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Walk With God Ministries


26 05月

ブレークスルーを起す勇気ある カレブ・クリング 20011年 5月27日


ブレークスルーを起す勇気ある礼拝

カレブ・クリング

 

ギデオンの話といえば私たちは普通、羊毛の上の露のことや、神の御臨在の中で角笛を吹いた300人の兵士がおびただしい数のミデヤン人を打ち負かしたという話を先ず考えます。しかし、このパワフルな話には重要な背景があったのです。イスラエルを勝利に導く前に、ギデオンはまず自分の町での勝利を勝ち取らねばなりませんでした。

 

個人的に主に降伏する

 

ギデオンが主の使いと最初に出会った時、彼はまことの礼拝をもって応答しました。士師記6:21にあるように、彼は主の使いに自分の贈り物を捧げました。すると神の火がそれを焼き尽くしたのです。この出会いの後、ギデオンは主のために祭壇を築きました。「捧げもの」は「礼拝をしている時」を表しますが、一方「祭壇」は「 絶えることのない神への礼拝と神への完全な服従というライフスタイルそのもの」を表しています。そしてこの祭壇こそ、ギデオンがこの後経験したすべてのブレークスルーの土台となったのです。

 

神から与えられた任務

 

神は私たちが良い行ないに歩むようにそれをあらかじめ備えてくださっています(エペソ2:10)「祭壇」は私たちの心を天と一致させ、神が備えてくださった任務を受け取り、その任務を権威をもって成就できるように私たちを整えてくれます。ギデオンが彼個人の祭壇を築いたとき、主から最初の任務を受け取りました。それは軍隊を招集することでもなく、イスラエルを神に引き戻すための作戦を練る事でもありませんでした。彼の最初の任務は、自分の故郷、即ちオフラ村に礼拝の祭壇を築くことでした。彼個人の礼拝の祭壇は最初のレベルでした。そして今度は彼の個人的なブレークスルーがまさにオフラ村全体に影響を及ぼそうとしていたのです。

 

士師記6:25−27で、主はギデオンに告げました。「あなたの父の雄牛、七歳の第二の雄牛を取り、あなたの父が持っているバアルの祭壇を取りこわし、そのそばのアシュラ像を切り倒せ。そのとりでの頂上に、あなたの神、のために石を積んで祭壇を築け。あの第二の雄牛をとり、切り倒したアシュラ像の木で全焼のいけにえをささげよ。」

 

神からの任務を遂行するためには、大変な勇気が必要でした。町のほとんどはバアルを礼拝していましたし、その中でも彼の父親は一番のバアル礼拝者でした!バアルの祭壇は彼の家の庭にあったのです。 自分たちの「偶像」が壊されるのを人々が喜ぶはずは勿論ありませんでした。

「光」と「闇」とがまさに衝突しようとしていました。ギデオンの主への従順は、 悔い改めを本当に必要としていた社会に罪の自覚をもたらすことになったのです。

 

燃える仲間

 

ギデオンはしもべの中から10人を取り、が言われた通りにしました。しかし彼は父の家の者や町の人々を恐れて、昼間ではなく夜に行動しました。(士師記6:27)彼はまだ成長過程にあったのです。彼は恐れを克服しようとしていました。勇気というのは恐れがないことではありません。勇気とは、恐れに直面した時でも神は必ず支えてくださることを信じ、主に従順に行動する信仰です。ギデオンは恐れと戦わねばなりませんでしたが、それでも主に従ったのです。

 

全焼のいけにえ(100%すべてを神にささげる)をささげるために燃やす仲間である10人のしもべをあつめました。夜中にこの10人の男たちは町の真ん中で礼拝のたき火に火をつけ、それによって偶像礼拝を打ち破り、神の目的と臨在へと突き進んだのです!あなたの町で真夜中に兄弟姉妹が一つとなって集まり、 祈ったり礼拝することによって発揮される力を低く見てはいけません。 彼らが切り倒した偶像の木は、神を真に礼拝する火のための薪となったのです!

 

合同の炉

 

個人の礼拝の祭壇(ライフスタイル)は大変重要ですが、町を変革出来るのは合同の礼拝の祭壇(2、3人以上)です。ギデオンが神からの任務を果たすために10人を連れて行ったのは、彼が恐れたからではありませんでした。それはこの任務が一人でするには大きすぎたからです。この任務はただ一人の情熱だけではなく、町の一致した働きを必要としていました。

 

バアルの祭壇を打ち壊し主の祭壇を築くだけではなく、雄牛を全焼のいけにえとしてささげねばなりませんでした。成長した雄牛は2000ポンドくらいの重さになります。全焼のいけにえをささげるという礼拝は、一人で出来るものではありませんでした。いけにえを祭壇に持ち上げるだけでも仲間が必要でした。主を礼拝することを誓った仲間が一緒に力を合わせる必要があったのです!

 

いけにえの残り火

 

まことの礼拝は常に反応、リアクションを引き起こします。ダビデが裸で踊った時とか、マリアがナルドの香油を主に注いだ時、人々はまことの礼拝をした者に対して賛同か批判かのどちらかのリアクションをしました。朝になってギデオンの町の人々が目を覚ましたとき、自分たちの祭壇と偶像が壊され、 主の祭壇が新しく築かれ、その上に2000ポンドの雄牛が燃えているのを発見しました。そこで人々はリアクションを起しました。

 

それがギデオンの仕業だと知ったとき、人々は彼の父のところに暴徒のように押しかけ、ギデオンを殺すために引き渡せと要求しました。しかしギデオンの父は思いがけない返答をしたのです。「もしバアルが神であるなら、自分の祭壇が取りこわされたのだから、自分で争えばよいのだ。」と。

 

ギギデオンの命が救われたのみならず、父親の心に大きな変化が起きました。ギデオンの勇気ある情熱的な礼拝は、それまで父の人生を虜にしていた偶像礼拝の霊を打ち砕いたのです。まことの礼拝の祭壇の残り火は、情熱を失ってしまっていた者の心に火をつけ、初めの愛に戻るように引き寄せるのです。

 

デオンは軍隊を率いる前に、10人の礼拝者を率いて自分たちの町の中で主のために燃えました。そしてこれがその後のすべての勝利の土台 となったのでした!

ギデオンと同じように、あなたも王の王なる方を自分の町で礼拝できますように祈ります!(終わり)

 

Caleb Klinge
New Life Christian Center
Email: office@nlcci.org


14 05月

清い心とオープン・ヴィジョン(霊で見る目) フランシス・フランジペン    5月15日


清い心とオープン・ヴィジョン(霊で見る目)

 

フランシス・フランジペン

 

霊的なものを感知するには、心の清さpurityが基礎、土台となります。人生の中で何を見るか、又それをどのように見るかを決定するものは、私たちが内で何を思考しているかという内部思考に根ざしているのです。もし私たちが神の御国に関する オープン・ヴィジョン(霊的な目で見るヴィジョン)を鮮明に見たいのならば、清い心を持つ事が第一の 条件となります。 

 

神の御座で 啓示を受ける

 

黙示録には驚くべきことが書かれています。「御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。(黙示録4:6、8)」 ここでこれらの生き物に関してあれこれ推測するのが今の私たちの目的ではありません。私たちの目標は、神を意識しながら神の御前で生きることによって得られる清い心を持つことです。私たちは神の御座で起こっている事柄を(霊の目で見える)オープン・ヴィジョンを求めているのです。

 

これらの「生き物」は多くのことを表していると思いますが、一つのことは確かだと思います。即ち、 ヨハネは、からだが目で満ちている六つの翼を持つ、気味の悪い生き物を見ているのではないということです。ヨハネが見たのは深い真理を象徴している姿でした。多くの「目」とは、(霊の領域に)開かれていてすべてを包括的に見るヴィジョン(目)を表し、それは神の御前にいることによって可能になります。

 

このことを知ってください。主がおられるところには主の御座もあるのです。もしあなたが主と出会ったことがあるならば、それはあなたの霊が主の御座にいるからです。あなたが霊的に生まれ変わったとき、あなたは上から生まれたのです。(ヨハネ3:3)今のこの時も、 あなたの霊は聖霊を通して、キリスト・イエスとともに天のところにすわっているのです。(エペソ2:6 )主の臨在があるところにはオープン・ヴィジョン(霊の目で見るヴィジョン)もあるのです。

 

これらの「生き物」は、人が神の臨在の中で生きるときに発見する生き方のシンボルです。主にあって私たちの目は考えることができるのです。それらの目は、 識別と理解をもち合わせてものを見ることができます。キリストの思いが私たちの視覚(ヴィジョン)と一つに融合して、私たちの狭い認知力によっては見ることが不可能なものを、「前と後ろを同時に見るように」はっきり顕してくれるのです。私たちのヴィジョンはまた「御座の中央」からも来ます。私たちは離れたところにある霊的真理を見るだけではなく、神ご自身の深みまで及び、探ることができるほどお傍近くに居るのです。(第一コリント2:10)

 

しかし、それと同時に神のおそば近くに居ることは、私たちに「内側の目」、即ち自分の行動の動機を監視する目、罪から自分を護衛する内なる目、を与えます。私たちの霊の目で見るヴィジョンが開けば開くほど、私たちに神の聖さがますます見えるようになります。そして、私たちの人生のほんの小さな罪が重大な罪に見えてきます。主の御前に居ると、私たちは清く生きるようにと迫られるのです。

 

神の御座の前で「生き物」は、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者(黙示録4:8)」と絶え間なく叫んでいます。昼も夜も神は聖であられます。私たちの霊の目が開かれるとき、私たちの口からは「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」という言葉だけが出てきます。

 

まことのイスラエル人は霊で見ることができる

 

イエスはナタナエルのことを「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。(ヨハネ1:47)」と言われました。イエスがこのように感嘆したこの若い弟子はどのような人物だったのでしょうか? この若者の心の中には狡猾さや偽りがなかったのです。私たちもこのような清さを持ちたいものです!ナタナエルは「内側の目」を持っていました。彼は自己欺瞞に陥らないように自分を護っていました。私たちは内なる真理をしっかり握っていれば、外にある真理を認知することができます。ですから、ナタナエルはイエスを見てこう宣言しました。「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。(49節)」

 

イエスはナタナエルに言いました。「あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。まことにまことにあなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。(50—51節)」ナタナエルが清くまっすぐな心を持っていたので、必ずオープン・ヴィジョン(霊の世界を見る目)が 与えられることを、主は知っておられたのです。オープン・ヴィジョンは清い心の当然の結果です。罪と戦う人たち、偽りを憎む人たち、聖さの中を歩むことを熱心に追い求める人たち、あなたがたの努力は神を見るための準備です。あなたがたは天が開くのを見るでしょう。

 

私たちは自分の心が鈍っているので、今の世が霊的に盲目であることを、残念だけれど仕方がないこととして受け取ってしまっています。しかし本当はそうではないのです。旧約の中での罪に対する神の裁きの一つは、天が「青銅」になることでした(申命記28:23)。ほとんどのクリスチャンは、このように天は閉ざされているものと考えています。オープン・ヴィジョン(霊に開かれた目)で天の領域で起こっていることを見たり、自分の心の中を見たりする人はほとんどありません。かたくなな心にとって、天はいつも「青銅」です。しかし、主は「あなたがたは天が開けるのをみて、神の御使いを見るであろう」と約束されたのです!

 

神は私たちが真の霊的ヴィジョンを持つことを望んでおられます。聖霊が教会の中で生き生きと働いておられる一つのしるしは「青年は幻を見、老人は夢を見る(使徒行伝2:17)」ことです。天にある神の御国とこの地の御国とは繋がっているのです。

 

「超自然的なことは一世紀にだけ起こったことであり、現在は『見るところによってではなく、信仰によって歩む(第二コリント5:7)』べきである。」と考える人たちもいます。確かに次の一歩で何が起こるのかがわからない時でも、信仰によってその一歩を 踏む出すことが私たちにはしばしばあります。しかし私たちは内におられる主(の御心)を感知しているのです! それは盲目的信頼ではありません。すでに(過去の経験からはっきり分かる)証明済みの確信と、状況を霊の目で見ることによる信頼です!信仰によって歩むことと霊的なヴィジョンを見ることは、どちらか一つだけしか選べないものではありません。パウロは「信仰によって歩む」と述べているほんの少し前に、「私たちは見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続く(永遠な)ものだからです。(同4:18)」とも言っています。パウロは霊的な領域の啓示を受けていました。彼は天で彼のために用意されていて彼がやがて来るのを待っている、永遠に生きる霊の身体を見ていました(同5:1、4)。彼は「この人が、、、、パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。(同12:3−4)」と言っています。

 

パウロの霊的感知についてあれこれ考えるのもいいですが、彼が新約聖書の三分の一をキリストのオープン・ヴィジョンによって(キリストを霊の目で見つめながら)書いたことは事実なのです。彼はどのようにそれらのことを見たのでしょうか? 彼は「顔のおおいを取りのけられて鏡のように主の栄光を反映させながら、、、(同3:18)」と言ったすぐ後で、「恥ずべき隠された事を捨て(同4:2)」と言っています。そして少し後に「愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖さを全うしようではありませんか。(同7:1)」と続けています。彼の清められた心、完成された聖さから、神の栄光を見る目のオープン・ヴィジョンが与えられたのです。

 

忘れないでください。私たちは「体験」を追い求めているのではなく、清い心を追い求めているのです。ヴィジョンを追いかけているのではありません。聖さを求めているのです。初代教会においては、霊的領域の出来事は当然起こるべき現象として考えられていたと同じように、彼らの心の清さは当然そうあるべきこととして考えられていました。ですからヴィジョンを追い求めるような愚かな人たちのようにはならないでください。あなたは清められること、聖化を求めるべきであり、あなたの準備が整ったときに、それが神の御心ならば、主は超自然的な方法であなたに語られるでしょう(使徒行伝2:17−18)。イエスとの「霊的体験」をどうにかして持とうとしないでください。清い心を持つことを求め、キリストが毎日あなたを吟味し調べ、汚れを取り去ってくださるように願ってください。主が御ことばをもってあなたを洗い、主の聖さによって懲戒されるとき、主はあなたを御臨在へと引き寄せてくださるでしょう。主はあなたの目を「外のものへも、内のものへも」(霊的に見えるように)開いてくださるでしょう。(終わり)


07 05月

「妨害行為」を克服する主との出会い テレサ・フィリップス 5月8日


 

「妨害行為」を克服する主との出会い

 

テレサ・フィリップス

 

私は窓のそばで暖かい日差しを浴びながら本を読んでいたのですが、その時「SABOTAGE・ 妨害」という言葉をはっきりと聞きました。私はほんの少しの間動揺しましたが、直ぐに生ける神の御霊が私を大きな平安で包むのを感じました。私は両手を挙げて主を賛美し始めました。私の心は平安で、主が 統べ治め愛しておられる感謝で一杯でした。

しかし、この「SABOTAGE・妨害」という言葉は何なのでしょうか。辞書には「誰かの努力とか達成を破壊したり妨害したりする行為」とあります。

 

その時、私は涙を流して苦しみ始めました。 何が起こっているのかが私に分かったからです。主の敵が何かをまさにしようとしていたのです。すると又、私は静けさに包まれるのを感じ、もう一度手を挙げてイエスがなされたすべての業を祝福したいという思いにかられました。その時点では、間もなく預言的なメッセージが私に与えられようしていることを全く知りませんでした。1、2日経ったときのことですが、親しい友人と話していた時、私は突然幻の中に引き入れられました。その幻で見たことをお話ししたいと思います。それは強烈でとても力のある幻でした!

 

「食卓に着きなさい!あなたの神と交わりなさい!」

 

幻の中で一本のろうそく立が見え、主が「これはあなたのミニストリーです」と言われるのが聞こえました。するともう一本、また一本と次々にろうそく立が見えました。そしてこれら一本一本の美しい銀のろうそく立が集まってきて華麗な形をした多灯架燭台になりました。目の前には磨き込まれた食卓がありました。その長い食卓は美しく飾られていました。私は燭台が食卓の一番先に動いて行くのを見ました。また、突然沢山のろうそく立が集まってきて、それが集まっていくつかの華麗な燭台となり、ピカピカに磨きこまれた食卓の上に置かれました。一つ一つの燭台は食卓の上をすべるように動いていました。それは私に黙示録に書かれているガラスの海を思い起こさせました。その瞬間、これは地上のことではないことが分かりました。天で起こっていることに違いありません。「食卓に着きなさい!あなたの神と交わりなさい。」という情熱のこもった声が響き渡るのを私は聞きました。 その言葉を発した天の生き物はすぐにいなくなりました。

 

私が入口に立って食卓を見ていると、「愛する者よ、入りなさい。」という声が聞こえました。私は中に入りましたが、そこで私が見たり聞いたりした事は全く驚くべきことでした。多くの人々が食卓に着いているのが見えてきました。有名な人たちや、少しだけ知られている人たち、そして全く無名の人たちが集まっていましたが、この食卓ではすべての人が平等でした。

 

再び「SABOTAGE・妨害」という言葉を私は聞きました。私はじっと静かに立っていましたが、その時、白と紫の衣に腰に紫の帯をし、頭には精巧に造られた金の冠を冠っている主が入って来られました。 数人のよろい持ちの天使が主に従っていましたが、各自「PRAISE・賛美 」と書かれている盾を持っていました。(これを書いている今も私にはその様子が見えています)

 

全会衆はじっと静かにしていました。主はほんの短く次にように話されただけでした。「わたしはあなたがたに新しい戦略を与えます。あなたがたの間に起こっている妨害をあなたがたが止めるのをわたしは助けます。あなたがたは攻撃されて苦しんできました。」

エレミヤ29:11「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。—主の御告げ。—それは、わざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」

「そうです。あなたがたは互いに助け合い、今までなかったほどに一致を表さねばなりません。わたしはあなたがたが兄弟姉妹との間に平和をつくるようにお願いしています。彼らのことをあれこれと中傷することを止めなさい。彼らはわたしの子供たちなのです。わたしはあなたがたすべてをこの食卓に着いてわたしと共に食事をするように招いたのです。」

 

妨害という敵の攻撃に打ち勝つ戦略

 

突然、ありとあらゆる種類の食べ物が食卓の上に現れました。しかし誰も食べようとしませんでした。すべての人が主をじっと見つめていました。主は一人ひとりの目を慕わしそうに見ておられました。気がつくと私も食卓に着いていましたが、私は食卓の下に隠れたいような気持ちでした。考えようとする前に、私は過去、現在、未来で主の食卓に招かれるべき人はどのような人なのかを思い出し始めました。

 

「私がこれ までに口から出した 、牧師や教会、あるいは自分の国に対する批判の言葉をお赦し下さい」と私は静かに心の中で祈り始めました。これを書いている今でも涙が頬を流れます。「天におられる私たちのお父様、どうか私を赦してください。」

 

食卓に着いていた人たちがみんな同じことをしているのに私は気がつきました。私たちは全員で共にする悔い改めのために呼び集められ、それを天が記録していたのでした。すると主が再び語られました。「出て行きなさい。そしてすべての人を弟子としなさい。出て行って一致をもって生きなさい。出て行って信仰組織からのけ者にされている人の友となり、今度訪ねるときには家に招きなさい。」

私の目は愛と共に恥ずかしさの涙で一杯になりました。主が妨害という攻撃に打ち勝つ重要な戦略を始められたことを私は知りました。

 

愛の祈り

 

私は次のように祈ります。

 

1.愛は多くの罪をおおう(第一ペテロ4:8)

イエス様、あなたのように愛せるように私を助けてください。

 

2.指導者を敬う

第一テモテ5:17「よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。」

イエス様、尊う心を表せるように助けてください。

 

3.与える

ルカ6:38「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人人は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」

イエス様、これまで以上に与える者としてください!

 

4.神の家族を回復させる

ガラテヤ6:1「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」

イエス様、私が兄弟姉妹を愛し、愛と尊敬をもって回復させ、彼らが人生のデスティニーを成就できるように私を助けてください。それによって「この地で人々が救われ、主に仕える用意ができるように」というあなたのヴィジョンが完成されますように。

 

私たちは一致によって勝利する

私は砕かれて祈り、そして勝利して立ち上がりました。私は盾をもう一度見てみました。そこには「賛美」と書かれていました。私の信仰が涌き上がりました。私は心に新たな勝利を感じてイエスを賛美し始めました。

 

これらの盾を見ていると、食卓の上に何もないことに気がつきました。誰も食物を口にしたものはいませんでした。私たちは主の慈しみを味わい変えられていたのです—永遠に変えられたのです。イエスはあがないの時を今一度私たちに見せてくださいました。そしてあがないはすべての人のためなのです!

 

これを読んでおられる皆様、どうか私と共にみんなで主イエスと一つとなって立とうではありませんか。平和を作り出す天の軍隊に入り、私たちを愛してくださる主を賛美しようではありませんか。この地で肩と肩を組んで、私たちが天の我らの神に従い仕える用意ができていることをこの世に示そうではありませんか。教会に行っていないクリスチャンや救われていない人を混乱させる様々な意見の相違は横に置きましょう。

 

私たちは天にのぼり、祈りにより神の食卓に着いて主と交わり、聖なる巻物から天の新しい知恵、洞察を頂かねばなりません。私は永遠に変えられました。あなたもそうなることを祈ります。(終わり)