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Walk With God Ministries


28 10月

コイノニアの重要さ(1) リック・ジョイナー


コイノニアの重要さ(1)


リック・ジョイナー

第一ヨハネ1:3「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わり(コイノニア)を持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わり(コイノニア)です。」

神とのコイノニア

私たちが互いに真のクリスチャンの交わりを持つには、まず各々が主との親密な交わりを持つことが必要です。ある人が主と親密になることほど、人に伝染しやしいものはありません。すべての人の心の奥底には神のための用意されているスペースがあり、人は霊なる神を礼拝するように造られているのです。すべての人の中に神だけが満たすことのできる渇望があるのです。私たちが主に近づくならば、まわりの人々を引き寄せます。そしてそれが人びとを主に引き寄せる唯一の方法であるべきなのです。

「火事が起こったときにそれを宣伝する必要はない」のです。もしあなたが主に燃えているならば、人々はあなたが燃えるのを見にくるのです。
祭壇の火は主が下してくださいますが(レビ記9:24、第二歴代誌7:1参照)、その火を燃え続けさせるのは私たちの責任です。(レビ記6:13
火は絶えず祭壇の上で燃え続けさせなければならない。消してはならない。)本物のリバイバルを人が起こすことは絶対できません。しかし人がそれを燃やし続けることを怠って消してしまうことは起ります。私たちはレビ人として祭壇の火を燃やしつづけるという任務を与えられているのです。

人々とのコイノニアの交わり


私たちはまず2、3人のグループから始めるべきです。2、3人であるならば、真に親密になり堅い絆で結ばれることができます。それを土台にして成長していけます。主イエスは多くの弟子の中から12人を選び、彼らと親しく交わり深い教えを与えました。12人というのは、家庭集会にとってよい人数です。「もっと大きくしなければならない」というプレッシャーを感じる必要はありません。私の経験では25人以上になると、何かが失われてきて本当の親密さを保つのは難しくなります。ですからその時はグループを二つに分けたりして、新しいグループを作らねばなりません。

大切なのは、すべてが組織的、形式的、律法的になされるのではなくて、自然発生的に(オーガニックに)なされるべきことです。勿論、計画や方法はよいことですし、教会の組織も必要になってきます。しかし、まず人と人との親しい交わりであるコイノニアが生まれていなければ、それは空虚なものです。私たちは「組織」としてではなく、「家族」として召されているのです。もし「家族」となるのを無視して「組織」を作ろうとするならば、私たちは基本的な召しを忘れているのであって、それを回復するのは非常に難しくなります。

使徒たちが各地で福音を伝え始めて人々が救われたとき、彼らは新しいクリスチャンをそのままにしてその地を去りました。長老や執事を選んで教会組織をつくることなどしませんでした。それから数ヶ月、或いは数年経ってからその地を訪れたときに、リーダーが必要ならば選んで任命しました。「幾つかの職に人が付かねば教会ではない」というような考えは全くありませんでした。一番重要なのは、そこに集まる人々が、皆主と親しくなり、家族の交わりで親しく愛しあっている、即ちコイノニアの交わりをしていることでした。
そして人数が増えていくならば、コイノニアを土台としたエクレシアの組織として成長していけばよいのです。

もう一つ現在の教会には大きな問題があります。それはメンバーをいつ働き人にするかということです。タイミングが「早すぎる」のと「遅すぎる」という両方の問題です。ルカ10章で、イエスは弟子たちを2人ずつ遣わされました。2人ずつで十分だったのです。指示をして彼らを送りだし、彼らはその任務を十二分に果たすことができ、喜んで帰ってきました。しかし次の11章に行くと、弟子たちがイエスに「祈り方を教えてください」と頼んでいます。彼らは祈り方も知らない前に、病人を直し悪霊を追い出したのです。勿論、いろんな失敗もしでかしたでしょう。でも失敗せずに成長する人はいないのです。まことに教会というのは、きれいごとではないのです。

私はモーターバイクに乗るのが大好きで、その時に一番主を近く感じます。バイクに乗りながら祈りや執りなしをしますが、ある時、主が「最も完全に一致している教会を見せてあげましょう。」と言われ、バイクに乗った私を山道に導かれました。そこに小さなバステスト教会がありました。私が「主よ、バプテスト教会ですか?」と訊くと、主は「そこではない、その隣です。」と言われました。なんとそこは墓地だったのです。死んだクリスチャンたちは完全に一致していました!主は「あなたが完全に一致している教会を望むならば、それは墓地と同じように死んだ教会です。」と言われました。

使徒たちのことを考えてみてください。主がドナルド・トランプ大統領のような人を12人選んだみたいです。彼らは主と3年半一緒に暮らしましたが、最後の夜に誰が一番偉いかと争いました。でも主は彼らを叱るのではなく、一番偉くなるための道はしもべになることであると教えられたのです。主は彼らの中の「一番偉くなりたい」という情熱を好まれたのだと思います。

「大志 大望 ambition」は決して悪いものではありません。「自己的な大志、野望 selfish ambition」が悪なのです。神は私たちの内に大望を入れられました。神はアダムに「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。」と言われました。人は増し加わることを願うように造られているのです。

大志を持つときに、人々はそれを嘲笑するかもしれません。「自分を何様だと思っているのだ。エリヤとでも思っているのか?」と言うかもしれません。その時、あなたは「違いますよ。私が目指すのはもっと高いところです。」と言うべきなのです。私たちは旧約よりも優れた契約をもっているのですから、旧約の彼らが到達した地点は、私たちの出発点なのです。しかし、大切なのは私たちが高い志を持つ理由です。私たちの大志は、人々の中にキリストが成長することです。

しかし私たちの動機が100%純粋ということは不可能です。もしそうならばエノクのようにすでに天に挙げられていることでしょう。でももし自分の動機が100%純粋になるまで待っていたら、あなたはいつまでも何もできないでしょう。

スモールグループの中では、すべての人が何かを与えることができます。歌、教え、預言等です。でも教えというのは「説教」である必要はありません。5分か10分くらいでいいのです。スモールグループは、喩えれば持ち寄りの食事のようなものです。新約聖書には沢山人々が共に食事をすることがでてきます。それと同じように、霊的食事をみんなが持ち寄るのです。多くの場合持ち寄りの食事はとてもすばらしいです。皆が一番得意な料理を心をこめて作ってくるからです。自分が持ってきた料理を人々が食べるのを見て喜び「いかがですか?」と訊ねるのです。それと同じように霊の食事を持ち寄って神の子どもたち(神のプリンスやプリンセス)をお互いに養うのですから、勿論一番良いものを持ってくるのです。

もしあなたが教師として召されているのならば、「最高にすばらしい5分の教え」をしてください。そしてみんなに「もっとほしい!!」と言わせるのです。「短い説教に悪いものはない」とマーク・トウェインは言いました。神の教えはとても短いですね。勿論大きな集会ではもっと詳しく長く話していいのですが、家庭集会やスモールグループでは、全員に自分の持ってきた霊的食物を皆に食べさせるチャンスを与えるべきです。皆さんも自分が分かち合うときに恵まれることをご存知ですね。ですからそのような機会を皆に与えてください。持ち寄りの食事は何を持ってくるように打ち合わせをしなくても不思議にバランスがいいですね。霊的食物の持ち寄りも、聖霊にお委ねするのです。(続く)


21 10月

生きた細胞からなる教会(2) ラリー・クライダー(DOVE Christian Fellowship International)


生きた細胞からなる教会(2)


ラリー・クライダー(DOVE Christian Fellowship International)


12.霊的父親、母親が育つ場


  第一コリント4:15−17「たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません。この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。
ですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。そのために、私はあなたのところへテモテを送りました。テモテは主にあって私の愛する、忠実な子です。彼は、私が至る所のすべての教会で教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。」

  この箇所で用いられている言葉「父、愛する忠実な子」は家族関係の言葉です。現在の教会は父や母ではなく、CEO(最高経営責任者)で運営されています。CEOは勿論ある所では必要とされますが、神の子を養うのはCEOではなく父や母です。確かに家族関係はややこしくなることがあります。しかしそれが本当に生きるということです。よく見てみると聖書全体に霊的な家族を表す言葉がちりばめられています。小グループで私たちは霊的父や母になり子を育てることができます。

  第一ヨハネ2:12−14「子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。父たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです。父たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」

  この箇所によると、クリスチャンには3つのレベルがあることがわかります。これは年齢とは全く関係がなく、霊的な成熟度を言っていて、即ち、子ども、若者、父(母)です。

  子どもとは「罪が赦されたことを知り、御父を知っている者」ですから、救われたクリスチャンです。彼らは無邪気でかわいいですが、いつまでもそのままでいるならば問題です。子どもは自己中心で「これは好き、あれは嫌い」と言い、「この教会は自分を食べさせてくれない」と言うのです。
  若者とは「悪い者に打ち勝ち、神のみことばがうちに留まっている者」です。若者は自分で御ことばを食べて勝利することができる者であり、もはや子どもではありませんが、まだ父や母ではありません。

  ではどうすれば父や母になれるのでしょうか。それは子どもを持つことによってなのです。あなたが誰かを導くようになることによってです。それは神が非常に喜ばれることであり、決して難しいことではありません。霊の子ども(1人でも2、3人でも)と毎週、或いは2週間か月に1度会って、彼らが神にあって成長するように助けるだけです。
質問に答え、励ますのです。

  「私には出来ない。」という人が多いのですが、そんなことはありません。私が23歳のときに最初の子どもが生まれ父親となりましたが、赤ちゃんをどう扱えばよいのか全くわかりませんでした。でもやればやれたのです。霊的父や母も同じです。やればやれるのです。

  パウロはテモテを霊の養子とし、「私の愛する忠実な子」と呼びました。又ピレモン11節でオネシモのことを「獄中で生んだわが子オネシモ」と言っています。エリシャはエリヤに父親になってくれるように頼みました。
  そのような関係を結ぶように依頼するのは、子の側からでも親の側からでもよく、又、一年とかの期限を限ってもかまいません。

  神はすべてのクリスチャンが霊的親になることを望んでおられます。それはあなたの年齢に関係ありません。人は誰かが成長するのを助けるときに、自分も一番成長するからです。考えたこともないような質問をされ、それについて調べるとき、あなたも成長するでしょう。「弟子を育てる」のと「霊的父親、母親」になるのとは基本的に同じです。聖書は両方の言葉を使っています。

  私は現在23カ国にある700の教会を導く使徒のリーダーとして働いていますが、その一番土台になっているのは、「神の恵みと恩寵は霊の父親、母親の上にある」という真理です。この私たちのグループは組織ではなく家族です。そしてすべての人を神の召しへと解き放っています。教会が分かれるとき、それは分裂ではなく、教会が増えることなのです。教会の中の誰かが新しい教会を作りたいというならば、あなたは「素晴らしい、教会に子どもが出来た、教会が増える!」と喜ぶのです。その人を縛り付けるのではなく、解放して祝福するのです。

 「私はあなたと生涯一緒に働きます。」などという契約をたててはいけません。私たちが一生持つべき契約の第一はイエスとの契約、次にキリストのからだとの契約、そして妻や夫との契約です。もしあなたが誰かを自分に縛り付けようとするならば、神ご自身がその人をあなたから引き離すでしょう。ですからあなたは自分とは別の働きを始めたい人がいるならば、その人を応援し、祝福し、神から大いに用いられるのを親として喜ぶのです。

アブラハムの祝福を見てみましょう。

 創世記15:5、6「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。『さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。』さらに仰せられた。『あなたの子孫はこのようになる。』彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」


  アブラハムは人間的には信じ難いことを信じ、義と認められました! そして息子を与えられました!
  神はあなたにも子どもを与えたいのです。
  あなたは牧師ではないかもしれません。しかしあなたは小グループのリーダーとして父親、母親になることができるのです!あなたもアブラハムのように神を信じてください。子どもは2人でも3人でもいいのです。

  ガラテヤ3:19でパウロは「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」と言っています。あなたの育てた子がまた次に子を生み育てていき、あなたの霊的子孫は増え広がっていきます。これは本当に素晴らしく、また神にとって重要なことであり、永遠の価値を持つ働きです。このために神からの恵み、油注ぎが注がれるように祈りましょう。

第一テサロ二ケ2:7&11&19、20「それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。...また、ご承知のとおり、私たちは父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。...私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。あなたがたこそが私たちの誉れであり、また喜びなのです。」(終り)


16 10月

生きた細胞からなる教会(1) ラリー・クライダー(DOVE Christian Fellowship International)


生きた細胞からなる教会(1)


ラリー・クライダー(DOVE Christian Fellowship International)



私が若者たちに伝道し始めた時、主が語られました。
「あなたは地下の教会で働く用意がありますか?」それを聞いて私は、世界で弾圧されているキリストの教会のことかと思いましたが、そうではありませんでした。教会という木があるとすると、地上の目に見える部分の下に、もっと大きな根の部分があるのです。私たちは教会に何か問題が起こると地上の部分ばかりを取り扱いますが、実は根の部分が重要なのです。それは即ち、小グループ(様々な呼び方がありますが、私は「living
cell 生きた細胞」と呼んでいます)の働きです。実に聖書は地上の部分よりも地下の部分に重きをおいています。教会の最初の200年は、
使徒行伝2:46やローマ16:5にあるように、基本的には公の場所での集会ではなく、家での集りでした。

使徒行伝20:20でパウロは「人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え」と言っています。「人々の前」とは地上の部分であり、「家々」とは地下の部分です。私たちには両方が必要なのです。しかし過去2千年にわたって教会には、地下の部分が欠けていました。使徒行伝ではコルネリオの家(10章)やピリピの看守の家(16章)で起きたことが書かれ、最後はパウロの家での伝道で(28章)終っています。しかし、残念ながら私たちは今、ほとんど地上の教会のことばかり話しているのです。ですから神は地下の部分を今から回復されようとしておられるのです。

私の歩み

1980年の初頭、義父が牧師をしていた教会の礼拝に私が出席していた時、主が「わたしはあなたに新しい教会を立てさせます」と言われました。私はその時、すぐに主が言っておられることを理解しました。人と人とが生きて繋がっている教会、生きた関係のある教会です。そして私はホームグループをつくり始め、その年の暮れには3つの小グループができ、日曜には25名ほどが集まって礼拝するようになりました。その後いろいろな失敗を繰り返しましが、主の恵みにより2年後には順調に成長するようになり、毎年300人ずつ増えていきました。

私たちの教会はペンシルベニヤ州の小さな田舎町にあるのですが、10年後には千人の教会になりました。しかし私たちのフォーカスは常に地下の部分でした。教会員は何らかの地下のグループに属し、グループのリーダーは教会のリーダーに繋がっていました。時には地上の部分、即ち日曜の全体礼拝の代わりに、地下グループがそれぞれの場所で礼拝したりしました。その結果百名の新しい人が教会に加えられました。

また、私たちが生み出し育てた多くの牧師、小グループのリーダー達を他の教会に送りだすことを主は許されました。今は世界23カ国に700の教会、何千という小グループがありますが、これはすべて主がなされたことであり、聖書が言うように教会の地下の部分にフォーカスしてきた結果なのです。

聖書に見る小グループの12の価値

1.収穫のための備え
世界には今リバイバルが起こっている国々があります。現在まだ起こっていない国でも、聖書には終りの日に主は御霊を注がれるという約束があり、多くのとりなし手が祈っていますから、やがてリバイバルが起こるのは間違いありません。ですから私たちはそのために備えをする必要があります。主は「新しい皮袋」が必要だと言われます。(マタイ9:37、マタイ9:17、ヨハネ4:35)
人々は日曜日に教会で皆で礼拝し、ちょっと挨拶をして家に帰るだけでは養われないのです。「生きた細胞」のような小グループに属し、そこで訓練され整えられる必要があります。

  教会の地下の部分がその役目を果たし、そこで霊的父親、母親が霊の子どもたちを育てるのです。多くの人が救われても教会に定着しないのが現状ですが、彼らを根付かせるのは小グループです。

  2.人々にイエスと親しくなる方法を教える
  ヨハネ17:3「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです。」
  神を知るためには、神と親しい人と共に祈ることほど効果的な方法はありません。小グループはそのような環境を与えます。それは人間関係、信頼関係がそこにあるからです。人々は本当に心を打ち明け相談が出来る人、一緒に祈ってくれる人を求めているのです。

  3.伝道のため
  マルコ1:17「イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。』」
  生きている小グループならば、内側だけを向くのではなく、外にむけてリーチアウトし、いのちを分け与えていくのです。グループの人が手をつないで内側を向いているのではなく、手をつないで外側を向いている姿です。内側だけを向いているならば、そのグループはよどんでいきますが、外側を向くと命を得ます。小グループが陥りやすい間違いは、ずっと同じ人たちと手をつないで内側を向いていることです。

  4.大宣教命令の遂行—弟子をつくること
  マタイ28:19の大宣教命令でイエスは、ただ回心者を作るのではなく、「弟子」をつくるように命令されました。小グループでは皆が弟子を育てるという業をすることができます。弟子作りは、弟子がまた次の弟子を作れるようにせねばなりません。グループの中の人と1対1で時を過ごして育てて行くのです。気を付けて避けねばならないのは、リーダーがマニュアルに従って運営してしまうことです。本当のリーダーは自分一人で話したりグループをコントロールするのではなく、皆が話せるようにします。教えることの大好きなリーダーは困りものです。小グループに教師はいらないのです。

  リーダーは次のリーダーを育て、彼が新しいグループを作れるようにします。そのためには副リーダーを沢山作るのがよいのです。そして彼らにいろいろな責任を分担させていくことで、彼らがリーダーとして育ち、小グループがどんどん増えていくのです。

  5.教会は建物ではなくて人々であることを教える
  マタイ16:18「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」
  イエスはここで建物のことを言っているのではありません。私たちは「教会に行く」のではなく、私たちが教会なのです。

  6.すべての聖徒はミニスターである
  聖職者がすべての働きをするというのは、間違いであって、すべてのクリスチャンはそれぞれにミニストリーをする賜物を頂いています。そしてそれを十分に働かすことができるのが小グループです。

  ある時グループの一人が亡くなり、その家族がグループリーダーに葬儀を執り行ってほしいと言ってきました。リーダが牧師である私に相談したので、私は「是非しなさい。」と励ましました。そしてそれは素晴らしい葬儀となりました。なぜならば、リーダーが故人をよく知っていたからです。又、子どもを無くした夫婦を慰め助けるために出かけた牧師は、もうすでに小グループの人達が
夫婦に必要なミニストリーをすべてしているのを見たのでした。私たちは2千人の教会ですが、そのミニストリーの95%は聖職者ではなく人々によってなされています。人々をミニストリーへと解放してください。


  7.信頼できる人間関係を打ち立てる場所
  第1ペテロ2:5「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。」
  私たちは救われる前は死んだ石でしたが、今は生ける石となりました。聖書は生ける石が一つでいるのではなく、一緒に霊の家に築き上げられねばならないと言っています。日曜の礼拝では生ける石たちは山積みになっています。お互い同士の関係はありません。ただ少し挨拶を交わして歌を歌い、説教を聞き、献金をして帰るだけです。石が築き上げられるためには、どうしても小グループが必要だと私は思います。

  8.霊的倍増を予想し期待する
  神の創造はすべて何倍にもなるのです。しかし、そうなることを予想し期待しなければ、それは起りません。小グループも成長し、何倍にも増えていくのです。

  9.臨機応変と創造性を促す
  神はユニーク性を好まれます。同じ聖書の原則を用いても、実際のやり方は、教会により、文化により、小グループにより違うのです。聖霊のおられるところに自由があります。常にユニークで創造的なグループであり続ける知恵を主が下さることを期待してください。創造はいのちを解き放ちます!もしどのグループも同じようならば、何かが間違っているのです。

  10.クリスチャンに力を与える
  ヨハネ14:12「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行ないます。」
  第二テモテ2:2「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」
  小グループの中で人々に働く場を与え、彼らが成長するのを助けることができます。

  11.チームを作りあげる
  アモス3:3「ふたりの者は仲がよくないのに一緒に歩くだろうか。」
  第一コリント12:28「そして、神は教会の中で人々を次にように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。」
  小グループにおいて真の信頼関係を築き、それぞれの賜物を生かしてチームとして力を発揮することができます。
  健全なチームには次の4つが必要です。
  1.同じヴィジョン
  2.同じ基本的価値観
  3.会の運び方の合意
  4.神による健全な関係
  この一つでも欠けていると、グループは破綻します。
   (続く)


08 10月

朝ごとの私の祈り ハイディ・ベイカー(IRIS MINISTRIES) 2018年10月8日


朝ごとの私の祈り

 

ハイディ・ベイカー(IRIS MINISTRIES)

 

「どのようにしたらあなたは毎日自分に死ぬことができるのですか?」という質問にお答えしたいと思います。

少し変に思われるかもしれませんが、私にとって自分に死ぬことは、毎朝次のように祈ることを通して可能になるのです。

 

まず、床に座りひれ伏して、文字通り姿勢を低くします。そして主の臨在の前に自分を注ぎ出します。自分には力がなくて出来ない様々なことを思い、又、神にはすべてが可能であることを思い祈ります。そして「神よ、どうかあなたの愛が私を通して輝き出ますように。どうかあなたの麗しさで私を覆ってくださいますように。」と祈ります。私は死んで、主が生きてくださるのです。それは栄光に満ちたすばらしいものです。

 

この祈りの時は、私にとって毎日の葛藤であり、毎日の戦いであり、毎日の喜びです。この「葛藤、戦い、喜び」という3つの言葉は一見矛盾するようですが、本当なのです。

主に従えない思いの中で葛藤し、戦い、そして勝利したとき喜びがくるのです。私が主の邪魔をすればするほど、主がコントロールしてくださる部分は少なくなっていきます。

 

私はひざまずいたままで両手を広げ「主よ、助けてください!」と心から叫び求めます。そして黙して耳をそばだてます。御声を聞くことができるように、自分の霊を静め整えます。そして聖霊の言われていることを聞きます。すると聖霊はいつも私が思いもつかないことを心に入れてくださるのです。

 

聖霊に自分を完全にコントロールして頂くためには、「明け渡した愛 yielded love」の状態にならねばなりません。主の御声に対して100%オープンになると、あなたは御声を聞き始めます。主の言われることは、この世で忙しくしている肉の人には意味をなさないかもしれません。でも私たちが霊で聞くならば、聖霊が私たちの心の中に来てくださり、ある考えや思いを与えてくださいます。私はそれを「霊的知性 spiritual intelligence」と呼んでいます。それはとても素晴らしくわくわくするものであり、即ち「キリストの思い mind of Christ」を私たちが持つことに他なりません。

 

主の御声を聞いて立ち上がるとき、私たちは主がしておられる事をすることが出来ます。あなたが主の御声に従えば従うほど、次にあなたがするべきことがわかってきます。(主が分からせてくださいます)主が下さった小さなことに従うならば、主は次には更に大きなことを下さるでしょう。自分に死ぬとは、従順と愛に生きることであり、身を低くして時間をかけて主に聞くことです。それは本当にすばらしいことです!(終り)


01 10月

キリストの型 フランシス・フランジペイン           2018年10月1日


キリストの型

 

フランシス・フランジペイン

 

訳者注:

 今は終末の時、しかも終わりが迫って来ている緊急のときです。終わりの時とは、肉から生まれ変わったクリスチャンを、みな霊的に実った「真のキリストの弟子」に育てる、あるいは、各自がそうならなければならないときと私は思います。それがマタイ28章の終わりに出てくる大宣教命令の意味です。

 フランジペン師は、アメリカで長年この霊的な弟子訓練を手がけ、そのための専門学校(英語ですが、ネット上でもその学びが習得できます。)を通して、真の「キリストに似た」クリスチャンを大勢生み出して来られた、私たちが最も尊敬する指導者の一人です。

 私はここで師が「教会の牧師」を対象としてこのメッセージを語っていますが、それは牧師の資格を持つ教会の長としての牧師だけに限らず、教会あるいは、どんな小さなクリスチャンの会合でも、そのリーダーとなる人を総称して牧師と言っておられると解釈していただきたいと思います。それには勿論スモール・グループのリーダーから、職場・家庭礼拝をリードする方でもその指導者に立つ人であれば、この「牧師」に当てはめられます。

 

 「私たちは皆、顔のおおい取り除けられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(2コリント3:18)

 

 

「どのような教会であれ、何ヶ月、あるいは何年かの間に、信徒の内にキリストの似姿が現れ出ているかどうかが、その教会の究極的なテストである」と私たちは度々教えられてきました。確かにそれが神の目標であり、又教会の目標でなければなりません。

 

では実際に、信徒達はどのようにして変えられて行くのでしょうか? 単に外面的に宗教的であることから、内側が真にキリストに似る者になるようにと、教会を刺激し鼓舞するのは何なのでしょうか?

 多くの場合、 「宗教」から「キリストに似る者」への脱出は、 その教会の牧師(指導者)の心が「キリストに似る者になる」というヴィジョンに強く捉えられた時に始まります。

説明させてください。現在の競争過多の世界においては、牧師は多くの面で卓越することを要求されます。牧師は雄弁であり、立派な学歴を持ち、しかも失われた魂の必要に敏感でなければなりません。ヴィジョンを掲げ、しかも現実的で実践的でなければなりません。

 

教会員のために自分と家族との時間を犠牲にすることを度々求められます。厳しい労働条件や決して多くはない報酬に対して不平を言うことは許されません。

 

勿論、このような牧師の仕事の大部分は、神ご自身が課したものではなく、人々の勝手な期待から生まれました。教会員が牧師に求める多種多様な希望や期待を満足させられる人など本当は一人もいないのです。実際のところ、教会員を満足させて教会を大きくしようとがんばる牧師は、すぐに自分のエネルギーを使い果たしてしまうことでしょう。

私の経験では、教会成長プランを進める牧師が一人に対して、霊的に瀕死の状態に陥った牧師が何十人もいます。

 

問題を一層深刻するのは、 牧師に対する信徒の不平不満が度重なると、牧師の士気がますますくじかれることです。落胆はヴィジョンを失わさせます。彼はかつて自分のデスティニー(即ち指導者になること)は「高い召し」であると感じていたのに、いつのまにかそれは「ほとんど喜びのない仕事場への通勤」に格下げされてしまうのです。

 

個人のリバイバル

 

忘れないでください。「牧師の成功」に対する神の尺度は「教会の信徒たちの人生にどれだけキリストが真に表されているか」です。これこそがキリストが示された牧師として仕える者に対する目標なのです。すべてのリーダーは、自分が大宣教命令をどのように遂行したかを神に報告する日を迎えねばなりません。

 

ですから牧師の皆さん、主への恐れをもって歩もうではありませんか。そして又、知恵をもって歩みましょう。もし私たちの追い求めるものが、会衆をキリストに似た者へと導くのであるならば、まず自分から始めようではありませんか。柔和に、しかし人を恐れるという誘惑に陥らないように歩みましょう。

なぜならば、人を恐れる思いは働きの上を覆う呪いのように明白に表れるからです。真の祝福への道はただ一つであり、それは自分の心をただ「キリストに似た者になること」に集中させることです。

牧師が「私はキリストを捉える」と強く決意するならば、それに反対する者が起こることは間違いありません。なぜならば、主がその人の人格、品性の真実性を試すことなしに、その人がキリストに似た者になることなどありえないからです。

しかし、牧師が(特に、自分が主とより深い関係になることを祈る)祈りの人となり、神への愛が純粋になり、へりくだりが平安へと深まって行く時、イエスを愛する信徒たちは、牧師のうちに主なるイエスを見るようになるのです。

 

戦いは、たとえ非常に激しかったとしても、それはキリストの栄光が牧師の中に生まれるための舞台装置に過ぎなかったのです。いにしえの昔から人々は「イエスを見ること(ヨハネ12:21)」を願いました。信徒たちが牧師の品性の中に主イエスを見るとき、彼らは自分たちの教会に対する神のヴィジョンを見ることになるのです。

 

キリストに似た教会

私は、「あなたの教会の牧師が完全にキリストに似た者になっていなければ、信徒がキリストに似た者になることを追い求めることはできない」と言っているのではありません。違います。キリストに似た者になる道は、いつでも、どの教会においても、歩き始めることができるのです。

しかし、信徒たちが最高のデスティニーに向かって真に上っていくためには、ある時点で牧師は羊たちが後についていけるようなキリストの型にならねばなりません。

もしあなたがとりなし手ならば、あなたの牧師のために祈ってください。教会のリーダー達を尊敬し、キリストに似た者のヴィジョンが彼らを突き動かす炎となるように祈ってください。

裁きではなく恵みをもって祈ってください。恐れではなく憐れみに立ってください。ヴィジョンを常に持ちつつも、辛抱強くあってください。神はあなたの祈りに答えられます。

実際牧師とは、イエスのような者になり、羊たちが後をついて行けるお手本になるという召しを受けた者であるのです。この追求がなくては、牧会はいつも欲求不満を抱える牢獄となり、いのちの欠落した仕事になってしまします。

 

しかし、たとえ試煉の中を通っても私たちがキリストに似た者となることを追い求め続けるならば、神の御子の臨在が私たちのいのちの中にますます顕れ出るときがやってきます。牧師が追い求めるものは、人々が後ろからついていくキリストの型になることなのです。(終り)