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Walk With God Ministries

03 8月

共に集うこと(エクレシア・教会)の大切さ         ベンジャミン・イスラエル • ロビンソン   2015年8月3日


共に集うこと(エクレシア・教会)の大切さ

 

ベンジャミン・イスラエル•ロビンソン

 

 

ヘブル10:19−25

「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」

 

ヘブル書の著者はこの箇所で、まずイエスを信じるものすべてが個人的に持っている特権について書いています。私たちはイエスの血によって至聖所に入ることができます。これは私たちが一人ですることです。あなたがどこにいても、あなた一人でイエスを通して聖霊の力により、神と個人的な関係を持つことが出来るのです。至聖所には、以前は一年に一度贖罪の日に一人の祭司が入ることができただけでした。しかし今新しい契約のもとにある私たちクリスチャンは、いつでもそこに入ることが出来るのです。

 

イエスが十字架上で息を引き取られたとき、聖所と至聖所を分けていた神殿の垂れ幕が上から下に裂けました。長さ12m、厚さ15cmの幕が上から神によって裂かれ、至聖所が露になりました。至聖所とは神の臨在があるところであり、それが今やすべてのクリスチャンのために開かれたのです。あなたは大祭司である必要も、特別な装束を身に纏う必要も、生け贄の血を携える必要もないのです。あなたが主イエスを信じるならば、大胆に神の臨在の前に行くことができます。

 

この聖書箇所ではこのように、まず私たちが一人ですることが書かれています。あなたは祈るために教会に来る必要はありません。牧師に言われなくても聖書をいつでも読むことができます。誰に言われなくてもいつでも神とお話ができるのです。個人的な関係をいつでもあなた一人で主と持つ事ができます。

 

しかしこの事実が、ある人たちに共に集まることや教会に集うことは重要ではないという考えを持たせてしまいました。もし私たちがキリストの血を通して聖霊の力により神との個人的な関係を持つことが出来るのなら、教会は何のためにあるのでしょうか。神の御座に近づく時、私たちに必要なのはイエスの血潮だけです。しかし、23節にあるように「動揺しないで、しっかりと希望を告白する」ために、私たちはお互いが必要です。もしあなたがイエスと共に歩み最後まで堅く立ちたいならば、そして、もしあなたがただ口先だけやただ一時の体験だけの信仰ではなく、最後まで揺るぎない強さの信仰を持ちたいならば、あなたには仲間が必要なのです。

 

今日あなたは自分は強いから一人で大丈夫と感じて、誰も必要ではないと思うかもしれませんが、明日は弱くなるかもしれません。その時、もしあなたに仲間がいなければ倒れてしまします。あるいは、自分は強いから教会に行かずに家にいようと思うかもしれません。しかしあなたの助けが必要な人が教会にはいるのです。ですから私たちは強いときも弱い時も共に集まることが大切なのです。強いときは弱い人のために、弱い時は助けを得るためにです。もしあなたが終りの時まで強くありたいならば、「ある人々のようにいっしょに集まることをやめては」なりません。

 

残念ながら、現在集まることをやめるのは「ある人々」ではなく、「ほとんどの人々」になってしまっています。それがアメリカのキリスト教会の現状です。一緒に集まることはそれほど重要ではないと考え、ほんの少しの理由でやめてしまうのです。ヘブル書の著者は一緒に集まることをやめてはならないと警告しています。

 

その理由は、あなたが考えることとは多分違うかもしれません。

彼は「教会に集うことはクリスチャンの義務であるから」とは言っていません。「会堂が一杯になった方が牧師が喜ぶから」とも言っていません。「クリスチャンとしての体面を保つため」でもなく、又「教会はあなたの献金を必要としているから」でもありません。「なにか奉仕をして役に立ちたいから」でもありません。

 

彼は「..かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」言っています。「かの日 the day」が近づけば近づくほど、私たちはお互いを必要とすると言っています。「かの日」に近づくほど、私たちの信仰は大きなチャレンジを受けるようになるのです。イエス・キリストを信じる者としてこの世で生活するのが、もっと困難になって来るのです。「教会は今なんの影響力も持っていない」とこの世の人は言っています。しかしそれはこの世に対してのことです。「かの日」まで信仰を堅く守りたい信者にとって、教会は非常に力があり、砦であり、頼みとなるところなのです。

 

「かの日」が近づいている明らかなしるしを私たちは今見ています。私たちはそれを見て、無視するのでも恐れるのでもなく、真摯にとらえねばなりません。

 

「かの日」とは聖書に書かれている特別の日「主の日、the day of the

Lord」のことです。これは旧約だけではなく、新約にもある概念であり、多くの箇所で書かれています。

イザヤ13:6「泣きわめけ。主の日は近い。」

イザヤ13:9「見よ。主の日が来る。残酷な日だ。」

イザヤ34:8「それは主の復讐の日であり、シオンの訴えのために仇を返す年である。」

エレミヤ46:10「その日は、万軍の神、主の日、仇に復讐する復讐の日」

第一テサロ二ケ5:2「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。」

第ニペテロ3:10「しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象はやけてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」

 

このことを私たちはあまり考えもせず話もしません。でも実際に起り始めたら、この知識があることを感謝するでしょう。私は終末のことに非常に重点をおく教会で育ちました。もしも罪を犯している最中にイエスが再臨されたら、あなたは連れていってもらえないと教えられました。ですから私は6歳くらいから恐れがいつもありました。周りの人が携挙されて自分だけ取り残されるという夢を何十回と見ました。そのような経験があったので、私は終末のこと、イエスの再臨のことをもう考えないようにしました。

それと同じように多くの人は終末のことを考えたり話したりしないばかりか、もう信じなくなっています。しかし、イエスはまた来られるのです。終末に関するイエスの教えがマタイ24章にあります。

マタイ24:4に偽キリストが現れるとあります。6節には戦争、戦争のうわさ、7節にはききん、地震、9節、教会に対する迫害、10節、その結果として教会内での裏切り、憎み合い、11節、にせ預言者、12節、不法がはびこり、愛が冷たくなる。

不法が今はびこっています。残念なことに、教会はそれに立ち向うのではなく、それを受け入れて同化しようとしています。この世に調子を合わせているので、不法がはびこり、それによって教会は力を無くし愛をなくしています。背信は一人でするのではなく、周りの人がしているのにつられるのです。

 

終末に関してイエスは3つの忠告をしておられます。

1.惑わされてはならない。これらの事が起って混乱するとき、敵はあなたを惑わそうとする。それに騙されてはならない。

2.心を悩ましてはならない。イエスがこれを話されたのは、これが起ったときに私たちが動揺したり心を悩ませたりしないためである。私たちは「イエスは確かにこれが起ると言われた。」と信仰をもって受け取ることができる。

3.13節「最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」最後まで信仰を堅く保つこと。

 

これが新約聖書の終末論です。「反キリストは誰か」といろいろと議論することではありません。私たちは反キリストやけものを待っているのではありません。私たちは主の訪れを待っているのです!

 

主は「心を悩ませてはならない。」と言われました。この御ことばを私たちはしっかりと握らねばなりません。それは私たちが告白している信仰に堅く立って動揺しなためです。そうしなければ私たちは惑わされるのです。

 

私はときどき奇妙な教義に惑わされている人に会いますが、どんなに立派なクリスチャンでも惑わしに陥る危険があるのです。パウロがガラテヤ人に「もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。」と強い語調で言っていますが、それほどに正しい教義に留まることは教会にとって重要です。

 

惑わされないために、私たちはエクレシアの中に留まり、他のクリスチャンと深く結びついていなければなりません。ただ表面的な挨拶をして手をあげて礼拝するだけではないのです。互いにぴったりと結び合わされていなければ私たちは惑わされるのです。今「かの日」が近づいているのですから、ますます共に集り励まし合わねばならないのです。

 

その日がいつかはわかりません。しかしそれが近づいていることは確かです。既に妊婦が産気づいているのです。その時がいつかは誰もわかりませんが、生まれるのが近いことはわかります。私たちは世界に陣痛が始まっていることを見ることができます。教会の目的は、単にすばらしいキリスト教組織を作ることにあるのではありません。それは主の日のためにクリスチャンを備えるためです。子羊の婚礼の祝宴のために充分に備え整えるためです。お互いに励まし合ってその準備をすることです。この世はますます邪悪になってきますが、教会はますます義しく、純粋で、聖く輝かねばなりません。そして「主よ、来たりませ!」と叫ぶのです。ただ素敵なワーシップが出来るようにとか、癒しが起るように来てください、というのではありません。主ご自身に来ていただくのです。初代教会はそのように祈りました。「マラナサ!主よ、来たりませ。」と。

 

マラキ4:1、2「見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。」

マラキ4:5、6「見よ、わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」

エリヤの霊はすでに教会の中で働いています。父と子の関係をキリストのからだの中で修復しています。それがキリストの再臨への備えです。

その日が近づいています。主がどうか私たちが真剣にその備えが出来るようにしてくださいますように。敵は「もうおまえは手遅れだ」と言いますが、そうではありません。今こそ主を呼び求める時です。今こそキリストのからだにしっかりとしがみつく時です。聖なる恐れが私たちに来ますように。(終り)


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