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20 3月

選びとる(選ぶ)ことは力である    グラハム クック      2012年3月21日


選びとる(選ぶ)ことは力である

 

グラハム クック

 

私たちが向き合わねばならぬ最も不快な真理の一つは、私たちが何かを「選択すること」、または「選択しないこと」が、 人生の上に非常に重大な影響を与えるという事実です。

 

「選択」はつねに力と関連しています。正しい選択をしなかったとき、又は自分が持っている選択権を使わなかったときは、その力を誰かに(何かに)譲ってしまうことになり、その結果、自分は弱く無能であると私たちは感じるのです。正しい決断をするならば、私たちに更に次の段階の様々な選択肢を与えてくれます。人生に選択は不可避です。ですから、それを生活の一部として楽しもうではありませんか。

 

私たちが毎日 主を崇め礼拝しつつ生きるとき、「選択」がその礼拝の最も重要なポイントの一つだとしたらどうでしょうか? それは、初めから終りを見ることができ、何億という決断を毎日することがお出来になる創造者の御前に私たちは進み出ることです。それはまた、 ご自分の民の一人ひとりの目をじっと見て、「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っている。それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるものだ。(エレミヤ29:11)」と断言されるほどに、正しい選択をすることに確信を持っておられる主と共に喜びながら選択をし生活していくことです。

 

主は選択することを愛されます。ですから私たちも選択することを愛することが出来るはずではないでしょうか? 主は必ずすべてのことを相働かせて益(good)としてくださるのです。聖霊と共に歩むとは、日常の生活の中で私たちが善(good)となり、善(good)をなす力を受けることです。もし私たちが主と似た者になるべきであるならば、どんな状況にあっても、主のような楽しい気持ちで主がされるような最高の選択をしていかねばなりません。

 

選択はつねに力が介入するものであり、私たちは毎日、朝、昼、夜、その力を受けねばなりません。私たちは今までにしてきた選択の 力、徳、によって今日という日を生きています。それらの選択のうちのあるものは簡単でしたが、あるものは難しく、又あるものは自然にひとりでに選択されていたようなものもありました。生死に関わるような非常に厳しい選択の時には、 自分の命を吸い取られるほどの代価をまず払わなければならないようなものもありました。

 

選択によって人生がうまく行ったり損なわれたりします。私たちがどのような者になるか、どのように生きるかということの非常に大きな支配力を「選択」は持っています。自分の選択の結果として 、私たちはある場面における実権を握ることもできるし、或いは成功する権威を剥奪されてしまうかもしれません。力のある者になるのか、力のない者になるのかは、自分のアイデンティティーの選択によって決まります。御国には被害者、犠牲者はいません。いるのはこの世の中だけです。私たちを支配するものは誰もいません。そして、あるお方が私たちを影響力を持つ者にしたいと思っておられるのです。

 

私たちは毎日、大小の選択をしています。どこに住むか、何を食べるか、何を着るか、何を買うか、家で食べるか、外食するか等は小さな決断であり、取るに足らないことのように思えますが、いろいろなことと関連し影響を与えるかもしれません。

 

平和、信頼、愛、笑い、優しさ、冷静、喜び、あわれみ、勇気を選び取ることは、私たちの内にある「力を生み出す領域」へと私たちを導いてくれます。そこはイエスの似姿が顕れてくる最初の場所です。その影響力は非常にパワフルです。

 

その反対に、怒り、恐れ、心配、苦み、恨みを選ぶことは、私たちの旅路を後戻りさせます。又、自分自身の選択や、自分に敵対して誰かがした選択の影響を感情的に克服することができないまま、そこから進めなくなってしまいます。

 

時として私たちは、他人の罪を責めてしまう選択をしますが、それは実際には彼らの視点に同意する(認めてしまう)ことによって、彼らに(神と共にある)自分の力を譲渡してしまうことなのです。私たちが自分の人生の決定権を譲渡してしまうと、 状況をコントロールする力を捨てることになります。御霊の実の一つは自制です。

 

自分の思いをイエスの御前でとりこにすることは、自制の始めです。穏やかで喜ばしく安らかな選択を主との日常の親密な関係の一部としてすることは、自制が常に追求するべき目標です。

 

自制することが私たちが考えるよりも簡単だったらどうでしょうか? 私たちが思うより選択がそれほど難しくなかったとしたらどうでしょうか? 神の慈しみによるチャレンジが、すべての決断がなされる所だったらどうでしょうか?

 

私たちはキリストの似姿に変えられています。私たちが主との交わりを選ぶ時、主はその決断に力を与えてくださり、その状況と私たちがキリストに似るように創られることの両方が成就するために、主ご自身が責任を取ってくださるのです。

 

キリストが中におられるので、私たちは賢明な選択ができるのです。また、それを喜んで穏やかにすることができます。最早自分の力を他人に与えてしまうのを止めるときです。それは神が私たちに下さったものですから、私たちの主との交わりの一部です。(終り)


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