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Walk With God Ministries


31 12月

弱い者に引き寄せられる神   ビル・ジョンソン(2014年12月7日礼拝説教からの抜粋)


弱い者に引き寄せられる神

 

ビル・ジョンソン(2014年12月7日礼拝説教からの抜粋)

 

クリスマスはすばらしいシーズンです。多分90%の人は一年で一番楽しい時だと思っているでしょう。でもそう思わない人たちにはそれぞれ理由があります。愛する人を失ったとか、挫折や失敗というような理由です。このシーズン、喜ぶ人と共に喜んではいるけれども、自分は喜んでいない人たちが私たちの周りにいます。主はそれをそのままにしていてはいけない、すべての家庭にブレークスルーが必要であると言っておられるように私は感じています。この教会のすべての人に職が与えられることを私は願います。「職が与えられないのは神からの試煉だ。」と言って済ますことをしたくないのです。確かに神はそのような状況を用いてはくださいますが、神が計画されたことではありません。神が用いられるけれども神のご計画ではないことは沢山あります。私たちは自分たちで天国にはない神学を作ってしまっていてはいけないのです。神はすべてのことを、命を与えるもの、目的のあるものとして作られました。私たちはそのように造られたのです。もしそうでないとすれば、私たちが罪を犯したからそうなったのではなく、未だ私たちがその(神の意図した)レベルに到達していないということであるからです。

神が約束してくださったすべてのことを理解し受け取るという訓練を現在私たちはしています。その訓練を受けるときに、私たちは神の満ち満ちたものを受け取ることができるようになっていく(成長して)のです。

 

今までの5、6週間、私の心にずっと一つのテーマがありました。神の物の見方は私たちの見方とは全く違うことを、皆さんはご存知ですね。神はいろいろなことに惹き付けられるお方です。その一つは「弱さ」にです。「あなたの弱さの中に私の力はあらわされる。」と言われました。実際、神は弱さに惹き付けられます。それは強さを嫌うという意味ではありません。これは神にとってとても大切なテーマなので、ヨエル3:10で「弱い者に『私は勇士だ。』と言わせよ。」と言っておられます。弱い者たちが天と同意し、ご自分と一致し、強い者になることを神は望んでおられます。それは天と地が一つになるためです。

 

聖書は、経済的に貧しい人は信仰が強いと言っています。信仰を強くするためにあなたは一文無しにならねばならない、と言われているのではなく、貧しいとあなたの気を逸らすものがないと言う意味でそう言われているように思います。マタイ13:22で、イエスは「富のまどわし」のことを話されました。それは信仰とお金が共存できないからではありません。もしあなたの心が正しいことへ向けられてないのであれば、多くのことがあなたの心を惹き付け誘惑して、あなたをいるべき場所からおびき出してしまうからです。ヤコブ1:9に「貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。」とあります。神は、人間が何かに「不足」し、何かが「必要である」状態に目を着けられ(向けられ)そこに信仰を与えてくださるのです。

 

神は又、悲しみに引き寄せられると言われました。「悲しむものは幸いです。その人は慰められるからです。」とあります。神の名の一つは「慰め主」です。それは勿論、神が人間が喜ぶことを嫌っておられるからではありません。聖書は喜びの言葉で満ちています。しかし、神は人が悲しむとき、その悲しみに引き寄せられるのです。そのような人たちに神は慰めを与えられる方であるからです。

 

しかし、一番ショックなことと言えば、神は罪に惹き付けられることです。勿論神が罪を容認し認めるわけではありませんが、罪を見て怯む方ではありません。「罪が満ちるところに恵みも満ちあふれます。」地上で最も暗やみに被われている場所に福音の働き人を遣わす時に、そこに大いなるブレークスルーが起こることを私たちは経験しています。途方もない神の偉大な栄光がそこに現されます。神は地獄のような場所の罪を見て、どうしようかとおろおろする方ではありません。実のところ、神はそこにある罪に引き寄せられるのです。なぜなら、そこにいるすべての人が、罪が取り除かれることによって喜ぶことを神は見たい、そのような事態を現したいと思われ方だからです。

 

私たちが「良くない」とか「駄目だ」と思うことに、主は引き寄せられます。そして悲しみには慰めを、罪あるところには悔い改めと義を、弱いところには強さを、不足のあることころには充足をもたらしてくださいます。

 

士師記20章を見て下さい。ベニヤミン族の者たちがレビ人のそばめに暴行を加えて殺しましましたが、ベニヤミン族の人たちは自分の部族の男たちがした恥ずかしい行いに対して特に悪いと思わず悔い改めませんでした。そこでそばめの主人であるレビ人は、そばめの死体を12に切り分けて、イスラエルの各部族に送りました。18節から28節までを読んでみましょう。

 

ベニヤミン族に報復を加えることにした他の全イスラエル部族の人たちは、ベテルに上り神に伺って「私たちのために、だれが最初に行って、ベニヤミン族と戦うべきでしょうか。」と伺うと、主は「ユダが最初だ。」仰せられたので、イスラエル軍はベニヤミン族のギブアの町に対して陣を敷きました。そのとき、ベニヤミン族はギブアから出て来て、その日、イスラエル人二万ニ千人をその場で殺しました。しかし、イスラエル人はひるまずに奮い立ち、初めの日に陣を敷いた場所で、再び戦いの備えをしました。そして主の前で夕方まで泣き「私たちは再び、私たちの兄弟ベニヤミン族と戦うべきでしょうか。」と主に伺うと、主は「攻め上れ。」と仰せられました。そこで、イスラエル軍は次の日、ベニヤミン族に攻め寄せたのですが、ベニヤミン族は彼らを迎え撃ち、再びイスラエル軍のうち一万八千人の剣を使う者をその場で殺しました。

そこでイスラエル軍は、全民こぞってベテルに上って行って、泣き、その所で主の前にすわり、その日は、夕方まで断食をして、全焼のいけにえと和解のいけにえを主の前にささげました。(当時、神の契約の箱はそこにあり、アロンの子エリアザルの子ピネハスが、御前に仕えていた。)そして「私はまた、出て行って、私の兄弟ベニヤミン族と戦うべきでしょうか。それともやめるべきでしょうか。」とうかがうと「攻め上れ。あす、彼らをあなたがたの手に渡す。」主は仰せられました。

 

これはとても奇妙な話です。神はイスラエル人を2回の負け戦さに行くように仰せられたのです。この時、神はイスラエル軍に何の落ち度も見つけませんでした。ヨシュアがアイを攻めて敗北したときには、キャンプの中に罪があったことがその敗因でした。聖書の中にはイスラエル軍が敗北した戦いのことが多く書かれていますが、そのすべてに敗北した原因があり、神はそれを咎め正されました。

 

しかし、この戦いの時、彼らは攻め上るべきかどうかを主に伺い、しかもユダが最初の行くようにという指示も受けました。ユダは「賛美」という意味があります。私たちは戦いに行くときは賛美を先頭にして行きます。士師記1:2でも主はまずユダが最初に上っていかねばならないと仰せられました。私たちの霊的戦いはサタンに焦点を当てるのではなく、神に焦点を当てるべきであるからです。又,別の聖書箇所では、聖歌隊がまず最初に進みました。まず第一に主に仕えることが勝利への鍵だからです。彼らはここで、「だれが最初に上っていくのでしょうか」と尋ね、主は「ユダが最初だ。」と答えられました。イスラエル人は主の言葉に従い、すべてのことを主の言われる通りに行ったにもかかわらず、その日ニ万ニ千人が殺されたのです。

彼らは陣に戻りもう一度奮い立って、神の御前に出て、泣いたのです。「再び戦うべきでしょうか。」と神に伺い、神は「もう一度攻め上れ。」と言われました。彼らは攻め上り、その結果一万八千人が戦死しました。彼らは又主の前に座りましたが、主からの咎めは何もありませんでした。彼らは「再び攻め上るべきでしょうか。それとももう止めるべきでしょうか。」と主に伺いました。主は「攻め上れ。今度は必ず勝利を与える。」と言われました。

 

ここがポイントです。私たちは通常、回りの悪い状況にチャレンジして、それを変えることが出来たときが「勝利」であると考えます。しかし神は、あなたが敗北したにもかかわらず再び神に祈ることこそ「勝利」であると考えられるのです。イスラエル軍は敗北しましたが、神からの咎めはありませんでした。彼らは又祈り、そして従いました。2日間の戦いで四万人の死者を出したにもかかわらず、3日目にも彼らは主に従って戦う用意が出来ていました。それによって自分も命を落とすかもしれないのにです。

 

私たちは回りの悪い状況を変えることに力を尽くしますし、従ってそれが戦いの究極的な目的となります。しかし、主は主の御こころと目的をしっかりと胸に抱くことができる民を建て上げておられるのです。

 

神の御こころは多次元です。「御心が天で行われるようにこの地でも行われますように」というのは、私たちの人生のすべての面で完成されるべきことです。それはおろそかにすることではなく、先延ばしにするべきでもなく、すべて主に従う者たちが実行すべきことーそれが究極的なレベルの神の御心です。しかし、神の御こころのレベルをどれほど喜べるかは、私たちの霊的成熟度によります。どうしてでしょうか?

 

神の御こころが地上でなされるためには、奇蹟が必要であることは皆さん同意されますね。悪霊の圧迫からの解放、罪から義へと人生が変えられる、癒し等、すべて天国で存在するものがこの地に現れねばなりません。天国にあるのと同じ霊的領域を神が人びとの上に解き放つのです。それには奇蹟が必要です。奇蹟が起ると何が起るのでしょうか。ヨハネ2:11に「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現された。」とあります。すべての奇蹟は「栄光を現すもの」であるのです。神の栄光には重みがあります。

神というお方の重み、契約の重み、臨在の重み、顕在の重みという「栄光の重み」が、奇蹟が起る時には必ず現されます。この重みがそれを支えるだけの徳を持たない人の上に下ったときにはどうなるでしょうか。その人を祝福するための神の栄光が、実際にはその人を滅ぼしてしまいます。ですから、神は私たちへの憐れみのゆえに、ご自分の栄光に覆いをかけてくださるのです。栄光を出し惜しみしておられるのではありません。

 

神が「NO」と言われるのは、もっとよい「YES」が用意されているからです。神が「待て」と言われる理由は、その人が神からの答えを十分に受け取れる力を増し加えて下さるためにです。神はどうして神の民を訓戒されるのでしょうか。それは神が私たちに罰を下すのではなく、神の祝福が私たちを滅ぼさないためであるのです。ヨハネ16:12でイエスは「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。」と言われました。弟子たちは重みを受け止める力がまだなかったからです。

 

神が話される時はいつでも、その実質のリアリティーが解き放たれます。神は言葉だけを話されることはありません。イエスはヨハネ6:63で「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」と言われました。イエスが話されるとき、聖霊が解き放たれ、神の栄光の重さを持ってその場所でミニストリーをされるのです。イエスは多くのことを話したいが、今は彼らにはそれは耐えられないと言われました。ですからイエスはほんの少しだけ現してくださったのです。ブレークスルーをあそこで少し、ここで少し、という具合にです。それによって不思議を行われるお方に私たちが心惹かれるようにされたのです。私たちの中に神の栄光の重さの中で生きる力を養ってくださっているのです。それは神の臨在の栄光の中で生きていく力です。神はそれをすべての人に持って欲しいからです。今は神の憐れみのゆえに、少しずつ与えてくださいます。

 

私は祈りの答えを「種」の形で受け取ることがあります。神は樫の木を与えてくださる代わりに、ドングリを下さいます。それを私たちが管理して大きな木に、即ち私たちが願ったものに育てていくためです。種を管理して育てて行くときに、私たちの中に徳と力が増し加わり、元の祈りが最終的にかなえられたときには、それを巧く用いる力が私たちの中に育っているのです。結果は価値あるものですが、神は結果よりもそこに辿りつくまでの過程、プロセスに価値を置いて大切にされます。私たちを形作るのはそのプロセスにあるのです。

 

士師記の話では、神がイスラエルを2度の敗戦に導かれましたが、神はそれを勝利と考えられました。戦いに破れた後もイスラエルは神の御前にもどり、神に祈り、神に従ったからです。皆さんの中には、神が言われたと信じて従った結果、厳しい状況に置かれている方がいると思います。本当に危機に面している方もおられると思います。ある人の場合は神がそのような指示を与えられたでしょうし、又、ある人の場合は神ではなかったでしょう。でも大丈夫です。神はそれでも面倒をみてくださいます。神からの指示だと思って、馬鹿なことをしてしまった人はおられませんか? 私たちはみなそのような経験があります。

 

神は私たちをあることに導かれます。その結果、ある人たちはひどい破船にあって、やっぱりあれは神ではなかったのだと、考えます。でもあなたがその時、再び神の御前に出て祈るとき、神はそれを尊んでくださいます。結果は悪く出てあなたが望んだことではなくても、神の目にはあなたは勝利したのです。今日、神はここにいる方々にブレークスルーを与えてくださると信じます。神に従って失敗をしたことを神は逆転させてくださいます。(終)


29 12月

2014年を振り返る       坂  達 也         2014年12月29日


2014年を振り返る

 

                坂  達 也

 

この2014年を振り返ってみて気が付きますことは、主は私たちを今「世代交代」させるプロセスの最中に置いておられると言うことです。

そのことは、モーセに率いられて荒野を旅したイスラエルの民が、ヨルダンを渡って約束の地に入る前に、指導者のヨシュアとカレブ以外は全員若い世代に交代したことに預言的前例があるからです。主に従ってモーセはイスラエルと言う神の御国を興しましたが、ヨシュアに引き入れられた民のための主のご計画は、約束の地においてその御国を完成させることでした。終末の時代に入った今、私たちは、主の御国の完成のために約束の地で最後の戦いと大収穫のための働きを始めようとしております。

 

そのような時に、私たち家族がニューヨークを引き払うことが決まったのは2014年の年明け早々でした。先ず息子家族が二月初めにサンフランシスコに移住し、後を追って私たちも3月末にカリフォルニア州に引上げて参りました。その後私たちは約二ヶ月の間、日本を訪問したのですが、二年ぶりの日本で最初に気が付いたことは、日本の霊的空気がすっかり変わっていたことです。特に新宿シャローム教会を訪ねた際に主が私たちに見せて下さったのは若い世代のすばらしい胎動でした。それが今全国に広がっていることを見聞きさせていただき、心から興奮をおぼえます。しかしそれと同じくらい感動したことは、主に忠実に仕えて来た古い世代のリーダーたちの多くも、日本各地で主が奮い立たせておられることでした。

 

アメリカに帰った翌日から、私たちはサンフランシスコ市に近いウオールナット・クリークと言う町に住み始めました。それから直ぐ私たちは教会探しを始めたのですが、主は私たちのためにすばらしい教会を用意して下さっておりました。しかもそれが私たちが今まで接したことのないような「若い世代の教会」であったのです。今回はこの私たちの新しい教会を皆様にご紹介させていただきたいと思います。

 

教会を探し始めて約一ヶ月後でしたが、私たちは 近くのEmeryville と言うところにある Living Hope Christian Center (LHCC) と言う教会の礼拝に導かれました。この教会に足を踏み入れてびっくりしたことは、そこが多様な人種が混然と混じり合っているところで、しかも若い人がほとんどの霊的な活気溢れる教会であったことす。

 

この教会のリーダーは38歳になったばかりの黒人系の牧師 Benjamin Israel Robinson さんと、その奥さんで韓国人のSunHee Robinson さんで、彼女は夫とともに主人牧師を努めています。この珍しい組み合わせの牧師夫妻から最初に私が感じたことは、レベルが一段高いとしか言いようのない情熱と油注ぎでした。そして初めて出席した礼拝にはとても濃い主の臨在があり驚いたのです。私にとって今まで見たことのない種類の教会です。そこで「もしかしてこの教会こそは、私たちが長い間求めて来た教会で、主が私たちのために特別に用意された church home ではないか」と言う期待が膨らみました。それ以来私たちはこの教会に通い続けておりますが、その期待は裏切られませんでした。そして三ヶ月後に正式に教会員になりました。

 

私たちはニューヨークからサンフランシスコへの移住が決まった時点で、インターネットによる教会探しを始め、移住後に四つ程の教会を訪ねましたが、これはと言う教会が見つかりません。そこで、最悪の場合は二時間以上ドライブしなければなりませんが、ビル・ジョンソン師の教会に行くことを考えました。しかし、このLHCCに行き当たってからは、ジョンソン師の教会には一度は訪ねたいとは思いますが、所属教会としてそこまで行く必要は全くないと思っております。

 

この教会の礼拝は最初の45分が賛美で、これによって教会中に主の臨在が溢れます。次に、牧師が賛美中に与えられた「知識のことば word of knowledge」を語って、示された人々を前に呼んで、その人への個人的な「主からのことば」が語られます。そして、その人たちの病気の「癒し」が祈られますが、そこで多くの人が癒されます。

その後に牧師のメッセージがあるのですが、ベンジャミン師は「通常牧師はメッセージの準備に聖書と注釈書等を調べることにかなりの時間を費やしますが、私は、一週間の間、主を見上げながら過ごす中で、主が自然に語って下さるのを待ちます。それを最後にまとめて、講壇からは出来るだけ聞いたままを話すようにしています。」と言うように、頭で作らないメッセージであることがよく分かるお話をされます。従って深くてパワフルなメッセージであることが多いのですが、それが終わった後、最後に必要な人々が前に出て来てミニストリータイムとなります。全体としてはほとんど二時間の礼拝ですが、主の臨在と喜びで充たされ、時間の長さを感じさせません。

 

出席者は300名ほどですが、現在借りている場所が100人が限度の小さな場所であるため、礼拝は日曜日に三回行われます。そして分かったことは、今の場所は後一年以内に出なければならないことでした。しかし主から、次の会堂として500人入れる既存の建物を示されたそうです。そこで早速そこを借りる交渉に入ろうとすると、主が借りるのではなく、買いなさいと言われ、値段は四百五十万ドルでした。しかし牧師以下教会員は、その資金は既に与えられたと確信して今祈っている最中です。

 

私はその話を聞いて、この教会なら、私に不足している「生きた信仰」が学べると思いました。そこで最初に牧師夫妻と個人的に会食した際に、簡単に自己紹介した後でそれを伝え、又、私たち年寄りは、これからは皆さんのような教会の後押し役をすることが念願ですと伝えました。それに対して牧師は、私たちのような年配者がこの教会に必要であること、又日本人は他に一人しかいなく、日本に対して皆大きな関心があるので大歓迎でお迎えしますと言われました。

 

この教会がある町は、サンフランシスコ湾の東対岸にあるオークランドとバークレーと言う二つの都市に挟まれていて、どちらにも合併されないで存在する独立した小さな Emeryville と言う名の町です。面積が1平方マイル強、人口1万人余りです。教会は、この町で創立されてから未だ11年しか経っていないのですが、既に六回も場所を転々として大きくなって来ました。

それには別の理由もありました。この地区は元々原住民が住んでいた頃から霊的にのろわれた場所であり、西洋人が入って来た頃には全く廃墟化した無人地区であったそうです。その後二十世紀の始め頃までには交通の便のよい宿場町に発展しましたが、遊郭と歓楽地区で名が知られる程頽廃した街になったと言われます。町の創始者である Emeryville と言う人はこの町には教会は絶対に建てさせないと誓いを立てたそうです。

 

主から示された牧師夫妻は、そのような霊的に不毛な地で開拓伝導を始めようとしたのですが、最初の二年半は霊的打ち破りのために毎日町を祈りの歩行(一日で全部の通りが歩行できる)をするだけに専念したそうです。その後も色々な霊的・肉的な障害を乗り越えて来て、ようやく今は街の人々も歓迎してくれるようになったと言います。

 

次に、この教会の MISSION STATEMENTをご紹介しますと、「 We exist to raise up sons and daughters who burn to see Jesus, reflect His glory, and enlarge His Kingdom.ー私たちの教会は、イエスを見ることに燃えている神の息子・娘を育て上げて、主の栄光を輝かせ、主の御国を広げるために存在する。」と書かれています。

そして、牧師自身が、黒人に見えますが「多くの血が混じった混血」であるのと同じように、MULTIETHNIC ー多民族集合体の教会を目指し、礼拝にはそれにふさわしく黒人、韓国人、白人、メキシコ人、その他の人種が主の御名による一つの家族として一同に会し、喜びに充たされて交じり合う、霊的な CHARISMATIC な教会です。

 

この教会の特徴は、二つの大きなビジョンが与えられていることです。

一つは、サンフランシスコ湾岸周辺の人たちに対する地方教会としてのミニストリーです。それは「主の弟子を育てる教会」でもあります。その一環としてベンジャミン師は既にインターネットを利用した神学校を設立しております。

二つ目は、世界に向けてミショナリーを送る MISSIONAL な教会を目指していることです。既にこの教会では多くの若い主の働き人ーメッセンジャーと癒し手ーが育っております。そして既にインドネシヤ、アフリカ等で、年に一度はクルーセード集会を開き、救いと癒しの成果を上げております。又、日本を訪れることを強く願っております。

 

以上、この教会のビジョンのあらましをご紹介させていただきましたが、これは私たち自身の ミニストリーであるWWGM のビジョンと一致していることを確信しております。

そこで新しい年2015年には、このロビンソン師夫妻とその教会のミニストリーを、私たち夫婦は出来るだけ早く日本の皆様にご紹介したいと願い、目下その時期と方法について主におうかがいしております。どうぞご期待下さい。又、私たちのためにお祈りいただけますようお願い申し上げます。尚、今後ロビンソン師のメッセージを逐次訳してご紹介して参ります。

それでは皆様、どうぞよい新年をお迎え下さい。(終わり)


19 12月

終末の艱難時代が目前に迫る(2)               坂  達 也        2014年12月19日


 

終末の艱難時代が目前に迫る(2)

 

              坂  達 也

 

未だ(1)をお読みでない方は、ぜひ数日前に載せました(1)から先にお読み下さい。

 

さて、ここで黙示録7:9をご覧ください。「その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。」と書かれています。ここに出てくる「大群衆」の解釈は色々あるようですが、一つだけ確かなことは、後の7:14で「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって・・・」と説明されていますから、数えきれない程のクリスチャンが大艱難を通ることは間違いありません。

大艱難を通って来たこの大群衆は、白い衣(聖さを表す祭司の衣)を着てしゅろの枝を手に持っていました。しゅろの枝は喜びと勝利を象徴します。ロバに乗ってエルサレムに入場したキリストを群衆がしゅろの枝を持つて喜び迎えたこと(ヨハネ12:13)、そして仮庵の祭りでしゅろの枝などを飾って秋の収穫を祝うことが思い起こされます。この大群衆は異邦人から集められた一大ハーベスト(大収穫=リバイバル)を象徴するのかもわかりません。あるいは14:13で「『今から後、主にあって死ぬ者は幸いである。』御霊も言われる。『しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。・・・』」と書かれていますから、もの凄い数の殉教者かもしれません。

 

黙示録ではクリスチャンは原則的には「神の怒りの災害」からは守られますが、中には悪魔/反キリスト軍によって殺される人たちも出てくることがはっきりと書かれております。その例が6:9−11とか14:13です。

6:9には「小羊が第五の封印を解いた時、神の言のゆえに、また、そのあかしを立てたために、殺された人々の霊魂が、祭壇の下にいるのを、わたしは見た。」又、その後6:11で「すると、彼らのひとりびとりに白い衣が与えられ、それから、『彼らと同じく殺されようとするしもべ仲間や兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように』と言い渡された。」と説明されていますから、世の終わりには大勢のクリスチャン殉教者が出ることも間違いありません。

しかし、私たちはそれにひるんではならないのです。なぜならイエスご自身が訓練された初代の使徒、弟子たちは、パウロも含めて、皆キリストの後を追って殉教することを望み、喜んで処刑されて死んで行ったではありませんか。殉教の死を遂げることはクリスチャンにとって最高の栄誉であり喜びであるのです。

 

獣の名の刻印

 

私たちクリスチャンの信仰はこれからいよいよ徹底的に試されます。はっきり申し上げて「なまぬるい信仰」しか持っていない者は、主によってその化けの皮が完全に剥がされる時が来るでしょう。黙示録13:15−17にこう書いてあります。

「・・・その獣の像を拝まない者を皆殺させた。また、・・・すべての人々にその右の手かその額かに刻印を受けさせた。また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、誰も買うことも、売ることもできないようにした。」

ご存知のように、ここに出て来る獣とは、世界を統一する程強大な政治権力者であり、その獣がやがて世界中の個人財産を支配し、すべての人に何らかのクレジットシステムの刻印を受けさせ、それがなければ誰も物の売買が出来なくなると考えられます。そして聖書にはこの悪魔の刻印を受ける者はたとえクリスチャンであっても、永遠の地獄の苦しみを受けると明確に書かれています。(14:9−12)これがこの世を支配する悪魔の究極の野望であり、神はこうなることを許されるのです。

現在の世界通貨は曲がりなりにもアメリカのドルがその役目を果たしていますが、アメリカの国力とドルの価値が凋落の一途をたどる現在、既にドルに替わる通貨が現実に検討されておりますから、ここまで発展する可能性は十分にあります。そしてこの事態に至れば、すべてのクリスチャンの信仰は、昔起こった「キリシタンの踏み絵」と同じように、神に付くか悪魔に付くか、白か黒かがはっきり問われるのです。

「私は神をそこそこ信じているので、地獄に行かずに、天国の片隅にさえ入れてもらえるならそれで満足ですよ。」と冗談まじりに言うクリスチャンがこの世の中には大勢いることを私は知っております。残念ですが、そのような信仰のクリスチャンが踏み絵の前に立たされたら、恐らく多くの人が「刻印がなければ食べることも出来ないのなら神様は大目に見て下さるでしょ。」と言って、安易に刻印を受けてしまうのではないでしょうか。そうならないためには、今から真剣に神を畏れ、神だけを頼り、すべてを委ねる信仰の訓練が必要であると信じます。主は天からマナを降らせ、必要に応じて一人分の昼食を何千人分に増やされる神です。

 

勝利を得る者は・・・」

 

数日前のある朝、私は主からいきなり「黙示録を一度何も詮索しないで通読して見なさい。」と言われましたのでそうしました。すると今までは「ここはどう解釈するのか」と言う疑問に引っかかってその疑問のことだけが頭に残って終るのですが、今回通読してみて初めて、黙示録に書かれているメッセージの全体像が見えて来ました。細かい事は抜きにして、主が本気で望んでおられることは、私たちの信仰が「黒ではない、全くピュアーな白になる」ことです。ですから主は私たちが「勝利を得る者」になることをしつこいように言われるのです。

勝利を得る者とは英語で overcomer です。それは敵とその一切の悪に打ち勝つだけではなく、自分の自己中心的な生き方、愛の少なさにも打ち勝つことです。主は黙示録の最初で、七つの教会にそれぞれのメッセージを伝えました。その際に主が指摘する叱責の言葉は、一見非常に厳しいようですが、その実、それを悔い改め忠実に守ろうとする者にとっては、ポジティブな励ましの言葉であることに私は気が付きました。

そして主は、各教会に「勝利を得る者は・・・」とくりかえし言われ、勝利する者には、それぞれに違うすばらしい約束をされました。最初の教会エペソの人たちには「神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」、次のスミルナの教会には「けっして第二の死によってそこなわれない」、ペルガモの教会には「隠れたマナを与える。」、テアテラの教会には「最後までわたしのわざを守る者には諸国の民を支配する権威を与えよう。」、サルデスの教会には「白い衣を着てわたしとともに歩く。」、フィラデルフィヤの教会には「わたしの神の聖所の柱としよう。・・・新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。」、そして最後のラオデキヤの教会へは「わたしと共にわたしの座に着かせよう。」と申し渡されたのです。

この七つの教会へのメッセージは私たち終末の教会全体に宛てられた主からのメッセージであると私は信じます。

 

又、黙示録1:3に「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである。」と書かれています。この書には、上記の言葉に続いて、他に6カ所で「・・・幸いである。」と言う祝福のことばが出て来ます。

確かにこの黙示録は恐ろしいさばきの書です。しかし何度でもくりかえしますが、神に忠実な者でありたいと心から願う者にとっては、むしろやる気と勇気がいただける、大変大きな祝福の書であるのです。なぜなら、本当に真剣にそれを望む者を神は決して見放しません。必ず助けて下さる神であるからです。

 

ヨシュア記と黙示録

 

モーセの後を継いだヨシュアは、イスラエルの民を引率してヨルダン川を渡り、約束の地に入りました。そして、そこに住む敵と戦って多くを「聖絶」し、その地をイスラエルの各部族に相続地として分け与えました。

一方終末の教会である私たちも、今既に霊的にヨルダン川を渡ったか、あるいは渡る直前に来ております。究極の目標は、この世を、そこに住む住人を含むすべてのものを「聖別」し「永遠のキリストの王国」を打ち立てることにあります。そのために今、私たちはそれぞれが受けた約束の地において敵を完全に「聖絶」する仕事に取り掛かっているのです。

 

一昨日の朝、再び主は私に今度は「ヨシュア記」を読みなさいと言われました。そこで読み進みながら改めて気がつかされたことは、約束の地に入ってすべての事をなさったのは主ご自身であることです。先ず洪水時期のヨルダン川の急流をせき止め、民を渡らせました。次に最初の敵であるエリコの堅固な城壁を崩れ落させ、この町をイスラエルの手に渡しました。又、ギブオンでは太陽を天の真上で丸一日停止させました。これらはすべて前代未聞の神にしか起こせない大奇跡です。そして神ご自身が戦って敵をことごとく民の手に渡されたのです。それによって主は民に「敵を聖絶する」とはどう言うことかを徹底的に教えました。特にエリコに大勝利した後、小さな部落アイで敗れたこと、その敗れた理由を私たちは教訓として肝に銘ずべきです。

 

一方、終末における私たちの戦いもまさにその通りであることが黙示録を見ればよく分かります。私たちは戦いに参加しますが、本当に戦われるのはすべて主ご自身です。それが神のやり方であるのです。この世の中から敵を完全に聖絶・駆逐し、そこに住む主の民を聖別して「真の神の民」となるように聖めるのはすべて神がなさるのです。

そうであれば、私たちは一体何をすればよいのでしょうか。それは「主の御声によく聞き従い、主のすべての命令を守り行う」ことです。(申名命記28:1その他)それが出来なかったゆえに、モーセに率いられてエジプトを出て来た初代のイスラエル人は、荒野を40年間さまよった後に、約束の地を見ることすら出来ずに荒野で死に絶えたのです。そのことがヨシュア記5:6に書かれています。

これは1コリント10:11に「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」と書かれていることを私たちは十分にこころすべきです。これは聖書の教えの中の最も重要な教えであることを、私たちは決して忘れてはならないと思います。

最後にもう一つ、主がヨシュアに言われた次のことばも、これからの私たちにとって最も必要とする御言葉です。

「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア記1:9)

 

終末の艱難時代を迎える私たちに、主がこの難解と言われる「黙示録」を与えられたことの意味を、今私はひしひしと感じております。大艱難を通らせるという最後の「弟子訓練」(これは最後の総仕上げです)は、「踏み絵を踏むか踏まないか」に代表されるような熾烈な試練を受けるのです。もう一度申し上げます。最後の時代に生きるクリスチャンは人間史上最も恐ろしい経験と試練の中を通されます。しかし、だから、主は言われるのです。「恐れるな。強くあれ。」と。そして「わたしがついているのだから。」と励まされます。

真の神への信仰とは「クリスチャンは主の御声に聞き従ってさえいれば、その結果殺されようが、どんなに苦しめられようが、どう転んでも、絶対に損はない。むしろ苦労の中を通れば通る程、祝福は大きい」というものです。ですから、リック•ジョイナー師が天国で聞いて来たと言われるように、既に天に召されている信仰の先輩たちは皆、この最後の時代に生きる私たちが「うらやましい」と言い、固唾をのんで私たちを見守り、祈ってくれているのです。(終わり)


15 12月

終末の艱難時代が目前に迫る(1)           坂  達 也     2014年12月15日


終末の艱難時代が目前に迫る(1)

 

            坂  達 也

 

2014年もいよいよ年末が迫って参りました。この時期に今年一年間(あるいはここ数年間)に世界で起こっていることを振り返って見ることは、大きな意義があるように思います。最近私がひしひしと感じることは「いよいよ終末の時代に入った」ということです。そう感じるのは私だけでしょうか。

 

「収穫とはこの世の終りのことです」とマタイ13:39に書いてあります。

収穫とは英語でハーベスト、すなわち、成熟したものを刈り取ることです。但し、成熟するのは良いものだけでなく、悪いものも成熟します。と言うことは世の終わりには、良いものの実りの収穫である大リバイバルが起こると同時に、悪いものも成熟の頂点に達しますから、これも刈り取らねばなりません。そのことがどのようにして起こるかーーそれが詳しく書かれているのが、使徒ヨハネによる聖書の最後の書「黙示録」です。

 

しかし、その黙示録に入る前に、世の終わりに起こることを適切に説明してくれている箇所にマタイによる福音書24章がありますので、それを先ず、手短に見てみたいと思います。この福音書に書かれていることが、実は今非常に現実味を帯びて来ているように私には感じられます。例えば6−13節には次のように書かれています。

「戦争と戦争のうわさとを聞く・・・しかし、それは起らねばならないが、まだ終りではない。 民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。・・・あちこちに、ききんが起り、また地震が起こる。すべてこれらは産みの苦しみの初めである・・・人々は、あなたがた(クリスチャン)を苦しみにあわせ、また殺す・・・わたしの名のゆえにすべての民に憎まれる・・・多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合う・・・多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わす・・・不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える・・・ しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」

 

その後の21−24節に次にように書かれています。

「その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起る・・・もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められる・・・キリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとする。」

この部分はいわゆる大艱難 Great Tribulation と言われる最後の三年半の期間です。そして、その後にキリストの再臨があることになります。それが29−31節に次のように書かれています。

「・・・その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。そのとき、人の子のしるしが天に現れる・・・地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見る・・・彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。」

 

さて終末の時代の推移として現時点がどの辺りかと言えば、今は上記で言う「産みの苦しみ(艱難)の初め」に位置していると思うのですがいかがでしょうか。

 

以上は前置きでしたが、これから「黙示録」に入りたいと思います。皆さんは既に黙示録を何度もお読みになろうとされたことと思いますが、奇異で耳慣れないことばが仰々しく書かれていて何かよく分からない、一言で言えば複雑多技で難解な書であると思いませんか。

一つはっきりしていることは、世の終わりには前述の通り、悪魔とその業も成熟することです。その長年の悪魔の非情きわまりない悪行が頂点に達する時点で、神はその「実」を刈り取って火で焼いてしまう、すなわち、この世の悪いもの一切に対し最終的なさばきを宣告し、それを処分すると言う劇的な壊滅の「幕開け」であることです。この「さばき」は大変厳しく、そのプロセスは壮絶、これ以上ない恐ろしい惨事になることがこの黙示録で詳しく書かれています。

但し誤解してはならないことは、この「神のさばき」はあくまで悪魔とその業の実りに対してであって、神を信じ神に従う者へのさばきではないことです。

 

ところがこの世の中は、人間が罪を犯すようになって以来、悪魔が支配して来ましたから、悪魔の業が成熟すると言うことは、この世の中が考えられない程ひどく悪くなることです。しかも悪魔は神の国イスラエルとクリスチャンを徹底的に憎み迫害して来たのです。それも頂点に達します。

そんな世の中に神を愛するクリスチャンも生きている訳ですから、悪魔の仕業で世の中が極端に悪くなるにつれ、クリスチャンもその巻き添えとなって、大変な苦しみの中を通らされると言うことを覚悟しなければなりません。この終わりの時代に起こる艱難時代(今までは7年と言われていたが、最近では3年半と言われる)は神学的に「大艱難時代」と呼ばれれています。

 

 

大艱難期前・携挙説と、大艱難期後・携挙説

 

ついてはこの「大艱難時代」をクリスチャンが通るのか、あるいはその前に天に挙げられて通らないで済むのか、昔から大別してこの二説が大きな神学論争の的となって来たことは皆さんよくご存知の通りです。

私の理解では19世紀以前はほとんどのクリスチャンが大艱難を通った後に携挙されると言う考え方を信じていたと言われます。しかし、20世紀に入って以降、大艱難を通る前に挙げられると言う考え方が強くなり、今ではアメリカでも日本でも後者を信じる人が大半であると言われます。皆さんはどちらを信じますか。

 

そこで最近私が気が付いたことは、この二つの考え方がクリスチャンの最終目標である「霊的成熟」を育成するか、あるいは阻むかの重要な分かれ目になると言うことです。その理由を申し上げます。

霊的成長の最終目標とは、クリスチャンが「イエスに似て、イエスに等しい」程、父なる神に徹底して従順な 「息子・娘 Fuios 」 になることです。しかも私たちへの神の期待は、私たちの想像を超えたものであることです。しかしそれ以上に私たちの想像を遥かに超えているのは、私たちに内住する聖霊の力の偉大さです。人間の思いでは、神の力は想像ができないのです。

主イエスは「・・・あなたがたは天の父が完全なように、完全でありなさい。」(マタイ5:48)と言い、「あなたがたのからだを父に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。」(ロマ書12:1)と命令しています。そして、 ヤコブ1:3、4で「信仰が試されると忍耐が生じる・・・その忍耐を完全に働かせなさい。そうすればあなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な者 となります。」とまで言われるように、父の要求度は非常に高いのです。神は、私たちに実現不可能なことを要求する方ではありません。聖霊による訓練によって私たちはそうなれる、従って、そうならなければならないのです。実はこの域に達することが大宣教命令でイエスが「あらゆる国の人々を弟子としなさい。・・」と言われた「イエスの弟子訓練」の意図するものであるのです。そうであるなら、並大抵なことではそうなれないけれども、不可能はないと神が言われるのですから、私たちが一大決意をし情熱を傾注するならば、そうなれるのです。

そこまで覚悟する時、「この大艱難の中をクリスチャンに通らせる」ことが、私たちに最も必要な霊的訓練のための、はっきりとした主のご計画であることが見えて来ないでしょうか。ところが人間の考える神学では、神は罪人に対するさばき(神の怒り)である大艱難をクリスチャンに通らせるはずはないと考えるようになったのです。私はこの考えは終わりの時代に於けるサタンの惑わしであると信じます。

なぜなら、クリスチャンが最後の艱難に会わずに天国に挙げられると言うことになれば、ほとんどのクリスチャンがなまぬるい「肉の思い」を持ったままイージーゴーイングの考え方を変えないからです。少なくとも私は、人間の「罪の思いと言う深い根」は尋常なことでは断ち切れないことを嫌という程味わって来ましたから、それが断ち切られるのであれば、たとえ何度死ぬ目に遭い、最悪の辛い試練を通らせられるとしても私にはそれが必要であると思っています。そして実際に大艱難の中をほとんどのクリスチャンは通されると信じます。そうであれば、今からそのようなへりくだった心の準備をしておく必要があると思うのです。さもなければ、実際に大艱難が来た時には慌てふためくだけで霊的準備不足が悔やまれると危惧します。

ところで、黙示録には「悔い改めなさい」と言う言葉が多く出て来ます。それはマタイ伝でイエスが宣教を開始した時の最初のことばが「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4:17)と言われましたが、それと同じ意味です。

この言葉の原語は本来「考え方を変えなさい」と言う意味です。終わりの時にクリスチャンに(未信者にだけではありません)とって一番必要な言葉がこれです。人間はクリスチャンであっても、主に聞くことをせず、つい何事も自分で考え、知らぬ間に人間的な罪の考えに落ち込んでしまいます。特に終わりの時には悪魔がクリスチャンを執拗に惑わそうとしますから余計にそうです。それをご存知の主は開口一番「人間的な考え方を捨て、御国の考え方、神の御心が何であるかを常に心しなさい」と警鐘を鳴らして下さっているのです。御国のクリスチャンが常に悔い改める生き方(自分の考え方を常に神の考え方に合わせるライフスタイル)をする必要があるのがこれでよく分かります。(続く)


08 12月

ハヌカの祭り:奇蹟への入口 キャシー・ペルトン     2014年12月8日


ハヌカの祭り:奇蹟への入口

 

キャシー・ペルトン

 

ヴィジョン

 

私は、11月22日に飛行機の中で眠っていたとき、これからの季節にとって意義深いヴィジョンを見ました。ヴィジョンの中で、私はカレンダーを見ていたのですが、その上には「ハヌカ Hanukkah」と書かれていました。それから私の霊は高いところに上げられたのですが、そこでは今まで経験したより、天ともっと深くつながっているように感じました。そしてそれは黙示録4:1にある「ここに上れ。」という神がすべての者に与えている招きに私が応答した結果であることを私は悟りました。

 

すぐに私は二つの開かれた大きな門の前に立っていました。見ると、その門はそれぞれにメノーラの形をしていて、門の向こう側にある道は光を放っていました。私はヴィジョンの中ではその門をくぐって向こう側には行きませんでしたが、もうすぐ入って行くことになっているのがわかりました。次に私は16という数字を見ましたが、その時点ではその重要性はわかりませんでした。しかし、その門から入っていくならばすぐに、超自然的な奇蹟や勝利の季節に入るということはわかっていました。ヴィジョンはそこで終りました。

 

ヴィジョンを見る前のこと

 

このヴィジョンの意味を説明する前に、この数ヶ月私が経験したことをお話ししたいと思います。

私はこのところずっと提灯やろうそくのゆらぐ明かりに魅了されていました。私は提灯で家を飾りたいという思いにかられ、玄関に2つ取り付けて、毎晩ろうそくを灯していました。

私は今までの経験から、このように何かに強く惹き付けられる時は、ただ家を美しく飾って楽しみたいという私の願望から発しているのではなく、主が私に何かもっと深いことを語っておられるしるしであることを知っていました。

 

この数ヶ月、主人と私は何度もマタイ25章1−13節にある5人の賢い娘のたとえ話のことを示されていました。主は私たちが常に油で満たされているように召しておられることを私たちは知っていました。純粋な油は、ワーシップと祈りを通しての主の臨在の中に見つけることができます。

 

マタイ25章の言葉と共に 、人間の力ではなく主の力強い御腕により頼むことによって事を成すことを教える聖書の箇所を、私は強く示されていました。そのうちの一つは詩編147:10、11です。

「神は馬の力を喜ばず、歩兵を好まない。主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。」

 

又、主はゼカリヤ4:6をも示してくださいました。

「すると彼は、私に答えてこう言った。『これは、ゼルバベルへの主のことばだ。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。」と万軍の主は仰せられる。』」

 

ハヌカとは何か

 

ハヌカはユダヤ暦のキスレウの25日から始まりますが、二つの歴史上の奇蹟がその起源です。即ち、ユダヤ軍の勝利と、神殿の油が奇蹟的に供給されたことです。

ハヌカは、BC2世紀に侵略してきた強力なギリシャ・シリアの軍勢を、ユダヤのマカベア一族(マカバイ)の活躍により撃退したという軍事的勝利を祝うものですが、この祭りの最大のシンボルはメノ—ラであり、それは「油の奇蹟」の記念なのです。エルサレムから敵を駆逐したあと、ユダヤ人たちはアンティオコス4世エピファネスによって汚された第二神殿を清める作業に取りかかりました。

 

祭壇を建て直しメノーラに火を灯そうとしたとき、永遠に灯し続けるべきメノーラのための聖い油のつぼが一つしかないことを彼らは発見しました。それは一日分の油でした。しかし、不思議なことに、ともしびは新しい油が調達できるまでの8日間、昼も夜も燃え続けたのです。私たちがハヌカを8日間お祝いする理由はここにあり、光の祭りと呼ばれる所以でもあります。

 

イスラエルの立法府クネセトの向かい側に置かれているメノーラにはゼカリヤ4:6の言葉が刻まれています。それを見るとき、私たちはユダヤの軍事的勝利の歴史と共に、圧制者に対するユダヤ人の霊的勝利と究極的な神の勝利を思い起こすことができるのです。

 

私はこのヴィジョンの解釈を主に求めました。そして、私たちは今、ハヌカの季節に入ろうとしていますが、それは私たちが霊的に一つの門をくぐり、奇蹟と勝利の時へと私たちを導く道に踏み込むのだということを、主が教えてくださったのを感じました。

 

超自然的な奇蹟は自然界の供給をもたらす

 

これから私たちは超自然的な奇蹟を経験し、それは目に見える形での供給をもたらすものであることを私は感じとりました。又、私はたちが地上における奇蹟の時に導かれ、それは今まであまりにも長く神の民を抑圧し、威嚇してきた大きな敵の勢力に対して、私たちが勝利を勝ち取ることを得させるものである、ということも感じ取りました。

 

私は神が「もう十分だ!」というのを聞きました。私たちを抑圧する敵は私たちより多勢のように見えますが、私たちが祈りとワーシップの油を絶えず燃やし続け、主を畏れて主に信頼するならば、主は昔、マカベアの戦いの時のように私たちに勝利を与えてくださいます。

 

前述のように、ヴィジョンの中で私はメノーラの形をした二つの門を見てから、次に16という数字を見ました。今年ハヌカは12月16日に始まり、12月24日(即ちクリスマス・イブ)に終ります。今年はハヌカがキリストの誕生を祝うクリスマスを迎える前の8日間であることは興味があります。これはユダヤ人の目からおおいが取り除かれて、彼らの救い主を見ることができるようになる時へと導いていくシーズンの中に私たちが入って行くのだと、私は信じます。(第二コリント3:13−16、ローマ11:25−32参照)

 

それと共に、二つの門にあったメノーラには、各々8本、合計16本のろうそくが立っていました。聖書的に16という数は、「愛」を表しています。旧約聖書にある神の16の名前やタイトルは、イスラエルの子らに対する永遠に変ることのない神の愛を特に表しています。

 

新約では、第一コリント13:4−8に「神の愛の16の特徴」が書かれていて、それらの特徴は私たちも持つべきであることをパウロは教えています。

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。」

 

愛は神様から与えられたあなたのミッション!

 

これからの8年間には、教会が第一コリントにある愛の真の意味を具現していくときに、驚くべき数のユダヤ人が救い主を認めるようになると私は信じます。私たちは神ご自身が持っておられる愛で、彼らを愛するのです。今年のハヌカの季節は私たちを新しい門出へと導き、御父の愛の性格が表され、イスラエルやすべての国々において神の真の愛が実行されるのを人びとは見るでしょう。それは窓際に置かれたメノ—ラがそこを通るすべての人びとにはっきり見えるのと同じです。

 

現在のハヌカ・メノーラには8つの枝の真ん中に一つ高い枝がついていて、それは両側の8本のろうそくに火を灯すために使われます。これはイエスを表しています。主は私たちのための9本目のろうそくであり、奇跡的な勝利と奇跡的な供給という火をこれからの8年間、灯してくださるのです。「これからの日々のため、ワーシップがあなたのパスポート、信仰があなたの通貨。愛があなたのミッションです。」という御言葉を私は聞きました。愛があなたのミッション、召しなのです!

 

今は喜ぶべき時です。世界中で想像を絶する独裁やテロ行為が起っていますが、神はそれとは全く異なる宣言をされています。神の民が恐怖の軍隊の力を恐れるのではなく、主の力に服従して主を畏れて生きる時、神は力ある右腕を現してくださるのです。私たちは今、大いなる勝利と奇蹟の時に入って行っているのです

 

喜んでください! 今はワーシップと祈りであなたのランプに油を満たす時です。今は主に信頼し、主に対する畏れに中で安全に住む時です。そしてあなたの所に届くすべての悪い知らせや迷いを捨て去る時です。今門がまさに開かれ、光の御父が輝き現れて暗やみを追放するのです。おびただしい天の軍勢が神の民のために戦うためにやってきたのです。アーメン!(終わり)


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