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Walk With God Ministries

25 3月

神は今新しいことをなさろうとしている  坂 達也  3月25日


神は今新しいことをなさろうとしている

 イザヤ43:18,19 「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」

 神様は今新しいことをなさろうとしています。そして主は「あなたがたは、それを知らないのか。」と詰問されています。
 この聖句の意味は「過去のこと、昔起こったこと(出エジプト)をもはや思う必要はない。なぜなら、それ以上にすばらしいこと(抜本的出エジプト)をわたしは、これからしようとしているからだ。荒廃した地球(荒野)をわたしが復興させるのだ。」ではないでしょうか。

皆様は聖書をどのように読まれているでしょうか。直接的にはここでイザヤが預言していることは過去に既に起こったことですが、同じことがこれからも起こると言う意味で、この預言が将来の私たちに当てはまると信じて、私はこの聖句を引用しております。そのような聖書の読み方、見方を皆様はしておられるでしょうか。
 
伝道者の書1:9に 「昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。」とあります。これは、「わたしは過去に起こったことを又起こらせるから、その意味では新しいことは一つもないが、これから起こすことは今まで起こったこととはスケールが全く違う」と神様が言われているように思われます。

ロマ書15:4には「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。」又、1コリント10:11には「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」とありますから、私たち終末に生きるクリスチャンは、今こそ昔書かれた旧約聖書で起こったことを自分たちのこととして注意して読み、私たちの将来への教訓としなければならないと思います。

私たちの神様がどう言う神であるかをこの際改めて再認識してください。イザヤ46:9に 「いにしえよりこのかたの事をおぼえよ。わたしは神である、わたしのほかに神はない。わたしは神である、わたしと等しい者はない。わたしは終りの事を初めから告げ、まだなされない事を昔から告げて言う、『わたしの計りごとは必ず成り、わが目的をことごとくなし遂げる』と。」

その上、神様はアモス3:7 で「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」と言われるのですから、すべて神様のなさることは前広に預言者を通して発表されているのです。言い換えれば、聖書に書かれてない新しいことが起こることは何一つないのです。ですからクリスチャンである「あなたがたは、それを知らないのか。」と主はおっしゃったのです。

もっともここで聖書が教えていることは、パウロが「最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。」(1コリント15:46)と言っているように、昔(旧約の時代)肉の形で起こった事が、後の時代(終末)には霊の形で同じことが起こると言う警告でもあると思います。このような聖書の読み方をわきまえ知ることが、今の(新約の)私たちにとって特に必要である訳です。

今年ほど世の預言的なリーダーたちがその年に対する預言を数多く公表している年を私は経験したことがありません。しかもほとんどの預言が「今年は特別の年」、「新しいシーズン、カイロスの時に入った」と言うことにおいて共通しております。
皆さん、クリスチャンとしての人生はすばらしい、エキサイテイングな人生ですか。それとも何も起こらないから少々退屈しておられますか。
もしそうであるなら、いよいよすごいことが始まる時が来ましたから、「眼を覚ましなさい、私たちクリスチャンの人生はこれから面白くなって来る」と多くの預言者が語ってくれているのです。私は今年という年に大いに期待しております。

さて、ここで気が付かれると思いますが、聖書をどう読んだらいいのか、聖書とは何か。―聖書とは神様の教科書であると思います。しかし、その教科書はかなり膨大な内容なので、どんなに一生懸命読んでも、それが肉の形で、つまり頭でただ読むだけでは、あまり実用性がなく、有り難味もない、興奮もしません。
私は聖書とは宝物がぎっしり詰っている宝物蔵に夜薄暗い時に明かり無しで入るようなものであると思います。そこにはすばらしい宝物が並んでいることは分かっていても、暗闇の状態では、そのすばらしいはずの宝物がよく見えません。しかし、そこに主が現れて、主が特定の宝物に光を当て、私たちに示して説明して下さる時にはそれがよく分かります。このような聖書の読み方が「霊的な読み方」であり、「主から御言葉を聞く、あるいは示される」とも言います。
教科書と言えば、学校の教科書はそれをただ読めばそれで全部分かると言うものではない事を私たちはよく知っております。教科書は先生が教室で私たちに教えるための道具です。同じことが聖書にも言えないでしょうか。

聖書は教科書ですが、それを書いた先生であるイエス様が直接私たちに教えて下さる為に書かれてあることをこの際改めて認識する必要があると思います。
長い間主は沈黙を守っておられましたが、今、その教科書を書かれた主が大いに語られ始めました。そして、これからはますます誰にでも「聞く耳のある」人には語られる時代に入ったのです。皆様は主と親しくお話されておりますか。

ところで、皆さんはボーン・アゲインしたクリスチャンですか。Born again とはどう言う意味であるか、ご存知ですね。
ボーンアゲイン・クリスチャンとは肉の人間から霊の人間に生まれ変った人のことです。クリスチャンとは肉体を一時的に上に着ていますが、実質は「永遠のいのち」をいただいた霊の存在で、神様に通じた神様の思いで生きることが出来るのです。
 間違いないで下さい。ボーンアゲイン・クリスチャンは神と同じクラス、部類に属する者であるのです。神に似て造られているから 神に似た者であるのです。そしてイエス様の後をついて行き、イエス様の力でイエス様がこの世でなさったことがすべて出来る、そうしなければならない人間なのです。あなたは本当にそうですか?癒しの力、奇跡を起こされていますか。
 そのためにクリスチャンの中には聖霊様が宿っておら れます。つまり私たちは神が住まう「神の家」であり、もはやこの世の時間と空間で制限された、力のないただの悩みの多い、弱い人間ではないのです。
私たちが自分の頭を使って自分で何とかしようと悪戦苦闘することをやめ、自分の思いの中に永遠の命を持つことを、主は期待しておられます。

もう一つ質問します。私たちは聖書を読むために神学を学びます。「神学は真理でしょうか。」神学とは、あくまで人間が考えた学問ですから、その人の考えと都合で、どうにでもなり、極端に言えば間違いだらけであることに気が付いておられますか。
一つの例を言えば、「クリスチャンは大艱難を通るか、通らないでその前に「けいきょ」によって天に上げられる」と言う質問です。これへの答えは、後者が20世紀では大変人気があり、圧倒的に風靡しました。皆さんはどう思いますか。私は、クリスチャンは大艱難を通るとはっきり申し上げられます。

 ここで本論に入りたいと思います。私たちクリスチャンはほとんど忘れかけておりますが、創造主の神は決して忘れていない大事なことが一つあります。何でしょうか。それは神が人間を造った最初の目的を私たちが未だに果たしてないということです。

 創世記1:27,28に「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』」その意味は、神に似た人間(イエスのようなクリスチャン)で地を満たし、その人間によって地を従えよ」と神は言われているのです。
 つまり、神が最初に造られたアダムには、神が造られたこの地球上の全被造物を神の代理人として支配する権威と責任が与えられました。しかしそのアダムと妻のエバが罪を犯して以来、この最初の人間に与えられた神からの使命へのミッションは挫折してしまいました。そこで神はご自身の御子イエスを罪のない人間(第二のアダム)として地上に送り、この人間が果たすべき使命の遂行に改めて着手しました。それは言ってみれば人間を「第二のエバ」として新生・回復させ、この第二のエバ=「教会」がイエス(第二のアダム)の下で元々の任務を成就させるご計画を進めておられる訳です。これこそが、私たち人間が造られたそもそもの目的であり、元々の神からの大命令は今でも厳然と生きているのです。その教会とは「イエスのからだ」「キリストの花嫁」とも言われ、真のクリスチャンの集合体です。

 ですから、私たちはもはや個人として行動するのではなく、「キリストのからだ」として集団で行動する時代に入ったのです。
 イエス様は宣教を開始して以来、徹底して「御国」(キングダム、神の王国)のミニストリーを説かれ、実行されました。この御国のミニストリーとは、神(王)が人間を用いて直接すべてを支配される「アダムへの命令」の回復・実行・成就以外の何物でもありません。

巨人が目をさました

ダニー・ステイン師は1982年に、小さな田舎の白く塗られた教会の建物の中で眠っている巨人の夢を見ました。主の手がおりてきて、巨人の肩をつかみ、彼を眠りからさましました。巨人は立ち上がり、その小さな教会の建物は粉々に砕けてしまいました。そのとき主が私に言われました。「教会が立ち上がる時には、もはやいかなる建物の構造(宗教的なもの、教派、その他の構造)でもそれを中に収めることはできないのです。」

 今まで私たちはすべてのことを個人的、自己中心的に考えて来ました。個人が救われ、聖書を勉強し、祈りながら霊的に成長することがクリスチャン生活であると考えて来ました。そして、教会と言う建物に引きこもり、未信者を教会に連れ込んでは改心させようとして来たのです。この世はサタンの支配する王国、クリスチャンは小さくなって、サタンとかかわることを避けながら自分たちだけで暮らそうとして来ました。しかし、その時代は今、終わろうとしています。なぜなら、この元々の大命令があり、それを人間が何とかしないといけないからです。しかも終末の時代もかなり進んで、もう余り時間が残されていません。

この世が悪魔の王国なら、それを神の王国にしなければなりません。そのためには、この世の中に出て行って、イエス様がされたように、貧しい者に福音を伝え、癒しの必要な者をいやし、神の国の福音を見せて、囚われている人たちを解放する、そして悪魔の王国を打ち破り、この世をイエス様の王国にする命令です。(ルカ4:18,19)

それを私たち教会が集団行為として一致して行う時に、主が私たちを大いに祝福し、主が必要ないやしと奇跡と私たちを通してなさると約束されているのです。
そのために聖書はエリヤとエリシャのことが書かれ、私たちはエリシャとして二倍の油注ぎを受ける時代が来ました。それは使徒の時代を上回るものすごい奇跡が起こる時代です。

同時に大艱難がやってきます。その目的は明らかです。私たちが困難迫害を通ることによって、キリストのからだが頭であるキリストと一致し、王である主の御心だけを行う訓練を受ける必要があるからです。又、クリスチャンが集合体として一致団結して生きる時に、真の力が現される、そのためです。

この世を神の王国にするためには、教会が一致団結して、その地域の政治、経済、文化活動の一切をキリストの御心で行うように積極的にこの世の組織に介入し、王国のすばらしい福音を説き、神の力を発揮していかねばなりません。主である王がそのためのすべての業をしてくださるのです。これがトランスフォーメーションです。

私は今までの地方教会がなくなって一つの大きな教会になれと言っているのではありません。それぞれの教会が教派の考え方を超えて、主の御心を行うと言う目的とやり方において一致し、皆で力を合わせて、この世を神の御国にして行くのです。
この二千年と言う長い間、私たち教会はあまりにも力のない、人間的、ぬるま湯につかって来ました。それが当たり前と思っておられたら、聖書では全くそう教えてはいないことをこの際抜本的に認識すべきです。
 クリスチャンと未信者と見分けがつかな過ぎる、そんな時代を終わらせ、私たちがいよいよ真の王であるイエス様を代表する力を示す本来のクリスチャンになる時が来ました。
世の中で困っている人に本当に神の力で助けてあげることが出来なくて何が福音でしょうか。イエス様がしたように私たちも病人をいやし

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