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Walk With God Ministries


31 12月

新しい年を迎えるにあたって   坂 達也   12月31日


新しい年を迎えるにあたって


 イエス様のご誕生をお祝いする日が、どうして12月25日になったかについては古来色々な議論がなされて来ました。しかし最近、私はクリスマスの7日後に新しい年の元旦を迎えることには大きな意味があるように思えてなりません。
 
 それは新しい年を迎えるにあたって、その直前に主イエスキリストの誕生というクリスチャンとしての一つの重要な原点に立ち返り、そこから改めて自分の置かれた現状において悔い改めるべきことを悔い改め、新しい年に対する主のご計画を祈りを通して信仰で受け取る機会が与えられるからです。今年のクリスマスはその意味において私は大変重要な新年に対する指針を主からいただきました。

 それは主のご誕生の6ヶ月前に生まれたバプテズマのヨハネに就いての新しい霊的理解が得られたことです。
 いつもクリスマスを迎えるとルカの最初の2章を読みます。今年もクリスマスのメッセージをいただくために私は幾度も主の前に出ましたが、ある時ふと私の心に疑問が浮かびました。それは、何故聖書はイエス様のご誕生の前にヨハネが誕生する物語をこれ程詳しく伝えねばならないのかという疑問です。(ルカ伝1章)又、主が宣教を開始するにあたっても、先ずヨハネがイスラエルの人々の前に現れたことに関しても同じ疑問(その必然性に対する再認識を求める気持ち)を持ちました。(マルコ伝とヨハネ伝は冒頭からヨハネのことで始まり、マタイ伝も3章で詳しく触れています。)とどのつまり、何故バプテズマのヨハネという人物がそれほど重要なのかということを再確認したいという気持ちに駆られたのでした。

 勿論それに対する多くの答えはマタイ3章に書かれていますが、特に2-3節にご注目下さい。
[「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」 この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。]

 ここでバプテズマのヨハネとは『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐに(する人)』であることが分かりますが、具体的にそれがどう言う意味なのかに関して、私は今回、特に下記の三つのことが示されました。 

 その第一は、彼がイエス様に洗礼を授けたことです。そもそもヨハネという人は「悔い改めの洗礼」をイスラエルの人々に施すためにこの世に生まれて来たといっても差し支えないと思いますが、彼がこの世に遣わされた重要な目的の一つは、イエス様ご自身に洗礼を授けることであったと私は信じます。

 しかし、罪の無いイエス様が何故ヨハネから洗礼を受けられたのでしょうか。それは、イエス様が私たちと同じ洗礼を受けることによって、罪人の私たちと一体となる、一体であることを示すためであったと考えられます。それは同時に、主の後を追うべき私たちがイエス様を見習って洗礼を受けるようにと、先ず主ご自身が洗礼を受ける見本を示されたと思います。
 これについて言えることは、私たちクリスチャンとは、信仰でイエス様の十字架に架かることによって既に罪赦された聖なる「からだ」であるのですから、めぐみによって罪の無いイエス様と同じ立場にあるということです。その私たちが「霊的な洗礼」を改めて受けることを、イエス様は望んでおられると私は理解します。

 但し、この場合の「悔い改めの洗礼」とは、普通未信者であった私たちがイエスをキリストと信じた時に受ける水の洗礼とは違う性質のものであると思います。それはむしろクリスチャンとして生きて来た私たちが、それまで本当に主の御心を理解せずに、御心から外れた生き方をして来たという罪に対する心からの悔い改めであって、もっと霊的に深い悔い改めの決意でなければならないと思うのです。そしてこの洗礼を私たちが受ける時には、ちょうどヨハネの洗礼を受けられたイエス様の上に神の御霊が鳩のように下って来たように、私たちにも特別の御霊の力が授けられると信じます。

「整えられた民を主のために用意する」(ルカ1:17)という使命を持って既に現れたヨハネは、主の再臨を目前に控えて生きている今の私たちに「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と叫んでいるのです。今こそなまぬるい不信仰を振り捨てて、主に忠実な花嫁となる時が来ました。そして、人々の心だけでなく、主のご計画に従って村を、町を、国をまっすぐにして王をお迎えする準備をしなければなりません。まさに私たちがバプテズマのヨハネになる時です。

 この重要な御国のミニストリーを行うためにはそれだけの御霊の力が必要です。従って主は私たちの上に、初代の使徒たちがペンテコステの時に受けた力以上の前代未聞の超自然の力を今下さろうとしていると信じます。私たちはそれを信仰で受け取ることが出来るのです。

 第二に示されたことは、ヨハネが授けた洗礼とは「悔い改めの洗礼」ではありましたが、それが「死んでよみがえる」ことを意味しているということでした。ヨハネは主が現れる前に先ずこの世に来て「主の通られる道」をまっすぐに整える使命を持っておりました。そうであるなら、イエス様がこの世に来られた最大の目的が、総ての人を救うための「いけにえ」として十字架にかけられて死ぬことであったのですから、先駆けのヨハネ自身が先ず「いけにえ」として自分の命をささげることが「イエス様の通られる道を用意する」ことにふさわしいのではないでしょうか。この「いけにえとして死ぬ」ことこそが、バプテズマのヨハネがこの世に現れた最大の目的であったことを私は示されました。彼は荒野にとどまり、この世から離れた生活をすることによって出来る限り自分が「聖いいけにえ」となる準備をしました。

 ヨハネが「いけにえ」となったことは彼の死に方が物語ってくれます。彼は当時のヘロデ王によって首をはねられ、その首は盆に載せられて会衆の前に披露されました。それはあたかもヨハネが「キリストの花嫁になるには自分の頭はいらないから世に返す。」とでも言っているようです。
 そして、首のないヨハネの遺体は弟子たちのよって引き取られ葬られました。(マタイ14:1-12)これは一体何を意味するのでしょうか。
 「首のないヨハネの死体」とは「キリストのからだ」引いては「キリストの花嫁」を象徴していると私は信じます。とすれば、自ら花嫁の姿をとって「いけにえ」として死んだヨハネは、私たちクリスチャンに対し「キリストのからだ」になるためには自らをキリストの十字架につ けて死に、キリストと共によみがえること(霊的に)が必要であることを身をもって示してくれたことになります。そればかりではなく、ヨハネはキリストという花婿を心から愛するがゆえに、私たち花嫁を花婿に導く霊的マッチメーカーとしてこの世に送られて来たのです。

 それが三番目に示されたことなのですが、バプテズマのヨハネとは「花婿の友人」として私たちのために現れてくれたという事実です。

「あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である。』と私が言ったことの証人です。花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。」(ヨハネ3:28-29)

 ここで「花婿のことばに耳を傾けているその友人」とはヨハネを指しています。ヨハネが花婿であるイエス様の友人と呼ばれる理由は、ヨハネは常に花婿の御声に耳を傾け、その御声を聞いて大いに喜ぶ人であるからです。そして、彼は友人として花婿が花嫁を迎えるために現れることを誰よりも待ち望んでいるのです。
 
 先程私はヨハネが私たち「キリストのからだ=花嫁」の形をとって死んでくれたと申し上げましたが、実は、花婿と花嫁を愛するヨハネは、私たちの地上での花嫁を指導する者でもあるのです。と言うのは、ヨハネは私たちに花嫁となるための一番大事なことを少なくとも一つ教えてくれたからです。

 その一つのこととは、花嫁は常に「花婿のことばに耳を傾ける」ということです。そのためにヨハネは花嫁の目を花婿の方に向けさせる役目を買って出たのです。それが「花婿の友人」としての役目です。そしてその人は「キリストの花嫁」とは友人である以上に花婿と親密な関係に入る者でなければならず、常に花婿の声を聞いて喜びに満たされている人であるべきことを私たちに示してくれたのです。

 ヨハネは弟子を訓練しました。しかし、その弟子を決して自分のものと考えず、むしろイエス様の弟子となることを薦め、彼の二人の弟子がイエス様の後を慕ってイエス様の最初の二人の弟子となった時に心から喜びました。彼が弟子に徹底して教えたことは、彼らの真の教師は自分ではなくイエス様であること、そのイエス様に常に目を向けることを示したのでした。

 バプテズマのヨハネから私は、クリスチャンとは「キリストの花嫁」にならねばならないことを改めて教えられました。そして又、私たちは花嫁であると同時に「花婿の友人」にならねばならないことも教えられました。それは私たちが、私たちより後にクリスチャンになった人を花婿と個人的に親密な間柄になることを最重要事として導き、その方法を教え、又、そうなる過程においての困難さを分かち合い、必要な時に励ます友人になることです。

 私たちクリスチャンは、一日も早く主を「花婿」である「夫」として意識して、毎日を貞節かつ忠実な「妻」として仕えながら生きる生活に入らねばなりません。このクリスマスを通して、それが新しい年の最大の目標であることを確認することが出来た次第です。

 2007年は皆さんが、ヨハネのように主の御声を聞く度に大いに喜び、毎日が喜びに満たされた年になりますようにお祈りしております。(終わり)


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30 12月

ACPEによる2007年への預言  訳者 渡橋喜代佳 12月30日


ACPE(預言的長老の使徒委員会)による2007年に向けての主のことば           
[はじめに]
ACPE(預言的長老の使徒委員会)とは、預言的な人々が、自分たちが聞いた主のことばを互いに分かち合うために集まる円卓会議である。今年の委員会はユダヤ暦新年の最初の日(2006年9月22日)に開催され、そこで持ち寄られた預言のことばは、委員たちで確認されて、下記のように編集された。
 
このACPEのメンバーには下記の神の器たちが含まれている。
ジェームズ・ゴール、ビル・ハモン、ジェーン・ハモン、トム・ハモン、マイク&シンディ・ジェイコブス、チャック・ピアス、ジョン&ポーラ・サンフォード、ダッチ・シーツ、スティーブ・シュルツ、トミー・テニー、ピーター&ドリス・ワーグナー、キム・クレメント、グエン・ショウ、ポール・キース・デイビス 他16名

また、ここに記されている預言のタイミングと(あるいは)預言の成就に関しては、次の点に留意する必要がある。

1.聖書にない預言はすべて条件付きである。
2.預言が成就するタイミングは、1年という時間の枠内におさまらないこともありえる。
3.与えられた預言の警告によってその本人もしくは国家が悔い改めたため、預言されたさばきが回避されるということもありえる。聖書では、ヨナの預言によってニネベの町が悔い改め、神が態度を和らげられた例を見ることができる。

[2007年のための主のことば]

「達成不可能な任務」から「達成された任務」へと移って行く

「2007年は『達成不可能な任務(Mission Impossible)』から『達成された任務 (Mission Accomplished)』へと移って行く年である。すなわち、今年は完成の年、仕上げの年、完了の年となるだろう。」

次のものが完了(終了)するであろう。  
      
1. 一つの建て上げのサイクルが完了。新しい建て上げの戦略が解き放たれる時。
2. 五役者のミニストリーの回復が完了。使徒的なものと預言的なものが共に働くようになる。
3. アメリカの法廷を変えるための油注ぎが終了。国家がどっちつかずの不安定な状況にあるので、変化の好機となるこの窓を見逃すことはできない。
4. 政治上の再編成の時。影響力のあるイザベルの霊との戦い。
5. 奇跡を解き放つための油注ぎが終了。
6. 富の移動を解き放つための油注ぎが終了。今まではっきり決まらなかった多くの商取引が完了する。サタンが昔からの要塞を築いているが、その要塞は、富がキリストのからだに流れ込むようにするために打ち破られなければならない。
7. 収穫の季節の到来。リバイバル、リバイバル。若者たちが大学のキャンパスで目覚めるようになる。
8. 私たちの人生における一つの章の終わりと新しい季節の始まり。神が新しいことにあなたを移したいと思っておられるときに、古いことに固執してはならない。2007年のうちに古いものは完成させ、2008年には新しいことに入って行くことが出来るようにしなさい。
9. 束縛のサイクルが完了。個人的な生活や共同のビジョン、国家の土台を束縛していたものが打ち破られる季節。アメリカ合衆国の公立学校では1967年に聖書が公に読まれなくなったが、この40年におよぶ荒野での放浪状態が終わりを告げる。今年こそは学校で聖書が公に読まれる年となる!

剣で交戦する年

今年はユダヤ暦によると5767年であり、剣で交戦する年となる。個人レベルでの今年の戦いは、あなたが完成するのを阻止しようとするものとの戦いである。数字の7は完成を表わす。今年は戦争や武器の年である。2007年の終わりまでは7年戦争のサイクル内にいるため、今年は、あなたの門から敵を押し返し、私たちの周囲で激しく繰り広げられている戦いを終結させるために、押し進めて行く年となる。

戦いにおびえてはならない。この戦いに勝利するために、神が両刃の剣をあなたに与えてくださるからだ。敵が激しく立ち向かってくるが、私たちはそれに対処するために見分ける力を持つようになる。

今は受け身でいる季節ではない。サタンは、あなたが神のことを追い求めるのを阻止しようとして、天にかかわる領域にまで口をはさんできた。そのため、家庭の問題や経済的困窮、自己満足が引き起こされて、脇道にそれるという事態が起きてくる。もし、あなたが今受け身になるなら、神から定められた道に進み入ることができず、神からの約束を手にすることもできないだろう。

舌は剣にたとえられる

「舌は剣にたとえることができる。したがって、今年は、あなたの舌やあなたの言葉を、神があなたの人生について語られることばに一致させる年である。」

神があなたに与えておられる預言の約束が実現するように、あなたの信仰を解き放ちなさい。あなたの心にある夢がどんなものであっても、すさまじい戦いによってそれをあきらめて捨ててはならない。

神は誠実な方であるから、あなたが戦いをやめなければ絶対に敗北することはない。神が語られる事を自分も口に出して言うようにしなさい。そうするなら、神はあなたに必要な知恵と啓示の知識の霊を与えてくださる。過去において私たちが口にした宣言の言葉が、その実現を目の当たりにして感嘆の言葉に変わるだろう。2007年が約束のものを所有する年となるからだ。

今年は、サタンが親しい友人や家族、同僚との間に問題を引き起こそうとしているので注意しなさい。この年は剣を交える年だからである。サタンがあなたや身の回りの人々に影響を与えないように、サタンを縛りなさい。ヤコブとエソウが衝突しようとするが、そうした衝突に巻き込まれてはならない。ヤコブが自分より先に贈り物を届けたように(創世記32:18)、あなたも先に祝福を送るようにしなさい。あなたに立ち向かっている人々の心を開かせる戦略を、神に求めなさい。

性的不品行や姦淫の罠を警戒し、誘惑の霊に気をつけなさい。今年は動機をきよめ、思いや行動における聖さが求められる年となる。

新しいブドウ酒が注がれる

2007年は、聖霊が地の表全面に力強い働きを始めていく年となる。聖霊の新しい動きが生まれ、新しいブドウ酒が注がれるだろう。今年はまた対決の年だということを覚えていなさい。したがって、反対されても神のみこころにとどまり動き続けていなさい。

「今年は古い皮袋が新しい皮袋と衝突する年となる。」

ますますスピードが速まっている今の時代において、地上でなされる神の働きに遅れずについていくためには毎年新しい皮袋が必要であると、主はまた私たちに語られた。真理にのっとっているかどうか、理解
20 12月

すべての考えを虜にする Terry Somerville 12月20日


すべての考えを虜にする

テリー・ソマーヴィル



IIコリント10:5、6 「私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごと(考え)をとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。」

多くのクリスチャンは、自分の思いの中に次ぎ次ぎに浮かぶ考えに振り回されて、毎日の生活を滅茶苦茶にされています。サタンは、私たちの中におられるイエス様の働きを止めることができないことを知っています。 ですからその代わりに、私たちの人生の中に吹き込まれたうそや、過去の苦い経験、偽りの教え、習慣などを使って、サタンは私たちの考えや行動をコントロールしようとするのです。しかし私たちが、キリストの内なる自分の思いという真理をしっかりと掴むならば、自由と勝利を得ることができるます!


受動的にすべてを受け入れてしまう思い


「私が持っている否定的な考えからイエス様が解放してくださるように祈ってください。」と他のクリスチャンから私は時々頼まれます。彼らはいつも落ちこんでいて、助けを求めているのです。 そして否定的な考えを一切持たないときにだけ自分は自由なのだと思っているのです。 しかし、これは真理ではありません。勝利というのは、否定的な悪い考えが来たときに、それをどのように処理すればよいかを知っていることです。私たちは自分の思いに浮かぶ考えを受動的にすべて受け入れてはならないのです! 私たちは、すべての考えを虜にしてキリストに服従させねばなりません。


思いはどのように働くか

この世は、「あなたが考えることが、即ち、あなたです。」といいます。しかしそれは真理ではありません。「あなたの考えにどう対処するかが、あなたです。」というのが真理なのです。 私たちは自分の思いに浮かぶ考えをコントロールできますか。 「はい。」でもあり、「いいえ。」でもありますね。 少しご説明しましょう。

1.私たちの思いは黒板のようなものです。

私たちは自分の考えを思いに書きつけます。計算をしたり手紙を書いたり、その他なんでも黒板に書くことができます。黒板はあなたではありません。それは、あなたが何をどのように考えるかを表すものですが、本当のあなたという存在は黒板よりもっと深いものです。

2.神もまた、私たちの思いの黒板に書かれます。

神は私たちの思いが考えと共に働くようにと造られました。私たちが救いを受けた後もそれは変わっていません。思い(mind)は考え(thoughts)を持ち、意志(will)は願望(desires)を持ち、感情(emotion)は気持ち(feelings)を持っています。しかし、神もまた、神の考えを私たちの思いに入れてくださるのです。それは神が私たちの思いに語ることができる唯一の方法です。なぜならば私たちの思いは考えによって動くからです。自分の黒板に書かれた一つの考えを見て、それが自分が考えたことでないならば、神からのものかもしれないのです。Iコリント2:16で「私たちには、キリストの心(mind)があるのです。」といっているのはこのことです。

3.サタンや悪霊も私たちの思いに考えを書くことが出来る

悪魔とかもろもろの霊もまた、この方法で人間に語りかけるのです。悪霊が人に語ることがある、ということは、多くのクリスチャンにとって受け入れ難いことのようです。しかし実際、サタンの言葉はそこら中に満ちています。自然な形で皆さんの思いに入りこんできます。皆さんはそれを読んだり、テレビで聞いたりしているのです。サタンはイエス様にさえ話しかけたではありませんか。ですからサタンがあなたの黒板に何かを書くこと自体が特別問題ではありません。あなたがそれに気がついてすぐに黒板ふきを使うことが大切なのです! アナニヤとサッピラは、サタンの声を聞いた例の一つですが、彼らは自分たちの欲のためにサタンの偽りを受け入れてしまいました。

誰が書いたかを知る


Iヨハネ4:1「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。」

自分では思いもつかなかったような考えが浮かんだときは、その考えがどこから来たのかを見極めねばなりません。自分の思考をチェックする3つのテスト方法を使うことができます。

1.み言葉によるテスト
この考えは聖書の言葉と合っているか? 主からのものは神の言葉と常に合っていることを私たちは知っています。

私は妻を癌で亡くした一人の牧師を知っております。その牧師とは違う町に住む一人のクリスチャンの女性が、神が夫を捨ててその牧師と結婚するようにと言っていると思いました。彼女は牧師にその旨の手紙を書きましたが、内容があまりにも変なので、牧師の秘書が手紙を保管しました。ついにはその女性は、神が夫を殺せといったと言い始めました。それでこの事態が明るみに出て、その女性の牧師に報告されることになりました。

この女性は、自分の思いに浮かぶすべての考えは神からのものである、と受け取っていたのです。このようにしてサタンは人々の人生を破壊していくのです。このような場合、私たちは姦淫や殺人は罪であるという聖書の言葉でチェックしなければならないのです! それでは、聖書の中には書かれていない事柄についてはどうすればよいのでしょうか? あと2つのテスト方法があります。

2.イエスの性格に合っているかを調べるテスト
このテストは非常に簡単です。あなたの思いに浮かんだ考えはイエスの性格に合っていますか? 主に栄光を帰していますか、それとも自分を高く上げようとしていますか? 強引にどうしても今やりたい、といっていますか、それともテストを受けるのを待つ忍耐がありますか? 正しくて聖いですか? もしその考えの中にイエス様の御姿を見ることが出来るならば、主からの考えだというしるしということができるでしょう。聖霊は聖い方なのですから。


3.実によるテスト
最後のテストは、「その考えは最終的にどんな実を実らせるか。」というものです。 御霊の実を実らせていますか? サタンは肉が働くようにと誘惑しますが、聖霊は御霊の実が生るようにと励ましてくださるのです。

ガラテヤ5:19-23 「肉の行ないは明白で あって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

すべてのはかりごと(考え)を虜にせよ

自分の思いに浮かんだ考えが、神からのものでないことがわかったならば、次にすることは、その考えを虜にすることです。 私たちは自分の思いをコントロールできる力を持っているのですから、その考えを拒否することができるのです。文字通り黒板消しを取り出してそれを消すのです。そして、それを書いたサタンを叱責します。こうすることによってその考えに打ち勝ちます。クリスチャンはこの真理を学ぶことによって偉大な勝利を得ることができるのです。しかしながら今までの人生経験や自分に対する、又は他人に対する、考えの故に、古い考えを捨てきることが出来ない事柄、領域が誰しもあるものです。

ある時私はナイアガラの滝に行きました。崖っぷちに近づいたときにある一つの強烈な考えが私を襲いました。「上まで登って飛び込んでしまえ。それできれいさっぱり片がつくぞ。」というものだったのです。私は後ずさりしました。そしてすぐに2つのことがはっきりわかりました。
1.この考えは私のものではない。なぜならば私は生きていたいから。
2.これはサタンからの考えである。なぜならばサタンは私を殺したいから。
一体何が起こったのでしょうか。それは明瞭でした。自殺の悪霊どもが奈落の淵の入り口で待ち構えているのです。悪霊どもはそこに来る人ごとに死への誘いをかけて、一人でも落ち込んでいる人を見つけて自殺させようとしているのです。私に声をかけたのは彼らの大きな間違いでした。私はサタンを激しく叱責して、事は終わりました。

この出来事から一つの重要なポイントを学ぶことができます。サタンは私たちの人生と共鳴することを話そうとしているのです。 彼は私たち自身の中にある願望をたくみに使って誘惑してきます。私たちの中に深く根をおろしている領域を探り出して、それを餌に使い、私たちがサタンの考えを受け入れて従っていくようにしむけるのです。


ヤコブ1:14 「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。」

音と共鳴

私は長年いろんなバンドでエレキ・ギターを弾いていましたが、そこで共鳴という現象を学びました。たとえば、「E」のコードが空中で大きく響いていると、私の持っているギターの「E」の弦が、私が全く触れていないのに振動し始めるのです。それが共鳴作用です。ギタリストはそれを利用して演奏することを学びます。

これは私たちのたましいの中で起こることを説明するのに、とても役にたちます。私たちのたましいの中に「E」 があると、周りで「E」 の音が起こる度にそれと共鳴したいとたましいは願うのです。もし私の心に鬱が根づいていると、まわりでなにか憂鬱になるようなことが起こると、私のたましいの中の欝が共鳴をはじめます。クリスチャンであっても欝になってしまうのです。それが起こったときには、私は共鳴する自分のたましいを取り扱い、その考えを虜にしなければなりません。ギターの、そしてたましいの、共鳴を止める方法は3つあります。3つとも効果がありますが、最後のものが一番よい方法です。

1.音の源を止める、即ち、サタンを縛る
もし空中のEの音を止めることができれば、私のギターのEの弦の振動は止まります。音の源がなくなるからからです。霊的に言えば、これはサタンを叱責するということです。サタンは去っていくので私は平安をとりもどしますが、でもそれはサタンがもどってくるまでの間だけです。問題は空中に音がする度に私は共鳴してしまうということです。多くのクリスチャンはこのレベルで生きていて、自分の感情の起伏を回りの状況の所為にするのです。彼らは自分のたましいの中にある「E」をそのままにしておくのです。すべての問題は埋もれたままにおかれ、都合の悪いときに出てきてしまいます。

現在の教会はこのレベルにとどまっていて、それは非常に残念なことです。クリスチャンの多くは、環境が整えられた教会の中(温室キリスト教とでもいいましょうか)だけが勝利を得られる場所だと感じています。彼らは教会やワーシップがどれだけ素晴らしいか、ということに拠り所を求め、自分により快適な環境をいつも捜し求めています。彼らはこの世の雑草や悪天候にさらされると生きていけないのです。本当はサタンを縛ることは防衛の手段ではなく、サタンの分捕り品を取り返すためなのです。ですから私たちはサタンを縛るだけではなく、私たちがサタンの言葉に共鳴してしまう原因を見つけて対処しなければなりません。

2.反応しないように自制する

これがもう一つの解決手段です。もし私のギターが空中の「E」 の音に共鳴し始めたら、指で弦を押さえて音を止めることができます。これは自制心を働かせることと言っていいでしょう。多くのクリスチャンはサタンを縛ることと、この自制心を働かせることの二つのレベルで生きています。自分の肉が共鳴して振動し始めると自分が誘惑されていことを感じます。そのとき、それを掴んで振動が止まるまでコントロールするのです。 誘惑が来ると自制をして、また次の誘惑が来ると自制する、という非常に惨めな生き方です。確かに私たちは自制をしなければなりませんが、このような生き方は聖霊による生き方ではありません。私たちは「聖霊により肉の働きに死ぬ」ようにと召されています。古い自分をコントロールするだけではいけないのです。キリストによる新しい命が古いものにとって代わらねばなりません。

3.新しい音―新しい命
三番目の、そしてもっとも効果的に共鳴を止める方法は、弦の調律を変えることです。私のギターの弦を「E」 ではなく「C」 にするならば、空中で「E」 の音が鳴っていても、ギターの弦は少しも振動しません。霊的に当てはめれば、私たちが新しい命に入るということです。新しい命に入ったクリスチャンは、周りに何が起こっても、それに影響を受けることなく生きることができるのです。


私が始めてインドに行ったときのことを思い出します。行く前に、インドには悪霊の力が非常
13 12月

アルゼンチンの集会に参加した人の話 坂 柚実子 12月13日


アルゼンチンのトランスフォーメーションの集会に参加した人の話

エド・シルボソ師の「ハーベスト・エバンジェリズム」という団体の主催で、今年も11月中旬にアルゼンチンでカンファレンスが行われました。私たちは参加できませんでしたが、私たちの教会からはオダ牧師夫妻を始めとして9人が参加しましたし、ハワイからは40人ほどの参加がありました。 ハワイからアルゼンチンは飛行機を乗り継いでの30時間の長旅で、大変だったようですが、参加した人たちは全員感激して帰ってきました。今日はホノルル市議会の評議員であり、熱心にハワイのトランスフォーメーションの動きに参加しているゲリー・オキノ氏のイー・メイルでの報告を下記の通りご紹介したいと思います。


 『 アルゼンチンでのハーベスト・エバンジェリズム・カンファレンスで起こったことは、とても言葉ではあらわせません。参加するときは、きっと良い会になるだろうとは思いましたが、こんなに素晴らしいとはとても想像できませんでした。あまりにも多くのことが起こったので、何からお話すればよいかわかりません。聖霊が圧倒的に臨まれました。

カンファレンスが始まる数日前に私たちは到着したのですが、ブエノス・アイレス市のチーフで「ガバナー」と呼ばれているジョージ・テルマン氏と会うことができました。彼は大統領とブエノス・アイレス州の州知事に次いでアルゼンチンでは3番目に政治的権威を持っている人でした。いろいろな素晴らしいことが起こったのですが、最後にエド・シルボソ師によって、ユダヤ人であるテルマン氏は主イエスに導かれました。翌日の夜にテルマン氏が人々の前で話をしたのですが、彼が本当に変えられて聖霊に満たされていることがはっきりわかりました。彼は道徳的な法律に関してのプログラムをブエノス・アイレス市に導入するといっていました。この市は、汚職で悪名高いからです。又、クリスマスには真のキリスト教的クリスマスを取り戻すプロジェクトを始めることや、階級間の和解をも進めていく方針だと語ってくれました。

次に私たちはウガンダの大統領夫人に会いました。彼女は主を心から愛するクリスチャンです。ウガンダでは今リバイバルがまさに起ころうとしていて、いくつかの地区では、政治的なシステムの欠陥により起こる貧困(systemic poverty)を無くす努力が始まっているそうです。大統領夫人の貧困対策のための援助献金が募られた結果、400人の参加者によって60万ドル(7000万円)が約束されました。講師の一人であったシンディー・ジェコブス師は、大統領夫人の娘(牧師をしている)が、牧師としての働きを通してスーダンの問題を解決する鍵を握っていることを預言しました。

次に私たちはラ・プラタにある「キリスト・唯一の望み」 という名の刑務所を訪れました。そこは以前は凶悪犯が送られる警備の最も厳しい刑務所だったのですが、今はすべての囚人がクリスチャンになっています。聖霊が刑務所全体を支配し、個室のドアも取り去られています。私たち400人の訪問者の周りを100人ほどの囚人たちが取り囲んで、外の庭で陽をあびながら礼拝をしましたが、主の臨在が非常に濃くありました。そして囚人たちが私たちのために熱心に祈ってくれました。囚人もカンファレンスに来ている人たちも一緒になって、聖霊の臨在にふれられて泣き始めました。聖霊が激しく下り、人々はそこら中に倒れました。ハワイの副知事夫妻も聖霊に満たされて地面に倒れ、長い間じっと横たわっていました。

私たちは次にマル・デル・プラタのカンファレンス会場に行きました。そこでのエド・シルボソ師のみ言葉の解き明かしは全く素晴らしいものでした。聖霊が彼を通して語っておられました。

初日の夜のワーシップで私たち夫婦の心は整えられました。

 「主よ、私のこころをおささげします。
  私のたましいをおささげします。
  あなたのためにだけ私は生きていきます。」

と歌っていくうちに私は聖霊によってうちのめされました。涙がとめどなく流れ、私は新たに自分を主にお捧げしました。後になってある人から聞いたのですが、私たち夫婦のすぐ後ろに大きな天使が立って私たちを覆っていたそうです。

カンファレンスのテーマは国々のトランスフォーメーションでした。アルゼンチンやウガンダだけではなく、「ハーベスト・エヴァンジェリズム」が全面的に支援している多くの国で、トランスフォーメーションが起こっていて、その驚くべき報告を沢山聞くことができました。

エジプトのカイロの一部にある「ごみの街 Trash City」でコプト教会のサマーン神父をリーダーとして起こっているトランスフォーメーションは、全く信じられないほど素晴らしいものです。カイロ中のごみが集まってくる街でそのごみで生計を立てている人々を、サマーン神父が愛して、主に導き、より人間らしい生活ができるようにと指導しているのです。ちなみにサマーン神父はエジプトのマザー・テレサだといわれています。

彼が語ってくれた話の一つに、は797年にエジプトで起こったことがあります。時の王が、もし聖書にあるようにからし種の信仰で山が移るならばそれを実証せよ、実証できなければ、クリスチャンを皆殺しにすると言ったときに、二人のクリスチャンが信仰で本当に山を動かしたという話です。この話は後に政府によって抹殺され、すべての歴史書から消し去られたのですが、最近になって地質学者によって確かにこの山が700メートル移ったことが証明されました。移された山はサマーン神父が主の指示に100%従って建てた2万人収容の山の洞窟を半分利用した教会(the Cave Church)になっていて、ごみの街の人々によって満員になっているのです!

他にもハーベスト・エバンジェリズムがかかわっているインドネシア、フィリピン、シンガポール、中国、カナダなど、その他アメリカも含め世界中の多くの場所で驚くべきトランスフォーメーションが起こっています。このカンファレンスにはそのような28ヶ国から参加者がありました。

これはまさに、マタイによる福音書の最後でイエスがすべての国(nations)を弟子としなさいといわれたことなのです。そのためには「マーケットプレイス・ミニストリー」が必要であり、教会の外に出て行き、人々のために祈りその結果を示していくということが大切です。(prayer evangelism)

もう一つの素晴らしい出来事は、参加者全員でマル・デル・プラタの町全域(72ブロック)で祈りの歩行をし、その街のすべての人に対して平安と祝福を祈った ことです。私たちは会う人ごとに「Puero orar porti? お祈りしていいですか?」と聞いて答えが「si. はい。」ならばその人のために祈りました。3千人のクリスチャンがその街を隈なく祈りで覆ったのです。

カンファレンスの夜は毎晩 「Dios es Amor 神は愛」という教会で集会がありましたが、その教会ではオリエル牧師により多くの癒しの奇跡が起こっています。身体中に癌がありもう長くは生きられないといわれた患者が彼の祈りで完全に癒されました。また、口とのどに癌のあった人も癒されました。彼らが癒される前の写真やレントゲンを私たちは先ず見せてもらいましたが、その後で癒されて健やかになった本人たちがステージに現れました。また、オリエル牧師の祈りにより死人が8人生き返ったという証拠書類も見せてもらいました。毎晩3時間ほどの聖霊に満たされた集会がそこでもたれました。


最終日は圧巻でした。閉会が近づいていた時でしたが、一人のシカゴから来たカトリックのディミトリ神父がステージにあがりました。彼はひざまずき、マルチン・ルッターへのカトリック教会による迫害を赦してほしいと、泣きながら請いました。大いなる和解が起こりました。一人のルーテル派の牧師がステージに上がり、その悔い改めを受け入れると共に、プロテスタント教会が「 父」を失ってしまったことを告白しました。すると一人のユダヤ教のラビがステージに上がりました。悔い改めの涙は大きな喜びに変わりました。音楽が大きく演奏され、みんなは誰かれとなく抱き合って踊り回りました。

最後にジンバブエの牧師が祈りをし、「Charge! 突撃!」という祝祷で締めくくりました。それを聞いてみんなが一斉に大声で「Charge! Charge!」と何度も何度も叫び始めました。東西南北に向かって、また、天にむかって叫びました。みんなが天国にいるような気分でした。会が終わり教会を出るときはアルゼンチンの人たちが私たち外国から来た人たちをハグして祝福してくれました。 その夜、私たちはみんな、天国の喜びをほんの少し味わったのです。

本当に素晴らしかったです。主よ感謝します。私と妻とは変えられました。
私たちの主、イエス・キリストの愛をもって. ゲリー・オキノ』



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06 12月

ただ一つのこと=主の顔を見上げる  ライアン・ワイアット 12月6日


ただ一つのこと ― 主の御顔を見上げる
                                  ライアン・ワイアット

かなり前のことですが、私はカンサス市で行われたあるカンファレンスの最中に、初めて本当のトランス(夢見心地)状態を経験しました。その経験は私にとって非常に衝撃的であり、その後の私のミニストリーの方向性を多くの点において決めてしまったほどのものでした。今、神と親密な関係を毎日持つ重要性を書くにあたり、この経験はそれと深い関係があると思いますので、それをまずお話ししたいと思います。

園に住み、園を世に持ち出す

私はそのときワーシップをしていたのですが、突然、私の霊が全く違う場所に移されるのを感じました。そのような経験は初めてだったのですが、それがトランスと呼ばれるものであることが後になってわかりました。カンファレンスには4千人以上が集まっていましたが、まわりにいた人たちはもう私の意識からは消えていました。私はただワーシップ・ティームが歌う預言的な歌だけに耳を傾けていました。

私は今まで見たことがないような美しい園に入っていきました。地面にはバラの花びらが一面に散っていました。丁度そのときにワーシップ・チームは「主よ、あなたの園に連れて行ってください…」と預言的な歌を歌っているのが聞こえました。実に、私が経験することがすべて、すぐそのあとでチームによって歌われるのでした。

私はバラの花びらが敷きつめられた地面にそっと横たわりました。すると突然風が吹いてきて花びらを舞い上げたので、私の身体は花びらで取り囲まれました。それは聖霊が私の上に臨まれたのだ、と私にはわかりました。私は頭の向きを変えて園の外を見ました。そこに見えたものすべては、死と悪とに満ちていました。恐ろしい旱魃と飢饉もありました。爆弾が炸裂し、ありとあらゆる犯罪が行われていました。人々の顔は恐れと絶望の色を濃く表していました。園の外部の世界とはまったく異質な場所に自分だけがいるようでした。

私は地面から立ち上がりました。そして園の中央にむかって歩いていきますと、そこには小さな流れが注ぎこんでいる池がありました。水の中に入ると、私の身体のすべての病が一瞬にして癒されるのを感じました。私は水の中にじっと身を横たえていました。 すると、園の外部から人々が大混乱の世の中を逃れて入ってくるのが見えました。彼らの顔からは恐れや死の影は消えて、晴れやかな表情になっていました。(詩篇34:5)

彼らも、池の中に足をいれましたが、その瞬間に彼らの身体から腫瘍や癌が落ちていくのが見えました。 また、骨が正常な位置に戻される音がし、盲人が見えるようになり、聾者の耳が開きました。たちまちのうちにすべての病が癒されていったのです。

私が水の中にじっと浸っていると、水が私という存在そのものの中へと浸み込みはじめるのを感じました。その水の性質と私の性質とがあたかも一つに溶け合うように感じました。 そして神の御性質をいただいて私の性質は少しづつ変えられていきました。(IIペテロ1:4)私はすっかり元気ずけられリフレッシュされました。それがあまりにも満たされた状態なので外に放出しなければなりませんでした。


私は池から出ました。そしてこの素晴らしい神様の臨在を分け与えるために園の外に出て行きました。私が歩くところはどこも水溜りになりました。私が建物の中に足を入れると、壁からありとあらゆる草花や木が生え出てきました。私が入ると建物はみんなきれいな庭園に変わっていくのでした。私自身が庭園であり、私が行くところはみんな庭園になるのでした。しかも私に触れる人は瞬間的に元気になり、彼らを縛っていたこの世の足かせから自由にされていきました。

万物の頂点

現在私たちは大いなる揺さぶりと混迷の世界の中に置かれています。歴史上今までになかったような悪と混乱の極みの世界が展開しています。これまでの悪が頂点に達して、今という終末の時代に現れています。 今までの悪のすべてが今の時代に集められて最高潮に達しているようです。

しかし、それと同時に主からの油注ぎも最高潮となり、今までの時代の神の業がすべて集められて、この終わりの時代にそそぎ出されるのです。上では天の不思議、地ではしるしが起こり、勝利者たちの上には身体の癒し、奇跡やしるしが大いに与えられるのです。今私たちは歴史的に画期的な時代に生かされています!

II歴代誌16:9「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」

今私たちに不可欠のものは、主に捧げきった忠実な心です。愛と忠誠をもって私たちが100%主に心を向けることを妨げるために、敵はあらゆる策略を駆使します。もし二心があるならば、私たちの魂は敵の捕虜になってしまうのです。(ヤコブ1:8) 悪魔はほえたける獅子のように獲物を探して歩きまわっています。私たちは、悪魔につけ入らせる隙を見せてはいけないのです。(Iペテロ5:8、エペソ4:27)

しかし、私たちが主の御顔を仰ぎ見て、主との親密な交わりを楽しむという、ただこの一つのことに励むならば、敵に隙を与えたり惑わされたりすることから自分を守ることができます。

詩篇27:4「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」

私たちの毎日のすべての時において、私たちの存在のありとあらゆる細胞はこの一つのことのために捧げられねばなりません。この邪悪な時代の中では、それだけが私たちの心と思いを清く保ってくれるものです。そのような生き方をするならば、天の父が私たちに目を留めてくださり、神の力が私たちの人生の中に流れてくるのです。エデンの園で人に与えられた元々の命令とは、神との親密な交わりを持て、というものでした。ですから、私たちは今、そこに戻らなければ、天国を地上にもたらして毎日勝利しながら生きることは決してできないのです。

初めに…

初めに、神はアダムとエバのために園を造られました。彼らがそこで生活し、管理するためでした。神はこの園をエデンに造られ、人をその中に置かれました。

創世記2:8 「神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。」

「エデン」という言葉は、「喜びと楽しみ」、