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Walk With God Ministries

15 08月

偽りのへりくだり     マーク・ディジーザス    2017年8月15日


 

偽りのへりくだり

 

マーク・ディジーザス

 

真のへりくだりは霊的成長へのハイウェイですが、残念ながら多くの偽物が横行しています。実際のところ、偽りのへりくだりがあまりに多いので、それがあたかも真のへりくだりであるかのような誤解を生み、間違ったお手本になってしまっています。

 

真のへりくだりは、自分ででっち上げることができるようなものではありません。それは神との関係の人生上のプロセスを通して養われていくものです。人生の経験を通して養われた真のへりくだりは、あなたから自然に輝き出るのです。

真のへりくだりの見本があまりにも少ないので、へりくだりがどのような形で外面に現れるのかを、私たちにわからないことがあります。ほとんどの人は「自分を卑下して否むこと」が霊的でへりくだっているかのように思っているのです。

私たちは往々にして「自分を卑下する人ほど謙虚だ」と考えますが、それは偽りのへりくだりにすぎません。自己否定はへりくだりと何の関係もありません。

宗教的な慣習や文脈を無視した聖書解釈により、人びとは自己否定こそがへりくだりであるという間違った考えを長い間信じこまされてきました。多分これからも真実は隠されつづけることでしょう。

私たちは自分を好きではないことを隠すために、物事を霊的にすり替えて扱うことがよくあります。この機能障害を霊的に見せるためによく用いられる聖書箇所は、ヨハネ3:30です。「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」ということばは、「人の称賛や励ましを決して受け取らない方法」として用いられてきました。「私ではありません。主がなさったのです。」ということばは、人との本当の交わりを避けるために昔から使われてきたのです。

実は私もその欺瞞にずっと騙されていた一人です。人びとから誉められると、「いやいや、そんなことはありませんよ。」と言って、それが謙虚な姿勢だと思っていました。

「自分が嫌いなので、愛のあるやりとりの中で私は居心地が悪かった」という事実に気がついていませんでした。主の御前にひざまずく時には、自分を卑下すればするほどもっと神からの顧みがあると思いました。自分を打ちのめすことは偉大な霊的行為だとさえ考えていたのです。

 

自分のこころを直視する勇気

 

私たちがへりくだりと呼んでいるものは、 実は自己嫌悪や自己否定のなす業であることを認める勇気を私たちは持っているでしょうか?

勿論、この問題を持ち出すと大きな反発が起こります。なぜならば、それは人の心の奥深くにある問題を直視させるからです。自分の中に「自己否定」があることを認めるためには、真にへりくだった心が必要です。例えば他人がその事を本人に示そうしても、ほとんどの場合うまく行きません。本人の自己防御の機能が狂ったように起動するからです。

私たちは皆、プライドと高慢でいっぱいの人物に出会った経験があると思います。その時の嫌な経験から、「自分は高慢になることだけは絶対に避けたい」と思いますが、それが自己否定という落とし穴に落ちる結果となることが多いのです。あなたがもし自分を嫌いであるならば、自分を打ちのめし、それが謙遜だと思っている人に惹き付けられる可能性があります。

 

自分の破れを隠す言葉

 

「偽りのへりくだり」は、自分自身を嫌っていることを他人に見破られるのを嫌います。ですから私たちは「自己否定や自己嫌悪」にいろいろな衣を着せて装う技に熟達します。教会の中では聖書のことばを文脈からはずして用いる人たちにその傾向があらわれます。

私たちは心の中で本当はこう思っているのです。「私は誉められると、それにどう対処すればよいかわかりません。あなたから愛を受けると私は気詰まりで居心地がよくありません。ですからそれを拒否しますが、それがあたかも霊的でよいことであるかのように聞こえるような言い方をします。」

有名な牧師がある人を称賛したとき、その人が「私ではありません。主です、主がされたのです。」と言ったときの牧師の応答はとても傑作です。牧師は「まあ、主がされたほどには良くなかったですよ。」と言ったのです。私たちは「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」とか「私の肉を殺さねばなりません。」と言いますが、それも又、自己卑下や自己否定を繕うことばとして用いられていることがしばしばあるのです。

 

真のへりくだりが持つ確信

 

ダビデはゴリアテがイスラエルを侮辱し神を侮っているのを見て怒ります。彼の兄たちは、自信がなく恐れていました。「兄たちの臆病」は「ダビデの確信」と真っ向から向き合わされたのです。兄たちは、自分たちの姿勢が当たり前であり、ダビデの確信は傲慢であると考えました。

ダビデが個人的に築きあげた神と信頼関係は、真のへりくだりをダビデの内に養いました。しかし彼の神への確信を、人は傲慢だと見たのでした。

ダビデの言葉を聞いて、長兄のエリアブの怒りは燃え上がりました。そして「いったいおまえはなぜやってきたのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。私には、おまえのうぬぼれと悪いこころがわかっている。戦いを見にやってきたのだろう。」(1サムエル17:28)と怒鳴りつけました。おわかりでしょうか?

自信のない人には、真にへりくだった人が傲慢に見えるのです。

真のへりくだりを持つ人は、自分のうちにおられる神に大いに確信を持つのです。彼らは神の命令に服従し、神と個人的に交わるプロセスを通して得た確信を堅持するのです。彼らは自分を否定したり憎んだりせずに、神が造ってくださった自分という人間に「はい。アーメンです。」と言うのです。彼らは神がうちに働いてくださることに感謝し、人から認められるために自分を誇示する必要を少しも感じません。しかしいざという時には、真にへりくだった者は確信をもって

問題に立ち向かうのです。

 

兄たちはダビデが高慢で悪い心があると叱責しました。しかしダビデは主にあって確信があったのです。ダビデの神にある確信と信仰は、兄たちの自信の無さや自己否定を露呈しました。兄たちは、ただ敵に降参して負けてしまいたかったのです。ダビデが神に信頼し、神がダビデを強くされたので、彼は敵の挑戦に立ち向かい、その結果彼は巨人を倒した者として永久に知られる者となりました。

 

私は素晴らしく造られている

 

ダビデは又、 「私は、素晴らしい神の創造物である」というダイナミックな啓示を受け取り感謝していました。ある日、ダビデは自分が神にどれほど素晴らしく造られているかに気付き、神の偉大さを更に認識したのです。

 

想像できますか? ダビデは自分自身を鏡で見て、その結果神のご性質を崇めずにはおられなかったのです。詩編139:14に次のように書かれています。

“I will praise you, for I am fearfully and wonderfully made;

marvelous are Your works, and that my soul knows very well”

 

私はあなたを誉め称えます。私は恐れ多く素晴らしく造られているからです。あなたの御わざは奇しく、私のたましいはそれをよく知っています。(訳者私訳)

 

彼は「私はあなたを誉め称えます」と言っています。どうしてでしょうか?

「それは私が恐れ多く素晴らしく造られているからです。ですから私はあなたという方に深い敬愛を捧げずにはおられません。」とダビデは言っているのです。どうかこのことをじっと考えてください。ダビデは自分自身の姿を見るとき、創造主をもっと理解し、もっと誉め称える思いになったのです。

私たちは神の似姿に造られました。ですから私たちが自分の姿を見ることによって、創造者の力と創造力を誉め称えるように神は意図されたのです。

あなたが自分の姿を見ることによって神の姿を更に知るようになったのはいつのことでしたか?

ほとんどの人にとって、それは不可能に思われます。なぜならば私たちは自己否定することに馴らされていて、自分を完全に受容していないからです。私たちは自分のいのちをどのように喜び祝ったらいいかわからないのです。それは人からそのようにされたことがないからです。私たちは人を高慢にさせるのを恐れるあまり、互いに誉め合うことをしないのです。

 

自己否定によって、私たちは 「神の素晴らしい創造物である『自分』を見て神の偉大さを知ることが出来る」ということなど、思いもよらないようにされてしまっているのです。私の回りにいる人たちは、「もし神が私を愛してくださるように自分自身を愛するならば、それは傲慢なのではないか」という恐れを抱いています。彼らは、自己否定は、実のところ「偽りのへりくだり」という衣を着た「霊的プライド」であることを理解していないのです。霊的プライドは神の愛と受容をはねつけます。自己否定は神が差し出す愛と美を拒否し、押し返して、自分が真の祝福に入るのを許しません。

 

ではどうすればよいのでしょうか。

1.自分を辱め卑下することを「へりくだり」と呼ぶことを止めねばならない

真のへりくだりは、自分という人間に現れている神の偉大さを理解するところから来ます。それによって、畏敬と服従と感謝が生まれます。私も、主によって造られた自分を感謝し喜ぶことを学びました。それは姿形や声に至るまで、私という人間のすべてにおいてです。今まで長い間、私はそのようには生きてきませんでした。

以前は、鏡の前に立つと身体の部分の嫌いなところを全部呪いました。鏡を見たり自分の写真を見るのがとても嫌でした。人から投げかけられたひどい言葉をずっと引きずり、いつも自分の難点や欠点にフォーカスしていました。

 

2.神が自分をこのように造ってくださったことや、神が自分の人生に与えてくださっているすべてのことを感謝して生きる自己否定から抜け出す道は、私にとって意識的変革のプロセスとなりました。ある日私は、神が人生に置いてくださった沢山の麗しいものを押し返してしまい、その結果、「人生がうまく行かないのはどうしてだろう」と思っていたことに気がつかされました。そして私は自分自身の「最悪の敵」ではなく、「ベストフレンド」になることを学び、これから一生、自分を受容していく決意をする必要がありました。

私は毎日、神が私を用いてくださることに感謝します。私を通して誰かが癒されたり、誰かに悟りが与えられたりする時、私は心から感謝します。何故でしょうか?私は神を見てこう言うのです。「あなたは本当に良いお方です!

私のうちで、又私を通して働いてくださってありがとうございます!

私の人生にあるあなたの愛と慈しみを心から感謝しています!」と。神が造ってくださった「この麗しい私」を、もし自分が拒絶するならば、偉大な神を心から感謝することは出来なかったのです。

自己否定は本質的に、「神に造られた自分を喜び、自分のアイデンティティーにわくわくしながら生きること」をさせません。反対に、「本来の自分を無視し、人から期待されていると思う姿やイメージを作り出す」ために多くの時間を費やしてしまうのです。しかし実際あなたが最も美しくパワフルになれるのは、あなた自身であることなのです。

自分という者を神の創造として愛し大切にするとき、私たちは創造主に称賛を与えているのです。美しい芸術作品を称賛するとき、人はそれを製作した芸術家の才能を称賛しているのです。自分が好きな絵画を見るとき、私は「まあ、なんと美しい画家でしょう!」とは言いません。絵を見ながら私は「なんて素敵な絵でしょう!」と言うのです。

絵の美しさを称賛するのは、即ち私がその画家を称賛していることです。私は画家の才能を認めて称賛しているのです。誰かがピカソの絵を見てその美しさを「これはすばらしい芸術品だ」と称賛するならば、その人は何を称賛しているのでしょうか?ピカソの絵でしょうか。違います。それを描いた人を称賛しているのです。

3.神があなたをパワフルにデザインしたことを喜ぶ

自己否定を打ち破るためには、自分を受容し喜ぶことを学ばねばなりません。それによって全能の創造主に栄誉と賛美を捧げることになるのです。私たちはお互いを喜ぶことを学ばねばなりません。それは神を喜ばせることであり、神の力に更に感謝を捧げることになるからです!

 

4. あなたに対する神の愛を拒絶するプライドとの契約を破棄する

あなたへの神の愛を拒絶するのは高慢であることを考えてみましょう。

私たちはへりくだって自己否定という高慢を取り去り、自分に対する愛がしっかりと根を下ろすようようにしなければならないと思います。ダビデを通して「私たちは恐れ多く素晴らしく造られている we are fearfully and wonderfully made」と神が言われるのであれば、その御ことばと同意することが私の辿るべき道です。

神は私を愛し、私が自分自身と平安を保つようにデザインしてくださいました。今私たちは、「憎むべき自分の敵」であることをやめて、「ベストフレンド」になることを学ぶべき時なのです。あなたは愛されるように造られ、愛することを愛し、神があなたを愛するように自分を愛するように造られているのです。(終り)

 

Mark DeJesus has served as an experienced communicator since the

1990s. As a teacher, author, coach and radio host, Mark is deeply

passionate about awakening hearts and equipping people towards

transformational living. His message involves getting to the core

hindrances that contribute to the breakdown of our relationships, our

health and our day-to-day peace. He is well-versed on struggles that

originate within our thoughts. Through his own personal

transformation, Mark is experienced in helping people overcome and

live fruitful lives. He is the author of five books and hundreds of

teachings. He hosts a weekly radio podcast show called “Transformed

You” and blogs at markdejesus.com. His writings have been featured on

sites like charismamag.com.

This article originally appeared at markdejesus.com


07 08月

翼の上のおもり   キャシー・ウオルターズ            2017年8月7日


翼の上のおもり

 

キャシー・ウオルターズ

 

聖書は、私たちにすべての重荷(重いもの)をおろすようにと教えています。ビル・ジョンソン師は「信仰は安息するところから来る」と言いました。これは今、とても重要なメッセージだと思います。あまりにも多くのクリスチャンが、未だに肉で奮闘し努力をしていますが、それは必要ではないのです。鷲は翼をばたばたとは動かしはしません。気流に乗って舞い上がるのです!

神はあなたが天の領域にまで舞い上がるようにと招いておられ、そしてそれは簡単なことなのです。

 

宗教的思考 religious mindsets な考え方は人に重圧を加え、宗教の霊は常に何らかの肉の努力奮闘を生み出すことが、もうお分かりになりましたか?

奮闘、努力、頑張りはあなたを御霊からすばやく逸れさすのです。 聖霊は何かを起こすために奮闘したり頑張ったりはしておられません。

実際のところ、神はあなたにご自分のために働いてほしいとは望んでおられないのです。そうではなく、私たちが神の御霊に自分を明け渡し、「どうか私を通してお働きください」とお委ねすることを望んでおられるのです。私たちは明け渡し、主が事をされるのです。あなたが明け渡し、あなたを通して神に働いていただくとき、すばらしことが起ります。ピリピ2:13に「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」とあります。

 

願いを起こすのも実現されるのも神

 

人の心を変えることや、 御名に栄光を帰す超自然的な事をする能力があるのは、ただ神お一人なのです。クリスチャンの上に密かにのしかかっている一番大きな重圧を、私は「偽りの責任感」と呼びます。「偽りの責任感」の持つ問題は、それが聞こえがよく道徳的でありうるということです。私たちは「良いと思って」してしまい、「自分が何者であり、何者ではないか」を忘れてしまうのです。

 

よいクリスチャン、よいミニストリーになろうとする努力をすると、自分にはする力がない事をしようとしてしまいます。私たちは誰かを変えたり、何かをさせたりすることは不可能であることを忘れるのです。もしあなたが

あたかも自分が聖霊であるかのように一生懸命になると、しくじります。それは、人の心を変え、真の解放を与えて魂を救うことができるのはただ神お一人だからです。神だけが超自然的奇蹟、しるし、不思議を行えるのです。

 

「偽りの責任感」を知る

 

過去の多くのリバイバルは「偽りの責任感」によって消滅したことをご存知でしょうか?エヴァン・ロバーツは、1904年にイギリスのウェールズ地方で起こった大リバイバルにおいて神に力強く用いられた若者でした。ウェールズの地は神の栄光で覆われました。酒場やバーは閉店し、多くのスポーツ競技もなくなりました。ロバーツたちは、神ご自身が望まれることを神にしていただき、自分たちは神の邪魔をしないようにしました。

 

神の訪れが町から町へと広がり、神の力がいたるところで顕されました。そして人びとは神と神の臨在に応答したのです。リバイバルが始まって9ヶ月が過ぎたころ、幾つかの町で重い空気が漂い始めましたが、ロバーツのパワフルな油注ぎは持続されていました。

 

しかし、やがてロバーツは神経衰弱になり、人びとの上に大きな重圧をかけるようになってしまいました。お分かりでしょうか、私たちは自分の力で誰かを主に応答させることなど出来ないのです。人に何かを強制的にさせることは出来ません。しかしロバーツは(もちろんよいと思ってしたのだと思いますが)

群衆が自分が望んだように福音に応答しないとき、腹を立てるようになったのです。「彼らは御霊を消している!」と言って会場を去ったり、集会を中止したり、人びとを叱責するようになりました。

でも皆さん、ロバーツは聖霊ではなかったのです。人びとがどのように神に応答するかは、彼の責任ではなかったのです。それは聖霊の仕事でした。

 

ミニストリーをしている人達が、自分が聖霊になろうとすると、ノイローゼや神経衰弱になることがあります。偽りの責任感が働くときには真の自由はありません。それはその人の肉が働くからです。神にしか出来ないことを頑張って努力するならば、あらゆるストレスをあなたは持つ事になるでしょう。

 

あなたの責任は、神から言われたことをするだけです。人びとがそれをどのように受け取り応答するかは、あなたの責任ではありません。もしそうだとすれば、それはとてつもない責任であり、ひどい重圧となります。それはあなたの身体にも影響を与えます。もし誰かのために神からある言葉を受けたならば、それを告げるのはあなたの責任ですが、その人が何をしてどう応答するかは、その人と神との間のことです。

 

聖霊に導かれることが私たちの責任

 

多くの教会では「人びとの必要を満たすこと」が大切だと教えます。良いクリスチャンならばそうするのが当然といえるかもしれません。しかしイエスがエルサレムやベタニヤ、ガリラヤの町を走り回ったのは、人びとの必要を満たすためではなかった、と言ったら、あなた驚かれますか?

実際のところイエスは次の3つのことをしただけです。

1.御父が「せよ」と言われたことをした

2.御父が「言え」と言われたことを言った

3.御父が「行け」という所に行った

以上です!

ヨハネ11章のラザロの話はこのよい例です。ラザロはイエスの良き友でしたが、ある日彼が死にそうだからベタニヤに来てほしいという知らせが入りました。イエスは度々ラザロの家に泊まったりしたようであり、親しい友人でした。ですからラザロが瀕死の状態であるというのは、重大なことだと言わねばなりません。そう思いませんか?

ラザロが風邪を引いたとかではなくて、死にそうだというのですから。

もし私やあなたがそのような知らせを受けるならば、すぐさま出来るだけ早く走るらくだに乗って行くことでしょう。人びとの必要を満たし、助けるようにと教えられてきたのですから。でもイエスはすぐにはラザロの必要に応答されませんでしたね。主は2日間もその所に留まられたのです。誰かが死にそうな時の2日間というのは、とても長い時間です。

ベタニヤに行くには2日を要しましたから、4日後にイエスが到着した時には、ラザロはすでに死んでいました。人びとが集まっていてイエスを迎えました。彼らは「主よ、もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(ヨハネ11:21)と言いました。

この言葉には「責め」が含まれたていたと私は思います。イエスはそこで宗教論争はせずに、墓に行きラザロにむかって叫ばれました。

「ラザロよ。出て来なさい。」とイエスは叫ばれました。するとラザロが墓の中から出て来たのです。イエスがラザロという名を言わなかったならば、すべての死人が生き返ってベタニヤは大混乱したことでしょう。

ラザロを墓から呼び出す前に、イエスが何を言われたかご存知でしょうか?

主は「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」(ヨハネ11:40)と言われました。私たちのミニストリーの目的は神が栄光を受けることです。神の栄光は、私たちがするわざの上には決して顕れません。栄光は神がされることの上に顕れるのです。これが即ち

「私たちが神のために働くのではなく、神ご自身が私たちを通して働けるように自分を神に明け渡すこと」によって起こることです。それがピリピ2:13に書いてある「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」の意味です。

 

あなたの重荷を振り落としてください。それは重苦しく、あなたの喜びを盗むものです。あなたが努力奮闘するように仕向けるものです。私は世界中のミニストリーを沢山知っていますが、一つのことを申し上げることができます。私が知っている霊の領域で最もシャープな(鋭い)人たちは、最も軽々としています。重圧 weights =「思い責任を持つこと」はあなたも他の誰をも助けません。(自分で重い責任を感じてする)重圧はあなたを宗教の領域に閉じ込めるだけです。

ビル・ジョンソン師は、私のメッセージに加えて、こう言われます。「平安は私たちの心と思いを守るものです。不安や恐れは私たちのこころに根を下ろそうとしますが、私たちが平安を守るならば、その平安は私たちの信仰を守ることができます。そして信仰は奮闘努力によっては決してもたらされません。信仰は安息と服従からくるのです。」

常に平安と安息と信仰から働いてください。ヘブル4:10に「神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」とあります。私たちは、わざではなく信仰によって神の平安に入るのです。

神こそが人の心を変え、 御名に栄光を与える超自然的なわざをされる力を持つ方なのです。(終り)


31 07月

世界宣教と祈りのムーブメント マイク・ビクル(IHOPカンサス)   2017年7月31日


世界宣教と祈りのムーブメント

 

マイク・ビクル(IHOPカンサス)

 

現在世界には何千という宣教団体がありますが、その中でも10の団体は、非常に大きく、5000人以上の宣教師を遣わしているものもあります。この10の宣教団体を中心とする多くの団体のリーダー達は、定期的に会合を持っています。世界的規模の彼らの宣教活動はめざましいものがあります。

その中でも特に大規模なものが2つあります。YWAMと言われるYouth With A Missionは50年以上の歴史がありますが、現時点で2万5千人の働き人を世界中に遣わしています。リーダーであるローレン・カニングハム師は、60年ほど前にこの働きを自宅で始めました。もう一つはCru (2011年にCampus Crusade for Christから改名)で、2万人の働き人がいます。

幸いなことに私は、このようなリーダーたちが集まる会合に出席する機会を与えられてきましたが、そこで彼らの抱いている思いを聞くことができました。彼らは、世界で起こっている祈りのムーブメントとコネクトしたいという強い願いを持っています。今世界で祈りのムーブメントが爆発的に起こっていますが、個々の祈りのグループは、世界で今何が起こっているかという全体像を掴んでいないことが多いのです。1985年に世界にあった24/7の祈りのグループは25くらいでした。(勿論目標は皆が24/7をすることではありません。目標は教会に祈りのカルチャーを養うことです。ただ24/7のグループの数は祈りのムーブメントの一つのバロメーターとなります。)25もある、ということで当時私は励まされたものです。ところが現在2017年には、信じられないと思いますが、2万5千もの24/7の祈りの家があり、そのほとんどはここ10年の間に始まっているのです。著しい祈りのムーブメントが今世界中で起こっています!

アジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカの祈りのリーダーたちの間に親しい交わりがあり、多くの素晴らしい証しが生まれています。このムーブメントを動かしている情熱、熱意はものすごいものがあります。

宣教のリーダーと祈りのリーダーは、この2年間で、多くの点で深いつながりを持つようになりました。両者の目標は、世界の教会にリバイバルが起こることであり、教会が祈りのカルチャーの中で機能することです。両者共に個々の地域教会で神がしておられることを助ける役目を担っているのです。

イエスはマタイ24:14で「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから終りの日がきます。」と言われ、「全世界に福音が伝えられること」と「主の再臨」とを結びつけておられます。これは私たちがよく知っている聖書箇所です。全ての世界(nations)というギリシャ語は、エスノスです。これはエセニック(民族、種族)の語源であり、即ち「福音はすべての民族に宣べ伝えられねばならない」とイエスは言われたのです。そしてそれが達成されたとき時、再臨が起こるのです。ある人たちは、「再臨はすぐにでも起こりえる」と言いますが、そうではありません。

世界には200くらいの国家がありますが、一つの国家には複数の民族が存在しており、世界の全体数は一万二千くらいと言われています。宣教のリーダーたちは過去20年間、まだ福音が届けられていないすべての民族を調査し、捜し出して、非常に戦略的にそれらの民族に対する宣教を繰り広げてきました。そしてその結果、現在世界でまだ福音が届いていない民族は600から700くらいになりました。そして大小の宣教団体は協力して、計画と戦略をもって、福音がすべての民族に届くように働いています。そして彼らは「2020年までには、歴史上初めて、すべての民族の中に福音を宣べ伝える者が立つ」と大胆に宣言しています。

私も宣教のリーダーたちと交わりを持つまでは、このようにめざましいことが起こっていることを知りませんでした。彼らの持つ世界民族に関する調査、資料、計画、戦略、資金計画等々は綿密であり、本気でこれに取り組んでいることが分かります。

又、世界には7千の言語があります。ウイクリフは最大の聖書翻訳の機関です。彼らはその言語が話されている地域に実際に人を送り込み、その言語を学び、そして聖書をその言語に翻訳するという地道な働きをしています。彼らは2025年までには、少なくとも聖書の一部分(例えば、ルカの福音書だけ)はすべて7千の言語に翻訳できると言っています。

今何かが起こっているのです! 福音がすみずみまで浸透しているということではありませんが、すべての民族に入り始めたのです。

歴史上はじめて、この3つのことが起こったのです。つまり、福音がすべての国々に伝えられようとし、聖書がすべての言語に翻訳されつつあり、祈りの集会が爆発的に世界中に広がっているのです。これらはこの15年から20年の間に起こっていて、明らかに今の時代のしるしとなっています。自分たちのしていることだけではなく、視野を世界に広げてみると、主が霊的リーダーたちを奮い立たせていることがわかります。

 

主の再臨の前に、教会は最も偉大な収穫の時期を迎えます。多くの人が一億の魂が救われると言っています。私はそれがすでに始まっていると思いますが、それがますます進展するためには、祈りのムーブメントが必要です。私が「祈りのムーブメント」というときは、「ワーシップ」も含みます。というのは天の御座の前では両方行われているからです。祈りによって私たちは主が約束されたことを告白、宣言します。そしてワーシップによって主の偉大さ、主がどのようなお方であるかを誉め称えるのです。共に神の御前へと立ち上るかぐわしい香りとなります。祈りとワーシップの割合は、個々のグループがそれぞれに決めればいいのです。人びとが一致して祈りワーシップをすることを神は受け取ってくださいます。

ルカ18:7、8「まして神は、夜昼神を叫び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」

 

今主は、世界中の町で夜昼叫び求める祈りを起こしておられます。それは24/7の祈りの家がその町に一つあるという意味ではなく、その町にあるすべての教会の祈りがすべて合わさってそれが24/7の祈りになるということです。神はすべての情報を把握しておられます。ある家では夜中の2時におばあさんが祈っている、ある教会では朝10時に祈っているとかを神はすべてご存知です。

 

イエスはこの箇所で、「夜昼の祈り」と「神のさばき(justice)」を関連づけておられます。さばき(justice)とは、「神が間違っていることを正しくしてくださる」ことだと思います。例えば人に不信仰があるならば、それが正されて信じて救われることです。病気があるならば、それが癒されることです。壊れた関係があるなら、和解することです。さばきとは、神が御力もって介入され、間違ったことを正しくされることです。

イエスは社会改革者であり「夜昼の祈り」と「神のさばき」とを関連づけた最初の方です。それは主が不正、不義の真の原因は、霊的なものであることを知っておられたからです。私たちは物事の外面的な面を見てそれに対処しようとします。それは大切なことですが、真の解決はその問題の根である霊的問題に対処することなしにはありません。ある町から夜昼の祈りが立ち上るとき、その町に霊的シフトが起り、神の義が表れてくるとイエスは言われたのです。それは神の約束と神の栄光を信じる者たちが一致して祈りワーシップすることによって起ります。

 

ダニエル10章は、祈りの舞台裏で何が起こるかを見せてくれる箇所です。ダニエルが祈ったとき、ミカエルが悪の勢力と戦ってくれたのです。私たちは「神よ、あなたは全能で、すべてを治めておられる方ですから、どうか一番よいことをお好きな時になさってください。」と神にすべてお任せしたい気がします。しかし神は「確かにわたしはすべてを治めるものである。しかしわたしは人間とのパートナーシップでしか事を行わない。人びとが一致して祈りワーシップするとき、わたしは聖霊の働きを増し加え、天使たちをもっと遣わして、悪霊の勢力を抑える。」と言われます。その時、その町に霊的なシフトが起こるのです。

今、アメリカで、またヨーロッパやアジアで祈りが絶え間なく捧げられ、さらに増大して行っています。それによってその地の霊的環境がシフトし、伝道の働きがもっと進んでいきます。同じ弱々しい説教者が同じ弱々しい説教をしても、霊的空気が変えられていると、今までよりも何倍もの人が救われてくるのです。

イエスは「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」という興味ある質問をされています。これはよく「終りの時代には人びとの信仰が冷えて、背信がおこる。その時、まだ信仰を持ち続ける人がいるだろうか。」というように解釈されていますが、私はそれはこの文脈の中では間違った解釈だと思います。

主が戻られる世代には、反キリストの勢力が世界で大きくなっています。歴史上、もっとも不正がまかり通っている時代です。邪悪な支配が世界中に手を伸ばしているのです。不正、不義が最高潮に達したとき、人びとはそれを野放しにせずに、「わたしのことばに従い、即ち夜昼の祈りによってわたしがさばきをするように願うだろうか。」という意味だと私は考えます。黙示録やイザヤ書を初め多く預言書には、終りの日の祈りのムーブメントに関して非常に多く書かれています。それは私にとっても大きな励ましとなっています。私は言います。「はい、イエス様、あなたが帰ってこられるとき、地上の不義、不正を放置しないで、あなたに従い、夜昼の祈りによって戦う多くの人びとをあなたは見られることでしょう。」と。

人びとが「これから世の中は良くなるのですか、それとも悪くなるのですか?」と訊くとき、私は「両方です。」と答えます。暗やみが深くなるほど、光は明るく輝きます。よい麦と毒麦は最後まで一緒に大きくなり成熟していきます。

 

YWAMの創立者であるカニングハム師は、彼らの宣教の働きのために「百万人のとりなし手を与える」という神の約束を頂いていることを話してくれました。そこで私たちIHOPは全世界の祈りの家に呼びかけて、YWAMの働きを祈りで覆うことに決めました。ですから皆さんも是非この働きに参加していただきたいと思います。

ヨハネは黙示録4、5章から、神が望まれるワーシップに関して3つのことが言えると思います。

1.それは絶え間ないものである

2.それは音楽的なものである

3.それは神を中心としたものである

3.の意味は、ある祈り会では、神よりもサタンに焦点を当てているからです。私たちはサタンがしている事や、サタンを叱責することに焦点を当てて時間を割くのではなく、神に焦点を当てねばなりません。御座の周りで起こっているのはそういうものです。イエスの麗しさや神の尊厳、力、栄光に焦点を当てています。

2.音楽は絶対に必要だ、という訳ではありませんが、あるとダイナミックになります。私たちは音楽なしの祈り会を15年ほどしましたが、IHOPが始まって油注がれたミュージシャンのワーシップが加えられたとき、非常に楽に祈れるようになりました。

神は牢獄の呻きに答えてくださる方であり、神を動かすのに音楽は必要ではありませんが、私たちの心が音楽によって触れられ動かされると祈りやすくなります。以前は祈りに行くときは少し気が重かったのですが、今は、歌い手やミュージシャンのワーシップによって非常に楽しみな時となっています。

どこでもそうだと思いますが、音が大きすぎる、小さすぎるとか、祈りの時間が短すぎる、長過ぎる、ワーシップが長過ぎる、短すぎるというような議論がIHOPでもいつも起ります。私は60歳を過ぎているので、いつも耳栓をポケットに入れています。早朝で疲れている時などは祈りの家で耳栓をしています。若者たちは大きな音が好きなのです。少し静かな音楽になった時は、少し耳栓を緩めます。自分のサウンドシステムを持っているようなものです。私は音が大きすぎると言って不平をいう年配の人たちに言うのです。「若者たちがここにエネルギーを与えてくれています。彼らは大きな音が好きなのです。どうか1ドルで耳栓を買ってください。そうすればあなたもハッピーですよ。」と。

神は3千年前ダビデ王に、御座のまわりで行われている祈りと賛美のインスピレーションを与えました。これはすごいことですが、ダビデは特別に契約の箱(神の御座の象徴)のためにミュージシャンと歌い手を4千人任命しました。(1歴代誌23:5)今までそのような伝統はイスラエルにはなく、神が天の御座で行われていることをダビデに示されたのです。

勿論ダビデは音楽が好きでしたが、それが理由ではなく、神ご自身が音楽を愛されているのです。アメリカでも政府がそのように礼拝を捧げる任務の部署をつくることを私は夢見ています。

2歴代誌29:25にダビデから300年後のヒゼキヤ王に関する記述があります。「さらに、彼は、ダビデおよび王の先見者ガド、預言者ナタンの命令とおりに、レビ人にシンバルと十弦の琴と立琴を持たせて、主の宮に立たせた。この命令は主から出たものであり、その預言者たちを通して与えられたものだからである。」

当時イスラエルの国勢は衰え、敵に取り囲まれていました。ヒゼキヤ王はイスラエルの歴史を研究し、神がダビデに示されたと同じことをすることを決意したのでした。

イエスは「天にあるごとく、地にもあるように」と祈るように教えられました。これは勿論、多くのことに当てはまりますが、その一つとして、私は「天の礼拝が地でも行われますように。地の礼拝が天の礼拝のようでありますように」と祈るのです。勿論スケールは違うでしょう。けれども聖霊の助けにより、ほんの少しでも天の礼拝を映し出す礼拝が地でも行われることを信じています。

神が今、多くの都市、町にそのような召しを与えておられると私は思います。神はミュージシャンや歌い手の中に情熱を与えられ、経済も支えられて、このムーブメントを進めておられることを私は見ることができます。

ダビデ以後、イスラエルが回復され祝福された時が7回ありました。そのすべての時において、ダビデが神から受けとった命令にしたがって神に叫び求める音楽と礼拝が捧げられたのです。それは決して偶然ではありません。皆さんの国や町が回復されるように、それぞれの場所で主に叫び求め続けようではありませんか。(終り)


24 07月

平安に導かれる     ラナ・ヴァウサー              2017年7月24日


平安に導かれる

 

ラナ・ヴァウサー(ラナ・ヴァウサー・ミニストリーズ)

 

最近主は、私にいろいろな「人の歩く道 pathways 」についてよく語られます。

現に今、多くの人が歩き、又今までも多くの人が同じように歩いて来た道(の一つ)は、非常に激しい苦しみや痛みを伴う厳しい戦いの道です。多くの人がその道を長い間歩いてきました。

それに加えて、敵から「人を殺す霊(ヨハネ10:10参照)」が送られてきているのですが、その霊とは、人びとにささやいて、神の御ことばのある部分をねじ曲げ、混乱、恐れ、迷いをもたらし、力をくじき、パニックに陥れるのです。

その「人を殺す霊」は、次のように宣言します。「神の民の前におかれた道は、苦痛、恐怖、傷、損失、暗やみに満ちている!そしてそこを通ることなしには、彼らに預言されている昇格、打ち破り、増加には辿りつけない!」と。

敵は神のことばをねじ曲げ歪めようとしています。多くの者はそれによって神が言われたことばに確信が持てなくなったり、自分の足場を失ったかのように感じるのです。

どちらが神の御声なのでしょうか? 今霊の世界に渦巻いている混乱は、 神の多くの民をくじき、絶望させ、彼らが前進するのを阻んでいます。

 

私はあるヴィジョンを見ました。ヴィジョンの中で、敵が「心配と恐れ」というタイトルを戦略計画の上に掲げている姿を見ました。その時主が語られました。

「敵の今の狙いは、わたしの民から平安を奪うことにあります。人びとを深い不安と恐れに陥れ、彼らを撤退させ、前にある昇格や昇進に踏み込めなくすることです。しかし、真実はこれです・・・」

 

瞬時に私はイザヤ55:11、12を聞きました。

「そのように、わたしの口から出るわたしのことばもむなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。まことに、あなたは喜びをもって出て行き、安かに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。」

主が再び語られました。「今のシーズンに対するわたしの布告、わたしの民への布告、即ち、わたしの口から出たことばは、事を成し遂げることなしにむなしく帰ってくることはありません。わたしが望むことを成し遂げます。

 

敵は『民の前の道は捕囚だ!』とわめき叫んでいます。しかし真実は、あなたの前にあるのは『祝い』の道です。」私は、神の民が緊急にこのことばに耳を傾けるようにと神が強く願っておられることを、感じました。

「人を殺す霊」は、ある人にはささやくように、またある人には大声で、『おまえはまず捕われの身となり、その後で打ち破りが来る』と言います。しかし、真実は、あなたは捕われの身とはなりません。あなたは祝賀へと向かっているのです!

今はヨセフのシーズンです。捕囚になるシーズンではありません。今は仕事、昇進、増加のお祝いへと進んで行くシーズンです!」

敵が「あなたの道には障害物がある」と宣告するささやきに耳をかしてはなりません。「あなたの行く手には暗やみが満ちている」というささやきを信じてはいけません。あなたは神の御ことばの光と真理と命に自分を一致させてください。神の御ことばをハンマーとして用いてください!御ことばを語り、御ことばを預言してください!

御ことばを祈ってください! 神をその真理の故に誉め称えてください。神はあなたが喜びをもって捕囚から導き出される道を宣言されているのですから!

私たちは救われたときに捕われの身から解放され導き出されました。麗しいイエスが払われた代価により、私たちは最早、捕われの身ではありません。そして今また、神が「わたしの民は大いなる喜びをもって捕囚から導き出されている」と宣言し、それを確認しておられると私は信じます。

 

私たちの今の戦いは、平安を勝ち取るためのものであり、それは本当に激しい戦いです!  主の御ことばにとどまってください。御ことばの真理によって「主の御声」と、「人を殺す霊の侮りと惑わしの声」とを明確に聞き分けられるようになるためであるのです。

神があなたを今導き出しておられます。あなたは再び平安を得るでしょう!あなたの平安は回復され、それは今まで以上の真の「平安」となるためです。そのために、主の臨在の大波が神の民の上に押し寄せ、大いなる喜び、喜び、喜びを解き放とうとしています!

 

人を殺す霊が、「あなたの道には大いなる戦いがあり、損失と艱難、苦難のシーズン、大いなる闇がある。昇格への打ち破りはない!」と必死で宣言しあなたを惑わそうとするのは、このことを知っているからなのです。

しかし神は「大いなる喜びがやって来ます!あなたは喜びをもって導かれ、大いなる増加、特別な厚意、打ち破りと昇格の道へと進むのです。その道は豊かないのちに満ち(ヨハネ10:10)、あなたは今までは知らなかったほどに、主を知るようになるでしょう。」と言われます。

次の聖書箇所があなたにとって現実となるでしょう。

詩編16:8,9「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。」

詩編16:11「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」

 

主の道は最高に「喜びに満ちた場所」へとあなたを導くでしょう! 主を信頼してください! あなたの信仰を主の御ことばと一致させて、このように宣言してください。

「あなたの喜びの道は、私をすばらしい場所へと導きます。あなたに従うときに与えられる私の特権はあまりにもすばらしく、私は圧倒されそうです。あなたが私に最上のものをくださったからです。」(以上は詩編16:6の英語訳「The Passion」を和訳したものです。日本語訳聖書16:6をご参照ください。)

神は今最良のものをあなたに与えようとしておられます。

主は言われます。「わたしが今からすることをよく見ていなさい!」(終り)


17 07月

健全なクリスチャンの誕生 デイビッド・ポウソン           2017年7月17日


健全なクリスチャンの誕生

 

デイビッド・ポウソン(英国聖書教師)

 

私は聖書を何年も詳しく調べてきましたが、初代教会の人びとがクリスチャンになった方法は、現代の人がクリスチャンになる方法とは全く違うことに気がつきました。そこで、私は聖書に書かれている人びとがどのようにクリスチャンになったかを詳しく調べました。

 

又、牧師として、私は多くの問題を抱えるクリスチャンをカンセリングしてきましたが、彼らの問題は、彼らがどのようにボーンアゲインしたかに起因していることが分かりました。その時聖書の書かれている起こるべきことが起こっていなかったのです。正しくボーンアゲインするならば、人びとが抱えるほとんどの問題は消滅するか、或いは小さくなって自分で解決できるようなものとなることが多いのです。

 

以上のことから、私は「Normal Christian Birthクリスチャンのノーマルな生まれ方」という本を著しました。ウオッチマン・ニーの本に「ノーマル・クリスチャン・ライフ(キリスト者の標準)」というものがありますが、私はその本に非常に影響を受けました。「ノーマル」という言葉はそこから取りましたが、それは「聖書が示す正しい標準」という意味です。ノーマルな誕生と平均的な誕生とは違います。今日の平均的なものは新約聖書が示すノーマルではありません。

 

今宣べられている福音は、水増しされた、人びとに受け入れやすくしているものだと思います。天国に行くための保険のようなものになっています。「あなたがもし今晩死ぬならば、あなたは天国に行きますか?それとも地獄に行きますか?」と人びとに訊くのです。そして「もし地獄に行きたくないのなら、この短い祈りを私について言ってください。・・・言えましたね。はい、これが天国行きの切符です。」というように人を導くのです。

あまりにも多くのクリスチャンが初めに通るべきプロセスを通ってきていないので、「ミニマム・クリスチャン=最小限のクリスチャン」になってしまっています。「天国に行くために最小限しなければならないことは何でしょうか?」というように考えるのです。

 

私はある時、ある助産婦に「赤ちゃんが生まれるときにするべき処置を全部書き出してください。」とお願いしました。「まあ、半ページくらいかな」と思っていましたが、彼女はなんと15ページもタイプしてきたのです。私はとても驚きました。そして大切なことを聞きました。「どの時点で『赤ちゃんが生まれた』と言えるのでしょうか?」と。

 

彼女は「誰もわかりません。いろんな意見があります。ある人は赤ちゃんが母親の身体から出た時だと言い、ある人はへその緒を切って結んだとき、母親から離れて生き始めたときと言います。ある人は産声をあげた時だと言います。」と答えました。

ここで言えることは、「誕生」は一瞬を指すのではなく、プロセスだということです。最後に彼女は「要するに、赤ちゃんに対してなすべき処置をすべてして、健康な赤ちゃんになったときに『生まれた』と言うのです。」と言いました。

 

クリスチャンになるために4つ段階

 

私の理解によれば、クリスチャンになる条件は4つあります。

1.神に対して悔い改める

2.イエスを信じる

3.水のバプテスマを受ける

4.聖霊を受ける

 

1.まず「神に対する悔い改め」から話しましょう。

 

これが欠けていることが多いのですが、最も重要なことです。「悔い改め repent」は「後悔 regret」や「自責の念remorse」とは全く違います。私たちは、自分にしてしまったことを後悔するかもしれません。他の人にしてしまったことに自責の念を持つかもしれません。けれども「悔い改め」は私たちが神に対してしてしまったことに対する思いであり、それを心から認識することです。「repent 悔い改め」という言葉は「考え直す」という意味であり、即ち、自分の人生を考え直す、神の視点から自分の人生を考え直すということです。そして、神の視点から自分がどれほど間違っていたかを考えるのです。自分の視点では、あなたは十分に良い人間であり、人生に成功していると見えるかもしれません。でも神の視点で、神があなたに持っておられる計画や目的からどれほどずれているかを見るのです。

一つの例として、イエスがよく言及された罪があります。それは「心配 ・思いわずらい」です。

それが罪だと考える人はほとんどいないのですが、イエスは、それは天の父に対する侮辱であると強い口調で語っておられます。もし私の子どもの学校の校長から、「あなたのお子さんは食べ物や着る物が十分あるだろうかとすごく心配するあまり、勉強が手につかないようです。」という手紙をもらったとしたらどうでしょう。私は「えっ、私の子どもがそんな事を言っているんですか!

何て事でしょう!」と驚くでしょう。それは親の私に恥辱を与えることです。私がちゃんと必要なものを与えない親なので、子どもが不安だというのですから。

 

もし「神が面倒をみてくれないから心配だ。」というならば、私たちはその子どもと同じだとイエスは言われます。神を信頼するならば、あなたは心配しません。心配しているならあなたは神を信頼していません。単純なことです。ですから「思いわずらい」は重大な問題なのです。しかしあなたが悔い改め、考え直すならば、突然「私は神を疑ったりして、神の心を何と傷つけていたのだろう。」とわかるのです。悔い改めは、あなたの考え方から始まるのです。考えを変えて、神の視点から物を見て、自分の人生を神が見られるように見るーーその時初めてあなたは「自分は罪人です。」と言うでしょう。

 

悔い改めの次の段階は、一つひとつの罪を告白することです。例えば、「私は今までいろいろと思いわずらってきました。それがあなたを傷つけていたことがやっとわかりました。」と神に申し上げるのです。

罪の告白は「すべての罪をお赦しください。」というようなおおまかなものではいけません。それは何の役にもたちません。聖書の中の悔い改めは、それがどの罪に対する悔い改めなのかを常に明確に表しています。

 

悔い改めが真実であるならば、次にそれは行動に表れなければなりません。例えば、「悪いと分かったことをやめる」とか、「借金を返す」とか「よくない関係を断ち切る」とかであり、「正しくできるものを正しくする」ことです。ルカ3章でバプテスマのヨハネは、取税人には「決められた以上には、何も取り立ててはいけません。」といい、兵士には「誰からも、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」と具体的に示しています。

一つの例をお話しましょう。ある時、いかつい格好をした若者がモーターバイクでやってきて、私と話をしたいと言いました。そして洗礼を受けたいというので、私は「悔い改めとは何か知っていますか?」と訊きました。彼は知らないというので、私は「では家に帰って、イエスに『私の生活の中であなたが嫌いなことがありますか?』と尋ねてください。そしてイエスが示されることがあれば、それを止めてください。」と言いました。3週間後に彼はまたやってきて、私に「ほら!」と言って彼の両手を見せました。

そして「爪を咬むのをやめたよ!」と言ったのです。私は「そうか。じゃ洗礼式をしよう。」と言いました。聖書はそれを「悔い改めにふさわしい実」と呼んでいます。彼のとった行動は、彼がイエスの視点で物事を考え、悔い改め、それに従って行動したことを証明したのです。それで私は彼に洗礼を授けました。

 

勿論、悔い改めがそれで終りということではありません。それは悔い改めのプロセスの始まりと言ってもよいでしょう。クリスチャンの人生は悔い改めの人生です。それはイエスに近づけば近づくほど、自分の汚れをもっと感じるからです。けれども正しい悔い改めをもって始める事がとても重要なのです。

 

バプテスマのヨハネは「悔い改めなさい。神の御国が近づいたから。」と述べました。イエスが宣教を始めたときも「悔い改めて福音を信じなさい。」と言われました。ペテロがペンテコステの日に説教をした時も、彼の最初の言葉は「悔い改めなさい。」でした。常に「あなたの人生を神の視点から考え直しなさい。そしてあなたが心から自分の個々の罪から救われたいのか考えなさい。」という言葉から始まるのです。「救われる」といっても「何から救われたいのか」が分からなければ意味がありません。それはただのむなしい言葉になってしまいます。イエスは私たちを個々の罪から救うために来てくださったのであり、私たちは本気で罪を捨てる気持がなければなりません。

 

往々にして人びとは「イエスを信じるにはどうすればよいのか」は教えられますが、「どのように悔い改めをするか」を導かれていないのです。イエスが嫌われることを辞める/捨てることなしに、クリスチャンになってしまうのです。クリスチャンが最初に悔い改めから始めないならば、その出発は常に大きな荷物を負って生活することになるのです。生まれたときにへその緒が切られていないようなものです。ある意味でサタンの王国にまだ繋がっているのです。

 

2.イエスを信じること。

 

(1)先ず、事実を信じなければなりません。信仰は感情的なものではなく、歴史上起こったある事柄を信じることです。即ち、「イエスが生まれ、自分は神の子だと言われ、それ故に殺され、神が3日後によみがえらされた。天に戻られ、今も私たちのために祈っておられる」という出来事が真実であることを信じるのです。

(2)次にイエスを信じねばなりません。これはBelieve Jesus ではなくてBelieve in Jesus でなければなりません。イエスが神の子であると信じるだけでは、あなたの毎日の生活は全く変わりません。イエスに真に信頼している証しがなければなりません。例えば、私を本当に信じる人は(believe in me) 私の運転する車に安心して乗るでしょう。私にお金を安心して託すでしょう。

私が先ごろ手術を受けたとき、私はその医師を信頼して契約書に署名をしました。医師の持つ手術の能力を信じるだけではなく、自分の身体を託すほどに信じるのです。それはリスクを伴うことであり、あなたが本当にその人を信じているかどうかを証明することです。「私は信者です。私はクリスチャンです。」というだけでは、何の意味もありません。教会に来て使徒信条を唱えるだけで、主を信じる行動の証しがない人が沢山います。信仰は行動で表れるのです。

 

3.次に水のバプテスマについて話したいと思います。

 

旧約聖書にはバプテスマのことは書かれていません。祭司や民には定められた清めの儀式はありましたが、バプテスマはバプテスマのヨハネから始まりました。そしてイエスも人びとにバプテスマを受けるように教えられ、使徒たちもそれを教え実行しました。当時は今よりもバプテスマの意味が重視されていました。新約聖書にはバプテスマに関する箇所が31あります。私はメソジストの牧師でしたので、当初幼児洗礼を授けていました。しかし聖書を詳しく学んだとき、「自分は一体何をしていたのだろうか」と思いました。それ以来幼児洗礼はしなくなりました。一番の理由はバプテスマの本当の意味を幼児に当てはめることができなかったからです。

バプテスマは「清め」と「古い自分の埋葬」を意味します。ですから滴礼ではなく、浸礼が本来の姿です。

ある時、サタンの入れ墨のある人が洗礼を受けたいと思いましたが、シャツが水にぬれるとその入れ墨が透けて見えるのでどうしようか、と戸惑っていました。整形外科に言って相談しましたが、焼き切るとひどい傷になるし、皮膚の移植は非常に費用がかかり、保険が効かないと言われました。彼は思い切ってそのままで洗礼を受けることにし、スイミング・プールで洗礼を受けることにしました。

多くのクリスチャンがプールのまわりに集りました。彼が洗礼を受けて水からあがると、サタンの入れ墨は消えてなくなっていたのです!このすばらしい出来事は、バプテスマの意味をよく示しています。過去を洗い去り、公に死んだ古い自分のお葬式をするのです。それはただの象徴ではなく、実際に霊的にすばらしいことを神がしてくださり、私たちに新たな出発をさせてくださるのです。

 

イエスはバプテスマを強調されました。「すべての国の人びとを弟子にしてバプテスマを授けよ」と言われました。ペテロは最初の説教で「悔い改めなさい。そしてそれぞれの罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」と言いました。まず悔い改めをし、バプテスマで清められ古い自分に死んだときに、私たちは救われるのです。バプテスマの持つ深くて重大な意味を知らされることによって、その人は本当に新しい出発ができるのです。サタンに対して「おまえは私の葬式を見ただろう。おまえは最早私に対する何の権威もない。」と言うことができるのです。これはロ—マ6章に詳しく書かれています。

バプテスマは全身を清めるものです。しかし、この汚れた世を歩いたときに足が汚れるので毎日足を洗う必要があります。しかしバプテスマはもう必要ではありません。それは一度でよいのです。

 

4.次に聖霊を受けることをお話ししましょう。

 

聖霊を受けると、聖霊が次のことをしてくださいます。

 

(1)一つは聖霊の助けなしには決して出来ないことをさせてくださるのが聖霊の賜物です。

それは知恵のことば、知識のことば、信仰、癒し、奇蹟、預言、霊の見分け、異言、異言の解き明かしです。御霊の賜物は教会を建て上げ伝道するために必要です。人びとは福音を聞くだけではなく、見る必要があるからです。神は御ことばを目に見えるしるしでそれが真実であることを確証したいと願っておられます。

 

(2)二つ目は、御霊の実と呼ばれ、これは9つの味がする果物です。一つの果実ですが9つの味がするのです。それは愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。最初の3つは神とのよい関係、次の3つは人びととのよい関係、最後の3つは自分とのよい関係を示します。それはすばらしい実であり、実にイエスの御性質そのものです。これは能力ではなく、性質です。この9つはクリスチャンの人生に同時に表れます。9つのうち2、3の性質を生まれつき備えている人はいます。とても寛容な人とか、とても親切な人とかはおります。しかし、この9つすべての性格を兼ね備えている人は聖霊を受けた人にしかおりません。9つの味のするこの実は、最初はつぼみとして現れ、次に花、そして小さな実となり、長い期間かかって大きくなり成熟するのです。成熟したクリスチャンは、成熟した実になっています。

 

(3)以上が聖霊が個人に対してしてくださることですが、それだけではありません。聖霊はあなたを神のコミュニティーに溶け込ませてくれます。神は個人ではなく、家族を持つことを望まれていますが、私たちは個々に異なる性格を持ち、考え方も違います。異なる人びとを一緒にして家族にしようと思っても無理です。しかし聖霊は「御霊の交わり」をつくり出してくださるのです。あなたの内におられる聖霊と同じ霊を持つ人と出会うとき、一瞬にして親密な一致を感じます。私は世界中で、そのような経験をしています。肌の色や教派が違っても、両者の中におられる聖霊が二人を引き寄せているのがわかるのです。

そのように同じ御霊を持つ人びとは集められてキリストのからだという麗しい集合体となるのです。御霊なしに教会を一致させようとするならば、それは失敗に終ります。一致は人間の努力では達成できないからです。聖霊だけがキリストのからだを一つにできるのです。

 

(4)それではどのように聖霊を受ければいいのでしょうか。

イエスはルカ11:11で「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊をくださらないことがありましょうか。」と言われました。ですから第一に「天の父に求めるask Him」ことが大切です。ここで「求める」というギリシャ語は一度だけではなく「得られるまで求め続ける」ことを表す時制です。

ルカ11:5−8で、イエスは真夜中に尋ねて来た旅人のために友人にパンを求める人の喩え話をしておられます。彼はパンをもらえるまで頼み続けました。この人は自分のためではなく、旅人のためにパンを頼んだことに注意してください。聖霊は自分のためではなく、人に仕えるために頂くものです。

 

「聖霊がなくては、私は何一つできない。」と心から悟るならば、必死で聖霊を求める思いが与えられるのです。そして9節にあるように「求めなさい。(求め続けなさい。)そうすれば与えられます。」という約束が私たちにはあるのです。(終り)


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