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Walk With God Ministries

08 05月

世の終わりの宣教とは何か ー  それは マルコによる大宣教命令       坂 達 也


世の終わりの宣教とは何か ー

         それは マルコによる大宣教命令              

 

                  坂 達 也

 

 私たちは今、世の終わりが近づいた「御国の時代」に生かされております。

 

 マルコによる福音書の最後のところで、よみがえった主イエスが十一人の弟子たちに現れ「『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。『信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。・・・』」(マルコ16:15−16)と言われました。これがマタイ福音書の末尾にある主の「大宣教命令」と同じであることは疑いの余地がありません。

 しかしマルコでは、この命令に続いて「『信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。』主イエスは彼らにこう話された後、天に上げられて、神の右の座に着かれた。そこで彼らは出て行って、至る所で福音を述べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」(マルコ16:17−20)と書かれています。

 

 ここで気が付くことは、通常私たちが未信者に紹介する救世主キリストによる「救いの福音」とは、上記の15−16節だけで、多くの場合、それでお終い、後に続く17−18節「『信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。』 の部分を省いてしまうことです。もしそうであれば、15−16節だけが、あたかもキリスト教の最終目的であるかのような印象を与えないでしょうか。しかし一世紀の使徒たちは、イエスにいわれた通り、イエスがなさる業を忠実に見習って超自然の力を用いたパワーフルな福音を実行に移しました。

 マタイ10:7で、イエスが十二弟子を弟子訓練の一環として宣教旅行に出されたときに「『天の御国が近づいた。』と述べ伝えなさい。病人を直し、死人を生き返らせ、らい病をきよめ、悪霊を追い出しなさい。・・」と言われました。これは前述のマルコの大宣教命令と同じ内容です。

 そして今は、それと同じ福音をたずさえて私たちが出て行く時です。そこで改めて「天の御国の時代とその福音」とは何かを、その原点にもどって考察してみたいと思います。

 宣教旅行に出る人を例えてみれば、それは行商人のようなものです。私たちの売り歩く「商品」は「イエス・キリスト」とその「天国」です。普通、ある商品を売る時に一番効果的な方法は、その商品の効能をくどくどと説明するよりも、その良さを実演して見せることではないでしょうか。そうであるなら私たちクリスチャンも、人の見ている前で「病人を直し、死人を生き返らせ、らい病をきよめ、悪霊を追い出す」ことを実演して見せれば、黒山のように人が集まって来ないでしょうか。それがイエスご自身のやり方でした。主は私たちに今それをしなさいと言われています。そのようにして集まった人々に、イエスとその御国の話を説けば、説得力が抜群に出ることに間違いありません。

 もう一つの効果的な方法は預言の賜物を用いることです。そのよい例は「知識のことば word of knowlege」の活用です。ご存知の方も多いと思いますが、ショーン・ボルツ師という方が、全く面識のない人に向かって、その人の家族の状況とか、普通誰も知るはずがない情報を言い当てます。当てられた人は大変驚きます。それと同じように、もしあなたが知らない人に向かって「今あなたはこういう大きな問題にぶつかって困っていますね」とか「あなたは自殺しようとしている」あるいは、その人の誰にもいえない罪を犯している内容を言い当てれば、その人はショックを受けてがぜん聞く耳が出て来るはずです。その時にすかさず「それを救う救い主」として「イエス・キリスト」を売り込めば「買ってくれる確立」は非常に高くなると思いませんか。

 それに反してイエスの弟子であるはずの私たちが「天の御国の福音」を実践して見せずに、聖書の神学的理屈だけを「救いの福音」として長々と説こうとすれば、セールスの実につながりません。私もいやと言う程そういう失敗をして来ましたことを認めます。

 「救いの福音」と「御国の福音」とは同じであるようですが、実は明確に区別して認識すべきであると思うのです。すなわち、キリストが説かれるメッセージの最終目的は、キリストによる「天の御国の福音」であって、「救いの福音」はあくまでその一部、あるいは入口に過ぎないということです。

 

 バプテズマのヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結べ。」と叫びましたが(マタイ三:8)その実とは、単にキリストを信じて死後に天国に行けることだけを指しているのではありません。それだけしかいえないならば、他の多くの宗教も「死後の極楽浄土行き」等の空約束とあまり変わりありませんから説得力に欠けます。なぜなら、それが事実かどうかは死んでみなければ分からないからです。

 ですから今の時代に生きる私たちは、キリストの名において、この世で天国と同じ状態を実現してみせるべく「病人を癒し、死人を生き返らせ、悪霊を追い出す」ことによって、私たち自身の過去の間違いを悔い改め、その悔い改めにふさわしい実を結ぶ宣教をすることを提案させていただきたいと思うのです。その意味で、もし私たち現代のキリスト教会が「天国をこの世で実証できない」のであれば、キリストとかバプテズマのヨハネが罵倒した当時のユダヤの「宗教家」とあまり変わりはないと私は危惧するのです。

 

 もう一つ私たちが悔い改めねばならないことがあります。それはバプテズマのヨハネが「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方(イエスキリスト)は、わたしよりも優れておられる。その方が、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(マタイ3:11新共同訳)と言ったように、「聖霊と火」の洗礼があるにもかかわらず、それを受けようとしないクリスチャンが未だ大勢存在していることです。多くのクリスチャンが「それはキリスト教の教義解釈の問題であり、私たちの教派はそれを信じないので行いません」と言うだけでは済まされないと思います。私は聖霊のバプテスマを受けることがどれ程御国のミニストリーに「必要欠くべからざること」であるかがこれからの時代で証明されると信じます。

 

 ビル・ジョンソン師は次にように言っています。「救いの福音は、人々を救いに導いて天国に行かせることに焦点を置きますが、御国の福音は、人々の生き様、住む街々、国々を抜本的にトランスフォーム(変革)することに焦点を置きます。そのために御国に神(イエス)ご自身が(王として)君臨します。それは天の御国の現実をこの地にもたらすためです。私たちクリスチャンは天国に行くのが最終的なデスティニーですが、その前に、この地に神の御国をもたらすために王から与えられた仕事(asignment)をしなければなりません。従って王から命令された仕事をすることと、天に行くデスティニーを混同しないようにしてください。」(2017年3月号カリズマ誌に載ったビルジョンソン師のメッセージより)

 勿論、こう言われるのはジョンソン師だけではありません。今では多くの終末の使徒と預言者たちがそれを強調するようになりました。

 

神の御国をこの世で立ち上げるのは私たち

 

 「神の御国とは何か」を突き詰めれば、それはイエス・キリストが王である神の王国です。この王は、宇宙とそこに存在するすべての被造物を造った創造者として、そのすべてを永遠に統治する全知全能の絶対君主である方です。そして重要なことは、その王は現在、天の御座におられる父の右に座しておられ、未だこの地には帰って来ておられない不在の王であることです。しかし主は地上に神の王国を立て上げる仕事をクリスチャンの私たちに委ねられているのですから、私たちの責任は非常に大きいのです。王は設計者として上から建設現場にいる私たちに毎日細かい指示を出しておられます。しかし、もし私たちが王の指示をよく聞けないとすれば、主のしもべとして本当によい仕事ができるでしょうか。主は私たちが常に主の忠実なしもべであることを期待し、「わずかなものに忠実であったからあなたにたくさんのものを任せよう。」とおっしゃる王です。

 

 私たちは、一地域教会に属する信徒としてその運営さえできていればよいのではありません。王国であれば、王国の経営に必要な政治・経済・教育からあらゆる分野での組織作りをし、適切なリーダーを立て、その下でたずさわる有用で忠実な働き人を育てて配置しなければなりません。従って、私たちが主からの命令と指示を注意深く聞く能力を持つことは絶対に不可欠です。まして私たちは「キリストの花嫁」ですから、主人のキリストと親密なコミュニケーションができていて当然です。

 

霊の目で主を見つめることの大切さ

 

 そのために必要なことは、先ず、私たちが霊的な「見る眼」と「聞く耳」を持ち、超能力の源である霊の領域に目を向けることではないでしょうか。そのために次の聖句をご覧下さい。

 「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」(マタイ6:22ー23)

 この御ことばは、私たちが霊的なものに目を向けることがどれほど重要であるかを強調しています。又、2コリント3:18もそうです。

 

 「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」

 特にこの聖句は「主を見上げる」ことによって、主の「霊的な栄光の光」が見上げる人の目を通して身体に入って来ることを学ぶことができます。そして、その人の内部が栄光から栄光へと主と同じ姿に霊的に変えられるという大変重要な目の働きを教えてくれます。

 重要なことは、私たちは肉の目を通して、霊の世界も見ることができることです。それは主がエリシャの要請に応えて、エリシャの召使いの目を通して霊の世界に起こっていることを彼に見せました。(二列王記6:17)これによって人間は、肉の世界と霊の世界の両方を見ることができることが分かります。

 又、私たちは幻とか夢をよく見ますが、これも目で見る、あるいは「心の目」で見るのであると思います。そしてもう一つ重要な聖句があります。それはヨハネ5:19、20です。

 「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。・・・」

 この御ことばが意味するところは、主を見つめていると「主がなさっておられること(御心)が見えるようになる」ということであると私は信じます。

 そうであれば、私たちは願望と信仰を持った「熱い目」で、極力多くの時間を「主を見上げる」ことに費やすことが、私たちの霊性を高めるためにどれ程大切であるかがご理解いただけるのではないでしょうか。

 

どうしたら霊の世界が見えるようになるのか

 

 結論から先に申し上げれば、それは訓練と経験を積むしかないということです。弟子訓練ということばがありますが、その英語は discipleship であり、その動詞のdiscipline は「訓練・しつけ」を意味します。そうであれば弟子訓練とは、学校に行って「頭の知識」だけを詰め込むことではなく、むしろスポーツ選手のように毎日血の出るような激しい「訓練と実地経験」を積み重ねることが必要です。さうでなければ本当に「自分のもの」にはなりません。多くの人は途中で諦めてしまいます。

 オリンピック選手になるには毎日人の二倍三倍のたゆまぬ訓練をする必要があります。有名なピアニストであり続けるには一日五時間の練習を欠かすことはできないそうです。バレリーナもそうです。それと同じように、普通のクリスチャンであっても信仰の訓練を重ねれば、誰でも超能力に到達できるのです。

 

 霊的訓練の最たるものは、40日間水も飲まない断食を行ったモーセに見られるのではないでしょうか。しかも彼はそれを二度続けて行ったのです。

 驚くべきことに、これ程長い間、水も飲まずに顔と顔をつき合わせて神を見つめたモーセはその断食では死にませんでした。これは、主の御前に出ている限り死も不可能もないことを証明していないでしょうか。彼がその直後に山を下ったとき、民はモーセの顔があまりにも眩しく輝いているので顔に覆いを掛けてくれるよう頼んだ程でした。

 これは私たちの霊的成熟の究極の目標が「神なる主と常に顔と顔を会わせて」いつも主のなさりたいことが「見える」「聞ける」親しい関係に入ることであることを示していると思います。そうなれば、私たちは毎日、主と親しくコミュニケーションすることによって、主から託された仕事の指示を忠実に実行できるようになります。そうすれば主は喜ばれ、アモス3:7にあるように「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」つまり、私たちが最愛の妻とか最も親しい友人には何でも話したい、話さずにはおられないのと同じように、主は信頼できるお気に入りのクリスチャンには何でも語ってくださるようになると思います。

 皆さんの中には既に神との関係で「主のお気に入り favorite」になられた方が大勢おられると思います。それは牧師とか教会のリーダーでなくても、クリスチャンなら誰でも、主と個人的に親しい intimacy の関係に入れますし、そのような人はみな立派な「主のお気に入り」です。私も長年主との関係がそうなるように務めて来ましたが、やっと最近、主の御声がよく聞こえるようになって来ました。私は文章を書くのが仕事ですが、筆の進みが遅いのでいつも苦労しています。ところが最近、よく主を礼拝したり、主を見上げる時間を長く過ごしたような日の翌朝は、私がお願いする前に、主は待ちきれなかったかのように、私が書くべきことをどんどんと語ってくださいます。

 

主から個人的に弟子訓練を受ける

 

 一世紀のキリストの直弟子たちは、何もかも捨てて主の家に住み込み、毎日主と向き合って暮らすという、本当にうらやましいような弟子訓練を受けました。しかし考えてみて下さい。私たちも彼らと同じ状況の中で、今でも主から直接毎日訓練が受けられるのです。それは主が聖霊を通して私たちの中に既に住んでおられるからです。御存知のように、私たちも天にある主の右座が私たちの座るべき席であり、そこにはいつでも行くように招かれているのです。キャット・カーというご婦人はつい先日、ジョイナー師のカンファレンスに招かれていましたが、彼女は毎日のように、時には一日二度も天の御座に行くそうです。

 そして、前述の2コリント3:18のところでご紹介したように、いつでも「主を見上げて主を見つめる」ことによって主の前に出られるのです。私は今のところそれ以外の方法を知りません。しかしモーセがシナイ山上で主に向き合って主とお話したのですから、私たちもできないはずはありません。ですから私たちも同じように、個人的に主と向き合い、見えるようになる迄、とにかく主を見上げるしかないというのが私の今迄の経験から学んだことです。そして、主は「信じる者にはどんなことでも出来る。」(マルコ九:二三)と保証しておられるのですから、それを続けていれば霊の世界が見えて来る、聞こえて来ると、私は信仰で信じて実行しています。そして希望の光が見え始めて来ています。

 

 とは言っても、これは確かに大変なチャレンジです。しかし聖書が説く「強い信仰」「真の愛」「自分の十字架を担ぐこと」等はどれをとっても楽にできるものは一つもないではありませんか。みな、とてつもなく激しく、執拗で諦めない強い意志と情熱を要求します。それはまさにマタイ11:12に「バプテストのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく・・攻める者たちがそれを奪い取っています。」と書かれている通りです。

 

 主と親しくなって「見る、聞く」という基本ができるようになれば、後の超能力の訓練については、どうすれば得られるかを直接主にお聞きください。それはまさに「信仰の訓練」です。主は必ず皆さんのデスティニーに適ったよい方法を教えてくださいます。

 最後に申し上げたいことは、単に外国から超能力を会得した使徒や預言者たちを呼んでのカンファレンスに出て話を聞いたり、祈ってもらうだけでは、主と個人的に親しくなれるとは限らないということです。今神は、私たちが誰かを通して預言を受けるよりも、自からが神と親しくなり、神から直接預言を受けることを何よりも望んでおられると思います。 (終り)


01 05月

ダッチ・シーツ師からのメッセージ       シーツ師の4月29日付けフェイス・ブックより


ダッチ・シーツ師からのメッセージ

 

        2017年4月29日付けフェイス・ブックより

 

 私は数週間前になりますが、主から非常にはっきりしたお言葉で次のようなメッセージをいただきました。「用意をしなさい。悪霊の激しい攻撃が今現れようとしているから。」その後、その通りのことが目の前で起こり始めています。

 敵の怒りが、アメリカの上に、特に政府機関とか大学とかにおいても大きな抗議集会が起こっております。それは世界的にも起こり始めました。、シリヤとか、北朝鮮、それがエスカレートしています。敵は怒りに燃えているのです。

 なぜなら敵は、私たちクリスチャンがここ数十年もとりなし祈って来た結果として、今数々のブレーキスルーを経験していることにいらだっていて、彼らは私たちに対して不安と恐れをいだいているのです。一つの例が、最高裁判事にゴーサッチ氏が選ばれたことです。しかし主は、私たちは敵を恐れる必要は全くない、そう伝えなさい、恐れてはならない、私たちがすべきことはしっかり祈りに集中することであるといわれました。

そして、アメリカ政府のリーダーたち、特にトランプ大統領、議会、また、外交関係の矢面に立っているリーダーのために祈ること、今面しているシリヤ、ロシヤ、中東、アイシス等に関する緊迫した情勢、特に北朝鮮に関して私は戦争が起こるとは考えていませんが、しかしその一方決して油断が許されない状態であること。そして主はいわれました、独裁者による今の北朝鮮政権は退けねばならない、それを真剣に祈りなさい。それは独裁者自身が自からを退けるような事態になる、中国が介入してそうなることを助ける、あるいは北朝鮮自身の内部でクーデターが起こることも考えられ、とにかく、私たちはこの独裁者が馬鹿げた行動に走って核戦争を起こすことのないように祈る必要があります。又トランプ大統領とかアメリカの軍部が賢明でない行動を取らないようにも祈るべきです。そして最も重要なことは、神が介入されてすべてが守られ導かれることを祈らねばならないと思います。

今のシーズン、神の御心は民を救うハーベストを起こすことにあり、また、北と南が統一されることにあると信じます。従って韓国とか日本が北朝鮮によって一掃されることは決してないと信じます。そして主が、韓国と日本を守られることを信じます。日本と言えば私は何年も前から日本に大きなリバイバルが起きることを(預言し)確信してきました。ですから非常事態になることを恐れないでください。そしてお祈りを続けてください。今はハーベストのシーズンです。アーメン。(終り)


01 05月

中国のリバイバル      ユージン・バック(バック・ツー・エルサレム)        2017年5月1日


中国のリバイバル

 

ユージン・バック(バック・ツー・エルサレム Back To Jerusalem )

 

中国は今、世界最大のリバイバルを経験しています。毎日2万8千人から3万人の人がイエス・キリストを救い主として信じて救われています。そう言うと人々は「そのようなことが、そんなに長く続くはずがないでしょう。」と言います。でもこの現象は20年ほども続いているのです。世界は中国でこのようなリバイバルが起こっていることにやっと気がついたところですが、それは世界中に影響を及ぼしています。というのは、中国は世界的に見て、経済的にも軍事的にも大きな存在となってきているからです。

「中国のリバイバルが他の国で起こっているものと違う点はなんですか?なぜこのように大きなリバイバルがこのように長期間起こっているのですか?」と私は牧師たちに聞きました。

私のまわりにいる牧師の殆どは、非常に素朴な農民出身の人達です。一人の牧師が最近彼の伝記を出版しましたが、1千万人の教会を牧している人です。私は「どのようにして1千万人の教会を立て上げたのですか?その方法がわかれば、本にして多くの人の助けになると思います。」と言いました。

彼は、「私たちは祈りました。それから迫害されましたね。」と答えました。私は「それから?」と聞くと、彼は「それだけだと思います。」と言うのです。私は「私が知りたいのは、どんなシステム、どんなプログラム、どんな訓練方法を用いたのですか、ということです。」と更に聞きました。彼はそれには答えずに彼が受けた迫害について話し出しました。私がそれまで持っていた考え方では理解できない領域でした。私たちは何かの方式で教会を成長させることはできないのです。成功している教会の真似をして達成することではないのです。

 

私は中国のリバイバルについて研究し始めたとき、本当に驚かされ、また同時に混乱しました。それについてお話する前に聖書を開きたいと思います。

第一サムエル17:38、39「サウルはダビデに自分のよろいかぶとを着させた。頭には青銅のかぶとをかぶらせ、身にはよろいを着けさせた。ダビデは、そのよろいの上に、サウルの剣を帯び、思い切って歩いてみた。慣れていなかったからである。それから、ダビデはサウルに言った。『こんなものを着けていては、歩くこともできません。慣れていないからです。』ダビデはそれを脱ぎ、、」

私は中国に行ったとき、この箇所を思い出しました。中国のカルチャーは万事が非常に異なり、私には理解できませんでした。その中で私に「中国人を変えて、私と同じようにしたい」という思いが涌き上がってきました。少し中国人らしくなくなって私のようになる人を造りあげたかったのです。私は自分のよろいを脱いでそれを中国人に着せたかったのです。「自分はそのよろいでうまく行ったから、中国人もうまく行くに違いない」と考えたわけです。しかし、神は一人ひとりにユニークな戦い方を与えておられることを私は知るようになりました。

 

リバイバルの秘訣を牧師に聞いたとき返ってきた答えは、アメリカの教会で育った私の頭では理解できないものでした。でも神は私たちがいくら考えても絶対に理解できない大きな方であり、リバイバルのためには幾つもの道を備えておられる方なのです。

中国のキリスト教の歴史は長いですが、ほんの100年さかのぼると、ボクサー・リベリオン(反乱)というものがありました。アメリカやヨーロッパからの圧制者がアヘンをインドから中国に持ち込み、多くの中国人をアヘン中毒にしましたが、それに対して中国の国内からボクサーと呼ばれた人達が立ちあがり、外国人を追放しました。これに関しては歴史を調べればわかるのですが、人々が見落としていることがあります。それはボクサー・リベリオンが起こったとき、歴史上最多の数百人にも上る宣教師が殺害されたのです。この反乱は、すべての西欧の影響を追放し撲滅するというものでしたが、それだけではありませんでした。中国内でクリスチャンの数が増えてきたことに脅威を抱いた敵がいたのです。ボクサーと呼ばれた人達は悪霊が自分に取り付くように祈りました。それによって弾にあたっても死なないようになると信じていたからです。そして彼らが戦ったとき、悪霊は彼らが一つのグループに標的を当てるように指示したのです。クリスチャンです。彼らはキリスト教宣教師の家族を捜しだし、市中に連れてきて集団で殺害しました。数百人の宣教師が家族と共に惨殺されました。そして中国人でクリスチャンになった人達も同時に殺されました。中国からすべてのクリスチャンを抹殺するのが彼らの計画だったのです。少なくとも10万人の中国人クリスチャンが殺害されました。

それによってクリスチャンは根絶やしにされたかに思われたのですが、それと同じ1901年にカンサス州トピカの教会で、アグネス・オズモンドという婦人が、北米で始めて異言を語り始めました。3日間、彼女は英語を話すことができず、異言で中国語だけを話したのです。中国で多くのクリスチャンが惨殺されていたのと同じ時に世界で何かが起り始めたのです。それは誰にも説明ができないことです。

1904年にはウエールズ・リバイバル、1906年にはアズサストリート・リバイバルが起り、そしてそこから宣教師が送り出されました。そして殺害された宣教師の数を越える多くの宣教師が中国に派遣されました。何千人もの宣教師が船で中国に渡り、福音を語ったのです。

 

これを知ったとき、私は次の箇所を思いました。

第一サムエル21:9「祭司は言った。『あなたがエラの谷で打ち殺したペリシテ人ゴリヤテの剣が、ご覧なさい、エポデのうしろに布に包んであります。よろしければ、持って行ってください。ここには、それしかありませんから。』ダビデは言った。『それは何よりです。(There is none like it. それに優るものはありません。)私にください。)』

敵がダビデを殺そうとして用いた剣が、今ダビデの武器となったのです。中国の教会を滅ぼそうとして遣わされたものが、キリストに栄光を与えるものとして用いられたのです。

 

アメリカやヨーロッパから中国に派遣された宣教師たちが、今中国で起こっているリバイバルのルーツなのです。私たちは先に遣わされた宣教師の肩の上に立っているのです。そして、現在の宣教師たちは、恵みを中国だけに留めておこうとは考えていません。彼らは福音を「10/40の窓」に運んでいます。それは2つの壁(中国の万里の長城とエルサレムの嘆きの壁)の間の国々のことです。この地域に世界人口の三分の二が住んでいます。世界で福音を聞いたことのない人達の十分の九が住んでいます。しかしこの地域の宣教のためにつぎ込まれているお金は非常に少ないのです。この地域が激しい暴動の中にあるのも不思議ではありません。中国のクリスチャンは「このような時のために」10/40の窓に福音を届けるために立てられていると信じています。

中国人はシルクロードを通って各地に行った歴史を持っています。今彼らはその道を用いて福音を持ち運んでいます。少なくとも10万人の宣教師がいろいろな国に送られていて、私はその働きを助けています。シルクロードは危険を伴っています。今中国のクリスチャンは大きな迫害にあっています。一時、ある地域では迫害は少なくなりましたが、最近は又大きくなってきています。中国だけではなく世界で迫害が激しくなっており、2016年には世界で少なくとも9万人が殉教していますが、これは現代では最大の数です。10/40の窓におけるクリスチャン迫害も大きくなっています。

 

現在の習近平主席は中国でのクリスチャンの影響力が強まっていることを警戒し、教会を迫害し始めました。去年の5月のことですが、政府は私の同労者である牧師の教会を破壊せよと命令しました。牧師夫妻は教会の前に立ち、ブルドーザーが会堂に進むのを阻止しようとしました。戸惑うブルドーザーのドライバーに対し、政府役人は牧師夫妻をそのまま生き埋めにするように命じました。夫の方は自分の上に被せられた土を除いて脱出することができましたが、妻はそのまま殉教したのです。しかし、その地域の伝道の熱意はますます強くなりました。

 

「I Stand With Christ」という本が1千万のメンバーを持つ教会の牧師によって昨年出版されましたが、私は彼に「どうしてあなたの教会はこれほど大きくなったのですか?」と質問しました。彼の答えは次のようなものでした。「最初は私の家族だけで聖書研究をしていました。私は逮捕され投獄されましたが、釈放されて家に帰ると新しい人々で家は一杯になっていました。私はまた逮捕されましたが、釈放されて帰ると村全体がクリスチャンになっていました。私はまた逮捕されましたが、釈放されて帰ると教会はまた大きくなっていたのです。ですから私が言えるのは、教会を大きくするためには牧師を牢屋に入れろということです。」(笑)

中国のクリスチャンを滅ぼすために敵がしたことが教会を爆発的に成長させたのです。習主席が去年「クリスチャンをコントロールせねばならない。」と言ったことにより、国内の迫害が激しくなっています。ところがどうでしょう、2016年に彼は「One Belt, One Road」という政策をそれまでより推進し始め、シルクロード上の国々との経済的関係を深めました。宣教師たちは勿論宣教師としては行けませんから、会社社長とかビジネスマンのビサでイラン、イラク、サウジアラビアに出かけています。中国政府は図らずも彼らの後押しをしてくれたのです。

 

私の家族は5代前にドイツから来ましたが、もっとさかのぼればイラクから来たのです。聖書の言葉を真実とするならば、私たちは皆イラク出身です。中国のクリスチャンは「私はイラク人です。」と言い始めました。彼らは外見はまったくイラク人には見えませんが、「私はイラク人です。私は福音をイラクに届けねばならないのです。」と言っています。そして私たちはイラクに行き、400人の学校を作りました。ISISから暴行をうけた少女たちの擁護をする施設も作り、中国人たちがお世話をしています。学校では中国人が英語を教えています。もし皆さんがイラクに行きジャッキー・チェンのような英語を話す人に出会ったら、彼らが誰から英語を習ったか分かります。(笑)

私たちは聖書をどのようにしてイラクの人々に届けられるかを考えました。手の平に入る非常に小型のEバイバルを開発しました。これは7年間チャージしなくても読み続けられるバイブルです。これをどのようにイラク人に手に渡すかを考えました。そしてドローンでこれを軍隊の上に飛ばして、そこから落下させることにしました。そしてそのために更に小さなコインほどの聖書を開発しました。手の上で揺すると聖書がホログラムとして出てくるのです。創世記から黙示録まで全部です。私も実物を見るまで信じられませんでした。電池もいらず、チャージも必要ではありません。

聖書が禁止されている場所にでも運ぶことができます。見つかってもそれが聖書であるとは、誰もわかりません。これが今中国の教会が失われた魂のためにしていることです。私たちの世代に世界のすべての人々に聖書を届けることが可能だと私は信じます。そして王の王なる方をお迎えすることが出来るのです。私はイラクから香港経由でアメリカに来ましたが、出発した時間より一時間前に到着しました。今私たちは素早く福音を広められる技術をもつ時代に住んでいるのです。迫害が迫ってきている今、後退するべき時ではなく、前進する時です。人類の歴史上、最も遠くに、最も素早く、最も深く進んでいける時なのです。(終り)


24 04月

イエスと同じ「栄光」               ジョン・キスホルム(カンサスIHOP)              2017年4月24日


イエスと同じ「栄光」

 

ジョン・キスホルム(カンサスIHOP)

 

出エジプト33:18−20

すると、モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」また仰せられた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」

 

 

出エジプト34:5−7

主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名によって宣言された。主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代、四代に。」

 

モーセが「あなたの栄光を見せてください」と願ったとき、神は「わたしの栄光とはわたしの善(goodness)である」と言われました。これは私にとって衝撃的な言葉です。神はどのような栄光でも見せることができるにもかかわらず、「わたしの栄光はわたしの善であり、あわれみ深く、情け深いことである」と言われたのです。

 

私は5ヶ月前に急激な痛みに襲われました。

色々な検査をした結果、医師たちは胆のうの切除手術に踏切りました。そればかりか、私の内臓には他に色々な問題が発見され、それらの処置のため手術は予定より長時間にわたりました。

私が目を覚ました時に見たのは大勢の医者や看護士でしたが、その一人が「しばらくは辛いと思います。」と言いました。病室に戻りましたが、気持がひどく動揺し、私は泣き出してしまいました。痛みがあるだけでなく、一体何が起こっているのだろうという不安で一杯だったのです。妻の祈りによって少し落ち着きを取り戻しましたが、まだ心からの平安はありませんでした。

 

朝の3時ごろ、病室に主の臨在が訪れ、私を覆いました。「ああ、来てくださったのですね。本当に気持がいいです。主よ、私の状態はあまり良くないのです。助けてください。でもあなたが来てくださったのですからもう大丈夫ですね。」と私は言いました。主の臨在の中で私は幸福でした。すると主は私に一つの質問をされました。「ジョン、わたしと同じくらい情け深くなりたいですか?」私は出エジプトの箇所がずっと心にありましたので、「勿論です。そうなれたら本当にすばらしいです!」と答え、これは何と麗しい主の招きだろうかと思いました。しかし、続けて主が語られた言葉は厳しいものでした。「ジョン、そうなることを阻んでいる問題があなたにはあるのです。」と主は言って、私の人生の人間関係の中で正しくない点を一つひとつ列挙されたのです。私が不安から正しくない動機で行動したこと、私の忍耐不足が周りの人に与えた悪影響、私の勝手なゴールが主のゴールを邪魔していること等を主は話されました。

そして「ジョン、それは正しいことではありません。 It is not right.」と言われたのです。

朝、医者が病室に来て「あなたは非常に病んでいたのに、それを知らないで過ごしていたのです。」と言いました。胆のうが化膿して、それが肝臓や膵臓に広がっていたので、すべてを清浄し抗生物質で処置せねばならなかったということでした。私の内臓がひどい状態であり、重く病んでいたにもかかわらず、痛みが来るまで私は全く知らなかったのです!

 

主は、それと同じように「正しくないこと」が私の内面に満ちていたにもかかわらず、私がその事に一つも気付いていなかったことを、今示してくださったのです。「あなたは自分で思うよりもずっと病んでいるのです。」と。そして一つひとつの人間関係における私の過ちを指し示し、「ジョン、正しなさい。

直しなさい。」と言われたのです。「わたしと同じように情け深くなるためには、それらが妨害しているからです。」と。

主に自分の間違っているところを指摘されるのが、どれほど苦痛であるのか、どれほど圧倒されることであるかをお伝えする言葉があれば...と思います。主に言い返す言葉はありません。主の見解が正しいのです。主は私の間違いをはっきりと示されました。本当に苦しかったです。聖書には主は愛されるものを訓練される、私たちは息子であるからこそ、御父から訓戒される、とあります。今振り返ってみれば、「主よ、感謝します」と言う事ができますが、その時私は本当に打ちのめされてしまいました。

 

その時主がやさしく「恵み、恵み」と言われたのです。このゼカリヤ4:7の言葉は「心配しなくていい。万事うまくいくよ。」ということではありません。恵みとは神のいのちと力であり、私たちが自分の召しにふさわしい者となり、任務を遂行できるように助けるものです。主は「あなたはこのままではいけない。変らねばならない。でもわたしは助けるよ。」と言われたのです。

 

主は私が修復すべき人間関係を一つひとつ示されました。そのうち二つだけをお話しします。

ここ(カンサスIHOP)で一緒に仕事をしているトレイシーさんとの関係がうまく行かなくなっていました。私は立派なクリスチャンですから、ほとんどは彼女の責任だと思っていました。(笑)今は笑うことが出来ますが、主がそれを示された時は、私は「ああ、何ていう事だ..」と驚き心を刺されました。主は「彼女との関係を正しくしなければいけません。わたしはあの女の人を愛しています。

あなたの彼女の取り扱い方は、わたしにとって『それでよい』とは言えません。

あなたは彼女と働き始めたとき、自分のゴールややり方を押しつけ、あたかも彼女があなたにとって邪魔者であるかのように感じていました。」と言われました。

 

私がトレイシーさんのところに行って謝るのは簡単ではありませんでした。でも私は彼女にすべてを話し、赦しを乞い、主が「わたしはあの女の人を愛している」というパワフルな言葉を告げねばなりません。あなたとうまく行っていない人を主がどれほど愛しておられるかを知るのはとても大切です。そして、私はトレーシーさんと過去2年間のことを泣きながら話しました。

主が「ジョン、わたしは善であり、あわれみ深く、情け深い主です。わたしはあなたを赦します。あなたがわたしと同じくらい情け深くなることを願っています。」と言われました。

 

主が示された事のもう一つは私とヴィンヤード教会との関係でした。12年前に私はヴィンヤードを出たのですが、その去り方を主は「正しくなかった。」と言われました。その教会で問題が起きたとき、私は「自分はあくまでも正しい」という態度で通し、最終的に教会を去り、「それでよかった、自分に落ち度はなかった」と思っていました。しかし、主は「その時のあなたの心の動きをわたしは『それでよい It’s O.K.』とは言えません。主任牧師夫妻に会って謝りなさい。」と言われたのです。

ですから私はヴィンヤード教会に出かけて行きました。もう10年以上も会っていない人達でした。一体相手はどう思うだろうか、どういう反応をするだろうか、と不安でした。トレイシーさんは私が話したとき、大変情け深く対応してくれたので、勇気づけられてはいましたが、今度はどうか分かりません。主は「わたしはあなたをわたしのようになるように招いています。でもそのためには、わたしにとって『そのままではよくないこと It’s not O.K.』をなくさねばなりません。それが問題であることをあなたは認めねばなりません。わたしは恵みをもってあなたを助けます。」と言われているのです。そして私が主に従って彼らに会ったとき、主はそれをすばらしいものとしてくださいました。

ヨハネ17:22−23「またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたことを、この世が知るためです。」

 

「あなたがわたしに下さった栄光」という言葉に私は打たれました。「栄光」とはなんでしょうか。神はイエスにどのような栄光を与えられたのでしょうか。先の出エジプト記の箇所から、私たちはそれが「善、憐れみ深さ、情け深さ、恵みとまこと、人を赦すこと」であると学びました。神はそれと同じ栄光を私たちに与えたいと願っておられるのです。私たちがその栄光をまとって歩むとき、世の人々は私たちを見て「一体何が起こっているのだろう。彼らの関係は何と麗しいのだろう。

どうしてあんなに一致できるのだろう。」と私たちの周りに引き寄せられてくるのです。私たちが主が望まれたように「一つ」になるためには、どのように変らねばならないのでしょうか。

 

「栄光」と言うと、私たちはしるし、不思議、奇蹟の中を歩むことだと思い勝ちです。天使の羽根や金粉が落ちてくることだと思うのです。しかしイエスが願われることは、私たちが善をもって、憐れみ深く、情け深く、人を赦して歩むことであり、それこそが「イエスと同じ栄光」であり、主はそのお手本を示してくださいました。主が私たちを取り扱われるときに、いかに「栄光」に満ちておられるか、即ち、いかに恵み深く、憐れみ深いかを見てください。そのような主を見上げるとき、私たちの心は感動し、変えられます。

プライド、赦さない思い、自分の目標や動機は絶対正しいという思いを、私たちはすぐ抱いてしまいます。その時、主は「私の意見はそれとは違います。」と言われるのです。

私たちはみんな「自分の意見」を持っています。しかし「主の意見」の前ではそれは何の価値もないのです。「主の意見」だけが重要であり、それはほとんどの場合「私の意見」とは劇的に違うのです。

どうか皆さんも自分の人間関係でひずみがあるところを調べてください。そして「主よ、これに関してあなたのご意見、お考えはどうでしょうか?」と尋ねてみてください。主は恵みをもって、あなたを助けてくださいます。

 

「恵み、恵み」と聞くと、ある人々は、「私たちはすでにイエスの血潮で赦されているのだから、何をしても赦されるし、このままで受け入れられている。」と言います。しかし主は「そのままではよくない。It is not OK」と言われます。家族に関していえば、私は結婚して38年ですが、妻はすばらしい人であり、結婚生活は非常にうまく行っています。しかし主は時々私の妻の取り扱い方がよくないと言われました。また子どもが5人いて、互いに愛し合っていますが、彼らとの関係においても私が変るべきところがあると主は言われます。更に、私たちの霊の家族であるアメリカの、そして世界中のキリストのからだの人たちとの関係においても、今こそ「イエスが持っておられるのと同じ栄光」を表して行く時です。

 

「憐れみ深い」というのは、人の間違っているところに目をつぶって「いいよ、いいよ。」ということではありません。聖書はそうは言っていません。でも人を訓戒するときに、どのような心で、どのような言葉、どのような態度でするかが鍵なのです。誰かを訓戒しなければならない時に「情け深くある」ことは、非常に難しいことです。そんな時私たちはイライラし、心の中で「これは絶対悪いことだ、問題はこの人にある、それを伝えねばならない、しかし彼はそれがわからない、もっと大声で言わねばならない、語気を強めねばならない」とエスカートするのです。でも主は「違う!憐れみ深くありなさい!」と言われます。

 

今世界が混乱し、人々の心がすさんでいるとき、私たちは「主の栄光」を表していかねばなりません。主は「わたしが助けます。恵みあれ、恵みあれ。」と言ってくださいます。(終り)


17 04月

家族の祭壇の回復   チェリル・サックス(ブリッジビルダーズ・インターナショナル)      2017年4月17日


家族の祭壇の回復

 

チェリル・サックス(ブリッジビルダーズ・インターナショナル)

 

1992年のアリゾナ州フィニックでのカンファレンスは、私も講師の一人でしたが、「リバイバルをもたらすために私たちは何をすればよいか」というのがテーマでした。私が話し終えて、ステージの後ろに立って主の導きを待っていたとき、主がはっきりと「家族の祭壇が回復される時、リバイバルがアメリカに来る」と語ってくださいました。それはあまりにもシンプルすぎる事だったので、私にはピンと来ませんでした。私は主にもう少し詳しく説明を求めました。その時、ある人がマイクの前に進んで私が今主から聞いた言葉をそのまま言ったのです。「主よ、どうかアメリカに家族の祭壇を回復してください。」私は非常に驚きました。そしてこれが本当にリバイバルの鍵であると確信したのです。

 

「祭壇」とはなんでしょうか? 旧約においては、人々は神を礼拝するために木や石で祭壇を築き、動物の生け贄をささげました。しかし私たちは最早生け贄は必要ではありません。私たちにとって祭壇とは、神を礼拝し賛美を捧げ、神と出会う場所です。ですから「家族の祭壇」とは、家族が共に集り、礼拝し、聖書を読み、祈る時を持つことです。

1800年代から1900代にかけて、アメリカでは毎晩家族が集まって共に主を礼拝し祈ることは普通に行われていました。彼らは互いのため、町のため、国のために祈ったのです。主の臨在が家庭の内に色濃くありました。今私たちが生かされている時代に、この習慣を取り戻すことは非常に大切です。私たちがこれから直面する厳しい時代に備えるために、「家族」は主からの特別の任務を与えられているのです。主は私たちに語り、力と勇気を与え、導いて家族が何をどのようにすれば良いのかを教えてくださり、困難の中でも勝利へと導いてくださいます。

 

神は家族に計画を持っておられます。リバイバルに関して考える時、私たちはリバイバルのために家族が持つ力を過小評価してしまっています。このカンファレンスでも私は「家族」という言葉を一度も口にしませんでしたし、他の講師からも聞きませんでした。しかし家族は神が定められた最初の制度であり、大切な任務を持っているのです。社会にある「七つの山」の一つである「家庭」は、人々が社会の各分野に出て行き影響力を持てるように調え備える場所です。

 

神は家族を回復させ、家族の中に住まわれ、ご自分の力が家族の中で現れるのを願っておられます。イザヤ56:7に「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」とありますが、普通この「家」とは教会のことだと解釈されています。しかし、教会に集っている人達が家族の祭壇を築いていなければ、どうして教会が祈りの家になれるでしょうか。「共に祈る家族はバラバラにならない。The family that prays together stay stogether.」という古い言葉は今も真理です。皆さんの「家族」がどのような形の家族であっても、神はそこに祭壇を築くようにと導いておられます。マタイ18:20に「ふたりでも三人でも、わたしに名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」とあります。私たちの家族の中に主がおられるのは何とすばらしいことでしょうか。家族が共に礼拝し祈るとき、主の臨在をお招きすることができるのです。

家族礼拝により私たちは子どもたちに祈りの大切さを教えることができます。夫婦が祈る姿を子どもが見ることは非常に重要です。これからの時代に子どもたちが直面する問題や誘惑は、私たちの想像を越えるものがあるでしょう。私たちは親として、或いは祖父母、叔母、叔父として、子どものために祈り、子どもと共に祈り、子どもにも祈ることを教えていかねばなりません。一人で住んでいる人も、家族のために、また教会の家族のために祈る祭壇を築けるのです。祈りの活動のために全国を飛び回っている人が、家族の祭壇を築くのを怠っていることがあります。これは敵の策略です。

 

家族の祭壇を築くには、まずみなが集りやすい時間を決めます。それは週に一度1時間でもいいし、毎日15分でもいいのですが、それをキチンと決めて皆で同意します。確かに家族はどこでもいつでも祈れますが、意図的に一定の時を設定することは非常に力があります。私の家族はそれをずっと実行してきましたが、娘が独立して夫婦だけになった時、なんとなくそれをおろそかにしていました。しかし最近また主に示されて、二人で祈るときを持ち始めました。聖書を読んだり、主から教えられたことをシェアしたり、キリスト教の本を一緒に読んだりもします。又、二人で黙って主に聞く時も持ちます。

主に聞くことは非常に大切です。コロラドの牧師がある時、「家族を皆車に乗せてすぐに家を出発しなさい。」と主が言われるのを聞いたので、それに従いました。彼らが家から3時間あまり運転したとき、激しい嵐がコロラドを襲い、彼らの家は押し流されたのです。家が建っていた土地も流されて、もう家を建て直すこともできませんでした。私は彼にそこを案内されたのですが、全く何も残っていませんでした。私が彼に「本当にお気の毒ですね。」と言うと、彼は「とんでもありません。主が語ってくださり、家族が助かりました。私は感謝しています。」と言いました。これからは、主の声を聞くことが生死にかかわる時代に入ると思います。

 

私の友人夫婦は毎週火曜日に子どもたちの家族を招いて一緒に夕食を食べ、その後で家族の祈りの時を持っています。彼らの義理の娘は医者ですが、ある時「私の患者に奇蹟的な癒しが起こるように。それによって彼らの心が神に向くように。」という祈りのリクエストを出しました。家族全員で祈った結果、奇蹟が起り始めたそうです。

家族の祭壇で子どもを祝福することができます。子どもたちが両親の祝福を受けるのはすばらしいことです。ウガンダである牧師が孤児たちのために祝福式をしたとき、子どもたちの列がいくら祈っても短くならないので、よく見てみると一度祝福してもらった子が何度もまた列に並んでいたそうです。それほどに彼らは祝福されることに飢え渇いていたのです。

祭壇はまた癒しの場でもあります。私は「自分の家庭は癒しなど必要のない完全な家庭にする!」と思っていました。私の父親はアルコール中毒者で、家の中には問題が耐えませんでした。夜ベッドに入ってから両親が口論をしているのをいつも聞いていました。ですから、「私は立派なクリスチャンと結婚して、子どもが絶対に両親の言い争いを聞かなくていいようにする」と決意したのです。ですが、残念ながらそういうわけにはいきませんでした。(笑)

 

私はアメリカ南部の出身で、問題があっても目をつぶって出来るだけ穏やかに暮らしたい性格です。しかし夫はボーンアゲインしたユダヤ人ですが、何でもズバズバとはっきりものを言う人です。ですから私たちはいつも口論し、時としてそれはかなり激しいものとなりました。ある時、主人と娘が不在の時、私は娘の部屋のベッドに座り、「主よ、娘に私たちの口論を聞かせたくなかったことをあなたはご存知です。」と言って泣き始めてしまいました。すると主は

「チェリル、完全な家庭などないのです。あなたの今までの間違いや破れを用いて子どもを教えることができるのですよ。あなたの娘が人生の問題にどのように対処すればよいかを教えることができます。」と語ってくださいました。私は「主よ、どのようにですか?」と尋ねました。そして私は主から癒しの方法を教えてもらったのです。

 

もし私たち夫婦が言い争いをしたときは、夫は私に対して「私はあなたの人生を傷つけました。どうか私が癒しの器となれるように助けてください。」と言って謝ります。私は彼を赦し、私も赦しを求めて彼に手をおいて祈ります。するとすぐに私たちの関係は修復されるのです。それまでは喧嘩の後は、二人ともそのままにしておいたので、娘は私たちが仲直りをしたかどうかもわかりませんでした。ですから娘は私たちの口論を聞いて心を痛め、傷つき、その後の私たちの関係がどうなっているかを心配しているわけです。ですから私たちは娘の部屋に行き、「私たちが昨夜口論をしているのを聞きましたね。でも私たちはお互いに謝って赦しあい、神も赦してくださいました。あなたを傷つけ不安にさせたと思いますから、あなたのためにも祈らせてください。」と言い、彼女に手をおいて神の癒しを祈りました。神はどのような家族でも癒してくださいます。

 

 

これからの時代は、信仰と祈りで生きることが必要ですが、家族の祭壇において

「神は必要を必ず満たしてくださる」という真理を学び体験していくことができます。天の通貨はドルではなく、信仰です。私たちは金銭ではなく信仰によって神からすべてのものを与えていただく信仰を子どもたちに教えていかねばなりません。

私たち夫婦がミニストリーを始めた頃、食べ物を始めとしてすべて必要なお金は必ず神が与えてくださるという信仰で生活し始めました。ですから娘も私たちと同じように神にすべての必要を拠り頼む信仰を持たねばなりませんでした。例えば学費とかイースターのドレス、ミッション旅行の費用とかです。私たちが神に不可能はないことを教えていくことによって、娘は自分のデスティニーに必要な信仰を与えられ調えられていきました。娘は祈りの祭壇で経験した神の力を、友達にも教えはじめました。彼女は地域の教会のすべてのユースパスターに連絡をして700人ほどのユースを集め、祈りの会を開き、フィリピンの人身売買の犠牲になっている女性のために祈る働きもするようになりました。

 

また家族の祭壇で、主の守りを祈ることができます。家族の周りを主に囲んでいただくのです。私は詩編91編を家族のために祈りました。また、主は出エジプト12:13「あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトを打つとき、あなたがたに滅びのわざわいは起こらない。」を示してくださいました。今私たちは霊的に自分の家(自分の結婚、子ども等々)の門柱とかもいにイエスの血を塗らねばなりません。

 

又、家族の祭壇は霊的戦いの場でもあります。ある牧師が「家族の断食 family

fast」について話してくれました。彼の家族で何か危機的なことが起こったときは「家族の断食」を何度もしたそうですが、その中の一つの例を彼は話してくれました。

彼の妹夫妻と二人の子どもはある街に住んでいたのですが、夫が職をなくしました。夫は仕事が見つらずにとても落ち込んでしまいました。そこで彼らはとにかく親戚のいる別の街に移ることに決め、妻と子どもだけが先に引っ越して、夫が来るのを待っていました。ところがいくら待っても夫は来ることはなく、電話もなかったのです。妻は二人の子どもを抱えてお金もなく途方にくれました。周りの人は「夫はあなたを捨てたのだから離婚をするように」勧めました。しかし牧師夫妻の家族全員は、皆で断食をすることにしたのです。牧師夫妻と妹、そして彼らのティーンエイジャーの子どもたち、祖父母、兄弟、姉妹、叔父、叔母、姪、甥、従兄弟など、全員が家族で断食をしました。

そして、その後しばらくして夫は戻ってきたのです。彼は違う女の人と関係を持ち、妻に戻るつもりはありませんでした。彼は自分のした事を非常に恥じていましたが、家族のもとに戻ってきたのです。すばらしいことに彼は夫として、又父親としての立派なお手本のような人になり、地域の子どもたちの野球のコーチとしても活躍したのです。壊されたかけた家族が全く変えられました。これは家族の断食に神が応答してくださったのだと信じます。

 

又、家族の祭壇は国のリバイバルのために祈る場所でもあります。アメリカの全家庭がリバイバルのために毎日祈るならば、どんな事が起こるだろうかと思います。神はきっとものすごいことをしてくださると信じます。そして又、どこかでリバイバルが始まるだけではなく、神は私たちをリバイバルのために用いてくださると思います。私たちの家庭が神の栄光の倉になるのです。私はアメリカ中の家の祭壇で火が燃えているヴィジョンを見ました。レビ記6:12に「祭壇の火はそのまま燃え続けさせ、それを消してはならない。」とあります。また私は、家の祭壇の火が他の家の火と一つになるのを見ました。

 

私たちの家の祭壇でリバイバルの火を燃やし続けたとき、娘がその火を受けました。彼女は家が祈る子どもたちで満ちているヴィジョンを見たのですが、それが現実になり、学校の帰りや土曜日に大勢の子どもたちが家に来て、神に祈ったのです。ある日娘は「お母さん、私は百万人の子どもがワシントンDCで集会しているヴィジョンを見たのよ。」と言いました。しばらくしてからルー・イングル師と出会ったときに、彼が同じヴィジョンを持っていることが分かり、娘はそのために学生担当として働くことになったのです。そして2008年に「The Call D.C.」が実現しました。

 

しかし、このような家の祭壇を持たない子どもたちも沢山おります。私たち教会は一つの神の家族として、彼らのために教会に祭壇を築かねばなりません。そして彼らが信仰を確立し、自分のデスティニーにむかって調えられ進んでいけるようにせねばなりません。(終り)


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