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Walk With God Ministries


26 01月

魚釣りに行く時ですよ!     キャシー・ウオルターズ       2016年1月26日


魚釣りに行く時ですよ!

 

キャシー・ウオルターズ

 

 

神は漁師を召しておられる!

 

最近私は、神から受けた最初の召しについてもう一度考えるようにという強い御ことばを何度か聞きました。あなたが最初に召されていると強く感じたことは何でしか?その時のあなたの心の思いはどのようでしたでしょうか?

それをせすに置き去りして来た召しも多いのではないかと私は思います。といって、それは何か間違ったことに走ったからではなく、私たちが最初の召しとして受けていた以外の「良いこと」をしーしかもそれでよい実さえ結んでいたーそのような結果、神からの最初の召しの幾つかをしないで終わっていたということはありませんか。

時には、私たちは前に進むために後ろを振り返る必要があります。私たちに与えられた召しに関して私はこのことだけは知っています。それは、私たちが漁に出なければいけないことです。イエスは「あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう。」と言われました。漁師になるためにあなたは5役者の一つである「伝道者」である必要はありません。ただ主を喜び油注ぎの中に留まり、あなたの周りには「魚」が沢山いることに心を開いていればよいのです。霊のアンテナを張れば、神が定められたあなたが会うべき人がわかるのです。それは会う人すべてに話かけるというのではないと思います。御霊によって導かれるのです。

 

私は毎週のように飛行機に乗りますので、隣に座る人と出会います。彼らの生活について話したり、時には奇蹟の話をしたり、イエスの話ができる場合もあります。しかし無理に福音を語ることはしません。全然話さないこともあります。私は席をアップグレイドされてビジネルクラスに座ることが多いのですが、飛行中は誰とも話したくない人も大勢いますから無理には話かけません。主ご自身が人を引寄せてくれます。主が何かその人に言う言葉を与えてくれるときは、それを話しますが、それに「食いついて」こないときは、私はそこでやめておとなしく映画を見ます。それでも私は、飛行機やホテルや様々な場所で、スーパーナチュラルなこととか冒険を沢山経験しています。

 

私は伝道に向いていないと思うとしたら?

 

私たちは、伝道は「伝道者」が都市を巡回して集会を開き、そこに私たちが未信者を無理にでも連れていって、年に一度の伝道集会で彼らが救われるのを期待するものだと考え勝ちです。でも「伝道者」も他のミニストリーと同じく「聖徒たちを整えるために立てられた」と書かれている通り、すべての伝道をあなたに代わってする人ではないのです。

神は「使徒、預言者、牧師、伝道者、教師」を「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるために」召されたのです。(エペソ4:11、12)5役者は私たちのためにすべての仕事をするのではなく、キリストのからだにどのようにその働きをするかを教える者であるのです。預言者は人々にどのように預言をするかを教えます。教師は油注ぎの下で教えますが、しかし又、人々にどのように教えればよいのかを教えます。

牧師は人々を牧しますが、それと共に人々にどうすれば自分のようにできるかを教えます。牧師は牧師の召しがある者たちを認識し、自分の翼の下で訓練し教えます。伝道者はキリストのからだに魂を勝ち取るように励まし教えます。彼は大伝道集会やクルセードをするかもしれませんが、それと共に聖徒を整え、失われた魂を勝ち取る方法を教えるのです。

つまりこういうことです。今は教会が外に出て行って魚のいる川が沢山あることに気がつくべき時です。そして各々が違う川に行く道を与えられているのです。皆さん、もし御霊に導かれ、宗教的な考えから抜け出すならば、それはとても愉快でわくわくすることであり、神がその中におられるのです。

イエスは偉大な漁師でしたね。主は魚のいるところを知っておられました。ですからあなたにも魚のいる場所を教えてくださいます。

このことを理解して頂くために、私が実際に経験したことを証ししたいと思います。しかし忘れないで下さい。あなたはある時には種を蒔き、又ある時には刈り取りますーそれは聖霊に導かれるままに、常にアンテナを張っていることです。

 

のたうちまわる魚

 

私の「のたうちまわる魚」の話をしたいと思います。2年ほど前、私はカンファレンスのためにハンターバレーに滞在していた時のことですが、友人たちが休みの時間に昼食と買い物に町に連れていってくれました。小さな町にいく途中の車の中で私は幻をみました。それは大きな力のある魚の幻でした。魚は釣り針に掛かっていたのですが、自分の胴体を激しく振り動かしていました。その時主が「わたしはあなたにそのように『のたうちまわる魚』をあげます。」と言われました。

私たちは昼食を食べてから少し買い物をしたのですが、その後に宝石屋に入っていきました。というのは私はアンティークの宝石が大好きだからです。そして、この店の主人が私の「のたうち回る魚」でした。彼は私たちに応対してくれましたが、私がイエスの名を口に出した途端に、くねくねと向こうに行ってしまいました。そしてまた、近寄ってくるのですが、イエスの話になるとまた向こうに行ってしまうのでした。 私たちはそれ以上何も押しつけませんでしたが、それから2年間、私がハンターバリーに行く度にその宝石店に行って「のたうち回る魚」をチェックしました。彼がどうしてそうのたうち回るかというと、それは彼がそこにあるフリーメイソンのリーダーだったからでした。でも私とそこの住人である友人に対しては、彼はいつも愛想良く対応してくれました。最後にそこに行ったときに、私のCeltic Flamesという本を彼に進呈しました。

今回その宝石店に行くとき、私は又幻を見ました。大きな魚が主の釣り針にかかっていて、死んではいませんでしたが静かにしていました。彼は用意が出来ていたことが私にはわかりました。それで私たちは買い物をしてから宝石店に向かいました。そこで少し買い物をして話を始めました。彼が言うには、このところあまり客が来なかったけれど、私たちが店に入るといろんな客がやってくる、というのです。彼は私にお金を払うから店の中に座っていてくれと言いました。やがて客がいなくなったとき、彼は私のCeltic Flamesを読んでいたと言いました。彼はソフトになっていました。私は彼に「あなたは神の釣り針にもうかかっているから、イエスを受け入れる時ですよ」と話しました。そして彼のために祈ってもいいですか、と訊ねると、彼は手を伸ばして私が祈っている間、その手を私の手に合わせていました。私はこれは交換だと説明しました。もし彼がイエスに彼のいのちを明け渡したら、イエスはご自分のいのちを与えてくださるのです。彼にイエスを受け入れる祈りをしたいかと訊ねると、彼は少ししりごみをしました。そこで私は「イエスを受け入れる祈りはあなた一人でも出来ますよ」と告げて、店を出ました。帰りの車の中で、大きな魚がイエスの腕の中にいる幻を見ましたので、彼はもう大丈夫だとわかりました。

以前、私がイエスの釣り針に掛かった大きな魚を見た時、その川の下には大きな魚が一杯いるのが見えました。そして私の「のたうち回る魚」はその川から来たのです。沢山の魚がその川にいました。その川は何処にあると思いますか?

それはフリーメイソンの中です。私はそれを考えつきもしませんでした。というのはフリーメイソンの霊から解放される人々をすでに沢山見て来たからです。

しかしこれからフリーメイソンの中に聖霊の動きが始まる時が来ます。死の霊は退かねばなりません。神が入って来られるからです。 油そそぎが人々をあなたに引寄せます。そして彼らはあなたと話したいと思うのです。あなたが出会う人がすべて「今とれる」魚ではありません。でももう少し川を下ったところで可能性がある魚であるかもしれないのです。

 

立ち止まって聖霊に魚の居場所を教えてくださいとお願いすることを忘れないでください。以前私は魚釣りをするには何かやり方があると思っていました。でもその考え方はやめました。あなたはただイエスを愛して、主を楽しみ喜ぶならば、油注ぎがやって来ます。あなたはそれに応答すれはよいのです。(終り)


20 01月

創造者の神とは(仮題)      坂  達 也         2016年1月20日


創造者の神とは(仮題)

                        坂  達 也

 

 先週書きました通り、私は今「創造者の神」に関する本を書いておりますが、それをマルコーシュ出版のご好意でハーザー誌に少なくとも最初の部分を今年の1月号から連載させていただいております。ついては私が何を書こうとしているのかを皆様に知っていただくために、今回ハーザー誌とは少し違う元々の原稿の一部を下記の通りご紹介させていただきますのでご高覧ください。この原稿は元々ノン・クリスチャン向けに書き始めたのですが、クリスチャンの皆様にこそ知っていただきたい、それによって信仰の励ましとなると信じます。ぜひこの本の完成のためにお祈り下されば幸いです。

 

序章 宇宙の存在と人間

 

 人間の科学がこの三-四百年の間にめざましく発展して来たことを否定する人はいません。しかしその発展の意味するところを冷静に考えてみたいと思います。

 第一に言えることは、人間の科学研究と称するものの大半は、元々既に存在していた宇宙天体とか、特に地球とそこに生息する動植物がどのように造られているかを先ず理解することに費やされて来たという事実です。しかもこれだけ長時間を掛けた研究調査の結果がどうかと言えば、人間の科学では未だに不明でよく分からない部分がまだまだ多いと言う事実です。

 

 その一例として先ず生物学の分野を覗いてみましょう。植物は、元々人間がいるいないに関係なく、小さな種が地に落ちて、条件さえよければ勝手に芽を出し、成長して行きます。一方動物も、それぞれに特有の生殖機能によって新しい命が生まれ、自分で皆食物を探して食べながら勝手に育って行きます。又人間を例にとれば、我々が寝ていようと起きていようと、意識しようとしまいと、勝手に息をし、勝手に新陳代謝をしながら、生きています。このような事実はどう考えても「奇跡」としか言いようが無いほど実に巧妙に出来ていると思いませんか。なぜなら、人間の科学では、未だに一番下等動物のアメーバすら造れないのですから。

 次に宇宙物理学の部門を取り上げてみます。数年前に、村山斉と言う第一線で活躍されている物理学者が書かれた「宇宙は何でできているのか」と言う著書を読んで驚いたのですが、この宇宙を構成する物質の96%は原子以外のものから出来ていて、未だそれが何で出来ているのか、その正体が不明なのだそうです。但しその正体不明の「もの」に名前だけは付けられていて、「暗黒物質」と呼ばれるものが全体の23%、それに「暗黒エネルギー」と命名されているものが73%あるそうです。(村山斉著「宇宙は何でできているのか―素粒子物理学で解く宇宙の謎―」ページ44-45)

 つまり、この「暗黒何がし」が何であるかは分からなくても、それが「ある」ことだけは分かっているそうです。これが最先端を行く宇宙物理学の現状であるようです。昔、寺田寅彦と言う人が「物理学は、結局世界中にどれだけ分からない事があるかを学ぶ学問である」と言い残したそうですが、よく言えていると思いませんか。

 

 それはともかくとして、私たちの住む宇宙はマクロ的に見れば、想像を絶する程大きいのに、それがミクロ的に見れば、測定不可能な程極小な粒子が無限に集まって構成されていると言うのです。数字で言えば、マクロの世界は、宇宙の大きさが現在観測出来る範囲で10の27乗メートル(1兆X1兆X1千メートル)です。その世界が無限に小さい10のマイナス35乗の極小の色々な種類の粒(素粒子)が組み合わさって出来ていると言われます。私はこのような微に入り、細に入る精密なミクロの世界の仕組みを知れば知る程、そこに高度な知性とデザイン性を認めずにはおられません。しかもそのミクロの世界を構成するすべての素粒子には「意識」があり、「意志」を持つと言うのですから驚嘆せずにはおられないのです。

 

 これだけでも分かれば人間の科学は、確かに大変な進歩を遂げているように見えます。しかし一方で、この宇宙全体が元々人間の意志と無関係に存在し活動していることに気が付かされます。それでいて実に不思議なのは、ほとんどの人はそれを当たり前のこととして、我がもの顔で生きているという事実です。この「当たり前のように生きている」こと自体が、少々おかしな話ではないでしょうか。

 人間が自分で造った生き物は一つもなく、本来自分のものと言へるものは、自分自身も含めて何一つ無いのです。とどのつまり、私たちはこの地球という、本来は誰か他人が所有する土地に、どうも勝手に住んでいるのではないかーそれを突き詰めれば、この宇宙全体は一体誰のものなのが問題になって来ます。さらに厳密に言えば、我々人間は地球の上に、たまたま「存在させられ」、誰かの意志で「生かされている」のかもしれないのです。

又、物理学的な見地からこの宇宙を見回してみましょう。私たちの住む大自然はとてつもなく膨大で、しかも微の世界の細部まで実に精巧・精密に出来ているだけでなく、それらが曲がりなりにも調和と秩序を持って共存・生存しているのです。そうであるなら、この宇宙の全存在が「誰かの意志で造られ、生かされている」ものであることを認めないとしたら、一体人間は科学者と言えるのでしょうか ― 正直にぶちまけた話、それが私の昔からの疑問でした。

 

 しかし、誤解しないで下さい。私は宇宙がどうして始まり、どうして出来たかを扱う物理学に昔から興味を持って来て、そのような分野で貢献して来た物理学者には今でも大いに敬意を払っている積もりです。何故なら、後述する量子論のように難解極まりない理論であっても、この「分けの分からない理屈」のお陰で、現代のコンピューターを始めとする多くの最新電子機器が生み出され、世の中がもの凄く便利になったからです。

 就いては、先程、宇宙には未だ正体不明なものが「暗黒物質」を含んで96%もあると書きましたが、誤解がないように、村山博士の次のようなコメントをご覧いただきたいと思います。

 氏は「『宇宙にはまだまだ謎がたくさんある』ということを知っておいてください。20世紀の終わりから21世紀の初めにかけて、これだけ『わからないことがある』とわかったこと自体が、現代物理学の成果であり、大きな前進なのです。」と書いておられます。

 

宇宙は人間が存在出来るようにつくられているー人間原理

 

 村山博士は、氏の著書『宇宙はなぜこんなにうまくできているか』で「宇宙は人間が存在できるようにつくられている」(175頁)と言われます。

 「様々な物理法則をあらためて見直すと、宇宙に人間が生まれるための条件が揃いすぎているように感じるのです。単純な話、たとえば重力の強さがちょっと違うだけで、太陽と地球の距離は今とは異なるでしょう。太陽にちょっと近ければ水は水蒸気になり、ちょっと遠ければ凍ってしまいますから、そこには生命体は生まれません。・・・それ以外にも、定数をちょっと変えるだけで星も生命も生まれなくなる現象は少なくありません。電磁気力や強い力がほんの少し弱かったり強かったりするだけで、この世はまったく違う様相を呈するのです。しかし現実には、どの法則も星や人間が生まれるのに「ちょうどよく」出来ています。・・・これはやはり不思議なことでしょう。どう考えても人間が誕生しない可能性のほうが高いのに、私たちはこうして存在している。偶然にしてはできすぎです。・・・「ではなぜ人間が存在するようにつくられたのか?」という疑問が出てきて当然でしょう。それを説明しようと思ったら、神様を持ち出すのがいちばん手っ取り早くなってしまいます。人知を超えた超越的な存在が、人間をこしらえるためにちょうどよく宇宙の法則を定めたのだーというわけです。そういう考え方も十分あり得ますが、これには科学者の出番はありません。」

 

 これは大変重要なコメントをされていると私は信じます。なぜなら、私がこの本を書いた最大の理由が、ヤーウエーなる神 God が真の創造者であることを私は聖書を引用し、それが物理学者を中心とした科学者の皆さんによっていつか裏付けしていただけると信じるからです。事実、現代の量子力学がもうその域に近づきつつあると私は確信します。と言うより創造者の神自身が人間に、特に多くの分野におられる科学者の皆さんに今、知識として明らかにされるように思います。

 

 又、参考文献の一つとして、イギリスの天文物理学者 John Gribbin による「宇宙で唯一 Alone in the  Universe 」をお薦めします。著者は、その序文で「それが神の手によるものかどうかは別にして、地球に住む私たちだけが、この宇宙で最も技術的に進んだ文明を持ち、宇宙の発祥とその特質を理解する上での唯一の証人であることを意味しています。・・・銀河系にある何千億個の星の中で、唯一地球だけが、高い知能の文明の保持者であり、その意味で地球は特別の惑星である理由を私はこの本で述べたいと思います。」と書いています。

 確かにこれだけ観測技術が発達した現在でも、未だに地球のように高等生物が棲息していると思われる他の星は見つかっていません。

 聖書には、この宇宙を創造したのはすべて人間のためであり、人間は将来神の住む高次元の「霊の領域」で、永遠に神の子として、神と共に住むことが最終目標であると書かれており、それについて詳しくお伝えするのが本書の目的です。

 

進化論について

 

  世の中には科学的マインドを持ち、頭が切れ、ものを深く考えることの出来る人たちが大勢います。それにもかかわらず、なぜ総ての生き物は原生動物のアメーバの様なものから何億年もかかって今の生き物に進化したと言う「創造者抜きの進化論」を信じている人が多いのでしょうか。

 ダーウイン以降発展して来た「進化論」を、私は科学的考察でないと言っているのではありません。何故なら「創造者はいない」「元々創造されたものはない」と言うことを、結論ではなく、あくまでも前提として「進化論」が出発して来たように私は思うからです。その前提で「創造者の神がいない」ことを懸命に論証しようとしている点、それは立派な「科学的態度」であることを私は認めたいと思います。同じことが物理学者にも言えます。多くの優秀な宇宙とか素粒子を専攻されている物理学者が「創造者抜きで」元々何もないところから自然発生的に宇宙が出来、人間が生まれた可能性を真摯に研究され続けておられることに私は頭が下がりますし、心から敬意を表します。

 ところで進化論の定義そのものも「進化」していることに私は気が付きました。ダーウインの「種の起源」が発評されてから既に150年以上経ちますが、フリー百科事典ウィキペディアによれば、「現代的な進化論は単一の理論ではない。それは適応、種分化、遺伝的浮動など進化の様々な現象を説明し予測する多くの理論の総称である。生物で言う進化には、進歩する、前進する、より良くなるなどの意味はない。」と書かれていることにご留意下さい。もっともこの「ウィキペディア」の定義そのものもどんどん変わって来ていることにも私は気が付きました。

 もう一つだけ申し上げれば、科学には全くの素人ですが、私は昔から 一つの疑問を持って来ました。それは「自然の成り行きだけでは、無秩序(カオス)から秩序は決して生まれない。」と言う真理(エントロピーの法則)と進化論が相容れないのではないかと言う疑問です。

 

この宇宙には「知性」と「デザイン性」がある

 

 私は、この宇宙の全ての存在と構成に「知性」と「デザイン性」を認めざるを得ません。そうであれば正直なところ、知性は知性を持つ者が存在することを示し、デザインはデザイナーによって考案されていると素直に思いたいのです。

 この話は三十年も前にアーサー・カスタンス氏の本で読んだものですが、氏は、この美しい大自然の中で、生き物が元来どれほどうまく共存しているかに注目しています。

 彼はその一つとして、ワニとワニチドリと言う小さな鳥との共存友好関係を指摘しています。ワニには歯茎に寄生虫がわくそうですが、それに悩まされるようになると、ワニは陸に上がって奇妙な鳴き声を立てます。するとそれが合図なのか、ワニチドリが飛んできてワニの口の前に降り立つ。するとワニは大きな口を開き、鳥が中に入るとやさしく口を閉じる。中に閉じ込められた鳥は寄生虫とか歯の間に挟まった食物と言うご馳走を食べ、終わると口中の壁をこつこつと叩いて仕事が終わったことを知らせます。するとワニは美味しい小鳥をそのまま食べてしまいたいのを我慢して、口を開いて小鳥を出してやるそうです。これは動物同士の相互扶助、共存共栄の例であると言います。

 考えてみれば、これは実に奇異なことではないでしょうか。動物たちの通常「食うか、食われるか」の世界に、このような「共存共栄」が存在すると言うこと事態に、私は誰かが意識してそれぞれ違う動物を造った「デザイン性」を見ない訳にはいかないと思うのです。

 私は、長い間アメリカでも特に大自然が美しいキャスケード山脈に近いオレゴン州に住んでいました。趣味がフライ・フィッシングなので、特に魚については関心が深いのですが、極寒で魚が凍死したと言う話は聞いたことがありません。魚には水が絶対に必要です。実はご存知のようにその水が最高の冷暖房装置の役目を果たしているのです。

 水は外気が氷点下以下に冷えると氷に変化します。しかし、その表面の氷の下では水温が通常摂氏4度以下には下がらないそうです。これによって水中の生き物は、外が零下何十度と言う吹きさらしの厳しい環境であってもそれから保護されます。又,夏になるとかなり暑い日でも,湖には冷たい清流が川から流れ込んで冷やします。水中の魚は温度の冷たい底の方に移動し,自分の好きな温度の深さで快適に過ごせる。どんなに暑い日でも底の方に行けば、最高12度ぐらいまでで、それ以上は暑くなりません。

 これは何とすばらしい仕組みでありましょうか。生き物で水を必要としないものは一つもない。その水がどれほどうまく機能するように造られているか、本当に驚嘆せざるを得ません。上に挙げた二つの例を見ても、この大自然が誰か超人間的な思慮深さを持つ設計者の手によって造られていると思わざるを得ません。

 考えてみて下さい。人間ほど「創造」すること、つまりものを発明したり、創り出すことの好きな動物は他にいません。それに、人間なら誰しも、新緑に輝く野山を歩く時、きれいに晴れ上がった夜空を眺める時、生けられた一輪の清楚な花を閑静な茶室で眺める時、それを美しいと思わない人はいないと思います。詩人とか絵描きだけではない。どんなに忙しいビジネスマンでも「美しさ」を求め、美しいものを愛さない人がいるでしょうか。自分の人生を、家庭を美しく良いものに作り上げて行こうと思わない人はいないと思います。

 その意味で人間は皆、美を愛し、芸術を愛し、人の創作を尊重します。それが証拠に、人間は一枚の絵に何千万円も出したり、小説が何百万部も売れて、その本が面白いからと言って徹夜で読んだりします。そして映画・演劇に、又音楽の演奏会に熱心に通う人が大勢います。総ての動物の中で人間だけがそのような素晴らしい「芸術性」を持っていると言う事自体が、私には大変興味深いことのように思えます。

 何故かと言えば、聖書が言うように、もし人間が「神と言う創造者自身に似せて造られた」神の最高の被造物(作品)であるのなら、我々人間が創造を好むことに何ら不思議はないからです。第一、創造する者でなければ、創造が何であるかすら分からないはずです。まして創造者が存在することが考えられるのも、自分が創造者の端くれであるからではないでしょうか。この事実は、宇宙を造った「創造者」が存在する有力な証拠の一つのように思えてなりません。・・・・以上です。(終り)


18 01月

聖霊の力を受けて証人となる    ベンジャミン・イスラエル•ロビンソン  2016年1月18日


聖霊の力を受けて証人となる

 

ベンジャミン・イスラエル•ロビンソン

 

イエスは最初の教会を始めようとしておられました。イエスは何が起るかをご存知でしたが、弟子たちは知りませんでした。イエスはすべてのことを弟子たちに話されたのではありません。主は唯彼らをオリーブ山に連れて行かれ、「あなたがたはわたしの証人になります。」と言われたのです。証人というのは、自分が見聞きしたことを話すことです。教会のメンバーになるというのは証言をする群れの一人となることです。

 

証人になるためには、クリスチャンになってから時間がかかると思う人があるかもしれません。証人になるのは、訓練され、知識が増えて賢くないとできないと思う人もあるでしょう。でもそれは間違いです。しかし、自分の力ではできないことは知らねばなりません。

私には、イエス・キリストの証人になるための力も、知恵も、権威も、見識もないのです。イエスもそれをご存知でした。ですから主は「あなたはエルサレム(あなたの毎日の生活の場)、ユダヤ(あなたの街とか)、サマリヤの全土(あなたと昔から折り合いの悪い人たち等)、および地の果て(すべての壁を越えて)までわたしの証人となります。でもあなたは父が約束してくださった聖霊があなたの上に臨まれるまで、エルサレムを離れてはいけません。」と言われたのです。「一緒にあつまって父の約束が与えられるまで祈って待ちなさい。

あなたはその時、力を受けて、わたしの証人となることができるのです。ですから出かける前にまず祈り会をせねばなりません。」と言われました。ですから彼らが最初にしたのは、祈り会でした。

 

チラシをエルサレム中に配って教会に招待するのでもなく、教会のすばらしいホームページを作ることでもありませんでした。主は「皆で部屋に入り、神が訪れるまで、そこを離れてはいけません。」と言われたのです。これがイエスが初代教会が始まるときに確立されたルールでした。イエスの証人になることは、聖霊があなたに臨まれるときに、自然に起こることなのです。「今、街頭に立ってイエスの証しをして来なさい。」と言われたら、皆さんは「えーっ!どうしよう!」と思うかもしれません。私もそうです。でも聖霊があなたに臨まれると、聖霊があなたをつき動かしてくださり、イエスの十字架と復活を語ることは全く自然なことになるでしょう。聖霊がいつそのようにされるのかあなたには分かりませんし、自分でそのようにしようとすることもできません。

 

少し前に私は娘とマニキュア・サロンに行きました。娘とのデイトでした。どのように主が証人となる戸を開いてくださったのかも思い出せないのですが、気がつくと私はそこにいた人たちに福音を語っていました。そしてその内の二人の婦人が涙を流してイエスを信じたのです。店を出るとき、私は「何てすばらしことが起こったのだろう!いつもこの様にできたらいいのに!」と思いました。

どうすればそれが起るかを私は知りませんが、神はご存知です。聖霊が臨まれて自分の力では作ることのできないチャンスを作ってくださるのです。

 

イエスが弟子に教えた戦略は「聖霊が来るまで祈りなさい。その時あなたはわたしに証人となります。」というものだったのです。イエスの昇天後、弟子たちはエルサレムの屋上の間に上がり、心を合わせて祈りに専念し始めました。何を祈ったのでしょうか。それはイエスが言われように聖霊が来るように祈ったのです。初代教会の最初の祈り会は、そこにいたメンバーの必要に関する祈りではなかったのですね。誰かの病気のためとか、誰かの職探しのためとかではありませんでした。勿論私は、神にとってそのようなことがどうでもいい事だと言っているのではありません。どのように小さなことでもご自分の子どものことは神の関心事です。しかし私たちの祈り会の中心はそのような事ではないということです。それらの事柄を祈ってはいけないということでもありませんが、それが一番のことではないのです。

ともすると私たちは集まって、自分たちの必要が満たされるようにという祈りばかりしてしまいます。使徒行伝の中には4つのパワフルな祈り会のことが書かれていますが、メンバーの必要に関する祈り会ではありません。4つはすべてミッションが中心です。

 

聖霊を待つこの祈り会は10日間続きました。聖霊が臨まれるように祈り続けたのですが、これは聖霊なしに祈ったのですから、大変なことでした。私が12歳の頃、おばあさんに毎日チャペルに連れられて行きました。「聖霊が来るように一時間祈りなさい」と言われました。一時間経ったかと思って時計をみると、まだ3分しか経っていませんでした。初代教会の最初の祈り会では、120人が一緒にいて心を合わせていたことは、大変重要でした。神を求めていて臨在を感じないときでも、私たちは周りの人たちに励まされて祈りつづけることができるのです。一人で走っているのと、一緒に走ってくれる人がいるのとは全然違うのと同じです。

 

120人は10日間祈っていましたが、何も感じなかったことでしょう。今の教会は5分祈って何も感じないとやめてしまいます。というのは私たちはご褒美がもらえないとすぐやめてしまうカルチャーの中にいるからです。でも120人は止めませんでした。そしてペンテコステの日に聖霊が臨まれました。激しい風のような響きが起こり、炎のような分かれた舌が現れて一人ひとりの上にとどまりました。その炎は彼らの心に入り皆が聖霊に満たされました。一人だけではなくすべての人が満たされたのです。

 

一つところに集まって「聖霊よ、来て下さい」と祈ったとき、それがどのような形で訪れるか、彼らには全く予備知識がありませんでした。今まで起ったことがなかったからです。

皆さんにお知らせしたいことがあります。それは神様はどの教派にも属しておられないことです。バプテスト派でもない、ペンテコステ派でもありません。福音派でもないし、長老派でもありません。教派とはなんでしょうか。それは、聖霊は何をしてもよいか、何をしてはいけないか、を決めてしまっているグループです。「私はバプテスト派ですから、そういうことは信じていません。・・」という様にです。

両極の律法主義があります。カリズマ派の律法主義と保守派の律法主義です。カリズマ派の律法主義は、「聖霊が来るとき、人々は倒れたり、床を転げ回ったり、笑ったり、叫んだり、泣いたり、身体をぴくぴくさせたりしなければならない」というものです。その反対に保守派の律法主義は「聖霊が来るときは何をしてもかまいません。ただし、倒れたり、身体を震わせたり、笑ったり、叫んだり、泣いたり、異言で語ったりしてはいけません。」というのです。片方は聖霊を「常にこのようなことをせねばならない」という箱の中に入れていますが、他方は「決してこのようなことをしてはならない」という箱の中に入れています。けれども神を箱の中にとじこめることは決してできません。「神は必ずこの様にされる」とか、「決してこの様にはされない」という既成概念を捨てようではありませんか。そして神が神であられることを許すのです。神ご自身に何をどのようなされるのかを決めていただくのです。私たちが共に集り聖霊を待ち望むとき、何がどのように起るのかは聖霊に決めていただこうではありませんか。聖霊が神であり、私たちは神ではないのですから。

 

それはつまり、「身体が震えなかったから聖霊は来られなかった」と言わないことです。それと同時に何か奇妙なことが起ったとき、「私はカリズマ派ではないからこういうことは好まない」と言ってその場を去ることをしないということです。聖霊がされることに常に私たちはオープンであることです。私たちが聖霊のされることに心からオープンになったとき、神はその都度違うことをされるのです。神は非常にクリエイティブな方です。私たちが集まっていつも同じことをしているならば、それは聖霊を閉め出しているからかもしれません。聖霊があなたを自由にされるためには、あなたがまず聖霊を解放し自由にせねばならないのです。私たちは聖霊を教派の教義という箱にずっと閉じ込めて来たのです。

 

あなたはクリスチャンですね。聖霊の賜物はカリズマ派だけにものでしょうか、それともイエス・キリストの働きでしょうか。「私はカリズマ派ではないから病人の癒しは信じない。」と言われるのですか。でもあなたはイエスを信じておられるのですよね。イエスは病人を癒したいと思われたら、癒されるのです。イエスがイエスでいられるように解放しようではありませんか。

 

ですから弟子たちは何の既成観念もなしに集まっていました。イエスが聖霊はどのように来られるのかを何も言われなかったからです。ただ「祈りなさい。それが起るときにわかるでしょう。」と言われました。聖霊があなたの人生に侵入してくるとき、それははっきり分かるのです。劇的な経験をする人もありますが、静かに起ることもあります。私の場合は夜中に神にささやくように感謝の祈りをしていたときに起りました。ですから目に見える現象ではなく、聖霊そのものを私たちは求めるのです。どのように来てくださるかは、聖霊が決められるのです。

 

弟子たちは聖霊に満たされて、大声で大胆に話し始めました。これが最初のしるしでした。サタンはあなたがイエスの証しをすることを止めさせたいので、あなたが声を出さないようにするのです。大きな声で祈ることをしないクリスチャンが多くいます。ワーシップも証しの一つですが、サタンはあなたがあまり声を出さないようにするのです。あなたが大きな声でワーシップをするとき、あなたの周りにいる人が励まされるので、サタンは「あまり大声で歌うな。お前は大したクリスチャンでもないのだから。」とか「お前は歌が下手だ。」とかささやくのです。私の娘が歌ってくれるとき、私にとってそれはとても美しく聞こえます。神もあなたが歌うとき、それが上手でなくても、神には美しく聞こえるのです。あなたは神の子どもだからです。

 

私にとってみ言葉を静かに黙想し主の前に静まる時はとても大切です。でもそれと同時に声を出して「主にむかって叫び、喜びの声をあげる」ときも大切です。声をあげるのは常の状態よりもっと力を入れることです。そのような祈りの時を毎日持つべきです。そして日曜の礼拝にみなで集まるときは、家族に迷惑をかけることなく大胆にできる時です。

 

ペテロは聖霊に満たされて大胆に語りはじめました。彼は神学校に行ったこともなく、説教のための準備もしませんでしたが、彼の中に蓄えられていたみ言葉が聖霊によって活性化され炎のように燃え上がったのです。教会の一番最初の祈り会の目的は、弟子たちに証しの力を与えることでした。

 

使徒行伝2:41、42には「そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」とあります。すべての者はイエスの与えた大宣教命令を、力や権力ではなく聖霊の力によって果たすために、祈りに専念したのでした。使徒行伝に書かれている祈り会はすべて伝道のための祈り会でした。彼らが更に聖霊に満たされ、イエスの死と復活を力強く語る力を得て、伝道の業が前進するようにと祈ったのです。

 

皆さん、今は祈る時です。祈りに専念するときです。正しい目的のために祈りに専念する時です。私たちがイエスの死と復活と栄光を力強く証しする者となるために力を受けるのがその目的です。

あなたの必要はすべて神の関心事です。しかし「神の国とその義をまず求めるとき、すべてのものは添えて与えられる」のです。ですから「すべてのもの」は神にお任せして、祈りの声をあげてイエスの証人となるために聖霊の力を受けようではありませんか。(終り)


12 01月

WWGM  2016年の計画          坂  達 也 2016年1月11日


WWGM 2016年の計画

 

                  坂  達 也

 

 新しい年2016年を迎えました。皆様の中には今、新年がどのような年になるかを、抱負と期待をもって熱心に主にうかがっておられる方もおられるかと思います。そこで私たち WWGM としても年頭に当たり、下記の通り、先ず今年の計画を皆様にお分ちさせていただきたい、そのためのお祈りとご協力をお願い申し上げる次第です。

 

 今年は、私が80歳を迎える一つの節目の年であるのですが、私がクリスチャンに新生してから40年が経ち、新年はいよいよ次の40年目を踏み出すという新たな信仰の思いで膨らんでおります。(但しそれが肉の思いでないことを吟味しつつ)昨年迄はまさしく先週のメッセージでダッチ・シーツ師が云われるように、私たちも試練と忍耐の中を通されながら主から「待つ」ことを学んで参りました。一つ云えることは、私たちはそれから決して逃れることを望むのではなく、再臨の日迄、主が私たちへの愛のゆえに私たちそれぞれに必要な信仰の厳しい訓練を賜ることは、私たちが神の子であるかけがえのない特権であり、私たちの望むところであることです。

 しかしながら、今年が今迄と少し違うのは、今年からより多くの人たちに、それぞれに必要な「打ち破り」と、信仰で待って来たことを実行に移す「カイロス・タイムのよい機会」を主が与え始めて下さるという期待を感じていることです。

そこで私たちの今年への予測と計画は下記の通りです。

 

(1)新年は、世界各地で益々激しくなる戦争とクリスチャン迫害、そして経済破綻が起こる間をぬって、リバイバルが起こり始める気配が期待されます。すなわち、世の中がいよいよ暗くなり、その暗闇の中で私たちが主の栄光を輝かせる機会をいただくということであり、それを逸することのないようにお互いが一致協力する年であるように思います。又、この世には既にものすごい大量な情報が氾濫し、多くの人々はそれに肉的に麻痺されていますが、これから益々「反キリスト」「偽使徒・偽預言者」からのメッセージが流されることを覚悟しなければならないと思います。

 そのような中にあって私たちWWGMのミニストリーが、その氾濫する情報源の一つで終わることなく、より霊的で的確な主のメッセージをお届けするために一層の霊的努力をしなければならないと覚悟しております。そのために、今年は、真のリバイバルが起きようとしている場所を厳選して訪ね、そこで主の動きを起こしている中心人物たちを個人的に知り、その人たちのメッセージをお伝えしたいと願っております。これには皆様からの背後の祈りのサポートが絶対に必要です。

(2)次に、過去十年来の計画として準備をし、何度も書き換えながら本日に至った私の「創造者の神」についての本の原稿を、今年完成させ、年内までに出版する計画です。就きましてはその出版の前段階として、マルコーシュ出版のご好意により今年の一月号から雑誌「ハーザー」に少なくとも最初の部分を連載させていただくことになりました。雑誌での題名は「創造者の神と量子論ー見えるマクロの世界と見えないミクロの世界の探求 」ですが、最終的に出版する本の題名は未定です。ご興味がおありの方はぜひハーザー誌をご覧下さい。

 

 私はクリスチャンになって以来、キリスト教の神が「創造者の神」であると言う事実が私にとって他の何よりも重要で、圧倒的な関心事でありました。そしてその神が「人間を創造した究極の目的がどれ程偉大であるか」をすべての人間に知らせねばならないという強い思いを主からいただき、それが私に「与えられた使命」のような格別の思いを持って参りました。

 ところが、聖書を通じてそれを人々に説得するとなると「どうせ宗教の話しだろう」位に取られがちで、もう一つ説得力がないことを40年のクリスチャン生活でいやと云う程経験しました。そこで私は、全知全能の創造者が全創造をされたのなら、神こそ最高の科学者であり、その神の創造を人間の科学で的確に説明・論証出来ない訳はないと思い立ったのです。

 そのような私は元々文科系の人間でしかないにもかかわらず、とっかかりとして宇宙物理学の分野を平易に書いてある科学書の幾つかを読み始めました。そのような本を眺めているうちに、アインシュタイン以降の物理学者が行き着いた「量子論、量子力学」が「霊の世界」の解明に大きな貢献をしていることに気が付いたのです。それだけではありません。ほとんどが未信者である科学者の皆さん自身が「目に見えないミクロの世界」の素粒子物理学が、従来からのマクロ世界の物理学とは全く異質で、その「訳の分からない奇妙な微粒子のふるまいが霊の世界であること」を完全には理解しきれないでいることが分かって来たのです。そして私はクリスチャンにこそ聖書に書かれている創造の真理を科学者に理解出来るように説明する義務があると信じるに至りました。つまり、科学者と神学者(霊的に成熟したクリスチャン)が共同で霊の世界の「力学」を解明することを主が望んでおられることであると信じます。

 そして、ある意味でそれ以上に重要なことは、聖書に書かれている真理ーたとえば「信仰の働き」「聖霊の働き」「イエス・キリストの誕生から十字架に掛かり全人類のために死んで天によみがえられたプロセスの意味」ーが科学的に納得がゆく説明・証明されるなら、それこそが、未だ霊のことはよく分からない、経験していない「頭のクリスチャン」にとってどれ程の福音となるか、それが私を興奮させたのです。そこで私はここ数年間、ない頭をしぼり多少でも理解した物理学の知識が聖書の霊的理解に役立つと信じるに至り、本を書き始めました。それをご理解いただくために、WWGMの次回のメッセージでその具体的な例を述べさせていただきます。

 

(3)私たちは1995年秋にヘンリーグルーバー師夫妻を日本に紹介し、その後の10年間はグルーバー師と共にその同労者として年に二度日本を訪問し、各地の教会を訪ねて参りました。又、2005年以降はグルーバー師とは別行動を取り、私たち夫婦でのWWGMミニストリーを本日迄、毎年日本にうかがって教会訪問を続けて参りましたが、最近は訪問する教会の数も減って来ておりました。

 しかしこれからは、前述の新しい角度から聖書を科学的真理として説くことによって「信仰がすべてであること」と「霊的になる」ことの重要さと必然性、更に、クリスチャンは神の超自然の力を信仰で大いに実用的に用いることが可能であることを、全国の出来るだけ多くの教会に伝えたいという新たなミッションへの情熱をいただいております。

 既に昨年秋に来日の折、2−3の教会を訪ね、上記の量子論を引き合いに出し恐る恐る聖書の真理を新しい見地から話させていただきましたが、かなりポジテイブな反響を得ましたので意を強くしております。従って、新年は以前に増して各地を廻らせていただきたいという希望を持っております。

 それは、最後のリバイバルでは先ずクリスチャンとその教会をリバイブしなければならないと信じるからでもあります。従ってカリズマ系の教会だけでなく、むしろそうではない教会でお話しをさせていただきたいのが私の願いです。

 

(4)最後は、昨年11月3日付けで、私の日本旅行から帰った感想として述べた提案を具体化推進することですが、日本で今一番必要な霊的メッセージを私たちの教会のベンジャミン•ロビンソン牧師とか私たちを含む陣容で、アメリカからビデオ通信で配信したり、あるいは、日本に来て講座を持つとか、日本の教会とタイアップする可能性を検討し、出来るだけ早い時期に実現することです。

 

 以上ですが、これを実現させるためには私たちに新たな資金が必要となって参りました。そこで思い至ったのは、この10年余を通して私たちが多くの時間を費やして奉仕させていただいているWWGMからの献金がほとんどゼロに近い状態であることです。その理由は下記でご説明します。

 

 又、他の収入源としては過去二十年間(最初の10年間はグルーバー師夫妻と共に、その後の10年間は私たち二人でのミニストリーとして)日本の各地の教会を訪ねるミニストリーを通していただいた謝礼献金があります。しかしながら、最近の二年程は訪問する教会が減っており、その際いただく皆様からの献金が旅費代をカバーするのがやっとと云う現状です。勿論そのような旅行が出来るだけでも大変な祝福をいただいている訳ですから、主を通して私たちを親しく迎えて下さっている日本の教会の皆様には心から感謝していることに変わりはありません。しかし状況の変化に伴い、私たちは今年から、積極的な意味で、皆様に献金のお願いをさせていただくことに決意しましたことをお伝え申し上げます。

 

 そこでWWGMへの献金に関して当初からの事情をご説明致しますと、先ず私たちは過去において一切皆様に献金をお願いしたことがないことです。唯、最初WWGMを立て上げた出発の際に、次のように私たちの献金に対する考えを述べさせていただきました。それは今でもWWGMの見出し頁の上部左端に小さな字で私たちのミニストリー紹介の欄がありますが、その最後に下記の通り書かせていただいております。

「私たちは原則として皆様に献金をお願いしておりませんが、私たちのミニストリーをサポートするように主から特別に示された方からは喜んで受けさせていただいております。」と記し、その後で献金を送られる場合の銀行口座番号等を付記してあります。実際にこの趣旨は今でも私たちの主にあっての建前であることに変わりはありません。しかし、今年からは、積極的に皆様が私たちのミニストリーに参加して下さり、いわばパートナーとして私たちのミニストリーをサポートしていただくことをお願いする ー これについて主にこの一年間程祈って参りました。そして主からの許可として、今回家内と私の二人が一致して心からの平安を得ましたので、今回皆様にご提案させていただくことになった次第です。

 

 従って私たちのミニストリーを同労者としてより積極的にご支援いただける方(すなわち主がそれを許される方々)には、どのような形でも、又いかなる金額でも結構ですので、献金のお願いをさせていただきます。方法としては一定額を毎月(自動)送金していただくか、あるいは主に示されるままに、不定期に献金をしていただいても結構です。私たちの経済の一切を主と皆様に謹んでお委ね致します。尚、私たちが必要としている献金の希望目標額ですが、月々合計10万円を皆様からご支援いただければと願っております。

 又、本の出版に際しても資金が必要です。これに関しても、とりあえずは皆様にぜひお祈りいただきますようお願い申し上げます。

 

 私たちへの献金の振込先:

 ゆうちょ銀行 記号番号 12120−78497141 バン タツヤ

 

 尚、ご送金の際は、どうぞ皆様のお名前と金額をEメールで私たち宛にお知らせいただければ幸いです。私たちのメール・アドレスは tatsuyayumiko@gmail.com です。ご質問があればどうぞこのアドレスにメールを頂戴したくよろしくお願いします。

 

郵送の場合は外国で申し訳ありませんが下記へチェックでお願い致します。

 

Tatsuya & Yumiko Ban   1908 Golden Rain Rd. Unit #1

                                        Walnut Creek CA 94595,  USA

                               (終り)


04 01月

待つ価値のあるお方     ダッチ・シーツ       2016年1月4日


皆様、2016年明けましておめでとうございます。今年の最初のメッセージをお届けします。どうぞ今年もよろしくお願いします。         坂 達也・柚実子

 

待つ価値のあるお方

 

ダッチ・シーツ

 

私たちは出エジプト記24:13—18の箇所を読んでも、次の点を見逃してしまうことが多いのではないでしょうか。即ち、主がモーセを呼ばれ神の栄光の雲の中へと招かれるまで、モーセとその従者であるヨシュアは6日間、シナイ山で待っていたことです。神が沈黙されていた6日の間、二人は一体何をしていたのだろうか、と考えてみたことがありますか?

そしてモーセが雲の中に入ってしまってから、若者のヨシュアが一人で雷や稲妻の中その後34日間も留まっていたことも私たちは見落としてしまっているのではないでしょうか。

 

ヨシュアが神の臨在を深く愛する者となったのは、恐らくこの経験を通してではなかったでしょうか。山を下った後、モーセが会見の天幕から帰ったあとも、ヨシュアはまだそこを覆っていた神の栄光の雲の中で幕屋を離れないでいたと書かれています。(出エジプト33:11)ヨシュアがシナイ山で神の臨在の中、或いはその近くにいた間、実際に何をしていたかを聖書は語っていません。しかし私がこの非常に興味深い出エジプト記の箇所を調べていた時、神は次の言葉を語ってくださいました。「待て。待て。待て。待て。待て。Wait.Wait.Wait.Wait.Wait.」

ヘブル語で「待つ」という意味を表す言葉は幾つかあり、その意味も幾つかあります。私は「待て。Wait.」という主の言葉を5回繰り返して聞いたのですが、主がそれぞれの「待て。」を何を強調して言われているのかを霊ではっきり悟ることができました。

 

1.主が語られた最初の「待て。」は、静かに落ち着いた信頼をもって待つという意味です。これは深い関係の絆を基盤として築かれる信頼をもって待つという姿です。私たちが主を十分に知るとき、私たちの心は人生の最悪の嵐の最中でも静かに主に信頼することができます。この点において父親役のモーセは若いヨシュアに影響を与えることができたかもしれません。しかし、ヨシュア自身も主の慈しみとまことを十分知っていたのです。自分に対する神の語りかけがなく、何の不思議な業を見なくても、彼は民が恐れた雲の中にあって平安でいられたのです。

2.二番目の「待て。」は、普通よく使う「忍耐強く待つ」という

意味です。私たちは神との親密な関係を結んだ結果、神は遂には必ず事をなしてくださると信じて疑うことなく、安心して待つことができます。私は25年ほど前に、霊的覚醒が起るというヴィジョンを初めて受けたのですが、もしそれが実際に起り始めるのにこれほど長くかかると分かっていたなら、忍耐強く待つことはできなかったかもしれません。しかしながら、次の神の偉大なムーブメントが完全に満ちるには後25年待たねばならないと今主に告げられたとしたら、私は忍耐強く待つことができると思います。それは私が主と共にずっと歩んできたので、主は約束を必ず守ってくださる方であり、主のなさることは常に正しいことを学んできたからです。

 

3.三番目の「待て。」は能動的な信仰を示唆しています。私たちは深い関係を基盤とした神への信頼を持っているかもしれませんが、その信仰は行動を要するのです。私たちは神は約束された事を必ず成してくださると完全に信じ期待する間も、自らも行動しながら主を待ち望まねばなりません。ただ主がしてくださるのを望んで何もしないでいるのではありません。神が働いてくださると確信するので、あなたは主に徹底的に従う人生を送り、大胆に宣言し、実がなるのが遅くなっても落胆せずに信仰の冒険の一歩一歩を歩んで行こうと決意するのです。あなたが蒔くものをあなたやあなたの世代が刈り取るという神の約束を信じて疑わないからです。

 

4.四番目の「待て。」は、あることや、又は誰かと共に結び合わされるという意味です。これはイザヤ40:31の「主を待ち望む者は新しく力を得る」で言われている「待つ」です。ヘブル語の原語はgavahで、「ねじりながら一緒になる、一緒に編み込まれる」という意味です。この「待つ」を通して、私たちは主と一つになるのです。このように「主と共にしっかりと編み込まれた状態で待つ」というプロセスの中で、神と私たちの心は一つとなり、主は私たちを御そばに引寄せてくださるのです。

 

撚られた紐のようにしっかりと主と組み合わされて、私たちは主と同じ思いになり、同じ事を考えるようになるので、主の御こころを達成するための力が何倍も与えられるのです。それは箴言16:3の「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。(あなたのしようとすることを主に信頼して完全に委ねなさい。そうすれば主はあなたの思いを御こころと一致させてくださいます。そしてあなたの計画は確立され成功するでしょう。)」という御言葉の成就です。

 

5.最後の「待て。」を主が大声で言われたのを、私は霊ではっきり聞いたのですが、次に主はその言葉の綴りを言われました。主は「wait 待つ」ではなく「W-E-I-G-H-T 重み」と言われました。それは実際に質量のある重い主の栄光の臨在のことを指しています。栄光を表すヘブル語は、実際に「重い、どっしりとした」という意味です。主は「もしこれからの日々、あなたが私を待ち望むことを学ぶならば、即ち信頼し、忍耐強く、期待を持って、私と一つとなって待つならば、わたしはわたしの栄光の重みをもって訪れるでしょう。わたしは多くの都市や地域を覚醒させるために来て、わたしの重いシャカイナの栄光があなたの内に、又あなたの周りに留まるようにするでしょう。

 

アダムがわたしに似た者として、わたしの栄光の冠を与えられ、わたしの臨在の中に浸されていたと同じように、わたしはあなたにわたしの栄光の冠を与えます。わたしはあなたの上にわたしの重い臨在を置き、あなたは地上でわたしのために統治するものとなるでしょう。あなたは大いなる権威と力を持って歩み、しるし、不思議、奇蹟が伴うでしょう。使徒行伝の教会の時代のように、人々はあなたによってわたしを知り、あなたは『私にあるものを上げよう。(使徒行伝3:6)』と言うでしょう。今は神の息子たちが地上に現れ、全地がわたしの栄光で満ちるときです!今がその時です!大勢がやってきます!」

 

私たちは今まであまりにも長い間、神が私たちのために用意された啓示のレベルよりずっと低い所を歩んできてしまいました。「栄光の神が私たちの内に住んでおられ、私たちは聖霊の宮であり、イエスの中にあったのと同じ力が私たちの内にあり、主の超自然的業よりもより大きな業をすることができる」という理解を更に深め、認識するようにと、主は今、私たちを呼び出しておられるのです。主は今、すべての場所、すべての社会的分野へと神の栄光の雲を持ち運び、国々を変革させることができるような「(神の栄光で重い)ヘビーウエイト級の男女」を建て上げようと願っておられるのです!

 

主はあなたを待っておられます。あなたはあなたの内に主の臨在と力の栄光ある重みが激しく増し加わるまで、主を待ち、待ち、待ち、待つ用意がありますか?

あなたはある期間、テレビやソーシャルメディアを見ずに消したり、既に予定していたことをあなたの予定表から消したりして、もっと主と交わる時間を作らねばならないかもしれません。しかし、私はお約束しますが、主はあなたが待ち望む価値が絶対にあるお方です。(終り)