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Walk With God Ministries


28 11月

収穫は始まっている チャック・ピアス    2011年11月29日


収穫は始まっている

チャック・ピアス

 

 

ワーシップと収穫:使徒的見地

 

私たちは地上での新しいワーシップのシーズンに入りました。私はこれを「収穫の歌のシーズン」と呼びます。このシーズンは使徒的なシーズンです。

使徒的シーズンとは、 人々が召命を受け取り、収穫されるために準備された畑に遣わされるシーズンのことです。 私たちはセレブレーション祝い、働き、戦い、勝利というような思い(メンタリテイー)を持っていますが、これらはすべてワーシップを通して表されます。収穫とは、「神の裁き」を表しています。イエスはこの収穫を比喩として用いました。それは、 信じる者を主が集められる時がやがて来ることを私たちに悟らせるためでした。

 

収穫はすでに始まっています。それは主が初めて来られた時に始まり、今、急速に進んでいます。でも天の領域においては、「 収穫の実権を握り倉に納めるのは誰か」という問題に決着をつけるための「綱引き」が行われています。ルカ10:2には「だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」とあります。

 

御国の収穫のための地上での戦いのためには、霊とまことによる礼拝が必要です。 働き人、即ち礼拝者(ワーシッバー)が刈り入れをするために入っていく多くの畑が調えられています。倉も備えられています。戦いの最終的見せ場は「収穫のための戦い」です。収穫は農作業(私たちの働き)の最終段階であり、穀物は熟していて、今それを刈り取って集めることがされねばならないのです。

 

黙示録14:15−16にこうあります。

「すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。『かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。』そこで、雲に乗っておられる方が、地にかまを入れると地は刈り取られた。」

 

主の栄光の重さ(ウエイト)

 

「 God’s Unfolding Battle Plan (Regal Books, 2007)」という本で、私は次のように書きました。

「私たちは、すべての前線で、様々の大きさの、多くの戦いに直面しています。これからの20年間は、世界のすべての国家がイスラエルを取り巻いて調停しようとします。そのうちの幾つの国家は世界的に有力な勢力となります。アメリカ合衆国は、その中で改めて説得力を取り戻そうと試みますが、その声は以前のような大きな説得力を持つことができません。神を無視し金権の力だけを信じる国々(マモン)が世界を治める最大の影響力を持つようになるでしょう。国々は贖われていない血を持つ人民によって構成されているので、そのような国々は国々に対して争い続けるでしょう。肉的な思考は絶えることなく、それは神に敵対し、神の知識(計画)に反抗し続けます。反キリストは世界を自分の手で治める計画を推進します。しかし、地とそれに満ちているものは主のものであり、このことも永遠に変ることはありません!

 

地は主のものであり、主はそれを満たすご計画を持っ故に、すべてを「収穫する」ご計画を持っておられるのです。穀物(いね)はかまで刈り取らねばなりません。刈り取られたものは束にして打ち場に運び、道具や動物を用いて脱穀せねばなりません。穀物は 空中に放り上げられ、 籾殻は軽いので風によって 吹き飛ばされ、重い実だけが残ります。

 

収穫の最後の段階は倉に納めることです。穀物は倉に入れる前にふるいにかけられます。収穫の戦いは、この時最後の局面を迎えます。私たちは今、揺すぶられ、ふるわれています。揺り動くものは、すべて揺り動かされるのです。主は私たち個人や団体、あるいは都市、国家の中から「 商品価値が小ないもの」、即ち罪、咎をふるい落としておられるのです。

 

この時、収穫の鍵となるのは主の栄光の重さです。籾殻を風で飛ばすプロセスの中で、重い実は吹き飛ばされません。これからのシーズンには、私たちがあちこちに吹き飛ばされてしまう可能性のある多くの課題が取り扱われるでしょう。主の栄光の重さが私たちの上に置かれていないと、私たちは吹き飛ばされてしまい、主が地上に与えておられる収穫のプロセスを全うすることができません。この収穫の鍵を私たちが受け取るには、霊とまことによって礼拝することを学ぶこと以外の方法はありません。

 

私たちは収穫の働き手

 

私たちは先ず収穫されますが、次に将来の働き手になるのです。ロバート・ハイドラー師は、私と一緒に働いているすばらし教師ですが、最近次のように 書いてきました。「二晩前に私は夢を見ました。夢の中で妻のリンダが買い物から段ボールの箱を持って帰ってきました。箱の中にはガラガラ蛇が入っていました。彼女は『このガラガラ蛇を3週間家に中に置いておけば、 終ることのない収穫のシーズンが始まるだろう、と主が私に言われたのよ。』と言うのです。そこで私たちはその通りにしました。毒蛇をガレージの中にいれて家の中に入ってこないようにドアをいつも閉めておきました。ガレージに行くときは、そこにガラガラ蛇がいることを知っていましたから、十分注意を払いました。

目を覚ましたとき私は、『召命を受けて遣わされるならば、蛇やサソリに対する権威も私たちに与えられる』ことを思い出しました。

 

私たちの問題は、教会がこの世を恐れるばかりで、汚れている場所にはどこへも出て行かないことです。もし私たちが恐れを捨て、「この世」を自分の家に持ってきて(私たちがこの世に同化するのではなく)それらすべてのカルチャーを神の目的のために変革し聖化するならば、私たちが敵の力に屈しない権威を持ってすでに実際に行使していることが分かるでしょう。」

 

主が私に言われました。「あなた方の中のある者たちは、敵を足の下に置くことに抵抗を示しています。その事が、あなた方が次のレベルの分け前を取る道を塞いでいるのです。あなたが敵にしたいことをわたしに願いなさい。そうすれば、わたしはその敵を連れて来て、今まで敵が押さえていたもの、かすめ取っていたもの、奪い取ったものすべてを、3週間以内にあなたに与えます。敵が今まで守って来た彼らの倉の鍵を、今やあなたが所有するのです!

 

収穫は必ず起こります! あなたの収穫のシーズンはある時に終ってしまったかもしれませんが、わたしの計画、わたしの定めた時に収穫のシーズンが再びもどってくるようにします。目を開きなさい。あなたの信仰の目を開きなさい。期待の目を開きなさい!わたしは収穫をあなたにとりもどすことが出来る神です。

もしあなたがわたしを慕い求めるならば、もしあなたの目をわたしからじっと逸らさないならば、わたしは天の窓をあなたの上に再び開くでしょう。それによって、あなたが失ったもの、あるシーズンにあなたが使えないように閉ざされていたものが、いま解き放たれるのです!あなたは収穫が起こることを今日確かに見るでしょう。

霊とまことをもってわたしを礼拝しなさい。そうすればわたしを知らなかった町やカルチャーを、わたしは一日のうちに変革させます。わたしの天の歌を聞きなさい。新しい歌は古いサイクルを打ち破ります。収穫の歌が今解き放たれています。天と共に歌いなさい。そうすれば、あなたの収穫を助ける万軍をわたしは遣わします。」(終わり)


22 11月

日本は揺すぶられている  坂  達 也        2011年11月22日


日本は揺すぶられている

坂  達 也

 

先月の半ば過ぎでしたが、私たち夫婦は、私の姉の危篤の知らせを受けて、急遽日本に飛びました。残念なことに、到着した時には既に姉は天に召されており(二年前に私たちの前で信仰告白をしておりました)、結果的にはその葬儀に参列することになりました。

姉の夫は大部前に仏教徒として病死していると言う理由で、嫁ぎ先の遺族は仏式の葬儀を主張していたので、私たちの希望した教会での葬儀は叶えられませんでしたが、その代わり、久し振りに仏式の葬儀に参加して少々驚いたことがあります。

と言いますのは、昔と違って今は葬儀業界という大きなビジネスが存在し、複数の業者がそれぞれ立派な教会並みの建物を建て、僧侶の手配から、斎場を含むすべての儀式、加えて送迎から会食まで一貫して請け負うという「葬儀業」が、私の郷里のような地方の田舎町ですら競われる時代になっていることを今回つぶさに経験したことです。

特に彼らによる葬儀で著しいこと(感心したこと)は、弁が立つ立派な一人の司会者が立ち、儀式の進行を丁寧に紹介し、ご焼香の仕方から、手を合わせて何を念ずるか、又、お経を読み、鐘や太鼓、木魚をたたく僧侶をうやうやしくまつり上げ、僧侶とそのお経のありがたさを強調し、この読教によって故人が冥土でいかに祝福されるかを実にうまく解説することでした。

私の印象では、仏式においてもこれだけの説明付きの儀式がなされると、会衆は皆仏教の葬儀の良さ、ひいては自分たちも同じように葬られ、先祖家族の待っている冥土に安心して行ける、死ぬことは怖くない、という見事な錯覚に陥り、多くの人はありがたい気持ちで帰路に着くと言うことでした。ある意味では、クリスチャンの儀式に参列するのと同じぐらいの「宗教的説得力」があると思いました。商売となると、仏教であっても、実に「売り込み」上手になるものだと感心した次第です。そして恐ろしさすら感じたことは、このやり方では、本当の神を知らない多勢の人たちを「広い門」からコンベア・ベルトに乗せて、滅びへの「広い道」をまっしぐらに大量に運び込むという悪魔の巧妙な惑わしの手口でした。

そう思った時に、日本でのクリスチャン宣教の難しさを今更のように感じました。特に日本ではキリスト教の宣教そのものが実に「狭き門」であり、又、実際に多くの場合、一人ずつ未信者の手を取りながら険しい狭い道を共に歩いて導かねばならない、その貴重な「狭き門」のミニストリーにおける労苦と忍耐は並々ならぬものであることを改めて思い知らされました。

 

葬儀を終えた私たちは、次に念願の東北の被災地を訪問しました。先ずは娘がボランティヤとしてこの五月から奉仕している仙台近郷の利府という所にあるオアシスチャペル(松田牧人牧師)-森郷キャンプ場に到着し、そこで3日間お世話になりながら、南三陸を含む被災の現場のいくつかを見ることが出来ました。

 

それにつけても、3月11日の東日本大震災の現場に立つた時に、ヘブル書12:26-29に書かれている「あの時には、御声が地を震わせた。しかし今は、約束して言われた、『わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう』。この『もう一度』という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である。」(口語訳)という御言葉が私の心から離れませんでした。

「あの時」とは、イスラエルの民が最初に神に引き合わされ律法をいただいたシナイ山での出来事を指しています。そして「もう一度」とは、直接的には、シオンの山に降り立つキリストの再臨の時ですが、広い意味では、キリストが最初に地上に現れた時から再臨までの間の期間であり、特に再臨が迫った終末の時を指すと考えられます。その神が、「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」と言われるのですから、神が震わされる以上、神はそうする目的があり、それがたとえ「さばき」の一つの形であっても、神は良い(正しい)目的のためにことをなされます。その目的が「震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれ」最終的に「震われない御国」を築くことにあると書かれています。

 

私は終末時に起こる神のこの「震わし」は、日本のこの東日本大震災が、大きく地を揺るがす世界で最初の地震であると言う気がしております。そしてその目的は、神が日本を愛するがゆえに、他国に先立って日本人の足元を根底から揺るがしておられると信じます。今回私たちは、日本で震度4前後の地震を福島、東京、沖縄で三度経験し、本当に日本が揺すぶられていることを実感しました。

人間は、自分が立っておられないほど強く足元を震わされると、誰しも恐れと不安をいだきます。特に自分のやってきたことに自信があり、自分が築き上げてきた富と名誉と体制(伝統)にのみ頼って生きてきた人の足元の根底がぐらつく時、その人は恐らく自分の価値観と存在理由に今までにない不安を覚えるのではないでしょうか。

 

今世界の政治と経済が根本から揺れ動き、モラルの退廃が来るところまで来たと思わない人はいないと思います。人間のやって来たことの総決算として、特に神なしで築き上げてきた「バベルの塔」が大きく震われ始め、崩れ去ろうとしています。しかし、これは神がなさっていることであり、これこそは、人間が創造者の神の存在に気付くために必要な最低条件であると思います。

正直なところ、日本に深く根を下ろして来た神道とか仏教の体制と惑わしの「あの世」観を破壊し、人々をその呪縛から解放するためにはこれしかない、すなわち、天も地も激しく揺れ動かすことによって人間を震い上がらせ、その無知と高慢を根底から砕くことが必要であると私は確信しました。この神の御声による天地のゆさぶりは、これからも益々激しくなって行くでしょう。もっと大きな地震が来るでしょう。そして、それでも分らない人たちには、最後の「火のさばき」がキリストの再臨と共にやって来ることが黙示録に克明に書かれています。

 

今回の旅行で私たちは、被災地と悲惨な状態に置かれている被災者の姿の一端を垣間見ることができましたが、特に家を失くされた被災者の方々が無責任に造られたひどい仮設住宅に押し込められている状態を見て、日本国民を代表する政府のすることがこれだけでしかなかったのかと言う憤りに近い悲しい思いを持ちました。しかし、神が敢えてそれを許した理由は、私たちクリスチャンが、この不安と悲しみに絶望する多くの被災民に愛の救いの手を差し伸べる時が来たこと、それも二度とない大きな機会であることを感じさせるためであると思いました。

 

多くの人たちが世界から集まって復興への援助の手を差し伸べ、又、多くの信仰の貴重な働き手が、今も日夜被災地での伝道にたずさわっておられますが、その数は未だ限られており、宣教の働きは本当にこれからなされなければならないことを実感しました。

 

勿論、私たちの宣教の使命は東北の被災地だけではありません。日本のすべての場所で、同じように迫り来る終末の最後のチャンスを逃すことなく、最大の努力がなされねばなりません。

 

リバイバルはどのような形で来るのか

 

10月18日にジェフ・ジェンセン師の記事を紹介しましたが、それによると今30歳になっているか、なろうとしている若者たちが、これから起こる世界的規模のリバイバルに大いに用いられることが預言されております。

今までに起こった最も大きなリバイバルの一つは、英国ウエールズ地方で1904年に起こったリバイバルと言われております。その時に神が用いたのはエバン・ロバーツという20台半ばの青年で、彼を助けたのが何とティーン・エイジャーと子どもたちであったと言われますから、神がこれからもロバーツのようなへりくだった若い青年を用いるのはよく理解できます。

しかし、このジェンセン師の預言を読まれた方々のとっさの感想は、恐らく私と同じで、その年代より年を取ったクリスチャンを神は用いられないのかという疑問であると思います。

 

言うまでもありませんが、そのリバイバルのきっかけを担当する若い年代のクリスチャンを霊的に育て上げ、助けるのは、他でもなく私たち中・高年のクリスチャンです。その意味では今30歳のクリスチャンと私たち高年者は一体で主にあっての同労者です。特に、物凄い数の新しいクリスチャンが生まれて来る時に、そのおびただしい数のベービー・クリスチャンの面倒を誰かが看なければなりません。しかし、今の全クリスチャンのうちの、本当に霊的な面倒がみられるマチュアーなクリスチャンの数は限られており、迫り来る大リバイバルへの充分な対応はとても出来ないとリック・ジョイナー師は指摘しています。

 

私は、神が今まで一方的に起こされた種々のリバイバルと同じように、これから最も大きなリバイバルが起こされるという預言を確かに信じるだけでなく、それを大いに期待します。確かに使徒行伝には、一日に三千人、五千人の未信者が救われたことが書かれています。それにたずさわった使徒たちもイエスに心から献身した若い青年たちでした。

しかしその聖霊が起こされた一大リバイバルを経験したペテロ、ヨハネ、パウロたちの書いたものを読んで分かることは、彼らにはリバイバルが来るという浮ついた考えはみじんもなく、彼らの終末に生きるクリスチャンへのメッセージは非常に厳しいものであると言うことです。彼らは、キリスト者が罪から遠ざかり、聖く生きて、どこまでも、いや、殉教の死にまでも主と聖霊に従って生きる必要性だけを強調し戒めています。それはパウロが自らを「今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。」(2テモテ4:6)と言っている通りです。キリストの使徒たちは全く自分に死んで、主に仕えました。それ以外の何物でもありませんでした。

 

エバン・ロバーツは若いながらもそのような主の器でした。主に自分の命を捧げて従い通す第二第三のロバーツを主は今求めているのです。そのことこそが新約聖書において最も強調されているだけでなく、旧約聖書でもイザヤが預言しています。(イザヤ書66:2)

 

「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」

 

この一点に関しては年齢に関係がないと思います。主は常にそのような「キリスト者」を求めており、そのような人が特にこれからの時代に用いられることは明白です。

 

そのために、今神はクリスチャンをこそ、信仰の根底から震おうとしておられます。「震われないものが残るために、震われるものが取り除かれ」る時が来るからです。いや、既に来ているのです。そして、そのように主のためにのみ生きるクリスチャンからは、最終的に肉のものがみな廃れ、「太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず/月の輝きがあなたを照らすこともない。主があなたのとこしえの光となり/あなたの神があなたの輝きとなられる。」(イザヤ 60:19 新共同訳)とあるように、物としての光すら取り除かれ、神の霊的な光のみがあなたを照らし、その光があなたから光り輝く時が来ようとしているのです。

 

震われないものとされたあなたが未信者に接する時に、神を知らないその人たちが、あなたから神の光が輝いているのを見て、神を信じるようになる時が本当に来るのです。それはリバイバルが起こる起こらないに関係ありません。私たちがどこに行こうと、その行く先々で私たちが未信者に親しくリーチアウトする時に、相手があなたにキリストを見て信じる、そのような宣教の実が間も無くどんどん起こるようになることを期待したいと思います。(終わり)

 


03 11月

純粋なワーシップの価値    ウエイド・テイラー


純粋なワーシップの価値

 

ウエイド・テイラー

 

真のワーシップは、聖霊によって生まれ聖霊によって導かれます。 今まで一度も一緒に集まったことのないクリスチャンたちが、美しいハーモニーでワーシップし、人々を天の礼拝者たちのもとへといざなう時、それを見た人は彼らはもう何年も一緒に集会をしているのだろうと思うかもしれません。

 

このようなワーシップの流れを生み出すのは、習得した能力の結果ではなく、彼らが主の臨在を尊び、主の臨在に応答しているからであり、 人々の霊を高揚させる聖霊の力が働く結果です。

 

純粋なワーシップは、人々を一つにし、その一致の故に 美しいハーモニーと豊かな表現で人々を高揚させる力を聖霊は人々に分け与えるのです。その時、天が開いて主の臨在が会衆の上に注がれます。またワーシップは、 それが必要とされる時と場合に応じて、 この世の主権や悪霊が働くのを阻んで人々が霊的に解放されるのを助けます。

 

私たちのワーシップは、クリスチャンの集会に啓示の御霊をもたらします。 ワーシップする者たちの上に油注ぎや聖霊の高揚させる力を解き放ちます。主の臨在に応答するとき、私たちは更に清くされ、更に御霊のそそぎを経験し、預言的啓示を受け取ります。

 

歌うワーシップにおいて、美しいハーモニーで全員が歌の流れを生み出す能力は、実は私たちが救いを体験した時に 主への礼拝(ワーシップ)を表現する預言的能力を受け取ったという事と関係があるのです。この「ワーシップの霊」は私たち一人ひとりの奥深くにあって、表現する機会を待っているのです。私たちが主をワーシップし始めるのに必要なものは、それにふさわしい霊的空気といくらかの励ましだけです。

 

「ワーシップ」とは、 純粋な主への敬慕の表現であり、主の臨在の中に留まりたいという私たちの願いをますます強くします。ワーシップは私たちが主の臨在に対して敏感になり、主の御声を察知できるようになる鍵です。 主へのワーシップを忠実に表していくならば、私たちはどんどんと 内住の主の臨在に敏感になり、主の御声をもっと容易く聞き分けられるようになります。声に出してするワーシップは私たちの中にある霊性を成長させるために大変役に立ちます。

 

「プレイズ 賛美」は主がしてくださったことに対する感謝の表現です。礼拝で用いられるドラムは私たちの魂をかき立てるので会衆は興奮して大声を出します。しかし、私たちがワーシップの状態になり静かになった時には、聖霊ご自身がワーシッパー(礼拝する者)を通してワーシップされるのです。そして美しいハーモニーのワーシップの表現が、 もっと高い主の臨在の霊的領域へと会衆を高めていきます。これはドラムのビートがあっては不可能なことです。

 

この「ビート」は私たちを「プレイズ」に引き降ろしてしまいますが、一方、純粋なワーシップは 天の聖歌隊の永遠のワーシップとの合体へと私たちを高めます。サタンはこのことを知っていますが、残念ながらワーシップリーダーで知っている人はほとんどいません。

 

キリストのからだの中には、 様々なレベルの沢山のワーシップの表現があります。 初めてフル・ゴスペルの集会に行ったとき、私は大きな音のプレイズが気になってそこを出たいという思いにかられました。私は「祝福ある静けさ」はよく分かっていたのですが、会衆全員が 解放されて大声で歌いワーシップしているのを聞くのは初めてだったのです。しかし今は、その時主が私をコントロールしてその場に留まるようにしてくださったことを永遠に感謝しています。そして時間はかかりましたが、私もそのように同じ霊的自由と表現をもってワーシップすることができるようになりました。

 

モーセも主の臨在を知り尊んでいました。

 

すると主は仰せられた。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」それでモーセは申し上げた。「もしあなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。」出エジプト33:14−15

 

 

モーセは主の臨在が自分と共にあることを激しく求め ましたが、それはただその時にたまたま起こった感情ではありませんでした。彼の回りに起こる様々な状況や出来事が、主の臨在を熱心に求めさせたのです。

 

モーセは「エジプト人のあらゆる学問を教えこまれ、ことばにもわざにもちからがありました。」(使徒7:22)しかし、彼はエジプトであやまちを犯し、荒野に逃げました。 そこで義父イテロの羊を飼っているとき、神の山に向かっていくことによって自分の人生への神の召しを追い求めたのでした。彼は遠く道をはずれたところに燃えているのに燃え尽きない柴に気づきました。

 

 

すると主の使いが彼に、現れた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は燃え尽きなかった。出エジプト3:2

モーセは燃える柴に気がつくと直ぐに「あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。(3節)」と言いました。彼は主からの招きに素早く応答したのです。これはモーセの内に主の臨在への願望があったこと、そして主の臨在に対する応答があったことを示しています。

 

モーセは主の山にむかって歩いてはいましたが、主が現れた柴はモーセが歩いていた道から遠く道をはずれていた(distance to the side)ことに目を留めてください。これは主が人々からご自分を求められたいと願っておられるからです。主は私たちが主の臨在を願い求めることを示す応答を求めておられるのです。主は、私たちの側から主の臨在を真に求めていることはっきり意思表示をする行動を取るときに、 ご自分を顕してくださることを選ばれるのです。

 

このような主の臨在に対する「霊の態度」は、簡単に持てるものではありません。それは懸命に養い求めていかねばなりません。ワーシップはこの霊的敏感さと主の臨在に対する態度を発達させる鍵なのです。

 

 

「モーセは言った。『何故柴が燃えていないのか。あちらへ行って(I will now turn aside)この大いなる光景を見ることにしよう。』主は彼が横切って(turned aside)見に来るのを御覧になった。神は柴の中から彼を呼び、『モーセ、モーセ。』と仰せられた。彼は『はい。ここにおります.』と答えた。(出エジプト3:3、4))モーセは神に関するもの(神の山)にむかって進もうとしていましたが、 主の臨在を心から求めていたので、この超自然的な現象に進んで応答したのです。 その時は何が起こっているのかを理解してはいませんでしたが、彼は主の御声に従順に従ったのです。

 

私たちは皆、私たちを取り巻くこの世の環境に左右されます。その結果、地上の事柄に関しての敏感さを、程度の差はありますがそれぞれが持つようになります。そして、私たちが「ボーン・アゲイン」した時、永遠の事柄を知り、それに応答する力を受け取ります。 自分が 「新しく造られた者」となったこと、新しい人生のもっと高度な霊的領域に入ったことを、内なる聖霊よって理解するのです。

 

主 はこの世のものを立て上げるだけではなく、私たちを霊的なものへと手引きしたいと思っておられます。このことを深く理解するならば、私たちは価値の低いものの「道からそれて」、 主の御声と臨在にますます敏感になり、永遠のものに目を向けそれに集中するようになるのです。

現在のアメリカの霊的状態は低いので、私たちのワーシップの質を高めることは急を要しています。集会の中に主の臨在が増し加わるとき、霊的に飢え渇いている人たちが主の臨在の顕れに引き寄せられて、私たちと共に主をワーシップするために「道からそれて」来ることでしょう。主の臨在は真に霊的に餓え渇いている者を引き寄せるのです。

 

聖書学校時代に、私は先生の一人であったウオルター・ビュートラー師から非常に重要な霊的法則を学びました。それはとてもシンプルでありながら、とても奥深いものでした。先生は「主はご自分の存在を心から喜び感謝するもの(appreciate)を心から喜び感謝される」といわれました。これは別に特別のことには見えないかもしれませんが、主が大切にされている御思いを表しています。 私たちは皆、人から喜ばれ感謝されたいと思っていますが、主もご自分が喜ばれ感謝されることをユニークに喜ばれ感謝されるのです。主は主を喜び感謝する者にご自分の臨在を与えられるのです。そして ワーシップを通してそれを表す者に対しては特にそうされるのです。

 

 

これが意味するところは、主が私たちの集会で何か特別に働かれたり、主の臨在で私たちを祝福してくださる時には、私たちは主の臨在を喜び楽しんだ後で、 「主よ、あなたはここにおられます。私たちはあなたがここにおられることを知っていること、そしてそれが本当にうれしいことをあなたに知っていただきたいのです。」と十分にお伝えせねばならないということです。

 

私たちの音楽やワーシップ、私たちが集会でするすべてのことは、主の明らかな臨在という次元に入ることを目的としているべきです。私たちは主の臨在に対する敏感さを養うべきであり、それによって主の臨在を認識することができるようになり、いつ「道からそれて」純粋なワーシップの声を高く上げればよいかを感知することができるのです。

 

 

モーセが燃える柴の中の主の臨在に応答して「道からそれた」とき、主は彼に語られ、主の民を奴隷から解放するための導きを与えられました。そしてモーセが民を乳と蜜の流れる土地へと導ける力を与えられたのです。

 

私たちのワーシップの価値は、私たちが考えるよりずっと大きいのです。私たちがワーシップするとき主が介入してくださり、私たちのために働いてくださるのです。そして主は天のワーシップを導く天の聖歌隊を大勢持っておられるにも拘わらず、私たちのプレイズとワーシップに応答し、その中に住んでくださるのです。

 

「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるのです。」ヨハネ4:23

(終わり)