体が弱っておりますが、少しずつ良くなっており、やっとコンピューターの前で作文ができるように回復しましたので、これを書かせていただいております。

 就きましては、最近たまたま私たちのミニストリーが始まった頃に季刊誌として書いていた「マウンテンパークだより」2001年秋号に私が書いた文章に目が止まりましたので、それを下記の通りご紹介させていただきます。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーー

 

 私もクリスチャンになってからいつの間にか30年近く経ちました。しかし何年経ってもいつもハッとすることが一つあります。それは今の自分は信仰で生きているのかどうかという反省です。少々大げさに言えば、クリスチャンは常に一つの意思決定を迫られていると言えます。それは一瞬一瞬、自分の身分証明を要求されているようなものではないでしょうか。

 フランシス・シェフアー師の表現を借りれば、クリスチャンは常に二つの椅子のどちらかに座って生きていると言います。一つは信仰の椅子、もう一つは不信仰の椅子、すなわち古い肉のままの自分で生きている椅子、そのどちらかに座って生きています。そして一日何回椅子を変えようと、いつもどちらかの椅子に座っていて、中間とか両方の椅子のどちらかの椅子に同時に座っていることはあり得ないというのです。

 クリスチャンになった後も、私は長い間不信仰の椅子にどっかり座ったままで、一生懸命信仰で生きようとして来ました。別の言い方をすれば、古い自分をよくしようと努力していました。古い自分(自己中心の魂の部分)を懸命に殺そうともしていました。しかしパウロはこれは全く無駄なことであると言います。私は長い間のこの無駄な努力を重ねた結果、最近やっとその間違いが実感として分かって来たのです。

 クリスチャンの内には、死んだ筈ですが実はピンピン生きている「古い自分」と、生まれ変わった「全く新しい自分」という二人の人間が共存しています。信仰で生きるには、古い自分は無視して(臭いものには蓋をして)新しい主と共にボーンアゲインした自分で生きる(主と共に、というより主ご自身が生きてくださる)ーつまり椅子を変えるしかないということです。

 

 シェファー師は「不信仰の椅子に座ったままでクリスチャン生活を送ろうとすると、たとえどんなに大きな声で賛美をし、どんなに熱心に宣教活動しても、それはほとんど全て(主の御心ではなく)自分で考えた肉と魂の行いでしかない。そこでは自分が宇宙の中心に置かれていることに変わりはなく、その人のクリスチャンライフの全てが遊戯であり、その人がどんなに戦うふりをしても、その人は所詮「おもちゃの兵隊」でしかない、なぜなら霊の戦いは肉では闘えないので全く役に立たない兵隊であるからだ、と言っています。付け加えるならば、そういう人は、自分の論理から出た「頭のクリスチャン」でしかないと厳しく決めつけています。そして、「信仰から出ていないことはみな罪です。」(ロマ書14:23後半)を強調しています。「信仰がなくては神に喜ばれることはできない。」(ヘブル11:6)どころか、「信仰から出ていないことはみな罪」であるならクリスチャンにとってこれは大変なことではないでしょうか。

 

 最近久し振りにシェファー師の「True Spirituality] を読見返して見て、もう一度上記の信仰のあり方の秘訣を学んだことは大変有益でした。

 今朝も起きて直ぐ、自分は今信仰の椅子に座ることをはっきり決意したところ、いつものように早朝の「主を見上げて待つ」祈りに入るやいなや、主のすばらしい御臨在の中に飛び込んで行くことができ、喜びが溢れ始めました。又、日中車を運転していたときでしたが、はっと思い出して信仰の椅子に坐り直す意識を持った途端に、喜びと主への賛美が心の内に迸り出ました。ハレルヤ。

 

 ところで「信仰で生きる」とはどういうことでしょうか。簡単に言えば、「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。・・・」(ガラテヤ2:20)を信仰で生きることです。少し難しくいえば、「自分のなるべき姿、約束されている身分と責任を今現実のものとして生きるということではないでしょうか。

 

 古い自分ではなく、新しく主と共に蘇った私たちは、神の神殿であり、神の御霊が中におられ、イエスキリストの全権大使としての権威と力を備えた神の世継ぎの一人であるという大変な身分なのですね。しかも神が自分の中に住んでおられるだけでなく、自分もキリストの中に住む、つまり父の右座にキリストと共に位置するという既に今、神の家族の一員であるという、これが私たちクリスチャンの身分証明書であることを、そしてその特権と責任を帯びた人間であることを忘れてはならないと思います。

 ということで皆さまも、この辺りでぜひ一度ご自分の信仰の生き方をチェックされることをお勧め致します。 【以上で2001年文章を終わります】

 

 

私に今起こっていることの意味

 

 上記に書いた文章に照らし合わせて、私の身体に今起こっていることが何を意味するかは明らかです。そしてこの現実が神からの厳粛かつ重要なメッセージを意味することに気付き、心から反省するに至りました。

 実は上記の文章を書いた2年後の2003年春に、私は最初の拙本「主を見つめて待つー霊に目覚め・神の声を聞く方法」の初版を出版しました。この本をお読みいただいた方なら、この「主を見つめて待つ」が上記の文章「二つの椅子」の内容に基づいたテーマを中心として書かれていることにお気付きになられると思います。そうであるとすれば、明らかに私は、自分自身の書いた「クリスチャンの目標」に沿った「信仰の椅子に座った生き方」が15年後の今、出来ていないが故に、疲れ果てた瀕死の病人になったことにお気付きになるはずです。すなわち、正直に申し上げて、私自身が提唱しながら、その生き方がいかに難しいか、私自身が見事な失敗の見本でもあることが一目瞭然です。それを主から今回気付かされ、身を低くし自分の至らなさを悔い改めております。お赦しください。

 

 しかしその主が、私を今回主にあって蘇らせくださる約束を私ははっきりと信仰で受け取りました。

 

 就いては、最近私たち夫婦が送ったお見舞い状に対しご返事をいただいたヘンリー・グルーバー先生からの貴重な励ましをいただいたことを付記させていただきます。その励ましとは下記の4つのみ言葉でした。(但しヘンリー師には私が今このような状態になったことを知らせてはいませんので、ご自身に起こった今回の奇跡的な癒しに対するご自身の見解を書かれたものです。)

 

1ペテロ5:8−11 「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。」

 

Ⅲヨハ1:2ー3  「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいるその真実を証言してくれるので、私は非常に喜んでいます。」

 

ヘブル11:25 ー27 「罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。 彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。」

 

ロマ 8:18 ー39「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。・・・そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。・・私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。・・・神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」

 

 ヘンリーグルーバー師は、今までに少なくとも3度の死の苦しみに会いましたが、今回主が彼を3度目の奇跡的「蘇り」の経験を下さったと最近のビデオで証しています。

 私たちは1995年に神のご計画によってグルーバーご夫妻と出会い、日本の愛知県におられる安田先生ご夫妻の招きによって泉の森の開所式に参りました。それ以来ヘンリーグルーバー師は毎年2回か3回、この23年間欠かさず日本を訪れて下さった大変な主の器です。私たちは最初の10年間師にお供し、後は森明先生にバトンタッチして現在に至っております。(加えて、沖縄にも別途毎年欠かさず訪問されています。)

 

 グルーバー師の言われていることは、私たちクリスチャンで「主に選ばれた者」とは、主と同じ十字架の苦しみを受けて培われる「霊的訓練」を何度転んでも起き上がり忍耐を持って「死ぬまで」あるいは「主の再臨まで」喜んで走り続ける者の姿ーそれを言えば、上記のみ言葉はみな、キリストの「使徒」たちが綴った「自分の十字架を担いで主の後を追う」実際の姿を血の涙で綴ったものです。

 

 実は「真の救いー永遠の命」とは、それ程尊く価値のあるものであることを、私たち自身が、後から主に従ってついて来る後輩の「求道者」に見せて励まし伝えねばならないと思うのです。それが福音でなくて何でしょうか。

 

 私にとっては、それが2コリント3:18に書かれている「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を帰られて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」 の御言葉の意味するところであると信じます。(終わり)


07 08月

神からの教えを受け入れる大切さ スチィーブ・ポーター 2018年8月7日


神からの教えを受け入れる大切さ

 

スチィーブ・ポーター

 

「誠実さは、人生がばらばらにならないようにまとめる接着剤です。私たちは常に誠実さを堅く保つように努力せねばなりません。富を失っても、あなたは何も失いません。健康を失うと、何かが失われます。しかし人格を失うと、あなたはすべてを失います。ビリー・グラハム」

 

心の奥底で私たちの霊は、 「もっと真摯で深いクリスチャン生活を送りたい」と願っています。このような願いを持つ霊は、大いなる富や珍しい宝石、

或いは素晴らしく偉大な能力よりもっと尊く価値があるのです。それは「教えを受け入れる霊 teachable spirit」です。

 

指示や教訓を尊ぶ

 

常に更なる深みを目指したいと願う勇士は、教えを喜んで受け入れます。アブラハムの人生を学ぶならば、彼がなぜあれほどまで祝福されたかが明白です。彼は何よりも教えを尊び、神の戒めを喜んで守りました。それはただ「喜んで聞く」だけではありません。「知恵を得たい願望」が「安楽への願望」より大きくなったとき、私たちは「教えを受け入れる」心を持つことができます。

私たちは教えを喜んで受けいれる心を持っているでしょうか? 主から、また人々から知恵を受け取る謙虚さがあるでしょうか?

時として私たちは教えを受け取る心を失い、健全なアドバイスを拒否してしまいます。

このような時私たちは、ルールに従うよりルールを曲げることを望んでいるのです。しかし、それは決して私たちを祝福の場所へとは導かず、むしろ人生を破壊してしまいます。聖書に「高ぶりは破滅に先立つ」とあるように、私たちは危険な場所で孤立してしまうのです。

 

私はナアマンのことを思い出します。彼は肉体を蝕む癩病が癒されるのを願いましたが、神のメッセンジャーにヨルダン川に行って7回身を洗うようにと言われたとき、怒ってそこを去りました。確かにそれは一見奇妙で馬鹿げた指示であり、ナアマンの肉の思いには意味をなしませんでした。自分の地にはもっと良い川があるのに、どうしてヨルダンで身体を洗わねばならないのでしょうか?

 

しかし、彼の本当の問題はヨルダン川ではありませんでした。指示に従い癒されるために必要な謙虚さを、彼のプライドが阻んだのです。最終的に彼の癩病は癒されましたが、それは彼が知恵の言葉に耳を傾け、心を変えて謙虚になり、油注がれた神の人のシンプルで明瞭な指示に従ったからでした。

 

肉を十字架につける

 

同じように、私たちも深い信仰生活を送るためには、肉を十字架につけ、たとえそれが自分の考えとは違うときでも謙虚に従う必要があることを悟らねばなりません。そのためには御ことばを求め、聞き、学ぶことを常に追い求めていく姿勢が大切です。謙虚になると私たちはプライドをはぎ取られ、心が柔くなります。そして教えを受け入れるようになり、自分のしたい事を一人で勝手にするよりも、神への親密さを慕い求めるようになります。

 

教えを受け入れるようになるにはプロセスが必要です。私たちは教えを素直に受け入れる者でしょうか? 学んでいるでしょうか?

たとえ辛くても自分の人格や誠実さを一番大切に守っていきたいと強く望んでいるでしょうか。

箴言8:32「子どもらよ。今、わたしに聞き従え。幸いなことよ。わたしの道を守るものは。」

 

主に近づいて聖霊のかすかな細い声に耳を傾ける者を神は祝福されます。しばしば私たちは聞くことを拒否し、主の御声、主の警告、そして主からのはっきりした危険信号さえも無視します。もし主に聞いていないなら、私たちは学んでいません。もし学んでいないならば、成長していないのです。このサイクルは決して止まることがありません。ですから今私たちが立ち止まり、「見張り、待ち、聞き、従うこと」を始めなければ、祝福は決してやってきません。

 

箴言8:34−35で、神は私たちに「見張り、待ち、そして主を

見いだせ」と教えておられます。これらはすべて私たちが毎日実践すべき「行動を表す動詞」であることに留意してください。実際、私たちは主が教えたいと願っておられる事に、いつも油断なく注意を払っているべきです。そしてそれにただ気がつくだけでなく、熱心に知恵と真理を捜し求めねばなりません。エレミヤ29:13に「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」とある通りです。

 

神の御声を聞くことを学ぶ

 

ホセア4:6「わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしはあなたを退けて、わたしの祭司としない。あなたは神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れよう。」

 

「聞くこと」は神にとって非常に重大なことです!聖書には「もし私たちが神のおしえを退け、知恵を無視するならば、神は私たちを祭司(神の御国の代表者)にはされない」と書かれているのです。私は「神が誰か役に立つ者を捜しておられる時、見過されたくはない!」と願います。私は「神の御心の真ん中のいる」以外のことは何も望みません。

 

箴言8:32−36「子どもらよ。今、わたしに聞き従え。幸いなことよ。わたしの道を守る者は。訓戒を聞いて知恵を得よ。これを無視してはならない。幸いなことよ。日々わたしの戸口のかたわらで見張り、わたしの戸口の柱のわきで見守って、わたしの言うことを聞く人は。なぜなら、わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、主から恵みをいただくからだ。わたしを見失う者は自分自身をそこない、わたしを憎む者はみな、死を愛する。」

 

聖書は神に聞く重要さを強調していて、この短い箇所にも三度「聞く」という言葉が出てきます。

エゼキエル3:7にはイスラエルの民は「鉄面皮で心がかたくなである」とありますが、もし私たちが神に聞かないという悪癖をつけてしまったならば、この言葉は私たちに直接当てはまるのです。 (終り)


30 07月

40週の厳しい労苦は今終る ダグ・アディソン 2018年7月30日


40週の厳しい労苦は今終る

 

ダグ・アディソン

 

今週は多くの人にとって転機となる非常にエクサイティングな時です。今から40週間前に、あなたの一年のデスティニーが明らかにされましたが、それが今週産み出されるのです!

仮庵の祭りの最終日はホシャナ・ラバー(Hoshana Rabbah)と呼ばれ、神がこれから一年のあなたのデスティニーを明らかにする日です。今私たちはモーセの律法のもとにはありませんが、私たちのデスティニーを解き放つとき、神はユダヤ暦に従って働かれます。

 

ユダヤ暦の新年(ロシュ・ハシャナ)に、主は私たちを吟味し始めます。それから10日後の贖罪の日(ヨム・キッパー)に、新しい年のデスティニーが決められますが、それが最終的に啓示されるのは仮庵の祭りの最後、ホシャナ・ラバーの日であり、それは2017年10月11日でした。

 

私に関して言えば、すべてのことがその日から上向きになりました。戦略的な啓示を沢山受けましたし、更に深い主との出会いを体験するようになりました。しかしそれと同時に、かつてないほどの激しい霊的戦いも起こるようになりました。戦いの間、私は自分に与えられていた預言の言葉をしっかり握りしめていなければなりませんでした。数ヶ月の間、次から次へと戦いをせねばならず、それは終りそうもないように思えました。

 

新しいものを産み出す

 

赤ちゃんは通常40週間、胎の中で育ちます。2018年7月18日が私たちの昇進とデスティニーが啓示されてから、即ちホシャナ・ラバーから丁度40週目に当たりました。主が私に、「あなたのこれまでの40週間の労苦は、新しいものを産み出すためにあったのだ」と語ってくださいました。

これから起きようといているリバイバルをもたらすためには同じように 出産の困難なプロセスを要するのです。

 

イエスを妊っていたマリアとバプテスマのヨハネを妊っていたエリサべツの出会いは、生れ出ようとする神のムーブメントの表れでした。エリサべツがマリアと胎の中のイエスに会ったとき、彼女の胎内でヨハネが喜び踊りました。(ルカ1:41)

その時マリアの口から自然に主への讃美がほとばしり出ました。その讃美に目を留めるようにと主が私を促されました。マリアの言葉は現在社会で起こっていることをあらわしています。

ルカ1:52(主は)権力のある者を王位から引き降ろされます。低いものを高く引き上げ(られます。)」

2017年10月以来40週の間、私たちは厳しい労苦をしてきました。主はその労苦を、権力者や敵を王位から引き降ろすために用いられました。へりくだって主を求め続けた者たちは、今高く引き上げられようとしています。

 

声の回復

 

バプテスマのヨハネの父であるザカリヤはエリサべツが子を妊っている間、声を失っていました。(ルカ1章)これは私たちが経験していることの預言的なしるしでした。私たちはこの世に対する声を失い、まわりにいる多くの人から拒絶されました。しかし私たちが天からの主の新しい歌をしっかり受け取るので、主がこの状況を変えようとしておられます。マリアとザカリヤは即興の(スポンテニアスな)歌を歌い、それが霊的環境をシフトさせたのです。

 

即興的(スポンテニアス)な歌は天を開く

 

今、スポンテニアスな歌や祈りに大きく油が注がれています。もしあなたがこの40週間、困難や労苦を通って来たのならば、今は即興的な歌と祈りを内から涌き上がらせ声に出す時です。それは霊的環境をシフトさせます。

励まされてください!あなたの経験した困難な時は無駄ではありませんでした。私たちは苦しみと忍耐を通ることによって、霊的な驚くべき新しい事をまさに産みだそうとしているのです。

あなたの上に主が天を開こうとされていますから、その備えをしてください。夢、ヴィジョン、超自然的な出会いや深い知恵、啓示が増加わってくるのを、見逃さないように注意深く見ていてください。(終り)


23 07月

神の御声を聞く道 アダム・ウイッテンバーグ 2018年7月23日


神の御声を聞く道

 

アダム・ウイッテンバーグIHOPカンサス)

 

あなたは神の御声を聞きたいですか?あなたの人生に対する神の御心を悟り、もっと確実に御心の真ん中を歩みたいですか?

打ち破りを切に求めていますか?そのための簡単な(しかし、同時に非常に難しい)第一歩がこれです:主に降伏して明け渡すことです!

 

降伏する力

 

私たちが神の御声を聞いて御心に従うのを阻むのは、多くの場合、自分自身の思いや意志です。実のところ私たちは、心の奥底に物事に関する自分自身のプランを 持っているのです。

例えば、どんな職業につくか、誰と交際するか、誰と結婚するか、自分のミニストリーはどれほど進展するべきか、等です。そして自分の考えを本当にはあきらめたくないのです。神は私たちに話すことができないのではありません。実際のところ神は度々語られます。しかし私たちはそれが自分の期待したものと違うので聞き逃してしまうのです。「私のこのプランがなりますように。」という思いにしがみついているからです。

 

イエスは完璧な模範

 

私たちが神に降伏し明け渡すための力を必要とするのはそのためです。「信仰の創始者であり、完成者である」イエスは、私たちのためにゲッセマネの園で模範を示してくださいました。(ヘブル12:2)

裏切りや責め苦、そして十字架上での酷い死を目前にして、主は御父に苦悩の叫びをあげられました。

 

マタイ26:39「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」

イエスは自分が願うことに関して正直でした。自分の感情や願いを隠しませんでした。しかし次に主は驚くべきことを言われたのです。「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください。

 

私たちは皆この言葉から学ぶことができます。時として自分の願いが神の御こころと一致することがあり、その場合は自分の願いがかなえられますが、いつもそうではありません。しかしまた、私たちが自分で何かを願う時、それは絶対神からの思いではないと考えるのも間違いです。なぜならば私たちの抱く願いの多くは、もともと神が私たちに与えたものだからです。しかしそのような場合にも、その願いと自分自身をまず神に明け渡さねばなりません。

 

自己を否定することは解放

 

マタイ10:39「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」

イエスは、「自分のいのちを得ようとする者は神と福音のためにそれを失わねばならない」と言われました。私たちも自分に死ぬことによって(即ち自己中心な願望を捨てることによって) 神がキリストをよみがえらせたように、私たちもよみがえらせていただくのです。霊的によみがえり変革されるならば、私たちは主が導かれるならどこにでも主と共に行くことができる心の解放を得るのです。

 

それは、私たちの霊が神の言葉に素直に従えるようになるので、神は私たちを楽々と導くことができます。私たちが神に服従すればするほど、神は私たちにもっと簡単に話せるようになります。聖書には馬や驢馬のようであってはならないと言っています。

詩編32:8「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。あなたがたは、悟りのない馬や驢馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押さえなければ、あなたに近づかない。」

 

あなたの選択

 

どのくらい神を信頼するかは、私たち各自に任されています。私たちが主に信頼すればするほど、たとえ厳しい状況の中でも主に拠り頼むことができるようになっていきます。

これは終末の時代において特に重要なことです。神の指令の中には、私たちには奇異に思えることもあるでしょうし、この世が進む方向に逆行することもあるでしょう。しかしもし昔の歌にあるように「より頼みて従うならば」、私たちは星のように輝くのです。(ダニエル12:3)しかしもし自分のアイデアや知恵に固執するならば、災難や試煉、そして時には死にさえ直面するかもしれません。

箴言14:12「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」

 

実践する

 

ではどうすれば明け渡して降伏できるのでしょうか?ただ実行するのです!それはまずあなたの決意から始まります。私たちはイエスがゲッセマネでされたように祈ることができます。「父よ、できますならば、どうか(ーあなたの願いをここに入れるー)、しかし私の願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と。

 

私たちが天の父を心から信頼し始めるならば、服従の思いが自然に流れ出します。御父はすべてを知っておられ、愛そのものであられ、常に私たちに最高のものを与えたいと思っておられるのです。私たちは自分の恐れ、肉の思い、利己的願望を捨て、自分に対する神の完全な御こころを喜んで受け取ることができるようになるのです。

箴言3:5−6「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」

 このようにするならば、私たちはもっと主と同じように考え、主が感じることを感じ、主が知っておられることをもっと知り、主がされることをするようになるでしょう。それは、ローマ8:6に「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」とあるように、私たちは死に至る肉の思いではなく、いのちと平安をもたらす霊的思いを持つ者となるからです。

 

私たちは「父よ、私の思いではなく、あなたの御国がきますように。御こころが天でなるように地でもなりますように。」と明け渡し降伏して祈ろうではありませんか。

主はあなたに何を明け渡すように言われていますか?(終り)


16 07月

最初に救われた者への油注ぎ ジェニファー・イーヴァス    2018年7月16日


最初に救われた者への油注ぎ

 

ジェニファー・イーヴァス

 

私はメッセージを頼まれたときは、いつでもその集会に合わせて十分に準備をするようにしています。祈りを重ね、御ことばを調べ、とりなしのチームに背後のサポートを頼みます。最近ニューヨークのブロンクス地方に行ったときも、そこに集まる牧師たちや他の様々な出席者たちのためのメッセージを準備をしました。ところがそこに向かう機上で、

私ははっきりと聖霊の臨在を感じ、御声を聞いたのです。主は私の心に「過渡的な者たち transitional people」と一言語られたのですが、私はそれが意味するところをすぐに理解しました。

「過渡的な者」とは、家族の中で一番最初にクリスチャンになった人のことです。聖書の中にはそのような人が沢山出てきます。

バプテスマのヨハネや初代教会の使徒、信者らです。最初に救われたということは、その人は過渡的な橋渡しの役目を担うことになります。ほとんどの場合、橋渡しは家族の中で果たす役目であり、家族を古い生き方から新しい生き方へと導くものです。

あなたは自分の家系を主のもとに取り戻し、霊的祝福を取り戻すのです。家族で最初のクリスチャンとして、あなたは非常にユニークなチャレンジに直面することになります。何世代にも渡ってサタンがあなたの家系の中に築いた要塞を打ち壊し、イエスを「家族の中で一番強い者」と成すためには、激しい霊的戦いをせねばならないのです。

 

主は家族の方向転換のために力をくださる

 

エゼキエル3:9「わたしはあなたの額を、火打石より堅い金剛石のようにする。彼らは反逆の家だから、彼らを恐れるな。彼らの顔にひるむな。」

 

これは、反抗的なイスラエルを取り扱うために主が預言者エゼキエルを選ばれ、彼に指示を与えておられる箇所です。あなたは預言者ではないかもしれませんが、ある意味において、あなたは「家族のための預言者」なのです。

最初に救われて橋渡しをする者として、あなたは主の言葉と教えを家族に伝え、

真の道を指し示すのです。義なる生き方をあなたの後に続く子ども、孫、ひ孫にまで教える声となるのです。

 

主は、あなたに神の頑固なしぶとさを与え、以前慣れ親しんでいた「破滅への道」へ引き戻そうとするプレッシャーに耐える力をくださいます。家族の中に主の道を備えるとき(それはあなたの一生涯を要する仕事ですが)、家族を方向転換させるために受けるプレッシャーによってあなたは遂にはダイアモンドに変えられるのです。

あなたは灯台の光、希望の輝く声になるでしょう。聖霊が言っておられます。「未来のあなたの家系はあなたの光を指差して『私もあなたのようになりたい。』と言うでしょう。」

 

あなたを見るとき、神は過去と未来 を含む家系全体を見られる

 

聖書には長くて少しばかり退屈な系図があるのを御存知でしょうか。例えば「アダム、セツ、エノシュ、ケナン、マハラルエル、エレデ、、、、ハムの子孫は、クシュ、ミツライム、プテ、カナン。」(1歴代誌1:1−2、8)という具合にです。このようなリストは聖書の中に幾つか書かれていますが、それは神は私たちを一個人として見るのではなく、過去と未来を含む家系全体として見ておられるという大切なメッセージなのです。

 

これが「もし家族の一人が救われたならば、全家族が神の救いのご計画の中に入れられる」という約束の土台となっている原則なのだと思います。使徒行伝16:31に「ふたりは、『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』と言った。」とあります。神は家族の上に特別の賜物と召しを与えられたのです。それはそれぞれの家系に神が与えられる祝福です。

 

1歴代誌12:32「イッサカル族から、時を悟り、イスラエルが何をなすべきかを知っている彼らのかしら二百人。彼らの同胞はみな、彼らの命令に従った。」

ここに知恵と悟りのあるリーダーの賜物を持っていた一族を見ることができます。それはただ個人としてではなく、一族全体が地上での任務を受けていたことがお分かりでしょうか?

ある家系は音楽や芸術であり、また 政治、五役、教育、ビジネス等の家系があります。

それぞれの家族には家族全体の任務があり、果たすべき御国の目的を成就するために神から祝福と油注ぎを受けているのです。家族がその任務を遂行しようと決意するとき、油が注がれ始め、すべてのくびきをうち砕くのです。

 

主は何世代にも渡る家系の祝福を回復されています!主は家族を彼らに与えられている任務へと引き戻しています!

これらの多くの任務は呪いの下に埋められてしまっていました。家族の呪いは、家族が主に背を向けたときに始まりました。

 

神への反逆は常に結果を伴い、その結果は子ども、そしてその子へと及びます。しかしながら、家族をその任務に引き戻すには橋渡しをする過渡的な人物が必要なのです。これは言うのは簡単ですが、行うのは非常に困難なことです。

 

過渡的な人は往々にして戦闘的です。それは家系のすべての呪い、 悪霊、

弱さに対して自分一人で戦わねばならず、新たな伝統を打ち立てるためにすべての困難に一人で立ち向かってきたからです。

 

家族の罪を告白し破れ口に立つ

 

過渡的な人は家族の悔い改めにかかわります。彼らは破れ口に立ち、イエスの御名によってすべての呪いを打ち破ります。

2歴代誌7:14「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」

 

もしまだこの祈りをしていないならば、今日天の御父と共に時を過ごし、あなたの家族が神に対して犯した知る限りの罪を悔い改めてください。彼らが犯したすべての罪を知ることはできないでしょう。しかし家族のための悔い改めのプロセスを始めるときにはそれで十分です。

あなたは訝しく思われるかもしれません。「どうして私が他の人の罪のために悔い改める必要があるのでしょうか?それは一体どんな役に立つのですか?」と。聖書の中には、自分の家族、町、地域が過去と現在に犯した罪を自らが悔い改めて、彼らを罪のサイクル、偽りの信心、他の神々と結んだ契約等から解放している例が沢山書かれています。

 

あなたは家族のための預言者

 

例えば、モーセは金の子牛を拝んだイスラエルの民の罪のために悔い改めました。ダニエルはペルシャとギリシャの悪魔の権威から人々が解放されるように悔い改め、その結果彼らは解放されました。新約では、最初のクリスチャン殉教者であるステパノは、最後まで自分を迫害した者たちのために悔い改めました。後にサウロがイエスと運命的な出会いをしたのは、ステパノの悔い改めがあったからだと言われています。

家族の過去と現在の罪を、まず祈りで、そして聖霊の助けによる実際的な行動を通して自分が責任を取るとき、まだ救われていない家族の上に天が開かれ、

聖霊による罪の示しに対して彼らが心を開くようになるのです。

 

この時点であなたは家族からの反発を最も激しく受けることになります。それは彼らが罪の責めを感じ始めるからです。あなたはそれに決して腹を立てないで、ただ熱烈に祈り、決して腹を立てず、彼らを愛し通す決意をせねばなりません。

 

もしあなたがキリストの贖いによって、どのような呪いから解放されたのかがはっきり分からないならば、聖書に書かれているリストを見てください。

のろいは最早あなたのものではありません。(ガラテヤ3:13、申命記28参照)

病気、長患い、疫病、早世、無力感、破滅、狂気、困惑、盲目、貧困、消耗、負債、旱魃、敗北、弱さ、低い身分、危険、家庭崩壊、不妊、孤独

 

宣言せよ

 

過渡的な者として、「更に偉大なこと」のために宣言してください。

ヨブ22:28「あなたが事を決めると (decree a thing 事を宣言すると)、それは成り、あなたの道の上には光が輝く。」

ここで「事を決める(decree a thing)」に使われているdecreeという言葉のヘブル語はgazarで「命令する」という意味であり、それはただ事が成就するように命令するだけではなく、同時に何かが分離し切り取られることを命じる言葉です。

この宣言によって神の光が すべての道に輝くという力強い約束が与えられています。それは即ち、この宣言は暗闇の王国からのすべての攻撃を切り取り破壊するということです。

 

次のように声を出して宣言しようではありませんか。

「私と私の家とは、主に仕える。」(ヨシュア24:15)

「私は神を愛し神の戒めを守る。故に私の家族への神の祝福は千代に及ぶ。」(申命記7:9)

「私の息子、娘は繁栄する。彼らは主からの夢を見、幻を見る。」(使徒行伝

  2:17)

「私の家族はますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛される。」(ルカ2:52)

・私の家系のすべての祝福が現され機能する。祝福、賜物、能力、霊的賜物は一つも失われない。

・現在と未来のわたしのすべての家族は救われ、聖霊に満たされ、心から主に仕える。

・家族の中の男性に対して宣言する。彼らは主に仕える。女性に対して宣言する。彼女らは主に仕える。すべての子ども、孫、ひ孫等々に対して宣言する。彼らは主に仕える。

・聖霊が私の家族を司る霊であり、イエスの御名が私たちのとりでであることを宣言する。(以上が宣言)

 

過渡的な者としてあなたは打ち破りと方向転換の油注ぎを聖霊から受けています。あなたには多くの恵みが注がれています!(終り)


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