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Walk With God Ministries


24 06月

思い起こし証しすることの力       ダッチ•シーツ      2014年6月24日 


思い起こし証しすることの力

 

ダッチ•シーツ(2014年6月15日 Golory of Zionにおける礼拝メッセージより抜粋)

 

 

6ヶ月ほど前のことですが、神が「わたしはあなたを一回りぐるっとフルサークルさせて、もう一度もとの所に戻す」と言われました。それを聞いたとき、私はそれが良いことなのか悪いことなのかとっさにはわかりませんでした。私たちが何か間違いをしたので、もう一度振り出しに戻ってやり直さねばならないのか、また荒野をさまようのか、と思ったのです。でもそうではなくそれは良い励ましのことばであることが霊でわかりました。

このことを思い巡らしていると、主は私の霊を天に連れていかれました。そこから私が地上を真下に見下ろしますと、地面に一つのサークルが輪を描いて回っているのが見えました。すると主は、次に私を横からそれが見える位置へと連れていかれました。すると上から見たときは一つの輪に見えたものが、横から見ると新しい輪は同じ高さではなく、螺旋を描いて上がって行き、始めのサークルより高い位置で円を描いていたことがわかりました。フルサークルでぐるっと一回りしているのですが、その高度が違い、それは違うシーズンに入ったことを表していることがわかりました。

 

最近オクラホマでメッセージをしました。その集会の後で一人のメシアニックのラビが私のところに来て訊ねました「あなたはテスティモニー(証し)というヘブル語の言葉の意味を知っていますか?」私は「いえ、知りません。」と答えました。

彼は「テスティモニーという言葉は、『もう一度する』という意味です。神が私たちに昨日してくださったことを覚えて宣言するとき、それと同じパワーが今日ふたたび解放されるのです。」と教えてくれました。

 

このことを聞いてから私はいろいろと考え始めました。彼の言ったことを信じなかったわけではありませんが、それが聖書的であるかどうかをしっかり調べてみることにしました。

その結果、「どうして私たちは過ぎ越しを毎年祝うのか、どうしてペンテコステを毎年祝うのか、過去に起こったことにどうして私たちはいつまでもつながっていなければならないのか、どうして切り離してはいけないのか」、ということが分かってきたのです。

 

リメンバー(過去に起こったことを覚えて証しする)ということばはヘブル語ではzkr

ザカーと言いますが、それは単に過去のことを思い出すことではありません。ただ単に昔起こったことを覚えているということではなく、それによって今日私たちがとらねばならない行動が1含まれているのです。

 

士師記16:28でサムソンは「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。O Lord God, remeber me, I pray!」と叫びました。神がサムソンをリメンバーされた時、サムソンに力が戻りました。神がリメンバーしたとき、もう一度同じことをされたのです。私はこの箇所を今までずっと理解できませんでした。神がサムソンのことを忘れることなどあるでしょうか?

そうではなく、サムソンはもう一度力をください、もう一度してください、と叫んだのです。神はサムソンをリメンバーして力を再び与ました。

 

第一サムエル1:11でハンナは「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心め留め(remember me)..」と祈りました。そして19節にあるように、主は彼女を心に留められ(and the Lord remembered

her)、ハンナはみごもって男の子を産んだのです。

 

最後の晩餐のとき、イエスは弟子たちに「わたしを覚えて、これを行いなさい。(do this in rememberance of Me)」と言われました。「これを行う度ごとにわたしをリメンバーしなさい。」と言われました。パウロは第一コリント11:24−26でこれに言及しています。26節で「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」と言っています。ただ頭で主の死を思い出すのではなく、その事実を今のものとして、その時と同じ十字架の力を宣言して受け取るのです。

 

テスティモニーはそれと同じです。私たちは昨日主がされたことを証し宣言して、それと同じ主の力を今日汲み取るのです。マラキ3:16にある「記憶の書 book of remembrance」はそのためにあるのです。

 

テスティモニーという言葉のヘブル語の語源には「繰り返す、何かを再びする」という意味があります。

ただ思い出し話をするというのではなく、「再び行う」ということです。あなたが証しをするときに、神はあなたをぐるっと一回りフルサークルされてもとに戻し、あなたはその時と同じ力の中に入り、再び同じ御業が起こるのです。

 

ですから福音を語ることは、ロマ書でパウロが言うように「救いを得させる神の力」です。それはただメッセージであるだけではありません。ただ主がされたことを思い出して語るだけではありません。あなたが福音を宣言するとき、十字架の救いの力が再び解き放たれるのです。

 

このメシアニックのラビが言いました。「私たちは今多くの奇跡を見ています。様々な病気をいやされた人々を私たちは街角に遣わしています。彼らがしていいることは、ただそこに立って自分に起こった奇跡を告げ知らせているだけです。彼らが何度も何度も繰り返して神が自分に5年前とか10年前とか20年前にしてくださったことを証しする時、同じ力が流れ始めます。なぜならば、彼らが証しをするときに主はまた同じことをしてくださるからです。主の癒しの力が再び解放されるのです。」

 

ヘブル的な考え方では、時というものは生きているのです。時は孕んでいるのです。彼らにとって時は一直線に進むのではなく螺旋を描いて回るのです。もとに戻るときに前と同じ力を汲むことができるのです。

以前起こった癒しや素晴らしい祈りのムーブメントの話を何度もする時、それは懐かしい話にとどまらず、私たちは宣言しているのです。主が昨日してくださった力を今日解き放つのです。主はイザヤ55:11で「わたしの口から出るわたしが語ることばも、むなしく、わたしのところに帰ってこない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」と言っておられます。イエスはヨハネ6:63で「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」と言われました。ことばは生きていて、永遠なのです。

 

第一テモテ1:18に「私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言に従って、私はあなたにこの命令をゆだねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。」とあります。パウロは預言を忘れるな、と言っているのではなく、それをもう一度宣言することによって預言を通して与えられた神の力が再び解き放たれると言っているのです。

 

ヘブルの学者たちは「時」を螺旋状のものとして捉えています。過ぎ越しからペンテコステまでの50日は、ヘブルの考えかたでは、直線上にあるのではなく、螺旋を描いているのです。ペンテコステ、即ち50日というように数えてもおりません。それは私たちの考え方です。彼らは1週間が7回ある、と捉えています。7日のサイクルが終わると、次にもう一段高いレベルでの7日のサイクルの輪が来る、これを7回、栄光から栄光へと繰り返すのです。そしてその次の日が新しい始まり、ペンテコステです。私たちは7日間の円を描きながら次々と上に上っているのです。7といる完成の数字に達し、私たちは神が備えておられる新しいシーズン、即ちペンテコステの力を受けるのです。私たちは天にまで届くのです。

 

主の聖餐にあずかる度ごとに、あなたは十字架の力を新たに経験します。過ぎ越しから7週を過ごした次の日のペンテコステにはあなたは屋上の部屋で弟子たちが経験したのと同じことを経験し、火があなたに再び下るのです。

 

フルサークルです。主がされたことを証してください。それを今日に持ってくるのです。

出エジプト2:24に「神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた(remembered)。」とあります。神はアブラハムを忘れていたのではなく、「わたしはアブラハムに言ったことを思い起こす」と言われたのです。「わたしはアブラハムに語ったことを完全に今日遂行する」と言う意味です。「エジプトもパロもわたしがイスラエルのためにすることを止めることはできない。なぜならば、わたしはアブラハムとの契約をリメンバーしたからだ」と言われたのです。「わたしがリメンバーするとき、わたしが語ったすべてのことは今現実となり起こる」と言われます。

 

神はヤコブにベテルに戻れといわれました(創世記35:1)そこには天に開かれた門があるといわれたのです。そこに行けば、そのような力が今日そこに現れる、そこに戻りその力を汲みなさい、と言われました。時間の中で埋もれていたものがその場所に戻るときにもう一度あふれ出るのです。

 

ネヘミヤは廃墟にもどって宮を立て直すといいました。ネヘミヤ1:8で彼は「しかしどうか、あなたのしもべモーセにお命じになったことばを、思い起こしてください(remember)。」と祈りました。神がモーセに約束されたことを思い出すならば、それらすべての力が再び解き放たれるのです。すべての過ぎ越しの時に起こったこと、紅海が分かれたこと、それらすべての力が解き放たれるのです。

 

カレブはヘブロンで巨人と戦いました。ヨシュア記14:6で彼はヨシュアに「私は約束されています。」と言いました。神が彼に与えた約束の言葉を思い出しています。45年も前のものです。「私がいくら年老いたとして、私の周りの人が次々に死んでいったとしても、私は死にません。私には主からの約束、契約があるからです。私はその契約の言葉を保っています。それは昨日の言葉ではなく、今日の言葉です。なぜならば私はそれを思い出しているからです。主が私に語ってくださったことを私は今宣言します。それは今の言葉であり今、力がある言葉です。その力は今ここに私のためにあるのです。」と彼は言っています。

 

あなたへの神の契約、約束のことばを思い出して宣言するならば、あなたはその契約の力、約束の力を今日、汲み出すことができるのです。(終り)


17 06月

クリスチャンが主の身丈にまで成熟すると何が起こるのか―グラハム・クック師のメッセージより 坂 達也   2014年6月17日


クリスチャンが主の身丈にまで成熟すると何が起こるのか―グラハム・クック師のメッセージより
坂 達也
私たち夫婦は、この春4月初旬から5月末までの約二ヶ月間、日本の各地を訪れる機会を得ました。今回はほぼ2年半ぶりの訪問でしたが、この間に日本の霊的空気がすっかり変わったことを感じて大変励まされました。いよいよリバイバルが起ろうとしていることをひしひしと感じたのです。
さてこの二ヶ月の間に25箇所でメッセージを語らせていただきましたが、それを通して私が強調したことの一つは、「世の終わりの時代は刈入れ、ハーベストの時であり、良いものも悪いものもすべてが完全な成熟度に達する時である」という聖書的な事実です。良いものの収穫とは、聖書に書かれているすべての約束と聖霊の超自然の働きが最高の形で成就し、それが終末の大リバイバルという形で現れるということです。又一方、それは悪魔の「惑わし」の働きも究極の頂点に達する時でもあります。
従って、終末のリバイバルが目指す最終的な目標は、主イエス・キリストの「大宣教命令」(マタイ28:19等)を成就することそのものであると思います。すなわち、教会は救われた者が皆、真の「キリストの弟子」になるように育て上げるべき時が来ているということです。
「キリストの弟子」とは、どのような人のことを言うのでしょうか。それはエペソ4:13,15に書かれています。「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達する・・・あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達する」ことが一つとして欠けることなく100%成就することであり、それが真のキリストの弟子であると信じます。
こうした強い思いを持って私たちはアメリカに帰国したのですが、私はその後直ぐにでも日本旅行の報告と感想を書こうとしたのですが、主は別なことをするように私を導かれました。それは私のコンピューターにこの数年間寝ていたグラハム・クック師のメッセージを今訳して出しなさいと言うものでした。主のタイミングが来たと言うことなのでありましょう。そこで早速、そのメッセージを下記の通りに御紹介させていただきます。誠にタイムリーであると信じます。
「成熟した大人」(ギリシャ語でHuios)になること
グラハム・クック (Growing up in Godセミナーより抜粋)
クリスチャンが霊的に子供から大人に成長する過程で、最終的に成熟しきった大人になることとは、その人の内なる人が神のご性質のようになることです。真に神のように誠実で清い性質と品性を持つようになり、それが常に外に表われる言動をする「成熟した大人」(ギリシャ語でHuios)にならねばならないのです。
しかし、そのような霊的成長過程であなたは、聖霊と真っ向から対立することになることを覚悟しなければなりません。なぜなら、あなたの内におられる聖霊の役目は、あなたの生涯を通して「あなたをイエス・キリストに真に似た者にすること」であるからです。
就いては、それに関して皆さんが知らねばならないことがあります。それは、神はクリスチャンである私たちが、この世に生きている間に真に「キリストに似た者」になることしか望んでおらず、それ以下で終わるとは全く考えておられないと言うことです。
そうであれば、私たちはこの世に生きている間にキリストに似た者に本当にならなければならないのです。このことは、単なる概念とかシンボル、あるいは象徴的な話として受け取らないで下さい。主は、実際にリアルにそうなることを意味しておられるからです。
それは実際生活で私たちが人と話たり、人のことを考えたりする時に、キリストに真に似た者として相手に対応できるということです。
しかも、それは相手の人たちがとる言動とは全く無関係です。彼らの言動によって影響を受けそれに反応するのでなく、ひとえに「あなたはその人とどう対応するのか」というあなただけの問題であるのです。あなたという人がどのように外に表れるかだけがポイントです。相手の出方次第(彼はこう言ったとか、こんなことをしたとか)で相手を責める―と言うようなことでは全くありません。なぜなら、御国では人を責めることなど存在しないからです。キリストにある私たちにはもはや恥も罪定めはないのです。又自分が肉的になってしまったことを相手のせいにしたり、状況のせいにしたりすることもあってはなりません。
「どれだけ神から祝福を受けるか」を決めるのはあなた自身でありあなたにかかっています。あなたは「祝福された者」であるはずですが、それはあなた次第であり、あなただけが祝福を受けるための責任者なのです。あなたは主の約束をいただいている人です。しかしその約束を実際に受け取るかどうかはあなた自身の責任です。しかも、それはあなたがどんなに落ち込んでいたり、迫害にあっていたりする最中でも同じなのです。事実、迫害とか苦しみの中を通っていたり困難な目に会っている時でも、神から大きな祝福を受けている時と同じように、すべてを有益なものとする道があるのです。
あなたの内にはどんなことがあっても止めることの出来ない「いのち」が内在しています。勿論、あなたの意志でそれを止めるなら別です。それはあなたが決めることであって他の誰の責任でもありません。
神があなたに与えたいと願っている祝福を、あなたが受け取るかどうかの責任は、あなた自身にあることを学ばねばなりません。神が常に与えたいと願っている祝福に自分から積極的に近づき、主の御計画に沿って日常の生活の中でその祝福を受け取り、その祝福を人々のために用い始めるのです。そうすることによって、あなた自身がキリストのイメージ、似姿となり、それを人々に表すことが出来るようになります。それが霊的に成熟することの最終的段階であり、完全に成熟した神の息子Huiosになることの意味です。
あなたはもはや自分だけが祝福されることはできなくなります。あなたの周りのひとたちは全部あなたから祝福を与えられる可能性が充分にあるのです。あなたが現れると、誰であっても、あなたから祝福を受けることから身を守ることは出来ません。
聖書には「心を尽くし、思いを尽くし・・・あなたの主である神を愛せよ。・・・あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」とあります。ここであなたの隣人と言うのは、それがいつであっても、どこであっても、たまたまあなたの傍に立っている人、坐っている人のことです。飛行機の中でも、喫茶店の中でも、仕事の中でも、銀行の中でもです。全くの他人だとしてもあなたを通して神の祝福を受けることから身を守ることができる人はいないのです。主と共に歩くあなたは、他人の人生を変える力を常に持っているのです。あなたがその力をつねに持ち運んでいるからです。それは他の人がすることとか言うこととは無関係です。あなた自身が、一人だけで、あなたの住むコミュニティー全体を変える力を持っているからです。それはあなた次第です。そのような人になることを選ぶかどうかというあなたの意志一つです。
それはあなたがキリストの大使として、どのように人の前、あるいはコミュニティーの前に現れたいかによるのです。人がどれほど酷いか、状況がどれほど悪いとかには全く問題ではありません。あなたが一人の完全に成熟しきったHuiosとしてその町に現れると、その社会を変えてしまうほどの力を持っています。使徒行伝には「世界中を騒がせてきた者たちが、ここにもはいり込んでいます。」とあります。あなたがやったことが、その後の30年間も「信じられないことが起こった話」として語り草になるのです。あなたはそのような人になる可能性を持ち、あなたがそこを通って行くだけでそのコミニティーを変える人になれるのです。
私は30年前にロンドン近郷のある会社で働いたことがあります。その会社は色々な企業の会社にアプローチして、その会社によい社員を斡旋したり、各種の社員教育のトレーニングを提供する会社でしたが、私が入社した時は全部で24人の社員がいて、私はその24番目の何もよく分からない新米社員でした。
その24人の中には人材をリクルートすることが専門のアドバイザーとか社員教育のエキスパートが多くいました。それとセールス部門があり、そこでは、大中の企業にアプローチして、その会社の業績を上げるためにより良い社員を斡旋したり、社員教育をするプランを作成します。多くの場合全く知らない会社に電話をしてアプローチし、年間契約の提案書を作り、その仕事に対する入札価格を持って交渉に行きます。私はたまたまそのセールス部門に配属されました。
入社後6ヶ月ほどしたある日、突然私の前に社長のジョージが現れ、私にある会社に提出するプレゼンテーションをしてもらいたいと言うのです。私は面食らって、他にもっとよい人がいるでしょうと2,3のセールス担当者の名を上げたのですが、皆都合が悪く、結局私しかいないと言うことで無理やり私がその仕事を担当することになりました。社長はこれはある大会社への提案でこの入札が取れれば大いに助かる、二日後に一緒にその会社に行くからそれまでよく読んで準備をするようにと言われ、大きな提案書類を手渡されました。
二日後に私はジョージと彼のベントレー(高級車)に乗って出掛けました。そして、ロンドンにあるその大会社のビルの最上階の40階にある豪華な社長室に通されました。そこには社長と担当者たちが待っており、こちら側はジョージと私だけ、私はそれまでに経験したことがない程に緊張し、堅くなってプレゼンテーションを行いました。その最後の段階になって相手の社長がジョージに「提案の内要はとてもよかったが、つまるところ一体値段は幾らなんだね。」と聞くのです。それに対して私は提案書の最後に記入されている入札価格を言うだけでよかったのですが、その時、主が突然私に声を掛けられ「グレイ(グラハムの愛称)、わたしを信じますか?」と言われたのです。それを聞いて私は「オーNo! 主よ、今だけは黙っていていただきたかったのですが・・・後にしていただければ・・・」と心の中でうなりました。しかし主は「わたしを信じるか?」と又聞かれます。そこでやむなく私は「今だけは信じたくはないのですが、・・・ハイ信じます。」と消え入るような小声で答えました。すると主は「その値段を倍にしなさい。」と言われたのです。この間に3-4秒掛かりましたが、相手の社長は再び値段を催促して来ました。そこでジョージが私の方を見るので、思い切って私は倍の値段を言いました。それを聞いたジョージは慌てふためき、心の中で「あの男は精神異常のけがあるので、今の値段はどうぞ聞かなかったことにして下さい・・・」と叫んでいるのが私にはよく分かりました。狼狽したジョージは一瞬椅子から落ちそうになりましたが、相手の社長は担当者とその値段について話し合っていたので、ジョージの様子には気付いた様子もなく、にこにこ顔で「この値段は悪くない、契約しよう」と言ったのでした。
そこで話は決まりました。昼食後に無事契約が取り交わされ、ジョージと私は社長室を後にしました。エレベーターの中で二人きりになると、全く気まずい空気になり、ジョージが「一体何が起こってあの値段を言ったのか」と聞きました。そこで私は自分がクリスチャンであること、「倍にしなさい」と言う神の声を聞いたのでそうしたことを告白しました。社長は「神の声を聞いたというだけで、事もあろうに私の会社がこの大会社との大事な契約を反故にしかねないことを分かって言ったのか。」と、もっと気まずい空気となりました。それから車に乗り帰路につきましたが、この間全くの沈黙が続きました。降りる前に私はジョージに「私は首ですか」と聞くと社長はしばらくした後に「分からん。」と答えました。
三日後に昼食を済ませて自分の席にもどると、机の上に分厚い書類が置いてありました。それは新しい別なプレゼンテーション用の書類でした。表紙に走り書きのメモが付いていて、最後のページを見よ」とあったので、その指示に従って私は最後のページを開くと、値段を入れる欄が空白になっていました。(笑い)そこにもう一つのメモが張り付けてあり、それに「あなたの大きな上司に聞いて書き入れよ」と書いてありました。(会場爆笑)そこで私は祈って主に値段を聞きました。その値段と会社の人たちが通常計算する価格とを比べると、主からの値段は会社の出した数字の1.7倍ほどでした。そこでジョージは主からの値段を採用して私にプレゼンテーションをさせたのですが、その仕事も決まりました。その後も二つの仕事を同じ方法で、いずれも高い主の値段で仕事を取ることに成功しました。
そして私は会社での地位が24番目から2番目に昇格され、ジョージは新に私にビジネス・デベロッピング・マネジャーと言う肩書きをくれた上で、大きな個室と私自身の秘書を付けてくれたのです。しかし私はそんな肩書きと責任をもらっても自分だけではどうしてよいのか全く分からず、ジョージに元の地位に格下げして欲しいと頼みました。するとジョージは私の机の上にある電話を指差し、電話帳から適当な会社を選んで電話してその会社から機会を与えてもらい、仕事を取るためのプレゼンテーションをすればよいと助言してくれました。
そして、彼は「私はあなたを格上げして雇っているのではない。あなたがよく知っている『例の人』を雇おうとしているのだ。」と言ったのです。(笑い)
その後大分経ってから、Huiosになるとそのようなことが起るということに私は気が付きました。それはあなたではなく、あなたが一緒に旅をしているお方がそうであるからです。ダニエルが神に属した人であることは誰でも知っています。ヨセフが神の人であることもそうです。
そこで私は主に祈ったのです。月に一度だけ、一つの会社に電話をし、その会社とだけ契約を結ぶという祈りでした。そして後の時間の全部を、自分の預言者訓練学校で教える教材を書くことに費やしました。(笑い)
或る時私は、ロンドンで最も名高い会社のCEOの電話番号を主から教えてもらいました。しかし、そのCEOにはドラゴン(竜)というあだ名で名高い強力な支配力を持つ秘書が付いていて、すべての電話はその秘書を通さずには絶対にCEOには届かないのです。特に見知らぬ人からの電話はまず取り次がれません。主は私にそのCEOに次の火曜日の午後2時23分に電話をしなさいと言われました。その通りに電話をすると、その1分前にその秘書がトイレに立ち、その時たまたまCEOが秘書のデスクの前を通るように主がされたので、彼が私からの電話を取り、私は難なくそのCEOとアポイントが取れました。それを知った秘書は私がCEOに会うために現れると、本当に憎憎しそうな顔で私を睨みつけ、殺し屋を雇って私を殺してやるとまで息巻いたそうです。言うまでもありませんが、その会社と私はよい契約を結ぶことが出来ました。
さて、その頃ジョージは私に、会社にいるすべてのセールスマンを私がトレーニングし、私のやり方で「大きな上司」からの声を聞いて仕事が取れるようにして欲しいと言いました。私はその年にはセールスマン・オフ・ザ・イヤーになっていました。
私がその会社を辞める日に、ジョージは泣き出しました。私は彼にこれからは「私の大きな上司」の仕事にフルタイムで働くことにしたと伝えたのです。私はこの会社を彼らが経験した事がないレベルにまで収益率を上げました。私自身もどのようにしてそこまで成し遂げたかは想像もつきませんでした。あなたがHuiosの域に到達するとそうなるのです。
と言うのは、神は法外としか思えない程あなたと共にいたい方であり、すばらしいということがどんなことなのかをあなたに証明して見せたくてしょうがない方です。又、あなたは神があなたに与えたいと願っておられる油注ぎを決して低く見積もってはなりません。
あなたが完全に成熟した時、あなたは試合をひっぐり返すことの出来るgame changerとなり、あなたが王であり、英雄であり、チャンピオンとなれるのです。誰もあなたに反抗しなくなり、どんな強い反対者に対してもあなたは抜きん出て相手を打ち倒します。あなたが人生から学ぶことは、どのような状況の中からでも浮かび上がり、あなたが占めるべき正しい地位に着けるのです。なぜなら、卓越した神の性質があなたの上に現れるからです。それがHuiosです。あなたはどんな状態からでも栄えることが出来ます。どのような対抗者にもうまく処することが出来るのです。その結果としてあなたが、あなたの隣り近所を、地域を、町を、そしてハドソン•テイラーがしたように一つの国をも変えることが出来るのです。
クリスチャンが宗教的な制度の中に押し込められると、今お話しているようなことは理解できなくなります。宗教的制度は優秀な戦士とかチャンピオンを生み出すようにはつくられていず、単に羊ばかりを育てようとします。そのような羊は人に頼って生きる人たちであり、毎週教会に来て楽しませてもらい、「十一献金をしたから今月の支払いは全部出来るはずだ」と考えて満足して帰ります。こうして教会という企業全体が次の週に向かって進むのです。しかし、あなたが御国の理解と御国の願望を持つコミュニティーに属するとたとえそのコミュニティーがどんなに小さくても関係ありません)そこから多くのチャンピオンと物事の流れを変えていくgame changerが生み出されます。なぜなら、一人の真のリーダはどんな大きな宗教団体よりもベターであるからです。イエスは「わたしを信じる者は、わたしよりもさらに大きな業をするようになる。それはわたしが父のもとに行くからです。」と言われました。主は、私たちが主よりもよくなることを望んでおられるのです。最もよいものが最後に残されているのです。(終)

13 06月

清められ、備えられる    ボビー・コナー       2014年6月13日


清められ、備えられる

 

ボビー・コナー

 

備えの時

愛する皆さん、私たちは今、聖霊の働きが大いに増し加わる時代のまっただ中にいます。キリストのからだは、神の新しいご計画が始る日のために今、調えられているのです。神の御霊は今、新しいことをしておられますから、私たちが聖霊と共に働くためには調えられる必要があるのです。(イザヤ48:6、7)このプロセスが完了するまでに長くかかるかもしれませんが、神はこの日のために長年の間ずっと私たちを準備してこられました! この世の基が築かれる前から神が私たちのために用意されておられたデスティニーへと、今私たちは動いているのです。

 

今は準備のシーズンです。真理の御霊は信じる者たちを深く取り扱っておられ、 私たちが今まで持っていなかったような聖さで一心にキリスト・イエスご自身に近づくようにと、私たちを召しておられます。主の民は燃える火のような主の臨在の中で主とお会いできるように調えられているのです。 心をつくして主を捜し求める者はすべて神を見出すことができ、またその者たちのうちに神は見出されるのです。(エレミヤ29:12、13)

 

まことに「淵が淵を呼び起こす(詩編42:7)」のです。今は中途半端でなまぬるいままでいる時ではありません。今は深みに入って行き、使徒パウロと共に「キリストを知りたいのです  that I may know Him(ピリピ3:10)」と叫び、主の似姿に変えられ、主の臨在を持ち運ぶ者と変えられるべき時です。花嫁はキリストとの真の結合を経験するために調えられています。それは主と親密になり主を深く知り、私たちの霊、魂、身体、すべての面において主と似る者となるためです。

 

聖さの啓示

の啓示それでは、私たちはどのようにして変革されているのでしょうか? 真理の御霊は私たちが純粋で正しいことを強調されています。それは私たちが皆、真の聖さを持ち主を恐れかしこんで歩むためです。(2コリント7:1)これは律法的に生きるということではなく、王なるキリストへの愛と忠誠から生まれる聖さです。

 

確かに今キリストのからだは、単に 「イエスが救い主である」という教義で主を知的に知るだけでは最早満足していません。この主の民の飢え渇きに主は応答してくださり、 私たちの霊の内にイエスというお方を顕してくださっています。今まで「頭の知識」として理解していたものを、私たちは霊的啓示を通して経験し始めるのです。そして私たちの心の目が開かれるので、私たちの人柄、性格、ライフスタイルが変革されていくのです。(エペソ1:17、18) 誠実さ、正直さが一番大切になります。私たちは毎日の生活をそのように歩みはじめ、主はそれを見て喜ばれます。(コロサイ1:9、10)

 

作戦、戦略の啓示

主のためにより深く聖められた結果として、多くの者が今の重要なシーズンに用いるべき神の戦略を受け取るでしょう(ヨハネ16:13)。 主の求めならば何でも応え、ためらわずに主のことばを聞くと決意したすべての者に、真理の御霊は啓示的洞察を解き放っています(ヤコブ1:22)。神のご計画と目的がますます進展して行くのをあなたは見るでしょう。 聖さと力を持ち、キリストの絶対的権威の中で生き、動き、存在する人々を、神は持たれるでしょう。

 

デスティニーの啓示 

今あなたが「自分はデスティニーの中を歩んでいる」と感じているかどうかにかかわらず、あなたは王の王なる方によって主の良き目的のために調えられています。あなたは神によって選ばれ、永遠の昔からデスティニーを与えられているのです。どうしてでしょうか? 主はあなたを御自分のパートナーとして神の御国の将来を共に造る者として召しておられるからです(2コリント6:1)。これはあまりにもすばらしくて信じ難いことですが、神のことばなのです。エペソ2:10にこう説明されています。

「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」

 

「神の作品」とはどういう意味でしょうか? 「作品 workmanship」と訳されているギリシャ語は「poiema」で、英語の「poem (詩)」もこの言葉に由来しています。まさに私たちはずっと昔に書かれた神のポエム(詩)であり、地上での神の臨在の生きた証しとなるように書かれたものです(詩編139:16、17)。すべてのクリスチャンは例外なく、神があらかじめ備えてくださった良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって創造されたのです。

 

油注ぎの啓示

多くのクリスチャンは「あなたのみわざをあなたのしもべらに見せてください(詩編90:16、17)。」と必死で叫んでいます。幸いなことに、神の油注ぎは イエスに従う聖く正しい者たちの上にとどまり、私たちは 地上の主の目的を果たすことになるのです。神は私たちのために良い行ないを備えてくださったのみならず、それを達成するために必要な恵みをも与えてくださっていま

す(ピリピ4:13)。私たち一人ひとりは神の目的を果たすために油注がれています(使徒1:8)。

 

私たちが今、神からの啓示を敏感に受けとるシーズンへと入っていくとき、私たちの召しとデスティニー(即ち人生の第一の目的)は、愛するイエス・キリストのうちに留まり、主にだけ目を留め続けることだということを決して忘れてはなりません。私たちは主の光の中にだけ光を見ることができるのです(詩編36:9)。主の臨在の中にだけ、私たちは喜びと聖い心を持つことができるのです(詩編16:11)。

 

聖い心のリーダーたち

喜びと聖さという成熟した徳は、多くのクリスチャンの中に見られますが、特にリーダーたちがキリストのからだのために更に高い基準を示すことは大変重要です。私たちが主を見るためには、心の聖さと動機の純粋さが必要とされます(ヘブル12:14)。地上で神の御国を打ち立てることを唯一の目標としている神から選ばれたリーダーたちが、今現れてきています。

 

心の聖さはすべてのクリスチャンやリーダーにとって絶対に必要とされるものです。なぜならば、かつて経験したことのないようなしるしと不思議のシーズンに入っているからです。しかし、警戒する必要があります。超自然的なことは、聖霊だけからではなく暗やみの勢力からも現れるからです。聖書は、終りの時には惑わしが強くなると警告しています(マタイ24:24)。敵は多くの者を惑わそうとしますが、キリスト・イエスはさらに大きなわざをなすために調えられた人々を、ご自分のために持つようになります(ヨハネ14:12)。

 

キリストのからだなるクリスチャンやリーダーは、「どうせ今までとあまり変ったことは起きないだろう」というようないい加減な気持でいてはなりません。今から進んで行こうとしているところは、今まで行ったことのないところだからです(ヨシュア3:4)。この先にあるもののために私たちは皆準備をしなければなりません。それは全能なる神への畏敬を胸に抱くようにという召しです。すばらしい主への畏敬の念が神の民に戻り、それによって神の知恵が解き放たれています(詩編111:10)。これから何百万という人々の心が神の力によって触れられ変えられていきます。それは神の民がキリストへの熱狂的な愛へと戻るからです。(終)

Bobby Conner
Eagles View Ministries


05 06月

預言のことばが教会を助ける    ジョン•ベルト           2014年6月5日


預言のことばが教会を助ける

ジョン•ベルト

 

追い求める心

今神は、ご自分を追い求める心を持つ教会を助けたいと願っておられます。神はご自分の民にむかって御手をのばされ、懸命に助けようとしておられるのです。神は教会の信徒たちを今、調整、更新、改革したいと望んでおられるので、見る目と聞く耳を持つ神の預言者たちを教会に遣わすことによって助けようとしておられます。教会の中で何が起こっているかは、時として外部の人のほうがよく見えることがあります。

 

黙示録2:1、2、4「エペソにある教会の御使いに書き送れ。右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。『わたしは、あなたの行いとあなたの労苦を忍耐を知っている。また、あなたが、悪く者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。..しかしあなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。』」

黙示録に書かれている諸教会を見ると、それぞれの教会が取り扱われねばならない問題を持っていたことがわかります。私は神の取り扱いの方法が大好きです。神はその教会が間違っている点を先に挙げるのではなく、その教会の良い点、正しい点を挙げて励ましています。そして最後に教会が取り扱うべき難しい事柄に言及します。パウロの手紙においても同じことが言えます。彼はまず「挨拶」から始め、その教会の素晴らしい働きに対して励ましを与えます。そして次に、キリストの福音を正しく述べ伝える「狭い道」に教会がとどまるために必要な厳しい真理を語っています。

 

預言のことばをしっかり受け取る

そして今もそれと同じです。地域教会のリーダーたちは、知恵と祈りと識別力とをもって、自分の教会で起こっていることを見る目を持つ外部からの正しい預言のことばに対して、心を開かねばなりません。すべて揺り動くものは揺り動かされます。今、キリストのからだが新しい時代へと移行するとき、五役者のミニストリーを知恵をもって全面的に受け入れる者たちは、神の豊かな秤によって生きるという実を楽しむでしょう。これらの任務(使徒、預言者、牧師、教師、伝道者)は、神の豊かさを教会に完全にもたらすので、信徒はキリストの身丈にまで完成された大人になることができるのです。(エペソ4:11−13)

 

神はご自分の教会を愛しています。ですから今残っているものを取り去ってしまうのではなく、それを保持するために外部から助けを遣わすのです。牧師たちに明確にチャレンジを与える鋭い預言のことばがあります。それは往々にして、牧師の性格を逆なでしたり、牧師が普段持っている視点や考え方とは異なるからです。

イエスが私たちの肉をいら立たせる形で私たちのところに来られる時がありますが、私たちは、主がご自身を顕される形や方法を察知ー認識するためには十分にへりくだらねばなりません。それが常に私たちの益となることは確実であり、私たちの成長を助け、主の臨在の庭の中で私たちが大きく育つために剪定であるのです。パウロが言うように、剪定はその時には喜ばしいものではありませんが、後に私たちの人生に義の実を結ばせるのです。賢い者は良い助けとなる矯正を喜んで受け取ります。私たちは神の剪定を喜ぶことを学ばねばなりません。それは私たちを画期的に助けることになるからです。

ヘブル12:11「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」

 

あなたが牧師であるならば、今心を開いて、神があなたに何を示し何を告げようとしておられるのかを見る目と聞く耳を与えてくださいと祈るようにお勧めします。どのような調整が必要なのでしょうか? 神はそれを直接あなたに示されるかもしれませんし、あるいは又、今までのあなたの考えとは全く違う思いもよらない方法で来られるかも知れません。神はあなたを揺さぶる方法を知っておられ、最早神にしか信頼するものがなくなるように物事を揺さぶる方法をご存知です。

 

預言の言葉によって繁栄・成功する

エズラ記で、ハガイとゼカリヤが預言することによって民は促進されうまくゆきました。預言のことばが実際に働く力をここに見ることができます。民は預言者たちに聞き、宮を建てることができたのです。

エズラ記6:14「ユダヤ人の長老たちは、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言によって、これを建てて成功した。」

地域教会は、神がご自分の臨在の住まいの場所として建てておられる生ける石である人々です。主の臨在の聖所となるために必要な預言による備えをする覚悟のある教会を、神は探しておられるのです。

 

聖霊は脇役ではなく、中心です。聖霊は地上に顕わされた神だからです。聖霊は私たちのうちにある栄光の希望なるキリストです。私たちが聖霊を私たちの心と教会の中に歓迎するとき、私たちのただ中に神のご性質を迎えることになります。なぜならば聖霊は「聖い霊」であられるからです。私たちが聖霊を歓迎しているかどうかを調べるリトマス試験紙は、私たちが神に喜ばれないこと、聖くないもの、を私たちが退けているかどうかです。イエスはそうされました。主を恐れることは悪を憎むことです。(箴言8:13)神は主の御心を追い求める純粋で聖い人々を求めておられます。そうでなければ、神が私たちのために用意された最高のもの以下でよしとしていることになります。

 

聖霊を歓迎してください。恵みと知恵と見分ける力と預言のことばをあなたとあなたの教会に与えてくださいと、主に願ってください。あなたが内側からは見えないけれど神が外側から見ておられるものを正直に見て下さい。私たちが主の臨在に心を明け渡すならば、主は主の道へと誠実に私たちを導いてくださり、旅路を助け、主の栄光のためにキリストのからだを建て上げてくださいます。

主の愛は決して絶える(不足する、見捨てる)ことがありません。His Love Never Fails!(1コリント13:8) (終り)

 

John and Brandi Belt
Overflow Global Ministries
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