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Walk With God Ministries


31 08月

愛の順序(その二) ベンジャミン・ロビンソン          2015年8月31日


愛の順序(その二)

 

ベンジャミン・ロビンソン

 

二番目の戒めは「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ですが、この順序も私たちはいつも間違えてしまいます。ほとんどの人は「あなたは隣人を愛するように自分自身を愛せよ。」を実行しているのです。

 

どのように違うのかを考えてみましょう。もし「隣人をあなた自身のように愛する」ならば、あなたは自分が自分をどのように愛しているかを知らねばなりません。そしてあなたは「私の隣人もこのような愛を経験するべきだ。」と考えるのです。そしてあなたは「自分が自分を愛した愛を隣人にも経験して欲しい」という願いの故に、その隣人を愛するのです。即ち、あなたは神からの愛を溢れるほどに受けて、その有り余った余剰の愛を隣人に分け与えたいと願い、それを隣人に降り注ぐのです。隣人から何か見返りを得るためではありません。主から有り余る程いただいた愛を注ぐだけです。

 

しかしほとんどの人は愛があり余っているからではなく、愛の欠乏から隣人を愛します。あなたは「私は愛が必要だ。あの人の所にいって愛を示そう。そうすれば彼は私を愛してくれるだろう。」と思うのです。「私は妻から愛が欲しい、だから彼女の車を洗おう。」とか、「私は自分の説教がすばらしかったと言って欲しい。だからAさんをランチに誘おう。」という具合にです。これはあなたが「あなたの隣人を愛するように、あなた自身を愛している」証拠なのです。

 

そして、もしあなたの隣人が、あなたが示した愛に対して望んでいたような反応、対応をしてくれない場合は、腹が立つのです。腹が立つのは、あなたが愛の余剰からではなく、愛の欠乏から愛していた証拠と言えます。私はこの事に関して神から示されました。

 

私が妻に愛を示す時はいつも、彼女から大きな反応を期待するのです。「ワーッ、すごい!ありがとう!!あなたは最高の夫よ。すばらしいわ!」と言って欲しいのです。でも10回のうち9回は、そうではありません。妻はただ「あ、そう。」と言うだけです。昨日私たちは教会のユースキャンプで山の方に行っていたのですが、彼女の車が汚れていて、ガソリンもなくなっているのに気がつきました。私はわざわざ遠くまでガソリンを入れに行き、水がなかったのでペーパータオルとガラス磨きで、窓だけではなくほこりだらけの車全体を汗だくになってきれいにしました。一時間掛かりましたが、車はピカピカになりました。

私は「自分はなんてすばらしい夫なのだろう。主よ、あなたの愛を妻に示させて下さってありがとうございます、、、」と誇らしく思いました。妻はきっと大喜びをするだろうと確信しました。

 

キャンプに戻り妻に車を返しました。「何か車が変ったことに気がつかないかい?」と聞くと「ソナタ(車種)のままだけど」というのです。「車をきれいにしたんだけど、、、」と言うと、妻は「あら、そう、ありがとう。ところで娘が泳ぎに行きたいのだけど、連れてってくれる?」とすぐに話を変えてしまいました。

 

「おや、これは私が期待した反応とは違うぞ、一時間も掛けてきれいにしたのに、、」と私は思いました。私は「主よ、私の心に平安がありません。心がまっすぐではありません。」と主に申し上げました。私が妻のために何かをした時はいつも、「こんなすばらしいことをしたよ!」とラッパを吹きならしたいのです。「お皿を洗ったよ!パッパカ パー」と言う風に。ところが、よくよく考えてみると、妻は私のために毎日数えくれないほどのことをしてくれていますが、ラッパは吹きならしません。どうして私はラッパを吹かねばならないのでしょうか?

そこで私は気がつきました。私は妻を愛しているから愛するのではなく、妻に愛してもらいたいから愛しているのだということに。心に平安がなかったのは、私が愛の余剰からではなく愛の欠乏から行動していたという証拠でした。

「私はあなたからの見返りの愛は必要ではありません。私は神から愛されて愛が溢れ出ているので、その愛を注ぐ対象を求めているのです。」という思いで妻を愛することができたならば、妻がそれに気がつかなくてもいいのです。神が惜しみなく私に与えてくださった愛を与えることが出来ることで私は満ち足りるはずです。

 

「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ー 考えてみたら、私は自分の車を少なくとも週に1、2回は洗っています。自分のためにそうする時に、私はラッパを吹きならしません。鏡の前で自分にむかって「あなたはなんてすばらしいんだ!」とは言いません。車をきれいにすることが好きだからするまでのことです。ですから、妻のためにした時にどうしてラッパをふく必要があるのでしょうか?自分を愛するように妻を愛しただけなのですから。

 

ホセア10:12に「恵みの業をもたらす(義の)種を蒔け(そして主から)愛の実りを刈り入れよ。」(新共同訳、但し、括弧内は訳者が挿入したものーそうすれば説教者が用いた英語訳に近い。英語訳は)「Sow righteousness for yourselves, reap the fruit of unfailing love」です。義(righteousness)とは正しい関係にあることです。義に種を蒔くとは、人間関係に種を蒔くことに他なりません。しかし私たちはその種を刈り取ってしまうのです。あなたは種ではなく収穫を刈り取るべきです。私はKさんに優しい言葉をかけて種を蒔きます。「Kさん、あなたの髪はすてきですね。」と。するとKさんは「ありがとう。あなたの髪もすてきよ。」と言ってくれるかもしれません。私は神から愛を受けて、その愛という種を蒔くのです。そうすることによって私は変らない愛(unfailing love)を神から受けるのです。それは相手の人からではないかもしれません。もしも私があなたに100回良い事をしても、あなたは何も私にお返しはしないかもしれませんが、神は必ず変らない愛を与えてくださいます。すなわち、相手(あなた)が愛を私に返さないからと言って、私はあなたに腹を立てる必要はないのです。もし腹を立てるならば、それは私が神への信仰を失ったからです。ヨセフの人生を見てください。彼は様々な困難な目に会ってもその困難をもたらした相手に腹を立てずに神を信じ続けました。牢獄の中でも信仰を保ち、正しい態度で人に接しました。彼はすべての人に義の種を蒔いたにもかかわらず裏切られました。しかし彼は態度を変えなかったのです。彼には神から受けた愛の余剰があったのです。もし今あなたが困難にあっているならば、今できることは義の種を蒔くことです。

 

妻の父親は、彼女が11歳のときに家族を捨てて出て行きました。妻が26歳の時、神が妻に父親を捜しなさいと言われました。彼女は「主よ、それは反対ではありませんか。父が私を捨てたのです。彼が私を捜しにくるべきです。」と言いました。しかし主は「違います。あなたはイエスの歩んだ道を歩むのです。イエスがあなたに罪を犯したのではなく、あなたがイエスに罪を犯しましたが、イエスはあなたを捜しに来てくださったでしょう。さあ、あなたのお父さんを捜し出し、和解をしなさい。」と言われました。あなたがある人間関係で痛みを持ったならば、癒しもまたその人間関係の修復から来るのです。

 

つながる愛

 

ですから4つのことはすべてつながっています。あなたはまず神から愛を受けます。そしてその愛で神を心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして愛すことができます。あなたは神が与えてくださる愛で自分を愛することを学び、その愛の余剰で(神はいつも有り余る愛を私たちに下さいます)自分を愛するように隣人を愛することができるのです。これが順序です。

 

よく聞いてください。あなたが神から与えられた有り余る愛の余剰で隣人を愛する時、その人は神の愛を生まれて初めて受けたのかもしれません。そしてその人は神を愛することを学び、自分を愛することを学び、神から受けた余剰の愛で次に他の人を愛することが出来るのです。

 

神からの愛を受けるというと、私たちは祈りの部屋に入ってワーシップ・ミュージックを流し、「ああ、主よ、私は今あなたの愛を受けるためにここにおります。」と言うことだと考えてしまいます。しかし、神の愛を経験する最高の方法は、人々の中に入り、自分をオープンにして人々があなたを愛することを許すことです。

 

祈り ー「主よ、今あなたの愛を私たちに顕してください。すべての壁を打ち砕だいて、人々と交わることができますように。ある者は主が自分に失望しておられると信じ込んでいます。自分は主にとって十分な人間ではないと信じ込んでいます。ある人たちはまだ園の茂みに隠れています。あなたが来られる足音を聞いて隠れるのです。そしてあなたの愛を感じないと言って泣き出します。

主よ、今日私たちが隠れていた所から出て行けるようにして下さいと祈ります。自分が痛みの中にある時も、人々の中に入ることができますように。癒しは一人になった時に起るのではなく、人々との交わりの中で起ることを教えて下さい。あなたの愛を反射するものとして下さい。今まで無私の愛で愛することが少なかったことを告白致します。多くの場合私は自己中心でありました。しかし、主よ、今私は兄弟姉妹の前で決意します。私はあなたが私を愛して下さったような無私の愛で人々を愛すために、あなたの愛を受け取り、あなたに拠り頼みます。見返りを求めないで与えることを、惜しみなく受けたように惜しみなく与えるように。私たちは教会として、この心を受け取ります。傷つくことを恐れないでお互いに心を開き、まことのぶどうの木につながって、あなたが計画されたような教会となりますように。あなたの祝福がすべての人にありますように。主の御名によって祈ります。アーメン」(終り)


24 08月

愛の順序(その一)     ベンジャミン・ロビンソン       2015年8月24日


愛の順序(その一)

 

ベンジャミン・ロビンソン

 

 

すべての真理が正しく用いられるためには順序が大切です。真理が正しい順序でなければ、それは偽り、惑わしと同じになります。私たちが経験する人生上の多くの問題は、私たちが真理を持たないからではなく、真理が正しい順序で行われないからです。「これを解決するのはものすごく大変だ」と思う問題でも、実はほんの少し真理の順序を変えるだけで解決することが多いのです。

今日は愛の順序について話したいと思います。

 

マタイ22:36−40 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、これと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

 

この二つの戒めは、それぞれに順序が正しくなければならないのです。もし順序を間違えるならば、あなたはこの命令を守ることができません。

 

それでは、まず第一の戒めから見てみましょう。

「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」です。これは本当に大変難しい命令です。皆さんはこれを実行しようと思ったことがありますか。「私は自分の心に神を愛せよと命じよう、自分の思いに命じよう、自分の知力に命じよう。」とがんばったとしても、フラストレイトするだけです。これは私たちには不可能な命令だからです。この命令を行うためには私たちが知らねばならないことがあります。

 

第一ヨハネ4:10「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

第一ヨハネ4:19「私たちは(神を)愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」

 

ここに書かれているのは、第一に神が私たちを愛され、次に私たちが神を愛するという順序です。イエスは「神を愛せよ。」と言われましたが、その意味は「まず神の愛を受け取りなさい。そしてその応答として神を愛しなさい。」ということです。

 

多くのクリスチャンは、神は「神の御国」という会社の社長で、自分はそこに雇われている社員だ、と考えています。神は御国のために働く適当な人材を求めておられ、私たちは自分がするべき仕事を与えられて果たすというのです。もしよい仕事をしなければ、神はあなたを必要としないというわけ(メンタリテイー)です。私が育った教会はそのように教えていました。

 

しかし、神は社長ではなく父です。もし神が父であるならば、あなたは自分が子として創られた本当の目的を知るべきです。地上の両親が子どもを持つ理由はなんでしょうか。家事を手伝ってもらいたいとか、庭仕事をしてほしいから、という理由ではないですね。また老後の面倒を見てほしいからというのでもないでしょう。

 

私たち夫婦は子どもが欲しいと8年間祈りました。二人が持っている愛を注ぐ対象が欲しかったのです。8年の間には多くの失望と痛み、悲しみを経験しました。8年目の終り頃には私の心の痛みは非常に深く耐えられないほどになりました。ある時、ある教会の集会に招かれたとき、神が会衆の前で妻に油を塗り、「あなたは子を妊ります。」と預言して、彼女が子が宿す準備をしなさいと言われました。私はそのようにし、会衆に「私の妻が妊ることはあなた方も実を結ぶというしるしとなります。」と宣言しました。

 

それからしばらく経った2008年11月4日のことでしたが、私は子が与えられないことの痛みで耐えられないほどでした。朝の祈り会で、私は神に「子を与えていただかないでは、私はもう一日も生きていけません。」と申し上げました。神は「どうして泣いているのですか。わたしの愛は10人の息子にまさるものではないですか?」と言われました。それを聞いて私は泣き崩れて「もう子どもが与えられなくてもかまいません。私にはあなたの愛があるからです。」と言い、本当にすべてを神に委ね解放され、喜びで満たされました。

 

その日のお昼ころに、妻から電話があり、ひどく気分が悪いから帰ってきてほしい、そして途中で妊娠テストキットを買ってきてくれ、と言われました。お分かりでしょうが、私たちは妊娠テストキットは8年間に数えきれないくらい使用したのです。でもいつもネガティブ、妊娠していない、という結果が出ていました。でも今回は「妊娠している」という紫のプラスのサインがでたのです!

本当に夢のようでした。その日の朝私が泣いたときに主は「あなたの妻はもう妊娠しているから元気を出しなさい!」とは言われなかったのは、興味がありますね。主は私から取り上げられた日に、与えられたのです。神は取り上げられる神ではなく、与えられる神なのです。

 

その次の日、私は中国に行きました。3つの州の地下教会で話をするためです。ビルの地下での集会でしたが、とてもすばらしい経験でした。集会の途中で妻からメッセージがあり、出血があり医者から流産をしたと言われたという文面でした。私は本当に打ちのめされました。主に「どうしたらいいでしょうか?」と聞くと、主は「あなたの妻は流産したのではありません。家に帰って彼女のお腹に手をあてて、あなたの子にむかっていのちを語りなさい。」と言われました。帰った時私はそのようにしました。神の御霊が彼女の中にくるのを感じました。

 

翌日流産をしたと言った産婦人科の医者のところに行き、超音波で見ると、8週間目の心臓が動いている赤ちゃんの姿が見えたのです。その心臓を見た瞬間、私の中にある愛は「愛する対象」を持ったのです。私と妻の中に有り余っていた愛は、その対象物を与えられたのです。そこに写っていた小さな赤ちゃんは、まだ何もしていませんでした。私たちのために一日たりとも何かをしてくれたわけではありません。スクリーンの中のほんの小さな光に過ぎませんでしたが、私たちにとって、それで十分だったのです。私たちは愛する対象を持ち、娘はその時にすでに愛される対象という目的を果たし始めたのです。彼女が愛とは何かを知る以前です。

 

生まれてから、娘は昼も夜もよく泣きました。私たちは娘をいつも抱いて過ごしました。背中をさするよりもぽんぽんと叩くのが娘は好きでした。私は何時間も娘を抱いてその背中を優しく叩いていました。忘れもしません、彼女が一歳になったころ娘が私の背中をぽんぽんと叩き始めたのです。彼女は自分に知っている方法で私を愛してくれたのでした。私が頼んだわけではありません。

 

娘がニ歳になったとき、今度は背中を撫でられるのが好きになりましたので、私はいつも撫でてあげました。三歳になったころ、私が彼女を寝かせるために彼女と一緒にベッドに横になったのですが、私が先に寝てしまいました。気がつくと娘が小さな手で私の背中を撫でてくれていました。15分くらいもずっとです。彼女は自分が受けた溢れる愛を流し出したくて、自分が知っている方法で私を愛してくれたのです。それは彼女に喜びを与えました。

 

イエスが「あなたの心と思いと知力を尽くして神を愛しなさい」と言われたとき、あなたがまず、神の愛を受け取ることを前提とされたのです。もしその順序を間違えるならば、「私は十分に神を愛していない、神への愛を私は持っていない、感じない」という自責の念にかられます。あなたはまず、神の愛を受ける対象として自分を捧げねばなりません。そうすればその愛を反射して神にお返しすることができます。もし神をもっと愛したいならば、神があなたをもっと愛することを許さねばなりません。神の愛を受けるのを妨げているものがあなたの心の中にないかを調べてください。神の愛があなたに的中するようにしてください。

 

もしあなたが私を傷つけたいならば、簡単です。私は悪口を言われても平気です。身体を傷つけたいなら、気をつけてください。私の身体は大きいですよ。しかしもし、あなたが私の娘のところに言って「あなたのお父さんはあなたをもう愛していないよ。」と信じさせるならば、それが一番私を悲しませ傷つけるのです。「あなたのお父さんは、『あなたはいい子ではないし、私がして欲しいことをしなかった。どこかに行って私を喜ばせる方法を考えついたらまた来てもいい。』と言っていたよ。お父さんが来たら逃げてどこかに隠れるようにした方がいいよ。」とあなたが娘に言うとすれば、私は本当に傷つくでしょう。

 

娘は私の神経をいらだたせることがよくあります。これからも沢山の間違いを犯すことも知っています。しかし私たちは娘を愛することを止めることは決してありません。それと同じように、神が私たちに求めるのは完璧さではなく、私たちの心の態度です。神は私たちの目を見て、私たちがすべてのことを神への愛からしたことを見てくださるのです。私たちが神からの愛を一杯に受けて、その愛で神を愛することを喜んでくださるのです。ですから私も間違いを犯すことを恐れません。神は私が神を心から愛していることを知っておられるからです。

 

このように愛の順序が大切なのです。神はあなたを愛しておられます。そして神から愛されているあなたは、神を愛することが出来るのです。(続く)


17 08月

悔いた心と神が求める聖さ     フランシス・フランジペイン     2015年8月17日


悔いた心と神が求める聖さ

 

フランシス・フランジペイン

 

今、多くの人がアメリカのために祈るようにと人々に呼びかけています。私はそれに加えて、悔い改めへの呼びかけをしたいと思います。実際に第2歴代誌7:14を見ると、そこには祈りだけではなく、へりくだり完全に悪から離れよとの招きがあります。私たちは悔いてへりくだった霊をもって神のみ顔を求めるべきです。

私たちのうちには生ぬるい妥協があまりにも多くあります。真に砕かれるためのブレークスルーが必要です。神が動かれる時が来ようとしています。しかし神がどれほど大きく、またどれほど深く働いてくださるかは、私たちがどれ程深く悔い改めているかによって決まるのです。

私たちが単に「罪を犯して悪かったです、ごめんなさい。」と言うだけで済ましてしまわないようにと、私はこれを書いています。私たちの人生に義の実がフルに実るまで、神のもとに何度でも悔い改める謙虚さへと、神は私たちを導きたいのです。

聖書にイエスがミニストリーを始められる前に「神から遣わされたヨハネという人が現れた。(ヨハネ1:6)」と書かれています。バプテスマのヨハネは神が遣わしたのです。ヨハネの悔い改めのバプテスマは、旧約をしめくくる最後の出来事ではなく、新しい契約の最初の出来事、開墾の鍬入れでした。ヨハネはイエスのミニストリーの先ぶれとして神から遣わされたのです。彼のユニークな役目は、イスラエルを悔い改めにしっかりと浸すことでした(使徒19:4)。彼はキリストに先立って行くようにと任命されたのです。彼の任務は「主の道を整え、用意すること」(マルコ1:1、2)でした。

クリスチャンは誰でも、生けるキリストが救い主であると示される前に多かれ少なかれ必ず悔い改めに導かれます。「整え、用意する」のが悔い改めの目的です。私たちはこれをよく理解する必要があります。即ち、ヨハネの悔い改めは、人々を悔いて悲しませるだけではなく、人を整えキリストを受け入れる用意をさせたのです。真の悔い改めとは、心の地面を掘り起こすことです。悔い改めは、神からの指示を受け取るために、又義の新しい苗を植えるために心という土を整えることであり、霊的成長を促す多くの事柄の中で最も重要で不可欠なものです。「心の思いや考え方を変えること(即ちそれが悔い改めの意味ですが)」は実際のところ時間がかかりますし、ほとんどの場合、あきらめないで忍耐を持って続けなければ出来ません。バプテスマのヨハネがユダヤ人に対して言ったことは「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」(マタイ3:8)でした。

悔い改めはその実が結ばれるまでは完了しないことを、はっきりと認識せねばなりません。

ヨハネは「低くされたことを喜べるまで、高慢を退けることを止めてはいけません。愛することがあなたにとって自然になるまで、自己中心を悔い改め続けなさい。あなたが100%聖くなるまで不純さを悲しみ続けなさい。」と言っているのです。ヨハネは、悔い改めの実が現れるまで悔い改め続けることを人々に要求したのです。もしあなたが聖くなりたいならば、聖くなるまであなたは悔い改め続けるのです。

 

使徒ヨハネは「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第一ヨハネ1:9)と言っています。どうかあなたの罪から隠れないで、告白してください。神の恵みと御子イエスの十字架の御業は、どのような罪であっても、すべての罪を覆い赦すのに十分です。しかし、私たちは赦しを乞わねばならないのです。へりくだり、心から何度でも神に服さねばなりません。自分の罪を正直に告白してください。神はあなたをその罪からきよめてくださいます。

 

悔い改めを執拗にし続けてください。

 

神の憐れみは尽きないことを決して疑わないでください。あなたに罪を犯した人を赦すようにと神が命じられるならば(マタイ18:21−22)、それと同じ要求を神がご自身にされないことなどありません。あなたがもし一日に490回罪を犯すならば、そのつど、神に赦しを乞い願ってください。神はその罪をすべて赦し、またその罪の影響からあなたをきよめてくださいます。

 

私の人生の一時期、私は繰り返し何度も同じ問題につまづきました。深い悲しみと疑念をもって私は「主よ!あなたはいつまで私にがまんしてくださるのでしょうか?」と主に叫びました。一瞬の恵みと真理のひらめきのうちに、主は「わたしがあなたを完全にするときまでです。」と答えてくださいました。

 

聖書は「訓戒のための叱責はいのちの道であるからだ。」(箴言6:23)と言っています。これは正されることを否むのでなければ決して嫌なことではありません。叱責される道はいのちの道なのです!

イエスは「わたしは、愛する者を叱ったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。」(黙示3:19)と言われました。私たちに悔い改めを説くのは、神の怒りではなく神の慈しみなのです。私たちは「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださること」(ピリピ1:6)を約束されているのです。私たちが主の似姿になることを望み続ける限り、主の叱責こそが主の臨在への扉になるのです。

 

しかしながら、もしあなたが悔い改めという言葉に怯むならば、それはあなたが変わりたくないからであり、あなたにはこのメッセージが必要です。「悔い改め」が荒布や涙の陰鬱なイメージを与えるものでなくなり、「矯正」が神の恵みへの喜びと賛美を喚起させるものとなったとき、あなたの霊は真に純粋になったと分かるのです。その時あなたは神が「聖いと呼ばれる道」を歩いているのです。(終り)


10 08月

預言の矛盾        カービー・クレメンツ           2015年8月10日


預言の矛盾

 

カービー・クレメンツ

 

預言とは神が人を通して 神の目的、意図を私たちに語られる方法です。終末に関する預言もありますが、個人に与えられる預言もあります。預言は必ず吟味されねばなりません。

 

預言の出所を見極めること、意図を知ること、どのようにそれに応答するかが重要です。出所は、神か、サタンか(サタンも預言ができる)、それとも人間か(人間も自分の霊で預言ができる)です。その預言がどんな口調で語られるかで判断してはなりません。重々しく荘厳であるから神が語っているとは限りません。

 

また、預言の意図はなんでしょうか。多くの無駄な、意味のない言葉が連ねられることがあります。また一つの預言だけで事を決めてはなりません。その預言は励ましであるか、矯正であるか、インストラクションであるかも見極めねばなりません。その預言に対してあなたはどのように対応、応答するのかも大変重要なポイントです。

 

預言には二つの次元があります。

一つは「預言のミステリー」であり、もう一つは「預言のクライシス(危機)」です。

ミステリーとは預言で明らかにされないで隠されている部分です。神は初めから終りを告げることができるお方ですが、その間のことを言われないことがあります。それが教会にフラストレーションを与えるのです。例えば、神はパウロにこう言われるでしょう。「『あなたは異邦人に福音を伝えるわたしの選びの器です』とわたしは言いました。でもわたしが言わなかったことがあります。あなたは打ち叩かれ、町から追い出され、兄弟から裏切られ、マルコは途中で帰ってしまい、バルナバとは別行動をするようになり、銀細工人に暴動を起こされ、、、ということは言いませんでした。」と。神はパウロが人生おいて経験する途中のプロセスを全部は明らかにはされませんでした。

 

「預言のクライシス(危機)」というのは、預言を受けた者が予期するものと、実際に起ることの間に違いがある時のことです。私たちが予期し期待することは、必ずしも私たちが受けるものとは違うのです。預言を聞いたとき、私たちはその言葉の意味することは分かったと思ってしまいます。「主は私を繁栄させると言われました。だから私は繁栄するのです。」と考えるのですが、次に起るのは破産だったりするのです!

あなたは主に「私を繁栄させると言われたのではないですか?」と訊ねます。すると主は「わたしはあなたを確かに繁栄させているよ。」と言われます。つまり主はあなたを繁栄させるためにプロセスを通されているのです。プロセスとはある時は経済的繁栄のために必要なものであり、それは困難や問題をあなたに与えることかもしれないのです。

又、神が「わたしは何々をする」と言われるとき、神お一人が何かをしてくださるというのではありません。神とあなたが共にそれをするのです。神は「今日」とか「直ぐに」「とても早く」「一日で」とか言われます。しかし主の一日は千年かもしれません。第二ペテロ3:4にあるように「キリストの来臨の約束はどこにあるのか、先祖たちが眠った時からこのかた、何年も創造の初めからのままではないか。」という人たちが出てきます。それに対してペテロは「あなた達は主の方法、主の時、シーズンというものを知らない。」と言っています。

皆さんの中にも神の時、シーズンが分からない人がいるのではないでしょうか。ここに預言の解釈の問題があります。あなたが何かがもう起るはずだと思い、期待して待っているとき、それが起らないのです。

期待したことが起らない時、あなたはどうしてフラストレートするのでしょうか。それは私たちがすべて基本的な必要を持っているからです。

一つは、受け入れられるということです。拒絶されるのを好む人はいません。あなたは保証、確信が欲しいのです。

二つ目は、私たちがすべての面で満たされたいと思うからです。経済的にも家庭的にもすべてがうまく行っていることを願います。そうではないと自分は不幸だと思います。経済が保証され、車が故障せず、子どもがいい子ならば、あなたは幸せなのです。

三つ目は自由です。私たちは基本的な3つの心配をかかえています。

1.神は私を癒してくださるだろうか。

2.私は暮らして行くのに十分なお金を得られるだろうか。

3.私は残されて一人ぼっちにならないだろうか。

 

私の愛する妻サンドラは一ヶ月前に亡くなりました。でもこれはすべての人にいつかは起ることです。知ってますね。人は生まれ、そして死ぬのです。私たちはそれを考えないようにし、無視してあまり話さないようにします。私たち夫婦もそうでした。でも3年前に主が私の心に、サンドラがいなくなる時のために用意を始めなさいと語られたのです。うちでは彼女がすべてのビジネス関係の経理や保険のことなどを管理していたのですが、主は私にそれらのことをちゃんと聞いておきなさいと言われました。サンドラが天に召された今、私はそうしたことを感謝しています。

私たちは残されて一人になることを考えたくありませんが、これは私たちが持つ基本的な問題であり問いなのです。

 

もし不治の病にかかった時、神は癒してくださるだろうか、と私たちは疑うのです。言っておきますが、神は今も癒し主です、神は今も世界を治めておられます、今も地を治めておられます、神にとって不可能なことはありません、神は無から有を創られる方です、神があなたに一言語られるとあなたの世界は変革されます。サタンは「本当に神はそう言われたのですか?」とあなたにささやくのです。「神があなたと共におられるのなら、どうしてあなたはそんな問題を抱えているのですか?」とか「あなたは忠実に神に仕えていたのに、なぜ人々はあなたから離れていくのですか?」とサタンは言います。

往々にして私たちは、結果で善し悪しを決めるような信仰を持っています。でも真のキリスト教はご利益宗教ではありません。もしあなたが何かを得られるから神を信じているのならやめてください。それはサタンの教義です。

「私たちの賛美が天に上ると、祝福が下りてくる」という歌が以前よく歌われました。でももし祝福が下りてこなかったらどうしますか。私たちは物事がうまく行っているときにだけ賛美するのです。私は教会が賛美をするときの様子で、その教会に問題があるかどうか直ぐわかります。証しというのは物事が順調なときにするものではありません。「このような問題が起ったが、私は主を信じます。」というのが証しです。「私は人生で大事なものを失いましたが、神に対して何の疑問や不満もありません。」というのが証しです。私の妻が召されたことに対して私は神に対して何の疑問も不満もありません。

 

まずあなたの神学、教義が正しいかどうかチェックしてください。神はあなたを決して離れず、見捨てません。皆さんの中には神に見捨てられているように感じている人がいるでしょう。神に従った結果が全く裏目に出たという人がいるでしょう。その時私たちは「私は本当に神から聞いたのだろうか?」と疑問を持ち始めるのです。

神はあなたの父であられ、あなたの最善を願っておられます。あなたに耐えられないような試煉を与えられません。のがれる道を備えてくださいます。神はあなたを見捨てることはありません。神はあなたが取るべきではない道は閉ざされ、行くべき道を示してくださる方です。願う道が閉ざされた時、あなたはサタンが阻んだと思うかもしれませんが、神がそうされるのです。ですから道が閉ざされたときは神に感謝してください。祈りが聞かれなかった時も感謝してください。神はもっとよい事をしてくださるからです。

 

私たちが一つの教会を始めた時、その教会はすばらしい働きをするという預言を神からいただきました。そして多くのすばらしいことが起きました。メンバーが一万二千人のアメリカで最初のメガチャーチとなり、様々な活動をしました。しかしある時、問題が起きたのですが、人々は悔い改めをしませんでした。その結果、教会は神の預言とは違う状態になったのです。これが預言の矛盾です。人々は教会を去り始めました。それで私のミニストリーは終ったのでしょうか。いいえ、そうではありませんでした。

預言がその通りに実現しなかったとき、神は私を見捨てたのではないことを私は自分に言い聞かせました。

 

みなさんの教会も預言が実現しないということを経験しているかもしれません。しかし神様はジグザグに進む神様です。ミニストリーにいろんな変化がある時、それは油注ぎのレベルが上がったということです。預言者は物事を目の前に見るので「直ぐに起る、もう起っている」かのように語ります。そして直ぐに起らなかったとき、私たちは時の法則(いつがその時か?)を知らねばなりません。場所の法則(神の選ばれた場所はどこか?)もあります。人間のつながりの法則(誰が集うのか?)もあります。経験の法則(プロセスとして経験せねばならないことは何か?)もあります。

神はあなたの献身をご存知です。神はあなたに豊かに報いてくださる方です。ですから、どのような時も喜んで神が最善をしてくださることを信じていてください。(終り)

 

これは3週間前に私たちのLiving Hope Christian Center (Pastor Benjamin Robinson) に来られた時のメッセージです。師の略歴は下記の通りです。

Dr. Kirby Clements Sr. received a B.S. in Biology from Morehouse

College; a Doctor of Dental Surgery from Howard University School; and

became the first African American to receive a master degree in

prosthetic dentistry from Boston University School of Graduate

Dentistry.

 

Under the leadership of Bishop Earl Paulk, and a host of pastors,

Clements helped Cathedral of the Holy Spirit expand into a fast

growing multicultural mega ministry with over 12,000 members and

outreach functions that touched the world.

 

Along with his wife, Sandra, Clements founded the Clements Ministries

in 1994 to provide Bible-based ministry seminars, workshops and books

with provocative words of wisdom that can be easily applied in all

areas of life. He was ordained as a bishop in 1999.

 

Dr. Clements has authored 11 renowned books and hundreds of papers

dealing with spiritual and practical issues of the Christian faith and

church structure. He has ministered extensively, both nationally and

internationally to countries in Africa, Asia, Australia, the

Caribbean, Europe, North America, and South America.

 

Currently, Dr. Clements is bishop of The Community of the Holy Spirit

in Decatur, Georgia which he organized, and presides as CEO of The

International Connection of Ministries, an outreach organization that

provides training and support to ministry organizations worldwide.


03 08月

共に集うこと(エクレシア・教会)の大切さ         ベンジャミン・イスラエル • ロビンソン   2015年8月3日


共に集うこと(エクレシア・教会)の大切さ

 

ベンジャミン・イスラエル•ロビンソン

 

 

ヘブル10:19−25

「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」

 

ヘブル書の著者はこの箇所で、まずイエスを信じるものすべてが個人的に持っている特権について書いています。私たちはイエスの血によって至聖所に入ることができます。これは私たちが一人ですることです。あなたがどこにいても、あなた一人でイエスを通して聖霊の力により、神と個人的な関係を持つことが出来るのです。至聖所には、以前は一年に一度贖罪の日に一人の祭司が入ることができただけでした。しかし今新しい契約のもとにある私たちクリスチャンは、いつでもそこに入ることが出来るのです。

 

イエスが十字架上で息を引き取られたとき、聖所と至聖所を分けていた神殿の垂れ幕が上から下に裂けました。長さ12m、厚さ15cmの幕が上から神によって裂かれ、至聖所が露になりました。至聖所とは神の臨在があるところであり、それが今やすべてのクリスチャンのために開かれたのです。あなたは大祭司である必要も、特別な装束を身に纏う必要も、生け贄の血を携える必要もないのです。あなたが主イエスを信じるならば、大胆に神の臨在の前に行くことができます。

 

この聖書箇所ではこのように、まず私たちが一人ですることが書かれています。あなたは祈るために教会に来る必要はありません。牧師に言われなくても聖書をいつでも読むことができます。誰に言われなくてもいつでも神とお話ができるのです。個人的な関係をいつでもあなた一人で主と持つ事ができます。

 

しかしこの事実が、ある人たちに共に集まることや教会に集うことは重要ではないという考えを持たせてしまいました。もし私たちがキリストの血を通して聖霊の力により神との個人的な関係を持つことが出来るのなら、教会は何のためにあるのでしょうか。神の御座に近づく時、私たちに必要なのはイエスの血潮だけです。しかし、23節にあるように「動揺しないで、しっかりと希望を告白する」ために、私たちはお互いが必要です。もしあなたがイエスと共に歩み最後まで堅く立ちたいならば、そして、もしあなたがただ口先だけやただ一時の体験だけの信仰ではなく、最後まで揺るぎない強さの信仰を持ちたいならば、あなたには仲間が必要なのです。

 

今日あなたは自分は強いから一人で大丈夫と感じて、誰も必要ではないと思うかもしれませんが、明日は弱くなるかもしれません。その時、もしあなたに仲間がいなければ倒れてしまします。あるいは、自分は強いから教会に行かずに家にいようと思うかもしれません。しかしあなたの助けが必要な人が教会にはいるのです。ですから私たちは強いときも弱い時も共に集まることが大切なのです。強いときは弱い人のために、弱い時は助けを得るためにです。もしあなたが終りの時まで強くありたいならば、「ある人々のようにいっしょに集まることをやめては」なりません。

 

残念ながら、現在集まることをやめるのは「ある人々」ではなく、「ほとんどの人々」になってしまっています。それがアメリカのキリスト教会の現状です。一緒に集まることはそれほど重要ではないと考え、ほんの少しの理由でやめてしまうのです。ヘブル書の著者は一緒に集まることをやめてはならないと警告しています。

 

その理由は、あなたが考えることとは多分違うかもしれません。

彼は「教会に集うことはクリスチャンの義務であるから」とは言っていません。「会堂が一杯になった方が牧師が喜ぶから」とも言っていません。「クリスチャンとしての体面を保つため」でもなく、又「教会はあなたの献金を必要としているから」でもありません。「なにか奉仕をして役に立ちたいから」でもありません。

 

彼は「..かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」言っています。「かの日 the day」が近づけば近づくほど、私たちはお互いを必要とすると言っています。「かの日」に近づくほど、私たちの信仰は大きなチャレンジを受けるようになるのです。イエス・キリストを信じる者としてこの世で生活するのが、もっと困難になって来るのです。「教会は今なんの影響力も持っていない」とこの世の人は言っています。しかしそれはこの世に対してのことです。「かの日」まで信仰を堅く守りたい信者にとって、教会は非常に力があり、砦であり、頼みとなるところなのです。

 

「かの日」が近づいている明らかなしるしを私たちは今見ています。私たちはそれを見て、無視するのでも恐れるのでもなく、真摯にとらえねばなりません。

 

「かの日」とは聖書に書かれている特別の日「主の日、the day of the

Lord」のことです。これは旧約だけではなく、新約にもある概念であり、多くの箇所で書かれています。

イザヤ13:6「泣きわめけ。主の日は近い。」

イザヤ13:9「見よ。主の日が来る。残酷な日だ。」

イザヤ34:8「それは主の復讐の日であり、シオンの訴えのために仇を返す年である。」

エレミヤ46:10「その日は、万軍の神、主の日、仇に復讐する復讐の日」

第一テサロ二ケ5:2「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。」

第ニペテロ3:10「しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象はやけてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」

 

このことを私たちはあまり考えもせず話もしません。でも実際に起り始めたら、この知識があることを感謝するでしょう。私は終末のことに非常に重点をおく教会で育ちました。もしも罪を犯している最中にイエスが再臨されたら、あなたは連れていってもらえないと教えられました。ですから私は6歳くらいから恐れがいつもありました。周りの人が携挙されて自分だけ取り残されるという夢を何十回と見ました。そのような経験があったので、私は終末のこと、イエスの再臨のことをもう考えないようにしました。

それと同じように多くの人は終末のことを考えたり話したりしないばかりか、もう信じなくなっています。しかし、イエスはまた来られるのです。終末に関するイエスの教えがマタイ24章にあります。

マタイ24:4に偽キリストが現れるとあります。6節には戦争、戦争のうわさ、7節にはききん、地震、9節、教会に対する迫害、10節、その結果として教会内での裏切り、憎み合い、11節、にせ預言者、12節、不法がはびこり、愛が冷たくなる。

不法が今はびこっています。残念なことに、教会はそれに立ち向うのではなく、それを受け入れて同化しようとしています。この世に調子を合わせているので、不法がはびこり、それによって教会は力を無くし愛をなくしています。背信は一人でするのではなく、周りの人がしているのにつられるのです。

 

終末に関してイエスは3つの忠告をしておられます。

1.惑わされてはならない。これらの事が起って混乱するとき、敵はあなたを惑わそうとする。それに騙されてはならない。

2.心を悩ましてはならない。イエスがこれを話されたのは、これが起ったときに私たちが動揺したり心を悩ませたりしないためである。私たちは「イエスは確かにこれが起ると言われた。」と信仰をもって受け取ることができる。

3.13節「最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」最後まで信仰を堅く保つこと。

 

これが新約聖書の終末論です。「反キリストは誰か」といろいろと議論することではありません。私たちは反キリストやけものを待っているのではありません。私たちは主の訪れを待っているのです!

 

主は「心を悩ませてはならない。」と言われました。この御ことばを私たちはしっかりと握らねばなりません。それは私たちが告白している信仰に堅く立って動揺しなためです。そうしなければ私たちは惑わされるのです。

 

私はときどき奇妙な教義に惑わされている人に会いますが、どんなに立派なクリスチャンでも惑わしに陥る危険があるのです。パウロがガラテヤ人に「もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。」と強い語調で言っていますが、それほどに正しい教義に留まることは教会にとって重要です。

 

惑わされないために、私たちはエクレシアの中に留まり、他のクリスチャンと深く結びついていなければなりません。ただ表面的な挨拶をして手をあげて礼拝するだけではないのです。互いにぴったりと結び合わされていなければ私たちは惑わされるのです。今「かの日」が近づいているのですから、ますます共に集り励まし合わねばならないのです。

 

その日がいつかはわかりません。しかしそれが近づいていることは確かです。既に妊婦が産気づいているのです。その時がいつかは誰もわかりませんが、生まれるのが近いことはわかります。私たちは世界に陣痛が始まっていることを見ることができます。教会の目的は、単にすばらしいキリスト教組織を作ることにあるのではありません。それは主の日のためにクリスチャンを備えるためです。子羊の婚礼の祝宴のために充分に備え整えるためです。お互いに励まし合ってその準備をすることです。この世はますます邪悪になってきますが、教会はますます義しく、純粋で、聖く輝かねばなりません。そして「主よ、来たりませ!」と叫ぶのです。ただ素敵なワーシップが出来るようにとか、癒しが起るように来てください、というのではありません。主ご自身に来ていただくのです。初代教会はそのように祈りました。「マラナサ!主よ、来たりませ。」と。

 

マラキ4:1、2「見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。」

マラキ4:5、6「見よ、わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」

エリヤの霊はすでに教会の中で働いています。父と子の関係をキリストのからだの中で修復しています。それがキリストの再臨への備えです。

その日が近づいています。主がどうか私たちが真剣にその備えが出来るようにしてくださいますように。敵は「もうおまえは手遅れだ」と言いますが、そうではありません。今こそ主を呼び求める時です。今こそキリストのからだにしっかりとしがみつく時です。聖なる恐れが私たちに来ますように。(終り)