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Walk With God Ministries


27 03月

真のアイデンティティーを持って選択する グラハム・クック    2012年 3月28日


真のアイデンティティーを持って選択する (先週よりの続き)

グラハム・クック

 

「私はどのような者になりたいか」を把握することは、自分のアイデンティティーの問題です。 「私は何をしたいか」を知ることは自分のデスティニーに関わることです。両者は一つのコインの両面であり、切り離すことはできません。

 

そして両方とも、 熟考して決断することを前提とした意識的な「選択」を必要としています。選択すること(こそ)が力の根源です。その力の優劣のレベル(度合い)は選択の度合いによるのであって、決して自然にそうなるというものではありません。山の頂上までふらふらと漂いながら到達することは不可能です。 「単なる空想pipedreams」は実際に人生を生きる人(競技をする選手)のものではなく、人生をただ傍観しながら暮らす(見物人的生き方をする)観客のものです。真に夢を描くこととは、現時点で目的志向の生活を生み出し、その目的に到達するための数多くの選択(決意)をすることによって未来を掴み取ることです。

 

今私たちがはっきり選択(複数)することによって、自分のやることの優先順位が決まり、それが違った未来を保証します。このような選択をするときには常に(必ず)、自分のアイデンティティーとデスティニー、自制、情熱、それに力が関わってきます。

 

1974年に私は4つの預言を受け 、それが30年以上も私の人生を導いてくれました。そのうちの一つは「預言の賜物」に関するものでした。即ち、私は預言者の職を受けること、預言の学校を経営すること、預言に関して古典と言われるような一連の著作をすること、でした。

 

また、私が受け取るこの霊的賜物には、生と共に死も、友と共に敵も、祝福と共にのろいが伴うことが告げられました。 私は愛されると同時に憎まれ、称賛される一方でそしられ、受け入れられる中で退けられ、本物と言われ、又背教者と切り捨てられる、しかもこれらすべてがイエスの名においてなされると告げられました。

 

私の上にこの重荷が負わされたのは、21歳の時でした。当時はまだ預言を与えられることさえ無かったのです。37年後の今、これらの預言はすべて成就しています。私はミニストリーにおいて今も前進しており、それを証明する様々な傷あと、戦傷を持っています。

 

今までの道程の一歩一歩において、私は人生の旅路の選択をしてきました。当初私は、自分のアイデンティティーやデスティニーに基づく選択をするのに慣れていませんでした。それで私はいろいろな仕事を転々としながら、いつも最も抵抗の少ない道を選んでいました。私は何かが起こることを祈ってはいましたが、目標・目的を持ってはいませんでした。計画のないヴィジョンはただの空しい希望wishful thinkingにすぎません。私の決断のない優柔不断さは非常に高いものにつきました。私は目的を遂行するのに長い余分の年月を費やしてしまいました。やがて私を信じてくれていた人たちも私に厳しくなりました。しかし、主が私をどのように見ておられるかという視点から選択をし始めたとき、私は主の私に対する熱情(愛からの期待)に対して目が開かれていきました。

私が預言的になることに対して主は非常に情熱をいだいておられたのです。 主が私に対して持っておられた情熱と期待を私が(理解して)受け取り、それを自分のものとしてしっかり胸にいだいたときに 、転機がやってきました。

 

私のアイデンティティーに対する主の視点を私が選び取り、やがてそれを自分のものとしたことが数えきれないほどありました。 主が私のために創ろうと願われた結末を私が選択したので、 主の御名によって私がすることが私のデスティニーとなりました。主が選ばれた道を辿るためには、 その道から外れないために断念せねばならない選択も多々ありました。勿論、私の回りの人々もそれぞれの決断をしていて自分の決断が回りの人と何の関係もなく出来るわけではありません。(従って)自分のした選択を人々から批判され、攻撃されたときに出来ることは、受けた傷を戦利品として、それを悲しみや喜びと共に身につけることです。

 

私は預言の賜物をものすごい勢いで学び、耳を傾け、練習し、追求する道を選択しました。その決断は、私がどのような者であるのか、私が何を達成するために召されているのかをはっきりとさせました。アイデンティティーとデスティニーは、このような結果の結実です。

 

それからの私は持っていないお金を使いました。人が眠っている時間を私は寝ないで用いました。行くべき所に行くお金は必ず与えられると信じて何万マイルも旅をしました。土地や家を何回も買うことができるほどのお金を人々に与えてきました。どうか、あなたが行きたいところに種を蒔いてください。

 

「自分はどのような者になりたいか、そして何をしたいか」を確信するならば、神があなたのために創られている結末にそった選択をしていかねばなりません。あなたが望む人生を神からの贈り物として喜んでしっかり受け取ってください。そうすればあなたは主の情熱を受け取り、あなたが 犠牲を払わねばならないときにそれが力を与えてくれるでしょう。

 

あなたは自分自身で考えねばなりません。それを効果的にするためには、キリストの内にあって自分自身が何者であるのかを理解せねばなりません。(主から与えられた)自分自身の人生の意義と目的を理解していないならば、あなたは長い目で見た自分の将来に対する考えを持つことは出来ません。あなたが考えたことをまず紙の上に書いてください。そしてそれ見て祈り、熟考し、計画を立てていかねばなりません。

人生は決して偶然起こるのではなく、計画されるものです。(終り)


20 03月

選びとる(選ぶ)ことは力である    グラハム クック      2012年3月21日


選びとる(選ぶ)ことは力である

 

グラハム クック

 

私たちが向き合わねばならぬ最も不快な真理の一つは、私たちが何かを「選択すること」、または「選択しないこと」が、 人生の上に非常に重大な影響を与えるという事実です。

 

「選択」はつねに力と関連しています。正しい選択をしなかったとき、又は自分が持っている選択権を使わなかったときは、その力を誰かに(何かに)譲ってしまうことになり、その結果、自分は弱く無能であると私たちは感じるのです。正しい決断をするならば、私たちに更に次の段階の様々な選択肢を与えてくれます。人生に選択は不可避です。ですから、それを生活の一部として楽しもうではありませんか。

 

私たちが毎日 主を崇め礼拝しつつ生きるとき、「選択」がその礼拝の最も重要なポイントの一つだとしたらどうでしょうか? それは、初めから終りを見ることができ、何億という決断を毎日することがお出来になる創造者の御前に私たちは進み出ることです。それはまた、 ご自分の民の一人ひとりの目をじっと見て、「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っている。それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるものだ。(エレミヤ29:11)」と断言されるほどに、正しい選択をすることに確信を持っておられる主と共に喜びながら選択をし生活していくことです。

 

主は選択することを愛されます。ですから私たちも選択することを愛することが出来るはずではないでしょうか? 主は必ずすべてのことを相働かせて益(good)としてくださるのです。聖霊と共に歩むとは、日常の生活の中で私たちが善(good)となり、善(good)をなす力を受けることです。もし私たちが主と似た者になるべきであるならば、どんな状況にあっても、主のような楽しい気持ちで主がされるような最高の選択をしていかねばなりません。

 

選択はつねに力が介入するものであり、私たちは毎日、朝、昼、夜、その力を受けねばなりません。私たちは今までにしてきた選択の 力、徳、によって今日という日を生きています。それらの選択のうちのあるものは簡単でしたが、あるものは難しく、又あるものは自然にひとりでに選択されていたようなものもありました。生死に関わるような非常に厳しい選択の時には、 自分の命を吸い取られるほどの代価をまず払わなければならないようなものもありました。

 

選択によって人生がうまく行ったり損なわれたりします。私たちがどのような者になるか、どのように生きるかということの非常に大きな支配力を「選択」は持っています。自分の選択の結果として 、私たちはある場面における実権を握ることもできるし、或いは成功する権威を剥奪されてしまうかもしれません。力のある者になるのか、力のない者になるのかは、自分のアイデンティティーの選択によって決まります。御国には被害者、犠牲者はいません。いるのはこの世の中だけです。私たちを支配するものは誰もいません。そして、あるお方が私たちを影響力を持つ者にしたいと思っておられるのです。

 

私たちは毎日、大小の選択をしています。どこに住むか、何を食べるか、何を着るか、何を買うか、家で食べるか、外食するか等は小さな決断であり、取るに足らないことのように思えますが、いろいろなことと関連し影響を与えるかもしれません。

 

平和、信頼、愛、笑い、優しさ、冷静、喜び、あわれみ、勇気を選び取ることは、私たちの内にある「力を生み出す領域」へと私たちを導いてくれます。そこはイエスの似姿が顕れてくる最初の場所です。その影響力は非常にパワフルです。

 

その反対に、怒り、恐れ、心配、苦み、恨みを選ぶことは、私たちの旅路を後戻りさせます。又、自分自身の選択や、自分に敵対して誰かがした選択の影響を感情的に克服することができないまま、そこから進めなくなってしまいます。

 

時として私たちは、他人の罪を責めてしまう選択をしますが、それは実際には彼らの視点に同意する(認めてしまう)ことによって、彼らに(神と共にある)自分の力を譲渡してしまうことなのです。私たちが自分の人生の決定権を譲渡してしまうと、 状況をコントロールする力を捨てることになります。御霊の実の一つは自制です。

 

自分の思いをイエスの御前でとりこにすることは、自制の始めです。穏やかで喜ばしく安らかな選択を主との日常の親密な関係の一部としてすることは、自制が常に追求するべき目標です。

 

自制することが私たちが考えるよりも簡単だったらどうでしょうか? 私たちが思うより選択がそれほど難しくなかったとしたらどうでしょうか? 神の慈しみによるチャレンジが、すべての決断がなされる所だったらどうでしょうか?

 

私たちはキリストの似姿に変えられています。私たちが主との交わりを選ぶ時、主はその決断に力を与えてくださり、その状況と私たちがキリストに似るように創られることの両方が成就するために、主ご自身が責任を取ってくださるのです。

 

キリストが中におられるので、私たちは賢明な選択ができるのです。また、それを喜んで穏やかにすることができます。最早自分の力を他人に与えてしまうのを止めるときです。それは神が私たちに下さったものですから、私たちの主との交わりの一部です。(終り)


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09 03月

神の予知に従って選ばれる ウエイド・テイラー    2012年3月10日


神の予知に従って選ばれる

ウエイド・テイラー

 

 

父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ....第一ペテロ1:2

「従うように..選ばれた人々」:私たちが選ばれるのは、 私たちの内に霊的可能性があると主が見られる結果です。神は「予知」によって 、主に喜んで従い、従順に応答する者たちをすでに知っておられます。

もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。イザヤ1:19

自分の奥深くに隠されている能力を実現させるだけのキャパシティーと堅忍力があると、主が「 予知」によって見られる者たちを、主は選ばれるのです。

主は今も大いに働いておられます。主に対する純粋な思いを持ち、 あらゆるプレッシャーや人生のあらゆる状況下の問題に打ち勝つことを喜んで「選ぶ」者たちを、主は今調えておられます。私たちに必要なのは、揺るぎない霊と従順な心です。

 

パロの戦車の馬

 

天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりにはニタラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。マタイ25:14−15

 

「予知」により、主は私たちが生まれる前から私たちが(おのおのその能力にしたがって)する選択を知っておられました。ですから主は、私たちに対する御心と目的に私たちが向かっていくように、静かに導かれるのです。

わが愛する者よ。私はあなたをパロの戦車の雌馬になぞらえよう。雅歌1:9

 

この箇所は 正しく理解するならば、非常にパワフルで意味深い賛辞となるのです。パロは当時世界で一番偉大な支配者でした。彼の使者たちは当時知られていた世界全域に遣わされて、まだ未成熟で「可能性を持つ」子馬を捜し求めたのです。それらの子馬の中からパロの戦車を引かせるための馬が、激しい訓練としつけを受けて調えられました。

そして、特別の機会には、それら注意深く選ばれた馬たちはパロの戦車に繋がれて、地上の美、力、調和をあらわす華麗なる姿で戦車を引いて行き、 堂々とした 栄光の パロの姿を民衆の前に示したのです。

 

それと同じように、主も又、王の王なる方の戦車に繋がれる可能性を持つと主が(予知によって)見る者たちを、今調えておられるのです。彼らは天の美しさ、力、調和を輝かしく映し出し、「その日」 堂々とした栄光の主の姿を世界の国々の前に表すのです。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。使徒行伝1:8

ここでいう「証人」とは、「私たちがしていること(what we are doing)」ではなく、「そのようになった者(what we have become)」であることに注目してください。

 

わたしの「選び」

 

招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。マタイ22:14

 

1944年に、私はジョージア州サヴァナの西にあった陸軍のキャンプにいたのですが、ある日、そこにあった小さなチャペルに入っていきました。他に誰もいないことを確かめてから、私はひざまずいて祈りました。「神様、この戦争で私が死なないようにしてくださったら、軍隊を出たときにはミニストリーをします。」と。

 

この出来事は深く私に影響を与えました。私はこのような事を言うつもりはなかったのですが、チャペルを出たとき、私は何かものすごいことが起こったように感じたのです。私はニュースを聞くためにPX(軍の物品販売店)に走って行きました。というのは、もしかしてヒットラーが降伏したかもしれないと思ったからです。でもその時は何も変ったニュースはないのを知って私はがっかりしました。

 

その時の私には、非常に重要な何かが確かに起こったことを理解する力はありませんでした。私は主に自分の人生を明け渡し、主がそれに答えられたのです。「予知」によって主は、私の人生が主に捧げられ、この文章が何年もあとになって書かれるのを知っておられたのです。

 

チャペルでひとりで祈っていたとき、ひとつの「選び」が行われ、その日から私の人生は私が気づかないうちに主によって変えられ導かれていったのです。主の私に対するご計画と目的を邪魔したり妨げたりする状況や物事も、主によって道が開かれたり、変えられたりして行きました。

「予知」によって主は、私が主を選び正しく応答することをみられたので、それによって私の人生に対する主の「選び」は確立されました。

 

主は私のこころの意図(すべて願うこと、そうなりたい姿)を知っておられます。そして、私たちがそれよりも高いレベルの主の御目的のためにそれを明け渡すかどうかを知っておられるのです。主の「選び」は主によって決められる一方的な選択ではなく、むしろそれは、主が私たちの人生の終りを始めから見ておられるという事の結果です。主はアルファでありオメガです。

 

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子をあわせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。ローマ12:1−2

私たちに要求されることは沢山あります。そして主は私たちが正しく応答するかどうかを知っておられるのです。

 

「あなたは忘れたがわたしは忘れなかった」

勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。黙示録3:21

私たちにとって「勝利する」とは、主に正しく応答し、私たちが主と共に歩くことを妨げるすべてのものを「越える」ことを意味しています。

今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界がわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」モーセは行って、民の長老たちを呼び寄せ、主が命じられたこれらのことばをみな、彼らの前に述べた。すると民はみな口をそろえて答えた。「私たちは主が仰せられたことを、みな行ないます。」それで、モーセは民のことばを主に持って帰った。出エジプト19:5−8

 

民の意図は良かったのですが、彼らは自分たちが言ったようには行動しませんでした。よい意図だけでは十分ではありません。私は主に「もし主が私の命を守ってくださるならば主に仕えます。」と申し上げました。私は1945年の秋に陸軍から解任されました。それからの5年間、わたしは殆ど教会に行きませんでした。主との約束を全く忘れていたのです。

けれども、今日私は主に仕えています。それは私が忘れていたことを主は覚えておられたからです。主の予知と選びがないならば、私は今のような主との関係は持つことはできなかったのです。

 

私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。エペソ2:10

 

その時から私は「神の作品」となり、主は私の人生の状況を深く取り扱うのに非常に忙しくなられました。私は大変儲かるビジネスの経営者となっていたのですが、人生にはもっと何かがあるのではないか、となぜか感じていたのです。私はそのビジネスを売り、人生を主に捧げ、聖書学校に行きたい、という思いに心が引き寄せられるのを感じ始めました。

主が私の内にこの願望を置かれたのです。それは「その時」になったならば、 主が私の人生に割り込み主の思い通りにされるのを私が許可することを、主は知っておられたからです。

 

私は軍隊にいたときに私がした主への約束を完全に忘れていました。しかし、 主が私の霊を引き寄せられたときに私は応答し、 主を人生の第一としました。ビジネルを売却した当日、主は私の記憶を呼び起し、「あなたは忘れたけれど、わたしは忘れなかった。」と言われました。私が軍のチャペルにいたあの日に、主は私が繁盛しているビジネスよりも主を選びとることを見ておられたのです。

私たちは一人ひとり、主がどのように自分の人生を捕らえられたか、どのように自分は主の「選び」によって現在のところに導かれたかという証しを持っているのです。

 

あなたの現在の霊的経験を越えたところに主が導かれることを、あなたが許可することによって、あなたの人生における主の「選び」が100%完成されますように祈ります。そしてあなたが王の王なる方の戦車に繋がれ、すべての膝がかがめられるときに人々の前に主をお連れすることができるようにと祈ります。(終り)

 

Wade E. Taylor
Wade Taylor Ministries

Email: wade@wadetaylor.org

 


03 03月

止まって、見て、聞きなさい! ボブ&ボニー・ジョーンズ 2012年3月4日


 

止まって、見て、聞きなさい!

ボブ&ボニー・ジョーンズ

 

教会への警告:私たちはキリストに焦点を合わせ続け、真理の御霊に導かれねばならない。私たちは教え(teaching)を追いかけるのではなく、教師(the Teacher キリスト)に焦点を合わせねばならない。

 

私はヴィジョンで、 小さな男の子がお父さんの手を離し、まわりをよく見ないで走って道路を横切っていくのを見ました。 向こう側に置いてあるものに興味をひかれて、それにむかって走り出したのです。 向こう側の道路わきには大きな机と 椅子が置いてあり、それは 粗大ゴミとして捨てられて回収されるのを待っているかのように見えました。

 

その男の子は幼くて未熟なので、空しい望みに目を奪われて、一番大切な物への焦点を失ったのでした。 私は、このヴィジョンが教会への警告であると感じました。私たちはキリストに焦点を当て続け、真理の御霊によって導かれねばなりません。

 

私たちは教え(teaching)のあとを追いかけてばかりいてはならないのです。私たちは教師(the Teacher キリスト)に焦点を当てねばなりません。私たちは、立ち止まり、見て、聞かねばなりません!子供たちが小さいとき、道路を横切るときにまず教えられるルールの一つは、「立ち止まり、見て、聞くこと」です。

この簡単な子供の歌を覚えれば、あなたにとってこれが一生のガイドになります。

「道を横切るときは、止まって、見て、聞くのですよ

最初に目、次に耳、それから最後に足を使いなさい」

 

ストップ!:神は私たちが自分の業をやめ、 主に安息して真理の御霊に導かれるように召されていると思います。私たちは自分の悟りに頼らず主により頼んで生きるようにと召されています。今まで私たちは、自分の魂によって動かされてしまい、聖霊と一つになった私たちの霊に よって動かされてはいませんでした。

 

見なさい!: 私たちは常に聖霊を見つめ続けることにより、聖霊がしておられることを注意深く識別せねばなりません。そうすることによって、私たちは正しい道にとどまることができ、期待して待つことによって、聖霊が言われることへの備えができます。

 

聞きなさい!: 私たちが自分の業から安息して、主を見つめるときに、聖霊が言われることを受け取る準備ができます。神の御声を聞くとき、私たちは愛によって動機づけられ、信仰と従順をもって出て行くことができます。

 

教えは大切です。私たちは聖書から教えられる必要があるからです。しかしキリストのからだは、聖書の教えを越えて生きる神との直接の経験へと進んでいかねばなりません。

 

私たちが自分の業を終えて主に委ね安息するときに始めてこのことが出来るようになります。私たちは主をじっと見つめ続けて、期待をもって主の指示を待たねばなりません。私たちは「私たちの肉に良く見えるもの」によって気を逸らされ混乱させられる余裕などないのです。

 

もし私たちが焦点を見失うならば、 視野に死角が出来てしまい盲点をつかれます。

ですから、私たちは、キリストについての初歩の教義とか教えをあとにして、霊的に成熟した者に属する霊的完成completeness and perfectionを目ざして着実に前進しようではありませんか。(宗教的形式的な)死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。ヘブル6:1、2

 

「学位Degree」が終り、「宣言Decree」が始まる!

今シーズン、私たちは神の息子、娘へと成長して行き、「古い方法がもたらす死」から「新しい命」へと移っていくのです。それは新しい出発です。それは 魂(soul)により支配されてきた私たちの人生が終息し、私たちの 霊の人が知性、意志、感情を支配し始めるのです。キリストのからだは学位(degree)に終りを告げ、新しい事を 宣言(decree)し始めるのです。

 

今までは魂(soul)が支配権を持っていたので、教会は学位を重視するメンタリティーで機能してきました。学位は、大学や神学校の課程を終了したときに与えられるものです。単純に言えば、肉や魂の業を称賛する称号です。それには知性の力はありますが、霊の力はありません。しかし今、キリストのからだは「宣言」へと進んでいるのです。

 

あなたが事を決めると(decide and decree)、それは成り、あなたの道の上には光が輝く。ヨブ22:28

 

宣言(decree)とは、法律的権限を持つ命令です。権威を持ってなされる決定です。真理の御霊が私たちを導くとき、私たちは聖霊の力と勢いを受け、主と一致して私たちが宣言する事は成就し、確立されます。

ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子ども(sons)です。(ロマ書8:12-14)(終り)

 

Bob and Bonnie Jones
The Prophetic Ministry of Bob and Bonnie Jones