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Walk With God Ministries


31 03月

ことば      坂 柚実子   3月31日


言葉

3月11日から12日間、関西に住む小西家のお母さんと下の息子さん(ピアノの上手な12歳)が我が家に遊びに来ていました。ポートランドに駐在されていたときに教会に集っておられた御家族で、お父さんと上の息子さん(このサイトの立ち上げを手伝ってくれたコンピューターに強い17歳)は、今回は家で留守番でした。

彼らの会話は勿論関西弁です。それで彼らと一緒にいると、主人も私もいつの間にか少し関西弁になってしまうのです。「それ、違うんとちゃう?」とか「そうやなぁ」とか、初めはおもしろがって使っていると、だんだん身についてきて、そっちのほうが言いやすくなって自然に口から出てくるようになります。そして感じることは、関西弁はとっても会話をなめらかにするということです。そして心までもなんか「関西弁風」にソフトになっていくような気がします。

言葉といえば結婚してアメリカに36年前に来たときは、英語と日本語で苦労しました。英語は勿論「話せない」苦労であり、日本語は「主人のビジネス関係(主に商社)の方々の中でちゃんと話せない」苦労でした。

それから英語が少し話せるようになっても、アメリカ人のグループの中では緊張してしまって英語がうまく出てきません。私たちがその一部として日本語教会をやらせていただいていたオレゴンの教会は、まさしくアメリカ人ばかりの教会で(当たり前ですよね)、私はそこに35年も属していたにもかかわらず、親しい方と話す時は別として、うんと勇気を出さなければ英語が上手く出てきませんでした。

ところが、ハワイはご存知のように多くの人種がいて、それぞれがそれぞれのなまりのある英語を使っています。ハワイのいわゆる「ピジョン・イングリッシュ」にいたっては、しばらく聞いていても英語なのかどうか分からないくらいです。そういう中では「私の英語でも大丈夫」というおおらかな気持ちになることができます。

ニュー・ライフ・チャーチは、まさに人種のるつぼです。アメリカ生まれの人でも人種的には様々なので、日本人の私たちにとってもまったく違和感がありません。また、多くの人が移民でなまりのある英語を使うので、聞き取るのが大変です。

マーシャル・アイランドから最近引っ越してきた夫妻がいて、ご主人のチャーリーはもともとアメリカ生まれの人ですが、奥さんのレネーはマーシャル・アイランド出身で、彼女は英語をすらすら話すのですがすごいなまりがあり、私には半分くらいしか理解できません。また、スコットランドから引っ越してきたジョンの「本格的英語」は彼といつも親しく話している主人も、聞き流してすむ話は実は「半分くらいしか分かっていない」らしいのです。私のジャパニーズ・イングリッシュもみんなは、もしかして「半分しかわかっていない」のかもしれません。

それでもみんな和気あいあいとやっているのは、言葉の足らなさを補って余りあるものがこの教会にはあるからではないか、と私は思うのです。それはリーダーたちを通して流れてくるキリストの姿、即ち、相手を受け入れる姿勢、謙虚さ、仕える心です。

オダ牧師はハワイ生まれの日系3世ですが、神からそれぞれの文化を大切にするようにというヴィジョンをいただいています。 ちなみに、この教会のロゴはハワイアン・キルトの真ん中に十字架を入れたものです。賛美も時々ハワイ語のものを入れたりしていますし、これからは、日本語や韓国語などの賛美をも入れていきたいといっています。お互いの国の文化を受け入れ合うということは非常に大切であり、神が喜ばれることであると思います。

レネーはこの日曜日にマーシャル・アイランドの慣わしだといって、牧師たち全員に沢山の貝をマクラメ編みの中に入れ込んだ素敵な首飾りを配りました。主人も首にかけていただいてとても嬉しかったようです。そして教会全体がなぜかとても喜ばしい雰囲気になりました。(終わり)


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25 03月

神は今新しいことをなさろうとしている  坂 達也  3月25日


神は今新しいことをなさろうとしている

 イザヤ43:18,19 「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」

 神様は今新しいことをなさろうとしています。そして主は「あなたがたは、それを知らないのか。」と詰問されています。
 この聖句の意味は「過去のこと、昔起こったこと(出エジプト)をもはや思う必要はない。なぜなら、それ以上にすばらしいこと(抜本的出エジプト)をわたしは、これからしようとしているからだ。荒廃した地球(荒野)をわたしが復興させるのだ。」ではないでしょうか。

皆様は聖書をどのように読まれているでしょうか。直接的にはここでイザヤが預言していることは過去に既に起こったことですが、同じことがこれからも起こると言う意味で、この預言が将来の私たちに当てはまると信じて、私はこの聖句を引用しております。そのような聖書の読み方、見方を皆様はしておられるでしょうか。
 
伝道者の書1:9に 「昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。」とあります。これは、「わたしは過去に起こったことを又起こらせるから、その意味では新しいことは一つもないが、これから起こすことは今まで起こったこととはスケールが全く違う」と神様が言われているように思われます。

ロマ書15:4には「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。」又、1コリント10:11には「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」とありますから、私たち終末に生きるクリスチャンは、今こそ昔書かれた旧約聖書で起こったことを自分たちのこととして注意して読み、私たちの将来への教訓としなければならないと思います。

私たちの神様がどう言う神であるかをこの際改めて再認識してください。イザヤ46:9に 「いにしえよりこのかたの事をおぼえよ。わたしは神である、わたしのほかに神はない。わたしは神である、わたしと等しい者はない。わたしは終りの事を初めから告げ、まだなされない事を昔から告げて言う、『わたしの計りごとは必ず成り、わが目的をことごとくなし遂げる』と。」

その上、神様はアモス3:7 で「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」と言われるのですから、すべて神様のなさることは前広に預言者を通して発表されているのです。言い換えれば、聖書に書かれてない新しいことが起こることは何一つないのです。ですからクリスチャンである「あなたがたは、それを知らないのか。」と主はおっしゃったのです。

もっともここで聖書が教えていることは、パウロが「最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。」(1コリント15:46)と言っているように、昔(旧約の時代)肉の形で起こった事が、後の時代(終末)には霊の形で同じことが起こると言う警告でもあると思います。このような聖書の読み方をわきまえ知ることが、今の(新約の)私たちにとって特に必要である訳です。

今年ほど世の預言的なリーダーたちがその年に対する預言を数多く公表している年を私は経験したことがありません。しかもほとんどの預言が「今年は特別の年」、「新しいシーズン、カイロスの時に入った」と言うことにおいて共通しております。
皆さん、クリスチャンとしての人生はすばらしい、エキサイテイングな人生ですか。それとも何も起こらないから少々退屈しておられますか。
もしそうであるなら、いよいよすごいことが始まる時が来ましたから、「眼を覚ましなさい、私たちクリスチャンの人生はこれから面白くなって来る」と多くの預言者が語ってくれているのです。私は今年という年に大いに期待しております。

さて、ここで気が付かれると思いますが、聖書をどう読んだらいいのか、聖書とは何か。―聖書とは神様の教科書であると思います。しかし、その教科書はかなり膨大な内容なので、どんなに一生懸命読んでも、それが肉の形で、つまり頭でただ読むだけでは、あまり実用性がなく、有り難味もない、興奮もしません。
私は聖書とは宝物がぎっしり詰っている宝物蔵に夜薄暗い時に明かり無しで入るようなものであると思います。そこにはすばらしい宝物が並んでいることは分かっていても、暗闇の状態では、そのすばらしいはずの宝物がよく見えません。しかし、そこに主が現れて、主が特定の宝物に光を当て、私たちに示して説明して下さる時にはそれがよく分かります。このような聖書の読み方が「霊的な読み方」であり、「主から御言葉を聞く、あるいは示される」とも言います。
教科書と言えば、学校の教科書はそれをただ読めばそれで全部分かると言うものではない事を私たちはよく知っております。教科書は先生が教室で私たちに教えるための道具です。同じことが聖書にも言えないでしょうか。

聖書は教科書ですが、それを書いた先生であるイエス様が直接私たちに教えて下さる為に書かれてあることをこの際改めて認識する必要があると思います。
長い間主は沈黙を守っておられましたが、今、その教科書を書かれた主が大いに語られ始めました。そして、これからはますます誰にでも「聞く耳のある」人には語られる時代に入ったのです。皆様は主と親しくお話されておりますか。

ところで、皆さんはボーン・アゲインしたクリスチャンですか。Born again とはどう言う意味であるか、ご存知ですね。
ボーンアゲイン・クリスチャンとは肉の人間から霊の人間に生まれ変った人のことです。クリスチャンとは肉体を一時的に上に着ていますが、実質は「永遠のいのち」をいただいた霊の存在で、神様に通じた神様の思いで生きることが出来るのです。
 間違いないで下さい。ボーンアゲイン・クリスチャンは神と同じクラス、部類に属する者であるのです。神に似て造られているから 神に似た者であるのです。そしてイエス様の後をついて行き、イエス様の力でイエス様がこの世でなさったことがすべて出来る、そうしなければならない人間なのです。あなたは本当にそうですか?癒しの力、奇跡を起こされていますか。
 そのためにクリスチャンの中には聖霊様が宿っておら れます。つまり私たちは神が住まう「神の家」であり、もはやこの世の時間と空間で制限された、力のないただの悩みの多い、弱い人間ではないのです。
私たちが自分の頭を使って自分で何とかしようと悪戦苦闘することをやめ、自分の思いの中に永遠の命を持つことを、主は期待しておられます。

もう一つ質問します。私たちは聖書を読むために神学を学びます。「神学は真理でしょうか。」神学とは、あくまで人間が考えた学問ですから、その人の考えと都合で、どうにでもなり、極端に言えば間違いだらけであることに気が付いておられますか。
一つの例を言えば、「クリスチャンは大艱難を通るか、通らないでその前に「けいきょ」によって天に上げられる」と言う質問です。これへの答えは、後者が20世紀では大変人気があり、圧倒的に風靡しました。皆さんはどう思いますか。私は、クリスチャンは大艱難を通るとはっきり申し上げられます。

 ここで本論に入りたいと思います。私たちクリスチャンはほとんど忘れかけておりますが、創造主の神は決して忘れていない大事なことが一つあります。何でしょうか。それは神が人間を造った最初の目的を私たちが未だに果たしてないということです。

 創世記1:27,28に「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』」その意味は、神に似た人間(イエスのようなクリスチャン)で地を満たし、その人間によって地を従えよ」と神は言われているのです。
 つまり、神が最初に造られたアダムには、神が造られたこの地球上の全被造物を神の代理人として支配する権威と責任が与えられました。しかしそのアダムと妻のエバが罪を犯して以来、この最初の人間に与えられた神からの使命へのミッションは挫折してしまいました。そこで神はご自身の御子イエスを罪のない人間(第二のアダム)として地上に送り、この人間が果たすべき使命の遂行に改めて着手しました。それは言ってみれば人間を「第二のエバ」として新生・回復させ、この第二のエバ=「教会」がイエス(第二のアダム)の下で元々の任務を成就させるご計画を進めておられる訳です。これこそが、私たち人間が造られたそもそもの目的であり、元々の神からの大命令は今でも厳然と生きているのです。その教会とは「イエスのからだ」「キリストの花嫁」とも言われ、真のクリスチャンの集合体です。

 ですから、私たちはもはや個人として行動するのではなく、「キリストのからだ」として集団で行動する時代に入ったのです。
 イエス様は宣教を開始して以来、徹底して「御国」(キングダム、神の王国)のミニストリーを説かれ、実行されました。この御国のミニストリーとは、神(王)が人間を用いて直接すべてを支配される「アダムへの命令」の回復・実行・成就以外の何物でもありません。

巨人が目をさました

ダニー・ステイン師は1982年に、小さな田舎の白く塗られた教会の建物の中で眠っている巨人の夢を見ました。主の手がおりてきて、巨人の肩をつかみ、彼を眠りからさましました。巨人は立ち上がり、その小さな教会の建物は粉々に砕けてしまいました。そのとき主が私に言われました。「教会が立ち上がる時には、もはやいかなる建物の構造(宗教的なもの、教派、その他の構造)でもそれを中に収めることはできないのです。」

 今まで私たちはすべてのことを個人的、自己中心的に考えて来ました。個人が救われ、聖書を勉強し、祈りながら霊的に成長することがクリスチャン生活であると考えて来ました。そして、教会と言う建物に引きこもり、未信者を教会に連れ込んでは改心させようとして来たのです。この世はサタンの支配する王国、クリスチャンは小さくなって、サタンとかかわることを避けながら自分たちだけで暮らそうとして来ました。しかし、その時代は今、終わろうとしています。なぜなら、この元々の大命令があり、それを人間が何とかしないといけないからです。しかも終末の時代もかなり進んで、もう余り時間が残されていません。

この世が悪魔の王国なら、それを神の王国にしなければなりません。そのためには、この世の中に出て行って、イエス様がされたように、貧しい者に福音を伝え、癒しの必要な者をいやし、神の国の福音を見せて、囚われている人たちを解放する、そして悪魔の王国を打ち破り、この世をイエス様の王国にする命令です。(ルカ4:18,19)

それを私たち教会が集団行為として一致して行う時に、主が私たちを大いに祝福し、主が必要ないやしと奇跡と私たちを通してなさると約束されているのです。
そのために聖書はエリヤとエリシャのことが書かれ、私たちはエリシャとして二倍の油注ぎを受ける時代が来ました。それは使徒の時代を上回るものすごい奇跡が起こる時代です。

同時に大艱難がやってきます。その目的は明らかです。私たちが困難迫害を通ることによって、キリストのからだが頭であるキリストと一致し、王である主の御心だけを行う訓練を受ける必要があるからです。又、クリスチャンが集合体として一致団結して生きる時に、真の力が現される、そのためです。

この世を神の王国にするためには、教会が一致団結して、その地域の政治、経済、文化活動の一切をキリストの御心で行うように積極的にこの世の組織に介入し、王国のすばらしい福音を説き、神の力を発揮していかねばなりません。主である王がそのためのすべての業をしてくださるのです。これがトランスフォーメーションです。

私は今までの地方教会がなくなって一つの大きな教会になれと言っているのではありません。それぞれの教会が教派の考え方を超えて、主の御心を行うと言う目的とやり方において一致し、皆で力を合わせて、この世を神の御国にして行くのです。
この二千年と言う長い間、私たち教会はあまりにも力のない、人間的、ぬるま湯につかって来ました。それが当たり前と思っておられたら、聖書では全くそう教えてはいないことをこの際抜本的に認識すべきです。
 クリスチャンと未信者と見分けがつかな過ぎる、そんな時代を終わらせ、私たちがいよいよ真の王であるイエス様を代表する力を示す本来のクリスチャンになる時が来ました。
世の中で困っている人に本当に神の力で助けてあげることが出来なくて何が福音でしょうか。イエス様がしたように私たちも病人をいやし
25 03月

神と人とに愛される  ポール・キース、ボブ・ジョーンズ 3月25日


神と人とに愛される               

    ポール・キース & ワンダ デイビス, ボブ・ジョーンズ                       

私たちは今、非常に重要な時代に生かされています。聖書の中に書かれている「終末に起こる重大な出来事」が、今まさに、私たちの周りで毎日のように起こっています。私たちは人間の歴史の中で「時が満ちた」といわれる分岐点にさしかかっているのです。

確かに、私たちが、祈りによって神の憐れみを乞わねばならない悲惨な事件も多く起こっていますが、それと同時に、神の偉大な訪れを予期させるような、励まされる「しるし」も起こっています。多くのクリスチャンや教会は、今や、神の王国を大きく押し広げ、前進させていく事ができる場所に、霊的に配置されています。私たちの一番の目標は、暗やみに住む失われた現代の人々にイエス・キリストを示し、主の王国の勝利の力を表わして行くことです。

初代教会の弟子たちに与えられたのと同じ任務の遂行が、私たちにも課せられています。即ち、私たち神の民は「天の御国は近づいた。」とこの世に布告しなければいけないのです。このメッセージを伝えて行く時に、私たちは、病人を癒し、死人を蘇らせ、らい病人を癒し、悪霊を追い出す(マタイ10:7,8)ことをもして行くのです。私たちの基本的な目標がそれ以下であってはならないのです。

1940年から1950年代にかけて「後の雨、ラター・レイン」という癒しのムーブメントが起りましたが、その時に与えられた霊的な油そそぎを主がもう一度解き放ってくださるタイミングは、ヨハネ・パウロ二世の死がその一つのサインになるであろうと、主は数年前に私に語られました。私たちはこのメッセージを様々な機会に語り、また書きあらわして来ました。

私たちが今果たすべき責任は、破れ口に立って主が恵みをもって回復のミニストリーを解き放ってくださるようにと嘆願し、叫ぶことです。私たちは、前の時代の人々に主が与えられた約束と任務をもう一度取り戻し、それに新しいフレッシュな主の息吹を吹き込むのです。

預言者イザヤは、イスラエルの歴史の中で、現代とちょうど同じような時について語っています。それは、契約の民イスラエルが長子の権利を略奪され、敵に相続財産を奪われてしまった時のことでした。

「これは、かすめ奪われ、
略奪された民のことであって、
若い男たちはみな、わなにかかり、
獄屋に閉じ込められた。
彼らはかすめ奪われたが、助け出す者もなく、
奪い取られても、それを返せと言う者もいない。
あなたがたのうち、だれが、これに耳を傾け、
だれが、後々のために注意して聞くだろうか。」 (イザヤ42:22,23)


天に向かって嘆願し、敵の陣地を襲撃して相続財産を奪い返すことのできる権威の油注ぎを受けた人々を、主は今、求めておられると信じます。敵に渡してしまった賜物、油注ぎ、任務、約束をすべて取り戻さねばならないのです。この任務を遂行するために主は恵みを与えてくださいました。主よ、どうかこの事が出来るように私たちを助けてください!


神と人から愛される                
      ポール・キース・デイビス

私たちや又、他の人々が主にお訊ねしてきた質問がいくつかあります。それらはとてもシンプルですが、非常に深い意味を持つ重要な質問です。

1. 神は私たちに何を望んでおられるのか。
2. 私たちは今の時代に何を望んでいるのか。
3. 天国の通貨は何か。
4. 神に目を留めていただくにはどうすればいいのか。

これらは聖書的で正当な質問であり、それに対する聖書的な油注がれた答えがキチンとあるのです。

ソロモン王はこの地上で生きた人の中で、(イエス様は別にして)最も知恵ある最も油注がれたリーダーでした。彼は、リーダーとして成功するために鍵となるものを、聖霊によって次のように書いています。

「恵みとまこととは王を守る。
 彼は、恵みによって王位をささえる。」 (箴言20:28)


今の時代の人々を神の方法で霊的に目覚めさせるには、恵みとまことが必要不可欠なのです。
聖霊様は最近、何度もこの事実を強調されています。もし、私たちが主の柔和さを自らの生き方であらわし人に示して行くならば、私たちはその時に主の力をも受けることが出来るのです。もし、私たちが主の従順さを持つならば、主の復活の力をも受け取ることが出来るのです。

モーセの模範

 聖書に、地上のすべての人にまさって柔和であった(民数記12:3 口語訳)、と書かれているモーセは、イスラエルのリーダーとして、長く待ち望んだ約束の地をあと一歩で相続するというところまで来ていました。しかしながら、これが彼のすばらしいところですが、彼は神の約束を手に入れる事だけでは満足せず、神の臨在をも切に求めたのです。この事は私たちが、神の臨在を求めることなしに、預言で約束されたものを手に入れようとする、という愚かな行動をとることも可能である、という事実を示しています。

モーセの心は主の約束と主の臨在を求めただけでは満たされず、そればかりか、彼は主の栄光を見ることを望みました。ですから、私たちも同じようにこれらのことを期待し、求めるべきなのです。

主がモーセの前を通り過ぎるときにこう宣言されました。

「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者、父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」(出エジプト34:6,7)

恵みとまことに満ちている、とは、神のご性格そのものなのです。


神に目を留めていただく

 1995年4月28日に、私はあることを示唆する夢を見ました。夢の中で私は、ラター・レイン(後の雨)リバイバルの著名なリーダーの一人をよく観察することが出来ました。実際、彼はラター・レインのムーブメントを起こしたと言われている人でした。

聖霊様はこのへりくだった一人の人を使って大きな業をされました。多くの著しい奇跡が起こったので、多くの歴史家たちは、彼を通してこのような神の霊の降り注ぎは、初代教会以来のものあった、と評価しています。このムーブメントの中で、彼や、彼を通して主に触れられた人たちのミニストリーによって、実に何百万という人たちが、救われ、癒され,開放された のです。

この人の何が主の目にとまったのでしょうか。このように重要な任務を与えられ、天の恵みを買うことのできる天国の貨幣を手に入れることが出来たのは、彼のどのような資質によるのでしょうか。私はこの問いを、夢を見る前からずっと心に持っていたのでした。

夢の中で彼が語るのを聞いていた時、私は彼の首に何かがぶら下がっているのに気がつきました。それは革の紐にさげられた馬蹄形の飾りで、胸のあたりにぶら下がっていました。時々彼はその馬蹄形の飾りを自分の口の中に入れるのです。するとそれは彼の身体の一部のようにぴったりと彼の口にはまり、それと同時に、彼の口からはすばらし霊的真理が語られるのでした。

つまり、この飾りが何を意味するにせよ、それを口に入れると彼は地上での神の代弁者、スポークスマンになることが出来るのでした。確かにいつの時代でも、神の御心をはっきり語ることが出来る人たちがたくさんおります。教会は天国を顕すものになるという召しを受けていて、私たちは神の王国を代表する油注ぎと権威を授けられた大使なのです。

私たちが神の力をこの世にあらわしていくときに、その力を大きくするために私たちに求められる非常に大切な資質があります。夢の中の馬蹄形の飾りを見た時、私は直観的に、それは彼が神とよい関係をもっている秘訣の一つであることがわかりました。

それから、私はこの夢の霊的意味に確証を与える聖書の箇所として箴言3:3,4を示されました。

「恵みとまことを捨ててはならない。
 それをあなたの首に結び、
 あなたの心の板に書きしるせ。
 神と人との前に
 好意と聡明を得よ。」


恵みとまこと(Kindness and Truth)

知恵の霊は、決して恵みとまことを忘れることのないように、と私たちを訓戒されています。それを首飾りのように首につけ、心の板に書き記されねばなりません。そうする時に私たちは、神と人との前で好意を得ながら歩むことが出来るのです。

多くの者たちは人との関係においては信頼を得ていますが、神との間では得ていません。又、ある人たちは神との縦の関係は築いていますが、人とはあまり深くかかわっていません。変わることのない「恵みとまこと」という資質は、神との関係と人との関係のどちらをも私たちに与えてくれます。この二つの徳を養い育てることによって、私たちは神と人との両方の確かな信頼関係を結んで生きることが出来ます。

私たちが首にかけるものは、とても重大な価値のあるものを表わしています。例えば、偉大な富のしるしを人にあらわすために私たちは高価な宝石を首飾りにします。恵みとまことの資質は霊的富の大きさを表わすために私たちの首にかけられるべきものなのです。

古代に人々は、自分にとって最も神聖な言葉を羊皮紙に書いて、それにひもをつけて首にかけ、自分にとって何が一番大切かと言うことをいつも忘れないようにしました。

それに加えて、「恵みとまこと」は私たちの心の板に書き記されねばなりません。人の心とはその人の存在の核心です。心に何かを刻むならば、私たちのすべての行動の上にそれが書き写されます。

それは単に言葉を知的に理解するとか、意味もなく言葉を機械的に反復することではありません。それらは私たちの存在そのものに影響を与えることの出来る心の内から湧き出る資質です。それによって私たちの口から出るすべての言葉、すべての行いは「恵みとまこと」を着せられて出てくるのです。

恵みとまことを理解する

この箴言の中の「恵みkindness」という言葉は、ヘブル語で「checed」です。旧約では240回使われていて、神のご性格を理解するうえで最も大切な言葉の一つでり、「あわれみ mercy」と訳されていることも多い言葉です。 それは又、恵みとあわれみという概念だけではなく、同情 (compassion)、誠実 (royalty) という意味も含んでいます。

「恵み(kindness 親切)はただである。」といった人がありました。又、ウイリアム・ペンは「私は人生は一度きりだと思う。だから、もし何か恵みを施す機会があるならば、また、何か善を施すことが出来るならば、後に延ばしたり、怠ってしないことがないように、今それをさせてもらいたい。ここを通ることはもうないだろうから。」と言ったといわれています。

人に恵み、親切を示すのにはお金はかかりません。神の性格を持ちたいと願う人の個人的な選択で出来るのです。それに加えて、神の御性質にあずかることが終末の神の軍隊には必要不可欠であると御言葉にもあります。(第二ペテロ1:4参照)

次に、「まことtruth」という言葉は「emeth」という語根からきていて、「真実な証言」という意味を持っています。また、忠実、不変、信頼出来る言葉、などの意味も含みます。

「まこと・真理」は神の証印です。真理の御霊は私たちをすべての真理に導かれ、よって
すべての偽りや偽善の企てを取り除いて下さいます。

聖なる飾り物をつける

「恵みとまこと」は、神と人から好意をもたれるための不可欠な徳であると言われています。この二つの性質を私たちがしっかりと心に抱きしめ育てていく時に、この世に神の救いと力の衣を運んで行くために必要な完全は霊的な力を、私たちは持つことが出来るのです。

使徒パウロを通して、聖霊は「神が喜ばれる心」を次のように表わしています。

「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なもので 
 なく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人
 がらを飾りなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」(第一ペテロ3:3,4)


  この箇所は、直接的にはパウロの時代の婦人たちに対して語られたものですが、神が外面的な美しさに重点をおくのではなく、内面の美しさをもっとも喜ばれるということを私たちに教えています。私たちは外面だけではなく、「朽ちることのない柔和で穏やかな霊と言う心の中の隠れた人がら」を飾らねばならないのです。これが神にとって価値のあるもの、即ち、天の貨幣である、とパウロは言っているのです。 (終り)

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22 03月

天国の門       坂 柚実子  3月22日



天国の門

ティンデイル現象というのをご存知でしょうか。「多数の粒子が散在する媒質中に光を通すと、通路が散乱光のために光って見える現象」と辞書にありました。雲の間から光がさしてそれが放射状に地上にむかってさしている現象です。よく絵画にも描かれていて、いかにも「天国への入り口」という感じに表現されています。

ティンデイル現象にしても、虹にしても、科学的にそれなりに説明はできるのでしょうが、やはり、それを見たときに人は「科学」以上のものを感じます。詩人のワーズワースは「My heart leaps up when I behold a rainbow in the sky」と詠っていますが、虹を見て嬉しくない人は多分いないでしょう。また、天から射している光の入り口を見るときに、人は誰でも「天国」を思うのではないでしょうか。

「天国の門」というジョン・ポール・ジャクソンの文を3月6日にこのサイトに掲載しました。お読みくださったでしょうか。とても興味がある記事だと思います。この地上に特別に天国まで続いている門があるというのです。ヤコブが石を枕に寝たときに天使がはしごを上り下りしているのを見ましたが、その場所も特別の天国の門だったということです。

エルサレムも神様から祝された主要な天国への門だということで、エルサレムで祈ると祈りが答えられるといわれでいます。ある方はわざわざエルサレムまで行って、嘆きの壁で「お嫁さんをください。」と祈った結果、祈りが聞かれてめでたく結婚されたそうです。また、ハワイの石渡牧師のブログに「来年の春、ガリラヤ湖畔でアシュラムを開くという予定があります。今日はその打ち合わせのためにマキキ聖城教会に行って来ました。ガリラヤ湖畔で聖書の御言葉に静かに耳を傾ける時、他の場所では与えられない特別な語りかけがあると私は信じています。」とありましたから、ガリラヤ湖畔もやはり天国の門になっているのでしょう。

ジョン・ポール・ジャクソンの記事に、リック・ジョイナーのミニストリーの土地は以前モラヴィアン兄弟団によって使用されていて、そこで祈りと賛美がつまれていたゆえに、天国の門がいくつかあることが紹介されています。また、カンサスのIHOP(国際祈りの家)では、1999年9月から今日まで一日も欠かすことなく24時間の賛美と祈りが続けられていますが、その場所はまさに「天国の門」になっているようで、神の臨在が常に豊かにあります。

ヘンリー・グルーバー師と昨年秋に日本に行ったときのことですが、
福島の蓬莱教会(佐藤経夫牧師)でメッセージの前に会衆賛美をしているとき、グルーバー師と主人が同じ瞬間にぱっと天が開くのを感じていたことが後で分かりました。蓬莱教会では、IHOPから学びを受けられて、一日に一時間の賛美と祈りがつまれていて、主が喜ばれておられるのではないでしょうか。

「賛美の中に住まわれる主(詩篇22:3)」をお迎えすることは、誰にでもできます。この日曜日に私たちが賛美をしているときに、ある方に主がこう語られました。「あなた方が賛美をするとき、わたしは招待されていることが分かりますから、あなた方のところに行きましょう。そしてあなた方と親しく交わりましょう。」と。この地上に天国に直通している門が無数に開かれ、「御国を来たらせたまえ」という祈りが実現する日が近づいていますね。
(終わり)


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09 03月

ファースト・フライディー    坂 柚実子      3月9日


ファースト・フライディ

3月3日の金曜日は、チャイナ・タウンの「ファースト・フライディ」で、我がニューライフ・チャーチも初めて参加しました。「ファースト・フライディ」というのは、毎月第一金曜日にチャイナ・タウンの全ギャラリーが夜オープンして、沢山の人で賑あいます。教会はチャイナ・タウンの一角にある元映画館だった建物なので、入り口も映画館の入り口のようであり、中に入るとロビーがあり、そこが格好の画廊になるのです。今回は教会内外のクリスチャンの絵画、写真を集め、計60点を飾ることができました。

日本でも有名な浅井力也さんの絵も3点飾らせていただきました。彼はハワイ在住の青年で、障害を持っていますが、神様を信じて力強く美しい花の絵などを沢山描いています。去年のトヨタ自動車のカレンダーは彼の絵だと聞きました。宇和島でもうすぐ個展を開くそうです。

又、クリスタというハワイで活躍している青年に、教会の前に大きな三枚続きのパネルを置いてスプレイ・ペイントの実演をしてもらいましたが、沢山の通行人が立ち止まって見てくれました。彼は、自分の持っている全部のお金「レプタ2つ」をささげたやもめと、それを見ているパリサイ人を4時間かけて描き出しました。チャイナ・タウンへのクリスタからのメッセージだったのでしょう。

会堂の中では、3組の若者のクリスチャン・ロック・バンドが演奏をしました。牧師をはじめとして教会のメンバーのほとんどは3分と聞いていられないほどの音量でしたが、集まってきた若者には受けていたようです。私には演奏が上手なのか下手なのかさえあまりにやかましくて分かりませんでしたし、神様のことを歌っていたらしい言葉も聞き取れませんでしたが、分かる人によればよい演奏だったそうで、みんなも平安がありました。

2階の一室では、とりなし手が開催中4時間ずっと祈っていました。教会からはミースー(以前ご紹介した日本生まれの韓国人女性で数学博士です。)と主人がずっと祈っていましたが、(私は出たり入ったりしました)今回協力してくれた「サーフィング・ザ・ネーション」という団体の若者が30分に二人ずつ割り当てられていて、交代で来ては一緒に祈ってくれました。みんなキチンと時間になるとやってきて、礼儀正しく熱心に祈ってくれましたので、私たちは大変感心しました。主人は食事をするひまもなかったのですが、とても恵まれたといっていました。「霊の食べ物」を一杯食べたのでしょう。

このような機会を通して「教会」をオープンし、普段は教会に入ってこない人にも入りやすくし、神の臨在に触れてもらうこと、そして、教会から神の御国をチャイナ・タウンへと拡大していくというのが私たちの目的ですが、これは霊的な戦いですから、とりなしの祈りが根底になければなりません。オダ牧師もそれを強調されて「チャイナ・タウンのための祈り」が教会で今つまれています。

4月のファースト・フライディも同じ出し物で行います。そして5月、6月はハワイ民族をテーマにし、フラ・ショップからの展示とフラダンスなどをし、7月、8月は「日本」をテーマにするという予定です。勿論すべて神様中心の出し物です。乞うご期待!(終わり)


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