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11 07月

ション・ボルツ師の預言について ーー  パンデミックがなぜ終わらないのか       WWGM 坂 達也   2020年7月11日


ション・ボルツ師の預言について ーー

      パンデミックがなぜ終わらないのか 

 

                WWGM  坂 達也

 

 

 私は、3月3日のWWGMメッセージでボルツ師の預言をご紹介しました。その中心テーマは、折からの新型コロナウイルスのパンデミックが間もなく終焉するという神からのことばをボルツ師が聞いたという良い知らせでした。ところがそれ以来、既に三ヶ月以上経つのに、実際には「終焉に向かうどころか益々世界中に広がっているではないか」という疑問を持たれた方が多いと思います。その結果として、彼が「偽預言者」であるという声も聞かれます。

 そこで私は、ボルツ師自身が四月以降に何と言っているかを知りたいと思い、彼のミニストリーのユーチューブ画像を一、二見てみました。私は彼の書いた本も持っていますし、彼のミニストリーから送られて来る毎週のレポートをこの一年以上見て来ました。

  そこで、彼の録画を見て気がついたことは、ボルツ師自身が、神が彼に言われた預言が未だに実現していないことに正直に驚いていることです。そして彼が最近聞いた「主よりの言葉」を次のように説明しています。

 「私たちが神に向かって叫ぶなら、神は状況を好転させ、この問題の流れを変えて下さる。現在私たちは、ロックダウンと解放のさまざまな段階にあります。多くのクリスチャンが祈るために集まり、大規模な祈りの努力をして来ました。私は好転がもっと早く起こると思っていました。しかし、現在の状況は神のご計画ではなく、神は依然として私たちのために流れを変えるおつもりであり、それは人々の考えていることとはまったく異なるものとなるであろうと、主が再び言われるのを聞きました。」

 ボルツ師は続けて「このような悲劇の最中においても、素晴らしいことが起こっています。クリスチャンとしての私たちには、次のような約束があるからです。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる・・・」 (ローマ8:28)

つまり、神はいつも悲劇を勝利に変え、悪でさえも私たちのために用いられるお方であるということです。今神は、私たちクリスチャンが、私も含めて、この際自らを「リセット、再定義、再調整」する絶好の機会として、私たちに与えて下さっているというのです。私たち一人一人が、主より預言的な言葉を受け取るとき、私たちは自分ができることを地球上で行う任務があるのです。あなたが召されていることのために、私たち預言的指導者は、そのための空間と境界線を守る必要があります。この時期、神があなたに語りかけることに耳を傾けてください。神はご自分の性質から寛大にあなたに与えたいと願っておられます。」と付け加えています。

 

新約の教会に必要な「預言的ミニストリー」

 

 イエス・キリストが現れた新約の教会では、旧約の時代と違って「預言的ミニストリー」がオプションとしてではなく「絶対に必要」であるのです。

 その良い例が、イエスご自身が一人の女性に井戸端で語ったことが町中に広がりました。

 ですから使徒パウロは1コリント14:1で「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」と言い、また、ガラテヤ書5:6で「・・・愛によって働く信仰だけが大事なのです。」と言っています。ここで気が付かねばならないことは、どちらも愛が強調されていることです。

 

 

終末の時代には預言が増え、同時に、敵による偽預言者も増す

 

 使徒2:17−18には「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」 それはよくご存知の通り「あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。・・・すると、彼らは預言する。また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。・・・」

 

 この聖句は、終末になると、ドラマチックな程、預言、夢、幻が増えることを示しています。なぜなら、私たちがクリスチャンになるときに聖霊が宿り、その聖霊を通して主イエスが毎日私たち個人に語られるようになるからです。そのことはマタイ4:4で「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による。」と書かれている通りです。

 しかし一方で、それに対抗する、敵からの偽預言と偽預言者が増えるのです。これは、モーセとファラオの魔術師が競ったように、初めからの神のご計画であり、このことは麦と毒麦の例え(マタイ13:24−42)によって一層よく理解できます。

 このたとえ話の中で、神は毒麦を抜くのを辞めさせました。その意味は、神は真の預言的訓練のために敢えて本物と偽物どちらをも、終末の時代に完熟するまで混成させておく。その目的は、本物と偽物を識別する訓練をさせるためであったのです。どちらも成熟した時、片方は麦の中身である実が成熟して重くなり、穂である頭が下がりますが、偽の毒麦の方は実がないので上を向いてふんぞり返っているところから明らかな識別ができます。

 つまり良い麦とはクリスチャンの私たちです。その私たちが、熱心に求めることによって、色々な形での夢、幻、啓示による「啓示の預言」が頻繁に起こるようになるのですが、重要なことは、霊的訓練の成熟によってのみ、私たちは毎日聞く主の「御声」に従って実際に生きるようになることです。これが終わりの時に良い麦の成熟した姿です。

 

 加えて重要な事は、私たちは神の真の心の内を知るように訓練されているのですから、それは「心の目で見る」霊的訓練であって「肉の目で見る」のとは全く違うことです。

 私たちクリスチャンが「心の目で見る」時に、真っ先に言える事は「神はあくまで愛と永遠の命で生きる方」ですから、そこに見えるものは、全面を覆う「愛」が滲み出ていることと同時に、その人は「永遠の命」から見た見方・ビジョンで生きていなければならないことです。そうであれば、霊的に熟した人間が「最終的に到達するところは、その人が神によって初めから与えられている destiny ともいうべき、最終的にその人がなる、到達すべき「神に似た性質と姿」になっていなければなりません。

 その例はアブラハムにあります。彼は遠い将来に目を向けそこに「神が建てている都市」を見て、そのビジョンこそが、あたかも現実であるかのように信じてその信仰で生きたのです。そのことをイエスご自身が次のように証しています。「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て喜んだのです。」(ヨハネ8:56)

 そのようなアブラハムであったからこそ、メシヤのタイプであると言われる我が子イサクを生贄として差し出せと命令されても驚かず、ヘブル書11:19にあるように「神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」これが成熟した人間が最終的に到達する姿・ビジョンであるのです。アブラハムは一時的な現世に生きるのではなく、永遠の時を踏まえて生きたのです。

 この信仰に立つ生き方が、成熟した「預言的な人たち」の基本的な生き方であり、従ってそのような人は、その時々だけではなく、高次元の「最終的に神から召された時」を現実として住む人でなければなりません。

 

 最後の時代の「教会」は、「彼が信じた神は死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方で、望み得ないときに望みを抱いて信じました。それは「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。・・・神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」(ロマ書4:17ー21)

 つまり、預言とは、神の将来の計画と目的を現実としてとらえる人たちであることがこれで分かります。

 

 

預言者には自分の預言の間違いが許されないのか

 

 イエス・キリストはマタイ24章で、終末の時代に起こる多くの事を預言していますが、その中で11節において「にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。」と言っています。その偽預言者は教会の外の人も多くいますが、クリスチャンの教会の中にもいます。

 そこで、私がご紹介したショーン・ボルツ師のコロナ・ウイルスに対する預言は、彼が言うように間も無く終焉するどころか、益々ひどくなっているとしてその預言は間違っていると言われれば、私はそれを否定しません。そうであれば、彼は偽預言者なのでしょうか。

 リック・ジョイナー師は、旧約聖書で有名な預言者サムエルですら、容貌や背丈を見て判断した見間違いを主が諫めた事実(1サムエル記16章)を指摘し、今は未だ終末の完熟の実りの時に入っていないので、多くの著名な預言をする人たちでも、自分も含めて、このような間違いをしない預言者は一人もいないと言いきっています。

 

 さて、私はショーン・ボルツ師の書いた本「Translating GOD」(2015年発行)を読んでわかったことは、彼が私の尊敬するボブ・ジョーンズ師とか、ビル・ジョンソン師夫妻、ピーター・ワグナー師、ランデイー・クラーク師、ジェームス・ゴール師、ボビー・コナー師、ランス・ウオルナー師、ジェッフ・ジェンセン師、ステイシー・キャンボル師、等々と言う預言のミニストリーのそうそうたる人たちの信任を得ている、将来有望な若手の、但し、未だ完熟途上の「預言的ミニストリーの指導者一人」であることです。

 

 彼自身が著書の中で「ゴールである啓示の目的は非常に単純です。神が見るものを見、神が聞くものを聞き、神がおっしゃていることを語り、神が愛するように人を愛することです。啓示が与えられるのは、永遠の世界にある神の心をこの世に表すためなのです。」と書いていることに私は注目しました。従って私は、彼の求めるものは先ず「愛」そのものであること、そして「父なる神、キリスト、聖霊」を心から愛し、恐れ(畏敬)てはいても、この世のものを恐れない「全き愛は恐れを締め出す」(1ヨハネ4:18)信仰に立つ預言的ミニストリーの指導者の一人であると信じますから、私は今回彼の預言が必ずしも「当たっていない」としても、決して「偽預言者」ではないと確信をもって申し上げられます。

 

 

民数記21:9との比較

 

 そこで私は、聖書に書かれている厳密にはパンデミックとは言えないにしても毒蛇(悪魔)が荒野でイスラエルの民を襲い、その毒で多くの人を死なせた恐るべきパンデミックに匹敵する災害を起こさせた(神が許された)お話しである民数記21:6ー9と現在世界を蔓延しているコロナウイルス被害を比較してみたいと思います。

 21:6−9にこう書かれています。「神が民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人が死んだ。民はモーセのところに来て、私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか・・・主に祈って下さいと、申し出たのでモーセは祈った。すると主は「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。それを仰ぎ見れば、生きる。」と告げ、その通りになったお話しが、十字架に付けられたイエス・キリストを見上げることに通じ(以上の話がヨハネ3:14に書かれています)そして3:16で「神は、実に、そのひとり子をお与えになった程に、世を愛された。それは御子を信じるものが、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」という代表的な救いの信仰に結びつけられるとすれば、今回のコロナウイルスのパンデミックも同じ目的を持っていると考えられないでしょうか。

 そうであるなら、今のパンデミックが世界中を蔓延していることは、神のご意志であり、折から最後の大リバイバルが始まろうとしていることを後押ししていると考えてよいと私は信じます。

 

 すなわち、私はこのように見るのです。終末の時代に入った今は、良いことにおいては、最後の大収穫である、大リバイバルが起こされる時、それと並行して霊的な覚醒、御国の弟子訓練においても大きな成果を見る時であると同時に、悪魔の業においても、その悪の成熟が頂点に達する時であり、御国の戦士であるクリスチャンが最終的な悪と対決する時である。それが、最終的に神が裁決する「悪魔に対する終末の裁きの時」に移行する時であることです。

 従ってこの伝染病のパンデミックが終焉するどころか、これが更に世界的な数々の大災害ー例えば今日本から中国に発展している記録的豪雨による大被害、それに世界各地で連鎖して起こるとされる前代未聞の大地震、天体異変、そして世界的な飢饉、また、人間同士、国同士の世界的大戦争に発展する要素と気配が既に濃厚であることです。

 

 と言う事は預言的に言えば、ボルツ師が見せられた時点は、コロナが発祥したばかりの中国の武漢での伝染現象に限っての預言であり、しかもそれは、その武漢での状況が、一時的に収まったかに見えた時点でした。このコロナウイルスは、中国政府が意図的に武漢にある研究室で作らせ、それが計画的にか、あるいはたまたまアクシデントとして外部に漏れて広がったにしても、このウイルスを世界に流布させるのは当初から中国の意図であったと、アメリカの内密情報で大統領府と軍部は確証を得ており、当時リック・ジョイナー師もしきりにそのことを言っていました。アメリカでは、中国が何としても世界制覇を目指し、着々とその軍備計画を進めて来ていて、いずれアメリカに挑戦する計画であることは目に見えていると言われて来ました。

 その後、各地、各大陸に物凄いスピードで急速に伝染が進んでおります。このパンデミックが、今では世界的経済破壊に繋がる深刻な事態に発展していて、それが特にアメリカでは政治的、ポリテイカルに扱われていることに大きな問題があることが明らかです。(続く)


03 07月

天国であなたがどのような人になるかは  地上での過ごし方によって決まる         坂  達 也   2020年7月4日


天国であなたがどのような人になるかは

       地上での過ごし方によって決まる

 

                     坂  達 也

 

 

 

エノクは最初に神と共に歩んだ人

 

 エノクについては創世記5:21ー24に「エノクは65年生きて、メトシェラを生んだ。エノクはメトシェラを生んで後、300年神と共に歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は365年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が取られたので、彼はいなくなった。」と書かれています。そしてヘブル書11:5に「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」と書かれ、彼の信仰が神に喜ばれていたことがわかります。 エノクはノアと共に「キリストと共に歩んだ人間」であることが聖書に書かれていますが、この「神と共に歩むようになる」ことが私たちクリスチャンの最終目標であり、地上における霊的訓練終了の卒業証書であることをエノクが実証しています。そのようなエノクは、今天でどのような人になっているでしょうか。

 エノクと聞けば、しばしば天に行かれるリック・ジョイナー師が、そのエノクに天で会った時のお話を思い出します。生きたまま天に挙げられた人は他に預言者のエリヤがいますが、ジョイナー師は天で先ずエリヤに会いました。以下は私たちがWWGMで2014年5月1日のブログでご紹介した時の記事です。

 

エリヤとエノク

 

 ジョイナー師はエリヤによく会います。それは預言的経験の中ですから、実際のエリヤに会ったのか、霊的な経験だったのかはわかりません。エリヤはもうすぐこの世に来ます。それはエリヤの霊がキリストのからだに来るということです。

 しかし、エリヤが私に「あなたはエノクに会うべきだ」と何回も言うのです。エリヤは「私とエノクは死を経験しませんでした。それは、終末の時の最後の神のムーブメントのときにキリストのからだに大きな霊的分与をするためです。あなたはエノクに会わねばなりません。」と言いました。私も会いたいと思っていました。なぜならエノクはこの終末の時代に現れる力ある者たちについて預言しているからです。

 そして私はついにエノクに会うことができました。彼は私が想像していた人物とは全く違いました! エノクは私が今まで会った人の中で比べ物にならない程最もハッピーな人だったのです。いつも一緒にいたいと思うような人でした。彼が持っている喜びは信じられないほどでした。彼は地上に暗やみが広がっていた時代に生きていました。ネフィルムもいたし、人の悪が増大した時代であったにも拘わらず、エノクは最高にハッピーで喜びに満ちていたのです。

 エノクと会ったすぐ後で、私はまたエリヤに出くわしました。彼は私に「エノクと会ってどう思いましたか?」と聞きました。「彼は、私が会った中で一番ハッピーな人でした。驚きました。」と私が答えると、エリヤは「何か質問がありますか?」というので、「ええ。あります。どうしてあなたはエリヤのようにハッピーじゃないのですか?あなたはずっと天国にいたのに、どうしてもっとハッピーじゃないのですか?」とぶしつけな質問をしてしまいました。どうしても聞きたかったのです。

 エリヤは答えてくれました。その答えは私に非常な衝撃を与えました。「どうしてか話しましょう。あなたが地上で生活する間に、天国に行ってからあなたが永遠にどのような人になるかが決められるのです。天国に行けば、あなたの苦しみ、悲しみ、嘆きはすべて取り去られます。私もエノクのようにハッピーになることは可能でした。でも私は地上にいる時、暗やみの方にばかり焦点を当てていました。『私だけが残って他は誰も主を信じる者はいない』というように悲観的になった事が多かったのです。私はもっとエノクのようになることもできたのです。そしてあなたもそうなれるのです。

  エノクはどんなに地上が暗くても神と共に歩き、神に焦点を当てていました。彼の中で神はどんどん大きくなって、まわりの様々な問題や状況はどんどん小さくなりました。主の臨在の中では喜びが満ちるのです。」エノクは主の臨在の中で喜びの頂点に達したのだと思います。だから天に上げられたのではないでしょうか。そして今も喜びに満ちているのです。

 勿論、私たちは天国に行けば皆ハッピーです。天国で一番ハッピーでない人でも、地上で一番ハッピーな人よりもっとハッピーです。それは確かです。でも私たちは今、地上で自分の永遠の性格を決めているのです。エリヤは言いました。

 「あなたの信仰を増し加えるために一日も無駄にしてはいけません。神の喜び、神の平安へと成長できる時を無駄にしないでください。聖霊の実は育てられてだんだんに大きくなるものです。私は多くの日を無駄にしました。私も今のチャンスを逃したくありません.主の喜びが、これまでよりはるかに大きくやって来ようとしています。私たちには考えられないような喜びに満たされハッピーになるのです。主を間もなくお迎えしようとしているのですから当然ではありませんか。主の臨在の中で私たちはハッピーになるのです。いいえ、ハッピー以上のものー「喜び」です。ですからあなたがこの世で霊的訓練のために通される試煉を無駄にしないで下さい。 一日も無駄にしないでください。私たちは今、永遠に自分がどのような者になるかを決めているからです。

 もしこれが本当であるなら、私たちクリスチャンが、最終的に永遠の世界で「どのような者になる」=「達するか」は、私たちが「現世でどのように生きるか」で決まってくると言うのであれば、その意味は、私たち個人がそれぞれ育てる聖霊の実に「個人差」ができる、そしてその個人差は永遠についてまわる「変わらない」と言うことになります。考えてみるとこれは大変な意味を持っていると思います。天の御国で最も近しく主なる王に仕える人、また、花婿に最も近く、愛し愛される人になりたいと思いませんか。しかし永遠の序列は、一人一人個人が「この世をどのように生きるか」で決まるのです。

聖霊の実は「愛、喜び、平安・・・」

 ガラテヤ書5:22には9つの聖霊の実が書かれています。その真っ先に挙げられているのは「愛」であり、次が「喜び」そして「平安」「寛容(忍耐)」と続きます。この世で私たちクリスチャンが霊的訓練を受けることによって聖霊の実が育てられるのであれば、「喜び」以上に「愛」こそが真っ先に育て上げられることこそが、私たちクリスチャンにとっての最大の目標であるはずです。

 なぜなら、「神は愛」であり、私たちは「イエスに似た者」に成ることが問われるからです。それは創世記1:27で「神は・・人をご自分のかたち(イメージ)(似た者になるように)創造された。」とあり、また、ガラテヤ3:27で「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」そして、コロサイ3:14では「これらすべての上に、愛を着けなさい。」と書かれている通りです。

 

 そこで私が思い出すのは、2014年に最終的に天に帰られた預言者のボブ・ジョーンズ師が、一度サタンに殺されて、天の門まで来て、救われた人たちの列に並んでいた時、門で迎える主イエスは誰もに唯一つの質問をされました。それは「あなたは地上で愛することを学びましたか」と言う質問でした。

 これを見ても、私たち人間が全てのことに「愛」を基とし、「愛によって働く信仰」を持つことがいかに重要であるかを物語っていないでしょうか。

 

 それにしても「終末の時」は本当に迫って来ました。終末とは聖書マタイ13:36-43の「毒麦の喩え」に出てくるように、すべて神からの本物の麦と悪魔からの偽物の毒麦が合い混じり合って育ち=それが神の始めからのご計画であることにご注意下さい=どちらも成熟する終末の時点で、神はまず毒麦だけを集めて火に放り込んで燃やすのです。一方、本物の麦は実が最高に熟し、重くなって穂の頭が下がりますが、偽物は実りがないだけでなく、毒になると言うのです。

 

 これはクリスチャンとは「預言的でなければならない」ことに結び付けて考えることにあてはめられます。すなわち、クリスチャンは一人一人が誰でも神の御声を聞く訓練を受けながら「本物の預言者からの預言を聞くこと」によって神の御心を知り、それを実行することを学びます。しかし同時に、神が悪魔に毒麦という偽預言を送らせてクリスチャンを惑わすことを許すので、私たちが偽物に惑わされない訓練をもさせて下さるのです。これは霊的成長にとって非常に大事な訓練です。

 

 その終末には、その訓練の間を縫って一大霊的アウエイクニングと最後の大リバイバルが、並行して起こるのです。そして今、既にその時に入っていることを私も実感し始めました。既に世界中がパンでミックスだけではない、色々な艱難が起こり、その上人と人が、神側と悪魔側の二つに別れて戦う様相が政治的にアメリカで進んでいるだけではありません。世界的に見ても、国と国、主義と主義による終末の大戦争に発展する様相が既にかなり濃厚になって来ました。(終わり)


23 06月

時は迫っている            坂  達 也 2020年6月23日


時は迫っている

 

                 坂  達 也

 

 先週私は、「終末の日に主だけを見上げる」というメッセージを書きましたが、これに続く格好のメッセージを、たまたま導かれて見つけましたので、今週はそれを載せさせていただきます。

下記のメッセージは2009年11月7日に私自身が書いたものの一部です。

 

時は迫っている

 

                 坂  達 也

 

 「聖書が何を要求しているかを一言で要約せよ」と言われれば、私は躊躇することなく「創造者の父なる神の御声に聞き従え」であると申し上げます。「聞き従うなら祝福を、従わなければのろいを」(申命記11:27,28)が聖書の単純明快な中心テーマの一つであり、それをこの世で最も忠実に(死に至るまで)実行して私たちのために模範を示されたのがイエス・キリストでした。一方従わねばこうなると言う見せしめを、私たちはイスラエルの長い歴史を通して知ることが出来ます。

 

 そのことに気がついている人は本当に幸いです。今の時代、世の終わりが刻々と近づいて来ていますが、それは人間が自分の思いで自分のために生きた時代、云ってみれば「個人の野心の時代」が終焉すると言う意味です。このことは、当然ながら、自分のために生きるのが通常の未信者の世界に当てはめられますが、私はそれ以上にクリスチャンに向かってそれを申し上げたいのです。

 

真のクリスチャンとは

 

 クリスチャンが今最も厳しく反省しなければならないことは、「自分のしたいことをして、何となく自然体で生きている」姿勢です。クリスチャンと云えども放っておけば自然に流されて「個人プレー(自分中心)のかたまり」のまま人間的に生きてしまいます。そのような生き方の正反対が「主の御声に聞き従った毎日」を生きる生き方です。

 そのためには多くの場合、人間が自然に生きる生き方に逆らって生きねばならず、それには大変な信仰による決意と努力が必要です。まさにヨシュア記1:8にある「この律法の書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさなければならない。」の「律法の書」を「御心を知りたいと言う願いと祈り」に置き換えて実行することにあると思います。それは主のご計画にのみ従って生きることをとことん思い詰めることです。

 

そのような願いと思いで日夜を過ごせば、常に主に飢え乾き、主を求める生き方になるはずです。いや、逆に真に飢え乾く人でなければそのような願いと思いは持てないかもしれません。いずれにせよ、それ以外の生き方をしている人は主イエスの後を追っている真のクリスチャンとはいえません。この生き方のためにこそ、私たちはイエスの後を追って自分の(自分に死ぬ)十字架を担いで生きねばならないです。そして、これを実行し本当に主の御声を聞く人だけが主に助けていただいて「死ねる」のであると思います。とどのつまりは、人間関係において「自分に死んで主に生きてもらう」ことをどこまで実行するか、実行できるかの問題ではないでしょうか。

 

 イスラエルの民は、自分たちが直接神の御声を聞いて死ぬといけないから、モーセが聞いてそれを民に話してくれるように頼みましたが(出エジプト20:19)、これはある意味ではていの良い「逃げ」であり、現代のクリスチャンの多くも教会生活を通してそうしているのではないでしょうか。私たちクリスチャンは誰でも主の御声を直接親しく聞く特権があるだけではなく、それを実行する義務があり、重ねて申し上げますが、そうしなければ基本的にクリスチャンとは言えないのです。

 

 今「先を急いでおられる」主は、そのような人だけを求めておられます。なぜなら、そうでない人は使いものにならないからです。主に用いれられるかどうかは、主の御声に忠実に聞き従うかどうかの一点にしぼられます。

 

 しかし「何かする」ことがクリスチャンの究極の目的ではないと反論される方もおられるでしょう。その通りです。私たちは「イエスのようになる」あるいは「イエスを頭とした一つのからだの一部になる」、「イエスの花嫁になる」ことが最終目的です。つまりは「すること」ではなく、「なること」です。

 しかし、その最終ゴールに達するためにこそ、主は私たちを召して修行させます。それが主の御用をすることである訳です。その一番卑近な例が教会形成(あるいは特別な目的を持ったミニストリー=例えば私たちのWWGM)とその運営にあります。

 主は、私たちにそれぞれに役割や、仕事を与え、それを私たちが御心に従って逐次実行する時に成果を挙げさせ、成し遂げさせます。すなわち、「・・・になる」ためには「・・・を実行する」と言うドリルを通して訓練されるのです。(終わり)


14 06月

終末の日に主だけを見上げる      坂  達 也      2020年6月14日


終末の日に主だけを見上げる

                坂  達 也

 

 

 「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」(1ヨハネ4:18、アンダーラインは筆者による)

 

 私はこの聖句をこのパンデミックが始まって以来、執拗にかみしめて参りました。

 そして今回、再びこの聖句の意味するところを味わってみて、「全き愛」とは神を象徴し、「恐れ」とは悪魔を象徴することが分かりました。

 「恐れ」を引き起こし、挑発するのは、この世の人間を支配しようとする悪魔です。その悪魔には「地獄の苦しみという懲罰」が既に有史以前から定まっているのです。これが上記の「なぜなら恐れには刑罰が伴っている」の意味であるのですから主を褒め称えます。

 

 そうであれば、真の霊的成長を遂げたクリスチャンには「恐れ」が全くない、いや、あってはならないということを、私たちは理解しなければなりません。しかし、弟子訓練途中のクリスチャンには「恐れ」が全くないとは言い切れません。現に私も含め、多くのクリスチャンは、今回のウイルス・パンデミックで「恐れ」を感じました。しかし、これこそ信仰の問題であることを今しっかりと噛みしめます。

 

 全知全能の神を信じ切って「神の救いの力」に頼る、それが「恐れを完全に取り除く」唯一の方法です。そしてこの際にこそ、何としても未信者に「イエス・キリスト」を信じることを勧める、神が与えて下さった絶好の機会ではないでしょうか。

 これこそ神が用意された「第三の霊的アウエイクニング」の引き金となります。そして私たちが未信者を「リバイバル」に誘導するのを、神は期待しておられます。まさに神のなさることに絶対間違いはない、パンデミック恐慌は神の愛から出ていると言い切れると私は信じます。

 

 

「神は私が呼ぶ時答えて下さる」

 

  とは、私の家内が昔から愛し、私のために残してくれたバジレア・シュリンク Basilea Schlink さんの珠玉のような作品の一つに付けられた題名です。彼女はご存知の通り、ドイツのキリスト教会指導者で、後にルーテル派内に設立されたマリア福音姉妹会の共同創立者です。

  この方は、詩篇50:15「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」を引用し次のように書きました。「このみことばは、聖書に示されている終末的様相をますます帯び、多くの苦悩が心をむしばもうとする現代に生きる私たちへの、神からの力強い呼びかけです。・・・今、このような呼びかけが天と地を造られたお方、私たちをあがなって下さった主イエス・キリストがなされているのです。主はその愛ゆえに私たちの心が悲しみに満ちていることを、また私たちがあれこれの問題に対処できないでいるのをすべてご存じです。愛に満ちたまなざしで、イエスは私たちの心にあるすべてのことをごらんになります。主おひとりが、私たちの心をわかって下さるのです。なぜなら、主は苦しみを受けられ、私たちと同じように試みに会われたからです。しかし、それだけではなく、主は、私たちがどのような悩みの中にあっても助けを備えていて下さり、すべての問題を解決できる唯一のお方なのです。イエスとは「神は救いたもう」という意味です。・・・言いかえれば、主イエスが私たちを助けず、救い出さないことなどありえないのです。

 

 また、この方の別の著作「苦難のさなかをゆくともー迫害前夜に生きるキリストの弟子ー」の中で、

 「聖書には終わりの時に迫害されるクリスチャンのことが記されています。『兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証の言葉とで、彼(サタン)に打ち勝った』(黙示録12:11)どのような時に『打ち勝つ』という言葉が使われているのでしょうか。それは戦いが行われる時のみです。なぜなら、戦いなくしては勝利もないからです。」と言われます。私たちクリスチャンは今こそ、その戦うための武器を取らねばなりません。

 

 

アメリカは既に第二の市民戦争 Civil War に入っている

 

 リック・ジョイナー師は、以前からアメリカには第二の市民戦争が起こることを預言して来ました。(第一の市民戦争とはリンカーン大統領時代の1861ー5年に行われた南北戦争を指します)そのリック師が10日ほど前のブログで「それは既に避けられないどころか、現在既にその第一段階に入っている。現在の政治政党とかメデイアにおいて、真二つに割れた市民の多くの人が、事実既に、武器(銃)を、個人的に購入して備えつつある」と言っていました。師は、ロマ書13:4を引用し、権威に逆らう人には権威者が持つ剣(当時の武器)がその悪業に報いると書かれていることを指摘しています。

 

 実は、それを裏書きするような事態が、このところアメリカで現実に起こっていることをお知らせしなければなりません。

 それは60万人の戦死者を出した歴史的な「南北戦争」を思い出させるようなお話です。当時、アメリカ合衆国を離脱して、植民地主義者、奴隷制度反廃止派のために戦って敗北した「南部連合国軍」に属する有名な将軍とか政治家の銅像が、現在の南部11州には、今でも大事な記念として数多く保存されています。ところが近来、その記念碑とか銅像を破壊しようとする動きが活発になる一方で、その取り壊し、あるいは移動を禁止する法律が各州で可決され、加えて、その連合軍国旗を保護する運動がこのところ相次いで起こっているのです。

 

 それと相まって、先月ジョージ・フロイド氏という黒人が、ミネソタ州のミネアポリス市にある店屋で、偽札使用で物を買おうとした容疑から、市の白人の警官が駆けつけ、武器を持たず無抵抗のフロイド氏の首の上に自らの膝を載せて押さえ込み窒息死させたという、大変由々しい事件が起きたのです。

 この事件は残念ながら、どう見てもその白人の警官が黒人を憎んでの仕業としか言いようがありません。このニュースを知ったアメリカ全土の人たちは激昂しました。そして、まさに一瞬のうちに挙国一致して反対デモに立ち上がったのです。それは黒人社会だけではなく、ほとんどの白人社会の人々も、あるいは世界中の人々が憤慨し、その連鎖反応として大都市では、商店舗の破壊行為を含む激しい暴動に発展したことは、日本でも大きく報道されましたから皆様もよくご存知の通りです。

 この前代未聞の恐るべき憎しみの犯罪は、やがて黒人に対するものだけに止まらず、すべての「人種差別反対へのデモ」に発展しました。幸いアメリカ国内では、小都市のほとんどが警官引率の元に平和裡のうちに行われました。その中には、白人の多い私の住んでいるニューヨーク郊外の小さな村のデモも含まれ、私はその様子を目撃しました。しかし、この騒ぎに便乗して、テロ組織が加わるという、かってないほどの争乱騒ぎになったことは本当に不幸な出来事としか言いようがありません。これで分かることは、アメリカには、特に黒人対白人というアメリカの市民戦争の深刻な古傷としこりが、未だ癒されていないことが明らかとなったのです。

 勿論神はこのような事件が起こり、世界に拡がる事を知っておられました。そして、世界を終末の大リバイバルへと導いて行かれます。

 

 

アメリカ国民はトランプ大統領の共和党の政策と

           民主党の政策を比較してどちらを選ぶか

 

 現政権を強力にリードするトランプ大統領とその共和党の勢いに対し、民主党としては、政策的には何も出せない、あるいは、何を出しても勝ち目が無いと見ているのでしょうか、結果的に見れば、トランプ大統領のすることなすこと全てに徹底して反対する策を取っているように私には思えます。

 それが、例え国の興亡に不利となり、国民のためにならないことが分かっていても、むしろ、そうなることによって国民がトランプ大統領に圧倒的な不満を抱かせ、彼のせいにして政権を奪い返す、すなわち、国民を犠牲にしてまでも政権を取り返すことだけに興味を持っているとしか思えないのです。

 

 その例を挙げてみれば、トランプ大統領の推し進めて来た民主主義・資本主義・民間企業を重視する自由経済に対し、民主党の候補者は、バイデン氏は今のところ何も言わない、程の良い無策主義、他の有力な候補者たちは、ほとんどがコミュニスト共産主義・社会主義による「すべて国がまかなう大きな政府」を主張しています。これはイデオロギーだけで大衆を取り込む、しかし実行すれば、すぐ破綻することが目に見えています。

 

 トランプ大統領がウイルス警戒の政策もさることながら、国民の経済を立て直す政策を今取ろうとしていますが、民主党はその反対にウイルス政策に重点を置き、その結果国民の経済状態が悪化、失業者が増えれば、政府の援助金をどんどん出させて、財政赤字を大きくし、国の借金を益々大きくすれば、その結果ドルの力は弱まり、国を不景気にすれば、その責任をトランプ大統領に課し、政権を奪い返す事だけを狙う。

 トランプ大統領が中国の台頭を警戒すれば、バイデン氏は、中国と仲良くする。等々。

 

 要するに今の民主党幹部には愛国精神は何も無いと言って過言ではないと思います。とにかく国の力を弱め、不景気になる政策を取ることによって、国民がトランプ大統領を見放すのを待つしかない。もっとも、実際に彼らはそう言っているのではありませんが、彼らの行言動からはそうとしか取れません。

 

 神はアメリカを見捨てるのでしょうか。決してそうではないと思います。この機にトランプを立てたのは神です。神は今、世界を歴史的にかってなかった程の一大危機に落とし陥れることによって、人類の目が、神を見上げるのを待っておられます。

 

 「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。アーメン。」(終わり)

 


03 06月

完全なる自己放棄( abandonment )により 神とフェース・ツー・フェイスに出会う         坂  達 也       2020年6月4日


完全なる自己放棄( abandonment )により

     神とフェース・ツー・フェイスに出会う                                           

                   坂  達 也

 

 

 

 日本人程「頑張ること」の好きな国民はいないと思います。少なくとも言葉の上では、挨拶代わりに「頑張って!」「頑張りましょう!」が合言葉です。つまり日本人程「自分で何事も努力することを奨励し、尊ぶ」国民はいないと思います。確かに創造主の神を知らない人にとっては、頼りにするのは自分しかいない訳ですから、人を励ます意味においてこの言葉は、決して悪い言葉ではないかも分かりません。

 しかし、クリスチャンとしての私は、この「頑張れ!」という言葉を聞くと、何か複雑な気持ちになります。なぜなら、何事も自分の努力ですることは、根本的に聖書の原理と相反するからです。

 何故なら、クリスチャンとは、主を常に見上げ、主の言われることを聞いて、それに従う以外の生き方はないからです。神は私たち人間が、自分の努力で事を為すこと、自分で努力して物事を達成することから「休みなさい」すなわち完全なる自己放棄(complete abandonment)を先ず要求しているからです。

 

 もっとはっきり言えば、神は私たちに自分では何もしてはいけない、只々「主の御顔を見上げて待ちなさい」と言われるのです。そこに要求されるのは「忍耐」です。そうすれば、全て主が、私たちに必要な「心の思い」を私たちの心の中に入れて下さり、それに忠実に従えばそれができるようになるのです。

 

 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28−30)と主は言われます。その根底には「愛」があり、愛がすべてです。

 

 

 さて今日は、その「完全なる自己放棄(complete abandonment)」をすることについてビル・ジョンソン師の証しをお分ちしたいと思います。それは1971年に、当時ベテル教会の主任牧師であった彼の父親が取り次いだメッセージを聞いて彼が決意したことです。

 お父さん先生は、私たちが「神ご自身に対してミニストリーをする」ことと「人々に対してするミニストリー」とは全く違うと語りました。ビル師は、その前から自分を神に放棄する( surrender )コミットメントをしていました。しかし、そのメッセージを聞いて時、口に言い表せないような深い感銘を受け、更なる決意をしたのです。神はそれに素早く応じられ、それ以来聖霊の臨在と神の力を受け始めました。

 そして1995年に至って、彼は「私は、もっと主を求めます。それがいかなる代価であっても、私はその代価を払います。」と日夜泣き叫び始めました。それは8ヶ月続きましたが、10月のある夜、遂に神がそれに答えて下さったのです。但し、それは私が予想していない方法ででした。」と言います。

 

 ビル師は、突然死んだように寝た状態からはっきりと目覚めた状態へと一瞬にして変へられ、突如として全く説明のできない物凄い力が彼の身体の中を走り始めました。それはあたかも壁のソケットに自身を差し込むことによって1000ボルトの電流が彼の身体に流れ始めたかのようで、その電流に打たれ、神の前で彼は何も身動きできない状態になったと言います。

 それは神の御声を聞くとか、ビジョンを見るとかというレベルを遥かに超えた、彼はそれまでの人生で経験したことのない「物凄い圧倒的な力」そのものであった、それは神ご自身としか言いようがないーーと言い、これが彼が8ヶ月祈って来たことへの神の応えであったのです。

 

 このパワー(電力)サージのうねりはその夜を通して続いたそうです。そして朝方6:38AMにやっと止まり、彼はベッドから完全にリフレッシュして飛び起きたと言います。

 彼は、後日、これが「神とフェース・ツー・フェイスに出会った」経験であったということを知ったそうです。(以上はビル・ジョンソン師の著書:Face to Face with GOD からとったものです。)

 

 

モーセは神と口と口で語った

 

 このビル・ジョンソン師のお話しから思い浮かぶのは、モーセが主の前に40日40夜、食べず、飲まずに主と共に過ごした経験です。それによって彼は神と「親しい友人」のように話し合う間柄になりました。そのモーセは荒野の旅に出ると、宿営の外に会見の天幕を張り、そこで彼は「神と口と口とで語り・・・(目の前に)主の姿を仰ぎ見ている」(民数記12:8)と書かれていますから、私たちが真に決意して望めば、本当に「神とフェース・ツー・フェイスに出会える」のです。

 それには「神に出会えるなら、どんな代価でも払う」という決意と、時間を掛けてそれをまっとうする実行力、そして忍耐が必要です。

 

 ヤコブの場合は、祝福を得るためにはどんな代価を払っても神にしがみ付いて離さず、神(天使)と格闘して遂に勝ちました。そして、生涯びっこを引いて歩くという代価を払いました。

 

 私たちクリスチャンは、神とお話しができると聞いて、それならやってみようとその訓練を始めますが、多くの人が簡単に諦めて、結局辞めてしまいます。

 「主と共に歩く」ことも同じです。主と共に歩くためには、先ず「完全に自己放棄(complete abandonment)」して、無心で主について行けば、主が必ず語ってくれ、それが聞こえるようになり、後はそれに従って行けば良いのです。まさに「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(終わり)


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