19 05月
その石を捨てなさい!
ビル・ヨント
最近私は一組の男女が 歩いているのを見ていたとき、 強い罪意識に襲われました。私は彼らの様子を見て、すぐに「彼らは深い罪の生活をしている」という結論を出し、その罪の内容までも断定し始めたのです。その時、聖霊が私の心の思いを遮ってささやかれました。「でも、もしかして彼らがわたしを見つけたいと心の内で叫んでいて、 奇跡なしには今日の一日を生きていけないのだとしたらどうか? 二人のうちの一人が『今日なにかよい事が起こらなかったら、命を断とう』と考えているとしたらどうでしょうか? そして、わたしが彼らを見る機会をあなたに与えたのですから、わたしが彼らに触れてわたしと出会うように出来るのは、あなたを通してだけだとしたら、どうでしょうか? あなたの手にある石を捨てなさい。」と。
「主よ、 あなたが見られるようにその人を見ることができるようにいつもしてください。私がもう二度と石を取り上げることのないように助けてください!」と私は心で叫びました。
文字は殺し、御霊は生かす
「わたしがあなたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」ヨハネ6:63
何年も前のことですが、交際をしている若いカップルのことを私は心配していました。彼らの関係が主の御前で清くないことを強く感じていたからです。私はその若い女性に、私はあなたとあなたのボーイフレンドと一緒に話をしたいのですが、と頼みました。彼女は承諾しました。これは彼らの交際の仕方に関しての「 聖なる対決」になると分かっていましたので、私は彼らの罪をはっきりと示すような聖書箇所を集め始めました。
彼らと会う前の夜、私は彼らをやっつけるための弾丸(聖句)を銃に一杯こめ終わり、私の指は銃の引き金を引きたくてむずむずしました。その夜ベッドに横たわると、主が寝室にはいってこられ、次にように 語られたのです。「息子よ、明日若いカップルと会うとき、彼らにはネガティブな言葉は一つも言わないようにしてほしいのです。あなたが疑いを持ち、あるいは事実として知っているような彼らの罪の生活に関しては、何も言わないようにしなさい。ただ『神はあなた方の人生に大いなる召しを与えられていて、それは予定通りのスケジュールで進んでいます!』とだけ告げなさい。」
主は私からつめた弾薬をすべて取り去られました! 翌日彼らと共に座についたとき、私はただ次の言葉を告げました。「あなたがた二人の人生には神からの偉大な 召しがあり、それは予定通りのスケジュールで進んでいます!」
その瞬間、彼らの顔つきが変わりました。彼らは私が彼らのライフスタイルを知っていてその話を持ち出すとばかり思っていたので、驚いたのだと思います。すべてのことをご存知である全能なる神ご自身が、自分たちの罪に目を留めるのではなく、恵みの目をもって自分たちを見ていておられることに(気が付き)彼らは衝撃を受け畏敬の念をいだきました。
私たちが人の霊にむかって話すならばその人の霊が立ち上がり、肉にむかって話すならばその人の肉が立ち上がることを、私は今教えられています。もしも私が話そうと思っていたことを話したならば、彼らはもう二度と私の前には現れなかったかもしれません。私が神からの言葉を彼らに告げた時から、少しずつ彼らの心は主に向かい始め、6ヶ月後に彼らは教会に通い始め、神を心から信じ、誰にも言われないのに十一献金をするようになりました。
人々に神のことを話す前に、まずその人たちのことを神に話し、神が彼らをどのように見ておられるかを知ることが賢明でしょう。人々を悔い改めに導くのは主の慈愛なのです。(ローマ2:4)もし私たちが神の見られるように人々を見て、神が彼らについて言われることを言うならば、魂の収穫はずっと容易く起こると私は思います。ヤコブ2:12−13「自由の律法によって裁かれる者らしく語り、またそのように行ないなさい。あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。」
神は私たちを愛しているだけではなく、好きなのです
何年も前のことですが、 ある祈りに対して主が私の思ったようには答えて下さらなかったので、私はいらいらしていました。いや、いらいらしたばかりか、神に対して一日中その事で腹を立てていたことを私は告白します。その夜、眠りにつこうとした時、主は次の日曜日に私が奉仕をすることになっていた教会のことを非常に明確に語り始められました。
私が一日中腹を立てて主に話もしなかったのにも拘わらず、主から私に話かけてくださったので、私はびっくりしました。私は主にお聞きしました。「私が一日中あなたに腹を立てていたのを知っておられるのに、どうしてこんな風に私に話しかけられるのですか?」主が答えてくださいました。「息子よ、あなたは私に腹を立てているかもしれない。でも私はあなたに腹を立ててはいません! わたしの愛はあなたの愛とは違います。あなたがわたしを愛していても いなくても、わたしはあなたを愛しています。何があってもわたしはあなたを愛していますよ!」と。私はすぐに悔い改めました。主は(私の本当の姿を知っていながら)主の見方で私をご覧になって私を愛して下さっているのです。神は私たちを愛しておられるばかりか、私たちを本当に好きだと言っておられることを、私は今教えられています!(終り)
16 05月
意図 Intention を持って選択する
グラハム・クック
キリストの内なるいのちのすべては、意図・目的intentionで満ちています。神の目的は、多くの成熟した息子、娘たちを栄光へと導くことです。私たちは主に似る者となるように造られています。そしてすべてにおいて征服者という以上の圧倒的勝利者となることを学んでいます。私たちは地上に住む天国の市民です。キリストの花嫁であり、イエスの兄弟であり、又神の子、主のしもべ、主のよき兵士、主と共にある神の相続人です。御国のすべてのものは、(創造者の神の)目的と意図というアイデンティティーに連なっているのです。
人生に於けるあらゆる状況において、 その時々の私たちに対する神のご計画intention(御心)を私たちが選んで実行することを私たちは今学んでいます。神と私たちの関係は、決して一次元的なものではありません。神が 私たちに対して偉大な御計画と期待を持っておられるがゆえに、それは複数次元のリアリティーであるべきなのです。私たちを主に似る者とするために、主は今、この世という次元に生きる私たちを、御霊にあって既に永遠に生きているという天の次元で生きるリアリティーに引き上げねばならないのです。この世の人生において私たちは、すべての主権や権力を遥かに越えた天の所(御座)に(既に)キリストと共に座っているというデスティニーを持っているのです。
勿論、私たちは天で生きるより低いレベルで生きる人生を選ぶこともできます。すなわち、この世を卓越して生きる替わりに、世的に生きることを選ぶこともできます。戦士ではなく敗者になることを選ぶこともできます。相続人ではなく雇い人の方がいいと思うかもしれません。(ルカ15:19)自分の夢をやりやすい程度に小さくすることもできます。けれども神にはそのようなお考えは全くないのです。神は忠実で力強いお方であり、私たちに対して意図と目的をもっておられ、私たちがその神の意図と目的に従って生きるとしか見ておられないのです。
神にしか創ることのできない私たちの人生を生きるためには、当然ながら、まず 私たちへの主のヴィジョンを私たちは受諾せねばなりません。主が良いと思われるアイデンティティーに私たちが同意する時、私たちは神の意図と目的の場に踏み込まねばなりません。その道を選ぶならば、私たちは御父と同じ意図で歩んでいかねばなりません。そうであるならば、すべての状況は主の内にとどまることAbidingに連なっています。
そして主と同意し一致することによって、主にとどまり、安息し、大きくなることを学ぶのです。あなたが今それによって生きている人生の選択は、あなたの運命を世的に了解して(甘んじて)されたものですか、 それとも御国におけるあなたの場所(地位)から出た選択ですか?
すべての出来事は私たちにとって有益です。(なぜなら)すべての状況が私たちに、私たちのアイデンティティーを思い起こさせ(挑発し)神が私たちに対していかに親切であるかの意図を更にはっきりさせてくれるからです。 主がご自身の性質のある一つを特別にあなたに表されるときに、それがあなたのためにであることが疑いなく信じられるようになります。即ち、主はあなたが置かれたいかなる状況に於いても常にあなたに親切な味方であることを宣言しておられるのです。主が親切さを私に表されるとき、私の思いと心はそれに打たれて圧倒されます。そして主は、私が主の親切を受ける経験をするだけではなく、私自身が親切そのものになることを願っておられることが分かり始めました。
どんな状況においても(私がいつも)「親切であること」が私に対する主の心からの思いであることが分かるようになりました。それは私の証しとなりました。そして私のアイデンティティーは更に一段と向上しました。私のまわりの状況の中で明らかに表される神のご性質が、そのまま私の人々に対する行動に於いて明らかに表現されねばならないものとなりました。私たちは意図をもって選択するのです。 あなたに対して主がどのようなご性質を表して下さっているかをよく注意して見て下さい。
主は今あなたのためにどのようなことを示しておられるでしょうか?主は常にご自分の意図を明らかにされます。主は絶えずあなたのための主が用意されている結末を見ておられるのです。主はあなたが主のようになることを選びとって おられます。ですから、主の知恵により、主の力によって容易く避けられることも(時に)私たちに上に起こるのを許されます。主は 私たちが力を得て私たちの内や私たちを通してアイデンティティーへむかって前進向上できるような状況を私たちのために選ばれるのです。主の意図を私たちは選択するのです。主の意図は私たちのアイデンティティーとなります。ですから私たちがする選択は 想像以上にずっとパワフルです。私たちは 状況を自分で選択するのではありません。(神の選択したものを選択するのです)
私たちは神の意図を選び取るのです。私たちは、神の意思(御心)が私たちの心をアイデンティティーの場所にまで高めてくれるのを待ち許すのです。意図は、疑いや恐れ、不安に勝利します。アイデンティティーは その時の状況に正しく対応できるレベルへと私たちを高めます。御霊にあるいのちが内なる御臨在から外部の状況へと流れ出るのです。
御国は いつも私たちが信じるもののために経験を与えてくれます。主にとどまることによって私たちは主の意図の中にとどまることを選びとっています。それによって私たちは信じ続け、そしてついに経験を受け取るのです。カナンに巨人がいると聞いたとき、イスラエルはエジプトに戻ることを選択したかったのです。
神の意図は私たちに立ち向かう敵によって私たちがより鋭くなることです。ですから巨人は私たちをより大きく、より勇敢に、よりすぐれた者にするために(私たちの前に現れるように)デザインされたものです。(従って)巨人は、私たちが神の意図の中で次にどのような者になるかを教えてくれます。あなたの未来には少なくとも一人の巨人がいるはずです。私たちの上に普通に起こる問題というものは、私たちが一つのレベルから次のレベルに上がる階段をつくるものです。すべての問題は私たちがレベルアップするための高さとなるのです。それは上にあげてくれるもの;すなわちステップ(アップ)のバネ、すべてをレベルアップするための学習です。
巨人は私たちを一気に数段高いレベルへと 連れて行ってくれるエレベーターです。羊飼いの少年から王の宮殿へ、石投げをする少年から王になるという具合にです。私たちは自分のことを過小評価しているので、このように高められる用意がほとんどの場合出来ていません。私たちが自分に対する神の意図を信じるならば、その時私たちの選択によって、それにふさわしい著しく高いレベルへと私たちを押し上げてくれるのです。(終り)
05 05月
最も偉大なる希望 リック・ジョイナー
私たちはイエスの復活をお祝いしたところです。ですから今、この真理に基づいて生きることを決意しようではありませんか。スポルジョン師は「復活を信じるクリスチャンは極めて少ない」と書いています。これを読んだ時、これは印刷間違いだと思ったのですが、すぐにこれが事実であるという内なる聖霊のあかしがありました。ロ—マ10:10に、私たちが義と認められるのは、ただ頭だけではなく心で信じたときであると書かれています。私たちは復活の教義は信じています。しかし、もし本当に心で復活を信じているならば、私たちの人生は劇的に違ってくるはずです。
どのように違ってくるのでしょうか? まず第一に、私たちは一時的なものに心を奪われるのではなく、永遠のものに目を向けるでしょう。「あまりに天国のことばかり考えていて、この世では役に立たない」という言葉があります。しかし 実際は、「 クリスチャンの多くは地上のことばかり考えていているので、天でも地でもあまり役に立っていない」というのが本当のところです。歴史的に見ても、一番天のことを思っていた人たちがこの世においても一番良い業を行ったというのが事実です。
天のことを思う人たち、即ち「天の御国をまず求めなさい」という勧告に従っている人たちは、地上で最も解放された自由な人たちであり、これからの時代にはそれがますます明らかになってくるでしょう。コロサイ3:1−4にこのように書かれています。
「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」
ある看護婦が「クリスチャンはどうしてもっとうまく死ねないのか」という質問をしてきたことがあります。彼女は「もし彼らがキリストを信じていて永遠のいのちを持っているとしたら、どうしてあんなに死を恐れる必要があるのか」という疑問を持っていたのです。これはもっともな質問です。すべてのクリスチャンは大いなる喜びと期待をもって死んでいくべきです。そして究極的な束縛である「死の恐れ」から解放されているのですから、私たちは地上で生きるときも同じように最も自由な者として生きるべきです。
復活は「起り得る最低最悪の事でさえ、すべて勝利に変えられる」という最も偉大な希望です。第二コリント2:14で「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。」と言っている通りです。ですから主に従う者にとっては「勝利するかどうか」ではなく、「どのように勝利するか」というのがポイントです。キリストに従うならば絶対に敗れることはないからです。
戦争やスポーツにおいて一番人々に称賛される勝利は、最も困難な状況の中で勝ち取られた勝利です。キリストにおいてもそれと同じです。私たちは 超自然的な神の力を見たいと思います。しかしその力を必要とする状況におかれるのは嫌なのです。偉大なる勝利を見たいのですが、それを必要とする立場に立たされるのは嫌なのです。しかし、今私たちはそれらを必要とする時にいるのですから、その機会をしっかりと捕らえようではありませんか。
聖書の中の偉大な英雄たちでさえ、主に用いられるまでには信仰において成長せねばなりませんでした。ダビデはゴリアテと直面する前に、獅子や熊と戦いました。私たちも同じです。主はいつの日か私たちを 偉大なる歴史的な戦いへ、そして勝利へと導かれるかもしれません。しかし、その日に備えるために、私たちは今日与えられている小さな戦いを見逃してはならないのです。
勝利がいかに大きくても、又小さくても、すべての勝利を喜んでください。試煉がいかに大きくても、又小さくても、しっかりと受け取ってください。キリストに従っているならば、私たちがそのすべてに勝利しないことなどあり得ません。主が私たちを勝利以外に導かれることはあり得ないからです。けれども先ほどの聖書箇所にあるように、それは「キリストによる勝利」であり、私たちだけの勝利ではありません。それでは、主の勝利とはどのようなものでしょうか?
最も偉大な勝利
この世で起りうるもっとも偉大な勝利は十字架上で起こりました。しかしそれは勝利のようには見えませんでした。イエスが十字架の上に釘づけされたとき、地上で生きた最も偉大な善であるお方に対して悪が勝利したかのように見えました。しかし、最大の敗北と見えたものが、実は最も偉大な勝利だったのです。ですから、偉大な勝利というものは、初めは偉大な勝利のようには見えないかもしれません。ですから、 あたかも悪が勝利したかに見えるときでも、私たちは希望を失ってはならないのです。しばしの間は悪が勝っているように見えても、それは決して長くは続かないのです。究極的なキリストの勝利は確実であり、それは永遠に続くものです。
心で復活を信じている人たちは、究極の恐れから解放されていますし、又それ故に地上で最も自由で幸福な人たちです。キリストは常に私たちを主の勝利へと導いてくださることを知り、すべてのことにおいて究極的に勝利があることを心で信じるならば、 私たちがすべての戦いに勇気をもって臨めないことなどあるでしょうか?
ローマ8:28で、すべては私たちの益になるという神の御ことばの約束をいただいています。もし主の御ことばが真実であると信じるならば、すべての戦いにおいて喜びながら勝利を期待するべきです。そのことがヤコブ1:2−4に書かれています。
「私の兄弟たち。さまざまな試煉に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」
「何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者」とヤコブが言っているのは「キリストに似た者」になるということです。人生のあらゆる出来事は、私たちの内にキリストの御性質を生み出すためのものです。これにより私たちはすべてを受け取り理解することができるのです。これは又、すべての事が私たちの益になると言っているローマ8:28のすぐ後にも書かれています。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神はあらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」ローマ8:28、29
私たちはキリストにあって神の相続人となるように召されています。これ以上崇高な召しは全創造を見てもありません。私たちの人生に起こる事はすべて、私たちの内にキリストの御性質を形つくることによって、より高い召しへと私たちを整えることを目的としています。キリストは人間のすべての問題に対する答えであり、今私たちが直面しているすべての問題の答えです。私たちがお仕えしている方がすべての規則、権威、支配を越えた方であるという知識をもって生活しているならば、どうして私たちは恐れることができるでしょうか?すべてのチャレンジは信仰が成長する機会ですから、勝利の人生への鍵は、私たちに与えられている試煉を一つも無駄にしないことです。
聖徒の特徴
ローマ14:17で神の御国は「聖霊による義と平和と喜び」であると私たちは告げられています。もし 主の目に正しいことを行っているならば、私たちは他の何によっても得られない平安と喜びを与えられるのです。困難、恐れ、暗やみが世界に増していくとき、御国に住む者たちはその平安と喜びによって更にはっきりと現されていくのです。これからの時、平安と喜びが御国の真の民であることを示す最大のしるしとなるでしょう。すべての規則、権威、支配を越えて治めておられる方を知り、その御国が必ず来ることを知って従っていくとき、私たちが平安と喜びを持てないことなどあり得ません。
「その主権は増し加わり、その平和は限りなく(イザヤ9:7)」と書かれています。価値が決して下がらず、常に上昇していく株に投資したいですか? では御国に投資してください。そうすればあなたの投資は限りなく増加していきます。
神の御国をまず第一に求める者には、御国の平安と喜びが増し加わるでしょう。箴言4:18に「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。」とある通りです。クリスチャンの人生の本来の姿は輝きがどんどんと増し加わるものです。世界がどのように暗くなったとしても、私たちには更に明るさが増していく別のリアリティーがあるのです。
世界はますます暗くなるでしょう。しかしこの世界は私たちのリアリティーではありません。イザヤ60:2に「やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。」とあるように、「義の道」にとどまる人には光が増し加わります。
世の中が最も暗やみとなる時は、 私たちの上に主の栄光を見るときでありましょう。次のイザヤ60:3には、国々はあなたの輝きにやってくると書かれています。光が勝利し、国々がその光にやってくるのです。夜明け前はもっとも闇が深い時です。しばらくは暗さが増していきますが、それは神の民の上に現れる栄光をもっと明るく輝かせることになるのです。
今の私たちの目的
死への恐怖は究極の恐れですが、復活への保証によってそれが克服されたならば、他のどの恐れであれ、そのくびきを打ち破るのは容易くなるでしょう。復活を覚えて祝うことがどれほどクリスチャン生活にとって重要であるかという理由はここにあります。この真理の知識のうちにとどまるならば、私たちは他のどのような恐れも容易く克服することができるはずです。
私たちを圧迫し支配するためにサタンは恐れを用います。キリストにあって、私たちは恐れによるのではなく信仰によって歩むのです。恐れは本質的にサタンの武器であり、恐れによって支配されることを許してしまう者は、彼らがどのように弁明しようとも、キリストよりもサタンに仕えているのです。黙示録21:8にそれが明らかです。
「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄とに燃える池の中にある。これが、第二の死である。」
この箇所でおくびょう者 は、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、偽りを言う者より先に挙げられています。恐れによって支配されるおくびょう者はキリストのものではないというのが真実であるからです。なぜならば、黙示録20:14−15で言われているように、火の池に投げ込まれる者とは、いのちの書に名がしるされていない者たちだからです。真に信じる者は勇敢であり、恐れによってコントロールされません。キリスト教の中におくびょう者がいる場所などありません。このように真に主を信じる者はやがてはっきりと見分けられるようになります。決して恐れによって支配されないで、よみがえられた神の御子を信じる信仰によって生きることを、今、決意しようではありませんか。私たちはこの世に対しては死ぬように召されています。死んだ者に対して何ができるでしょうか? 死んだ者は失敗や拒絶、その他どのようなことに対しても恐れを持っていません。もし私たちがキリストと共に死んだのであれば、今主の復活の力によって歩くことができ、恐れなどないはずです。
いにしえの預言者や義人たちは、 私たちが生きる特権を与えられている今の時代を見ることを願いました。それらの偉大な信仰の英雄たちに会って話が出来るときを夢に描いている人たちは、彼らが今の時代に生きた聖徒たちと話をすることをもっと願っていたことを知ってショックを受けることでしょう。一番偉大な信仰と一番偉大な業は、試煉を無駄にせず、神と歩む最も偉大な機会を無駄にしない人たちによって、ほどなく現されていくでしょう。
2012年には多くの物事が揺さぶられるでしょう。しかし、私たちは揺るぐ事のない御国を持っており、揺さぶられているものはすべて御国が現れるためにそうされているのです。あなたの人生を、決して揺るがされないもの、そして決して失望させられない希望の上に築き上げてください。復活の信仰で生きることを決意してください。(終り)
27 04月
聖餐(communion)の永遠の価値
ウェイド・テイラー
ダイヤモンドのカットされた面を見ると、互いに反対を向いているような面があるのが分かります。ダイヤモンドが美しいのは、このように「反対」になっている面が互いに助長しあうからです。それと同じように、主の聖餐(communion)に与ることをどのように理解し、どのように経験するかにも多くの異なったものがあります。
ある人たちは聖餐を、主の御からだと血の「シンボル、象徴」として儀式的に受け取ります。シンボルや象徴にはいのちはありませんから、彼らは宗教的、或いは情緒的な満足を受け取るだけです。他の人たちは、主のいのちそのものを受けていると考えます。彼らは本当に主の御からだと血を自分の中に受け取っているのです。
聖餐に与るときには、「communion 霊的な親しい交わり」を効果的に受けるための準備の時間を持つべきです。主のいのちが私たちのいのちの中に流れ込むためには、私たちは主の臨在の中に引き上げられねばなりません。「主の臨在の中で主を待ち望む」ためには私たちがまず霊的領域に入らなければならないのと同じように、イエスの実際の(生きた)御からだと血を「受け取る」ためには、肉の領域と引き換えて霊の領域に入っていかねばなりません。
「communion 霊的な親しい交わり」という言葉は、コミュニケーション、即ちイエスが語られ私たちが聞き、そして私たちが話して主が聞かれる、ということと関係があります。ですから私たちがイエスと「 communion」に入り主と「一つ」となる時には、私たちは「枝」となり「ぶどうの木」に繋がって、主のいのちをいただくことができるのです。
まことのぶどうの木
私たちが聖餐に与ることに関して適応できる基本的な法則が神の御ことばの中に確立されています。
ロ—マ8:1−2「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」
この「罪にさだめられること」とは、罪を犯したゆえにアダムに与えられた裁き(死)です。この死の裁きを私たち一人ひとりが受け継ぎました。十字架で流されたイエスの血潮と私たちが一つになるとき、私たちは「罪の原理」から解放されるのです。私たちがイエスの復活と昇天と一つになるとき、「死の原理」から解放されるのです。私たちがいのちを与えるイエスと一つになるとき、私たちは「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理」を受け取るものとなるのです。
第一コリント15:45には「 聖書に『最初の人アダムは生きた者となった。』と書いてありますが、最後のアダムは、生かす(life-giving いのちを与える)霊となりました。」とあります。これは、癒し、健康、長寿をも意味しています。イエスからこの「いのち」のギフトを受けたものは、他の人たちよりも健康の質や寿命においても特出しています。
イエスは5つのパンと2匹の魚で大群衆を養いました。その後、彼らは再び空腹になったときに又食べ物を求めてやってきました。イエスは彼らのためにもっと良い物があると言われました。
ヨハネ6:53、58「...人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません...これは天から下って来たパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
イエスは彼らに死ぬことのない高いレベルのいのちを与えようとされたのです。それを受ける条件は、彼らがパンと魚をもう一度食べるのではなく、主の肉を食べ主の血を飲むことでした。「永遠に生きる」という言葉は、第一には天国での永遠の命のことですが、私たちの今の生活にも適応できるのです。イエスは次のように言っておられます。
ヨハネ15:1−5「わたしはまことのぶどうの木であり...わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがは何もすることができないからです。」
イエスは「わたしはぶどうの木(いのちの木)であると言われました。そして私たちは枝であり、主のいのちを受け取るときに生きることができます。アダムの罪のために私たちはいのちの木と切り離され、知識の木につながれてしまいました。
主はけものを殺し、その毛皮でアダムとイブを被われました。血が流されたことによって罪の赦しがなされ、アダムとイブは赦されました。しかし、知識の木から食べたもの(自分で選び取る権利)は彼らの内に残りました。彼らは主のうちにとどまり主により頼むという状態を失い、もはやいのちの木から食べることができませんでした。それゆえに私たちすべての人間は知識の木につながれた状態で生まれるようになったのです。
私たちのためにイエスが十字架で完全に勝利されたことにより、私たしは知識の木から自分を切り離して、いのちの木に繋がることができるようになりました。そして「聖餐(communion)に与る」とき、私たちはイエスのいのちそのものが自分の中に流れ込むのを受けることができるのです。
もし聖餐のパンとぶどう酒をただシンボルとして受け取るならば、私たちは死んだ宗教の形式を受け取っているだけです。けれどもイエスはもはや死んではおられず、死からよみがえられ御父の右に座しておられます。ですからパンは主の生きたからだになった生きたパンです。ぶどう酒の杯は主の血潮、主の生きた血潮になったのです。私たちがそれに与るとき、主のいのちが私たちの中に与えられるので、主がご自身のいのちを私たちを通して生きることがお出来になるのです。
木のまわりから皮が全部はぎとられると、その木は死に始めます。根からくみ上げられるいのちをもはや受けられなくなり、やがて死んでしまいます。「ぶどうの木(イエス)」のいのちは、ぶどうの木につながって「枝」である私たちの中に流れこみます。そのためには枝(私たち)は、ぶどうの木に正しく繋がっていなければなりません。その時はじめてイエスのいのちが「永遠のいのちの力」として私たちの中に流れてくるのです。
いのちの木
それで、私は毎朝起きると、まず次のことをします。
「主よ、安らかな眠りを感謝します。主よ、アダムの罪により私は知識の木につながれて生まれてきました。けれども私のためのあなたの贖いの業により、私は知識の木から私を解き放ちます。そして私は枝としてへりくだってまことのぶどうの木のもとに来て、自分をいのちの木に再びつなぎます。それによって私があなたの生きた御からだ、あなたの生きた血潮をいただくとき、あなたのいのちが私のいのちの中に流れ込みます。」
肉体を保つために食事をすることは必要であり、私たちは一日に何度か食事をします。それと同じように、イエスのいのちを「摂取する」ことは選択の余地があることではありません。イエスの生きた「からだ」と「血」に与ることは、教会がやっているように第一日曜にするだけではなく、もっと何度もされるべきです。むしろ毎日するべきことであり、そうでないと私たちは霊的にも肉体的にも失うものがあるのです。
創世記3:22「神である主は仰せられた。『見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。』」
私は以前、「アダムは創造された時点で永遠に生きるように造られていて、罪を犯さなかったならば永遠に生きられたのだ」と考えていました。しかしながら、アダムは「土地のちり」から造られました。ちりから何かを形造るのは不可能です。そこには「湿り気」、即ち主イエス・キリストのいのちそのもの、が必要であり、それは私たち「ちり」の中にぶどうの木から注がれるものであり、それによって私たちは形造られ、調えられ、目的を与えられるのです。
「...今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」(創世記3:22)
アダムはいつもいのちの木に来て食べていたので、その結果、彼は生きたのです。しかし彼が罪を犯したときに、いのちの木から食べられなくされ、死への道をたどりはじめました。私たちが聖餐に与るとき、私たちは「手を伸ばし取って食べる」のです。
突然、私は何が言われているのかを悟りました。
アダムがいのちの木からそれまでのように食べることができたとすれば、彼は生き続けます。しかし罪の裁きは死です。主がこの裁きを執行するためには、アダムが聖餐(communion)にあずかれないようにすればよかったのです。ですから、主はいのちの木の前に炎の剣を持つ天使をおかれ、アダムが食べられないようにしたのです。
ペンテコステの日に、この「炎の剣」はさまたげではなくなり、そこに行くようにと導くものとなりました。炎の剣は天から下り、そこにいた120人の頭の上にとどまり、彼らは聖霊に満たされました。神殿の幕はすでに裂かれていて主の臨在に入る道が開かれていました。
黙示録2:7「...勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」
私たちが「聖餐 (communion)」に与るとき、いのちの木への入口が私たちに開けられ、私たちはイエスのいのちそのものを食べることができるのです。主こそいのちの木です。
御からだのパン、 血潮の杯
イエスの奇跡を見るために出て来た群衆が空腹になった時、イエスは5つのパンと2匹の魚を増やして与え、彼らは食べて満腹しました。(ヨハネ6:1) 後に彼らが再びやってきてパンを求めたとき、イエスはご自分の肉を食べ血を飲まねばならない、と言われました。彼らは主をあざけり離れて行きました。主はその時、どのようにして御自分の肉を食べ血を飲むのかを説明することはできませんでした。それは私たちの罪のために主が十字架にかけられて死に、復活していのちを与える霊になる「時」ではまだなかったからです。イエスの地上での働きが完成されるとき、即ち十字架でいのちを与えられる前の夜に、主は私たちがどのように主の肉を食べ、主の血を飲めはよいのかを説明することが出来たのです。
第一コリント11:23−25「..主イエスは..パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのために裂かれたわたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。』夕食の後、杯も同じようにして言われました。『この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。』」
イエスが「このパンはわたしのからだです。この杯はわたしの血です。」と言われたことに注目してください。主は「これはわたしのからだと血のシンボルです。」とは言われませんでした。次にイエスは、御国で私たちと新しく飲むその日まで、ぶどうの実で造ったものを飲むことはないと言われました。
ルカ22:16「あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」
御ことばは「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」(マタイ18:3)と言っています。私たちが聖餐に与るときに私たちに見えるのはパンですが、イエスは「これはわたしのからだである。」と言われました。私たちが杯を飲むとき、私たちが見るのはぶどう酒です。しかしイエスは「これはわたしの血である。」と言われました。子どものこころをもって、私たちはシンプルに、自分が見るものではなくて、イエスが言われたことを信じるのです。
ある人たちは「パン」と「ぶどう酒」は、まずイエスのからだと血に変えられねばならないと教え、祭司が信者のためにそれを行おうとします。また他の人たちは、それは祭司によらなくても自分ですることが出来ると言います。しかし私たちはイエスが言われたことを信じればよいのであり、パンとぶどう酒を信仰で受け取り、文字通りイエスのからだと血であると信じて受け取ればいいのです。必要とされる変化は私たちの内においてであり、パンやぶどう酒ではありません。
I コリント 11 「..これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
この「これを飲むたびに as often as you drink it」ということばは、私たちは好きなだけ何度も個人的に聖餐に与ることができることを明確に語っています。私たちはいつでも聖餐与ることがまったく自由にできるのです。教会の礼拝の中での聖餐式だけに限られてはいません。イエスは「わたしを覚えて」と言われました。それは主の十字架の死を覚えるということではなく、主が群衆にむかって「わたしの肉を食べ血を飲むように」と言われたときのことを私たちが覚えるようにと言われたのです。
ヨハネ6:66−67「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。そこで、イエスは十二弟子に言われた。『まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。』」
この時、イエスはどのようにイエスの肉と血に与るのかを説明できませんでしたが、今最後の晩餐のときにお出来になったのです。この理解をもってイエスの御ことばを信じるときに、子どものような信仰で私たちは文字通り主のからだと血をいただくことが出来るのです。それを受けるとき私たちは決断せねばなりません。「主よ。私が見るのはパンとぶどう酒ですが、私は見えるものではなく、あなたが言われたこと(これはわたしのからだ、わたしの血である)を信じます。」と。(終わり)
(ウェイド・テイラー師は2012年2月29日に天に召されました。彼は教師として、また霊の父として50年間人々に仕えられました。彼は主との歩みとその深い霊により多くの人々から愛され尊敬されました。彼は油注がれた著者であり、御霊の深い真理を鮮明にシンプルに説きあかし、多くの読者を主イエス・キリストとのより親密な歩みへと引き上げました。)
18 04月
天使の顕れ
キース•ルーカー
天使の顕れが続いている
去年の10月から今までに、ワーシップや賛美をしているとき、又楽器を演奏しているときに天使が顕れることが、81回の集会で連続して起こっています。これまでは2、3年に一回くらいの割にしか経験していなかったことが、今やすべての集会毎に起こっているのです。
それと共に、創造的奇跡(creative miracle)も、ワーシップの間に自然に次々と起りはじめました。最近テキサス州ルフキンにおいて、20年前の首の怪我が原因で脊髄と神経に損傷のあった女性が癒されました。怪我により彼女の右目は極度のトンネルビジョンとなり、自分がかけている眼鏡の端も見えないほどでした。ところがワーシップが終ってから彼女が廊下を歩いていると、右側からいろんな物が近づいてくるので大変驚きました。それで右目の狭まっていた視覚が癒された事に気がついたのでした。又、彼女の身体の右側全体がワックスをぬったように感覚が鈍かったのですが、ワーシップのあとで顔や腕を触ってみると、普通の感覚にもどっているのが分かったのです!
又、集会中に天使が奏でる楽器の音やすばらしい歌声も聞こえてきています。最初にそれが起こったのは去年の10月で、カリフォルニア州レディングの家庭集会において、私がギターだけてワーシップを導いていたときでした。ワーシップをしている間、私の耳には他の楽器の音が聞こえていましたので、そこに集まっていた10人に何か聞こえたか訊ねました。「ええ、他の楽器がはっきり聞こえて、フルバンドのようだったので、あなたがCDを流してそれに合わせてギターを弾いているのかと思っていました。」と彼らは答えたのです!
カリフォルニア州ヴァカビルのヒーリングルームで私がワーシップを導いていたときも、ギターだけの賛美でした。礼拝のあと二人の女性が「フルート、オーボエ、フレンチホルンの音をはっきり聞きました!」と言いました。アーカンサス州のラッセルヴィレでは、一人の男性が礼拝後に私に「あなたが壇上で何をしていたのかしりませんが、千人の歌声が私には聞こえました!あなたの弾いていたギターの音が聞こえないほどでした!」と言いました。
このように天使の奏でる楽器の音や天使の歌声が毎回連続して聞こえ始めたのが、カリフォルニアのレディングにあるベテル教会で栄光の雲が再び現れ始めたのと同じ頃であったのは、とても興味深いことだと思います。神は何か大きなことをしようとしておられるようで、私はとてもわくわくしています。私は1992年に一つのヴィジョンを見ました。それは私たちがワーシップをしていると、聖霊が即興的にその場で歌詞とメロディーを与えてくださり、栄光の雲が現れ始め、奇跡がその場で次々に起り始めるというヴィジョンでした。そのヴィジョンを見てから今までの20年間で、集会の中でそのような霊的領域に入っていったのは数回だけでした。しかし、今はすべての集会でそれが起こっているのです!
Portals of Supernatural Worship
Whenever angels gather, God is manifesting His glory and the heavenly realm for a reason. Since angels are servants of God, sent by Him to minister to the saints, it is always a good sign when they manifest on earth. Our daily
超自然的なワーシップの門
天使が集まるときは常に、神がある目的をもってご自分の栄光と天的な領域を顕してくださいます。天使は神のしもべであり、聖徒に仕えるために神から遣わされるものですから、彼らが地上に顕れるときは、常に「良いしるし」です。私たちの毎日の祈りは「御国が来ますように!今、ここに、天にあるように地上にも!天で起こっていることが地上でも今起こりますように!」というものです。天のコーラスが地上でワーシップする者たちと共に歌い、超自然的、預言的ワーシップが天からの電流によって充電されるとき、黙示録に描かれている天の礼拝が地上でまさに起こっているのです!「おのおの立琴と、香のいっぱいはいった金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。彼らは、新しい歌を歌って言った。」黙示録5:8−9
超自然的ワーシップの門が「ヤコブのはしご」のように、地上のいたるところで開いていると私は思います。聖徒たちが地上で一つになってワーシップをするとき、その上を天使たちが上り下りし、天から人々のために奇跡を持ってくるのです。 地上での私たちのワーシップの仕方を、今、聖霊が変えておられます。天から聞こえてくる「新しい歌」に耳を傾け、一方的なワーシップではなく,神に聞くワーシップをすることが、世界中の集会で増えてきています。それによって 私たちはもっと主の臨在と力を経験することが出来るのです。
これは地上で天国を経験するすばらしいチャンスです。超自然的領域の扉や窓が私たちに開かれているのです! 1990年代中頃に、多くの者が神の臨在と力をそれまでより更に体験するようになったときには、天の窓が開かれていました。 今それと同じような窓が開かれているのを主は私に見せてくださいました。今の窓は前の時よりももっと大きく、それはもっと多くの人々が主の素晴らしさと愛を体験するためである、と主が言われました。リバイバルが再び来ようとしています!あなたは主をお迎えするために何をなさいますか?(終わり)
Keith Luker
Keith and Sanna Luker Worship
Email: keithluker@earthlink.net
Keith Luker is a revivalist with a guitar, leading prophetic worship and preaching with revival fire and miracles all across the globe. He is a presence-driven minister that loves people, and his heart’s desire is to light people up for the Kingdom everywhere he goes. He is ordained by Bill Johnson, a member of the Global Legacy (Bethel Church) and his spiritual papa is Jack Taylor. He lives in the San Francisco Bay Area along with his very anointed wife, Sanna, and their three miracle children who they are raising in the presence of the Lord.
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