WWGM

Walk With God Ministries


31 12月

「今 いる場所でわたしを愛しなさい」 フランシス・フランジペン 2012年1月元旦


「今 いる場所でわたしを愛しなさい」

 

フランシス・フランジペン

 

主を探し求めているとき、最も困難な時期が 神の愛を経験するブレークスルー(打ち破り)に変えられる可能性があることを、私は見出しました。私にとってそのような時は、1979年から1981年の間に起こりました。私が属していたある教会の群れが、霊的惑わしに堕ちてしまいました。中心的な教義がどんどんとニューエイジの影響を受けるばかりか、不道徳が入り込み、主要なリーダーたちが 他の女性のために妻を捨て去りました。私はもはや黙ってはおられませんでした。それで、私は1979年に、それまで牧師として働いていたミシガン州デトロイトの教会を離れ、アイオア州にある教団の地区本部に赴きました。彼らに悔い改めを嘆願するためでした。しかし、上部のリーダー達との話し合いの結果は、私がその群れを去るようにと言い 渡されたことでした。

 

私が置かれた状況は、教会もなく、お金もなく、しかも4人の子供をかかえているという状態でした。最低限の住居を借りるお金もありませんでした。とにかくどこでもいい、と探し回った結果、アイオア州のワシントンという田舎に古い農家を見つけることが出来ました。それは築100年以上の家でしたが、実際はそれよりもっと古く見えました。家主と掛け合った結果、片付けやペンキ塗リ等の家の修理をすることを条件に、一年間ただで借りることができました。

けれども、この家の状態は私の手に余るひどいものでした。暖房はほとんどきかないので、台所に薪ストーブを入れました。 何とその冬はアイオア州の歴史で一番寒さが厳しい冬になってしまったのです。家の中に霜が付き、すべての窓は下から50センチくらいは霜でした。風が吹くと-50度Cくらいになりましたが、それより寒いときも時々あったのです。

 

毎晩暖かく寝るために、台所のストーブから5メートルくらい離れている食堂の床に置いた大きなマットレスの上に、家族全員が身を寄せ合って 寝ました。ストーブの後ろのファンが温風を私たちの方向に送ってくれました。私の夜ごとの仕事は、当然のことながら、朝までみんなが暖かいようにストーブに沢山火を燃やすことでした。

ストーブに火を焚き続けながら、私は祈りながら神を求めました。ストーブは私にとって祭壇のようになり、毎晩私はそこで 自分の成就されていない夢や霊的孤独の痛みを神に捧げていました。勿論、 神が私の置かれている状況を知っておられることは分かっていました。私たちは本当に何もありませんでした。しかし神は、小さな多くの事柄を通してご自分を顕してくださいました。私はただ、主が私に何を望まれているのかが分からなかったのです。

 

季節が移り変り、次の子供が生まれ、更にベトナムの女の子を里子にしたので、子供は6人となりました。家族が増えても、ストーブの周りの狭い場所は私にとって聖なる領域でした。夏でも私はストーブの横の椅子に座って、祈り礼拝したのでした。

「この時期に私は主の喜びを見出した」と申し上げたいところですが、 自分の状況に次第に順応してはいましたが、本当は私の心には惨めな思いがいつもありました。非常に貧しかったこと(年6000ドルほどしか収入がありませんでした)もその原因の一つでしたが、それよりも、私は自分が主の御こころから外れてしまったように感じていたのです。私の祈りは常に「主よ、あなたは私に何をお望みなのでしょうか?」というものでした。

 

神を求めつつ3年が経過しましたが、私の内には空しさがまだありました。私に対する神の御こころは何なのでしょうか? 私は二つほど聖書研究会を始めていましたし、いろんな教会で数回説教もしました。しかし私は「自分は牧師である」という意識が強かったので、フルタイムのミニストリーを再びするまでは、 人生に対する神からの召しを私は失っているのではないか、という恐れを持っていたのです。

ミニストリーに関するこのような空しさを内に抱えてはいたのですが、 実際には私は霊的に(特に以前は耕されていなかった領域において)成長していました。私はキリストの御言葉を知り従うことに餓え渇いていたので、福音書を深く学びました。以前は、無意識のうちに、ミニストリーの成功は私の業や働きによって起こったと考えていました。しかしこの期間に、主は私を単なる一人の「イエス・キリストの弟子」にしてくださいました。

 

そして、 それまで聖書的だと思っていた多くの事柄が、ただの宗教的伝統に過ぎないことを私は発見しました。主は私が自分の心の中にある色々な考えを丁寧にもう一度吟味し直し、その中で本当に私が喜んで死ぬことが出来る真理(複数)を探すように望まれました。そして「そのために死ぬことが出来る真理のためにこそ、あなたは生きるべきです」と主は言われました。

 

携挙のタイミング、ワーシップのスタイル、霊的賜物などは、私も大切なこととは思いますが、率直に言いますと、それらは最も重要なもののリストからは外れていきました。私の焦点のトップに上がってきたのは、真にイエス・キリストの後を追う弟子になること(主の教えに従い、単に批評家としてではなく人を励ます者)になりたいといる熱い思いでした。又、 自分が徐々に他の教派や異なる視点を持つクリスチャンとの交わりを喜び、彼らからも学ぶことができるように心が自由に解放されてきたことが分かりました。

この変化は深く永続的なものでしたが、 ほとんど気がつかないほどにゆっくりと起こっていきました。それは私の心の中で静かに起こっていたことであり、その時主がしておられたことが分かったのは後になってからでした。この期間中、私はずっと「自分は神の御こころから離れてしまっている」という思いに捕われていたのです。 私への主の御計画を知りたいという祈りは、毎日続いていました。

 

ブレークスルー

ある日、私は台所のパントリー(食料庫)の中にいたのですが、いつものように「主よ、あなたは私に何をお望みなのですか?」と祈りました。その瞬間、一瞬の輝きの中で主が答えられました。主は直接私の心の中に 「あなたの今いる所でわたしを愛しなさい。」と語られたのです。

その時私は牧師でも聖職者でもなかったのです。私は家族を養うためにテレビの修理をし、その他雑多なアルバイトをしていたのです。私は自分の仕事が嫌いでした。以前牧会していた時には、テレビは良くないと教えていたのに、今は死んだテレビに「手を置いて」生き返らせているのです! 主からの答えは私の心に真っすぐに入ってきました。私はそのシンプルさに畏敬の念を感じました!私は「あなたを私が今いる所で愛するのですか、主よ?あなたが私に望んでおられるのは、ただそれだけですか?」と訊ねました。これに対して主は「それがわたしのあなたに望むことのすべてです。」と答えてくださいました。

 

この永遠の瞬間、平安が私の魂に洪水のように押し寄せ、私は「自分のミニストリーをしなければならない」と言う間違った期待に駆り立てられていた自分から解放されたのでした。神は「私が 神のために何をしたか」を見ておられたのではなく、「 私がどれほど神を愛する人間になったか」を見ておられたのです。主が問題とされたのは、私が牧師であるかどうかではなく、私が主を愛するかどうかだったのです。 何をしていても (テレビの修理人であっても)主を愛すること、、、それならば出来ます!

 

私の内に深い驚くべき変革が起こりました。私のアイデンティティーは、もはや「牧師であること」ではなく、「神を真に愛する者になること」にありました。このように私が一番自分に重要なことは何かを決めた途端、驚いたことに、その2日後に私はアイオワ州マリオンの教会の牧師になるようにとの依頼を受けました。 ミニストリーに戻りたいという焦りをずっと持っていたにも拘わらず、私はそのチャンスに 飛びつきませんでした。なぜならば、私は主が私に真に何を望んでおられるのかを見出したからです。少ししてから私はこの依頼を承諾したのでしが、その時にはもはや私の焦点は「教会を導くこと」ではなく、「神を愛すること」に変っていました。

 

神が求められること

神は、私たちのミニストリーの働きよりも、 私たちの愛を求めておられます。主の偉大な戒めは、私たちが主を愛することであり、究極的に言えば、思いを尽くし、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして主を愛することです。もし私たちが神を愛するならば、神が私たちに要求することはすべて満たすのです。(ヨハネ14:15)そして私たちが神を愛するとき、神はすべてのことを相働かせて私たちの益としてくださいます。(ローマ8:28)

 

愛する皆さん、神を愛することは難しくありません。私たちはどんな任務(メカニック、主婦、医者、大学生等々)に就いていても、私たちの天の父を大いに喜ばせることができるのです。主を愛するためにミニストリーの肩書きは必要ではありません。神は、実際に私たちの人生の価値を私たちの愛の深さによって計られるのです。真に神を求めるものたちに神が求められるものとは 、即ち、私たちの置かれた場所で神を愛する事です。

 

祈り:主イエスよ、あなたの愛を知り私はあなたに夢中になりました。あなたは私を引き寄せられるので、私はあなたのもとに急いで参ります。主よ、たとえ世俗的な生活をしている時でも、私はあなたへの愛を表して行きます。どうかあなたの愛の中で私を燃やし尽くして下さい。(終わり)


23 12月

神我らと共にいます ティファニー・アン・ルイス           2011年12月24日


神我らと共にいます

 

ティファニー・アン・ルイス


「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(インマヌエルを訳すと、神は肉の形をもって私たちとともにおられる、住まれる、人間として来られる、という意味である。)マタイ1:23

 

例年のようにクリスマス・キャロルが街に流れ、 あのすばらしい夜にベツレヘムの厩で生まれ、私たちと共に住んでくださる栄光のインマヌエルの降臨を人々に告げています。しかし、イエスは御父のもとに帰られました。ですから、今はどうなっているのでしょうか?

インマヌエルの預言は、国が歴史上困難な時期を迎えているときに与えられました。イザヤ7章には、神の民が戦いに直面していた様子が書かれています。当時アハズが王でしたが、 彼らが直面していた厳しい状況下で 彼らの心は「林の木々が風で揺らぐように動揺した。」(イザヤ7:2)と聖書は語っています。私にはそのことがよく理解ですます。悪魔が私の家を吹き飛ばそうとして強く息を吹きかけるとき、私の信仰心も風に吹かれてあちらこちらに揺れ動かされてしまいがちになります。

 

それで、神はアハズ王のもとに預言者イザヤを遣わし、神は敵の攻撃から彼らを守ると告げました。 続いて聖書は、私たちが神の約束を手に入れるために必要な御国の原則を忘れないよう教えています。即ち、「もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない。」(イザヤ7:9b)と書かれています。すべてのことは最終的には私たちの信仰に懸かっています。神は忠実な方であり約束されたことは必ず実行されると私たちが信じるかどうかにすべてが懸かっているのです。 真実に神に従う者たちを混乱させ惑わすために敵が用いる一番の戦略は、創り主の私たちへの愛とまことを疑わせることであるように思われます。

アハズ王は大きな決断をせねばなりませんでしたが、それと同じように私たちも毎日 難しい決断をせねばなりません。私たちは、神が御約束通り私たちと共におられ守ってくださると信頼するでしょうか、それともその状況から自分の力で抜け出そうともがくのでしょうか?

 

突然、神は考えられないようなことをされました。主はアハズにしるしを求めるようにと命令(そう、命令です。これがこの言葉の意味です。)されました。神が与えようとされたしるしは、そのしるしを見て王が力づけられ信仰が強まるものでした。神は王に確かなしるしを与えるから、それを求めなさいと言われたのです。 王は、よみの深みや天の高いところでしるしを求めることを命令されたのです。彼がそれをどこかで見つけ出すならば、そのしるしは神の全能の力、愛、真実を王に確信させるものとなったのです。(イザヤ7:11参照)

アハズは弱い王であり、自分の肉の弱さに葛藤する罪人でした、、丁度あなたや私と同じようにです。それにも拘わらず、神は驚くべき愛で、主の約束が成立するために必要なものを受け取るようにと、貴い招きをしてくださったのです。悲しむべきことに、神の最高に恵み深いこの申し出を、アハズは受けとらなかったのです。

 

私が驚くのは、アハズという名が「掴んだ、所有した、所有する者」という意味を持っていることです。それなのに彼は、神が彼に差し出しているもの、即ち神の真実さを彼に確信させるもの、に手を伸ばして掴もうとはしなかったのです。

しかしそれでもなお神は私たちに、しるしを与えてくださったのです。神は「与えるお方」であり、私たちにインマヌエルを与えてくださいました。一人の処女がみごもり、神の民を罪から救うためにイエスが生まれました。これこそ、私たちが一日も欠かさず毎日見ることができるしるしであり、 あらゆる状況の中で必要な希望と力を私たちは受け取ることができるというしるしなのです。 ハレルヤ!

 

イエスと同じように

神が私たちと共に住んでおられるのは全くすごいことです。しかし、 インマヌエルなる主は、更に驚くべきことを示されました。 「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためです。その方は真理の御霊です。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。そのかたはあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」(ヨハネ14:16—17)

 

主は更にヨハネ17:22で、主が地上におられるとき、御父が主の中におられ、主が御父の中におられたように、今日私たちも 同じ関係を持つことが出来る、と言っておられます。「またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。」

 

この驚くべき言葉をイエスが言われたのは、主が十字架へと向かう備えをしておられる時でした。弟子たちはいまや「インマヌエル 受肉した神が共におられる」を、まさに失おうとしていました。しかし、主は御父のところに行こうとしておられたのであり、それによって弟子たちは(そして、私たちも)かつて人に与えられたことのないものを得ようとしていたのです。それは「神が私たちの内におられる」ということであり、それこそイエスが持っておられたものなのです。

 

愛する皆さん、イエスが私たちに与えようとしておられることは、神とのユニティー、一つとなることであり、「受肉の神が私たちと共におられること(インマヌエル)」では達成できなかったことです。今日私たちが所有できる約束とは、 イエスが持っていたのと全く同じように、神を私たちの内に持つことが出来るということなのです。私たちは、イエスと全く同じように、神の中に生き、動き、存在することができるのです。イエスが持っておられたのと全く同じ親密さ、 祈りの力、 霊的洞察力を持つことができるのです。

この事実は私には偉大すぎて、理解できないほどです。でも私は必死で「インマヌエルなるお方」が下さったものを掴み所有したと思います。私たちは(人間としての)イエスが生涯でされた御業を見るとき、 人間にすぎない私たちには到底無理なことだと考えがちです。「主が水をぶどう酒に変えるのは当然です、主は神の御子ですから。主が愛し難い人を愛し、病人を癒し、水の上を歩くのは当然です、主は受肉され私たちと共に住む神なのですから。」と考えるのです。このようなメンタリティーのために、多くのクリスチャンは、今日彼らに差し出されているものを十分に所有していないのです。

 

ピリピ2章で聖書は、「イエスは神のあり方を捨てることができないとは考えないで、受肉され、私たちと共に住まれた神『インマヌエル』となられたときに、ご自分を無にされた。」と教えています。主イエスは、神の御子としての特別の特権を、今日私たちに与えておられるものの他に何か持っておられたのではありません。主自らが言っておられるように、主はご自分の力では何もされませんでした。すべての業はご自分の内におられる御父がされるのだ、と言われました。「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分の業をしておられるのです。」(ヨハネ14:10)

愛する皆さん、神がイエスと共におられたように、神は私たちと共におられるのです、、全く同じようにです。

 

嵐のただ中で

マタイ8:23—26で嵐が起こったとき、弟子たちには同じ舟に乗っておられる「インマヌエル、神が彼らと共におられる」がいました。大波が襲い、舟に水が入ってきました。彼らは経験をつんだ漁師であったことを思い出してください。嵐の海をどのように乗り越えればよいのか、知っている人たちでした。それにも拘わらず、自分たちの力ではコントロールできない嵐のただ中で、彼らはイエスのところに来て「主よ、助けてください。私たちはおぼれそうです。」(マタイ8:25)と告げたのです。これは私たちすべてに起こることであり、 プレッシャーが大きくなった時に同じように感じたことがあなたにもあると思います。

一方、イエスは嵐に対して全く違うやり方で接しました。 主と御父は一つであったので、主は嵐の中でも眠っていたのです。弟子たちは主を起さねばなりませんでした。愛する皆さん、あなたはどう思われますか。 もし私が嵐に直面したならば、主が嵐のただ中で持っておられたような平安を私も持ちたいと切に願います! 実際、波をしかりつけて波がおさまるのを見たいと思いますし、イエスがしたように、嵐に襲われたときにも周りで起こっていることに影響されないで、波の上を歩きたいとさえ思います。

インマヌエルは私たちに「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」(ヨハネ14:12)と言われました。

神は本当に私たちに しるしをくださいました。「処女がみごもっている。男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」というしるしです。そして「インマヌエル」が私たちと共にいたとき、 聖霊をおくってくださると約束してくださいました。それは聖霊が主の中におられたのと同じように、私たちの中にも住まわれるようになるためです。このクリスマスに、またこれからもずっと、私はこの約束をしっかりと掴みたいと思います。アーメン(おわり)


18 12月

神殿の建設地 フランシス・フランジペン      2011年12月18日


神殿の建設地

フランシス・フランジペン

 

主の家(教会)を建てるとは、私たちが必要な時に助けてもらうところを作る(見つける)というだけではなく、もっと重要な意味があります。神から最高のものを受けるためには、代価を払う必要があります。主から最高のものを受けたいと望むならば、 自分が一番愛するものを主にささげねばならないのです。

 

2つの神殿

聖書には2つのタイプの神殿のことが書かれています。一つはイスラエルに建てられた石の神殿であり、もう一つは生きたからだで造られるもの、即ち教会です。 第一神殿(ソロモンの神殿)は、神があらかじめ定められた場所に建てられました。 主が石の神殿建設の地を注意深く選ばれたように、 私たちを生きた主の神殿にするために、私たちのこころの地形を主は調べておられます。

 

神殿建設地が定められるために、2つの重要な出来事が用いられました。2つの出来事は長い年月を隔てて起こりましたが、その二つには私たち自身が見習うべき大切なポイントが含まれています。最初の出来事はアブラハムの人生の中に見ることができます。

 

主がアブラハムに息子イサクを与えたので、彼の霊的願いは成就されました。しかし、やがて神への愛と神によって与えられたものへの愛とのどちらかを選択せねばならない時がやってきました。主はアブラハムに息子をつれてモリヤの地に行くように命じました。そこでアブラハムは神が選ばれる山でイサクをささげるように言われたのでした。

 

「三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。それでアブラハムは若い者たちに、『あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻ってくる。』と言った。」(創世記22:4−5)アブラハムの「私と子どもはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻ってくる。」という最後の言葉に目を留めてください。ここに礼拝をささげる中での信仰の完成を私たちは見ます。アブラハムは信仰によって 二人とも戻ってくることを知りましたが、彼が山にむかって上って行くことができたのは彼の礼拝の態度でした。この物語はよく知られています。 主のみ使いがナイフを手にもったアブラハムを止めて、イサクの命は助けられました。しかしながら、ご自分のしもべからこのような従順を要求されるのは、神の計画であり、目的であったのです。アブラハムの神への愛は試みられ、真実であることが証しされました。

 

それと同じように、主の家の一部となるために私たちがまず持つべき心構えは、礼拝するこころです。私たちは 自分が最も愛するものを神に喜んでささげねばなりません。もし牧師であるならば、それは自分のミニストリーや教会に関する個人的な夢を、主に明け渡すことかもしれません。もしとりなし手であるならば、ローカルな祈りのグループでのリーダー役を手放し、人々が更に大きなキリストのからだの中に組み入れられるようにすることかもしれません。

 

すべての人は死ぬときは究極的にすべてのものを神に明け渡すのです。キリストの家を建てるために召されている者たちは、彼らが最も愛するものや成就させたいと願っていることを、全能の主に明け渡すことによってそれを成し遂げます。それは肉的な死と似ています 。人間的にそれを取り戻す希望は捨て去り、神にのみ依り頼むのです。 アブラハムは彼が一番愛するもの、イサク(彼はアブラハムの霊的成就の具現でした)を神にささげました。彼は自分の持つ夢のすべてを、自らの手で築いた祭壇の上に置いたのでした。

 

アブラハムは、全能の神にとって死はなんの妨げにもならないことを知り、神が約束を成就してくださると、こころから信頼(することに)したのです。同じように、主の家を建てるために主が用いられるのは、自分の一番愛するものを神に喜んで明け渡す人々です。主にすべてを明け渡して主を礼拝する人々のこころの中に、主はご自分の家を建てられるのです。

 

 

全額を支払う

霊的な神殿の「DNA 遺伝子」を示す第二の出来事は、ダビデ王の人生に起こりました。彼はエルサレムを見下ろす山の上に立っていました。彼の罪により、主の裁きが国に下りました。主はダビデの悔い改めを受け入れ、オルナンの打ち場に主のための祭壇を築くように言われました。オルナンは全焼のいけにえのために自分の牛やたきぎをただでダビデに差し出しましたが、ダビデはそれを受け取りませんでした。そして「私に打ち場の地所を下さい。そこに主のための祭壇を建てたいのです。十分な金額で、それを私に売って下さい。神罰が民に及ばないようにするためです.....私はどうしても、十分な金額を払って買いたいのです。あなたのものを主にささげるわけにはいきません。費用もかけずに全焼のいけにえをささげたくないのです。」(第一歴代誌21:22—24)と言いました。ダビデの態度はまさに神が私たちに求めておられる心構えの良い模範です。

 

私たちが「ありのままで」キリストのもとに来て救われるのはよいのですが、救われた後に主の神殿として建て上げられるためには代価を払わねばならないのです。私たちが神に仕えるのであれば、全心と代価全額(full heart and full price)をもって仕えようではありませんか。

 

ここで更に、オルナンがユダヤ人ではなくエブス人であったことを考えてみましょう。先の戦いでオルナンの民はその地からダビデによって追い出されました。しかしオルナンはその地に留まっていたのです。ダビデ王はオルナンの土地を戦勝品として取り上げることもできたにも拘わらず、全額を払って買い取ったのです。

 

愛する皆さん、ダビデの態度は、 アメリカの典型的なキリスト教と全く正反対です。私たちの多くは、近道を探したり、ヴィジョンも献身もないままでうろうろしています。神への近道を探すことは止めましょう。 他人のものを主にささげるのも止めましょう。むしろ全額を支払おうではありませんか。

ダビデが祭壇を築き、神殿を建てると定めたのは、まさにこの打ち場でした。

 

深い洞察

時がすぎ、ダビデは他の人々と同じように死にました。ダビデの神殿のヴィジョンを完成したのは息子のソロモンでした。神殿の建設地について聖書が語っていることに耳を傾けてください。

 

「こうして、ソロモンは、主がその父ダビデにご自身を現された所、すなわちエルサレムのモリヤ山上で主の家の建設に取りかかった。彼はそのため、エブス人オルナンの打ち場にある、ダビデの指定した所に、場所を定めた。」(第二歴代誌3:1)

驚くべきことに、ダビデがそこに立ち、代価を払わずにいけにえをささげることを拒否した場所はモリヤ山であり、それは6世紀前にアブラハムがイサクを神にささげたのと同じ場所でした。

 

愛する皆さん、聖書は、キリストが地上に戻られる前に主の家の山は建てられ、すべての国々の人々がそこにやってくることを私たちに保証しています。(イザヤ2:2) 自分の最も愛するものを神の祭壇の上にささげる礼拝者として私たちが召されていることを、しっかりと受け止めようではありませんか。そうです、私たちの人生の中に、私たちの時代に、主の家が再建されるのを見るために、全額を支払おうではありませんか。

 

祈り:主イエスよ、あなたにすべてささげることを私は願います。代価を払わないいけにえや、借り物の贈り物をささげたことを、どうかお赦しください。主よ、私があなたのために何ができるかではなく、あなたが私をどのような者としてくださるかが、一番大切な問題であることを知っています。私のすべてをあなたに明け渡します。私の人生の材質があなたの家を建てる建材としてふさわしいものでありますように。私のイサクを祭壇に持っていくための信仰と礼拝のこころをどうかお与えください。イエスの御名によって祈ります。アーメン(終わり)

(“When the Many Are One”からの抜粋)

 


12 12月

2012年への聖霊の言葉「あかしの燭台」ジョン&ジョリーン・ハミル 2011年12月13日


2012年への聖霊の言葉「あかしの燭台」

 

ジョン&ジョリーン・ハミル

 

毎年9月11日頃、私と妻のジョリーンは新しい年に私たちのミニストリーが目標とすべき言葉を受けるために、主の御こころを求めます。2012年のために聖霊は 「 あかしの燭台」という言葉を私たちに語られました。

「 あかしの燭台 」とは、 地における神の契約の輝きです。神の愛は「火の炎、主のすさまじい炎(雅歌8:6参照)」です。聖書全体を通じて、燭台は度々ワーシップととりなしの象徴として用いられています。

つまり、神の燭台とは神の生きた炎を燃やすために召された器のことです。2012年が近づいている今、私たちは自分の燭台が主によってどのように評価されているかを知ることが大切です。私たちは主イエスを照らし出しているでしょうか、それとも自分自身をでしょうか?  神は私たちすべてを、イエスへの初めの愛に戻るようにと招いておられるのです。(黙示録2章参照)

 

ハヌカの祭り:あなたの宮を再び聖別し献納する

喜ぶべきことに、今多くの人々が心から神の御こころと契約とにアライン(一致し沿い従う)しはじめています。それこそ2011年から2012年に移るにあたって、私たちがまず第一にするべきことです。

今月後半に始まるユダヤの光の祭り(ハヌカ)は 、神がいかに私たちとの出会いを求めておられるかをいきいきと表しています。ハヌカは、敵によって意図的に汚された神殿を聖別して主に再び献納したことを祝う祭りです。神殿が敵によって汚されたとき、神殿の火も消されてしまいました。

神殿を再び献げるために、神の祭司たちは聖なる火を再び灯しましたが、油は一日分しかありませんでした。しかし奇跡がおこり、 新しい油が出来るまでの8日間、燭台は燃え続けたのです! ユダヤ人のメノーラと呼ばれる燭台が、光の祭りの一番大切なシンボルとなったのはその理由によります。

多くの学者が、マリヤは世の光である主イエスをハヌカの時に妊ったと考えています。あなたがこのシーズンにキリストとの契約を新たに結ぶとき、聖霊があなたを覆い、あなたを力づけ回復させる主の御ことばと御業が、あなたのうちにどのように妊るかを見守っていてください。

 

ハヌカの奇跡—神によって点火されたろうそく

8年前に私とジョリーンが結婚した時、私たち自身がハヌカの奇跡を経験することができました。 結婚式はたまたまハヌカの祭り(8日間)の最初の日にあたっていました。そこで私たちは式の中に燭台、メノーラを取り入れることにしました。式が始まり、私たちはメノーラのろうそくに火を灯しましたが、真ん中の一番大きなろうそくは「私たちが一つになるユニティーのろうそく」として後で点火するためにそのままにしておきました。

私たちが主にワーシップを捧げ、主の栄光を下してくださいとまさに祈っていたとき 、私のベストマンであったウィル・フォードが 涙を流して私の方に身を寄せ、メノーラの方を指差しました。不思議なことにユニティーのろうそくはひとりでに灯っていたのです!

すべての人が見ている前で、神は私たちの燭台の中央のろうそくを、ハヌカの祭りの最初の日に、私たちの結婚式の中で灯されたのです。私たちのミニストリーはLamplighter (火を灯す者)ministriesという名前なので、この出来事の深い意味を今でも繰り返し私たちは思い巡らしています。

 

燭台を整え、 再び火を灯す

しかし最初から私たちに分かっていたことは、ハヌカの奇跡は私たちのためだけではないということです。長年祈り続けてきましたが、今この言葉を公に( 即ち、このことばと体験はすべての人が受け取ることができるということです)解き放つ時が来たと私たちは感じています。個人にも、また地域にも、神は「わたしはあなたの燭台を整え、 再び火を灯す!」と言われています。

もしかしてあなたは、敵があなたの主への情熱を真っ向から攻撃してきたように感じておられるかもしれません。あなたがコントロールできない状況や失敗、裏切り、又は明白な悪意によって、あなたの神殿は汚され、あなたの火は消されたようにあなたは感じているのです。

神は 新しい栄光のシーズンへとあなたを招いておられます。私たち夫婦のためにしてくださったことを、主はあなたのためにも必ずしてくださいます! 2012年が始まる前に時間をとり、 主への献身を新たに誓い、このプロセスへと進んでください。 聖餐式のパンとぶどう酒を用意してください。敵によって汚された部分を主に清くしてもらってください。あなたの燭台を整えて炎を燃やしてくださいと、主イエス・キリストに願ってください。

 

2011:契約を更新する年

聖書では「12」という数は、統治(政府)を表します。「御国の契約」がどのように「御国の統治」を解き放つかを理解することはとても重要です。

アメリカの国家的レベルでは、2011年は前例がないほどにイエス・キリストとの契約を再び整えた年でした。Reformation Prayer Network(RPN)とHeartland Apostolic Prayer Network(HAPN)のリーダーたちが、シンディー・ジェコブ師とジョン・ベネフィール師のリーダーシップのもと、今まで教会が犯してきた偶像礼拝の罪に対する悔い改めを、国内にある殆どすべての偶像の宮で宣言したのです。ホセア2章にあるパターンに従い、バールからの決別を乞い求め、それを獲得しました。そして この国と神との間の契約を更新してくださるようにと主に願いました。

そして私たちのこの働きは、7月4日(アメリカ独立記念日)にワシントンD.C.のリンカーン記念館の前の階段で「契約の宣言」を主に捧げたときに頂点に達しました。人々はアメリカ南部地方にある南北戦争の数々の戦場で祈りを捧げ、又アメリカ北部にある霊的覚醒が起こった霊の泉で祈ってから、最後に3つのチームがこの場所に集合したのでした。

私たちのとりなしの祈りの旅は、リック・リディング師の「Nutcracker Prophecy くるみ割りの預言」に基づくものでした。1998年に北部と南部から人々がワシントンD.C.に集り、互いに契約を結び祈った時リックは「悪魔の抵抗という堅い殻」を主が割っておられるヴィジョンを見ました。そして彼は主がこの「くるみ割りの預言」を 2011年に再び強調されているように感じたのでした。そして その御ことばを解き放つために祈りの旅を企画遂行するようにと聖霊が私たちに語られたのです。

 

しるし:記念碑にひびが入った!

私たちはこのヴィジョンに従い、 神が私たちの国と再び婚姻関係を結んでくださるように、また、北部と南部を聖霊によって覚醒し一致させてくださるようにとお願いしました。それに対する神の応答はエクサイティングなものでした。それは一月半後にワシントンD.C.で地震があり、まさに 偶像礼拝の中心となる記念碑(私たちが悔い改めた偶像礼拝の最大のシンボルであったもの)にひびが入ったのです!

これは神が本当に私たちの叫びを聞いて下さったしるしであると、私たちは感じました。主は堅い殻を割ってくださったのみならず、それよりもっと重要であるイエス・キリストと この国との契約の更新への私たちの嘆願に対して「YES」と答えてくださったのです。

 

2012年:あかしの燭台

前述のように、「あかしの燭台」とは、この地での主の契約を証しするものです。神の民が主のもとに立ち帰った時はいつも、契約が回復されたことの主からの証しとして天から火が下りました。ハヌカのように、これこそ神が2012年に計画されている「あかしの燭台」だと思います。

ダビデやエリヤの時代において、主との契約を国が再び結ぶことにより祝福が与えられると、神は 祭壇に新たに火を下されました。又、主がアブラハムと契約を結ばれたときには、煙の立つかまどと燃えるたいまつが主の約束の証しとなりました。

主イエスは「世の光」であり、「あかしの燭台」の極みです。 2011年のハヌカには、主がご自分のからだと血潮によって獲得された聖なる契約を世界へ証しするものとして、神の炎が更に輝きを増してこの世に放たれるでしょう。世界の国々は主が昇られる輝きに引き寄せられるのです! 多くの者たちが今年、目を覚ますでしょう。彼らは立ち上がり、自分の灯火を整え、花嫁なる主をお迎えするために出て行くのです!

 

目を覚まして輝く

今シーズン、聖霊がゼカリヤ4章に特別な光を当てておられるように私たちは感じています。この箇所はハヌカの奇跡(あかしの燭台に絶えることなく油が注がれる超自然的な出来事)の預言そのものです。この箇所を祈りをもって注意深く読まれるようにお勧めします。あなたの人生に奇跡が起こることを請求してください! この箇所は次のように始まっています。

「私と話していた御使いが戻って来て、私を呼びさましたので、私は眠りからさまされた人のようであった。彼は私に言った。『あなたは何を見ているのか。』そこで私は答えた。『私が見ますと、全体が金でできている一つの燭台があります....』」

すごいですね! まず超自然的な霊的覚醒の動きが解き放たれています。ゼカリヤは目を覚まし、御座の部屋の燭台のヴィジョンを見るのです。

前述のように、 燭台はしばしばワーシップととりなしの祈りを表します。霊的覚醒の動きが進んでいる今、私たちがこのヴィジョンを捉えることを神は望んでおられるのです。目を覚ましてあなたの燭台から輝きでている「世の光」なるお方をじっと見つめてください。主を仰いで礼拝してください!

 

休眠状態であった約束をとりもどす

この天使はすでに先のシーズンでゼカリヤに語ったことに目をとめてください。これはとても重要なことです。天使がゼカリヤを起したとき、眠る前に彼に託され休眠状態になっていた約束の種をも天使は目覚めさせ活性化させたのだと思います。なぜならばこのヴィジョンは、神がすべての約束を完成させたいと願っておられるという預言だからです。

ゼカリヤのヴィジョンはゼルバべルに対する預言でした。ゼルバべルは、ミニストリー及び社会における使徒的な統治を象徴しています。彼はバビロン捕囚後の神殿修復を担いました。 神が「新しい活躍、新しい資源、新しい正確さを今年は与えら」と主のゼルバベルたちに言われているのが私に聞こえます。

恵みあれ!修復の仕事を完成させよ!

使徒的見地からいうと、燭台の出現は、神が 修復の仕事を完成させるために新しい恵みを解き放っているというしるしです。新しい年、私たちが今までより大きな統治の権威を発揮するにあたり、祈りのムーブメントがその業を下から支え推し進めていく力となるでしょう。

最も理解すべき重要なこと:今シーズン、御座の部屋の恵みがあなたに与えられていて、神があなたに託したヴィジョンをその恵みによってあなたは完成させることができます。あなたの人生で神が揺り起こし活性化している約束が何であるかを示してくださるように、主に願ってください。主があなたをおおってくださるように、主がその約束の上をおおい完成させてくださるように願ってください。そしてその約束が目の前を通るなら、その後について人生の冒険の旅に出かける備えをしてください。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と万軍の主が言われます!(終わり)

Jon and Jolene Hamill
Lamplighter Ministries

Email: admin@lamplighterministries.net


06 12月

啓示による収穫のための七つの鍵  チャック・ピアース     12月7日2011年


啓示による収穫のための七つの鍵

2011年11月9日付けのニュースレター

 

チャック・ピアース

 

今私たちは極めて重大なシフトの時に立たされていることを、「キリストのからだ」が理解することは、非常に大切だと私は思います。もし私たちが霊的にシフトし、神の御霊が今日私たちのために備えてくださっている啓示による鍵を掴むならば、私たちは勝利をもってこのシーズンの中を前進して行けるでしょう。

以下が前進するための7つの鍵です。

 

1.新しい管理体制のもとでの一致した動き! 夢を見よ!

キリストのからだとして私たちは、新しいヴィジョンのシーズンに入りました。新しいヴィジョンは新しい管理体制を必要とします。私たちは将来的にどのように聖霊の働きを「助け、共に働く」のでしょうしょうか。私たちのGlory of Zion International 及びGlobal Spheres Centerは、今多くの変革を経験しています。 私たちが新しいオフィスに移る前に、私たちが変わることを主が願っておられることがあるのを、私は感じました。

 

私は昨夜一つの夢を見ました。夢の中で、私たちの学校の管理者として働いているローズ・フリーガーさんと私は、シンクロナイズド・スイミングを習っていました。それは新しくて複雑な動きでした。私たちのチームには5人いて、インストラクターは次のシーズンの模範演技で私たちがどのように動けばいいのかを教えていました。ローズさんは新しい動きは習いたくないと決めました。彼女がそう決めたとたん、プールは下水汚物で一杯になってしまいました。主は何を言われているのでしょうか?それは「主が教えようとしていることを拒んではならない、さもないとあなたが今まで泳いでいた生ける水は下水になる」ということです。

 

2.奇跡が起こる環境を創る!

主は、奇跡が起こる環境を創るようにと私たちに願われていると信じます。それはどう言うことでしょうか? 大抵の人は、困難な状況に置かれると、困惑し神に奇跡を願いますが、願ったような結果を見ることはできません。私たちはGlory of Zionで今奇跡が起こり始めるのを見ています。今までも私は奇跡が起こるのを見てきましたが、今は新しい(一段)高いレベルに入りつつあることを信じます。私たちは奇跡のための環境を創っているのです。キリストのからだは、癒しを求めていくだけではなく、奇跡が解き放たれるように強く求めねばなりません!キリストのからだの中で 、新しい方法で奇跡の賜物が活性化されるシーズンに私たちは入ったのです。主に「奇跡とは何ですか?」と訊ねてください。信仰が活性化されるのを私たちは見なければなりません! イッサカルの油注ぎと奇跡は相共に働くのです! ワーシップとプレイズは私たちを奇跡へと導くのです!マシャカ(Mashach 奇跡の油注ぎ)は今ここにあるのです! 栄光がその場所にあればあるほど奇跡を孕むのです。ナザレで奇跡が活性化されず起こらなかったのは、これが問題だったのです! ナザレ症候群を打ち破って奇跡へと進もうではありませんか!

 

3.宗教の霊を克服する

今は宗教の霊に打ち勝つシーズンです。宗教の霊とは何であり、どのように働くのでしょうか? それは歴史を通して教会の発展を懸命に止めようとして来た惑わしの勢力です。宗教は、もし私たちがその文字通りの意味(神に関する”divine”なことだけを考慮する)に留まるならば悪いものではありません。「宗教 religion」という言葉は、聖書の中では3つの意味で使われています。即ち「目に見える宗教的奉仕」「全面的に神に依存する心」「道徳、律法を遵守する神の組織、機関」の3つです。

 

ヤコブ1:26—27では、宗教をクリスチャンの視点から定義しています:「自分は宗教に熱心(religious)と思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。」

宗教は礼拝と関連しています。宗教は、それがきよいときには強い力を持ちます。しかし宗教は又、「 認可された一定の行動形式pattern of behavior.をもって組織化された教義のシステム」とも定義されます。そしてその行動はその教義にふさわしい礼拝形式で行なうことを強いられます。この点において私たちは、きよく汚れのない宗教から、単なる儀式へと移行してしまうのです。「教義の悪霊」Demons of doctrinesは、きよくあるべきものを暗闇の霊的な力に変え、聖なる神を礼拝する人々の自由を奪い、人々にただ規則と規律を与えるだけになってしまいます。

 

私はこれまで常に創造的にものごとを考え、礼拝を心からからだで表わす礼拝者になろうとして来ました。キリストのからだの中で私は、 神の心と思いを表す現代の預言者として知られて来ました。私は、神の賜物に抵抗する宗教の様々な霊をつねに追い出すようにして来ました。悪霊たちは、私たちが神から啓示をうけることを憎みます。悪霊たちは、キリストのからだの中で人々に自由に啓示をもたらす賜物(を持つ人)に対して抵抗するのです。宗教は、使徒や預言者の啓示を石打ちで殺そうとします。なぜならば、啓示の言葉こそがこの時代の教会の中に神の土台を打ち立てるものだからです。第一コリント12:28は、教会がこの世で勝利するための統率の賜物の順序を明らかにしています。即ち「第一に使徒、次に預言者」です。宗教の霊はこの神の秩序を拒もうとしているのです。

 

又、宗教の霊は変化を嫌い否もうとします! その結果、人々は型にはめられて同じことを繰り返すだけになり、 今日彼らを勝利に導くことが出来る方法へと移行する気持ちを持たせないようにします。肉的な思いは神に逆らいます。ですから宗教の霊は将来への戦略を阻もうとします。 私たちは、神の御霊が地上に変革をもたらすのを、自分たちの思いと思考過程で助けることができるのです。

 

主イエスの弟子たちは、「主とはどんな方であるのか」「自分たちは何をすべきなのか」「自分の敵は誰であるのか」に関する啓示を受け取らねばなりませんでした。これは今日でも同じなのです。パリサイ人たちには、神の御子の聖なるご性質を否定するか、それとも神の御子の言うことに聞き従うか、二つの選択肢が与えられていました。彼らは自分たちの礼拝の仕方を変えることを阻む規則をそのまま遵守するか、それとも霊とまことをもって礼拝し始めるかのどちらかを選択せねばなりませんでした。彼らの多くは、自分の人生や、家族、 社会を変革できたであろう正しい選択をすることができませんでした。ですからマタイ16章でイエスは、当時の律法学者やパリサイ人から鍵をとりあげ、それを既成の宗教に挑戦して教会を正しい未来へと導こうとしていた将来のリーダーたちに与えたのでした。

 

4.歩兵の先を行く

アン・テイトさんが今朝私のところに来て次のことを話してくれました。:

「私が仕事に行くために服を着ていたとき、 駆けている馬のネックレスを着けるようにと主が言われたように感じました。エレミヤ12:5がすぐに頭に浮かびました。『あなたは徒歩の人たちと競争して走っても疲れるのに、どうして騎馬の人と競争できよう。あなたは平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの迷路のような危険な密林で過ごせよう。』」

 

敵が歩兵であった時と所から私たちはすでに過ぎていることを、主は私たちに告げておられるのです。 今の新しいシーズンの敵は今までの敵とは異なり、新しい戦法が私たちには要求されているのです。前のシーズンで私たちが戦った敵は、似通った組織と戦い方をしていました。 しかし今シーズンの敵は、飛んでいるような幻影を人に与えながら、実際には非常に堅固な力を持っているのです。疾走している馬はあたかも飛んでいるかのように見えます。彼らは人間よりも高い場所を占めているのです。

 

今シーズン私たちは、肉体的、物理的に克服できるような敵と戦ってはいないのです。 私たち人間は、物理的に馬と一緒に走ったり競争するのは不可能です。それと同じように、私たちが混乱の渦中に巻き込まれ、脅かされ打ち負かされそうな時に、 自分の道を正しく選び取ることは不可能です。今始まったシーズンにおいて私たちが勝利するためには、私たちの新しい領地を荒らす野獣どもを新しい上からの視点perspectiveから見ることによって、彼らに対する権威を獲得することを私たちは学ぶ必要があるのです。そうすれば彼らを捕らえて、神の目的のために降伏させることが出来るのです。

 

5.新しい大波が来る!あなたはその波にのれるか?

神の御霊の新しい波が来ます。この波は私たちが今まで見たものより大きなものです。キャロル・ボレンさんが次のことを話してくれました。:

「私とビル(夫)とがボートに乗っている夢を見ました。突然城壁のように大きな波が起こりました。ボートは波をまっすぐに上り始めました。ビルはボートから落ちないように何かにしがみ付きながら、この波の一番上まで上ったら、次に真っ逆さまに落下するに違いないと恐れていました。彼が私の方を見ると、私は座席に落ち着いて座り、回りで起こっているスリル満点の出来事を楽しんでいました。すると又突然に、私たちは静かな海の上に浮かんでいました。ビルが私を見たとき、私は 『あんなに怖がらなくてもよかったのに。 これは主がされていることだと私には分かっていたのよ。』と彼に言いました。」

神が言われていることはこうです。神の御霊の大波が来ると多くの人は恐れるでしょう。しかし主は「ボートの中にとどまり、次に来るわたしの御霊の波にのりなさい!」と言われているのです。

 

6.勝利への最後の一押し!

ブレークスルーが起こり、それから究極的な勝利があります! ダビデはペリシテ人を打ち負かしましたが、彼らは態勢を整えて再び彼に向かって攻めてき来たことを思い出してください。主は「これが新しい次の戦略だ。後ろから攻めよ! しかしバルサム樹の林の上から行進の音が聞こえるまで待て!」と言われました。ダビデはペリシテ人との長年の戦いの後に、 第二サムエル8章にあるように、メテル・ハアマを遂に奪い取ったのです。全面的に勝利するまで止まってはいけません!

私たちの多くは今まで敵地に攻め込み、占領し、約束のものを完全に受け取るために戦ってきました。神と神の民である私たちの義に反抗する不義の勢力に対して戦ってきました。今、私たちの敵を完全に征服し、彼らがもはや私たちに対して手を挙げないようにする時が来ました。これは民を極度に苦しませたミデアン人を滅ぼすときにギデオンがしたことです。

 

7.勝利する新たな力! 自分をなくさないでしっかりと立ちなさい!

新しい力が解き放たれています。キリストのからだは簡単には騙されなくなり、 敵を察知する新しい方法を学んでいます。私たちを型にはめようとするこの世の組織よりも更に大きな力を私たちは持っているのです。ハイディ・デハートさんが次の夢を話してくれました。:「夢の中で私はある会社で働いていました。 そして特定な会社の一つのプロジェクトの仕事をしていました。すると、その会社に関するプライベイトな情報が欲しいという手紙を受け取りました。その手紙をよく見ると偽物だとわかったので、その情報を送りませんでした。

 

その夜私は両親の家で寝ていました。それは両親の家のようには見えませんでしたが、そうだったのです。私は部屋に押し入ってきた二人の男性によって起こされました。一人はスナイパーのようなライフル銃を持っていました。もう一人は何も持っていませんでした。私の部屋の中で二人を見たとたんに、私は大声で両親に 『部屋に男がいる!』と叫びました。両親はやって来ましたが、ただそこに立っているだけでした。私は一人ではなくなったので、少し安全だと感じました。

武器を持たない方の男が私に話し始めました。彼は脅かすわけではなく、ただ、 私が今の仕事をするには私は 『保守的過ぎる』ことを納得させようとしました。彼は『保守的(古風)』という言葉を『クリスチャン』という意味で使っていました。会社のプライベイトなことを私が明かさないので、彼は妥協しない私を別の部署に移したかったのです。

 

私は彼に『でもここはアメリカですよ!信仰の自由は守られています!』と言いました。彼はくすくす笑って『あなたはそう思っているかもしれませんが、本当は違うんですよ。』と言いました。時々ライフルを持った男が緑色のレーザー光線で私を撃ちました。痛くはありませんでしたが、全身が麻痺してきて、私はうとうと眠ったり目を覚ましたりしていました。それは私を彼らに従わせるためのものだったと思います。

 

男が話している間、家の外でいろいろなことが起こっているのが分かりました。家々の芝生がめくられて、巨大なコンテナーが芝生に掘られた穴に入れられ、その上に又芝生が戻されて、朝には何もなかったように見えるのです。それは政府のものすごく大きな陰謀で、人々が眠っている間にすべてが行われ、朝には普通通りに見えるのです。

 

武器を持たない男は尚も私を説得しようとしましたが、私は承知しませんでした。私は、神の御国を内に持っている人々を説得するのは困難であろうことを彼に説明し始めました。

私は彼に言いました。『人の気持ちを変えるのは難しいと思います。その理由はこれです:神は天におられます。人間とサタンは地上にいます。神はイエスを地上に送られました。イエスは「インマヌエル、神我らと共にいます」と呼ばれました。』

突然、私の左手が磁石のように動き、てのひらが彼の左手に吸い付けられました。トライアングルが何度も打ち鳴らされるような音が聞こえ、私の中から力が出て、私の腕と手を通り彼の中に入っていきました。私はただ『ジーザス、ジーザス、ジーザス!』と叫んでいました。その時私は目を覚ましたのです。」

 

あなたの未来を開くために、これらの7つの鍵を使ってください!(終わり)

 

Chuck D. Pierce
Glory of Zion International Ministries