WWGM

Walk With God Ministries


03 07月

天国であなたがどのような人になるかは  地上での過ごし方によって決まる         坂  達 也   2020年7月4日


天国であなたがどのような人になるかは

       地上での過ごし方によって決まる

 

                     坂  達 也

 

 

 

エノクは最初に神と共に歩んだ人

 

 エノクについては創世記5:21ー24に「エノクは65年生きて、メトシェラを生んだ。エノクはメトシェラを生んで後、300年神と共に歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は365年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が取られたので、彼はいなくなった。」と書かれています。そしてヘブル書11:5に「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。」と書かれ、彼の信仰が神に喜ばれていたことがわかります。 エノクはノアと共に「キリストと共に歩んだ人間」であることが聖書に書かれていますが、この「神と共に歩むようになる」ことが私たちクリスチャンの最終目標であり、地上における霊的訓練終了の卒業証書であることをエノクが実証しています。そのようなエノクは、今天でどのような人になっているでしょうか。

 エノクと聞けば、しばしば天に行かれるリック・ジョイナー師が、そのエノクに天で会った時のお話を思い出します。生きたまま天に挙げられた人は他に預言者のエリヤがいますが、ジョイナー師は天で先ずエリヤに会いました。以下は私たちがWWGMで2014年5月1日のブログでご紹介した時の記事です。

 

エリヤとエノク

 

 ジョイナー師はエリヤによく会います。それは預言的経験の中ですから、実際のエリヤに会ったのか、霊的な経験だったのかはわかりません。エリヤはもうすぐこの世に来ます。それはエリヤの霊がキリストのからだに来るということです。

 しかし、エリヤが私に「あなたはエノクに会うべきだ」と何回も言うのです。エリヤは「私とエノクは死を経験しませんでした。それは、終末の時の最後の神のムーブメントのときにキリストのからだに大きな霊的分与をするためです。あなたはエノクに会わねばなりません。」と言いました。私も会いたいと思っていました。なぜならエノクはこの終末の時代に現れる力ある者たちについて預言しているからです。

 そして私はついにエノクに会うことができました。彼は私が想像していた人物とは全く違いました! エノクは私が今まで会った人の中で比べ物にならない程最もハッピーな人だったのです。いつも一緒にいたいと思うような人でした。彼が持っている喜びは信じられないほどでした。彼は地上に暗やみが広がっていた時代に生きていました。ネフィルムもいたし、人の悪が増大した時代であったにも拘わらず、エノクは最高にハッピーで喜びに満ちていたのです。

 エノクと会ったすぐ後で、私はまたエリヤに出くわしました。彼は私に「エノクと会ってどう思いましたか?」と聞きました。「彼は、私が会った中で一番ハッピーな人でした。驚きました。」と私が答えると、エリヤは「何か質問がありますか?」というので、「ええ。あります。どうしてあなたはエリヤのようにハッピーじゃないのですか?あなたはずっと天国にいたのに、どうしてもっとハッピーじゃないのですか?」とぶしつけな質問をしてしまいました。どうしても聞きたかったのです。

 エリヤは答えてくれました。その答えは私に非常な衝撃を与えました。「どうしてか話しましょう。あなたが地上で生活する間に、天国に行ってからあなたが永遠にどのような人になるかが決められるのです。天国に行けば、あなたの苦しみ、悲しみ、嘆きはすべて取り去られます。私もエノクのようにハッピーになることは可能でした。でも私は地上にいる時、暗やみの方にばかり焦点を当てていました。『私だけが残って他は誰も主を信じる者はいない』というように悲観的になった事が多かったのです。私はもっとエノクのようになることもできたのです。そしてあなたもそうなれるのです。

  エノクはどんなに地上が暗くても神と共に歩き、神に焦点を当てていました。彼の中で神はどんどん大きくなって、まわりの様々な問題や状況はどんどん小さくなりました。主の臨在の中では喜びが満ちるのです。」エノクは主の臨在の中で喜びの頂点に達したのだと思います。だから天に上げられたのではないでしょうか。そして今も喜びに満ちているのです。

 勿論、私たちは天国に行けば皆ハッピーです。天国で一番ハッピーでない人でも、地上で一番ハッピーな人よりもっとハッピーです。それは確かです。でも私たちは今、地上で自分の永遠の性格を決めているのです。エリヤは言いました。

 「あなたの信仰を増し加えるために一日も無駄にしてはいけません。神の喜び、神の平安へと成長できる時を無駄にしないでください。聖霊の実は育てられてだんだんに大きくなるものです。私は多くの日を無駄にしました。私も今のチャンスを逃したくありません.主の喜びが、これまでよりはるかに大きくやって来ようとしています。私たちには考えられないような喜びに満たされハッピーになるのです。主を間もなくお迎えしようとしているのですから当然ではありませんか。主の臨在の中で私たちはハッピーになるのです。いいえ、ハッピー以上のものー「喜び」です。ですからあなたがこの世で霊的訓練のために通される試煉を無駄にしないで下さい。 一日も無駄にしないでください。私たちは今、永遠に自分がどのような者になるかを決めているからです。

 もしこれが本当であるなら、私たちクリスチャンが、最終的に永遠の世界で「どのような者になる」=「達するか」は、私たちが「現世でどのように生きるか」で決まってくると言うのであれば、その意味は、私たち個人がそれぞれ育てる聖霊の実に「個人差」ができる、そしてその個人差は永遠についてまわる「変わらない」と言うことになります。考えてみるとこれは大変な意味を持っていると思います。天の御国で最も近しく主なる王に仕える人、また、花婿に最も近く、愛し愛される人になりたいと思いませんか。しかし永遠の序列は、一人一人個人が「この世をどのように生きるか」で決まるのです。

聖霊の実は「愛、喜び、平安・・・」

 ガラテヤ書5:22には9つの聖霊の実が書かれています。その真っ先に挙げられているのは「愛」であり、次が「喜び」そして「平安」「寛容(忍耐)」と続きます。この世で私たちクリスチャンが霊的訓練を受けることによって聖霊の実が育てられるのであれば、「喜び」以上に「愛」こそが真っ先に育て上げられることこそが、私たちクリスチャンにとっての最大の目標であるはずです。

 なぜなら、「神は愛」であり、私たちは「イエスに似た者」に成ることが問われるからです。それは創世記1:27で「神は・・人をご自分のかたち(イメージ)(似た者になるように)創造された。」とあり、また、ガラテヤ3:27で「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」そして、コロサイ3:14では「これらすべての上に、愛を着けなさい。」と書かれている通りです。

 

 そこで私が思い出すのは、2014年に最終的に天に帰られた預言者のボブ・ジョーンズ師が、一度サタンに殺されて、天の門まで来て、救われた人たちの列に並んでいた時、門で迎える主イエスは誰もに唯一つの質問をされました。それは「あなたは地上で愛することを学びましたか」と言う質問でした。

 これを見ても、私たち人間が全てのことに「愛」を基とし、「愛によって働く信仰」を持つことがいかに重要であるかを物語っていないでしょうか。

 

 それにしても「終末の時」は本当に迫って来ました。終末とは聖書マタイ13:36-43の「毒麦の喩え」に出てくるように、すべて神からの本物の麦と悪魔からの偽物の毒麦が合い混じり合って育ち=それが神の始めからのご計画であることにご注意下さい=どちらも成熟する終末の時点で、神はまず毒麦だけを集めて火に放り込んで燃やすのです。一方、本物の麦は実が最高に熟し、重くなって穂の頭が下がりますが、偽物は実りがないだけでなく、毒になると言うのです。

 

 これはクリスチャンとは「預言的でなければならない」ことに結び付けて考えることにあてはめられます。すなわち、クリスチャンは一人一人が誰でも神の御声を聞く訓練を受けながら「本物の預言者からの預言を聞くこと」によって神の御心を知り、それを実行することを学びます。しかし同時に、神が悪魔に毒麦という偽預言を送らせてクリスチャンを惑わすことを許すので、私たちが偽物に惑わされない訓練をもさせて下さるのです。これは霊的成長にとって非常に大事な訓練です。

 

 その終末には、その訓練の間を縫って一大霊的アウエイクニングと最後の大リバイバルが、並行して起こるのです。そして今、既にその時に入っていることを私も実感し始めました。既に世界中がパンでミックスだけではない、色々な艱難が起こり、その上人と人が、神側と悪魔側の二つに別れて戦う様相が政治的にアメリカで進んでいるだけではありません。世界的に見ても、国と国、主義と主義による終末の大戦争に発展する様相が既にかなり濃厚になって来ました。(終わり)


14 06月

終末の日に主だけを見上げる      坂  達 也      2020年6月14日


終末の日に主だけを見上げる

                坂  達 也

 

 

 「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」(1ヨハネ4:18、アンダーラインは筆者による)

 

 私はこの聖句をこのパンデミックが始まって以来、執拗にかみしめて参りました。

 そして今回、再びこの聖句の意味するところを味わってみて、「全き愛」とは神を象徴し、「恐れ」とは悪魔を象徴することが分かりました。

 「恐れ」を引き起こし、挑発するのは、この世の人間を支配しようとする悪魔です。その悪魔には「地獄の苦しみという懲罰」が既に有史以前から定まっているのです。これが上記の「なぜなら恐れには刑罰が伴っている」の意味であるのですから主を褒め称えます。

 

 そうであれば、真の霊的成長を遂げたクリスチャンには「恐れ」が全くない、いや、あってはならないということを、私たちは理解しなければなりません。しかし、弟子訓練途中のクリスチャンには「恐れ」が全くないとは言い切れません。現に私も含め、多くのクリスチャンは、今回のウイルス・パンデミックで「恐れ」を感じました。しかし、これこそ信仰の問題であることを今しっかりと噛みしめます。

 

 全知全能の神を信じ切って「神の救いの力」に頼る、それが「恐れを完全に取り除く」唯一の方法です。そしてこの際にこそ、何としても未信者に「イエス・キリスト」を信じることを勧める、神が与えて下さった絶好の機会ではないでしょうか。

 これこそ神が用意された「第三の霊的アウエイクニング」の引き金となります。そして私たちが未信者を「リバイバル」に誘導するのを、神は期待しておられます。まさに神のなさることに絶対間違いはない、パンデミック恐慌は神の愛から出ていると言い切れると私は信じます。

 

 

「神は私が呼ぶ時答えて下さる」

 

  とは、私の家内が昔から愛し、私のために残してくれたバジレア・シュリンク Basilea Schlink さんの珠玉のような作品の一つに付けられた題名です。彼女はご存知の通り、ドイツのキリスト教会指導者で、後にルーテル派内に設立されたマリア福音姉妹会の共同創立者です。

  この方は、詩篇50:15「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」を引用し次のように書きました。「このみことばは、聖書に示されている終末的様相をますます帯び、多くの苦悩が心をむしばもうとする現代に生きる私たちへの、神からの力強い呼びかけです。・・・今、このような呼びかけが天と地を造られたお方、私たちをあがなって下さった主イエス・キリストがなされているのです。主はその愛ゆえに私たちの心が悲しみに満ちていることを、また私たちがあれこれの問題に対処できないでいるのをすべてご存じです。愛に満ちたまなざしで、イエスは私たちの心にあるすべてのことをごらんになります。主おひとりが、私たちの心をわかって下さるのです。なぜなら、主は苦しみを受けられ、私たちと同じように試みに会われたからです。しかし、それだけではなく、主は、私たちがどのような悩みの中にあっても助けを備えていて下さり、すべての問題を解決できる唯一のお方なのです。イエスとは「神は救いたもう」という意味です。・・・言いかえれば、主イエスが私たちを助けず、救い出さないことなどありえないのです。

 

 また、この方の別の著作「苦難のさなかをゆくともー迫害前夜に生きるキリストの弟子ー」の中で、

 「聖書には終わりの時に迫害されるクリスチャンのことが記されています。『兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証の言葉とで、彼(サタン)に打ち勝った』(黙示録12:11)どのような時に『打ち勝つ』という言葉が使われているのでしょうか。それは戦いが行われる時のみです。なぜなら、戦いなくしては勝利もないからです。」と言われます。私たちクリスチャンは今こそ、その戦うための武器を取らねばなりません。

 

 

アメリカは既に第二の市民戦争 Civil War に入っている

 

 リック・ジョイナー師は、以前からアメリカには第二の市民戦争が起こることを預言して来ました。(第一の市民戦争とはリンカーン大統領時代の1861ー5年に行われた南北戦争を指します)そのリック師が10日ほど前のブログで「それは既に避けられないどころか、現在既にその第一段階に入っている。現在の政治政党とかメデイアにおいて、真二つに割れた市民の多くの人が、事実既に、武器(銃)を、個人的に購入して備えつつある」と言っていました。師は、ロマ書13:4を引用し、権威に逆らう人には権威者が持つ剣(当時の武器)がその悪業に報いると書かれていることを指摘しています。

 

 実は、それを裏書きするような事態が、このところアメリカで現実に起こっていることをお知らせしなければなりません。

 それは60万人の戦死者を出した歴史的な「南北戦争」を思い出させるようなお話です。当時、アメリカ合衆国を離脱して、植民地主義者、奴隷制度反廃止派のために戦って敗北した「南部連合国軍」に属する有名な将軍とか政治家の銅像が、現在の南部11州には、今でも大事な記念として数多く保存されています。ところが近来、その記念碑とか銅像を破壊しようとする動きが活発になる一方で、その取り壊し、あるいは移動を禁止する法律が各州で可決され、加えて、その連合軍国旗を保護する運動がこのところ相次いで起こっているのです。

 

 それと相まって、先月ジョージ・フロイド氏という黒人が、ミネソタ州のミネアポリス市にある店屋で、偽札使用で物を買おうとした容疑から、市の白人の警官が駆けつけ、武器を持たず無抵抗のフロイド氏の首の上に自らの膝を載せて押さえ込み窒息死させたという、大変由々しい事件が起きたのです。

 この事件は残念ながら、どう見てもその白人の警官が黒人を憎んでの仕業としか言いようがありません。このニュースを知ったアメリカ全土の人たちは激昂しました。そして、まさに一瞬のうちに挙国一致して反対デモに立ち上がったのです。それは黒人社会だけではなく、ほとんどの白人社会の人々も、あるいは世界中の人々が憤慨し、その連鎖反応として大都市では、商店舗の破壊行為を含む激しい暴動に発展したことは、日本でも大きく報道されましたから皆様もよくご存知の通りです。

 この前代未聞の恐るべき憎しみの犯罪は、やがて黒人に対するものだけに止まらず、すべての「人種差別反対へのデモ」に発展しました。幸いアメリカ国内では、小都市のほとんどが警官引率の元に平和裡のうちに行われました。その中には、白人の多い私の住んでいるニューヨーク郊外の小さな村のデモも含まれ、私はその様子を目撃しました。しかし、この騒ぎに便乗して、テロ組織が加わるという、かってないほどの争乱騒ぎになったことは本当に不幸な出来事としか言いようがありません。これで分かることは、アメリカには、特に黒人対白人というアメリカの市民戦争の深刻な古傷としこりが、未だ癒されていないことが明らかとなったのです。

 勿論神はこのような事件が起こり、世界に拡がる事を知っておられました。そして、世界を終末の大リバイバルへと導いて行かれます。

 

 

アメリカ国民はトランプ大統領の共和党の政策と

           民主党の政策を比較してどちらを選ぶか

 

 現政権を強力にリードするトランプ大統領とその共和党の勢いに対し、民主党としては、政策的には何も出せない、あるいは、何を出しても勝ち目が無いと見ているのでしょうか、結果的に見れば、トランプ大統領のすることなすこと全てに徹底して反対する策を取っているように私には思えます。

 それが、例え国の興亡に不利となり、国民のためにならないことが分かっていても、むしろ、そうなることによって国民がトランプ大統領に圧倒的な不満を抱かせ、彼のせいにして政権を奪い返す、すなわち、国民を犠牲にしてまでも政権を取り返すことだけに興味を持っているとしか思えないのです。

 

 その例を挙げてみれば、トランプ大統領の推し進めて来た民主主義・資本主義・民間企業を重視する自由経済に対し、民主党の候補者は、バイデン氏は今のところ何も言わない、程の良い無策主義、他の有力な候補者たちは、ほとんどがコミュニスト共産主義・社会主義による「すべて国がまかなう大きな政府」を主張しています。これはイデオロギーだけで大衆を取り込む、しかし実行すれば、すぐ破綻することが目に見えています。

 

 トランプ大統領がウイルス警戒の政策もさることながら、国民の経済を立て直す政策を今取ろうとしていますが、民主党はその反対にウイルス政策に重点を置き、その結果国民の経済状態が悪化、失業者が増えれば、政府の援助金をどんどん出させて、財政赤字を大きくし、国の借金を益々大きくすれば、その結果ドルの力は弱まり、国を不景気にすれば、その責任をトランプ大統領に課し、政権を奪い返す事だけを狙う。

 トランプ大統領が中国の台頭を警戒すれば、バイデン氏は、中国と仲良くする。等々。

 

 要するに今の民主党幹部には愛国精神は何も無いと言って過言ではないと思います。とにかく国の力を弱め、不景気になる政策を取ることによって、国民がトランプ大統領を見放すのを待つしかない。もっとも、実際に彼らはそう言っているのではありませんが、彼らの行言動からはそうとしか取れません。

 

 神はアメリカを見捨てるのでしょうか。決してそうではないと思います。この機にトランプを立てたのは神です。神は今、世界を歴史的にかってなかった程の一大危機に落とし陥れることによって、人類の目が、神を見上げるのを待っておられます。

 

 「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。アーメン。」(終わり)

 


03 06月

完全なる自己放棄( abandonment )により 神とフェース・ツー・フェイスに出会う         坂  達 也       2020年6月4日


完全なる自己放棄( abandonment )により

     神とフェース・ツー・フェイスに出会う                                           

                   坂  達 也

 

 

 

 日本人程「頑張ること」の好きな国民はいないと思います。少なくとも言葉の上では、挨拶代わりに「頑張って!」「頑張りましょう!」が合言葉です。つまり日本人程「自分で何事も努力することを奨励し、尊ぶ」国民はいないと思います。確かに創造主の神を知らない人にとっては、頼りにするのは自分しかいない訳ですから、人を励ます意味においてこの言葉は、決して悪い言葉ではないかも分かりません。

 しかし、クリスチャンとしての私は、この「頑張れ!」という言葉を聞くと、何か複雑な気持ちになります。なぜなら、何事も自分の努力ですることは、根本的に聖書の原理と相反するからです。

 何故なら、クリスチャンとは、主を常に見上げ、主の言われることを聞いて、それに従う以外の生き方はないからです。神は私たち人間が、自分の努力で事を為すこと、自分で努力して物事を達成することから「休みなさい」すなわち完全なる自己放棄(complete abandonment)を先ず要求しているからです。

 

 もっとはっきり言えば、神は私たちに自分では何もしてはいけない、只々「主の御顔を見上げて待ちなさい」と言われるのです。そこに要求されるのは「忍耐」です。そうすれば、全て主が、私たちに必要な「心の思い」を私たちの心の中に入れて下さり、それに忠実に従えばそれができるようになるのです。

 

 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28−30)と主は言われます。その根底には「愛」があり、愛がすべてです。

 

 

 さて今日は、その「完全なる自己放棄(complete abandonment)」をすることについてビル・ジョンソン師の証しをお分ちしたいと思います。それは1971年に、当時ベテル教会の主任牧師であった彼の父親が取り次いだメッセージを聞いて彼が決意したことです。

 お父さん先生は、私たちが「神ご自身に対してミニストリーをする」ことと「人々に対してするミニストリー」とは全く違うと語りました。ビル師は、その前から自分を神に放棄する( surrender )コミットメントをしていました。しかし、そのメッセージを聞いて時、口に言い表せないような深い感銘を受け、更なる決意をしたのです。神はそれに素早く応じられ、それ以来聖霊の臨在と神の力を受け始めました。

 そして1995年に至って、彼は「私は、もっと主を求めます。それがいかなる代価であっても、私はその代価を払います。」と日夜泣き叫び始めました。それは8ヶ月続きましたが、10月のある夜、遂に神がそれに答えて下さったのです。但し、それは私が予想していない方法ででした。」と言います。

 

 ビル師は、突然死んだように寝た状態からはっきりと目覚めた状態へと一瞬にして変へられ、突如として全く説明のできない物凄い力が彼の身体の中を走り始めました。それはあたかも壁のソケットに自身を差し込むことによって1000ボルトの電流が彼の身体に流れ始めたかのようで、その電流に打たれ、神の前で彼は何も身動きできない状態になったと言います。

 それは神の御声を聞くとか、ビジョンを見るとかというレベルを遥かに超えた、彼はそれまでの人生で経験したことのない「物凄い圧倒的な力」そのものであった、それは神ご自身としか言いようがないーーと言い、これが彼が8ヶ月祈って来たことへの神の応えであったのです。

 

 このパワー(電力)サージのうねりはその夜を通して続いたそうです。そして朝方6:38AMにやっと止まり、彼はベッドから完全にリフレッシュして飛び起きたと言います。

 彼は、後日、これが「神とフェース・ツー・フェイスに出会った」経験であったということを知ったそうです。(以上はビル・ジョンソン師の著書:Face to Face with GOD からとったものです。)

 

 

モーセは神と口と口で語った

 

 このビル・ジョンソン師のお話しから思い浮かぶのは、モーセが主の前に40日40夜、食べず、飲まずに主と共に過ごした経験です。それによって彼は神と「親しい友人」のように話し合う間柄になりました。そのモーセは荒野の旅に出ると、宿営の外に会見の天幕を張り、そこで彼は「神と口と口とで語り・・・(目の前に)主の姿を仰ぎ見ている」(民数記12:8)と書かれていますから、私たちが真に決意して望めば、本当に「神とフェース・ツー・フェイスに出会える」のです。

 それには「神に出会えるなら、どんな代価でも払う」という決意と、時間を掛けてそれをまっとうする実行力、そして忍耐が必要です。

 

 ヤコブの場合は、祝福を得るためにはどんな代価を払っても神にしがみ付いて離さず、神(天使)と格闘して遂に勝ちました。そして、生涯びっこを引いて歩くという代価を払いました。

 

 私たちクリスチャンは、神とお話しができると聞いて、それならやってみようとその訓練を始めますが、多くの人が簡単に諦めて、結局辞めてしまいます。

 「主と共に歩く」ことも同じです。主と共に歩くためには、先ず「完全に自己放棄(complete abandonment)」して、無心で主について行けば、主が必ず語ってくれ、それが聞こえるようになり、後はそれに従って行けば良いのです。まさに「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(終わり)


15 05月

「主を見つめて待つ」祈りについて              坂  達 也   2020年5月15日


「主を見つめて待つ」祈りについて

 

                       坂  達 也

 

 

 

 ご存知の方も多いと思いますが、私は今迄に2冊の本を出版し、目下三冊目の原稿にチャレンジしております。その最初の本の題名は上記の「主を見つめて待つ」です。

 私はこの本でコンテンプレーテイブ・プレイヤーという祈り方をご紹介させて頂きました。これは15世紀のカトリックの修道僧によって始められ、その後修道院を中心に広まった祈りと言われます。

 

 私の本の中で紹介しましたが、ペギー・ウイルソン師は、クリスチャンがこの「主を見つめて待つ祈り」に目覚めて実行する時、それは人間が救われる時の「ボーンアゲインの経験」に比べられる程の大きな「新しい出発」となると言っています。また、16世紀のカトリック修道院でこの祈りのリーダーの一人であった十字架の聖ヨハネは次の様に書いています。

「純粋なコンテンプレーテイブな祈りとは『受けとる』ことにある。神の最も高尚な知恵と言葉を受け取るには『静かに主を見上げてじっと待つ』霊によらなければ不可能である。この知恵は魂の活動とは一切関係なく伝達される。」

 この神の知識とか知恵は、人間の思い(マインド)での理解を超えるものですから、受け取った時には直ぐにはよく分からないまま霊的に蓄えられると言われるのです。

 

 濃厚な主の臨在を経験したことのないクリスチャンはいないと思います。しかし皆様は、主の臨在とは、先ず個人的に毎日経験すべきものであるということを信じておられるでしょうか。

 私の場合は、毎朝主とお会いしたくて一人で主の前に出ます。主の御前に出て静まり、主と共に時を過ごし始めると、主の平安と愛に包まれていきます。そして顕著な主の臨在が現れてくださることも多くあります。主が来られてお傍近くで直々に親しくお会い出来たときは、本当にうれしくて感激と喜びで一杯になります。

 

 勿論いつも主のはっきりとした臨在が来てくださるとは限りません。しかし、たとえ顕著な主の臨在感がなくても、平和で平安な気持ちで満たされていれば、それは御霊の実の顕れですから、主の御霊がそこに臨在されている証拠です。

 私たち御霊の内住を受けているクリスチャンは、いつも御霊の臨在と共にあり、その臨在の導きで歩んでいなければなりません。(ガラテヤ5章と6章をお読み下さい)この霊的事実は、信仰で受け取ることであり、私たちの肉の感情とは無関係のはずです。

 コンテンプレーテイブな祈りを始めて以来、私は一日中できるだけ多くの時間、特に毎朝の起きた後直ぐに、私の中におられる御霊さまにお声を掛けし、御霊さまに満たされること、それが大いなる楽しみとなっております。多くの場合、私は無言で聖霊様を見上げます。その時は私の頭は空っぽです。あるいは御霊さまである聖霊ご自身の言葉(異言)で話します。それは主の御声を聞くためでありますが、同時に、主と静かで楽しい時を過ごしたいという気持ちからでもあります。

 

 特にパンデミックで隔離した生活を強いられている今は、ほとんどの日を私は一人で食事をしますから、自分一人の時は絶好のチャンスです。食事の感謝のお祈りをした後すぐ、(父と主イエスを代表する)御霊様をお招きして、御三方と共に過ごす時間として、親密な会話をしながら、あるいは今は天にいる家内とか親しい家族・友人も一緒に臨在してくれていると信じて、家内にも話し掛けます。 私は彼らは死んだのではない、天に移って真に霊の命で「生きている」ことが今は本当にリアルに感じられるのです。

 

 ところで、大分前に一度引用していますが、ジョン・ベルトという人が詩篇23:2「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」を引用して、次のように語っています。

 「私たちは騒々しい音(音楽も含んでの意味であると思います。)の中で暮らすことにあまりにも慣れ過ぎているが、この騒音中毒症状を打ち破らねばならない。私はむしろ、神と共に過ごす「静かな時」を愛することのリバイバルが起こるべきであると願っている。私たちはこの神と共に過ごす「静けさ」にこそ中毒となるべきだ。神は私たちの心の奥深い場所に住まいたいと思っておられ、私たちに静かで平安の場所を約束して下さっている。この心の奥深い静かな場所において私たちは神を知り(交わり)、親密な関係を築く。そこで主は神の栄光を私たちに顕わして下さる。」

 いや「静かな時を愛するリバイバル」とはすばらしいではありませんか。実のところ、私は誰かがこれを言ってくれることを待っていたように思いました。

 

 さてそこで、実は最近、私たちのミニストリーであるWWGMの愛読者の方からお手紙を頂戴しましたのでお分かちしたいと思います。その方は私の著書「主を見つめて待つ」を読まれて感銘を受け、それ以来、私のミニストリーであるWWGMのメッセージをずっと愛読しておられる方です。そして私が今住んでいるニューヨークから書いているものですから、私の最近の新型コロナウイルス禍の災いに対する信仰の証にとても感動され、不安を持っている多くのご友人にWWGMを紹介してくださっている、と書かれていました。それを拝見して私の方こそ大変励まされました。

 

 そこで私自身、2003年に主が私に書かせて下さった、この「主を見つめて待つ」を久しぶりに読んでみて、正直なところ驚きました。こんなことを言うのはさぞかし高慢に聞こえると思いますが(お赦るしください)本当に「主が書かせて下さった」この本は、すばらしいです。17年前に書いたものではありますが、実際のところ、これから始まる、最後の霊的大アウエイクニングと、それによるリバイバルのために主が用意された、今こそ読んでいただきたい本であると信じます。

 そんなことで、この本をぜひ皆さまにお読み頂きたいと、お勧めします。2008年に改定再販したこの本の定価は一応900円となっていますが、住所を書いてお声を掛けて下されば、直ぐ、残り少ない在庫を預かっていただいている日本在住の姉妹からお送り致します。代金はお読みになってから、価値があると思われる金額だけ幾らでも結構ですからWWGMへの献金としてお送りくだされば幸いです。(終わり)


08 05月

コロナ・ウイルスのパンデミックで       神が世界中の人間を恐れさせる理由      2020年5月9日                 坂  達 也


コロナ・ウイルスのパンデミックで

         神が世界中の人間を恐れさせる理由

 

                         坂  達 也

 

 

 先週私は、人間の体は絶妙にうまく出来ていること、特に人間の身体には抗体という免疫力が備わっていることに触れました。そして、私たちが「恐れ」を持つ時に抗体不足で病気になる可能性が大きいが、恐れが全くない時は病気にならない、と申し上げました。それは私には、創造主の神の創造がどれ程素晴らしいかを物語っていると受け取ります。しかし、人間が死を恐れる要因がもう一つあることを下記に申し上げねばなりません。

 

 

この地上では人間は死を恐れる

 

 血と肉で造られている人間は、この地上では必ずいつかは死ぬという「寿命」に縛られています。神が敢えてそのように全ての生き物を造ったのです。従って、人間は一生涯「死の恐怖につながれ、その恐れの奴隷となっていること、また、その人間をこの上なく恐れさせる「死の力」を持つ者は悪魔であることが、ヘブル書2章14、15で次のように書かれています。

 「子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」

 しかし、神は勿論それを最初からご存知です。そのためにイエス・キリストが十字架上で悪魔に打ち勝ち、その十字架の御業を信じる者は誰でも、死から完全に解放するように最初からご計画されていたのです。それがヨハネ3:16に「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」と書かれています。その証拠に、その前の14、15節で「モーセが荒野で蛇を挙げたように、人の子もまた上げられねばなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠の命を持つためです。」と書かれています。

 この14節のモーセの話は前に民数記21:9で「最初のパンデミック」としてご紹介しましたので覚えておられるかと思います。

 

 しかし問題は、ほとんどのクリスチャンは教義としてはヨハネの3:16にイエス・キリストが十字架上で死んで下さったので、その主を信じれば「永遠の命」がもらえると保証されているにもかかわらず、それでも死は怖いのです。

 

 何故怖いのか?ークリスチャンは先ず、頭で教義を習いますが、本当の救いの信仰に達するには、イエス・キリストが人間としてどれ程苦しんだか、それを自から味わい、経験するまでは、主が悪魔から勝ち取って下さった「永遠の命」の有り難さが本当には分からないのではないかと私は思います。

 

 そこで私は自分の信仰に問題を感じる時は、多くの場合ヤコブ書を読みます。

 

 ヤコブ1:2「私の兄弟たち。さまざまな試練(内からの誘惑、外からの困難に次ぐ困難に出会うという最大限の逆境)に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐(する力;耐久力)が生じるということを、あなたがたは知っているからである。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」

 

 私は逆境に次ぐ逆境に会うと、それを「この上ない喜びを感じる」とは、ちょうど「死の力を持つ悪魔」を、主イエスが十字架上で滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた私たちが解放される喜びに通じると思うのです。

 これはまた、スポーツ選手の弛まない長年の厳しい苦しい訓練の結果、遂にオリンピックで優勝するのに似ていると思います。その選手たちの味わう喜びは格別なものでありましょう。イエス・キリストもそれ以上の喜びを十字架上で最後に味わった、何にも替えられない「勝利の喜び」を私たちにも分かち合わせたいと願っておられるのではないでしょうか。

 

 要するに教義を幾ら頭に詰め込んでも、主に似て造られた人間に秘められる無限とも思える「物凄い力」は出て来ないのです。それは十字架の喜びを勝ち得たイエス・キリスト(初穂)にだけ備わっている父なる創造主が有史以前から用意した神の「無限の力」「無限の喜び」、それを愛する「子供たち」である人間にも味わせたい、というのが神の元々の計画なのです。

 それには私たちは、自分の十字架を担いで、ひたすら主の後をついてゆく者にならねばならない、何故なら、その人たちだけが味わうことのできる「無限の力=愛の力」であると確信するからです。つまり、教義よりも、イエス・キリストご自身への個人的な親密な愛の関係を持つことーこれが私たちクリスチャンの目標です。

 

 

クリスチャンに絶対必要な神からの知恵

 

 その後ヤコブ書1:5で「あなたがたの中に知恵が欠けた人がいるなら、その人は、誰にでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ただし、少しも疑わず、信じて願いなさい。そうすればきっと与えられます。・・・」そして12節で「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、命の冠を受けるからです。」と続きます。これがまさに「永遠の命」です。

 私はこのヤコブの手紙から12部属を生んだヤコブの信仰とその気迫を感じます。それは彼が2:14で「自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」と問うているからです。

 私はこのパンチの効いた、決して「ぬるま湯」的な信仰ではないのが大好きで、読む度に励まされます。私たちクリスチャンが霊的に真にマチュアになるためには、神からの知恵が毎日絶対に必要です。

 

 具体的な例を一つ申し上げれば、預言者のボブ・ジョーンズ師が常日頃言っていたように、多くの人が病気を癒して欲しいと願って祈ってもらいに来るが、その人を単に癒すだけならともかく、聖霊の言葉で祈ると、聖霊から知恵を頂いて、その人の病気をその時癒すだけでなく、その病気が2度と再発しないように、その人の体質、食事ばかりでなく、その人の霊的ライフスタイルを変える知恵をいただけることを強調しました。それがなければ、その人はまた同じ病気になるのです。聖霊は愛を持ってそれを阻止する知恵をくれる、そして使徒パウロが誰よりも異言で(聖霊の言葉で)祈るのは、それが理由であると説明しました。

 それは病気ばかりでなく、日常すべてのことで私たちは私たちが気がついていない間違いを繰り返すことのないように聖霊の導きで祈ることを強調したのです。そのような「上からの知恵」については、ヤコブの3章で触れています。また、4:13ー16では「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。・・・信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたのなら、その罪は赦るされます。ですから、あなたがたは互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。癒されるためです。・・」と書いてあります。

 

 

人間が自分の自由意志で自分の永遠の将来を決める

 

 最後に思い出していただきたいのは、ヘブル5:8−9に書かれている「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれましたそして完全なものとなられたので、ご自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、・・・」の聖句です。

 

 全知全能で100%愛の神は、人間にしてもらいたいこと、もらわなければならないことは一つもありません。あったら全知全能で完璧な神とは言えないはずです。従って、人間は何も心配せず、何にも恐れず、唯々神のいうことに100%従順であり、すべてを安心してすべてを神に委ねることが私たちのためになるのです。そして、人間に生まれたキリスト・イエスにもそれを徹頭徹尾実行することを要求しました。

 その結果、一人の何の罪もないイエスご自身が、私たち全人類の罪の身代わりとして十字架で死ぬという償いをした結果、そのイエスを信じれば、その人は無罪放免、永遠の素晴らしい天の楽園で過ごせるという見事な人間救出計画です。

 天国において「永遠の命」で愛の神と永遠に過ごす楽園の生活がどれ程素晴らしいか、想像を絶します。でも天を訪問した人の話はたくさんあります。

 しかしそれ程素晴らしいことを残念ながら多くの人は悪魔に騙されて知らないのです。そこで人間に与えた自由意志で、そのイエスを最後まで拒み、あくまで自分のしたいことを選ぶ「自己中心」で生きたい人は、そういう人を集める場所(地獄)で永遠に悪魔と住むことを自分で選ぶことになります。残念ながら、自分のしたいことをする人たちだけが一緒に住むと、どれ程の酷い地獄の沙汰になるか、その人たちは分からないのです。

 

 人々に死を恐れさせることは、それによって人々が唯一人の救世主イエス・キリストに目を向けさせる機会を神が用意しておられることを意味しています。また、既にクリスチャンになった人は、一人でも多くの家族、あるいは友人の未信者をキリストに導く最大限の努力をすべき、最後のリバイバルの時に今突入しつつあるのです。(終わり)


 Page 1 of 35  1  2  3  4  5 » ...  Last »