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Walk With God Ministries


31 12月

家族の写真コンテスト


クリスマス休暇を取ってニューヨークから来た息子夫婦を交えた私たち5人の家族は、12月27日マウイ島に日帰り旅行をしました。この旅行の大きな目的の一つは、恒例の家族の写真コンテストを行うことでした。マウイ島の北西部ハナ地区は海と山の中をうねるジグザグの狭い昔からの自動車道で景色がよいことで有名な場所です。皆、それぞれのカメラを抱え、めいめいが真剣な面持ちで写真を撮ります。最初の写真は家内の柚実子が途中の飛行機の窓から撮った朝日が昇る景色です。(左下)

右は途中の植物園で撮ったもの。

息子の嫁 Estherが撮ったものです。その日は曇りから小雨で天候には恵まれませんでしたが、灰色の空の下で却って落ち着いた写真が撮れたと思います。

大小の滝がいたるところにあり、又海の渚の風景がきれいでした。

上記の左と中央、それにその上の滝の右の写真は息子が撮ったものです。上記一番右は私が帰路、島の北東から南側にドライブしていた時、ラナイ島の上を夕日が射していましたので、車走行中に急いで撮ったものです。結局、今回の優勝者は柚実子の飛行機から撮った朝日と雲の写真となりました。当日、彼女の古い馬鹿ちょんカメラの電池が切れてしまい(私が悪かったのですが)結局私のカメラを私と併用しながらのハンデキャップでしたが、母親としての強みを発揮し同情票が少し加味された疑いがあるのですが、ついに一位になりました。二位は息子のDonjiroで左側の水の前の岩場の写真です。息子はNYで商業デザイナーをしていて半分プロですから良くて当たり前ですが、参加者全員今回の投票結果には満足満足でした。

30 12月

溢れるように与える祝福 坂 達也  12月31日


溢れるように与える祝福    

 

坂 達也

 

 

聖書的に言えば、私たちクリスチャンは皆「神の子ども」と言われます。しかし、同じ「子ども」と言っても「幼い子ども」もあれば、「成長した息子」もあります。聖書のギリシャ原語とか、英語の聖書では、その差が理解できるような単語で使い分けられていますが、日本語の聖書の場合は、どちらも通常「神の子ども」あるいは「男の子」と訳されていて、幼いのか、大人なのかの区別がもう一つはっきりしません。

 

勿論、神にとっても人間にとっても、年齢に関係なく「親子の関係」を表す場合には私たちは「子(ども)」でよい訳です。しかし神は、私たちが霊的に幼い子どもから大人に成長することを人間の親以上に重要視し、私たちの成長を、最後まで責任を持って見守り、指導されます。それは「私たちがみな、信仰の一致と、神の御子に関する知識の一致に達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」(エペソ4:13)

 

このことを最近特に感じ、自分自身も反省させられていることがあります。それは「十一献金」についてです。クリスチャンが「十一献金」をすることは、言うまでもなく大変重要なことです。そのことを厳しく義務付ける教会もあれば、あまり言わない教会もありますが、いずれにしてもお金が絡むことですから、言い方に余程気をつける必要があります。

  

しかし「十一献金」は教会でやかましく言われるからするのではないことを、クリスチャンははっきりわきまえていなければなりません。端的に言えば、献金をするのは神ご自身とその御国に対してであって、その人の属する教会の必要を充たす、あるいは信徒としての責任からする、しないと言う考え方はあくまで二義的なことです。私は献金が、クリスチャンとして、その人の神への愛と信仰の度合いを表す最も重要で基本的な尺度であると信じます。従って「十一献金」が出来ない人は、大人で成熟したクリスチャンとは絶対に言えません。本当にこの世の中はお金がものを言う世界であり、神様もそのように見ておられます。

 

私は若い頃収入が良かった頃でも月々の十一献金が出来なくて、年末に慌てて帳尻を合わせたことが多かったのですが、それでも曲がりなりにこの「義務」は守って来ました。このことを主は喜んで下さり、私たち夫婦はビジネスがうまく行かなくなった時も、ミニストリーに専念することを決意し、神にすべてを委ね頼るようになってからは特に、神は私たちを豊かに祝福し、必要はすべて充たされて来ました。

 

従って子どもたちにも友人のクリスチャンに対しても「十一献金」がいかに重要であるかを機会ある毎に強調して来ました。しかし、ある時気がつかされたことは、私の考え方・メンタリティーは、間違っているとは言えませんが、必ずしも「成熟したクリスチャン」としての考え方とは違うと言うことでした。

 

神様への献金は義務からするのではなく、神様を愛し、すべて神様が与えてくださっていることを感謝する気持ち、信仰のほとばしりからするべきであると言うことです。

確かに旧約聖書では少なくとも6箇所で「十一献金」の教えを見ることが出来ます。しかし、新約聖書では「収入の十分の一を献金すればよい」とはどこにも書いてありません。なぜかと言えば、新約の目標は私たちイエス・キリストを心から信じる者はイエスのようになることであるからです。旧約的な見方からすれば、言ってみれば幼い子どもに例えられ、十一献金がしなければならない責任・義務であると言ってもよいかも分かりません。しかし、私たちは新約の時代に生きている(正確には神の中で生かされている)のですから、最早幼い子どもの考えではなく、成熟した大人の考え方に変えられ、レベル・アップされていなければなりません。真のクリスチャンになることとは、私たち全員が神のご性質に似た「キリストのからだ」の一部になることであり、それは霊的に成熟した大人になって、キリストと完全に一体になることを意味します。

 

そのためには、私たちは人間的メンタリティーから脱して神のメンタリティーにならなければなりません。神はすべてにおいて無尽蔵の財源を持ち、それをふんだんに与える方です。キリストは神でありながら、ご自分を私たちに与えられました。けちな根性は毛頭ありません。まさにパウロが言うように「私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(1テモテ6:17)であるのです。しかし人間はなかなかそうなれないのです。

 

 

貧困の霊

 

私たちには二人の子どもがいますが、一人は私たちやもう一人の子どもにも最近とてもよく気を遣って、必要と思えばおしげなく与える子どもに成長しておりますが、もう一人の方は未だそこまでになっていません。そうすると私はどうしても比較してしまいます。その結果は、私自身が全く人間的な父親の域を出ていないことに気がつかされました。

 

私たち地元のミニストリーを一緒にしている二人の男性が生活に追われっぱなしで、「十一献金」が出来ていないので、それを行なえば神は豊かに与えて下さることを、私の経験の証を交えて折に触れ強調して来ました。しかし、二人ともとてもよく祈ってはいるのですが、一向に十分な献金もしていないようですし、経済的に豊かになりません。

 

そこで今回、私が主から示されたことは、私が十一献金を勧めるその気持ちの中には、十一献金をしないから経済的に恵まれないのだと言う批判的な感情があり、その人を「裁いている」と言うことでした。そしてそのこと自体、私自身が貧困の霊に取りつかれていることに他ならないと主から示されたのです。深く反省しております。

 

 

確かに、自分の蒔いた種は刈り取らねばならないと言う霊の法則は厳然と存在しています。そして、神はご自身が聖く、その上、無限に溢れるような愛をもっておられる方ですから、愛をもって正しく適切に懲らしめも裁きもなさるのであって、私たち人間が人を批判したり、相手に報復したり、裁いてはならないのです。そうすれば、勿論自らに裁きを招くことになるからです。

 

私たちは神の子どもとして神の膨大な財産の相続人であり、現在でも無限の財宝を惜しみなく与えてくださる天の父がいるのですから、全く無制限の財源があるのと同じです。従ってその信仰さえあれば、経済的に恵まれない人を助ける必要がある時には、出来るだけ出し惜しみせず豊かに与え、愛を持って親身になって神にとりなすべきです。そのような態度と行動が、相手の人と、自分の貧困の霊を打ち破ることが出来るのです。

 

 

 

神はすべて無制限に祝福出来る方であり、それを望んでおられるのですから、その神にのみ信頼すれば一切の面倒を見ていただけます。これは私たちが神のチルドレン(幼い子ども)であるからです。しかし、それ以上に、私たちは霊的な成熟した大人として、神に負けないぐらいふんだんに、人に、あるいは神が示すミニストリーに与え続ける時に、それがものすごい力となって神の与えるミニストリーの手足となり、同時に自分にも有り余るほど返って来るのです。これが神の経済原則であり、重要で大きな神のビジネス(御国の企業)に参加することになるのです。

 

新しい年2011年から翌年の2012年に向かって、世界経済、特にアメリカの経済が大変な試練の時を迎える、真っ暗な暗闇に突入することが多くの人によって予測、預言されています。しかし、世の中が悪くなり、厳しい状態になればなるほど、神の子どもとして、こんな絶好のチャンスはありません。新しい年に、神の経済原則を忠実に守る成熟した大人のクリスチャンになることを決意し、神に聞いて忠実に実行すれば、その人は神に豊かに祝福されるだけでなく、暗闇の中で神の栄光を輝かせる御国のトーチ・ベアラーとして、又、御国の企業家として、大いに活躍出来るのです。これこそ主が私たちに期待するところではないでしょうか。

新しい年に皆様のお働きに大いに期待しております。 (終わり)   


21 12月

主は道を備えられる フランシス・フランジペン 12月22日


主は道を備えられる 

 

フランシス・フランジペン 

 

税金、テロの脅威、病気、老い、家計、政治的混乱、家族の人間関係、教会の問題、恐怖、健康保険の問題、空港での厳しいチェック、失業、ガソリンの値上がり、戦争、不正、死——これは私たち多くが日々直面している敵のほんの一部です。しかし、主が私のこころに語られたことをお伝えしたいと思います。 

 

ピリピ4:6−7「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」 

 

主は 、「特に別に問題がない」というような単に普通で一般的な平安を私たちが持つことを願っておられるのではないのです。又、ちょっと霊的なだけで人間的レベル、人間サイズの平安を私たちに与えようと計画しておられるのでもありません。もし私たちが、主の示される通りの 道を従順に歩み続けていくならば、主は主御自身の平安の中に私たちを住まわせ守ってくださるのです。 

 

神の平安は全能者なる方の思い、思考のプロセスが含まれている深い静寂です。神は決して憂慮されることなく、常に主導権と解決法を持っておられます。神は初めから結末を見ておられ、人間に必要なものを無尽蔵の資源、能力の持っておられる立場からご覧になります。神は神の子供たちの必要を、あわれみと確信をもって見て下さいます。なぜならばすべてのことは神にとって可能だからです。 

  

主が与えられる平安は、ただ単に「主がくださるもの」というだけではなく主ご自身の延長であり、それこそが主の平安の実体そのものなのです。それは神のレベル、神サイズの平安です。主が「あなたがたのこころと思いをキリスト・イエスにあって守ってくれる」とは、神のこの方法によることなのです。 

 

驚くべきです

 

多くの聖書箇所にある同じ約束 

 

私の解釈に疑問を持つ人があるかもしれませんが、救い主イエスの約束を思い出してください。 

 

ヨハネ14:27「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりま 

せん。」 

 

又、パウロは言っています。 

コロサイ3:15「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。」

これらを初めとする多くの聖書箇所は、私たちのための避難場所、私たちが宿ることができる神の平安で守られている空間、次元、がまさに存在することをあきらかにしています。

 

平安を用いなさい

 

勿論私たちは、 自分をどのような霊的領域の支配下に置くかは自分で選び取らねばなりません。ですから聖書は「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。Let the Peace of Christ rule.」と言っているのです。 この文章の「しなさい let」という語は、私たちの前におかれたリアリティー、現状の中での選択を言っています。忘れないでください。まわりの状況があなたの心を苦しめ始めたときでさえ、あなたは恐れから離れることができるのです。なぜならばそこには神の平安も又備えられていて、あなたの手に届く所にあるのです。恐れ、心配の思いを権威をもって治めてください。なぜならば、「それはただ悪への道(詩編37:8)」だからです。ですから、神の約束の上に信仰により堅く立ってください。

平安は私たちの盾であり、神の御言葉は武器です。ですから、主よりも問題の方を大きいと拡大して見てしまうような否定的で不信仰な思いを虜にしてください。私たちの父は私たちが願う前に私たちの必要をご存知なのです。(マタイ6:8)

あがくのを止めて、静まって主が神であることを知ってください! もし疲れたならば、主のもとに来て、主のくびきを負ってください。あなたのたましいは安らぎを得ます。最後に、パウロの言葉を思い出してください。彼は神に願いをささげるときは「感謝をもって」するようにと言っています。多くの者はいろいろと考えることは沢山すぎるほどしても、感謝することが少なすぎるのです。ですから、私たちの重荷を主に委ねましょう。主は本当に私たちのことを愛し、よくしてくださるからです。主は道を備えられます。(終わり)

Francis Frangipane 
Ministries of Francis Frangipane 
Email: francis1@frangipane.org


14 12月

時に備える リック・ジョイナー 12月14日


時に備える 

 

リック・ジョイナー       

    

 

教会に命(活力)を与えるものにはいろいろな事があります。例えばすばらしい説教、祈り、ワーシップ、そして人々の親しい交わり等です。しかしながら、教会に最も力強い命を与えるものは次の3つのことのようです。それは、神の声を聞く事、奇跡、新しい魂の救い(新しく救われてくる人)です。ノースキャロライナ州にある私たちの教会では、この3つがすべて 増し加えられていて、大変祝福されています。そしてこれは波のように周期をもって 押し寄せてくるようです。現在は次の大波がやって来る兆しが見えてきたところで、人々はわくわくして待ち望んでいます。数週間前に私は主から一つの約束を頂きました。主は私たちに2倍の預言的啓示を与えてくださると言われたのです。

     

その時から私たちは預言の賜物に新たな力強い油注ぎが与えられるのを経験し始めました。神が与えてくださったこのシーズンのために、 新しい年には私は預言の賜物に関しての話しを沢山するつもりです。又、私たちモーニングスターのホームページで、これから与えられる預言的啓示をどんどんお知らせしたいと思っています。又、神の声を知る教えもしていきますし、私たちが主の言葉だと確信したクリスチャンへの主の御言葉もお分ちしたいと思います。

     

最も基本的な形としての預言的啓示とは単準に神の言われること(御声)を聞くことです。ヨハネ10章で言われているように、主の羊は主の声を知っているのです。そして、彼らは主の声を知っている故に主について行けるのです。神の声を知っているということは、神と共に歩くための土台となるものです。旧約時代においても、人々は何度も繰り返し主の声を聞き命令に従うようにと奨励、勧告されています。ここにその中から3カ所だけを取り出してみます。ここにはすばらしい約束が含まれています。

 

そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」(出エジプト15:26)

 

今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。(出エジプト19:5−6) 

 

そうすれば、あなたのうちには貧しい者がなくなるであろう。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、主は、必ずあなたを祝福される。ただあなたは、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私がきょう、あなたに命じるこのすべての命令を守り行わなければならない。あなたの神、主は、あなたに約束されたようにあなたを祝福されるから、あなたは多くの国々に貸すが、あなたが借りることはない。またあなたは多くの国々を支配するが、彼らがあなたを支配することはない。(申命記15:4−6) 

 

今、私たちは 「さらにすぐれた契約(ヘブル7:22参照)」である新しい契約を受けているので、最早律法の下にはおりません。そしてさらにすぐれた約束を受けています。しかし上に挙げた3つの箇所は新しい契約においても約束されていることです。主は今も私たちを癒す方であり、教会に癒しの賜物を下さいました。私たちはまた、王なる祭司、聖なる国民となる新しい契約を持っています。又最後の箇所では主の声に聞き従うことによって彼らのなかに貧しい者がなくなると言われています。これは社会的な貧困を絶滅させるための基本です。

 

もし私たちが主の御声をもっと聞くようになっているとすれば、それは主により近く親密になっているからです。主と親密になることは、預言的啓示を受けることより、もっと私たちが求めるべき第一のことであるはずです。しかし、それだからといって主の御声を求めなくてよいということではありません。第一コリント14:1に「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」とあります。私は多くの牧師が「私たちは賜物を求めるのではなく、それを与えてくださる方ご自身を求めるべきである」と説教するのを聞きました。それは一見、より気高く賢明なことのように聞こえるかもしれません。しかしそれは実のところ、この箇所からも分かるように聖書が言っていることの反対なのです.実際、私たちが主を求める基本的な方法は、主から聞くことを求めることです。コミュニケーションをとることこそ、すべての関係の基本、基礎です。主から聞くことほど私たちを主に近づけるものは他にほとんどありません。また私たちはすべての賜物を求めることによって主を求めます。これらの賜物は玩具ではなく、主の働きをするための道具なのです。

 

私が神から与えられた二つ目の約束は、今年主は教会を今までより2倍、主に近く引き寄せてくださるというものです。ある者は今までより10%だけ主に近くなり、又ある者はバックスライドしてしまうけれど、他の者たちは今までの何倍も主に近く親密になるので、 主の教会全体としては今までより2倍主に近くなるということだと私には分かりました。これが意味することは偉大です。もし教会が今よりも2倍、主に近く親密になったならば、教会がこの世に与える影響はどれほどになるでしょうか?

 

聖書や歴史の中で典型的なパターンですが、このような時には敵の攻撃も激しくなることが予想されます。今、私たちはイザヤ60:1−5の時にいるのです。闇が地をおおい、「暗やみが諸国の民をおおっている」とき、主の栄光が主の民の上に顕れるのです。私たちは最終的に光と闇とがぶつかり合う時代に突入しています。しかし、この聖書箇所にあるように、光が勝利するのです! 国々は闇には向かわず光の方に来ます。

 

今、御霊の高波が起こっています。 それは究極的にはとめることの出来ない津波となり、それが押し寄せるところではバックスライドした者たちやおびただしい数の諸国の民が波の中に巻き込まれ捉えられていくでしょう。主が主の民に語られるということは、これが起こるためなのです。今日、主を求め、更なる預言的な夢、ヴィジョン、預言を求め、主があなたに語られたことに忠実に従うことによって、あなたはこの素晴らしい年を他の人たちよりも一足先に始める事ができるのです。(終わり)

 


07 12月

今アラバマでリバイバルが起こっています!


今アラバマでリバイバルが起こっています!

 このニュースはインターネットの「シッド・ロス」の番組(11月8日)から要約したものです。

 坂 達也

 

 1995年から2003年まで、フロリダのペンサコーラで大きなリバイバルが起こり、世界中から450万人の人が集まりました。その教会の牧師は皆様よくご存知のジョン・キルパトリック師です。

 当時一つの預言が与えられていました。それは「ここから西に50マイル離れた場所で後日新たなリバイバルが起こる。」と言うものでした。キルパトリック師はその預言を知らずに2006年にアラバマ州モービルと言う町に引越し、そこで教会を始めました。

  その教会でこの7月から新たなリバイバルが起こったのです。それは金曜日の夜の集会に、まだ若いネーサン・モリス師がゲストとして呼ばれた時でしたが、突然「神の重い臨在」が会場を満たし、6人の耳の聴こえない人が癒されました。そして、多くの人が救われました。

その夜、師はこれはリバイバルであることがはっきり分かりました。リバイバルには特有の「サウンド」(音)があると師は言います。そのサウンドに続いて、彼はリバイバルに特有の「うめき」「プレーズ」が会場から聞こえ始めた時はっきりと確信しました。

後でペンサコーラでの預言を教えられ、車に乗って計ってみるとペンサコーラの教会のパーキング場からモービルの教会のパーキング場までが丁度50マイルあることが分かりました。この新しい教会の名はチャーチ・オブ・ザ・プレゼンス・オブ・ゴッドです。

 キルパトリック師は、ロス師から、前の時と今回のリバイバルに何か違いがあるかと聞かれ、こう答えています。「前回も今回も濃厚な神の栄光の臨在に満たされていることは同じです。しかし今回は、前よりもっと回数的に多くの、そしてもっと大きな目覚しい癒しの奇跡が起こっています。」

その一例として、自動車事故により22.5年間車椅子に乗り続け、腰から下は完全に麻痺しているある牧師夫人が会場で癒され、一瞬立つことが出来ました。その後足の筋肉が強まり1週間後にもう一度集会を訪れた時は、歩けるようになっていました。

 ここで話が飛び、キルパトリック師がイスラエル人に対して重荷を持っていることを知っているロス師が、ペンサコーラ時代にユダヤ人に起った大きな奇跡について尋ねました。 ペンサコーラに住むあるオーソドックス系ユダヤ人は、脳腫瘍の末期で医者からは完全に見離され、今にも息が絶えるかと思われる状態で集会に現れました。祈られた時、一瞬にして癒され、全く歩けなくなっていた人が立ち上がったのです。その人は町に帰ってその話をしたところ、30人のユダヤ人が一団となって教会を訪ね、その全員が癒されたというユダヤ人ミニストリーにとってのビッグニュースの証でした。一度に多くのユダヤ人が奇跡を経験し癒されたのです。シッド・ロス師は非常に喜んでおりました。

 同じシド・ロス師の翌週の番組(11月15日)で、モービルのキルパトリック師の教会においてリバイバルの火付け役を勤めたネーサン・モリス師が紹介されました。彼は英国の牧師の息子で、若い時に放蕩に身を崩した後に、神の声を聞いて立ち直り、決心し、今では主に大きく用いられて世界を飛び回っている人です。このまだよく知られていない主の器がビジョンによって神に導かれてキルパトリック師のモービルの集会に来ることになったことが紹介されました。(終わり)

 (シッド・ロスの番組http://www.sidroth.org/site/PageServer?pagename=tv_archives より)


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