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Walk With God Ministries


29 06月

家族で祈ることの大切さ        坂 達也           2015年6月29日


家族で祈ることの大切さ

 

坂 達也

 

 

 今は既に患難時代に入っていることを、最近ひしひしと感じておられる方は私だけではないと思います。

 そこで皆さんの中で、最近、色々なことで物事がうまく行かない、身体の具合も不調、家庭、或は仕事場で不和、争いごとが絶えない、些細なことから大きなこと迄、どちらを向いても道がふさがれ、障碍に出会う、まるで困難が待ち構えているようだ、悪魔の嫌がらせとしか思えない、と言うような苛立ちを憶えておられる方はおられませんか。

 いや、以上のようなことは患難のうちに入らないことかもかもしれません。ヘブル10:32−34には、一世紀のユダヤ人で真の光であるキリストを知った人たちが、その後どれ程の患難・苦難の中を通されたか、しかし彼らがそれを喜んで耐え忍んだことが書かれています。そのことをヘブル人への手紙の筆者は「あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦い耐えた初めのころを思い起こしなさい。」と言います。彼らは人前でそしりと苦しみを受け、自分の財産まで奪われても喜んで忍んだのです。35、36節に「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」と書かれています。

 はっきり申し上げて、クリスチャンがそのような患難を通るー主によって通されるーのは、主の御心であることは聖書の色々なところに書かれています。ロマ書5:3、4には「・・・患難忍耐を生み出し、忍耐が練 られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す・・」とあり、

又、ヤコブ書1:2ー4には「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じる・・・この忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。・・」とありますから、クリスチャンが患難を通ることの意義と目的はここで明白です。

これこそ、私たち終末に生きるレムナント・クリスチャンが覚悟すべき最も重要な信仰の心構えであると信じます。

 

 終末には大リバイバルが来ると言われますが、最後の時は、私たちレムナントが先ず「初めの愛」すなわち「初めの熱烈な主への信仰」に帰り、リバイブされねばならない時ではないでしょうか。その目的は私たちが最終的に主にあって「勝利を得る者」になるためです。

 黙示録2、3と21章には「勝利を得る者 overcomer 」と言うことばが数度出て来ます。1ヨハネ5:4−5がその「勝利者」とはどのようなクリスチャンであるかを説明してくれています。「神によって生まれた者はみな、世に打ち勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に打ち勝つものとはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」

 しかしそれをよく知っている悪魔は、終りの時が迫っている今、必死になって私たちの信仰を弱め、挫折させようとしています。主はそれをよくご存知です。主に「見込まれて favor を受けている」方であればあるほど、あなたは徹底的に敵にマークされ、敵はこれでもかこれでもかと攻撃の手を緩めません。

 

 そのような時に、私たちが取るべき最も効果的な「勝利の手段」とは何でしょうか。私にとってそれは、たとえどんな困難に襲われても「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて主に感謝しなさい。」(1テサロニケ5:16−18)であることを最近改めて発見しました。患難を絶対に恐れてはならないのです。

 クリスチャンとは初めからキリストにあって「圧倒的勝利者」であるからです。だからこそ悪魔はあらゆる手段と機会を用いてあなたを惑わし、恐れさせ、あなたの信仰をゆさぶります。私たちは一度主を信じたら、たとえ死に至るような罠を敵が仕掛けて来ても「死に至る迄忠実でありなさい、そうすればいのちの冠を与えよう」と主は言われます。私はこのところ色々な患難を憶えておりますが、上記1テサロニケのみ言葉を実行して勝利の喜びを経験しております。

 

夫婦で毎日祈る

 

 私たち夫婦は二人暮らしですが、もうかなり前から、就寝前に二人で声を出して、家族のメンバーのため、あるいは、友人で祈りを必要としている人々を憶えて祈ることを日課として来ました。多くの場合は5分とか10分で終わることが多かったのですが、最近ある時に二人で話し合った結果、夕食後の静まった時間に1時間かけて、二人で「激しく」祈ることをコミットし合いました。それを始めて既に2ヶ月以上続いております。一人が言葉で祈る時、一人は異言で祈ります。又、声を強めて二人で異言ではげしく祈ります。主が祈りを次から次へと私たちどちらかに与えて下さるのです。この夫婦の祈りをするようになって(それは上記1テサロニケ5:17「絶えず祈りなさい。」の実行の一部ですが)、二人で一致して祈れば何事でも必ず聞かれると言う下記のマタイに書かれているみ言葉がうそではないことを体験して本当に驚いております。

 

二人三人が心を一つにして祈るなら、

どんな願い事でも主は聞かれる

 

 マタイ18:19、20に「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(新共同訳)と言う非常にパワフルなみ言葉があります。

 

 先日6月8日に掲載したリック・ジョイナー師の「教会を建て上げ治める」(一)で、師は「私はずっと今までこの聖書箇所を『もし,2、3人という少人数でもイエスの名で集まるならば、そこに主が来て下さる。』という様に解釈していました。でも主は『それは違う。』と言われたのです。そして『もし2、3人以上いるならば、わたしはそこにはいかない。わたしは2人か3人以上はいらない。』と主は言われたのです。」と言っておられますが、私はこれはすごいことを言われると思いました。

 なるほど、神は「父と子」それに聖霊を加えて三人で完全な姿を成しておられるのですから、確かにそれ以上要りません。それに気が付かされ、師の言うことにうなずからざるを得ませんでした。そうであるなら主と私たちは「花婿」と「花嫁」の関係にあり、地上で私たち夫婦が一致して主に祈るなら、神と人間の関係の中で最も基本的で最も重要な「三人」の関係ではないでしょうか。

 私たちはこの夫婦の祈りが聞かれることを今現実に体験しており、ぜひとも皆様にお勧めします。親しい二人の兄弟、姉妹でも友人の関係でも勿論よいのです。

 

家族の関係を大事にする

 

 それに加えて、私たちが学ばなければならないことは人間関係であり、その中でも最も重要で特にクリスチャンが絶対におろそかにしてはならないのは、家族の関係です。1テモテ5:8に「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。」とパウロは私たちに厳しく警告しています。家族のつながりがいかに大切であるか、私たちが先ず「家族の交わり」を重んじなければならないことがこれでよく分かります。

祈りにおいてもそうですね。

 これに関して最近よいお話に巡り会いました。私たちは以前によくこの方のメッセージを掲載しましたが、ビル・ヨントBill Yount 師の最近のお話の中で、彼は家族が集まって祈ることがいかに重要でいかにパワフルであるかに触れております。彼はたとえ家族の中に未信者がいても、未信者の祈りは聞かれないと思わずに、出来るだけその未信者も祈りの輪に加えて一緒に祈るように薦めています。彼は自分の家族の中の未信者に「あなたの祈りも聞かれるのだから一緒に祈って欲しい」と励まし薦め、実際にその人が家族一同の祈りに加わったそうです。その時、ヨント師はその未信者の上に聖霊がとまられ臨在されているのを見たと言うのです。そしてその人の祈りは実際に聞かれたそうです。

 ヨント師は二人、三人が集まる祈りの効果を同じマタイ18:19を引用すると共に、申命記 32:30にある「一人が千人を追い、二人が万人を追う・・・」と言うみ言葉を引用して、二人が心を合わせたら、あるいは家族が皆で祈ればどれほどパワフルな祈りとなるかを強調しておりました。

 家族で未信者の人がいても、その人を祈りに参加させることは、主が喜ばれるのです。例えば、その未信者本人が本当に困った問題を抱えているような時に、家族の祈りに加わるように励ますことによってその人と一緒に祈り、その祈りが聞かれたとなると、その人が主を信じるよい機会につながらないでしょうか。(終り)


22 06月

サタンからの偽物が洪水のように押し寄せる   ランダル・カッター    2015年6月22日


サタンからの偽物が洪水のように押し寄せる

 

ランダル・カッター

 (New Dawn Community Church 牧師, モーニングスター・ミニストリー(リック・ジョイナー師)の長老の一人)

 

 

 洪水がやってきます。それは真理を押し流そうとする(悪魔からの)ものです。調えられていない者たちはその洪水に飲み込まれてしましますが、私たちはそうであってはなりません。

主は去年の11月、このような洪水に注意を向けるようにと私たち夫婦に示され始めました。主はブルーベリー・フェスティバルの季節をよく見張ること重要だと言われました。主が何を言おうとされているのかはよく分かりませんでしたが、私たちは主が語られる時それに聞き従わねばなりませんから、早速フロリダのブルーベリー・フェスティバルがいつ行われるのかを先ず調べました。そして、4月がブルーベリーにはとても重要な月だということが分かりました。それ以上はあまり時間を割いて調べないうちに4月は来て去っていきましたが、特に特別な啓示が与えられることはありませんでした。

しかし、6月になってモーニングスター・フェロシップ・ミニストリーズのカンファレンスがあり、そこで一人の友人と再会しました。彼はブルーベリー農家だったので、主の御ことばに関する洞察を与えてくれると思いました。そこで彼にブルーベリー・フェスティバルについて訊ねたところ、それがブルーベリーの収穫の時期に合わせて行われる販売宣伝のためのものだということが分かりました。更に彼は今年の収穫に関する事情を話してくれたのですが、それによって私たちは主がブルーベリーの季節に注目するように言われた真意を理解することができました。

 

今年フロリダのブルーベリーの収穫は非常によかったそうです。量も多く、形もよく、味も優れていました。フロリダのブルーベリー農家にとって良い年になるように見えました。ところが収穫を市場に出そうとした直前に、チリから劣った品質のブルーベリーが大量に入って来てアメリカ市場に溢れたのです。チリの輸出業者はブルーベリーを特別な倉庫に長期保存し(それは味、品質を非常に劣化させるます)、アメリカでの市場を獲得する好機を待っていたのです。それはアメリカの農家に大きな打撃を与えました。アメリカのブルーベリーに較べてチリのものは劣っていたにもかかわらずです。

今年のブルーベリーの収穫に関する友人の話に私が耳を傾けているとき、主がそれについての啓示を与えてくださいました。それは御国のための戦いに類似しているのです。

 

今キリストのからだの中ではいろいろ良い事が起ってます。キリストのからだが成熟してきている沢山の証拠があります。聖霊は私たちを調えるために大きく働いていてくださいます。神の御国のパン種は教会の中に浸透しています。御国のからし種がこの世の人に日陰を与えるために成長し大きくなっています。(マタイ13:31−33参照)それは主の御国の働き手たちがすばらしい果実を解き放つ時が近づいていることを示しています。その実は収穫量も豊で、見た目も美しく、非常に好ましいものになるでしょう。私たちは収穫の時を期待して待ち望んでいます。

しかし、この神のご計画に対抗して、サタンは市場獲得のためにある策略を用いるのです。品質の劣る偽物を収穫期を狙って市場に溢れさせ、出来る限り多くの人々に害を及ぼそうと企んでいます。幸いなことに、主はサタンのこの策略を私たちに前もって啓示され、私たちがキリストのからだに向かって警告を発することができるようにしておられます。私たちが十分に調えられていれば、サタンの偽りの果実と良い実とは容易に見分けられます。ヘブル5:14には「しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」とあります。サタンからの偽物は経験のない者には良い物に見えるかもしれませんが、義に成長している者にははっきり見分けることができるのです。

 

サタンの策略にだまされる危険があるのは、今まで御ことばの堅い食物をよく噛んで消化して来なかった人たちだけです。すなわち、今の時はこれまでよりずっと餓え渇きをもって御ことばを求めるべき時であるのです。そうすることによって私たちはサタンの惑わしから守られます。使徒パウロは終末におけるサタンの計画を2テサロ二ケ2:9、10で次にように書いています。

「不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるための真理への愛を受け入れなかったからです。」

 

 惑わしの洪水から私たちを守る「真理への愛」は、神の御ことばを食べることによって表されます。サタンに完全に惑わされるのは、真理を愛することを拒否する者たちです。

 

友人と話した時にもう一つのことを知ることができました。フロリダのブルーベリー市場を奪おうとするチリの試みに対してどのように対処しているかを彼は話してくれました。彼はブルーベリーの異なる品種を交配して、もっと大きくて甘くておいしい品種を作りだそうとしているそうです。

彼のこの試みは私たちに霊的に類似するものを教えてくれます。と言うのは、サタンの策略に対抗するには、私たちは今よりもっとよい実を実らせねばならないと言うことです。そのために私たちはもっと熱心に主を求め、主に近づかねばなりません。私たちは違う教派とも喜んで交わり(異種交配)それぞれが強調して持っている鍵となる真理を分かち合い、もっと優れた実が実るようにせねばなりません。それによってレベルの高い御国のまことの実が実るならば、偽物はすぐに分かるようになるでしょう。

 

ブルーベリー農家の友人と話すことによって、私は二つの戦略を得ることができました。

第一に、すべての神の民が更に深く御ことばを学ぶように励ますことです。

今こそは自分にまとわりつく罪や邪魔なものを捨て去り、真理への愛を表す時です。それが霊の敵の惑わしから私たちを守ってくれるのです。

第二の策戦は、主を深く求めて、更に麗しい実を実らせることです。自分が主から学んだことを分かち合い、お互いに学び合うことにより、共により優れた実を実らせることができるようにすることです。

 

今サタンの偽りの業が霊的市場に洪水のように押し寄せる時に近づいています。しかし私たちはこの洪水に勝利できるのです。私たちがいつも神のご性質と力の中に常に入って留まるならば、イミテーションは本物とは比べ物にならないほど色あせるでしょう。またそれ以上に、私たちはこの洪水の正体は何であるかを暴くことができます。

神の御国が生み出す霊の実がますます実るのに対抗するために、闇の勢力が最後の必死の戦いを挑んで来ています。サタンのこの試みは必ず失敗に終らせねばなりません。(終り)


15 06月

教会を建て上げ治める(そのニ)    リック・ジョイナー      2015年6月15日


教会を建て上げ治める(そのニ)

 

リック・ジョイナー

 

 

長老は判断し裁く者

 

長老は、また裁判官でもありました。これは非常に大切なことです。第一コリント6:5でパウロは「いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか。」と嘆いています。今日キリストのからだの中で、このように恥が多いのは、これが第一の原因だと思います。教会で正義が行われていないのです。小さなもめ事でも誰もそれを裁いて仲裁しないのです。

私はある大きなクリスチャンのムーブメントのただ中で起きていた不正を裁くようにと、そのリーダーに言ったことがあります。すると彼は「そのようなことをすれば私たちは訴えられるから、それはできません。」と答えました。彼は天の法廷よりもこの世の法廷を恐れていたのです。権威をもってその状況に正義をもたらすことができなかったのです。

 

皆さん、神の御国とは何でしょうか。

義と公正(righteousness and justice)です。詩編89:14には「義と公正は、あなたの王座の基。」とあります。しかし教会は義の分野においても十分ではありませんが、公正に関してはほとんど何もしていない状態です。

新約の時代、長老はすべて裁判をしました。私たちは義と公正を打ち立てねば御国を来たらすことはできません。人々が訴え出ることができるシステムがなければなりません。マタイ18:15−17を実際に行えるシステムです。これは絶対に教会が放っておいてはいけない問題です。

もし牧師が長老を任命するならば、その人にはっきりした任務と権威の門を与えるべきです。それは教会にとって大きな恵みを解き放つことになります。

 

長老は争いを裁くだけではありませんでした。土地の売買とか結婚や離婚とかを取り扱ったのです。今クリスチャンは公正を得るために何処に行っているのでしょうか。パウロは「小さな争いも裁けないあなたが御使いをも裁けると思うのですか」と叱責しています。神は正義と公正を非常に重く見ておられます。ご自分の子どもたちが公正に取り扱われているかどうかは、神にとって重大な関心事です。皆さんも親として、もし自分の子どもが不正に取り扱われたり誤解されたりしていたらどう思いますか?

 

私はオーソドックス・ユダヤ教のラビの友人を持っています。彼はラビになるために何年もの学びが必要でしたが、それに加えて人々のために裁判ができるようになるために更に8年間の学びが必要でした。彼らは8年間に何を学ぶと思いますか?

それは主を畏れることです。そしてついに任命される時の誓いは、聖書の中にある「公正を行わない者の上にくだるすべての呪い」を暗唱することであり、そのような者にその呪いが下るようにと祈ることです。彼らはそのくらい正義、公正であることに真剣であり、それは神がそういうお方であるからなのです。

 

離婚について

 

オーソドックス・ユダヤ教の中での離婚率は非常に低く、6%です。彼らは離婚を認めています。しかしあるカップルを結婚させたラビは、もしその結婚が破綻するとそれは彼の記録に残り、大きな汚点になるのです。そのラビは破綻をきたすようなものを認めてしまった、というわけです。ですから、結婚が破綻しないように結婚の前に非常に厳しい学びをさせます。契約を破ったときに降り掛かる呪いも学ばせます。二人がしようとしている結婚ということがどれほど重大な契約かを学のです。

そして結婚するのですが、勿論、夫婦間の問題にぶつかります。それは誰でも、どの結婚でもそうです。離婚は不法ではありません。モーセも認めています。離婚をしたいカップルは自分たちを結婚させたラビのところに行かねばなりません。ラビは「わかりました。」と言って、彼らと契約破棄をした時に降り掛かるのろいを勉強するのです。その結果としてほとんどの場合、「離婚はやめます。」ということになるのです。これは知恵だと私は思います。

結婚に問題が生じたとき、彼らが教会から逃げるのではなく、教会に助けを求めに来れるようにせねばなりません。教会を離れているクリスチャンの多くは離婚をした人たちです。彼らは教会には受け入れられないと考えています。

マタイ5:31、32を私はギリシャ語で詳しく調べました。ここで使われている言葉は、「離婚 divorce」ではなく「追い出す sent

away」です。当時のパリサイ人は律法で決められていたにもかかわらず、離婚状を渡さずに妻を追い出していたのです。モーセは妻を出すときは離婚状を渡すように、そうすれば彼女は再婚が出来ると言っています。イエスは当時パリサイ人がしていたこと、即ち離婚状を渡さずに妻を追い出していたことをこの箇所で裁いておられるのです。

 

ある教派では離婚経験のある人がミニストリーをすることを認めていません。私は主にお聞きしました。すると主は「わたしもしたことで人を罪に定めてはいけません。わたしも離婚しています。」と言われました。エレミヤ3:8で、主はイスラエルに離婚状を渡しています。主はやがて再婚されると思いますが、現在は離婚されているのです。

 

安易に外側から人を裁かない

 

私たちは公正を常に求めます。しかし、外側から裁く人たちが正しく裁くことはほとんどありません。問題の状況をすべて把握したならば、彼らも違う結論に達することでしょう。しかし彼らはほんの少しの情報だけで大声で人を裁いてしまいます。そのような裁きをした人たちに、やがて神からの裁きがあることを私は見てきました。神が罪人に対してどれほどの恵みをくださるかを、私たちは決して忘れてはなりません。そして神が自分を義しいとする者に対してどれほど厳しいかを忘れてはなりません。私たちは自分を義人とするよりは、人に恵みを与えるものになるべきです。

しかし真の恵みは、罪を見たときに無視したり妥協したりすることではありません。罪を見たらそれは罪だと認めねばなりません。罪を見たならば、それを放置するのではなく、マタイ18:15−17を実行しなければなりません。神は悔い改めた罪は赦してくださいますが、弁解は赦してくださいません。

正しい公正は人を解放するのです。罪を犯した人はそれを告発され悔い改めなければ解放されません。義と公正が教会のうちに正しく回復されることを祈ります。(終り)


08 06月

教会を建て上げ治める リック・ジョイナー(その一)        2015年6月8日


教会を建て上げ治める(その一)

 

リック・ジョイナー

 

神の御国がやって来ようとしています。私たちはそのための準備をせねばなりません。王のために王道を備えるのです。イザヤ40章にあるように、山や丘を低くし、谷を埋め立てるのです。それは非常に困難な作業ですが、私たちは神のために最高の道を備えねばなりません。

 

コイノニアの必要

教会を表すギリシャ語は二つあります。

コイノニア(親密な交わり)とエクレシア(教会の組織)です。教会を建て上げるために、ほとんどの場合今まではエクレシアが用いられていましたが、それは間違いであったと私は考えます。初代教会を見てみますと、彼らはまずコイノニアを作り、そこからエクレシアが生まれてきています。もしコイノニアなしにエクレシアから始めると、そこからコイノニアを生み出すのは、不可能ではないかもしれませんがとても難しいと思います。その理由は、教会は組織ではなく家族として召されているからです。教会に組織、秩序は必要ですが、まず家族になっていなければそれらはうまくいきません。皆さんは自分の肉の兄弟や姉妹に本当に腹を立てたとしても、その人を家族から追い出すことはしませんね。クレイジーなおじさんがいたとしても、その人がおじさんでなくなることはありません。私は多くの教会やムーブメントを経験してきましたが、真にコイノニアとなっているところは2、3しかありませんでした。教会員の仲がいい所は勿論ありましたが、それは聖書がいうコイノニアにはほど遠いものでした。週に一回会って挨拶をするだけではコイノニアは生まれません。私たちは本当にその気になって意図的にコイノニアの交わりを作っていかねばなりません。

 

第一ヨハネ1:7に「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」とありますが、ここの「交わり」とはコイノニアであり、イエスの血によってきよめられるために必要な交わりです。

 

「ふたりでも三人でも」の解釈

マタイ18:20に「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」とあります。私はずっと今までこの箇所を「もし,2、3人という少人数でもイエスの名で集まるならば、そこに主が来て下さる。」という様に解釈していました。でも主は「それは違う。」と言われたのです。そして「もし2、3人以上いるならば、わたしはそこにはいかない。

わたしは2人か3人以上はいらない。」と言われたのです。これは礼拝に集まる人数のことではありません。初めに2、3人以上いたならば主はそこにおられないというのです。

 

主はこの真理を私のミニストリーに関して言われたのです。私はとても応じきれないほど多くの都市から講演の依頼を受けます。それで私は「その都市にある半分以上の教会が集会に参加するならば」という条件を付けることにしていました。多くの教会の参加を条件としたのです。しかし主はそれに対して「あなたは間違っている。教会の一致はそのように生まれるのではない。先ず二つの教会がわたしの名において一緒に集まることが大切だ。」と言われたのです。二つの教会が一致して主の御顔をあおぎ主を求めるならば、そこに真の絆が生まれ、主が喜んで来て下さるのです。そして次の段階として3つ目の教会が加えられ、更に次々に教会が加えられていきます。その時に主を見失うことはありません。なぜならば、初めに二つの教会が主の臨在のうるわしさを経験したので、教会の数が増えてもその素晴らしさを絶対に失いたくないと決意するからです。

 

私たちモーニングスター・ミニストリーがある都市で教会を始めるときには、そこにあるすべての教会を尊重し、すべての教会と親しく交わりたいと思います。しかし、まず、一つの教会、或いは一つのミニストリーと主にあって交わり、主の臨在を迎えて絆を築くことから始めることが主の御心であると思います。

 

それでは教会内ではどうでしょうか。私は少人数のグループをもっと推進するべきだと思います。例えばとりなし手のグループにしても、何のためにとりなすかによって小さく分けることが出来ます。イスラエルのために祈るグループ、リバイバルのために祈るグループ、というようなしっかりとした目標を掲げるのです。人数が多いよりも、少人数で一致した方が強いのです。その時そこにはコイノニアが生まれることでしょう。そしてそこに主がおられます。

 

軍隊で一番小さなユニットはファイヤー・チームと呼ばれ、3人で構成されています。教会においてもファイヤー・チームを最初のユニットとし、それを組み立てていき、遂には大きな軍隊を形成することができるのです。

 

「小ささは次の大きさだ」という言葉は、このことに当てはまると思います。教会を始めるのに、3人いればよいのです。主がそこにおられるなら、それで十分です。あなたが対処できる範囲で少しずつ人数が増えていけばいいのです。人々は主の臨在に引寄せられて加えられていきます。

 

長老に関して

次にエクレシアについて話したいと思います。コイノニアを基礎としてエクレシアが形成されていくとき、そこに教会運営の知恵が必要となっていきます。

 

新約の教会運営はイスラエルが荒野のいた時、及び約束の地に入ってからの統治を型としています。

民数記11:16に「主はモーセに仰せられた。『イスラエルの長老たちのうちから、あなたがよく知っている民の長老で、そのつかさである者七十人をわたしのために集め、彼らを会見の天幕に連れて来て、そこであなたのそばにたたせよ。..』」とあります。モーセは沢山の長老の中から70人の長老を選んだのです。歳を取っているから長老になるのではありません。

 

約束の地に入ってからの長老の仕事の一つは、町の門にすわって、人々を裁くことでした。町には門が幾つかあり、それぞれの門には役割がありました。その門に座る長老たちはその門の役目を果たしたのです。例えば商人の門がありました。商人たちはその門から出入りしました。その門の長老たちは、商人の出入りをチェックするだけではなく、商品の重さを計ったり品質を見分けたりする能力がありました。町に入れていい商品かどうかもチェックしたのです。そのような権威を与えられていたのです。又軍隊の門もありました。軍隊の位を見分け、敵か見方かを見分けたのです。

 

即ち、すべての長老には決められた役割、仕事がありました。全体的にすべてを管理するのではありませんでした。自分が権威を与えられた門以外のところでは、権威は与えられていませんでした。子どもへのミニストリーに関して全く知識のない長老が、そのミニストリーに対して物を言う権威を持つべきでしょうか。そうではないと私は思います。影響を与えることはできると思いますが、権威は与えられるべきではないと思います。経済やお金の運用に優れた人が教会の経済を任され長老になったとしましょう。けれども彼が何も知識のないワーシップに対して権威を持つべきでしょうか。教会の中の権威がはっきり区別されてないので、すべてが不透明になってしまっています。長老を任命する時は、何のための長老かを明確にし、その人の持つ権威の範囲を決めるべきです。

 

使徒バウロも自分の権威を越えたことはしないと言っています。彼は主から異邦人伝道の権威を与えられていましたが、ユダヤ人伝道の権威は与えられていませんでした。ですから彼がエルサレムを訪ねたとき、人々は彼を使徒として迎えましたが、彼はエルサレムの教会に対しての権威は持っていませんでした。

 

私がモーニングスター以外の教会やムーブメントに行くとき、私はゲストとして歓迎されます。しかし、私はそこにおいて、彼らが私に与えてくれない限り、使徒的な権威は持ちません。

もしも人々が自分に与えられている権威の範囲を守らなければ、キリストのからだは大きな問題にぶつかるでしょう。(続く)


01 06月

クリスチャンに与えられている権威        ベンジャミン・イスラエル• ロビンソン      2015年6月1日


クリスチャンに与えられている権威

 

ベンジャミン・イスラエル• ロビンソン

 

 

マタイ28:16−20

「しかし、11人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしは天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってパプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終りまで、いつも、あなたがたと共にいます。』」

 

 

弟子たちはイエスを礼拝した

 

イエスは復活後40日間、御国に関することを弟子達に教えられました。この箇所では弟子たちがイエスを見たときに彼らは「礼拝した worshiped Him」と書かれています。これは非常にすごいことが起ったのです。弟子たちはこれ以前に主を「礼拝 worship」したことはありませんでした。ナザレのイエスに対してこの行為がなされたことはそれまでなかったのです。盲目のバルテマイをイエスが癒されたとき、彼らは誉め称えました。主が悪霊を追い出し、病人を癒されたとき、又水の上を歩かれたときも彼らは主を礼拝はしませんでした。主が嵐を静められた時、彼らの口から出た言葉は「いったい、この方はどういう方なのだろう。」というものでした。彼らは神学的にイエスはどういう方なのだろうかと思い巡らしたのです。

 

しかし、この山で復活の主に会ったとき、彼らは「礼拝」したのです。それは彼らが主の生きた臨在に触れたということです。主の臨在に触れ主の栄光を見たとき、彼らは反射的に礼拝したのです。「自分たちは何をしているのか」「どういう意味があるのか」と考える前に、彼らは主の前に反射的にひれ伏したのです。

この後弟子たちは、ここで自分たちがしたことをずっと思い巡らすことになりました。新約聖書はこの経験を一つの原点としているのです。私たちが主を礼拝するのは、神学的な結論からではありません。私たちは聖書研究をした結果、「それでは主を礼拝しよう」と思うのではありません。礼拝は反射的に起ることです。もし主が今この部屋に入って来られるならば、たとえ無神論者であったとしても主を礼拝することでしょう。主の臨在にふれた時、反射的に私たちは礼拝するのです。

 

この山で弟子たちは復活の主の栄光に圧倒され、思わず地にひれ伏しました。しかし「ある者は疑った。」とあります。それはある者たちは立ち止まり、これは神学的にはどういう事なのか、と考えたのです。「もし父なる神が神であるならば、そしてイエスも神であるならば、イエスは父なる神なのか、それならば御座には誰がおられるのか、それとも神が一人以上いるのか。神はお一人のはずだが、、、」と。しかし他の者たちはそのように神学を考える余裕もなく、ただ主の栄光に出会い礼拝することしかできなかったのです。後になって彼らはこのことを思い巡らし、そこから三位一体の教義が生まれたのではないでしょうか。

 

礼拝の意味

 

「礼拝 worship」と訳されている言葉は、ギリシャ語では2つあります。ローマ12:1に「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」とありますが、ここの「礼拝」にはロトレイヤという語が用いられています。これは奉仕、祭司の務め、主に捧げた人生、私たちが生きた供え物として主に仕えることであり、即ちそれが礼拝、ロトレイヤなのです。

 

もう一つの源語はプロスクネイヨで、これはヨハネ4:23−24でイエスが言っている言葉です。

「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」ここで言う礼拝とは神の御前にひれ伏し拝むことです。霊とまことによって心のうちから神を崇めひれ伏すことです。御父はこのような礼拝者を求めていると主は言われます。

マタイ28:17の「礼拝」はこのプロスクネイヨです。「そして、イエスにお会いしたとき、彼らはプロスクネイヨした」のです。彼らは地にひれ伏し、全面的な崇拝、服従、忠誠を表したのです。

 

復活の主の権威

 

イエスは弟子のその姿を見て、先ず「わたしは天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」と言われました。権威とは力を行使する権利です。もしあなたがすごいスピードの出る車に乗っていたとしても、制限速度以上で走ることは法律上できません。イエスは力(デュナミス)を持っておられましたが、今までは「いっさいの権威」は与えられていなかったのです。

人として地上で歩かれた時のイエスを見ると、常に神の力に満ちておられましたが、そのミニストリーは幾つかの点において力の行使を制限されていました。主は父のなさることを見てそれだけをされました。マタイ10章では弟子たちに汚れた霊を制する権威をお授けになりましたが、「異邦人の道に行ってはいけません。イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。」と言われました。イエスの3年半のミニストリーはほとんどガリラヤ地方に限られていました。イエスの権威は地理的にも制限されていたのです。

 

しかしながら、復活の主は「天でも地でもいっさいの権威がわたしには与えられている」と言われたのです。主は「わたしの力を行使するための権威の制限はすべて取り払われた」と宣言されたのです。車の制限速度は取り払われたので、主は全速力で全世界に力を表すことができるのです。弟子が主と会ったとき、それは今までとは違う権威に満ちた主であり、彼らはその顕在にふれて即座にひれ伏したのです。

 

私たちの使命

 

つぎに主は「それゆえ、あなたがたは出て行って」と言われましたが、「それゆえ」とは、前述したことを理由として次のことをしなさい、という意味です。「行きなさい」というイエスの命令は、「わたしには天でも地でもいっさいの権威が与えられています」という事実により、「それゆえ」あなたがたは出て行きなさいということです。そしてそれはイスラエルだけではなく、「あらゆる国の人々を弟子とするため」なのです。イエスは弟子たちにご自分の権威を与え、ご自分の代理人として送り出しておられるのです。

 

創世記1:28で神はアダムとイブに「生めよ、ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」と言われましたが、イエスは「すべての国々に出て行って人々を弟子とせよ。」と言われます。アダムとイブは肉の子どもを生み地を治めましたが、私たちに与えられた仕事はすべての国々に出て行って霊の子どもである弟子を生み出すことであり、これはすべてのクリスチャンに与えられた命令です。

牧師、伝道者、使徒、預言者、教師とかだけではなく、すべてのクリスチャンがこの命令を受けているのです。

 

 

私たちの多くは、イエスの大宣教命令が自分に与えられたものであると自覚していません。その理由は大宣教命令を次の4つに限定し非常に狭義に解釈しているからです。

1.路傍伝道をする

2.牧師になる

3.宣教師になる

4.教会の伝道活動を助ける

勿論、これらは非常に重要な働きであり、もっと多くの人がこのような働きをしてほしいと思います。

 

自分が置かれている場所での伝道

 

しかし、これらをしていないと自分は大宣教命令を実行できないと思う必要はありません。まずこの命令は自分にも与えられていることを信じ、自分の今置かれている場所で何ができるかを主にお聞きするのです。あなたにしか出来ない伝道の仕方、伝道の場があるのです。あなたの仕事の場がそのまま伝道の場です。牧師が行く事ができない場所も沢山ありますし、出会えない人も沢山いるではありませんか。

 

ここに座っているジェイソンはモデルの仕事をしていますが、先月ニューヨークの大きなショーに出演しました。その時一緒に働いていた女性のモデルと話をしていたのですが、聖霊の助けにより彼女に預言をしたところ、彼女は涙を流しイエスを主と受け入れたのです。そこにワーシップ音楽が流れていたわけでもなく、彼がトラクトを持っていたわけでもありません。彼はただ神に福音を伝える機会を与えてくださいと祈り、神が扉を開いてくださったのです。それは無理やりな形式的なものではなく、神の御手の中で自然に起ったことです。ハレルヤ!!

 

19節の「それゆえ、あなたがたは行って、」という「go」というギリシャ語は、行き続ける、という意味です。あなたは行き、行き続け、行き続けながら、即ち日常生活をしながら、その時、その場所で大宣教命令を果たしていくことができるのです。あなたがどのような仕事をしていたとしても、それは出来るのです。

 

弟子の作り方

 

イエスはここで弟子を作る方法も言われています。

ステップ1:父、子、聖霊の御名においてバプテスマを授ける。このバプテスマということばは原語バプテゾの音訳ですが、「浸す」という意味です。そしてそれはただ水の中に入れるということではありません。「御名」とは父、子、聖霊の存在そのもの、臨在です。人々を救いに導きたいならば、まず神の臨在に触れさせねばなりません。ジェイソンは神の臨在を持ち運び、女性のモデルはそれに触れたのです。

 

ステップ2:すべてのことを守るように教える。私たちはステップ1を抜かしてステップ2をしてしまう間違いを犯しがちです。タバコを吸うな、酒を飲むな、というだけで、もしイエスの臨在を与えないならば、ただの宗教です。私たちがイエスという真珠を与えるならば、彼らはすべての持ち物を売リ払ってその畑を買うでしょう。

 

私たち一人ひとりがこの大宣教命令を受け取り、自分の持ち場で実行していく権威を頂いていることを忘れないようにしようではありませんか。(終)