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Walk With God Ministries


20 06月

輝く聖さ    フランシス・フランジペイン           2017年6月20日


輝く聖さ

 

フランシス・フランジペイン

 

 

キリストが私たちの内に入られた瞬間から、私たちは聖いもの(holy)、神のために選り分けられたものとなりました。この種の「聖さholiness」は、神殿で用いられる器具が持つ「聖さ」と同じであり、それは主のために用いられる故に聖いのです。器具自体にはなんの徳もありません。材質が変化したのでもありません。主に仕えるという意味において、キリスト教は「聖い」と言えるでしょう。しかし私たちが追い求める聖さは、ただ「選り分たれている」というだけではなく、そのような者として成熟し完成することです。私たちが求めるのは、天の御父の臨在が自分を通して映しだされるような聖さです。私たちは御父のご性質とその素晴らしいいのちの両方を追い求めているのです。

 

真の聖さは、私たちの内に聖霊のいのちを実際に生み出すものですから、聖霊がどのようなお方であるかをまずはっきりと知る必要があります。神の御霊は愛であり、宗教ではありません。神はいのちであり、儀式ではありません。聖霊は、私たちが異言を語ったり証しできるようにするだけではありません。聖霊は私たちをイエスの御前、イエスの臨在へと導いてくださるのです。そこにおいて私たちはイエス・キリストと結び合わされ交わることによって聖さを受けとるのです。

繰り返しますが、私たちが求める聖さとは、一連の規則や律法を守るということではなく、キリストご自身が持っておられる素晴らしいいのちです。聖霊は私たちの内に働いて、私たちがもっと人を愛したいという新たな願いを起こさせるだけではなく、まさにキリストご自身の愛を私たちに分与してくださるのです。私たちは普通に言うところの「イエスを信じる信仰」以上のものを持ち始めます。私たちは、実にイエスが持たれる信仰のレベルと質をもって、イエスと同じように信じ始めるのです。私たちを聖くするのは、私たちの内におられる神です。小さな止まり木に満足気に心地よく座っていた私たちを揺すぶり振り落としてもらいましょう。そうすれば私たちは大きなおののきと大きな喜び、深い礼拝と聖なる畏れをもって、ご自分の意志と目的のために私たちを引き寄せてくださった神のリアリティーへと近づくことができるのです。

 

第1コリント3:16に「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」とあります。神の御霊が私たちのうちに住んでおられるのです。これに照らし合わせて、古からの「人とは何者なのか?」という問いかけを再び考えてみようではありませんか。私たちは自分が他の人々にどのように映っているかは分かっています。でも、もし神が本当に私たちの内におられるならば、天使や悪霊にはどのように映っているのでしょうか? 霊の世界で私たちはどのような光を放っているのでしょうか?

私たちの周りはどのような色の輝きがあるのでしょうか?

目に見えない霊の世界に向かって、「見て心せよ。神の子が今ここに来た。」と布告するのはどのような栄光の輝きなのでしょうか?

考えてみて下さい。初めに創造主はご自分の姿に似せて人を造ろうと思われたましたが、そのお方の御霊があなたの内に、今、おられるのです。

 

「聖さ」とは光に満ちたからだ

 

聖くなるためには制限があります。条件があります。あなたは二人の主人に兼ね仕えることはできません。光と闇に、罪と義に、自分と神に、同時に仕えることはできません。光があなたの内にあります。しかし闇も又、あるのです。私たちの世界は暗やみの世界です。私たちの先祖は暗やみの子らでした。私たちの肉の思いは、いまだに暗やみが活躍する舞台になっています。選択を迫られる世界で私たちは光を選び取らねばなりません。「光の大人として完全に成熟したいならば、誠実で二心のない者でなければならない」とイエスが教えられた理由がここにあります。「からだのあかりは、あなたの目です。目が健全(純真 誠実 二心がない)なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。(ルカ11:34)」と主は言われました。

 

もしあなたが自分の意志と思いを神に集中するならば、あなたの全身は光で満ち、あなたの内におられる神の栄光を完全に表すことができるのです。しかし、もしあなたに二心があり、罪や悪の思いに留まり続けるならば、あなたの光は徐々に暗くなり、遂には暗やみで満ちてしまいます。イエスは「だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。(ルカ11:35)」と警告されています。

 

自分の救いに関して何もせず、神を求めず、神に従うことを拒否するならば、あなたは闇の中にいるのです。「まあ、いつか自分は何となくそれなりに良くなっていくだろう」というような、当ての無い希望で自分を慰めるのをやめてください。決意という武具で身を固めてください!

もしあなたの光が闇の中に埋もれているとしたら、その闇はどんなにか恐ろしいことでしょう。光の子たちよ、あなたがたは闇を憎まねばなりません!闇は地獄の実体です。それは神の存在しない世界なのです!

 

しかし、私たちの望みは闇ではなく光です。あなたの足は義人の道を歩いています。その道はますます輝きを増して真昼のようになるのです。ルカ11:36に「もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。」とあります。この節は「聖さ」が完全になったときの姿を明瞭に示しています。即ち、私たちのからだはあかりが輝くように栄光で輝くのです。これは途方もなくすばらしい希望ではありませんか。私たちのからだ全体が神の臨在によって輝き、暗い部分が全くなくなるというのです。

霊的に成熟した者、あるいは神の聖者のためには、光と栄光に輝く衣が用意されているのです。それは変貌の山でイエスが着ていた衣と同じものです!それは永遠の中でだけまとう輝きではなく、今ここで、即ち「曲がった邪悪な世代のただ中で」「世の光として輝く」ことです。(ピリピ 2:15、16)

 

エペソ5:8「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」

今、あなたは光のこどもです。これは単なる比喩ではありません。神の栄光があなたの内とあなたの周りにあるのです。それが霊的なリアリティーです!

ではあなたのうちにまだ残っている暗やみはどうなるのでしょうか? パウロを続けて言っています。

エペソ5:11、13「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい...けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。」

 

あなたの暗やみを隠さないで、明るみに出してください。暗やみの言い訳をしないで、告白してください。憎んでください。断ち切ってください。なぜならば、暗やみがそのまま闇の中に留まっている限り、それはあなたを支配するからです。しかし暗やみを光の中に持ち出すならば、それは光となります。今まで隠していた罪を持って神の恵みの御座に大胆に進み告白するならば、神はすべての罪からあなたをきよめてくださるのです。(第一ヨハネ1:9)あなたがもし再び罪を犯すならば、また悔い改めてください。あなたの中で罪の習慣がなくなるまで何度でも悔い改めてください。

 

昔鉱山の山元がしたように、あなたは神の御国でしっかりと自分の領域に杭を打ち、あなたが権利を有する天国の純金を守る備えをせねばなりません。(黙示3:18参照)

そしてあなたが恵みの御座の前にずっと留まり続ける時、炉の上の熱い石炭のように、何か永遠なるものがあなたの中で輝き始めます。そしてあなたが全能の神と時を過ごすとき、神の臨在の聖なる火が、あなたの今までの人生の木やわら、草を焼き尽くすでしょう。イエスが持っておられたような力があなたの一番奥深い部分に宿るでしょう。天使たちは畏敬の念をもって見守り、あなたの金は精錬され、あなたの衣は光となり、あなたの人生は聖くなります。(終り)


19 06月

キャサリン・クーマンの夢  ポール・キース・デイビス     2017年6月19日


キャサリン・クーマンの夢


ポール•キース•デイビス(ホワイトドーブ・ミニストリーズ)

 


先週末に見た夢の話をしたいと思います。多くの場合、私が朝、目を覚ます直前に見る夢は、目的とメッセージを持っているようです。その夢はキャサリン・クーマンの夢でした。キャサリーンはご存知のように癒しや預言で大きく用いられた器ですが、私は彼女のミニストリーによって長年、沢山の事を学ぶことができました。夢の中で、彼女は一人で話していましたが、2つの要点がありました。それをお分ちしたいと思いますが、その前に少し説明をさせてください。
4年ほど前のことですが、いつものように私は静かに主を待ち望んでおりました。自分の魂を静めて、聖霊に耳を傾けていたとき、ある声を聞きました。「今あなたが信じていること、重要だと思うこと、あなたという人間の形成に最も影響を与えたミニストリーは何ですか?」という問いでした。答えはすぐに私の頭に浮かびました。「ウイリアム・ブラナム、アレクサンダー・ダウイー、キャサリン・クーマン、マライア・ウッドワース・エタ、ジョン・G・レイク、A・A・アレン」と私は6人の名前を挙げました。するとその声は「彼らの名前には何文字ありますか?」と聞きました。
私はそんなことは考えたことも無かったのですが、一つひとつ数え始めました。「William Branham...14文字。Alexander
Dowie...14文字です。Kathryn Kuhiman...これも14文字」私はこれは面白いと思い始めました。次はMaria
Woodworth Ettaの番でしたが、私は「これはいくら何でも長過ぎる」と思ったのですが、私の内の声が「わたしが彼女を召したとき、彼女はまだMaria Woodworthでした。」と言ったのです。するとそれは14文字であり、私はショックを受けました。次はJohn G.Lakeでしたが、Gが何の頭文字かを知らなかったので調べたところ、Grahamであることがわかりました。John Graham Lakeもやはり14文字でした。最後のA. A. Allenも調べてみると、Asa Alonso Allenであることが分かり、これもまた14文字だったのです!

彼らの名はすべて14のアルファベットからできていることが分かったのですが、これは私にとってとても意味深いことでした。(これについてはまたいつかお話したいと思いますが、例えば使徒パウロのミニストリーは14という数にとても関連していると思います。)とにかくこの事実は私が今まで考えもしなかったことであり、驚きでした。
この6人はそれぞれが神の御性質の一つの面を表していると思いますが、それは私にとって特別に興味深いことであり、神は私の信仰が形成される過程で彼らを用いられ、終末の時代に何を語るべきかを示してくださったのだと思います。

さて、キャサリン・クーマンから夢で語られたことの第一は、祈りの生活に関してです。彼女について研究し始めたとき、彼女が「私のベストフレンドは聖霊です。」と言ったことばに私は衝撃を受けました。私はそれに関していろいろと学んだのですが、彼女は絶え間ない聖霊との交わりに中で生きていたということです。パウロは「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり(fellowship of the  Holy Spirit)があなたがたすべてとともにありますように。」(2コリント13:13)と言っていますが、彼女は実際にそのような聖霊との絶えざる交わりの中で生きていたのです。それは一体どのようなことなのでしょうか。
ある時彼女は「癒しの大集会の前にあなたはどのくらい祈るのですか?」という質問を受けました。人々は、そのような集会の前には彼女はきっとどこかに閉じこもって2、3時間くらい異言で激しく祈って油注ぎを求めるのではないかと、想像したのでしょう。けれども彼女の答えは「いつも以上に祈るということはありません。」というものでした。それは祈りの力を信じないからではなく、彼女が絶え間ない聖霊との親しい交わりの中にいたからなのです。オクラホマ州タルサの集会の後で、オーラル・ロバーツ師が彼女のところに来て、「集会で力を出しきってお疲れでしたら、外に食事に行かなくてもいいですが...」と言うと、「大丈夫です。私はこのような油注ぎの中でいつも暮らしていますから。」と答えたそうです。

絶え間ない聖霊の臨在の中で生きている人がいるのだという事実は、私に衝撃を与えました。イエスはそのように生きておられました。そしてそれが私たちのお手本です。御霊が鳩のように天からくだって、この方の上にとどまられるのを私は見ました。」とバプテスマのヨハネは証言しています。(ヨハネ1:32)

少し前に主はご自分の祈りの生活についての私の理解を正してくださいました。人間的な考えから、私は次のように思っていました。「主は一日中、多くの病人を癒し、教え、説教し、悪霊を追い出して長時間ミニストリーをした後で、『主は夜通し祈られた』と聖書に書いてある。なんという献身であろうか。」と。しかし主が言われました。「あなたはわたしの祈りの生活について大きな誤解をしています。御父のもとに行き、祈ることはわたしにとって労働ではなく、報酬なのです。わたしはその時を一日中待ち望んでいるのです。」と。そして私は短い幻を見せられました。それは主が弟子たちから離れて荒野に出て行かれ、御父の臨在の中でご自分を解き放たれている姿でした。それは確かに「祈り」でしたが、又同時に交わりであり、臨在の中での豊かで親しい語り合いでした。リフレッシュの時であり、イエスの肉体が回復される時でした。又、御父との交わりの中で豊かな啓示が与えられる時でした。

私の祈りの生活とは、労働や責任ではなく、喜びであり、生き方そのものであり、絶えざる聖霊との交わりの中で一日を過ごすことだとわかりました。勿論私がそこに到達したわけではありませんが、目標はそこにあります。私がキャサリン・クーマンの生き方から学んだことの一つは、彼女がそのような主にある生き方を発見し会得していたということです。彼女はそのような主との絶えざる交わりという祈りの生活を求めるようにと、夢を通して私を励ましてくれたのです。主からのそのような招きが私たちすべてに今与えられていると信じます。

さて、夢の二つ目のポイントですが、彼女は特有の大きな身振りで力を込めて「あなたは御ことばを食べねばなりません!それからそれを口から吐き出すのです!」と言いました。その瞬間、私は目を覚ましました。彼女が言った意味を私は知っていました。黙示録10章で、ヨハネは巻き物を見せられて「それを取って食べなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。」と御使いに告げられました。ヨハネがそれに従ったとき、「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。」と御使いは言いました。ここで言っているのは、あなたは何かを食べたならば、それは口に留まるのではなく、腹にまで入らねばならないということです。主はこれから時代、私たちが語ったり、説教したり、預言したりするときは、頭から言葉を出すのではなく、腹から出さねばならないと言っているのです。主が求めておられるのは、もっと沢山の「説教者」ではなく、「メッセンジャー」なのです。もっと多くの「説教」ではなく、「メッセ—ジ」を求めておられるのです。

夢の要点の#2は要点#1と密接に関係しています。あなたが#1の生活をするときに聖霊があなたのベストフレンドとなり、#2が可能となります。あなたはイエスの啓示を食べ、それは腹にまで入り、それが預言となりあなたの口から出るのです。あなたはすべての人に読まれる生きた書簡となります。
この2点は非常に重要であると私は信じます。私たちにとっての鍵であり土台です。来るべきことを悟ることができるのです。あなたの語ることは生きた言葉となります。油注ぎの中から生まれている言葉です。単に暗記した言葉とか、学んだ言葉ではなく、あなたの命の中から出てくる啓示の言葉です。「預言」をあらわすヘブル語には「吐き出す」という意味もあります。終末に関する神の奥義を、聖霊との絶えざる交わりの中で受け取り、それを吐き出すのです。これは皆さんのデスティニーでもあります。神の恵みにより私たちはそのように24/7過ごすことが可能です。
イエスが御父の臨在の中でご自分を解き放たれたように、私たちも神の臨在の中に生きるとき、変革されて行き、神の生ける言葉を預言するようになるのです。(終り)


13 06月

恵みの御座に近づく      リック・ジョイナー           2017年6月13日


 

恵みの御座に近づく

 

リック・ジョイナー(モーニングスター・ミニストリーズ)

 

 

ヘブル4:14−16

「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

 

 

神の御座は威厳に満ちた神聖な場所ですが、私たちには、ご自分には罪が無いにもかかわらず私たちの弱さに同情してくださるイエスという大祭司がおられます。イエスが十字架につかれて私たちの罪の代価を支払われたのは、私たちをその罪に定めるためではありませんでした。主は私たちが神と和解できるように十字架についてくださったのです。ですから私たちは必要な時はいつでも神の荘厳な御座の前に進み出るならば恵みを受けるであろうと言われているのです。

 

もし「福音」に何か欠点があるとすれば、それは福音があまりにもすばらしくて本当とは思われないことでしょう。恐れ多い万能の神が、このように親切で、情け深く、優しいことがどうしてあり得るのでしょうか?

神はあまりにも善き方、すばらしい方であるので、私たちがそれを理解し受け取るのは難しく、通常、少し時間がかかるものです。神の赦しを受けるのがそれほど簡単であり、しかも受けるために私たちがすることは何もないことを理解するのは難しいのです。私たちの完全な赦しのための代価はすでに支払われたのであり、もしまだ私たちが何か支払わねばならないと思うならば、それはイエスの生け贄が十分ではなかったと言うことになります。

 

多くの人が「神の憐れみは受けたいが、神の裁きはいらない」と言います。しかしながら、神の憐れみは、神の裁きがある故に確固たるものとなるのです。つまり、神の裁きにより罪の結果は死であると確立され、そしてイエスは、死ぬべき罪は無かったにもかかわらず、私たちの罪の代価として私たちに代わって死なれたのです。もし私たちが自分の罪のためにまだ何か支払う必要があるというならば、それは不当なことであり、御父がイエスの生け贄を十分なものとして受け入れなかったことになります。

 

ですから、私たちは罪を犯したときも、正しく歩んでいた時と同じように神の御座の前に大胆に進むことができるのです。自分自身の義ではなく、イエスの血潮と主の代価によって御前に進むのです。私たちがイエスの義の衣をまとって御座の前に行くとき、御父が見られるのはイエスの義だけであり、私たちは、それが良い日であっても悪い日であっても、神の目には完全に清い者として映るのです。

主の御前に進み出る力は、自分がどれほどうまくやったかに基づくのではなく、「イエスの十字架は私たちの罪や過ちを覆うのに十分である」という単純な信仰によるのです。私たちが大胆になれるのは、イエスが達成されたことによるのであり、自分が何をしたか、しなかったかによるのではありません。主の臨在の前に行くために自分が完全になるのを待つ必要はなく、主の臨在によって私たちは完全にされるのです。

 

イエスが水の上を歩いているのをペテロが見て、舟をおりて主と共に水の上を歩いた時、イエスから目を離さない間だけそれが出来ました。波を見た途端、ペテロは沈み始めました。私たちも、自分の古い罪の性質(罪の世界で生きている結果のすべて)の絶え間ない葛藤の中で、それと同じことをするのです。私たちがイエスに目を注いでいる間は、自分の古い性質や人生の試煉という波の上を歩くことができます。もし私たちが葛藤(波)に焦点をあて始めるならば、沈むのです。

 

ですから私たちは御座の部屋に傲慢な態度でずかずかと入って行くのではなく、感謝のこころで入るのです。私たちは「感謝しつつ主の門に(詩編100:4)」入るのです。このような偉大な憐れみと偉大な恵みに感謝しないでおられるでしょうか?

大胆なへりくだりは、主と主がしてくださったことに対して大胆になることです。私たちの大胆さは、私たちの主への信仰を反映するものです。

 

 

次に黙示録に書かれている御座について考えてみましょう。

黙示録5:1−5

また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。また私は、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて、「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか。」と言っているのを見た。しかし、天にも、地にも、地の下にも、だれひとりその巻き物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もなかった。巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」

 

イエスの他には天にも地にも開くにふさわしい者がいなかったというこの巻き物は何なのでしょうか? 七つの封印とは何でしょうか?

ヨハネが神の御座の前で起こったこの重要な出来事の場に何故いたのか、そして何故イエスだけが巻き物を解くことができたのかを理解する必要があります。

 

ヨハネはこのヴィジョンの中では預言者という立場だけではなく、とりなし手でもありました。詩編115:16に「天は、主の天である。しかし、地は、人の子らに与えられた。」とあります。主は私たちの必要を私たちよりよくご存知です。しかし、主は地に対する権威を人類に委任されたので、私たちが願わなければ地のことはされません。それでヨハネはここでとりなし手の役割をし、巻き物を開く者がないので泣いていたのです。地を代表するものが巻き物を開きたいと願わねばならなかったのです。そして巻き物を開くにふさわしい者、即ちユダ族のしし、ダビデの根、イエス、がいるという啓示が与えられます。

 

私はある時、霊で御座の前に上げられ、私の友人に対して向けられた主の怒りを目の当たりにしました。主は彼が重大な罪を犯しているにもかかわらず悔い改めないので、彼の命を取ると言われました。私は主にもう一度チャンスを下さるように懇願し、主はそれを聞き届けてくださいました。

 

私はその友人をとりなすためにこの経験を与えられたことは分かりました。しかし、とりなしは祈り以上のものです。私は彼の人生がどのような罪に捕われているのかを見つけようと決意しました。それはすぐに判明し、そこから彼の回復への長い道のりが始まったのです。

 人生の一番の目的は主の祭司となることです。これは新約のクリスチャンへの召しです。もしヴィジョンで、又は実際に何かを見せられたならば、その啓示の目的はとりなしのためであることがほとんどでしょう。とりなしは、落ち込んだ罪の罠から人々を助け上げたり、落ち込まないようにして、問題の解決のために実際に手助けをすることもあるのです。

 

私の経験では、人を罪の中から救ったり罪に堕ちないように助けようとして成功した時よりも失敗した方が多かったように思えます。このことで私が落胆していた時に、主が主の記録を見るようにと促されました。主はすべての人のために死なれたのに、多くの人はその救いを受けないで罪の中に留まっているようでした。これは「失敗」のように見えるかもしれませんが、今は理解できない多くのことは、これからの時代に解決していくのです。ですから主が私たちに求めておられるのは従順であり、成功したかどうかは主だけが本当に知っておられるのです。

 

ハイディ・ベイカー師は、今最も偉大な宣教師の一人だと思います。彼女はチョクトウ・インディアン居留地での伝道集会において回心したのですが、その集会での回心者は彼女唯一人でした。当然ながらその時の伝道者は、「今日主に出会ったのは15歳の女の子1人だけだ、この伝道集会は情けない失敗であった」と感じたことでしょう。しかしながらその一つの回心の故に、数えきれない人々が主のもとにきて、ハイディの人生から大きな影響を受けたのです。

 

使徒パウロのことを考えてみてください。彼は主の死と同じ姿になることを祈りました。そして主と同じように死にました。彼の友人のほとんど全ては去っていき、人生を捧げて建て上げた教会のほとんどが背教に陥ったのです。彼の死刑が執行された日、彼は「自分は主のために何か成し遂げたことがあるのだろうか」と思ったかもしれません。しかし、彼の幾つかの書簡を通して、彼はいまも永遠の命の実を集め続けていることでしょう。それはその後に起こったすべてのミニストリーよりも多くの実なのです。

 

自分の人生がどれほどの実を結んだかを、生きているうちに判断することはほとんどできません。私たちの目標は、ただ主に従順であるということでなければならないのです。(終り)


06 06月

預言的な夢の役割       ジェイムス・ゴル             2017年6月6日


預言的な夢の役割

 

ジェイムス・ゴル(エンカウンターズ・ネットワーク)

 

 キリスト教の伝統の中で、夢は当初から大切な役割を果たしてきました。夢の解き明かしはユダヤの歴史の中に深く根ざしています。夢が語ることや啓示の豊かな遺産が、長い歴史を通して継承されてきたことを今日はお話ししたいと思います。

まず、神が昔からずっとされて来て、現在でも何ら変わってはいないことを見てみたいと思います。それは夢という言語です。ーこの言語によって何かが語られるーそれは神が私たちの人生に介入されるための、古からある神秘的な方法の一つです。私たちが安心している領域に神は夢を通して侵入してこられます。神は夜の間に私たちを訪れて話しかけられるのです。

夢やヴィジョン、そしてそれらの解釈は、世界のほとんどすべての文化や宗教に含まれる要素であり、それは人類の長い歴史を通して行われてきました。そして他のどの宗教よりも、ユダヤ教とキリスト教においてそれは最も顕著であったのです。その理由は、ユダヤ人やクリスチャンが啓示の創始者である一人のまことの神を礼拝するからです。

夢を霊的啓示や神からのコミュニケーションの正当な媒体として受け入れるためには、教会史を含めて世界の歴史の流れを調べる必要があります。夢の解釈にはどのような歴史があるのでしょうか?

 

初期教会の夢の遺産

 

旧約時代のユダヤ人にとって神からの夢は重要な役割を果たしていましたが、それは新約時代においても同じでした。例えばマタイは、イエスの誕生から幼少時代にかけてヨセフが4つの夢を見たことを記録しています。又、博士たちがヘロデのところに戻ることを禁じた夢のことも記録しています。

 

また使徒行伝でルカは、サウロ(パウロ)がダマスコ途上でイエスのヴィジョンを見たことや、サウロの視力を回復させるために遣わされたアナニアの夢について記しています。ルカはまた、アナニアの来訪を予めサウロに告げた夢のことにも言及しています。それから数年後にパウロに与えられた夢は、彼がヨーロッパ大陸に福音を持ち運ぶ切っ掛けとなりました。シモン・ペテロとローマの百人隊長であったコルネリオは共にヴィジョンを受け、その結果ペテロがコルネリオの家を訪れることになりました。そこでペテロはコルネリオや彼の家族、友人に福音を語りました。

 

使徒たちが死に、新約聖書の時代が過ぎた後、始めの数世紀の教会のリーダーたちは、夢やヴィジョンが人間と交信するために神が用いられる正当な手段であることを信じていました。彼らの多くは夢やヴィジョンに対する肯定的な意見を著しており、中には自分の個人的な夢の経験を記録している人たちもいます。

スミルナの司祭であったポリカープは、使徒と同時代に生きた人であり、使徒から按手を受けましたが、信仰のためにA.D.155年に殉教しました。その少し前、彼は祈りの中で、自分の頭の下の枕が燃え始めるヴィジョンを見て、それは自分に迫っている死を神が予告してくださったのだと悟りました。

 

教会史上の例

 

最初のクリスチャン哲学者であったジャスティン・マーターは、夢は様々な霊から来ると信じていました。彼は「人間の魂は肉体の死後も生き続ける」という自分の信念を論証するためにそれを用いました。そして夢は「目に見えないリアリティーとの直接的な霊的交信」を私たちに与えると言っています。

2世紀後半、フランスのリオンの祭司であったイレナウスは、ジャスティン・マーターと同じく、夢は霊的な世界を啓示するものだと信じていました。「Against

Heresies」は現存している彼の主な著書ですが、その中でイレナウスは、新約聖書のヨセフ、ペテロ、パウロの夢を厳しく詮索した結果として肯定的解釈を与えています。

アレキサンドリアのクレメンテは、初期教会で最も優秀な頭脳を持った者の一人でしたが、彼は、真の夢は「魂の奥深いところ」から立ち上るものであり、「霊的リアリティーをあらわすもの、神との魂の交わり」であると信じていました。クレメンテは「眠り」は人が神からの啓示に特別に心を開く時と考えました。夢は神から受けたデスティニーへの洞察を人に与えることができるのです。

 

タータリアンは3世紀の力ある著者であり信仰の擁護者でしたが、彼は夢は神からの霊的賜物の一つであると考えました。彼はまた、初代教会の人たちと同じように彼の世代の人々にとっても夢は重要で意味のあるものだと信じました。そして夢は次の4つのどれかから来ると考えました。即ち、悪霊、神、人の魂、そして「夢見心地になったときの特殊な状態」です。

 

教会史上最も偉大な神学者の一人であるアウグスチヌスは、霊的な夢の正当性と価値を堅く信じていました。彼は、人は外と内で受け取る実際的なリアリティーに加えて「自律性霊的リアリティー(例えば天使や悪霊を霊的目で見ること)」を受け取ることができると信じていました。彼の著作には彼自身や他の多く人々の夢やそれについての議論が数多載せられています。彼が神から離れていた時、母親であるモニカは彼がキリストのもとに来る日が必ずあるという保証と慰めの夢を主から受けました。それは非常に興味深い夢の話の一つです。

 

トーマス・アクイナス(アキナス)は、アウグスチヌスと対抗した中世の神学者ですが、彼は人の知識の唯一の源は、感覚、経験、理性的な考えであるというアリストテレスの考えに同意していました。彼の神学に対するアプローチはキリスト教思想とアリストテレス学派の考えを合わせたものだったので、それはキリスト教を完全に近代化したのです。

ところが、アキナスが「神学大全」という大作を書いていたとき、彼自身が夢と啓示的ヴィジョンを体験したのです。その夢の中でペテロとパウロが、アキナスが非常に扱い方に非常に苦労していたある神学問題に関して回答を与えてくれたのです。又、彼の人生の終り近く、この大作の完成間近に彼はあるヴィジョンを受けました。それは彼の理性的な考えからは決して生まれるはずのない神からの直接的な体験でした。

その結果、彼は「神学大全」を書くのをストップしました。彼は「私はもう続けることができません。このようにいろいろな事が神から啓示されたので、今まで私が書いたことが藁くずのように思えます。今はただ死を待つだけです。」と言ったのです。これが何世紀もの間、教会に神学に対して全く理性的なアプローチをさせ、夢に対する敏感さを教会から遠ざけてしまった人の言った言葉なのです!

 

近代の教会における夢の取り扱い

 

「近代」とは宗教改革後の時代です。4世紀から千年以上もの間ずっと、「夢という交信手段」に教会は公式に背を向け、神学や教義に対して「更に理性的な」アプローチを選びとってきました。

しかしながら、その期間にも多くの信者が個人的に神からの夢やヴィジョンを経験し続けて、これらの邂逅の多くのものが現在まで記録され保存されています。言葉を代えれば、教会の「公の」夢に反対する立場にもかかわらず、神はご自分の民に古い時代と全く同じように語り続けられたのです。ここで一人のクリスチャンの生涯を少し詳しくお話しさせてください。

 

「アメイジング・グレイス (驚くばかりの)」の歌に関する啓示

 

ジョン・ニュートンは18世紀にイギリスで最も尊敬され愛された牧師の一人でした。しかし彼の人生はそのように出発したのではありませんでした。彼は船乗りとなり、やがて奴隷商人となりました。ずっと後になってミニスリーに入る際、彼は奴隷売買を始めたころに見た夢について記しました。その夢は彼が進もうとしている人生の道の危険性を知らせたもので、彼に神の摂理について教えるものでした。夢の中で、ニュートンはヴェニスの港で船に乗り、夜の見張りをしていました。一人の人が近づいてきて、彼に指輪を渡し、注意深くそれを護るように告げ、それを持っているならば彼は幸せで安全であると言いました。

彼が思いを巡らしていると、2人目の人が近づいてきて、指輪などに身の安全を拠り頼むことの愚かさを彼に納得させました。そこでニュートンは指輪を水中に落とすと、すぐにヴェニスの背後の山脈から火が吹き出すのが見えました。二人目の人が「試みる者」であったことを彼が悟るのが遅すぎたのです。「自分の人生の神の憐れみを投げ捨てよ」との誘惑の罠にかかったのです。もはや彼を待つのは燃える山々の地獄のような炎でした。彼は次にように書いています。

「私は自分を呪い、希望もなく立っていると、突然3人目の人、というか最初に指輪を持ってきた人が来ました。そしてどうして私が嘆いているのかと訊ねました。私は事情を説明し、「自分は勝手なことをした、もう助けてもらうことはできない」と言いました。彼は私の早急さを咎めましたが、「もう一度指輪をもらったならば、今度は知恵深く行動するか」と訊きました。

 

私は返答に困りました。というのはもう取り返しがつかないと思っていたからです。実際のところ私が答える間はなかったのです。というのはアッという間にこの人は指輪を投げた場所に飛び込んで、すぐに指輪を拾ってきてくれたのです。

彼が船の上に上ってきた瞬間、山の火は消え、私を惑わす者もいなくなりました。そして「力ある神の御手から奪われえじきとなった者が救われ、

囚人が解放された」のでした。私の恐れは消えて、喜びと感謝をもって私は指輪を受け取るために彼に近づきました。しかし、彼は指輪を私に渡すことを拒否して次のように言ったのです。 「もしあなたに指輪を託したならば、すぐにまた同じような目に遭うでしょう。あなたにこれを護る力はありません。しかし、私があなたのためにこれを保ち守ります。そして必要な時にはいつでも、あなたのために指輪を出してあげます。」

その後間もなくニュートンはこの夢を忘れてしまいました。しかし数年経った時、夢の中で自分が置かれた状況、助けも希望もない状態で恐ろしい永遠の崖っぶちに立たされている状況に驚くほど酷似している状況の中に自分がいたのです。

その時ジョン•ニュートンは主の憐れみを見出しました。そして指輪をとりもどしてくださったお方がそれを護っていてくださったことを発見しました。この経験は彼をして「ああ、何というなぐさめであろうか、私を護るのは自分ではないことは!」と叫ばせたのです。福音を語る者として、彼は多くの賛美歌を作りました。その中で最も有名で多く歌われるのが「アメイジング・グレイス 驚くばかりの恵みなりき」です。この「恵み」は彼自身が体験したものでした。

 

遺産を受け取ろう!

 

夢は力のあるものです。それは私たちに近づき、触れ、他のどのような交信では不可能な方法で私たちの人生を変えてくれます。夢を見下げてはいけません。何世紀もの間、教会のあまりにも多くの人たちがしたように、夢に背をむけないでください。ユダヤ人の伝統に習って夢の交信の世界に心を開いて、神が夢を通してあなたに語ることを期待してください。神が夢の中で言われることを憶えていて、神が言われることにあなたが応答する時に、あなたの人生が変ることを期待してください。

ユダヤ人の先駆者たちや初代教会の父祖たちのように、啓示の霊が存在するばかりか繁栄するような文化を創ろうではありませんか。神の子どもとしての私たちの霊的権利を取り戻し、夢の創始者であるお方によって照らし出される道を歩く息子、娘となろうではありませんか。あなたの夢が実現しますように!(終り)