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11 10月

ロバート・ダニエルズ夫妻の車と大型トラックとの衝突  坂  達 也    2017年10月11日


ロバート・ダニエルズ夫妻の車と大型トラックとの衝突

 

                 坂  達 也

 

 

 今回の日本旅行でお分ちした一つの奇跡のお話をご紹介します。

 

 これは私たちの教会があるオークランドの街で起こった話です。私たちの教会の牧師ベンジャミン・ロビンソン師の霊の父母といわれるロバート・ダニエルズ夫妻は非常に霊的なご夫婦ですが、その夫婦が約10年前のある日、ロバート師が運転し、その隣に奥様が座り、後ろの席には二人の友人を乗せて街の中を走っていました。四人を乗せた車がある交差点に差し掛かった時、横合いから一台の大型トレーラー・トラックが信号無視で猛烈なスピードで走って来るのに師は気が付かず、あっという間にトラックの横腹に衝突してしまいました。ところが驚いたことに、一瞬にしてロバート師の車はそのトラックを突き抜け、交差点を過ぎたところの安全な道路脇に停車していました。両方の車も人間も全く無傷で無事であったのです。

 彼にその時の様子を聞いてみたのですが、そのとき四人はしばらくの間呆然とし、黙ったまま瞬時のうちに何が起きたのかよく理解できない状態で過ごしたそうです。トラックは何事もなかったかのようにそのまま走り去りました。

 

 これは量子論現象の一つである「瞬間移動」に違いありません。聖書に書かれた例としては使徒8:39があります。ピリポが宦官にバプテズマを授けた後、主の霊が突然ピリポを取り去り、彼は隣町のアゾトに現れました。また、イエスが弟子たちと小舟で一瞬のうちに対岸に移動した話しも同じ瞬間移動の例です。それと、ブルース・アレン師の本で読んだのですが、広大なシベリヤ大陸で4つの教会を牧会していたある牧師は、毎週の聖日礼拝で、それぞれ500キロ以上も離れた場所にある4つの教会を一日で廻ったというお話です。なぜそんなことができるのでしょうか。

 

霊の世界と量子論

 

 この世に存在するあらゆる物質は、すべてその最小の構成物質である原子とか素粒子レベル(ミクロの領域)ではその大きさは無限に小さく、その量子の間隔は驚くほどすけすけで、全く空っぽといってよい程の空洞であるといわれます。原子の直径は10のマイナス10乗メートルといわれますが、その原子が更に小さな原子核とその周りを回る数個の電子で構成されています。その原子核は更に中性子、陽子、クオーク等の素粒子で構成されています。それらの素粒子の大きさは、物理学上で意味をなす最も小さな長さと言われるプランク長10のマイナス35乗メートル、あるいはそれ以下で、実質「大きさも質量もゼロ」として計算されます。しかもニュートリノと言う極微粒子に至っては、宇宙から大量に降り注いでいて、一秒間に何十兆個も人間の身体をするすると通り抜け、他の物質とはほとんど衝突しないそうです。

 

 この極小物質がどれ程小さくまばらに存在しているかを例えてみれば、原子一個の大きさが地球の大きさと仮定すると、その芯にある原子核の大きさは一つの野球場位の大きさに相当し、その原子核を構成する数個の素粒子の大きさは、野球のボール位と言われます。また、原子核の周りを廻っている何個かの電子もボールサイズであるといい、それ等が地球の表面を飛び廻っているーと形容される程、物質を構成する素粒子間の距離は全くのスケスケであると言うのです。

 

 一方人間一人を構成する原子の数は28桁の数字ー凡そ1兆X1,000兆になると言われ、そのミクロ的に見て天文学的に巨大な人間の身体を、一秒に何十兆個の野球のボール大のニュートリノ粒子が通り抜けるとしても、交通整理のための信号など全く必要ない程透け透けの隙間だらけの空間ということになります。

 

 ここで最初によみがえりの身体を持つイエス・キリストがすーっと壁を通り抜けて家の中に入って来られたことを思い出して下さい。実際にどんなに厚い壁であっても量子レベルでは全くのすけすけで、人間の身体が通り抜けるにしても、量子ベースではお互いに触れ合わずにすいすいと通り抜けられるのです。

 

 それではどうして壁とか大理石の表面は堅くて通常では抜けられないのでしょうか。それは物質を構成する原子のほぼ空洞である内部空間は、実は強力な電磁場になっていて、その力が物質に固体性を与えているからであるというのです。(フランク・クロース著「なんにもない無の物理学 P.50」白楊社)

 

 しかし、よみがえりのイエスのように霊的な人間の場合は電磁場間の力を解除することは主の御心によって自由にできると思われます。従ってダニエルズ師たちが乗った車の場合でも、それがピリポの例と同じく主のご計画であったのでしょう、車とトラックの衝突に際しては、主の霊が働いて、素粒子間のスペースに張り詰めている電磁場の力が一時的に解除された。それは壁を通り抜けようとするイエスの身体が、瞬間的にミクロベースのすべての量子がばらばらの状態となり「すり抜け」が可能になったのと同じであったと考えられます。

 

 しかしすべての物質が非常にすけすけな空洞でできているという理由だけでは「なぜ瞬間移動が起きるか」という疑問に対する完全な説明にはなりません。なぜなら「瞬間」と言えば「時間の速さ」が問題となるからです。

 

この宇宙の外側には時間と空間がないのでは

 

 これに対する答えとして、私は最近松原隆彦理学博士が書かれた著書「宇宙はどうして始ったのか」(光文社新書)を読んで、博士が「時間と空間は一体のものであり、時間というのは空間と同じように宇宙の中でしか意味を持っていない・・・宇宙の始まりとともに時間が出現したのであれば、宇宙が始る前に何があったのかを問うことは無意味になる。・・・宇宙の始まりに原因があるとすれば、それは時間や空間を超越したところにある。・・」といわれるのです。(P.178ー181)

 また、郡(こおり) 和範 博士は著書「宇宙はどのような時空でできているのか」(ベレ出版)の中で「宇宙の始まりの前には時間も空間もないといえるかもしれない」といっています。確かにこの質問に対して、物理学者は、今のところ実験による証明ができないゆえに、はっきりとは答えてはいないようです。しかし多くの人たちが肯定的で、その可能性を認めているように見受けます。そこで私自身の考えを申し上げたいと思います。

 

霊の世界が一方に流れる時間と三次元空間とその距離に

           とらわれない自由な空間であるとすれば

 

 私は霊の世界/領域においては、まるで無いに等しい自由な「時間」と「空間」が存在すると信じます。といいますのは、私たちが日常する思考とか夢、意識、想像を考えてみてください。その中では、まるで自由自在の長さと方向性にとらわれのない時間、それに距離のない空間の中で、あっちに飛んだりこっちに飛んで物語が繰広げられることを経験しないでしょうか。それに、私たちが見る夢はどんなに長い夢であっても、それは一瞬でしかないということを聞いたことがないでしょうか。

 私たち人間は、永遠に霊と魂で生きているのであって、肉体はこの世にいる間だけの仮の住まいです。従って霊と魂は時と空間で縛られていないと思います。

 

 そうであればロバート・ダニエルズ師たちが経験した時間感覚を超越した(ゼロ時間の)「瞬間移動」という奇跡は、神が私たちに備えられ、必要に応じて私たちがこの世で利用できる「便利な手段」の一つであると思います。私は冗談ではなく、いつか、ミニストリーで日米往復を瞬間移動で旅行することを願っております。

 

 さて最後に、前述の松原博士は、著書「目に見える世界は幻想か?」(光文社)の中で、「なぜこの世は存在するのだろう。・・・だが、なぜ世界が「ない」のではなくて「ある」のか。こんな複雑な世界があるよりも、何もない方がよほど自然な気もするが、なぜかこの世界は存在している。そこに必然性があったのか、それとも偶然そうなったのか。」という問いを発しています。皆さんはどう思われますか。

 

 私はこの質問はとても深い、むしろ哲学的とさえいえるよい質問であるという気がします。「目に見える世界は幻想か?」ー クリスチャンの私たちにとっては特に「永遠のいのちで生きる霊の世界」こそが実の世界で、この世は一時的に「主のようになるための霊的訓練」という目的で送られて来ている「仮の人生」を今過ごしているのではないでしょうか。

 尚、目に見えるこの世のすべては、あたかも天で制作された物語を、天から光を投影してこの世と言う三次元世界のスクリーンに描き出される映画である、あるいはホログラフィーと形容する科学者もいます。なるほど、この世の物質の99%近くが光でできているといわれますから、私たちはまさに上から光として投影される影として動きまわっているのかもしれません。(終り)


26 09月

裸のアダムとエバよ、今こそ輝く衣を着る時が来た   坂  達 也  2017年9月26日


裸のアダムとエバよ、今こそ輝く衣を着る時が来た

 

                    坂  達 也

 

 三週間にわたる今回の日本旅行を終えた感想をご報告します。一言で申し上げれば、今はイザヤ書60:1−3の時代に入っているという実感でした。

 

 「起きよ。光を放て。あなた(クリスチャン)の光が来て、主の

  栄光があなたの上に輝いているからだ。

  見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。

  しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。

  国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。・・・」

 

 2節に「見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。」とありますが、それはアメリカだけではなく、日本もそうなって来たことを今回強く感じました。そして世界中にそのやみが急速にひろがりつつあります。

 先ず異例な天災が世界を襲っていること。局地的豪雨をともなう未曾有の大型台風とかハリケーン、加えて、多発する地震と火山活動によって世界は膨大な被害を被りつつあります。

 一方そのような天災とともに、世界を深いやみの真中に陥しこんだのはテロと言う人災であり、それによる破壊活動も益々激しさを増しています。それは特にアメリカにおける政治の頽廃と、超リベラルなメディヤの挑発による民衆や学生の暴動というテロ行為を引き起こしているだけではありません。北朝鮮による核兵器実験と言う深刻な挑発行為も、世界中の人心を脅かす大きなテロの一つと言えないでしょうか。

 

なぜ神はそれらが一挙に起こることを許しておられるのでしょうか。

 

 その理由を挙げるとすれば、神は敢てこの世をとことん暗くすることによって「クリスチャンが輝き出す」ことを、この世の人々に見せようとされているーということに気が付き、私は今回そのことを旅の後半で強調しました。これからの終末の時代には真にキリストにつながったクリスチャンが台頭して、その人たちがそれぞれ個人的に輝き出すのを見て、神を知らない人々が神の存在に目覚めないでしょうか。それだけではありません。その輝きを増す「力あるクリスチャン」が、その国の政治と経済、社会も変えるのです。その人たちが最終的に終末最後の大リバイバルへの引き金となるでしょう。

 日本の国を御国として立て直すのも、最後のリバイバルを起こすのも、主は日本のクリスチャンに期待しておられます。そのために今最も必要なことは「人間的・宗教的になり下がったクリスチャンとその教会」を抜本的に変革することであると私は痛切に感じたのです。

 私は今回、従来のように教会を訪ねること以上に、個人的に二人三人のクリスチャンの集まりとか、ホーム・チャーチで親密なお交わりをさせていただくことに重きを置きました。なぜなら真のクリスチャンとは、最終的に個人としての主と交わることによってのみ育まれるものであって、マスプロダクションではないからです。(但し、大きな教会では小グループによる弟子訓練が可能です。これには大変な指導力が必要です。)

 私たち夫婦は今回日本で20名近くの新しい「主を真に求める」人たちにお会いすることができ、相互に大変恵まれ励まされました。これからも、個人的にイエスの御声を聞き、聖霊と共に歩むことにご興味のある方はぜひご一報ください。喜んでお会いさせていただきます。

 

 ところで今回日本で、私は初めて「団体としての教会」を離れた、あるいは「離れたいと願っている人々」に対して「クリスチャンの難民」という形容語があるのを知りました。今世界中に難民が溢れているように、日本ではクリスチャンの難民が問題になって久しいことを以前から私は憂いておりました。それは幕末末期に、侍の多くが「浪人」として溢れていたことと似ているような気がします。

 この問題への対策として今回、私は「クリスチャン個人が光り輝く」ことの重要さを改めて認識しました。幾人かでもクリスチャンが輝き出すことによって、逆に輝かないクリスチャンが明るみに出されます。それが刺激となり、やがてクリスチャン全体の霊性の向上を期待したいと思うのです。

 

罪を犯す前のアダムとエバの身体は神の栄光で輝いていた

 

 最初のクリスチャンであった彼らは、裸であったにもかかわらず、身体全体が輝いていて着物を着る必要はありませんでした。しかし、罪を犯すとともに彼らを包む栄光の衣は消え、彼らは自分が裸である事に気付いたのです。そこで神が近づくと彼らは慌てて園の木の茂みに身を隠したことが創世記3:8−10に書かれています。

 

 又、シナイ山で神と40日間向き合った後のモーセの顔があまりにも輝いていたので、民は眩しくてモーセを見られなかったことを思い出して下さい。その後モーセは主に向かって叫んだのです。「私にあなたの栄光を見せて下さい!」(出エジプト 33:1) そしてモーセは神の後ろ姿を見て、さらに霊的に変えられました。これは新約の時代に生きるクリスチャンが最終的になるべき姿の型を示されたのであると信じます。

 又、ルカ9:28、マタイ17:1にこう書かれています。イエスがペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登った時に、祈っておられるイエスの御顔が突然変わり、御衣が白く輝き出しました。そこにモーセとエリヤも現れたのです。

 一体何がイエスの身体とかモーセの身体を変えたのでしょうか。

 

聖霊が私たちの細胞を変える

 

2コリント5:17に「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」と書かれています。

 私たちがイエスを信じて霊的に生まれ変わると、その人は主の十字架の御業により霊的に新しく造られた者となり、その結果として、聖霊が私たちの中に住むようになります。これが抜本的な「新しい創造」の始まりです。これによって先ずその人の心が霊的に変えられるだけでなく、すべての細胞にその人格的変化が記録されるので、例えば、超自然の霊的特質の一つである「神の平安」が身体中の細胞とか臓器にその影響を記録されることが最近の科学によって証明されています。人間の身体のすべての細胞には, その表面に identity receptor 又は Human leukocyte antigens (HLA) ヒト白血球型抗原が存在し、人間が神を信じて霊的感化を受けるとそれがその人の細胞に影響を与え、その人のアイデンテイテイー(人格証明)が変わるのです。

 クリスチャンになり霊的感化を受け始めると、それが細胞に生物学的に記録されるのであれば、その人の一生の「伝記」そのものが、その人の「クリスチャンとしての証し」となり、その人の「永遠の身分証明」となるといえないでしょうか。昔、グルーバー師が天国のお黄金の道で知らない人と出会った時に、話さなくてもお互いに相手の人の全貌が分かったと言われた意味がよく分かります。

 

 ここで重要なことは、「聖霊が私たちの中に住む」といっても、それが本当にあなたの中に住み始めた聖霊が生きて自由にあなたと共に活動していればの話であって、そうでなければ輝き出ないと思います。これがクリスチャンの最大の問題であると思います。本当にあなたが常に聖霊と共に歩いていれば、あなたは聖霊の衣をいつも纏っているので、あなたの身体は光り輝き、奇跡がどんどん起こり始めるでしょう。すなわち、私たちの身体は「新しい創造」によって聖霊の臨在が常に活発に活動するとき、私たちは罪のないオリジナルの人間にリバイブされ、身体が輝き出る元々のキャパシティーを持つているのです。

 

 ルカ11:36に「もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。」とあります。この御ことばは「聖さ」が完全になったときの姿を明瞭に示しています。即ち、神の栄光 GLORY とは「神のすべて」の現れであり、それがフルに顕われるとき、神のいのち、愛と力、神の神聖さと公正さ、慈悲、知恵によって、もの凄い輝きが出る。これは途方もなくすばらしい希望ではありませんか。私たちのからだ全体が神の臨在によって輝き、暗い部分が全くなくなるというのですから。

 そのためには、いつも申し上げますが、2コリント3:16−18の祈りが非常に重要であると私は信じます。「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」この祈りをすればする程、私たちは新しい創造により「主に似たもの」に変革されて行きます。

 

 ここで先日、8月7日のWWGMでご紹介したキャシー・ウオールターズ師の言葉を思い出してください。

「聖霊は、ご自分のために、あなたに働いてほしいとは望んでおられるのではなく、私たちが神の御霊に自分を明け渡し『どうか私を通してお働きください』とお委ねすることを望んでおられるのです。私たちはただ自分を聖霊に明け渡せば、すべて主が事をされるのです。それがピリピ2:13に書かれている「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」の意味です。・・・

 イエスが地上のミニストリーとしてエルサレムやベタニヤ、ガリラヤの町を走り回ったのは、人びとの必要を満たすためではなかったのです。実際のところイエスは次の3つのことをしただけです。

   1.御父が「せよ」と言われたことをした

   2.御父が「言え」と言われたことを言った

   3.御父が「行け」という所に行った 」(以上ウオールターズ師引用)

 

 これはまさにヨハネ5:19に書かれていることそのものではありませんか。「・・・子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」

 

 イエスは、聖霊を通して、父がいわれることを耳で聞き、目で見て行うことに徹せられたことが上記の御ことばからよく分かります。本当に主がされたことはそれだけであり、それがポイントではないでしょうか。私は最近リッチ・ベラという牧師のお話しをビデオで聞きましたが、彼は驚いたことに「主の御声が聞こえると同時に、それが目で見えるようになった。」というのです。私はそれを聞いて本当にうらやましく思いました。でも私たちが聖霊と忠実に歩むようになるとき、そうなれると信じます。

 

 最後に、もう一度申し上げます。ほとんどのクリスチャンが、ボーンアゲインした自分の内には「聖霊が内住している」ことを頭では理解していていても、現実にはその聖霊と共に生きていないという事実です。

 私も長い間、その聖霊の臨在の実感がなく、なるほど、聖霊は私たちを助けてくれる「ヘルパーさん」と考え、有り難いと思いつつも結局はほとんどの場合、自分で「聖書的に良いこと」を「自分で」選び、それを「自分の方法とタイミング」で行っていたに過ぎないことに気が付かされました。

 ヘブル4:10に「神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」とあります。私たちも自分のわざではなく、信仰によって神の平安に入ろうではありませんか。(終り)


07 07月

トランプ大統領の試練とアメリカの政治情勢     坂   達  也    2017年7月7日


トランプ大統領の試練とアメリカの政治情勢

 

                坂   達  也

 

国外で発揮されるトランプ大統領の実力とリーダーシップ

 

G20の会議がドイツで始まりました。それに先駆けて、トランプ大統領の最初に立ち寄ったポーランドでの演説は、格調の高い、世界のリーダーシップを握るにふさわしい実力者である事が如実に顕われておりました。ウオール・ストリート・ジャーナル誌は「アメリカ・ファーストよりも大きく、それを超えた、世界の方向性を決める(defining )スピーチであった」と評価し、多くの人がレーガン大統領の歴史的演説に匹敵すると賞賛しました。ポーランドは折から、洪水のようにボートで入って来る難民を一切受け入れないと宣言し、難民を受け入れ過ぎて困惑するドイツとは対照的です。このG20では、トランプ大統領がこの数十年世界に蔓延した無責任なグローバリズムに対決する強い姿勢を示すと共に、アメリカはヨーロッパNATO 各国だけでなく、北朝鮮問題を含む世界的視野で、その強い連携責任を果たすためのリーダーシップを取ることを明確に宣言しました。

それが、プーチン大統領との会談でも表れていたようです。両大統領の会談は2時間を超え、最初はトランプがプーチンのアメリカ大統領選挙への介入とシリヤ問題を厳しく問いつめた後、二人は積極的に問題解決への道をポジティブに話し合い、二人の相性はとてもよかったとチラソン国務長官が報告しています。

一方アメリカのリベラルなメディアは、すかさずトランプ大統領を「レイシスト・民族差別主義者(白人優先イスラム軽視)」と非難しました。

 

トランプ大統領が直面するアメリカ国内の問題

 

アメリカの政治環境と国民のモラルは、左右二派に分かれた対立がいよいよ激しくなり、トランプ大統領が目指す内外の政策は全面的に立ち往生する事態となっております。その大きな原因は二つあります。一つは昨年の選挙に負けたデモクラット民主党が、二大政党が協力して成り立つ民主主義政治への責任を全く果たしていないことです。そして二番目の問題は、リベラルなメディアが常識を逸脱して、報道すべき報道を拒否し、人心を惑わし煽るフェイクニュースだけを流すことによって、アメリカ国民だけではなく、世界を惑わし、攪乱するという前代未聞の事態になっていることです。私はこれは悪質極まりない「テロ行為」と呼んではばかりません。

 

今回、私は日本の皆様に緊急のとりなしのお祈りを要請させていただきたいという一念で、緊急事態のアメリカの現状をお伝えさせていただきます。

 

民主党(デモクラット)と「陰の政府」の暗躍

 

「陰の政府」とは最近アメリカで DEEP STATEと呼ばれていますが、オバマ前大統領があやつり暗躍する陰の政府を指しているようです。オバマ氏が雇い、その後引き続き現職で残っている相当な人数の政府要員を陰であやつりながら、オバマ氏はあらゆる手段を尽くしてトランプ大統領を妨害(というより、彼の後を受け継いだトランプ大統領が成功しないように)しようとしています。それが最近露骨になって来たのです。特に民主党議員への働きかけが目立ちます。その一つの理由は、政権が変わった後の民主党にはリーダーが全くいないということが曝き出され、民主党からの政策的提案は皆無に等しく、彼らのして来た事と言えば、共和党のすべての政策に闇雲に反対することであり、トランプ大統領を弾劾することだけに全精力を集中して来ました。

 

しかしながら、このような民主党に対する国民の審判の目は厳しく、トランプ政権になった後に行われた5回の国会議員の補欠選挙で、その5議席とも共和党議員が選ばれたという結果が出ています。

 

トランプ大統領のツイート問題

 

この動きに協調しているのが大手のリベラルなメディアです。彼らはますます過激的に反トランプ色を強くしていますが、大統領弾劾のための理由として、最近ではトランプ大統領自身が毎日のようにするツイートを指して(特にリベラルなメデイアをこき下ろすツイートに対し)医学的根拠が全くないにもかかわらず、「大統領は精神異常者で、大統領としての資格は無い」として、25人の民主党議員が議会にトランプ大統領弾劾提案をしようとしております。確かにトランプ大統領のツイートは前例のない程多く、内容は激しく率直すぎる、一国の大統領らしくないと言う非難は当っているかもしれません。しかし、これだけ大手メディアが寄ってたかって大統領をこき下ろすことだけしか報道しないのであれば、大統領としてはツイートによって国民に直接訴えるしかないというのは無理からぬ事情といえます。特に最近暴露されたCNNニュース局の内部で「上司が報道者へ、大統領を誹謗するためのフェイクニュースだけを毎日手を変え品を変えて流せ」という指示をしている現場を隠しカメラで撮った映像が公表されたのです。それは呆れてものが言えない程ひどいものでした。それを知った大統領が痛烈に批判したツイートを立て続けに発表したことに対して、今度はそれを逆手に取って大統領に「精神異常者」というレッテルを張り、それを弾劾理由とするという卑劣極まりない話なのです。

 

私は日本の政治情勢が必ずしも最上とはいえないことを知っておりますが、もし皆さんが今のアメリカの実情を知られたら、これが文明最新国のアメリカでまかり通っているとは「信じられない」とおっしゃると思います。今のアメリカのリベラルなメディアではジャーナリズムのモラルなどひとかけらもありません。何故そうなるかと言えば、大手メディアは視聴率が上がる事だけを目標にし(広告収入に影響しますので)、反トランプのニュースだけを聞きたい見たいリベラルな民衆が50%近くいるので、その人たち相手の視聴率を上げるフェイクニュースだけを流せと上司が指示するからです。

そこでご参考迄に、それ以前の6月に起こった主な事件をご報告します。

 

世界中に暴虐と殺人が氾濫する

 

その一つは、民主党と共和党両院議員による恒例の慈善野球試合の前日に、一人の白人が折から練習中の球場に来て、そこにいるのが共和党議員であることを確めた上で、ハイ・パワー銃で50発近くを乱射し、一人の共和党議員が重傷を負い、数人が負傷、そして犯人は、5分後に駆けつけた警官により射殺されるという惨事が起きました。今世界中において、ISIS以外に、これに似た殺人事件が続発しております。日本も例外ではありません。これは悪魔の断末魔的仕業としか言いようがありません。クリスチャンが聖霊の臨在による栄光の環境をつくり出す事ができるとすれば、その逆に、悪魔は暴虐と殺人の殺伐とした環境つくりができることを今如実に実証していないでしょうか。

 

元 FBI 長官コーメー氏の議会喚問証言

 

次に大きな話題となったのは、トランプ大統領が免職処分した元FBI長官コーメー氏の議会喚問証言です。この議会証言が行われたのは6月8日でしたが、その前から大手メディアの報道は今迄に増して反トランプ攻撃が過激化し、まるで気違い沙汰の様相を呈していました。もはや、フェイク・ニュースかどうかの問題を通り越し、自分が好むニュースだけを報道する、そこには報道者の中立性などは微塵もないのです。多くの場合アナウンサーの顔と声がひきつり、トランプ大統領に対する憎しみを隠そうともしません。ある信用できるレポートによれば、現在のアメリカのメデイアは80%が反トランプ報道であると言われます。

 

そこで今回のコーメー氏喚問でさらけ出された最も重大な証言は、彼が「機密にすべき情報」を他人に漏らし「リーク」したことを自ら認めたことでした。しかもそのリークの目的が、元FBI長官で(コーメー氏曰く)「最高に尊敬できる親友である」ロバート・ミューラー氏が折から取り沙汰されていた大統領のロシアゲート疑惑を調査する特別勧告審査官に任命されるように裏から手回しをした」という意味の供述をしたのです。そして事実ミューラー氏はその通りに任命されました。これこそ裏の政府( DEEP STATE ) の仕業であると信じます。

 

私は今これだけ「リーク」が問題になっている最中に、事もあろうにそれを取り締まる立場にいる FBIの長官自身がリークしたこと、しかも彼はあまりそれを「重大な過失罪」として認識していないことに気が付いて愕然としました。そうであるならリークは今回だけであるはずはなく、今後はそれが追跡されて当然と思います。

尚、「ロシアゲート」とは、昨年の大統領選挙でロシヤがトランプ側と結託して妨害介入したという疑惑問題ですが、最近の民主党はこれを大事件として執拗に煽り立て世界をかく乱しております。その目標はひとえにトランプ大統領を弾劾impeachすることにあり、そのためなら僅かなことでもすべて弾劾の理由にこじつけようとしています。しかし実際には、トランプ大統領が明言しているように、今のところトランプ政権のロシア介入の証拠は一つも出て来ていない、そしてコーメー氏自身も大統領介入への疑惑調査は全く行われていなかったと今回証言しているのです。

 

ここで、参考迄にリック・ジョイナー師の意見をご紹介します。師は「今回のコーメー証言はソープ・オペラを見ているようなもので、結論をいえば、コーメーは自らの墓穴を掘り、トランプが勝利したことは明白です。コーメーはいよいよトラブルに落ち込みました。彼は一度は『絶対にリークしたことはない』と宣誓しておきながら、今回、友人に『リークした』と打ち明けたのですから、これはまさしく偽証罪に問われます。

又、民主党はといえば、今回のコーメー証言から徹底的に『あら』をしぼり出し、それを材料にしゃにむに『トランプ弾劾』にもって行こうとしています。悲しいことに彼らには今それしかできないのです。しかしそのことに、やっと心ある民主党員も民衆も気が付き始めました。一方共和党はどうかといえば、民主党と同じ程、問題だらけです。正直なところ、ここに至ってはアメリカの二大政党政治そのものが、それを修繕すこともできない程完全に崩壊してしまったと思います。

トランプ大統領は、今国内だけでなく世界中から憎まれ攻撃の的になっていますが、彼は窮地に立たされれば立たされる程、神が彼を救出し、彼の実力と名声は逆に上がる一方です。そうとしか考えられません。そして今回もそうなるでしょう。それは彼が神の特別の好意を受けていて、神からのデスティニーと目的を持っているからです。アメリカの歴史を見て下さい。彼以上にメディアと民衆から嫌われてた大統領がいるとすれば、それは暗殺される前迄のリンカーン大統領です。リンカーンを嫌った人たちは、彼が殺されてやっと彼がどれ程偉大なことを成し遂げたかに気が付いたのです。トランプ大統領は同じように、これからも嫌われ、やることなすことに妨害され続け、大統領として本当に自分がしたい仕事ができるようになるまでには一年かかるでしょう。

 

ところで私は今回の証言台でのコーメーの言動からは好ましい印象は全く感じられませんでした。なぜでしょうか。それは彼が証言した事柄の他に、人に言えないようなもっと深い大きな事実を隠しているからだと思います。オバマ大統領の任命した人たちで未だに政府職に残っている人が大勢います。コーメーはその人たちが隠していること、絶対に明るみに出せない陰謀、あるいは知られたくないわいろ=多大な闇の資金を使った悪事が予想以上に大きいことを知っているからであると思います。そうでなければ、ここ迄執拗にトランプ大統領を弾劾し失脚させようと焦る理由は他に考えられません。これらのことはすべて明るみに出されねばなりません。間もなくそれが始まり、前政権下の悪事がどんどん暴かれると思います。それがトランプ大統領の召命であると私は信じます。

 

いずれにせよ、これだけ徹底して議会審議が妨害遅延され、又、メディアに反対攻撃されながらも、トランプ大統領がこの4−5ヶ月の間に、政治・経済・軍事・外交面で成し遂げたことはめざましいものがあります。ほとんどのメディアはそれを報道しませんから、残念ながら世界の人々は知らされていないのです。

(以上がジョイナー師のコメントです。)

 

北朝鮮の核兵器保有の危険性

 

ジョイナー師は続いて、この数ヶ月くり返し北朝鮮の核兵器の脅威について述べていますが、最近、下記の記事をフェイスブックに載せて、それを更に強調しています。

「The Sun、 a new UK news Corp.)・・・その筋の上級専門家(Mr. Lewis )

 

によれば、北朝鮮は既にアメリカに到達するための大陸横断用核弾道ミサイルを打ち上げる技術において、僅か後一歩のところ迄来ていると言う。

北朝鮮は既に近い将来使用するICBMの頭に取り付けるコンパクトな核弾頭は開発済であると信じられ、その最後のハードルは、弾道ミサイルが打ち上げられた後で、大気圏に再突入する際に起こる強烈な空気摩擦によるショック、激しい振動、並びに急激な超加熱に耐えるだけのものを造り上げる技術の開発を残すだけとなった。その開発において、既に昨年地下グラウンド・テストに成功しており、最近の数ヶ月で最後の仕上げを急いでいると言われる。その報道とは別に、最近テストされた四つの新兵器の内の一つは、超精度を誇る短距離誘導ミサイルで、それはグアム島の米軍施設に迄届く(訳者注:勿論日本にも)と言われる。又、対軍艦用のクルーズ・ミサイルも既にテスト済という。」

 

北朝鮮のサテライトは EMP 攻撃に理想的な手段となり得る

 

続いてジョイナー師は下記の記事を引用して、次の事態が現実に起こり得ると声を大にして警告します。

「『北朝鮮は現在、地球の周りを周回する複数の人工衛星を持っていると言われ、そのサテライトを利用して、EMP ( Electric Magnetic Pulse ) 爆弾をアメリカ上空で落とす可能性が強くなって来た・・・』と書いた Oli Smith の記事(5月27日)を紹介します。

 

この EMP爆弾による被害とは、低レベルのEMP爆弾によっては、すべてのエレトロニックス・システム(コンピューター等)が少なくとも一時的にとまります。又大きな爆弾ならば、すべての電気とエレクトロニックス関係の器具、パルス(音響、波動、電波)のいかなる機器電源も損なわれ、飛行機、船舶、自動車、すべての乗り物は止まり、上水下水システムも停止=事実上食料生産も含む通常の文化生活ができなくなります。但し、この爆弾による被害は上記の電気、エレクトロニックス機器に被害が及ぶだけで、その他の人体、動植物、物体には影響がないのです。しかし通常の生活が完全に麻痺しますから、最悪の場合一年以内にほとんどの人間は死に絶える可能性がある、と言われます。

 

そこで、このような被爆を受けた後に生き延びるためには19世紀以前の生活様式(即ち電気器具やコンピューターの無い生活)に戻らねばならない。これが映画・小説の世界ではなく現実にいつでも起こり得る世の中になったのです。北朝鮮は他国をこの爆弾で攻撃できる用意ができているといい、彼らがアメリカ本土を全滅する核戦力を持つのは時間の問題と脅迫するのはあながち嘘ではないのです。

そこで考えねばならないことは、第二次大戦前に、イギリスがドイツのナチが台頭し始めた最初の頃に攻撃しておけば、被害は最小限に留めることができたはず、それをしなかったがために第二次大戦という大変な被害を世界が受けることになったという事実があることです。この教訓は今こそ当てはまります。北朝鮮に対して今の段階で敏速に手を打たないと、ナチと同じように手遅れとなり多大な犠牲を払うことになりかねないのです。」以上がリック師の警告です。

 

とりなしの祈りのお願い

 

そこで、最後に私自身が申し上げる事があるとすれば、私たちがクリスチャンであり、クリスチャンこそは「祈り」という最高の武器を持っているという事実です。神は私たちが信仰で主に祈る事を待っておられます。そして御存知のように私たちの正しい信仰の祈りは絶対に聞かれるのです。

 

悪魔がどのようにあがいても、又、闇が深くなればなる程、私たちが信仰で祈れることによって、必ず勝利するという「証し」ができることを私たちは忘れてはならないと思います。悪魔は「うそ」をならべて「惑わし」「威嚇」「恐れさす」ことしかできません。一方、「信仰」と「真実」と「祈り」を持つクリスチャンは、何一つ恐れる必要がありません。なぜなら勝敗は既に十字架に着かれたキリスト・イエスによって圧倒的勝利が決まっているからです。

 

今、世の中が前代未聞の荒廃と真っ暗な闇の中に突入しつつあるように見えるとすれば、私は興奮します。なぜなら、いよいよ、それは私たちの前途に「前代未聞」の圧倒的「勝利のリバイバル」が近づいて来ている前兆であると信じて止まないからです。現代を生きるクリスチャンは、その「主による大勝利」の証人となるべく、最後の時代の働き手として訓練され生かされて来ているのではありませんか。どうぞ日本の皆様の力強い圧倒的な「とりなしの祈り」を期待しています。(終り)


29 06月

主のご臨在と共に生きるには    坂   達 也       2017年6月29日


主のご臨在と共に生きる

 

                                                坂     達  也

 

   私たちはこの二年間、田の字型の四連棟住宅の一角に住んでおりますが、その左隣にはアンデイーとジュデイーという共に81歳になる一組の老夫婦が住んでいます。私たちが引っ越して来て最初にお会いした時、彼らは、隣にクリスチャンが引っ越して来ることをずっと祈っていたと言い、私たちが隣人になったことを大変喜んでくれました。それ以来親しくして来た人たちです。夫のアンデイーさんは元バプテスト系の牧師でしたが、10年程前から心臓疾患による歩行困難が進み、この一年半程は近くの療養所に入っておりました。そしてジュデイー夫人がほとんど毎日そこに出掛けて、夫に付き添うという生活を送っておりました。

先週の木曜日の朝、ジュデイー夫人から電話があり、アンデイーがこの二日間食事も取らなくなったことを報告してくれました。そこで私たちは何が起こっているのかを察し、その日の午後一番に彼が入っている病院付属の療養所に駆けつけました。私たちが病室を訪ねると、彼はいつもと違って顔の血色もよく、のどかな高いびきで寝ていて、私は吃驚し嬉しくなりました。どう見ても死期を迎えた人には見えません。そこで私が祈り始めるといびきが止み、彼は細目を開けて私を見ましたが、又すやすやとやさしいいびきに戻って行きました。

 

そして二日後の日曜日の朝(6月25日)でしたが、私が主の御前に出た時、直ちに、いつに無い豊かな主のご臨在につつまれました。そこで私は、そのすばらしい愛と平安にひたることができたことを主に心から感謝しました。

 

祈りの後しばらくして、礼拝に出掛ける準備をしていますと、玄関のベルが鳴り、ドアーを開けると、そこにジュデイー夫人が立っていて、ご主人が前日の午後に昇天したことを伝えてくれたのです。

 

そこで私は、その朝の祈りで、いきなり濃い主のご臨在を感じた理由を理解することができました。主が私に「アンデイーは無事、わたしの元にもどって来て今ここに、わたしの側にいるよ。今は全くすべての痛みとか拘束から解放され、すっかり喜んでいる。その喜びを分かち合いなさい。」とおっしゃっておられるような気がしたのです。そして教会の礼拝に出た後も、その日終日私は、絶えず主の臨在を感じて喜びに満ちて過ごしました。

 

その日の礼拝メッセージの中でベンジャミン牧師が、ロマ書12:1

*「・・私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。・・」*

を引用した時、私はすかさず、神が喜ばれる真の*「霊的な礼拝」*とは、

 

「いつも主の栄光を見上げて、主の御顔を拝し」

「聖霊のご臨在と共に毎日を生きる」

 

ことであることにハッと気が付いたのです。それは、私たちが生きる毎日の生活のすべてが「霊的な礼拝」でなければならない、そのためには、私たちが自分をいつも

 

「神に受け入れられる、聖い生きた供え物としてささげる」*

 

ことが前提となることです。それ以外のメッセージはあり得ないという確信を持ちました。

 

実は私はその前の週に、今の私たちは、ニューヨーク移転の日取りが決まらない事や、私が書こうとしている本の原稿も思うように進展しないことを含め、どこを向いても八方ふさがりであるように思えたとき、私は分かっていながらも、一瞬強い焦りを覚え、上を向いて大きなため息をついたのです。

 

私自身「主を見つめて待つ」というモットーをいつも自分に言い聞かせておりますが、自分のしたいことが「待たされる」時ほど「自分に死ぬ」ことの必要性を感じることが他にあるでしょうか。皆様の中にもそのような経験をされた方があるいは大勢おられると思います。私は「すべてを主に委ねて生きること」の難しさを過去に数えきれない程感じて来ました。しかし主は、その度に、私たちのミニストリーに Walk With God Ministries =「主と共に歩く」という名前を付けて下さったことを思い起こさせて下さり、それが励みとなりました。この世で生きる私たちの人生とは、まさに「信仰の霊的訓練」に尽きることを今回も改めて教えられると共に、その人生を主が聖霊を通して共に生きてくださる愛と恵みに心から感謝した次第です。

 

モーセから学ぶ主の「ご臨在」の大切さ

 

聖霊のご臨在がどれ程すばらしく、また重要なものであるかは、先ず旧約聖書から学ぶことができます。出エジプト記33:7に、モーセが率いるイスラエルの民が荒野を旅行中に宿営するときに、モーセは「会見の幕屋」(新共同訳によれば「臨在の天幕」)という天幕を必ず宿営から離れた所に張り、誰でも主にお伺いを立てたい者ははそこに行けるようにしました。特にモーセがそこに行く時は、民は全員起立し、自分の天幕の入り口に立って、モーセがその幕屋に入る迄見送りました。彼がその天幕に入ると雲の柱が降りて来て、その入り口に立ち、その中で、主はモーセと語ります。すべての民は、外に立つ雲の柱を仰ぎ見て伏し拝んだと書いてあります。

そして、主は、人が自分の友と語るように顔と顔とを合わせてモーセに語られました。その後、モーセは主に懇願して「主ご自身が、これからの道を、モーセと民と共に行って下さる」という約束を取り付けました。しかし、もし主のご臨在が民と共に行くのでなければ、私たちをここから上らせないでくださいと、モーセは主に念を押したのでした。そしてその後モーセは主に主の栄光を見せて欲しいと改めてお願いしたのです。

 

後にモーセの幕屋が造られたときには、聖所の前の庭には「全焼のいけにえ」を絶やすことなく主にささげる祭壇が設けられました。それが出エジプト記29:42、43に書かれています。下記をご覧下さい。

 

 「これは、主の前、会見の天幕の入り口で、あなたがたが代々にわたって、絶やすことの無い全焼のいけにえである。その所でわたしはあなたがたに会い、その所であなたと語る。その所でわたしはイスラエル人に会い。そこはわたしの栄光によって聖とされる。」

 

私たち霊のイスラエルこそが、「代々にわたって絶やすことの無い全焼のいけにえ」であると私は解釈できると思います。

 

 

 

私たちのからだが聖い生きた供え物となるには

 

他人の臓器移植を受けると元の人の性質とか嗜好が移植した人に持ち込まれることが多いそうです。英国である中年の女性が、オートバイ事故で死んだ18歳の男性から心臓と肺の臓器移植を受けた所、その女性は突然今迄無かった嗜好としてビールが飲みたくなり、チキンの唐揚げが食べたくなっただけでなく、モーターバイクに乗りたい強い気持ちになったそうです。これら三つの嗜好は彼女自身が持っていた嗜好ではなく、その臓器の持ち主から移植されて受け継いだものであったというのです。つまり、人間の身体はその人の生きた歴史を生物学的に記録するというのです。

 

又、感情がその人の生理機能に大きく影響を与えることは誰しも経験します。恥ずかしいことをしたとか、急に怒り出した人の顔が赤くなることや、恐ろしさに手が震えたり、あるいはストレスが身体に大きな影響を与えることはよく知られています。それだけではありません。ボーン・アゲインして霊的なトランスフォーメーションを経験をした人は、実際に「神がその人に移り住む」変化が起きるそうです。すなわち、「聖霊がその人の人体の細胞に影響を与え」名実共に2コリント5:17に書かれている「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」が生理学的に起こると、生理人体専門学位を持つ神学博士のジェン・クラーク師は指摘します。

その一例として、クリスチャンになれば、キリストから霊的な平安が与えられ(ヨハネ14:27)日常生活でその平安と愛を多く経験しますが、一方で、多くの人は、クリスチャンになった後でも、昔経験したネガティブな感情から来る古傷がトラウマとなって残っています。これらは、その人が過去に経験した感情が細胞の上に記憶として残した人生記録の一部ですが、私たちは、聖霊の臨在によってその傷を完全に癒すことができると、クラーク師は言われます。

 

話しは変わりますが、私が未だ牧会していた頃に「クリスチャンはよい香りと味の沁み込んだ『聖霊漬け』にならねばならない」とよく言っていたことを覚えています。これも量子学的事実として理解できるのではないでしょうか。それを言えば、もう一つあります。

 

それは10年程前にジェシカ・ジョーンズ師という預言者が書いていたことですが、師は「人間が合唱するとき、よい声か悪い声かは別にして、私たちは皆音声を持って歌います。しかし、神が聞かれる音というのは、その声と共に、私たちのすべての細胞が造り出す声が合わさったもので、この合わさった声が音の振動を作り、それが天にまで届くのです。私たちすべての人は音から創られました。私たちが話したり歌ったりする言葉には力があります。そして私たちの身体の一つ一つの細胞が語ったり歌ったりする言葉にも力があるのです。事実、すべてのものは物体ではありますがそれは音(振動)であるのです。そして、すべての音はそれぞれ独特の色彩を持っていて、その色が一致するとき白い色になります。白は私たちすべての心、魂、身体が三位一体の神と一致し調和している色なのです。白は義の衣の色でもあります。それはこの世が見るような皮膚の色とは何の関係もありません。音があなたから発せられ、他の人の音と一緒になって天にまで上っていくのを想像してください。そしてこの力が何百万、何千万という人々の力と一緒になり、天にまで広がってゆき、愛、崇拝、感謝、創造の力となっていくのを思い描いてください。その効果はどんなに素晴らしいことでしょうか。天では絶えることのない祈りと天使の働きにより平和があり、すべての民が絶えず喜んでいるので、言葉で表すことが出来ないほどの喜びが満ちているのです。」といわれます。このようにして私たちのからだが神への「聖い生きた供え物になる」ためには、私たちは常に聖霊のご臨在の中で生き、聖霊によって浄められねばなりません。そのことが2コリント3:16−18に書かれています。

 

「人が主に向く(上を見上げる)なら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊(聖霊)です。そして主の御霊があるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

 

最後に、私たちが「主を見上げて待つ」祈りをする時に経験する最も大事なことといえば、私たちクリスチャンに内在する聖霊の「ご臨在」に出会うことを期待し、それを待ち望むことであると言うことです。すなわち、それは私たちが顔と顔を合わせて主と対面することが霊的に起こることを意味すると私は信じます。それをモーセはシナイ山上での40日間の祈りで経験し、その後下山したとき、彼の顔があまりにも輝いていたので、民がまぶしくて、覆いを掛ける必要があった程でした。私たちもできるだけ多くの時間を割いて主を見上げ、そして聖霊のご臨在に遭遇することが、私たちのからだ全体を主と同じ栄光に輝く主に似た者に変えるのです。それによって、私たちのからだが主への「聖い生きた供え物」となるのではないでしょうか。

 

さて、そこでその「ご臨在の中に入る」のに、どのくらいの時間が掛かるのかと言いますと、グラハム・クック師は普通10−15秒でそうなれるといいます。私の場合はとてもそんなに早くはできません。私がこのコンテンプレイティブ・プレイヤーを始めた頃は祈り始めて一時間も二時間も掛りましたが、今では普通30分以内です。早くそうなれるかなれないかは、どれ程自分が平静で主の平安の中にいるかどうかによります。何かのプレッシャーとか悩み事がある場合はより多くの時間が掛かることを経験しています。それに、普通クリスチャンになれば、聖霊が内在しますが、それだけでは聖霊のご臨在の前に出たことにはなりません。

本物の聖霊の臨在体験とは、例えば、ビル・ジョンソン師が常に願い、命がけで求めて来られた主の栄光に満ち溢れた臨在の体験であると思います。ーそれは、降りて来る「栄光の雲」を待ち望み、その「霊的環境を造ること」にあります。ジョンソン師と彼の教会が主を礼拝する最大の目的がそこにあり、そのような臨在の中でクリスチャンがみな真の礼拝をするとき、癒しはひとりでに起こるといわれます。

しかし、すべての聖霊体験は、クリスチャンがみな、それぞれ個人的に主に飢え乾き、主との顔と顔を合わす交わりに入ることから始まることを忘れないでいただきたいと思います。(終り)


08 05月

世の終わりの宣教とは何か ー  それは マルコによる大宣教命令       坂 達 也


世の終わりの宣教とは何か ー

         それは マルコによる大宣教命令              

 

                  坂 達 也

 

 私たちは今、世の終わりが近づいた「御国の時代」に生かされております。

 

 マルコによる福音書の最後のところで、よみがえった主イエスが十一人の弟子たちに現れ「『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。『信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。・・・』」(マルコ16:15−16)と言われました。これがマタイ福音書の末尾にある主の「大宣教命令」と同じであることは疑いの余地がありません。

 しかしマルコでは、この命令に続いて「『信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。』主イエスは彼らにこう話された後、天に上げられて、神の右の座に着かれた。そこで彼らは出て行って、至る所で福音を述べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」(マルコ16:17−20)と書かれています。

 

 ここで気が付くことは、通常私たちが未信者に紹介する救世主キリストによる「救いの福音」とは、上記の15−16節だけで、多くの場合、それでお終い、後に続く17−18節「『信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。』 の部分を省いてしまうことです。もしそうであれば、15−16節だけが、あたかもキリスト教の最終目的であるかのような印象を与えないでしょうか。しかし一世紀の使徒たちは、イエスにいわれた通り、イエスがなさる業を忠実に見習って超自然の力を用いたパワーフルな福音を実行に移しました。

 マタイ10:7で、イエスが十二弟子を弟子訓練の一環として宣教旅行に出されたときに「『天の御国が近づいた。』と述べ伝えなさい。病人を直し、死人を生き返らせ、らい病をきよめ、悪霊を追い出しなさい。・・」と言われました。これは前述のマルコの大宣教命令と同じ内容です。

 そして今は、それと同じ福音をたずさえて私たちが出て行く時です。そこで改めて「天の御国の時代とその福音」とは何かを、その原点にもどって考察してみたいと思います。

 宣教旅行に出る人を例えてみれば、それは行商人のようなものです。私たちの売り歩く「商品」は「イエス・キリスト」とその「天国」です。普通、ある商品を売る時に一番効果的な方法は、その商品の効能をくどくどと説明するよりも、その良さを実演して見せることではないでしょうか。そうであるなら私たちクリスチャンも、人の見ている前で「病人を直し、死人を生き返らせ、らい病をきよめ、悪霊を追い出す」ことを実演して見せれば、黒山のように人が集まって来ないでしょうか。それがイエスご自身のやり方でした。主は私たちに今それをしなさいと言われています。そのようにして集まった人々に、イエスとその御国の話を説けば、説得力が抜群に出ることに間違いありません。

 もう一つの効果的な方法は預言の賜物を用いることです。そのよい例は「知識のことば word of knowlege」の活用です。ご存知の方も多いと思いますが、ショーン・ボルツ師という方が、全く面識のない人に向かって、その人の家族の状況とか、普通誰も知るはずがない情報を言い当てます。当てられた人は大変驚きます。それと同じように、もしあなたが知らない人に向かって「今あなたはこういう大きな問題にぶつかって困っていますね」とか「あなたは自殺しようとしている」あるいは、その人の誰にもいえない罪を犯している内容を言い当てれば、その人はショックを受けてがぜん聞く耳が出て来るはずです。その時にすかさず「それを救う救い主」として「イエス・キリスト」を売り込めば「買ってくれる確立」は非常に高くなると思いませんか。

 それに反してイエスの弟子であるはずの私たちが「天の御国の福音」を実践して見せずに、聖書の神学的理屈だけを「救いの福音」として長々と説こうとすれば、セールスの実につながりません。私もいやと言う程そういう失敗をして来ましたことを認めます。

 「救いの福音」と「御国の福音」とは同じであるようですが、実は明確に区別して認識すべきであると思うのです。すなわち、キリストが説かれるメッセージの最終目的は、キリストによる「天の御国の福音」であって、「救いの福音」はあくまでその一部、あるいは入口に過ぎないということです。

 

 バプテズマのヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結べ。」と叫びましたが(マタイ三:8)その実とは、単にキリストを信じて死後に天国に行けることだけを指しているのではありません。それだけしかいえないならば、他の多くの宗教も「死後の極楽浄土行き」等の空約束とあまり変わりありませんから説得力に欠けます。なぜなら、それが事実かどうかは死んでみなければ分からないからです。

 ですから今の時代に生きる私たちは、キリストの名において、この世で天国と同じ状態を実現してみせるべく「病人を癒し、死人を生き返らせ、悪霊を追い出す」ことによって、私たち自身の過去の間違いを悔い改め、その悔い改めにふさわしい実を結ぶ宣教をすることを提案させていただきたいと思うのです。その意味で、もし私たち現代のキリスト教会が「天国をこの世で実証できない」のであれば、キリストとかバプテズマのヨハネが罵倒した当時のユダヤの「宗教家」とあまり変わりはないと私は危惧するのです。

 

 もう一つ私たちが悔い改めねばならないことがあります。それはバプテズマのヨハネが「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方(イエスキリスト)は、わたしよりも優れておられる。その方が、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(マタイ3:11新共同訳)と言ったように、「聖霊と火」の洗礼があるにもかかわらず、それを受けようとしないクリスチャンが未だ大勢存在していることです。多くのクリスチャンが「それはキリスト教の教義解釈の問題であり、私たちの教派はそれを信じないので行いません」と言うだけでは済まされないと思います。私は聖霊のバプテスマを受けることがどれ程御国のミニストリーに「必要欠くべからざること」であるかがこれからの時代で証明されると信じます。

 

 ビル・ジョンソン師は次にように言っています。「救いの福音は、人々を救いに導いて天国に行かせることに焦点を置きますが、御国の福音は、人々の生き様、住む街々、国々を抜本的にトランスフォーム(変革)することに焦点を置きます。そのために御国に神(イエス)ご自身が(王として)君臨します。それは天の御国の現実をこの地にもたらすためです。私たちクリスチャンは天国に行くのが最終的なデスティニーですが、その前に、この地に神の御国をもたらすために王から与えられた仕事(asignment)をしなければなりません。従って王から命令された仕事をすることと、天に行くデスティニーを混同しないようにしてください。」(2017年3月号カリズマ誌に載ったビルジョンソン師のメッセージより)

 勿論、こう言われるのはジョンソン師だけではありません。今では多くの終末の使徒と預言者たちがそれを強調するようになりました。

 

神の御国をこの世で立ち上げるのは私たち

 

 「神の御国とは何か」を突き詰めれば、それはイエス・キリストが王である神の王国です。この王は、宇宙とそこに存在するすべての被造物を造った創造者として、そのすべてを永遠に統治する全知全能の絶対君主である方です。そして重要なことは、その王は現在、天の御座におられる父の右に座しておられ、未だこの地には帰って来ておられない不在の王であることです。しかし主は地上に神の王国を立て上げる仕事をクリスチャンの私たちに委ねられているのですから、私たちの責任は非常に大きいのです。王は設計者として上から建設現場にいる私たちに毎日細かい指示を出しておられます。しかし、もし私たちが王の指示をよく聞けないとすれば、主のしもべとして本当によい仕事ができるでしょうか。主は私たちが常に主の忠実なしもべであることを期待し、「わずかなものに忠実であったからあなたにたくさんのものを任せよう。」とおっしゃる王です。

 

 私たちは、一地域教会に属する信徒としてその運営さえできていればよいのではありません。王国であれば、王国の経営に必要な政治・経済・教育からあらゆる分野での組織作りをし、適切なリーダーを立て、その下でたずさわる有用で忠実な働き人を育てて配置しなければなりません。従って、私たちが主からの命令と指示を注意深く聞く能力を持つことは絶対に不可欠です。まして私たちは「キリストの花嫁」ですから、主人のキリストと親密なコミュニケーションができていて当然です。

 

霊の目で主を見つめることの大切さ

 

 そのために必要なことは、先ず、私たちが霊的な「見る眼」と「聞く耳」を持ち、超能力の源である霊の領域に目を向けることではないでしょうか。そのために次の聖句をご覧下さい。

 「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」(マタイ6:22ー23)

 この御ことばは、私たちが霊的なものに目を向けることがどれほど重要であるかを強調しています。又、2コリント3:18もそうです。

 

 「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」

 特にこの聖句は「主を見上げる」ことによって、主の「霊的な栄光の光」が見上げる人の目を通して身体に入って来ることを学ぶことができます。そして、その人の内部が栄光から栄光へと主と同じ姿に霊的に変えられるという大変重要な目の働きを教えてくれます。

 重要なことは、私たちは肉の目を通して、霊の世界も見ることができることです。それは主がエリシャの要請に応えて、エリシャの召使いの目を通して霊の世界に起こっていることを彼に見せました。(二列王記6:17)これによって人間は、肉の世界と霊の世界の両方を見ることができることが分かります。

 又、私たちは幻とか夢をよく見ますが、これも目で見る、あるいは「心の目」で見るのであると思います。そしてもう一つ重要な聖句があります。それはヨハネ5:19、20です。

 「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。・・・」

 この御ことばが意味するところは、主を見つめていると「主がなさっておられること(御心)が見えるようになる」ということであると私は信じます。

 そうであれば、私たちは願望と信仰を持った「熱い目」で、極力多くの時間を「主を見上げる」ことに費やすことが、私たちの霊性を高めるためにどれ程大切であるかがご理解いただけるのではないでしょうか。

 

どうしたら霊の世界が見えるようになるのか

 

 結論から先に申し上げれば、それは訓練と経験を積むしかないということです。弟子訓練ということばがありますが、その英語は discipleship であり、その動詞のdiscipline は「訓練・しつけ」を意味します。そうであれば弟子訓練とは、学校に行って「頭の知識」だけを詰め込むことではなく、むしろスポーツ選手のように毎日血の出るような激しい「訓練と実地経験」を積み重ねることが必要です。さうでなければ本当に「自分のもの」にはなりません。多くの人は途中で諦めてしまいます。

 オリンピック選手になるには毎日人の二倍三倍のたゆまぬ訓練をする必要があります。有名なピアニストであり続けるには一日五時間の練習を欠かすことはできないそうです。バレリーナもそうです。それと同じように、普通のクリスチャンであっても信仰の訓練を重ねれば、誰でも超能力に到達できるのです。

 

 霊的訓練の最たるものは、40日間水も飲まない断食を行ったモーセに見られるのではないでしょうか。しかも彼はそれを二度続けて行ったのです。

 驚くべきことに、これ程長い間、水も飲まずに顔と顔をつき合わせて神を見つめたモーセはその断食では死にませんでした。これは、主の御前に出ている限り死も不可能もないことを証明していないでしょうか。彼がその直後に山を下ったとき、民はモーセの顔があまりにも眩しく輝いているので顔に覆いを掛けてくれるよう頼んだ程でした。

 これは私たちの霊的成熟の究極の目標が「神なる主と常に顔と顔を会わせて」いつも主のなさりたいことが「見える」「聞ける」親しい関係に入ることであることを示していると思います。そうなれば、私たちは毎日、主と親しくコミュニケーションすることによって、主から託された仕事の指示を忠実に実行できるようになります。そうすれば主は喜ばれ、アモス3:7にあるように「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」つまり、私たちが最愛の妻とか最も親しい友人には何でも話したい、話さずにはおられないのと同じように、主は信頼できるお気に入りのクリスチャンには何でも語ってくださるようになると思います。

 皆さんの中には既に神との関係で「主のお気に入り favorite」になられた方が大勢おられると思います。それは牧師とか教会のリーダーでなくても、クリスチャンなら誰でも、主と個人的に親しい intimacy の関係に入れますし、そのような人はみな立派な「主のお気に入り」です。私も長年主との関係がそうなるように務めて来ましたが、やっと最近、主の御声がよく聞こえるようになって来ました。私は文章を書くのが仕事ですが、筆の進みが遅いのでいつも苦労しています。ところが最近、よく主を礼拝したり、主を見上げる時間を長く過ごしたような日の翌朝は、私がお願いする前に、主は待ちきれなかったかのように、私が書くべきことをどんどんと語ってくださいます。

 

主から個人的に弟子訓練を受ける

 

 一世紀のキリストの直弟子たちは、何もかも捨てて主の家に住み込み、毎日主と向き合って暮らすという、本当にうらやましいような弟子訓練を受けました。しかし考えてみて下さい。私たちも彼らと同じ状況の中で、今でも主から直接毎日訓練が受けられるのです。それは主が聖霊を通して私たちの中に既に住んでおられるからです。御存知のように、私たちも天にある主の右座が私たちの座るべき席であり、そこにはいつでも行くように招かれているのです。キャット・カーというご婦人はつい先日、ジョイナー師のカンファレンスに招かれていましたが、彼女は毎日のように、時には一日二度も天の御座に行くそうです。

 そして、前述の2コリント3:18のところでご紹介したように、いつでも「主を見上げて主を見つめる」ことによって主の前に出られるのです。私は今のところそれ以外の方法を知りません。しかしモーセがシナイ山上で主に向き合って主とお話したのですから、私たちもできないはずはありません。ですから私たちも同じように、個人的に主と向き合い、見えるようになる迄、とにかく主を見上げるしかないというのが私の今迄の経験から学んだことです。そして、主は「信じる者にはどんなことでも出来る。」(マルコ九:二三)と保証しておられるのですから、それを続けていれば霊の世界が見えて来る、聞こえて来ると、私は信仰で信じて実行しています。そして希望の光が見え始めて来ています。

 

 とは言っても、これは確かに大変なチャレンジです。しかし聖書が説く「強い信仰」「真の愛」「自分の十字架を担ぐこと」等はどれをとっても楽にできるものは一つもないではありませんか。みな、とてつもなく激しく、執拗で諦めない強い意志と情熱を要求します。それはまさにマタイ11:12に「バプテストのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく・・攻める者たちがそれを奪い取っています。」と書かれている通りです。

 

 主と親しくなって「見る、聞く」という基本ができるようになれば、後の超能力の訓練については、どうすれば得られるかを直接主にお聞きください。それはまさに「信仰の訓練」です。主は必ず皆さんのデスティニーに適ったよい方法を教えてくださいます。

 最後に申し上げたいことは、単に外国から超能力を会得した使徒や預言者たちを呼んでのカンファレンスに出て話を聞いたり、祈ってもらうだけでは、主と個人的に親しくなれるとは限らないということです。今神は、私たちが誰かを通して預言を受けるよりも、自からが神と親しくなり、神から直接預言を受けることを何よりも望んでおられると思います。 (終り)


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