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18 1月

聖霊の力を受けて証人となる    ベンジャミン・イスラエル•ロビンソン  2016年1月18日


聖霊の力を受けて証人となる

 

ベンジャミン・イスラエル•ロビンソン

 

イエスは最初の教会を始めようとしておられました。イエスは何が起るかをご存知でしたが、弟子たちは知りませんでした。イエスはすべてのことを弟子たちに話されたのではありません。主は唯彼らをオリーブ山に連れて行かれ、「あなたがたはわたしの証人になります。」と言われたのです。証人というのは、自分が見聞きしたことを話すことです。教会のメンバーになるというのは証言をする群れの一人となることです。

 

証人になるためには、クリスチャンになってから時間がかかると思う人があるかもしれません。証人になるのは、訓練され、知識が増えて賢くないとできないと思う人もあるでしょう。でもそれは間違いです。しかし、自分の力ではできないことは知らねばなりません。

私には、イエス・キリストの証人になるための力も、知恵も、権威も、見識もないのです。イエスもそれをご存知でした。ですから主は「あなたはエルサレム(あなたの毎日の生活の場)、ユダヤ(あなたの街とか)、サマリヤの全土(あなたと昔から折り合いの悪い人たち等)、および地の果て(すべての壁を越えて)までわたしの証人となります。でもあなたは父が約束してくださった聖霊があなたの上に臨まれるまで、エルサレムを離れてはいけません。」と言われたのです。「一緒にあつまって父の約束が与えられるまで祈って待ちなさい。

あなたはその時、力を受けて、わたしの証人となることができるのです。ですから出かける前にまず祈り会をせねばなりません。」と言われました。ですから彼らが最初にしたのは、祈り会でした。

 

チラシをエルサレム中に配って教会に招待するのでもなく、教会のすばらしいホームページを作ることでもありませんでした。主は「皆で部屋に入り、神が訪れるまで、そこを離れてはいけません。」と言われたのです。これがイエスが初代教会が始まるときに確立されたルールでした。イエスの証人になることは、聖霊があなたに臨まれるときに、自然に起こることなのです。「今、街頭に立ってイエスの証しをして来なさい。」と言われたら、皆さんは「えーっ!どうしよう!」と思うかもしれません。私もそうです。でも聖霊があなたに臨まれると、聖霊があなたをつき動かしてくださり、イエスの十字架と復活を語ることは全く自然なことになるでしょう。聖霊がいつそのようにされるのかあなたには分かりませんし、自分でそのようにしようとすることもできません。

 

少し前に私は娘とマニキュア・サロンに行きました。娘とのデイトでした。どのように主が証人となる戸を開いてくださったのかも思い出せないのですが、気がつくと私はそこにいた人たちに福音を語っていました。そしてその内の二人の婦人が涙を流してイエスを信じたのです。店を出るとき、私は「何てすばらしことが起こったのだろう!いつもこの様にできたらいいのに!」と思いました。

どうすればそれが起るかを私は知りませんが、神はご存知です。聖霊が臨まれて自分の力では作ることのできないチャンスを作ってくださるのです。

 

イエスが弟子に教えた戦略は「聖霊が来るまで祈りなさい。その時あなたはわたしに証人となります。」というものだったのです。イエスの昇天後、弟子たちはエルサレムの屋上の間に上がり、心を合わせて祈りに専念し始めました。何を祈ったのでしょうか。それはイエスが言われように聖霊が来るように祈ったのです。初代教会の最初の祈り会は、そこにいたメンバーの必要に関する祈りではなかったのですね。誰かの病気のためとか、誰かの職探しのためとかではありませんでした。勿論私は、神にとってそのようなことがどうでもいい事だと言っているのではありません。どのように小さなことでもご自分の子どものことは神の関心事です。しかし私たちの祈り会の中心はそのような事ではないということです。それらの事柄を祈ってはいけないということでもありませんが、それが一番のことではないのです。

ともすると私たちは集まって、自分たちの必要が満たされるようにという祈りばかりしてしまいます。使徒行伝の中には4つのパワフルな祈り会のことが書かれていますが、メンバーの必要に関する祈り会ではありません。4つはすべてミッションが中心です。

 

聖霊を待つこの祈り会は10日間続きました。聖霊が臨まれるように祈り続けたのですが、これは聖霊なしに祈ったのですから、大変なことでした。私が12歳の頃、おばあさんに毎日チャペルに連れられて行きました。「聖霊が来るように一時間祈りなさい」と言われました。一時間経ったかと思って時計をみると、まだ3分しか経っていませんでした。初代教会の最初の祈り会では、120人が一緒にいて心を合わせていたことは、大変重要でした。神を求めていて臨在を感じないときでも、私たちは周りの人たちに励まされて祈りつづけることができるのです。一人で走っているのと、一緒に走ってくれる人がいるのとは全然違うのと同じです。

 

120人は10日間祈っていましたが、何も感じなかったことでしょう。今の教会は5分祈って何も感じないとやめてしまいます。というのは私たちはご褒美がもらえないとすぐやめてしまうカルチャーの中にいるからです。でも120人は止めませんでした。そしてペンテコステの日に聖霊が臨まれました。激しい風のような響きが起こり、炎のような分かれた舌が現れて一人ひとりの上にとどまりました。その炎は彼らの心に入り皆が聖霊に満たされました。一人だけではなくすべての人が満たされたのです。

 

一つところに集まって「聖霊よ、来て下さい」と祈ったとき、それがどのような形で訪れるか、彼らには全く予備知識がありませんでした。今まで起ったことがなかったからです。

皆さんにお知らせしたいことがあります。それは神様はどの教派にも属しておられないことです。バプテスト派でもない、ペンテコステ派でもありません。福音派でもないし、長老派でもありません。教派とはなんでしょうか。それは、聖霊は何をしてもよいか、何をしてはいけないか、を決めてしまっているグループです。「私はバプテスト派ですから、そういうことは信じていません。・・」という様にです。

両極の律法主義があります。カリズマ派の律法主義と保守派の律法主義です。カリズマ派の律法主義は、「聖霊が来るとき、人々は倒れたり、床を転げ回ったり、笑ったり、叫んだり、泣いたり、身体をぴくぴくさせたりしなければならない」というものです。その反対に保守派の律法主義は「聖霊が来るときは何をしてもかまいません。ただし、倒れたり、身体を震わせたり、笑ったり、叫んだり、泣いたり、異言で語ったりしてはいけません。」というのです。片方は聖霊を「常にこのようなことをせねばならない」という箱の中に入れていますが、他方は「決してこのようなことをしてはならない」という箱の中に入れています。けれども神を箱の中にとじこめることは決してできません。「神は必ずこの様にされる」とか、「決してこの様にはされない」という既成概念を捨てようではありませんか。そして神が神であられることを許すのです。神ご自身に何をどのようなされるのかを決めていただくのです。私たちが共に集り聖霊を待ち望むとき、何がどのように起るのかは聖霊に決めていただこうではありませんか。聖霊が神であり、私たちは神ではないのですから。

 

それはつまり、「身体が震えなかったから聖霊は来られなかった」と言わないことです。それと同時に何か奇妙なことが起ったとき、「私はカリズマ派ではないからこういうことは好まない」と言ってその場を去ることをしないということです。聖霊がされることに常に私たちはオープンであることです。私たちが聖霊のされることに心からオープンになったとき、神はその都度違うことをされるのです。神は非常にクリエイティブな方です。私たちが集まっていつも同じことをしているならば、それは聖霊を閉め出しているからかもしれません。聖霊があなたを自由にされるためには、あなたがまず聖霊を解放し自由にせねばならないのです。私たちは聖霊を教派の教義という箱にずっと閉じ込めて来たのです。

 

あなたはクリスチャンですね。聖霊の賜物はカリズマ派だけにものでしょうか、それともイエス・キリストの働きでしょうか。「私はカリズマ派ではないから病人の癒しは信じない。」と言われるのですか。でもあなたはイエスを信じておられるのですよね。イエスは病人を癒したいと思われたら、癒されるのです。イエスがイエスでいられるように解放しようではありませんか。

 

ですから弟子たちは何の既成観念もなしに集まっていました。イエスが聖霊はどのように来られるのかを何も言われなかったからです。ただ「祈りなさい。それが起るときにわかるでしょう。」と言われました。聖霊があなたの人生に侵入してくるとき、それははっきり分かるのです。劇的な経験をする人もありますが、静かに起ることもあります。私の場合は夜中に神にささやくように感謝の祈りをしていたときに起りました。ですから目に見える現象ではなく、聖霊そのものを私たちは求めるのです。どのように来てくださるかは、聖霊が決められるのです。

 

弟子たちは聖霊に満たされて、大声で大胆に話し始めました。これが最初のしるしでした。サタンはあなたがイエスの証しをすることを止めさせたいので、あなたが声を出さないようにするのです。大きな声で祈ることをしないクリスチャンが多くいます。ワーシップも証しの一つですが、サタンはあなたがあまり声を出さないようにするのです。あなたが大きな声でワーシップをするとき、あなたの周りにいる人が励まされるので、サタンは「あまり大声で歌うな。お前は大したクリスチャンでもないのだから。」とか「お前は歌が下手だ。」とかささやくのです。私の娘が歌ってくれるとき、私にとってそれはとても美しく聞こえます。神もあなたが歌うとき、それが上手でなくても、神には美しく聞こえるのです。あなたは神の子どもだからです。

 

私にとってみ言葉を静かに黙想し主の前に静まる時はとても大切です。でもそれと同時に声を出して「主にむかって叫び、喜びの声をあげる」ときも大切です。声をあげるのは常の状態よりもっと力を入れることです。そのような祈りの時を毎日持つべきです。そして日曜の礼拝にみなで集まるときは、家族に迷惑をかけることなく大胆にできる時です。

 

ペテロは聖霊に満たされて大胆に語りはじめました。彼は神学校に行ったこともなく、説教のための準備もしませんでしたが、彼の中に蓄えられていたみ言葉が聖霊によって活性化され炎のように燃え上がったのです。教会の一番最初の祈り会の目的は、弟子たちに証しの力を与えることでした。

 

使徒行伝2:41、42には「そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」とあります。すべての者はイエスの与えた大宣教命令を、力や権力ではなく聖霊の力によって果たすために、祈りに専念したのでした。使徒行伝に書かれている祈り会はすべて伝道のための祈り会でした。彼らが更に聖霊に満たされ、イエスの死と復活を力強く語る力を得て、伝道の業が前進するようにと祈ったのです。

 

皆さん、今は祈る時です。祈りに専念するときです。正しい目的のために祈りに専念する時です。私たちがイエスの死と復活と栄光を力強く証しする者となるために力を受けるのがその目的です。

あなたの必要はすべて神の関心事です。しかし「神の国とその義をまず求めるとき、すべてのものは添えて与えられる」のです。ですから「すべてのもの」は神にお任せして、祈りの声をあげてイエスの証人となるために聖霊の力を受けようではありませんか。(終り)


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