WWGM

Walk With God Ministries

20 11月

聖霊があなたのすべての心配を拭いさる    キャサリン・ルオナラ    2017年11月20日


聖霊があなたのすべての心配を拭いさる

 

キャサリン・ルオナラ

 

心配が平安と喜びを奪う

 

最近 一日の休みを与えられ幸いな時をすごしました。毎日ずっとミニストリーをしていたので、とても感謝しました。聖霊と話をしようと散歩にでかけ、あたりを眺めながら会話を楽しんでいました。しかし、聖霊が語り始めたとき私の潜在意識の中はいろいろな心配事で一杯であることに突然気が付かされました。それは私が心配する権利もない事柄に関してだったのです。主が「あなたはそのような事を考えるように造られてはいません。」と言われる声が聞こえました。

 

そして、私の思いが常に「心配」という場所に行き着くように設定されていることも知らなかったことに私は気がつきました。私は内なる自分の意識の流れ(誰にもありますが)の潜在意識のレベルで物事を心配する習慣が出来ていたのです。その多くは私が必要とする事に関してで、あの事この事が巧くいくだろうか、何か問題が出て来たらどうしよう、というような心配でした。

 

私は、心が少しリラックス始めると、山積する問題が表面に浮かび上がってきて、それをどう解決しようかと考え始めて随分と頭のエネルギーを使って疲れるのでした。私は心配の中で生きるというわなに落ちてしまっていたのです。

以前は、もし誰かに「あなたは心配性ですか?」と聞かれたならば、私は「違いますよ。」と答えたと思います。私はもともと心配性ではないと思います。実際、私はいつもハッピーな人だと思います。しかし、私の思いは「心配という古い人間のパターン」に常に戻るように設置されていたのです。

 

ほとんどの人は、すべての事に関して「もしも〜これこれのことが起こったら?」と考える傾向があります。その傾向が私の意識下に潜んでいました。聖霊はそれを表面に浮かび上がらせ、私はそのような事を考えるようには造られていないことを優しく思い出させてくださったのです。心配は平安と喜びの盗人です。

 

上にあるものを思う

 

数日後、このような聖霊と私との会話を何も知らない牧師が預言をしてくれました。「神は、何かを心配するためにあなたを造られたのではないと言われる。あなたの思いは、奇蹟や主がこれからなさる(すばらしい)事に留まるべきです。」

 

これは私にぴったりの預言でした。私たちの思いは「どうして? いつこんな事が起こったのですか? もしそうなったら?どうなるんですか?」

というような神への質問ですぐ一杯になってしまい、それらは執拗に私たちの思いの中に現れます。

 

「神は何をなされるのだろうか」と期待することと、「何が起こるのだろうか」と心配しながら生きることとは違います。

もし意識的に「心配な思い」を「神の真理(第二コリント10:5)」に交換しないならば、私たちの思いは後者の方に自然に行き着いてしまうのです。私たちは第一ペテロ5:7で「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」と言われています。恐れと思い煩いで心が一杯になるのは、私たちが造られたブループリントにはないことです。

 

恐らくあなたは「聖霊と共に生きる」というのは、奇蹟、御ことばの宣言、力のミニストリーなどの外面的な実に関することだと考えておられたと思います。それらは確かに聖霊との交わりの結果の一部であり、今それがますます現れてきています。しかし、もしあなたが外面的力の中を歩みたいならば、内面も整えねばなりません。聖霊の力は、慰めを与えるために私たちの内部に働き始められるのです。聖霊との個人的な親しい交わりは、外面的な力が生まれる場所なのです。

 

聖霊はあなたを慰め、あなたの考えを変えて解放することによって、あなたがもっとよい事について考える余裕を与えたいのです。あなたは「ただの人間」として考えるようには召されていません。あなたはキリストの心を持っています。(第1コリント2:16)あなたは愛に根ざし神の愛に基礎を置くように召されているのです。(エペソ3:17)この愛を知ることだけが、神の満ち満ちたさまに満たされることです。(エペソ3:19)

「私たちのうちに働く力によって(エペソ3:20)」私たちが願ったり考えたりすることを、神は「豊かに、思いを越えて、溢れるように」してくださることにもう気がつかれましたか?

このような私たちの内なる力は、宗教的に正しい行動をすることからではなく、本当に知り信じることから来ます。それは私たちの心と思いから始まります。そのためにはパウロが言う「心の一新(ローマ12:2)」という整備が必要なのです。

 

思い煩いを主にゆだねる

 

私たちの思いや考えを変える重要な方法の一つは、自分の思い煩いを主にゆだね、主がそれを必ず取り扱ってくださると信頼することです。第一ペテロ5:7で使われている「ゆだねる cast」という言葉のギリシャ語は「epiroto」で、それは「急な動き、素早く投げること」を意味します。

「もしも〜が起こったら」という心配が起きたときには、常にすぐその思いを投げ捨てて「私の問題ではない。私とは無関係だ。」と宣言することを主は望んでおられるのです。

 

もしあなたの人生に何か恐れや心配のもととなるものがあるならば、それを無視してはいけないと神は言っておられます。それを主のもとに持って行くのです。(ピリピ4:6−7)

素早く、意図的に、投げるように主に渡してしまうのです。その時に感謝をしながらすることが非常に大切です。というのは、それによってあなたが主を信頼していることが分かるからです。感謝をもって主にお願いするとき、あなたは主があなたのために働いてくださるだろうかと心配はしていません。主はそうしてくださることをあなたは知っているのです。それを主に明け渡し、あなたの心配をはね飛ばして主の平安と交換するのです。

 

今週あなたが主と交わるとき、あなたの心配をすべて主に委ね、主があなたの願いに御心のままに答えてくださると信じてください。私たちの地域や国の霊的リーダーのために続けて祈ってください。世界規模のリバイバルのために祈るときにイスラエルや同盟国のことを覚えてください。自然災害、犯罪、テロなどによって被害を受けている人達のために祈ってください。

 

サンクスギビング、クリスマスの季節に当たり、慰め、癒し、助けの必要な人達をどのように助ければよいかを主に訊いてください。(ピリピ4:4−5、第一ペテロ5:7)(終り)


13 11月

主が祈っておられることを祈る   ダッチ・シーツ           2017年11月13日


主が祈っておられることを祈る

 

ダッチ・シーツ

 

 イリノイ州の牧師夫人であるデルブラ・プラット師の言葉を紹介いたします。

「私たちは『大胆に信じることの大切さ』をあまりにも強調する結果、物事を深く考えたり主の御こころを求めることなしに「信仰による宣言」をしてしまい、角笛を吹き、旗をふり始める傾向があります。(訳者注:カリズマ系のクリスチャンに多いですね。)

 

立ち止まってその事に対する主の見解を訊ね、私たちが何を祈り、何をなすことを主が願っておられるのかをお訊きすることをほとんどしないのです。残念なことに、私たちは人から祈りの要請を受けると「いつも通りの慣れた応対」をして、「自分勝手な祈り」をし始めるのです。

 

その結果私たちは、余りにもしばしば「神の祈り」を祈りません。

 

確かに主から啓示と識別が与えられるのを待つのは忍耐を要するかもしれません。「何を祈ればよいのか」、またある場合には「何をするべきなのか」を、

聖霊に導かれつつ聖書を丹念に調べねばならないケースも多々あるのです。

 

このように主の啓示を求めるならば、私たちは主との親密な関係を築くことができます。このプロセス全体を通して私たちの信仰は成長し、心は新しくされます。天国はどのように機能するかという幾つかのパターンを私たちが見始めるからです。私たちは今までよりもっと神と神の取られる方法を知るようになります。」

(引用終り)

 

 今まであなたが主の御心を求めないで多くのことを「自分のやり方」でしてきたことを悔い改めましょう。今日、主と共に静かに時を過ごそうではありませんか。言葉を口から出さずに、ただじっとしていてください。

 

主が今日、あなたに、アメリカのために祈ることを願っておられることがあるかを、尋ねてください。主が言われたことを祈り、また宣言してください。主がある聖書箇所に導かれることもあるでしょう。

 

祈りますー「主よ、あなたからの指示なしに、すぐに祈り、行動したことを赦してください。私はあなたを愛しております。愛の関係は親密さが土台です。今日私はただ黙してあなたとしばらくここに座していたいと思います。もしあなたが私に知らせたいことや、示したいこと、教えたいこと、また私に祈るべきことがありましたら教えてください。」(終り)

 

 

 以上のメッセージは、妻の柚実子が今週のWWGMGMのために選んで訳したものですが、この短いダッチ・シーツ師のメッセージを読んで,私は自分が昔書いた本「主を見つめて待つ」で私が取り上げたテーマであることを思い出しました。そして、このシーツ師のメッセージに、今の教会が最も必要とする「クリスチャンの基本」の一つが説かれていると思ったのです。正直なところ、今の時代は十字架のメッセージが欠けていると最近私は、しきりに思わせられております。

 

 

 そこで、ご参考になればと思い、私が昔書いた「主を見つめて待つ」という小冊子(2003年発行、2008年再販)の中から、下記の部分(86−88ページ)を引用しますのでご高覧下されば幸いです。(坂 達也)

 

「愛の十字架を生きる」

 

 ブラザー・ローレンスが、何をしていてもいつも主のことをお思い、主を喜ばすこと以外には何もしない、主と絶え間なく会話をしながら、主の臨在と共に生きる、主と二十四時間共に語り合いながら過ごすお話を先程ご紹介しました。霊的になることがこの域に達すれば、「あなたと神の関係はもう一段階深いレベルになります。」とマダム・グイヨンは言いました。

[この婦人は十六世紀のフランスで当時のカトリック教会と論争を引き起こし、ついにはルイ十四世によってバステイーユに投獄されましたが、彼女の書いた「イエスキリストの深淵を経験する」という本は彼女の自伝と並んで、女性が書いた、キリスト教会史上最も影響を与えた本と言われます。私はその本から総て引用しています。]

 

「それは、あなたの人生に対する態度と考え方を、根本的に変えることを意味します。すなわち、それは全面的に自分の存在の権利を放棄し、神に手渡すことです。」とマダム・グイヨンは言っています。

 「具体的に言えば、あなたの身に毎時毎分起こっている出来事の総てが神の御心であり、神の許可なしに起こるものは一つもなこと、総てが神から来て、総てがあなたに必要なことであると心から信じるのです。これを信じられれば、あなたはどんないやなことが起こってもそれを甘受できます。主を本当に知りたいと願うなら、このコミットメントを生涯続ける決心をしてください。一時的な決心では進歩しません。全面的かつ無条件に自己放棄することにあなたは同意しますか。そうすれば、あなたは自らの自由意志を無条件に放棄して、今日からは完全に主の持ち物になるのです。」

 

 この決心は決して生易しいものではありません。又、生易しく考えてはいけないと思います。私はこの本を読んだ時、「待って下さい。私はこれもしたい、あれも今祈って待っています。主よ、それら総てを放棄するんですか。」と思わず心の中で主に訴えました。正直なところ放棄すると考えただけで恐れが出て、ものすごい不安に駆られたのでした。

 それは本当にあなたの必要とするものも、したいことも全部放棄するのであるからです。あなたの望んでいる「霊的になること」すらもです。あなた自身は勿論です。一切を神に差し出すのです。

 

 それでは実際に毎日の生活の中でどうすればよいのかと言えば、マダム・グイヨンは「毎時、毎分、あなたが何かをしたいという思いが来たら、すかさずそれを断念して、その思いに対する主の御心を聞くのです。その時、自分の思いがどれ程よいと思っても、自分からの欲望なら全部ギブ・アップすることです。」と言います。

 この断念し、ギブアップすることを徹底的に行えば、自分には全く無関心になる心境に達するでしょう。しかし、そうすれば、考えられない程すばらしいことが起き始めます。」とマダム・グイヨンは続けます。その結果は「自分から完全に解放され、後は主の御心だけを熱望するようになります。」又、「主があなたを離さなくなります。そして深い深い愛の関係に入ります。」そして「主に総てを放棄した人に対して主は特別の嫉妬を持ちます。その人には主以外のいかなる楽しみも持たせないように主はします。」と言います。

 

 自分を主に完全に放棄する、私はこれが十字架であると信じます。そしてキリストの愛の中に入るのです。自分を放棄してキリストに生きる、これはよみがえりのキリストと一つになることではないでしょうか。

 マダム・グイヨンは続けて言います。

 「あなたは十字架を心から愛するようにならなければなりません。」

 「十字架を愛さずに主を真に愛することは不可能です。」

 「あなたはどれ程迄イエスを飢え乾き望みますか。」

 「神は十字架を下さるか、十字架が神を私たちに下さるのです。」・・・

                            以上です。

最後に、もし私の拙書「主を見つめて待つ」ー霊に目覚め・神の声を聞く方法ーにご興味がおありの方がおられましたらお申し越し下さい。未だ在庫がいくらかありますのでお送りさせていただきます。(坂 達也)


06 11月

「この岩の上に」とは   ランス・ウオルナウ         2017年11月6日


 

「この岩の上に」とは

 

                ランス・ウオルナウ

 

 

マタイ16:18「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」

 

この箇所はイエスのミニストリーにおいて重要なシフトが起こったところです。それまでイエスは弟子たちにご自分がメシアだと知らせませんでした。イスラエルはメシアの訪れを待ち望んでいましたが、戦いに強い王として現れるのを期待していました。しかしイエスはそれとは違う形で現れました。弟子たちが「人々はあなたのことをバプテスマのヨハネとか、エリヤ、エレミヤ、預言者の一人等と人々は言っている」と言ったとき、イエスは「あなたがたはわたしをだれだといいますか」と問われました。弟子たちの間では、まだイエスが何者かという一致した意見はありませんでした。イエスはご自分が何者かを告げないで、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか?」という質問をされたのです。弟子たちにとっては、少し間の悪い瞬間だったことでしょう。

その時、ペテロが「あなたは生ける神の御子キリストです。」と答えたのです。それは前から自分の頭で考え出した結論ではなく 、その時突然与えられた天からの啓示でした。

 

イエスが求めておられたのは、「御父が言われていることを聞いて、それを口で言い表すことができる者」でした。天が宣言していることをキャッチして、それを地で宣言する者です。何故ならば教会とは、イエスが何者であるかという啓示が幾つも積み重ねられて建て上げられていくものだからです。その土台となる最初の啓示が「イエスはキリストである」というものでした。

 

その時イエスは「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」と喜ばれました。そして「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」と言われました。

 

これはパワフルな、かつ神秘的な箇所です。

カトリック教会は、ペテロが岩であり、教会はペテロを土台(教皇)として建てられると解釈しました。後にプロテスタントが起こり、ペテロという名の意味は「岩」ではなく「石」であり、岩は「イエスはキリスト」という啓示であり、弟子たち一人ひとりが「生ける石」となって岩の土台の上に教会を建てるのだと言いました。これがカトリックとプロテスタントの相違点となっています。

 

イエスは続けて「ハデスの門もそれに打ち勝てません。わたしはあなたに天の御国のかぎをあげます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」と言われました。

 

これは「天においてすでに宣言されていること、即ち天で既に承認されたものを、地上で受け取って宣言すれば、それは地上で実現する」ということです。ペテロは「イエスはキリストである」という天の宣言を受け取り、それを地上で宣言したのです。それと同じようにあなたも天ですでに宣言されたことを受け取り、それを地上で宣言することができるのです。あなたが出来ることは天で神が既に承認したことだけであるのです。天で承認されていないことをしようとしても、御国のドアを鍵で開けることはできません。

 

教会がどのように建て上げられ前進してゆくかがここで説明されています。

「イエスはキリストである」という天の啓示をペテロが受け取り、それが土台の岩となりましたが、教会に関する天からの啓示はそれで終ったのではありませんでした。次の啓示は「異邦人も教会に入れられる」というものでした。ユダヤ人にとって異邦人の救いなど思いもよらないことでしたが、彼らは啓示を受け取った故に天と一致することができたのです。このように教会は啓示から啓示へと建て上げられていくのです。

 

では、啓示は誰が受け取るのでしょうか。聖霊の仕事は教会をアップ・ツー・デイト(最新のもの)にし、天が今語っていることを知らせることです。では天が承認したにもかかわらず、地上でなされていないことがあるでしょうか?

神が天で宣言され教会が次のレベルに進むようにと承認しておられるのに、教会がそれを聞いていないということがあるでしょうか?

 

私たちは「ちゃんと最先端を行っている、神が今しておられることはしっかり把握している。」と言いますが、ほとんどのクリスチャンは神の声を聞いてはいないのです。神が今、地上でしたいことを、天ですでに承認され、地上でそれに同意する者を捜しておられるかもしれません。

それはあなたかもしれません。「信仰は聞くことによる」のですから、聞かねばならないのです。

 

一つの例をお話いたします。2002年に私は「社会に影響を与える7つの山(領域)」について語り始めました。神から7つの山があることを示されたのですが、私に分かっていたのは、「政府」の山だけでした。というのは臨死体験をしたある議員がそれを主から直接教えてもらったのを聞いたからです。するとYWAM 創始者のローレン・カニンガム師が「私が教えて上げます。」と言って、あとの6つ(ビジネス、メディア、芸術と娯楽、教育、家族、宗教)を教えてくれました。彼は1970年代にすでにその啓示を神から受け取っていたのです。

 

今7つの山のメッセージは多くのクリスチャンに知られるようになりました。そして宗教の山だけではなく7つの山すべてをクリスチャンが制覇するというヴィジョンを教会が持つようになったのです。教会はこのように新たな啓示によって前進していきます。イエスがどれほど愛と力と知恵に満ちた方であるかを啓示で示され、新しいムーブメントがこれまで起こってきましたが、それで終りではありません。イエスの啓示は更に続くのです。

 

そして今は「イエスが受け取るべき相続」についての啓示が与えられています。勿論人間のたましいがイエスが受け取られるものですが、それだけではありません。詩編2:8には「わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。」とあります。又、マタイ28:19のイエスの言葉を見てください。「make disciples of all the nations (すべての国々を弟子にしなさい)」とあります。

 

[訳者注:新改訳「あらゆる国の人々を弟子としなさい」、口語訳「すべての国民を弟子として」共同訳「すべての民をわたしの弟子にしなさい」とあり、「すべての国に住む一人ひとりを弟子にする」と解釈できますが、英語では「国々を弟子にする」と解釈できます。]

 

そしてマタイ25:32を見ると、「All the nations (すべての国々は)will be gathered before Him. And He will separate them one from another, as a shepherd divides his sheep from the goats.」とあります。これは人々のことでなく国々のことです。イエスは国々の王であり、イエスは国々を相続されるのです。

 

[訳者注:新改訳では「すべての国々の民が、その御前に集められます。」と訳されていますが、 英語はAll the nations(すべての国々)と訳されていて、それは民を指すのではなく、むしろ国を単位として強調し「すべての国々」を指して言っています。]

私たちは「御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」と祈るように教えられました。では、神は天の御国をどのくらい地に行ないたいのでしょうか?

あなたの家の面積くらいでしょうか? あなたの家と車と事務所でしょうか?

主は「あなたの教会に」とか「あなたのミニストリーに」とか「あなたの仕事に」とか言っておられません。主は「地に」即ち、国を単位とした「地球全体」に御こころが行われますようにと祈るようにと言っているのです。

 

ではどうしてそれが起こっていないのでしょうか? なぜ「羊の国」や「羊の都市」が現れていないのでしょうか?

それは、人々の中に「国々を弟子にする」という御ことばに対する十分な信仰がないからではないでしょうか。

 

では、天で行われることを地にもたらすための、第一の条件はなんでしょうか。それは「あなたがたのうち二人が、どんな事でも、地上で心を一つにして祈ることです。」(マタイ18:19参照)すなわち、あなたが誰と同意し一致するかがあなたのデスティニーを決めるのです。

あなたが神と同意一致するならば、それは人生に顕れ現実となるのです。あなたが誰と同意するかは、あなたが誰と一緒にいるかより重要です。ペテロはすぐあとに、サタンに同意した故に「さがれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。」とイエスから叱責されました。イエスはペテロと同意せず、ただ御父と一致していたのです。

 

神は今、「イエスが受けるべき相続はなにか」「神はこの地に天をどのくらいもたらしたいか」に関してあなたの考えをレベルアップし、最新のものにすることを望んでおられます。あなたがその新しい啓示を受け取り、あなたの人生に新たな恵みといのちが与えられるようにお祈りいたします。(終り)

 

[あとがきー訳者注:上記の「あなたの考えをレベルアップし・・・」の意味は、私たちはつい物事を人間的なレベルで見て人間的に考えてしまいますが、ここに書かれていることは、人間のレベルとは全く違う神のレベルの話しであるのです。すなわち「イエスはどのようなお方であるか」を考えるとき、18節にあるように「イエスは天においても地においてもいっさいの権威が与えられている」=全知全能の神が持ついっさいの権威と力を持つ方」であり、その後の19節後半で「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」と書かれ、また20節に「わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように彼らを教えなさい」書かれているのですから、三位一体の神が総出で「私たちを通して」全力投球で「ことをなす」=「神の御業のレベル」に考え方を引き上げなければならないと思います。そう考えれば、世界の国が「羊の国」と「山羊の国」に分けられる時が来る、その場合の「羊の国」とはほとんどその国の国民全員が「イエスの後を常に追う成熟した『キリストの弟子』」となることを、神はここで真剣に意味して言っておられると考えるべきではないでしょうか。そして、これからの終末最後の時代にこれが本当に実現すると考えるべきです。それが「主の祈り」に書かれていることの意味であると信じます。それほど大きな期待を主は今の私たちクリスチャンに期待しておられるのです。すばらしい時代が間もなくやってくるーその覚悟をお持ちでしょうか。]


31 10月

緊迫する北朝鮮情勢       坂   達  也           2017年10月31日


緊迫する北朝鮮情勢
                  坂   達  也
トランプ大統領のアジア訪問を間近に控えたアメリカでは、北朝鮮に対する軍事行動に踏み切る場合の戦闘態勢への準備が着々と進められているニュースがこのところ連日のように報道されています。ついては、日本での新聞テレビ情報は、アメリカのリベラルなニュースソースがほとんどではないかと思われますので、今回はフォックス・ニュースを中心とした概してトランプ政権を支持するニュースメデイアからの情報をご報告させていただきます。
昨日のニュースでは、アメリカの最新鋭スチルス核爆撃機 B−2をトランプ大統領の日韓中訪問に先行して、太平洋から極東三国近海に向けた地区(場所は明らかにせず)を巡回(警戒待機)することが発表されました。又、北朝鮮では、アメリカ軍の襲撃に備えて灯火管制とか避難訓練が大都市ではない地方の核武器製造場所とか発射基地に近い小都市で行われたという情報も入っています。
これによって、北朝鮮側もアメリカの軍事態勢が急速に強化されていることを十分把握していることがうかがわれます。その証拠でしょうか、この6週間程は北からの弾道ミサイル発射が鳴りをひそめています
そこで、一つだけ確かなこととして今トランプ政権が一致して強調していることは、北朝鮮を核武器保有国にすることだけは断じて許さないと言う決意です。これによってトランプ政権が前オバマ政権が執って来た政策と完全に決別したことが明白にうかがわれます。
それが如実に顕われているのが、つい最近迄は武力を使わない平和裏の交渉を強調して来たペンス副大統領が、数日前に厳しい表情で、トランプ大統領と完全に一致して、武力行使を辞さないことを明確に表明したことです。それをマチス国防省長官も韓国の板門店訪問時に(韓国駐在の3萬5千人のアメリカ兵士を対象に)同じ内容を表明したのです。そればかりか、マチス長官は技術的に見て、北朝鮮の核ミサイルがアメリカ本土にまで到達できるようになるのは時間の問題であり、そうなれば今や北朝鮮のアメリカ本土攻撃の可能性が現実問題として大きな脅威となって来たと述べ、従ってアメリカは、今これ以上待つ時間の余裕は全くない緊急事態の中にいることを指摘しております。
上記の緊迫した情勢を裏付けるかのように、アメリカの前国連大使ボルトン氏は、トランプ大統領が、再三警告して来た北朝鮮に対するやむを得ない場合の「軍事行使」の可能性が今急激に高まって来ていることを次のように説明しています。それは、第二次世界大戦勃発寸前に、当時のフランクリン・ルーズベルト大統領がナチの艦隊に対して「先制攻撃」をすべきであると主張した「暖炉前での会話
Fireside chat」ーこれは未だに語り継がれている有名な話であるようで、ネットにも載っていますーを引き合いに出し、今や北を先制攻撃する可能性は単なる脅しではないことを強調しています。(御存知のように第二次大戦では実際には日本とドイツが先制攻撃をしました。)
ということは今回、北朝鮮が先に攻撃するのを許したら大変なことになりかねない、この際は絶対にアメリカが先制攻撃すべきという考え方があるということです。特に、北が EMP爆弾をアメリカ本土に落とす計画があることはアメリカではかなり知られており、下手をすればその一発の爆弾がアメリカの命取りとなるとさえいわれています。(それについて私はWWGMの紙面で数ヶ月前にご報告しました。)
それをいえば、リック・ジョイナー師も北朝鮮に対しそのような先制攻撃を早期にしなければ、考えられない程多大な被害を与えることになると、最近も改めて警告を発しています。
それゆえに、最近の北朝鮮に対するアメリカの対応は本当に目を見張るものがあります。例えば、最近のアメリカ軍と韓国軍隊の合同演習の際、アメリカは何と、未だかってない3艘の航空母艦をそろえて北に向かって対峙させました。加えて、76機のアメリカ核爆弾攻撃用爆撃機B−52を24時間以内に戦闘態勢に入れる準備体制が整いつつあることを、大統領自らが表明しています。これはまさに挙国一致の体制といっても大げさではありません。
その一方で、このところ約6週間の間、北朝鮮が核ミサイル実験で鳴りをひそめていることにお気付きでしょうか。この間、アメリカ側は軍事面の強化という大きなプレッシャーを与えるだけでなく、北朝鮮との間で、公にはされてはいませんが、密かに話し合いが行われていることを私は感じております。
そのことは既にアメリカが、北に対する経済的圧力を掛ける目的で、北朝鮮と取引する国とは取引を停止することを宣言し、事実それが効力を発揮し始めているといわれます。現実に、北の経済的困窮は益々顕著になって来たといわれています。ですから、私たちが祈らねばならないことは、何としても平和裏のうちに北朝鮮から核軍備を完全放棄する約束を取り付けることにあります。そして最終的には北(朝鮮)と南(韓国)が統合することを祈るべきではないでしょうか。
そのためにも、特に今回の旅行でトランプ大統領の最後の訪問地中国で予定されている習近平主席との会合が、今後の世界の力関係を大きく左右する非常に重要な会談になるといわれます。特に習主席は、つい先週、毛沢東以来の膨大な権力を手中に収めたばかりで、独裁者として地位を高めつつある彼とトランプ大統領が今回どのように渡り合うかが注目されております。ひいてはこの会談の結果が、北朝鮮の独裁者金正恩代表の今後の出方に大きく影響を与えることはいうまでもありません。
最後にもう一つ注目すべきことを申し上げるとすれは、アメリカはトランプ大統領に代わって以来、オバマ大統領時代に比べると、軍事行動力においてその対応のスピードが格段に速くかつ効果的になって来たことを、ボルトン氏等が指摘していることです。
 そのよい例が、アメリカの強力な支援によってイラクにおける ISIS の首都といわれるラカ Raqqa が最近奪回されたことに見られます。これはアメリカ側にとって大変大きな勝利であり、今やシリヤとイラクにおける ISIS の支配地域は、僅かそれぞれ5%と3%しかないといわれます。そして、中東に置ける次の課題はイランが支援するイラクのアサド政権を倒すことにあるといわれ、ひいては中国とロシヤの急激な接近と、北朝鮮、イランの核兵器問題をトランプ大統領の率いるアメリカが今後どう扱って行くかが注目されるところです。
 いずれにせよトランプ大統領になって以来、オバマ時代に低下したアメリカ軍の戦闘能力と軍紀の乱れが回復途上にあることだけは確かです。それと共に、最近アメリカでも大きくではありませんが多少話題にのぼることは今回の衆議院選挙で大勝した日本の現政権が自国防衛という建前で今後どのような形でアメリカに協力するかです。但しはっきり言えることは、日本の軍隊の台頭についての根強い懸念はアジアにおける隣国だけでなく世界的に見ても未だに消えていないということです。
これは全く私個人の印象ですが、今回の選挙で安倍首相は北朝鮮への脅威に対して自分がアメリカの大統領と電話会談をしたりして北朝鮮問題の解決に一役買っているかのように国民に見せたことです。私はそれが気になりました。そしてどうも日本の国民はそれを信じたようであることです。
私は前にも書きましたが、安倍首相が福島災害の復興に力を入れるより、むしろ自分のアベノミクスの売り込みにより大きな関心を持ち、自国の深刻な原子炉汚染問題を満足に解決できていないことを忘れて、海外で日本の原子力発電技術を売り込もうとして来たことに大きな疑問を持ちます。これはモラルと見識の問題であるからです。彼は世界で唯一の原爆被災国の首相として、北朝鮮の原爆製造に絶対反対するという立場で強行に北朝鮮に抗議することが正しいのではないでしょうか。(終り)

23 10月

イエスの血潮の力       リック・ジョイナー        2017年10月23日


イエスの血潮の力

 

リック・ジョイナー

 

黙示録12:11−1

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。

 

ここで私たちは勝利するための究極的な戦略を与えられています。

1.小羊の血

2.私たちの証のことば

3.死を恐れないで生きること

 

私たちはどれほど小羊の血の力を本当に信じているでしょうか?

私はかつて、一つのアメリカの教会のリーダー達のグループから、ある有名な伝道者が罪から回復するために助け導くように頼まれました。私はそれが主の御こころだと知り、引き受けました。

すると、そのリーダーたちの中から多くの人が、一人ずつ私のところにやって来て、彼らが信じるところの「人が回復されるためのガイドライン」や「基準」を私に押しつけようとしました。最初私は彼らの考えや意見を歓迎していましたが、彼らが十字架の持つ救いと回復の力を制限していると分かった時、会うのを止めました。彼らは神の力ではなく自分の意見を述べたかっただけでした。説明いたしましょう。

 

リーダーたちは、この伝道者が完全に回復されるためには「絶対にこのくらいの時間は必要である」という自分の考えを押しつけ、十字架の力に制限を加えようとしました。私は彼らがどこからそのようなガイドラインを得たのか、聖書のどこにそれが書いてあるのか、と訊ねましたが、彼らは答えることが出来ませんでした。それはただ「回復されるには、彼の生活でこれこれが出来るようにならねばならない」という彼ら自身の尺度であり、その中には彼らにさえ出来ないこともあるのではないかと私は訝しく思いました。

 

私はこの事をもっと深く掘り下げて考えました。そして彼らがこの伝道者の回復に非常に厳しい基準を設ける理由は、彼が同じ罪に陥らないように悔い改め、癒され、強められるためというよりは、彼の罪によって「キリストのからだ」が酷い辱めを受けたからだということが分かってきました。回復させるのは罰することではありません。それはその兄弟を悔い改めに導き、癒し回復させることです。

 

これは今「キリストのからだ」の中で何が起こっているのかを暴露し、警鐘をならすものでした 。後にある人が話してくれたのですが、伝道者を公に誹謗したリーダー達に追随した人達は、その後皆、罪に堕ちたり、離婚したり、死亡したりしたそうです。私は誰かの面目をつぶすためにこれを言っているのではありません。私も同じような罪を犯していたかもしれないのです。私は人々が十字架の救いと回復の力を自分の考えで制限するという過ちを犯さないようにと、お話ししているのです。なぜならば、十字架の力を制限することは、回復されねばならない人が犯した罪よりも、もっと重大な罪であることが往々にしてあるからです。ヤコブの手紙にあるように、リーダーや教師として影響力が大きいほど、私たちは厳しい裁きを受けるのです。

何かのために十字架の力が働くのにどれくらい時間を要するかを、自分の意見で決めてしまうことは、非常に恐ろしいことです。もしあることには3年とか5年が必要だと決めるのは、何を根拠にしているのでしょうか?

第2ペテロ3:8に「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一年は千年のようであり、千年は一日のようです。」とあります。この言葉が意味することの一つは、私たちが千年かかると思うことを主は一日でできるということです。また、私たちが一日でできるはずだと思うことを、主は千年かけてされるということでもあります。タイミングは主の御手にあるのです。

この伝道者の回復に関して、私が聖書的ではないと思う意見を伝えにきた人達に、私は「主を否む罪は、この伝道者が犯した罪よりも重いでしょうか?」と訊ねました。彼らは皆、主を否むことの方が重い罪であると言いました。そこで私は「どうして主は、主を否んだペテロをわずか数週間で教会の最高の指導者とするために回復されたのに、なぜあなたはそれより軽い罪からの回復のために何年間も必要だと言うのですか?」と訊きました。

 

ガラテヤ6:1に「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」とあります。「御霊の人」であるならば、どのような過ちを犯した人でも回復させることができるのです。十字架の力で贖えないもの、完全に回復できないものは、何一つありません。(終り)


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