WWGM

Walk With God Ministries


19 10月

ミニストリーの三つのタイプ   ネイサン・ショウ          2017年10月19日


ミニストリーの三つのタイプ

 

ネイサン・ショウ(ハート・オブ・デイビッド・ミニストリーズ)

 

 

ベタニヤのマリアは聖書の中で私が一番好きな人物一人です。私は彼女の途方もないイエスへの愛と献身が大好きです。イエスは12弟子に劇的なしるしや不思議を行う権威を与えられました。(マタイ10:1)病人は癒され、悪霊に憑かれた者は解放されました。このような事はマリアに関しては記されておりません。しかし彼女は度々「イエスの足もとにいた」と言うことで、特別に注目されるのです。(ルカ10:39、ヨハネ11:32、12:3)

ヨハネ13章に、イエスが水で弟子の足を洗ったことが書かれています。その一つ前の12章を見ると、マリヤが高価な香油をイエスの足に塗り、髪の毛でぬぐったことがわかります。

ヨハネ12:3「マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。」

マリヤの行為はその家の空気を変えました。 2種類のパワフルな香りが放たれました。一つはナルドの香りであり、もう一つは崇拝と献身の霊的かぐわしさでした。

イスカリオテのユダは「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人びとに施さなかったのか。」と責めました。彼は高価な香油の値段を正確に知っていました。(これは一年分の給金に相当します)しかし、彼はこれが無駄だということだけで反応したのではありません。マリヤのイエスへの献身と崇拝という霊的香りが、ユダの心を暴露させたのです。

 

ここで二つの霊の統治力がぶつかり合いました。マリアは愛の統治を、ユダは欲の統治を放ったのです。

「しかしこう言ったのは、彼が貧しい人びとのことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金庫を預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからです。」(ヨハネ12:6)統治力は霊的空気に影響を及ぼしそれを変えていきます。

 

ミニストリーのレベル 

 

最近、私はこの二つの霊的統治力についてメッセージを語りました。すると数日後に、神はそれに関する更に深い洞察を与えてくださいました。神が示してくださったのは次にことです。

この聖書箇所においては、3つの方向に「もの resources」が動いています。

1.      イエスへ:マリヤの高価な香油がイエスの足に注がれた

2.      貧しい者へ:金入れの中の金は貧しい者たちのために使われた

3.      ユダへ:ユダは金入れから金を盗んでいた

この3つのものの流れの方向は、3つの異なるタイプのミニストリーを表しています。

1.      神へのミニストリー「すべてを注ぎ出す献身」

2.      人びとへのミニストリー「人びとの必要を満たす」

3.      自分のためのミニストリー「自分の欲を満たす」

 

教会やミニストリーの働きの多くは、この中の一つに当てはまります。私は公のミニストリーだけを指して言っているのではありません。エペソ4:11にある5つのミニストリーはすべてのクリスチャンが働けるように整えるものです。(エペソ4:12)

 

1.「すべてを注ぎだす献身」は、最も高度なレベルのミニストリーです。それはすべてを神ささげるのです。このレベルのミニストリーは神の意のままになることが必要とされます。神に仕えるとか、神と共に働くとかだけではなく、「神の足もとにすわる」のです。人間の目にそれはとても無駄なことのように見えるかもしれません。

どうしてイエスの足もとにすわってあなたの時間を全部浪費するのでしょうか?

一瞬で一年分の給金を無駄にするのでしょうか?

 

2. 「人びとの必要を満たす」も、非常にパワフルなレベルのミニストリーです。そのためには、時間、お金、エネルギーが用いられ、それによって神の御こころが表わされるのです。人びとは癒され、解放され、変えられ、貧困から抜け出ることができます。福音書の中に記録されている奇蹟の大部分は、この人間の必要に対する直接的なミニストリーです。

3.「自分の欲を満たす」は一番低いレベルのミニストリーです。このミニストリーは「この働きは自分のために何か得になることがあるか?」といつも考えています。「欲」は他人のものを自分のものにするのです。金入れの中のお金は貧しい人たちを助けるためのものでした。クリスチャンの歩みを始めて間もないとき、私たちの動機はしばしば自己中心的でした。しかし成長するにつれて、これは変っていきます。神は私たちの未熟さに対しては恵み深くあられます。しかしただ未熟というだけではなく、ユダは偽り者でもあったのです。

ユダはイエスや他の弟子たちと共に生活していたことを考えてください。神に人生をささげ、もっと学び成長したいと真剣だった人びとが周りに沢山いました。彼の自己中心的な欲には弁解の余地がありません。ユダは敵の策略に負け、遂にはサタンが入るまでになったのです。(ルカ22:3)

 

イエスはマリヤの惜しみなく捧げる愛をかばい、「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。あなたがたは、貧しい人びととはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」(ヨハネ12:7−8)と言われました。イエスは弟子たちに、ご自分が死ぬことを数回予告されましたが、彼らには理解できませんでした。マリヤはイエスの死が近いことを悟り、埋葬の日のためにイエスに油を塗ったのです。

マリヤはイエスの足もとにすわったので、主の御心の深い洞察を得ることができました。彼女はイエスが進もうとしておられる道の目的を悟りました。主の深い悲しみと必要をマリヤははっきりと識別したのです。十字架への道は容易いものではありませんでした。高価な香油で主に油をそそぐことのよって、マリヤは主の御こころに直接仕えたのです。

祭司の主要な任務は、神の御こころに仕えることです。ツアドクの子孫たちはこの任務を与えられました。(エゼキエル40:46、44:15、48:11)しかし、私たちは皆、祭司として召されているのです。(1ペテロ2:5、黙示録1:6)人間の必要に対して仕える人は、簡単にバーンアウト(燃え尽き)してしまう可能性があります。人びとの必要は広大であり、その仕事は大変骨が折れることだからです。神の御こころに仕える秘訣を学んだものは、超自然的に支えられます。

 人間の必要に仕えて、神のこころに仕えることをおろそかにする者たちは、敵の策略に落ちやすくなります。ペテロ、ヤコブ、ヨハネがイエスが最も苦しんでおられる時に寝てしまったのはそれが原因です。(マタイ26:36−46、マルコ14:32−42)

マリヤは神の御こころに仕えることによって霊的空気を変えました。霊の激しい衝突を生み出しました。この衝突はマリヤをひどく傷つけたかもしれません。しかし、イエスは彼女をかばいました。マリヤは主との親密さによってこの衝突の衝撃から、まるで繭の中にいるように守られたのです。12弟子はイエスと共に歩き、しるしや不思議を行う権威を与えられました。マリヤはイエスの足もとにすわりました。

私たちは「しるしや不思議を行うこと」と「イエスの足もとにすわること」のどちらかを選ぶ必要はありません。私たちはどちらにも召されているのです。マリヤは終末の時代のための預言的モデルです。そしてマリヤの預言的モデルによってもたらされるしるしと不思議は、弟子たちが当時行ったしるしと不思議を優に越えるでしょう。神は多くのベタニヤのマリアのような者たちを今の時代に召し出されているのです。あなたはそのお一人でしょうか?(終り)


16 10月

私たちの霊的履歴        坂 柚実子           2017年10月16日


私たちの霊的履歴

 

              坂 柚実子

 

 8月末から9月にかけての今回の私たち夫婦の3週間の日本伝道旅行中、WWGMを読んでいて下さる方々と会う機会を沢山頂きました。長年の友人知人はもとより、初めてお会いした方々もありました。ある昼食会には数人の初対面の方が集まってくださいましたので、まずお互いを知るために、各々が「霊的履歴」を話すということになりました。お一人おひとりが神の導きにより今の場所にいるということであり、現在は喜びのある信仰生活をしておられることを感じました。

 

又、ある会ではカトリックの方々とお会いし、カトリックとプロテスタントの違いなどを話しあうことができました。カトリックの方からはカトリックが持つ問題点を、またプロテスタントの私たちからはプロテスタントが持つ問題点を分ちあいました。その中で一人の方が「両方から『いいとこ取リ』はできないのでしょうか?」と言われ、私は、それこそ神が望まれていおられることではないかと思いました。

神は歴史を通して、そのときどきに必要な聖書の真理にスポットライトを当て、それを新しい啓示として与えてくださいます。新しい啓示から新しい教派が生まれたならば、生まれた教派はそれ以前の教派がすでに持っている啓示、真理、知恵をおろそかにせず、そこから学ぶべきことは全部学ばねば損であると思います。またそれ以前の教派は、神が他の人やグループに与えられた新しい啓示にも心を開いてこそ、神の与えようとしておられるすべての真理を受け取ることができるのだと思います。それが「宗教の霊」に打ち勝ち、生ける神との関係を保つ道ではないでしょうか。

 

宗教改革

 

 先日CGNジャパンのインターネット放送で、9月に開催された宗教改革500周年集会における新宿シャローム教会の牧師稲福エルマ先生のお話を聞くことができました。非常に感銘を受けましたので、ここでご紹介させて頂きます。師はカトリック教会が持っていた問題や間違いの故に宗教改革が必要であったことを説明された後、次にように述べられました。

 

「カトリックであろうと、正教会であろうと、またプロテスタントであろうと、同じような失敗を繰り返す危険があるのです。神様の臨在を失い、御ことばから離れ、だんだん形式的なキリスト教という宗教になってしまう危険性です。ですから改革、トランスフォーメイションは、今なお私たちの中に継続して起こって行かねばならないことをおぼえていきたいと思います。

 

中世はカトリック教会が支配しておりましたが、500年前にそれが大きく変革されました。ルターが立ち上がり、信仰によって人は救われることを説いたのです。しかしその変革はそれで終ったのではありませんでした。1600年代にも沢山の神の御わざが起りました。その一つはバプテスト運動であり、洗礼の真の意味が再び回復されました。1700年代に起こった御わざの一つはホーリネス・リバイバルであり、クリスチャンは聖さを求めるべきであることを唱えました。1800年代には福音派運動が盛んになり、すばらしい世界宣教へのヴィジョンが与えられるようになりました。1900年代にはペンテコステ運動として、それまで失われていた聖霊の力を受ける聖霊のバプテスマの真理が教会に回復されるようになり、これによって教会が更に大きく変革されました。もっと自由な教会、もっと生きた信仰、燃えるような礼拝を捧げる教会が世界に誕生するようになりました。1960年代にはカリスマ運動を通して、キリストのからだの一致という真理が語られました。その後も、癒しのリバイバル、讃美のリバイバル、『信仰の言葉』のリバイバル、祈りの家のリバイバル等々、神様は今もなお継続して、教会を回復しておられることを感謝いたします。

 

私たちは本当に変えられて、変えられて、トランスフォームするのです。その目的は何でしょうか。それはキリスト・イエスの栄光を顕す教会に私たちはなりたいと願います!

 

ハガイ2章9節に『この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。』とあるように、神様は世の終りの教会をますます栄光に満ちた教会にしてくださる、それは初代教会よりも更にまさるすばらしい教会になることを神様は願っておられることを信じます。

 

エペソ5章27節には『(イエス)ご自身で、しみやしわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。』と書かれています!アーメン!

日本の教会はそのような教会になっているでしょうか?まだではないでしょうか。ですから私たちは更に500年前に始まったトランスフォーメーションの御わざを祈り求め、完成されるように信じて祈っていきたいと思います!」

 

以上が稲福師の力強いメッセージです。教会がトランスフォームされ続ける必要性を説かれました。私はアメリカからの宣教師であられる師の、日本の教会に対する深い愛と情熱を感じました。

 

私たちの霊的履歴

 

 さて、今日は私たちの「霊的履歴」をお話ししたいと思います。

私は日本では、日本キリスト教団の教会に小さい時から結婚するまで通っていました。特に中学から大学までは南部長老派(日本キリスト教団に合流した教派の一つです)の宣教師によって設立されたミッション・スクールに通いました。そこで信仰深い先生方の導きで高校2年のときに信仰を持ちました。毎朝の朝礼で讃美歌を歌い、意味が本当には分からないままではありましたが、沢山の歌詞を心に蓄えることができました。今も思いがけない時に口から出てくるのは讃美歌です。

 

所属していた教会はアメリカからの宣教師によって開拓された小さな教会でした。彼が「土台」を「どどい」と言い、「大間違い」を「おまちがい」と言っていたのが今も耳に残っているのですが、日本語で毎週説教されるのは、ものすごい努力だったと思います。宣教師家族の犠牲的献身によって私は養われたのでした。

 

アメリカのオレゴン州で事業をしていた主人と1969年に結婚し、近所にあった北部バプテスト教会に繋がり、そこで主人も5年後に救われました。

私はそこで「cover to cover(聖書の表表紙から裏表紙まで全部そのまま信じる)」という概念や「妻は夫に従う」という聖書の教えを初めてちゃんと教えられた気がします。確かに妻が夫に従っている素敵な夫婦が沢山いました。

 

そしてやがてその教会のなかに日本語部を作りました。オレゴンには幾つかの教派の神学校があります。最初は、そこに日本から学びに来ている牧師や神学生たちにお願いして礼拝を続けましたが、最終的には主人が按手を受けて牧師となりました。これを通して他の教派の信仰にも触れることとなり、聖霊のバプテスマもこの期間に受けました。

 

1995年夏にヘンリー・グルーバー師夫妻と出会い、不思議な神のご計画により、その秋から日本にお連れすることとなりました。それから10年間、年に二回一ヶ月ほど、案内兼通訳として夫婦で日本に同行いたしましたが、それを通してグルーバー師から「祈りの歩行」の実践や様々な霊的教えを受けることができました。師は聖書をそのまま生きているような方であり、私たち夫婦の信仰に大きな影響を与えてくださいました。

 

2004年にハワイに移ったのを機に、バプテスト以外の教会を経験することができました。まず、フォースクエア派の教会に一年ほどおりましたが、そこは個人的な神との時間、デボーションを強調している教会で、すばらしいことにほとんどのメンバーがそれを実践していました。次に単立の聖霊派の教会に2年ほどおりましたが、そこはエド・シルボソ師の指導のもと、社会のトランスフォーメーションを目指している画期的な教会でした。次にイスラエルに重荷を持つハワイ人によるメシアニックの集会に参加し、安息日やユダヤ教の慣習、祭りを経験し、イスラエル•ダンスを楽しみました。そこで学んだことは聖書の理解を更に深めてくれたと思います。また、それを通じてイエスを信じないユダヤ人と知り合う機会もあり、彼らがクリスチャンや十字架に対して否定的な思いを強く抱いている理由を知ることができたのは、貴重な経験でした。

 

2012年にニューヨークの息子夫婦に子どもが生まれ、その手伝いに出かけました。私たちが住んだコンドミニアムはもともとユダヤ人が建てたところで、現在も住民の半数はユダヤ人という場所でした。一つのビルに2つエレベーターがあるのですが、金曜日の日暮れからの安息日になると、片方のエレベーターは「各階止まり」に設定されます。ユダヤ人にとって自分の階のボタンを押す事は、安息日に禁じられている「仕事」になってしまうからです。私たちはハワイでユダヤ人のことを学んでいましたので、そのような一見愚かに見える「宗教的慣習」も、ある種の尊敬の念をもって受け取ることができたのは幸いでした。

 

教会は息子たちと一緒にブルー・オーシャンというグループに属す教会に通いました。これは「青い海原」にいる多くのノンクリスチャンにも福音を届けるという意味で、「Fully Jesus-Centered. Fully Inclusive.」という考えでした。「イエスを中心とし、イエスを求めて来る人ならば誰も拒まない。」ということだと思います。韓国人牧師による英語の礼拝でしたが、牧師夫人が担当し力を注いでいる教会学校は、子どもの時からキチンと自分の頭で考えさせるという方針を打ち出していました。

 

 息子の転職に伴い、2014年にサンフランシスコの近くに移りました。そこで黒人と韓国人の夫婦が牧会する現在の教会に導かれました。ここはまさに人種の坩堝で、多分15カ国以上からの人びとが集っているのではないかと思います。韓国人、黒人、白人、メキシコ人、中国人、その他私たち日本人等です。黒人も「アフリカン・アメリカン(アメリカの黒人)」だけではなく、ナイジェリアやケニヤからの「アフリカン・アフリカン(アフリカ生まれのアフリカ人)」もいて、その違いも見ることができます。

私たちは長年アメリカで暮らしてきたにもかかわらず、黒人の方と親しく交わる機会が今までなかったのですが、この教会を通して、アメリカの黒人が持つ深い傷を少し理解できるようになったのは幸いでした。多くの違う文化を持つ者が一つの教会を形成していくのは、確かにチャレンジも多く、御霊の働きがなければ不可能なことですが、牧師夫妻の霊的指導によりこのような教会形成が進んでいることはすばらしいと思います。

 

以上私たちが経験してきた教会ですが、それぞれの教会での牧師や信徒との交わりによって教えられ、養われ、助けられてきました。又、教会の構成や運営の仕方も多様であり、それに関しても学ぶことができました。カトリックの教会の経験はないのですが、主人は長年、16世紀のカトリックの霊的な人々から、書籍を通じて多くを学んできました。

 

そして私たちは、アメリカの霊的指導者の本やビデオ、インターネットを通して今も多くを学んでおります。現在WWGMで皆様にお伝えしているのは、そのような人びとの預言や預言的教えであり、それらが少しでも皆様の信仰生活への励まし、助けになることを願っております。どうぞこれからもよろしくお願いいたします。(終り


11 10月

ロバート・ダニエルズ夫妻の車と大型トラックとの衝突  坂  達 也    2017年10月11日


ロバート・ダニエルズ夫妻の車と大型トラックとの衝突

 

                 坂  達 也

 

 

 今回の日本旅行でお分ちした一つの奇跡のお話をご紹介します。

 

 これは私たちの教会があるオークランドの街で起こった話です。私たちの教会の牧師ベンジャミン・ロビンソン師の霊の父母といわれるロバート・ダニエルズ夫妻は非常に霊的なご夫婦ですが、その夫婦が約10年前のある日、ロバート師が運転し、その隣に奥様が座り、後ろの席には二人の友人を乗せて街の中を走っていました。四人を乗せた車がある交差点に差し掛かった時、横合いから一台の大型トレーラー・トラックが信号無視で猛烈なスピードで走って来るのに師は気が付かず、あっという間にトラックの横腹に衝突してしまいました。ところが驚いたことに、一瞬にしてロバート師の車はそのトラックを突き抜け、交差点を過ぎたところの安全な道路脇に停車していました。両方の車も人間も全く無傷で無事であったのです。

 彼にその時の様子を聞いてみたのですが、そのとき四人はしばらくの間呆然とし、黙ったまま瞬時のうちに何が起きたのかよく理解できない状態で過ごしたそうです。トラックは何事もなかったかのようにそのまま走り去りました。

 

 これは量子論現象の一つである「瞬間移動」に違いありません。聖書に書かれた例としては使徒8:39があります。ピリポが宦官にバプテズマを授けた後、主の霊が突然ピリポを取り去り、彼は隣町のアゾトに現れました。また、イエスが弟子たちと小舟で一瞬のうちに対岸に移動した話しも同じ瞬間移動の例です。それと、ブルース・アレン師の本で読んだのですが、広大なシベリヤ大陸で4つの教会を牧会していたある牧師は、毎週の聖日礼拝で、それぞれ500キロ以上も離れた場所にある4つの教会を一日で廻ったというお話です。なぜそんなことができるのでしょうか。

 

霊の世界と量子論

 

 この世に存在するあらゆる物質は、すべてその最小の構成物質である原子とか素粒子レベル(ミクロの領域)ではその大きさは無限に小さく、その量子の間隔は驚くほどすけすけで、全く空っぽといってよい程の空洞であるといわれます。原子の直径は10のマイナス10乗メートルといわれますが、その原子が更に小さな原子核とその周りを回る数個の電子で構成されています。その原子核は更に中性子、陽子、クオーク等の素粒子で構成されています。それらの素粒子の大きさは、物理学上で意味をなす最も小さな長さと言われるプランク長10のマイナス35乗メートル、あるいはそれ以下で、実質「大きさも質量もゼロ」として計算されます。しかもニュートリノと言う極微粒子に至っては、宇宙から大量に降り注いでいて、一秒間に何十兆個も人間の身体をするすると通り抜け、他の物質とはほとんど衝突しないそうです。

 

 この極小物質がどれ程小さくまばらに存在しているかを例えてみれば、原子一個の大きさが地球の大きさと仮定すると、その芯にある原子核の大きさは一つの野球場位の大きさに相当し、その原子核を構成する数個の素粒子の大きさは、野球のボール位と言われます。また、原子核の周りを廻っている何個かの電子もボールサイズであるといい、それ等が地球の表面を飛び廻っているーと形容される程、物質を構成する素粒子間の距離は全くのスケスケであると言うのです。

 

 一方人間一人を構成する原子の数は28桁の数字ー凡そ1兆X1,000兆になると言われ、そのミクロ的に見て天文学的に巨大な人間の身体を、一秒に何十兆個の野球のボール大のニュートリノ粒子が通り抜けるとしても、交通整理のための信号など全く必要ない程透け透けの隙間だらけの空間ということになります。

 

 ここで最初によみがえりの身体を持つイエス・キリストがすーっと壁を通り抜けて家の中に入って来られたことを思い出して下さい。実際にどんなに厚い壁であっても量子レベルでは全くのすけすけで、人間の身体が通り抜けるにしても、量子ベースではお互いに触れ合わずにすいすいと通り抜けられるのです。

 

 それではどうして壁とか大理石の表面は堅くて通常では抜けられないのでしょうか。それは物質を構成する原子のほぼ空洞である内部空間は、実は強力な電磁場になっていて、その力が物質に固体性を与えているからであるというのです。(フランク・クロース著「なんにもない無の物理学 P.50」白楊社)

 

 しかし、よみがえりのイエスのように霊的な人間の場合は電磁場間の力を解除することは主の御心によって自由にできると思われます。従ってダニエルズ師たちが乗った車の場合でも、それがピリポの例と同じく主のご計画であったのでしょう、車とトラックの衝突に際しては、主の霊が働いて、素粒子間のスペースに張り詰めている電磁場の力が一時的に解除された。それは壁を通り抜けようとするイエスの身体が、瞬間的にミクロベースのすべての量子がばらばらの状態となり「すり抜け」が可能になったのと同じであったと考えられます。

 

 しかしすべての物質が非常にすけすけな空洞でできているという理由だけでは「なぜ瞬間移動が起きるか」という疑問に対する完全な説明にはなりません。なぜなら「瞬間」と言えば「時間の速さ」が問題となるからです。

 

この宇宙の外側には時間と空間がないのでは

 

 これに対する答えとして、私は最近松原隆彦理学博士が書かれた著書「宇宙はどうして始ったのか」(光文社新書)を読んで、博士が「時間と空間は一体のものであり、時間というのは空間と同じように宇宙の中でしか意味を持っていない・・・宇宙の始まりとともに時間が出現したのであれば、宇宙が始る前に何があったのかを問うことは無意味になる。・・・宇宙の始まりに原因があるとすれば、それは時間や空間を超越したところにある。・・」といわれるのです。(P.178ー181)

 また、郡(こおり) 和範 博士は著書「宇宙はどのような時空でできているのか」(ベレ出版)の中で「宇宙の始まりの前には時間も空間もないといえるかもしれない」といっています。確かにこの質問に対して、物理学者は、今のところ実験による証明ができないゆえに、はっきりとは答えてはいないようです。しかし多くの人たちが肯定的で、その可能性を認めているように見受けます。そこで私自身の考えを申し上げたいと思います。

 

霊の世界が一方に流れる時間と三次元空間とその距離に

           とらわれない自由な空間であるとすれば

 

 私は霊の世界/領域においては、まるで無いに等しい自由な「時間」と「空間」が存在すると信じます。といいますのは、私たちが日常する思考とか夢、意識、想像を考えてみてください。その中では、まるで自由自在の長さと方向性にとらわれのない時間、それに距離のない空間の中で、あっちに飛んだりこっちに飛んで物語が繰広げられることを経験しないでしょうか。それに、私たちが見る夢はどんなに長い夢であっても、それは一瞬でしかないということを聞いたことがないでしょうか。

 私たち人間は、永遠に霊と魂で生きているのであって、肉体はこの世にいる間だけの仮の住まいです。従って霊と魂は時と空間で縛られていないと思います。

 

 そうであればロバート・ダニエルズ師たちが経験した時間感覚を超越した(ゼロ時間の)「瞬間移動」という奇跡は、神が私たちに備えられ、必要に応じて私たちがこの世で利用できる「便利な手段」の一つであると思います。私は冗談ではなく、いつか、ミニストリーで日米往復を瞬間移動で旅行することを願っております。

 

 さて最後に、前述の松原博士は、著書「目に見える世界は幻想か?」(光文社)の中で、「なぜこの世は存在するのだろう。・・・だが、なぜ世界が「ない」のではなくて「ある」のか。こんな複雑な世界があるよりも、何もない方がよほど自然な気もするが、なぜかこの世界は存在している。そこに必然性があったのか、それとも偶然そうなったのか。」という問いを発しています。皆さんはどう思われますか。

 

 私はこの質問はとても深い、むしろ哲学的とさえいえるよい質問であるという気がします。「目に見える世界は幻想か?」ー クリスチャンの私たちにとっては特に「永遠のいのちで生きる霊の世界」こそが実の世界で、この世は一時的に「主のようになるための霊的訓練」という目的で送られて来ている「仮の人生」を今過ごしているのではないでしょうか。

 尚、目に見えるこの世のすべては、あたかも天で制作された物語を、天から光を投影してこの世と言う三次元世界のスクリーンに描き出される映画である、あるいはホログラフィーと形容する科学者もいます。なるほど、この世の物質の99%近くが光でできているといわれますから、私たちはまさに上から光として投影される影として動きまわっているのかもしれません。(終り)


10 10月

支配権を持つ者     ダッチ・シーツ            2017年10月10日


支配権を持つ者

                                                      ダッチ・シーツ

 

「あなたの世界を支配しているのは一体誰なのか?」

この問いは、 祈る時私たちに与えられている権威を理解するために非常に重要です。ここで、「権威の法則」を祈りに適応する前に、まず「権威とは何か」そして「権威の持つ目的は何であるか」を十分に把握する必要があります。

 「権威」を理解するためには、「誰が支配しているか?」という問いに答えねばなりません。この問いは、世の始めからずっと人間社会のすべての葛藤の中心でした。今も外の世界はあなたを支配しようと毎日攻めてきています。それは仕事や家族、財政、或いは全く別の事かもしれません。いずれにせよ、私たちがまわりの世界に支配されその奴隷となって生きることは、全く神のご計画ではありませんでした。私たちはキリストの統治の下で生活することにより、主のパートナーとして共に地上を治めるように召されているのです。

この法則は「統治」に関するものです。統治とは、「影響を与える、権威を執行する、上位に立つ」という意味です。権威を持って祈るとき、私たちは物事を統治する力でとりなすことができるのです。統治の権威という考えは、聖書全体を通じて表されています。エデンの園以前から、「誰が統治するのか?」という問題が議論されました。ルシファーは、神の上に権威を振るおうとした時この問いを発しました。そしてそれは今日に至るまで、私たちが直面する葛藤、即ち

善か悪か、命が死か、真理か偽りか、というすべての葛藤の発端となってきたのです。

神がサタンに究極的に勝利していることを私たちは知っています。しかし、

私たちが個人的に悪に勝利する機会を、神は今も与えてくださっているのです。それは即ち、私たちが主のパートナーとなって、この地を真理と義で治めることです。私たちはまさに本来その力を与えられて創造されているのであり、イエス・キリストを通してこの世を治める人生を歩むようにと召されているのです。ローマ5:17にある「治めるreign」という言葉は「王や王妃として治める」という意味を持っています。

 

第一ペテロ2:9「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」

私たちは主と共に治めるようにと選ばれました。権威を持って祈ることを学び、統治の力をもってとりなすのは私たちに与えられている責任です。

 

「自分の内なる世界にどれくらいキリストをお招きしているか」という度合いが、私たちが外の世界に対して持つ権威の大きさを決めます。使徒行伝19章でスケワの息子たち(ユダヤ人の祭司長の7人の息子)が、悪霊につかれている者にイエスの権威を行使しようとしました。彼らは「パウロの宣べ伝えているイエスによって」と言いましたが、悪霊は「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ。」と答えました。息子たちはまず自分の人生をイエスに明け渡すこと無しに、キリストの権威を行使しようとしたのです。彼らの祈りは全く効力がありませんでした。

 

同じようにあなたの人生は、あなたとキリストとの関係の度合いを明確に示すバロメーターです。あなたは平安と喜びの内を歩いていますか?それとも、まわりの未信者と同じように、いつもストレスを感じていますか?家族は祝福されていますか? 祈りの生活をしていますか?それとも祈りの力について話すだけですか?

暗やみや絶望を支配する権威は、あなたの霊的DNAの中に入れられています。あなたは、盗み、殺し、滅ぼそうとする敵に勝利しながら、キリストによって豊かな人生を送るように造られているのです。(ヨハネ10:10)サタンは、神から与えられているあなたの任務を妨害するためなら手段を選びません。敵の計画を見破りそれに打ち勝つのは、あなたの責任です。「私は勝利者だ!」とただ口先で言うだけではなく、権威と力の証しが溢れ出る人生を送らねばなりません。

 

あなたを支配しようとするものに対して、自分の権威を行使することを決意するならば、まず、あなたの心の思い、行動、言葉をよく吟味してください。それらが王の息子、娘としてのアイデンティティーを反映しているかどうか、よく吟味してください。

あなたが自分自身の思い、行動、言葉の上に権威を持つならば、まわりの世界(家庭、仕事、財政等)に対するあなたの権威をも主が大いに祝福してくださることにあなたは驚くでしょう。そして、これこそが究極の目的なのですが、今まで夢にも思わなかったレベルで、あなたは主のパートナーとして機能し始め、世界全体に影響を及ぼすような権威を行使し始めることができるのです。主はただあなたをパートナーにするだけではなく、地上における主の目的を達成するために、あなたというパートナーを必要とされていることを是非知っていただきたいと思います。(終り)

 


02 10月

フレッシュなパン     ハイディ・ベイカー       2017年10月2日


フレッシュなパン

 

ハイディ・ベイカー

 

 

ボブ・ジョーンズ師との出会い

 

 私が預言者であるボブ・ジョーンズ師に会った時のことをお話ししたいと思います。

ある時、 ワシントンDCの空港にいた私のところに、私の夫とボビー・コナー師が来て、「これから預言者の家に連れて行くよ。」と言い、私からパスポートを取りあげたのです。私は腹を立てて「預言者の家になんか行きませんよ。うちに帰ります!」と言いました。私のうちというのはモザンビークです。でも彼らは「いや、あなたは預言者の家に行くんだ。」と言うのです。私は「何で、この人たちは私にこんなことをするんだろう。ひどいことだ。私からパスポートを取り上げるなんて、犯罪だ!私はうちに帰って子どもたちにパンを与えなければならないのに!預言者に会う必要などないわ、神の言うことは自分で聞けるから!」と思いました。本当に行きたくなかったのですが、二人は私の言うことなど気にも留めずに私を車に乗せ、郊外のボブの家に連れていったのです。

 

預言者ならば少しはましな家に住んでいるかと思ったのですが、ボブの家は本当に祖末なものでした。彼は紫色で鷲の絵がついている小さすぎるシャツからお腹を出して私たちを迎えてくれました。これが預言者でしょうか!もうちょっとましな格好をしていてもいいではありませんか!

彼は「やあ!あなた達が来るのは分かっていましたよ。」と言いました。(彼はその日に起こることを主から前もって聞く事が多かったのです。)私はボブのことを話に聞いたことはありましたが、会ったことはありませんでした。彼は「まあ、座ってください。」と言うので、私は古ぼけたソファに座りました。ボブは肘掛け椅子に座って話し始めました。私はワシントンDCから二人の男性に誘拐されて、ここまで連れて来られたのですから、きっと素晴らしい預言があるのだろうと少し期待しました。

ところがボブは「神が言われましたよ。あなたはクッキーを食べなさいって。」と言いました!

皆さん、私はその時まで人生の三分の一を断食をして過ごしていたのです。神からフェイバー(特別な厚意)を頂くための手段として私が知っていたのは断食をすることだけだったからです。私は断食を信じていますし、今も断食をします。どうか私がもう断食をしないなんて勘違いをしないでください。でもそれまでの私の断食の仕方は、御父の心を理解していないものでした。ですから神が預言者の口を通して「クッキーを食べなさい。」と言われた言葉は、信じられないくらいにすばらしい響きを持っていました。

まず第一に、モザンビークの私のうちにはクッキーなどありませんでした。クッキーは超贅沢品でした。それは必需品ではありません。空腹のときにまず一番に買うものではありません。クッキーはお菓子です。貧しい人に与えるものではありません。彼らにはパンとかお米や豆を与えます。クッキーを与えるなんて思いもよりません。

ボブが「神があなたにクッキーを食べなさいと言われたよ。」と言ったまさにその時、ドアをノックする人がありました。その人は「やあ、ボブさん、神様があなたのところにクッキーを届けるようにと言われたので、持ってきました。」と言うのです!焼きたてのクッキーでした!ボブは「へへへ...ありがとう。」とそれを受け取り、その人は中に入りもせずに帰っていきました。

その時も私は断食中でした。ボブは「さあ、クッキーをお食べなさい。」とすすめてくれます。私は「これはサタンの誘惑か...」と思いました。「私は断食をしている..このクッキーはカロリーも高いし...」と思い巡らしながら、小声で異言で祈っていました。でもクッキーに抵抗することができませんでした。そして預言者に聞き従うべきだという気持になり、クッキーを取り一口食べました。それはナッツの入ったチョコレートクッキーでまだ暖かかったのです。そして私はベイビーのように泣き始めました。ボブは「もっと食べなさい。」とすすめました。

その時聖霊が私に迫りました。「あなたは孤児ではありません!わたしのフェイバーを得るために飢える必要はありません!わたしのフェイバーはあなたの上にあります。わたしは甘い(sweet)のです。わたしはおいしい(good)のです。常に有り余るだけあるのです。」この言葉はずっと以前に神が私に語ってくださった言葉でした。「わたしが十字架で死んだから、あなたは有り余るほど十分なものを持っているのです。」

ボブは私を見て笑い、「主は言われますよ。もう一つ食べなさいと。」と言いました。私は「主よ、どうしてあなたは私に二つもクッキーを食べるように言われるのですか!」と叫びました。「それは贅沢すぎです。とんでもないことです。この預言者は行き過ぎです。クッキーを二つも食べるなんて...」と。でもボブは「さあ、もう一つ食べなさい。」と言うのです。

私は二つ目のクッキーを食べました。私は泣き崩れました。御父の心がわかったからです。神が私をどのように思っておられるのか、どれほど私を愛しておられるのか、どれほどスイートな方か、どれほどフレッシュでおいしい(good)方かを。

主は私をモザンビークから呼び寄せ、夫とボビーに私を誘拐させ、預言者の家に連れてきてくださるほど親切な方です。そしてクッキー二つで私の人生を変革されました。私はその日完全に変えられ、何百万人もの人に肉の食糧を与えるだけではなく、霊的食物も与えることができるようにしてくださったのです。

あなたは自分が神のものであることを理解せねばなりません。そして神はあなたが想像する以上に善き方であり、麗しい方です。あなたが主を深く知るならば、人に主を分け与えたくなるのです。でも主がどのような方であり自分がどのような者であるかが分からないと、外に出て行くことができません。自分がどなたの者であるかを知るときに、すべてが変わります。

 

カビだらけのパンの話

 

私がモザンビークの家にいたとき、主がはっきり「家の中にパンがありますか?」と聞かれました。私はどこかに袋に入ったパンがあったことを思い出しました。暑い地であり、パンはすぐにカビが生えます。見つけたパンは信じられない状態になっていました。それは虹色のパンでした!青、ピンク、黄色、オレンジ、というあらゆる色のカビで覆われていたのです!暑い家の中に何日も忘れられていて、怪物のように恐ろしいものになっていました。主が「それを教会に持っていきない。」と真面目に言われるのを聞きました。私は「はい。分かりました。」と答えましたが、続けて「何か他のものも持っていってもいいでしょうか?」とお聞きしました。(私と主は友達ですから、このように話をするのです。)主は「いいですよ。」と言われました。そこで、私は友人に電話をして「2千個のパンを買ってきてくれますか?」と頼みました。教会にはいつも二千人くらい集まってきていたのです。その友人は私と22年も一緒に働いていたので、少しも驚かずに「勿論いいですよ。」と言ってくれました。大きなトラックもありました。私たちはいつもそのように人びとに食糧を与えているのです。

 

教会に着くと、主が「さあ、みんなにあのカビだらけのパンを与えなさい」と言われました。私は「わかりました。」と答えました。ここで説明をしたいのですが、普通大勢のお腹のすいた人達にパンを配るときは、みんな興奮して大騒ぎになります。ある人たちは2時間も歩いて教会に来ますから大変お腹が空いています。でも主が「レインボー色のパン」を配れと言われたので、前列の人にそれを渡して「無料です!好きなだけ取ってください!」と言いました。子どもも親もカビだらけのパンを見て驚いて顔をしかめました。みんないつもお腹を空かしている人達です。でも誰もそれを取ろうとはしませんでした。

触るのも嫌だという顔をしていました。でも私は「後ろの方まで全部の人が好きなだけ取れるように回してください!」と言いました。

しばらくしてパンの袋は人びとの間を一巡して、戻ってきました。下に落ちたもの以外は全部残ったままでした。食べた人は誰もいなかったのです。何故でしょうか?それは古いパンで、人びとを病気にするものだったからですね。

いのちがないパンでした。人びとは空腹であったにもかかわらず、そのパンは食べることができないことが分かったのです!そのパンは人びとを満足させませんでした。それは確かに無料でしたが、誰一人として一口も食べた人はいなかったのです。

次に私は新しく買ったパンを見せて、「ここにもっとパンがあります。フレッシュです。今日のパンです。昨日のでも、先週のものでもありません。今日の朝焼いたパンです。どうぞ好きなだけ取ってください。」と言いました。

子どもたちは喜んで声を上げました。母親たちは服やバッグの中に幾つも詰め込みました。「今好きなだけ食べてもいいですよ。」と言うと、みんな食べ始めました。しばらくして「余ったものは前に持ってきてください。」と言うと、不思議なことにパンは余っていて、それは礼拝後に町の飢えている人たちに配ることができました。

 

主は今日この集会に、御臨在をもって私たちを訪れてくださいました。主の臨在というフレッシュなパンを、飢えて死にそうな世界に持ち運んで行くのが、私たちの役目です。今日私は祈りながらどのようなことを皆さんにお話しすればよいか主にお聞きしました。そして主はフレッシュなパンを豊かに与えてくださいました。本当に感謝しています。この真理をどうか決して忘れないでください。古いカビだらけのパンを欲しい人はいないのです。昨日のパンを欲しい人はいません。人びとはフレッシュなパンを必死に求めています。主は私たちがフレッシュなパンを分け与えるように召しておられるのです。

 

第2コリント1:20−22「神の約束はことごとく、この方において『しかり。』となりました。それで私たちは、この方によって、『アーメン。』と言い、神に栄光を帰するのです。私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。」

 

神は私たち全員に油を注がれ、私たちに確認の印(持ち主のしるし)を押して、「これはわたしにものだ!」と言ってくださるのです。あなたは神に所有していただきたいですか?あなた方は神の息子、娘です。あなたは王子、王女です。しかし、それと同時に神の奴隷です。「ご主人様、私はあなたの家から出て行きたくありません。一生あなたに仕えたいです。どうか私の耳に穴をあけてください。

私のいのちはもう私のものではありません。」と願う生涯の奴隷となりたいですか?(申命記15:16、17参照)イエスのものとなり、イエスに所有されることほど自由なことはありません。主はあなたに焼き印を押して「わたしはあなたを所有している!あなたを愛している。あなたはわたしの家族だ。」と言われています。もしあなたが主の家族ならば、もうカビの生えたパンなど食べる必要はありません。「パンは足りるだろうか?」と心配する必要もなく、パンを取られないように人と争う必要もありません。神は私たちのために一人子を下さったほどのお方です。

「あなたのためのフレッシュなパンはいつも十分にあるよ。」と言われます。すべて神からの約束は「しかり、アーメン」です。あきらめなければ、必ず勝利するのです。

 

神は私のためにボブ・ジョーンズ師を用い、非常に深くパワフルな真理を教えてくださいました。「クッキーを食べなさい。」と言ってくださったのです。神はケチな方ではありません。あなたのヴィジョンを聞いて「なんてこった。そんな大それたことをわたしに願うなんて。一体どうすればいいんだろう...国をトランスフォームするって!?そんな事は出来るはずないだろう....」と顔をしかめる方ではないのです!ですからどうかイエスを人びとに分け与えてください。それであなたの食べる分がなくなることは絶対にありません。「あの人がもらったら、私の分がなくなる」と考えるのは孤児の霊です。

 

第2コリント2:14「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。

ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとってはいのちから出ていのちに至らせるかおりです。」

あなたはキリストの香りです! 拒む人にとっては死の香りであり、信じる人にとってはいのちの香りです。あなたはただ常にキリストの香りであればよいのです。12節には「このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆に語ります。」とあります。どうか大胆であってください。大胆に語り、大胆にフレッシュなパンを人々に分け与えてください。(終り)