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30 12月

主にクリスチャンとしてのあなたの意志をいつも伝えなさい グラハム・クック         2013年12月30日


主にクリスチャンとしてのあなたの意志をいつも伝えなさい

 

グラハム・クック

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ピリピ2:12-16

「・・・恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。

 14 すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。15 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、2:16 いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」

 

あなたが持っているものの中で最も力のあるものの一つはあなたの意志です。あなたが霊的に生きるために、事を進めて行くのはあなたの意志であって、感情とか、マインド(魂の部分)とか信仰ではありません。神は私たちの内にいて志を立てさせ、事を行なわせます。(上記2:13)

あなたの意志は完全に感情とは切り離して存在すべきものです。聖書の中に出て来る偉大な神の人たちは皆、自分の「意志」をどのように使うかをよく知っている人たちです。その例を挙げれば、ナタナエルがそうです。(ヨハネ1:45-50参照)彼にあっては意志が感情より大きいことが分かります。神は私たちの内にいて志を立てさせ、事を行なわせて下さいますが、私たちは自分の感情を全く切り離して、完全に自由な意志を持つ必要があるのです。そしてあなたの意志が強くなれば、あなたの意志が感情を用います。例えば主を礼拝する感情を起こさせるのはあなたの意志です。重要なことは、その逆ではないと言うことです。

ところが、私たちは感情に支配されやすく、その気にならないとか、あるいはそのような気分(感情)でない時には、意志があっても、それを実行に移さないことがよくあります。気分がとても悪い時などは、その感情に全く支配されてしまいます。しかし、神が来られてあなたの意志を完全に自由にして下さると、自分の感情とかムードに左右されずに、私たちが信仰で神の御心を知り、それを行うことを選べるようにして下さいます。ですから、私たちは自分の意志を聖霊にどのように言い表すかを学ぶ必要があるのです。

そこで毎日の生活の中で、あなたは神の御心にそって自分がしたいと思うこと(クリスチャンとして常に持つべき意志)を自分の意志として聖霊にお伺いする(提案する)と、聖霊がそのあなたの意志を御心に添って、実際に事が運べるようにして下さいます。

聖霊に申し上げると、時には一瞬のうちに自分が捕らわれている感情を払拭して下さいます。「私は主をいつもほめたたえ祝福したい、いつも喜んでいたい、いつも感謝したい(そんな気持ちが全くしない時でも)」というあなたの「意志」が実行できるようにあなたをネガティブな感情から開放して下さるのです。

ですから、私たちは毎日を過ごす時に次のような選択をしなければなりません。すなわち、あなたの意志が毎日、いつでも感情に捕らわれていないフリーな状態であることを選ぶのです。それはちょうどイエスが、その選択をして毎日を生きられた通りです。その秘訣は、神の御心であると信じるあなたのしたいことを、神にいつもお話しすることです。そうすればあなたの意志であるあなたの霊的活動―主を礼拝し、人に証をし、又すべてを祈り、霊の戦いに臨ませること―を聖霊がさせて下さるのです。それは自分がそうしたくないような気分の日にでも「父よ、どうか気のすすまない自分を喜んでしたい気持ちにならせて下さい。」と祈るのです。そうお願いすれば、直ぐにでもそのようにして下さいます。

 

ですから私たちは常に、自分が御心を行いたいと言う気持ちと意志を(それは神がどう言う方であるかと言う信仰に基づいて)コンスタントに主に訴え、打ち分け、親しく話すことが非常に重要であるのです。そうすることによって、主があなたに働いて御心を行なう気持ちにならせ、あなたの感情を変え、信仰を強めて下さり、すべてが御心のままに実行出来るようにして下さいます。最も重要なポイントは、「神がすべて私たちが実行できるように事を運んで下さる」ことです。(終り)

    -Approaching the Heart of Prophecyより-


17 12月

愛について         坂  達 也            2013年12月17日


愛について

 

                           坂  達 也 

 

聖書全体を通じて一番大切な「神からの命令」あるいは「戒め」は何かと言えば、それは「神を愛する」ことではないでしょうか。申命記6:5に「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」と書かれています。しかし、イエスご自身が来られて、その戒めにさらにもう一つの戒めを加えて、最も大切な「二つの戒め」とされました。マタイ22:37-40にそれが次のように書かれています。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。 律法全体と預言者とが(これをもって聖書全体を指す)、この二つの戒めにかかっているのです。」これは神と愛に関する、驚くべきほど究極的なステートメントであると信じます。それでは一体、愛とは具体的に何なのでしょうか。

 

愛とは何か

 

愛の定義は色々言われておりますが、私たちにとって最も関心があるのは聖書が何と言っているかであると思います。そこで真っ先に思い浮かぶのは1ヨハネ4:7−8です。

「 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」

このみ言葉によって「愛は神から出ている」ことと「神は愛である」ことが分ります。すなわち愛とは神ご自身であり、神のみが愛の源です。私たちがイエス・キリストを信じて以来、私たちの内におられる聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれています。(ロマ書5:5)上記のみ言葉でもう一つ重要なポイントは「神を知っています。」ではないかと思います。私たちは神に対し心からの愛があるなら、必然的に神を親密に知る関係に入らずにはおられないはずです。

しかし神を愛するとは、単に心からの愛情とか情愛のリレーションシップを持つことだけではなく「神の律法全体を守ること」が切っても切れない愛の一部であることをクリスチャンははっきり認識する必要があります。そこがこの世一般の愛のコンセプトと異なると私は思います。そのことが下記のみ言葉にあらわれています。

「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」(ヨハネ 14:15)「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ 15:10)

私たちは、イエスご自身がなさったこと、即ち、律法全体を成就されたこと、そしてそのためにこの世に来られたこと(マタイ5:17-19)を、同じように成し遂げることが私たちの最終目標であり、それが父なる神に対する私たちの愛であるのです。それを可能にする唯一の方法は、イエスが「父の愛の中にとどまっている」ように、私たちも「主イエスの中にとどまり、イエスが私たちの中にとどまる」ことであると思います。

以上のことを次のみ言葉がまとめてくれます。「愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。」(2ヨハネ 1:6)

 

第二の戒め

 

又、愛の使徒と呼ばれるヨハネは何よりも「私たちが互いに愛し合うこと」を繰り返し強調しました。

私たちは、神を愛すること(第一の戒め)に関しては、イエスを信じてクリスチャンになり、曲がりなりにも教会に集っている限り、その信仰の程度は別にして、基本的に神を愛していることを周りが認めてくれますから特に問題にはなりません。なぜなら神が霊的存在で、その人と神との直接の係わり合いが肉的によく「見えない」「聞こえない」からです。ところが「第二の戒め」となるとそうは行きません。周りの人にはその人が隣人とか兄弟をどのように愛しているかが一目瞭然ですから、直ぐ批判の対象になります。正直に言って、「自己中心」から抜け切れない私たちにとって、この「他人を愛する」こと程難しいことはこの世の中で他にはないと思います。その他人への愛の実践 love in action がいかに難しいかを自らの経験を通して克服した人の一人は使徒パウロであると思います。そのパウロが書いた「愛」の章と言われる1コリント13章をこれから御一緒に読んでみたいと思います。分り易くするために、この章全体を三つに分けてみます。

 

1コリ13:1-13

1-3節「1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」

 

そこで先ず、最初の1-4節で気が付くことは、パウロ自身が「異言の賜物」を誰よりも用いたオーソリティーであることです。又、「預言の賜物」についても権威者の一人ですし、彼こそ聖書の「奥義と知識」に最も長けた使徒であると私は信じます。「完全な信仰」についてもそれが言えます。加えてパウロは「自分の持ち物すべてを与えた」人であり、「自らをいけにえとして差し出す=自らの十字架を担いで主の後を追った」人であることでも誰にもひけを取りません。その彼が「そのようなこと(6つの例を挙げ)をいくらしても、もし『愛がないなら』それらの行為は『何の値打ちもない』」と断言しているのですから、これを読んで驚嘆しない人はいないと思います。

特にクリスチャンとして最もうらやましい「山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。」とまで明言するのですから、どれだけ愛が大切であるかがお分かりになると思います。

 

でも、正直なところ私の場合は、このショッキングな記述を読んだ時に一応の驚きは感じましたが、それ以上の感動とか心が揺さぶられるようなショックを感じないで今まで過ぎて来ました。そして、そんな霊的感覚が麻痺したような自分が、同じ自分の中にいることに気が付いて愕然としたのです。むしろ、その事実の方がより大きなショックでした。「なぜなのか」私は自問しました。又、「あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じる」ことはクリスチャンとしてこの上なくうらやましいことです。私もそれを強く願って来ました。しかし、「愛がなければ」と共に、それが単なる「頭の知識でしかなければ」何の役にも立たないと言うことにも気が付かされました。「なぜ自分はそうなってしまったのか」―その答えは「宗教の霊」にやられて来たからです。私の中には、何と大きなプライドが詰まっているかに気が付いたのです。

自ら「パリサイ人中のパリサイ人であった」と告白するパウロが「あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じている」ことを掲げて、それが本当に主への愛ではなくて、単に自分のための「知識として知っているのであれば全く何の力もない」ことを喝破しているように思えます。それを経験したパウロであるからこそ、2テモテ3:5で「見えるところは敬虔(信心深そう)であっても、その実(力)を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」と言えるのでありましょう。その点私などは、奥義も知識も信仰もあまりなく、ないゆえに「力のない」のは当然でありながら、それを嘆いて来たのは私のプライドからであることに気が付かされました。

又、そのようなパウロであるからこそ、ガラテヤ 5:6で「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰(愛によって働く信仰)こそ大切です。」と言えますし、そんな中を通って苦しんだ結果として、彼は愛の大切さを本当に理解した人になったと信じます。

 

他人を愛することの難しさ

 

4-7節「 4愛は寛容(我慢すること)であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、6 不正を喜ばずに真理を喜びます。7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」

 

さて、この4-7節ですが、ここでもパウロは、驚く程厳しくてリアルな「愛の実像」を描いてくれております。

ここに列記された14の「愛は・・」は、すべて「他人に対する自分の取る態度」が取り扱われていますが、それらは「自己中心」を微塵なりとも許していないことに気が付かされます。他人に対してあくまでも「親切」にし、他人を「ねたまず」人に自分を「自慢せず」「高慢にならない」又、他人に対して「礼儀を欠かず」「自分の利益を求めない」「他人の不正を喜ばずに真理を喜び」「他人を出来る限り信じ」「他人のすべてをよく期待する」―という9つの品性です。そして残りの5つである「忍耐強く寛容で」「すべてを我慢し」「いらだたず」「うらまず」「すべてを(特にどんな迫害とか虐待に会っても)耐え忍ぶ」―ということが真の愛だと言うのです。

ハッキリ言えば、パウロの言っていることは最後の5つだけでなく、14のすべてが「他人を愛するためにはすべての面で忍耐が伴う」の一言に尽きると思います。それは別の言葉で言えば他人の至らなさをすべて赦すこと―それが愛であることを示していないでしょうか。これこそキリストがこの世に生まれてから最後にゴルゴダの丘に到達する間に出会った人たちのあらゆる罪の苦しみを自ら味わった上で、最後に十字架刑と言う極刑の苦しみの中で全人類の罪のために死んで下さった愛ではないでしょうか。

イエスが自らの一生を通して私たちに示されたのが「御霊の実」のすべてであったと思います。それは「愛、喜び、平安、寛容(忍耐)、親切、善意、誠実、柔和、自制」です。この中のどれ一つを取っても厳しく練られた人間としての最高の品性でないものはありません。中でも一番難しいのは他人に対して常に寛容であるための忍耐と自制ではないでしょうか。

長い間主によって「もうしばらく待ちなさい」と言われ続ける中を、希望を失わず、すべてに自制して、じっと耐え忍んで来られたクリスチャンはたくさんおられると思います。しかしそのように何の報いもないと思われるような「高い代価」を払って品性を磨き上げられ、最終的に「キリストの香り」を放つ者となるのがレムナントと呼ばれる人たちではないでしょうか。

これはパウロ自身が通った道であるに違いありません。「・・・すべての人に対して寛容でありなさい。だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい。」と言った後で、パウロは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。御霊を消してはなりません。」と1テサロニケ5:14-19に書いています。そこには本当に自分に死んだ姿しかありません。

そして、これこそがあくまで私たちが霊的にキリストの身丈にまで成熟するための訓練です。そのすべてを私たちに内住される聖霊が愛をもって私たちのために日夜して下さっているのです。特に16節の「いつも喜んでいなさい。」17節の「絶えず祈りなさい。」そして18節にある「すべての事について、感謝しなさい。」こそに、他人を愛するために何事にも「耐え忍ぶ」ことを可能にするパワーが秘められており、それがその「秘訣」であり、聖霊による愛の励ましがあると、私は思います。ボブ・ジョーンズ師が言う珠玉のようなレムナントとはこうして生まれて来るのでしょう。

 

愛は決して絶えることがない

 

8-13節「8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」【新共同訳】

 

13:8に「愛は決して絶えることがありません。」と書かれています。多くの英語の聖書は love never fails と訳しております。日本語の訳「愛は決して絶えることがない」は確かに正しい訳には違いありませんが、パウロの言わんとする全貌を伝えてはいないと思います。私はそれ以上のもっと強い意味、すなわち、「偉大な神の愛に宿る限り、私たちがするすべての愛による行いは、神の御心通りに運ばれ、常に完全に成功する、必ず成就する」と言う意味であるからです。あるいは「『預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。』しかし『愛があれば』どんなことでも失敗することはない」と言う意味であるとも言えます。

 

私は「神の愛」を本当に理解するには、神の愛とはこの宇宙に存在する「最高次元」―そこに神が住まれる「神の領域」=それが「愛」の次元=として考えるのが一番ふさわしい説明であるように思います。先回、私は物理学量子論の「超弦理論」が宇宙の仕組み、特に霊の領域の存在(それがあることだけは私たちには分ります)を近い将来科学的に説明出来る可能性があると申し上げましたが、その最高次元がこの神の住まいの次元であると思います。そして、すばらしいことに私たちキリストを愛する者は、将来その次元で主イエス・キリストと共に永遠のいのちで最高の人生を過ごすことが約束されているのです。ですから、私たちがどんな艱難を通されても、それは神がなさっておられるのですから私たちのために必ずよい結果を生み、実ることを知っており、すべての神がなさることに喜び、感謝出来るのです。

 13:9-10では、私たちが今経験していることの大部分が不完全で、一時的、あるいは一部分でしかないと言うことが書かれています。それは三次元の世界の話であり、その「この世」の世界は、神が私たちのために具えられた高次元に住むための準備と訓練の場所であるに過ぎないのです。

 

9私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分でしかないのです。10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」と言うみ言葉を通して、今の私たちクリスチャンがどれほど苦労させられ、厳しい忍耐の中を通されていても、それが目的を持った一過性で仮の領域でしかないことを知る時に、私たちは大いに励まされないでしょうか。

 

そして、この章の最後の言葉が13:13節「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」【新共同訳】で終わっております。

 

さて次回は、私たちが真に神と愛の関係に入ることを阻止しようとして攻撃してくる悪魔の策略の一つである「宗教の霊」とかその他の悪霊の働きに就いて触れる予定です。(続く)


07 12月

毒 う り    ボブ ・ ジョーンズ     Bob Jones        2013年12月7日


毒 う り

 

ボブ ・ ジョーンズ   Bob Jones

 

私は一つのビジョンの中で、主に仕える一団の若い預言者の仲間たちがいるのを見ました。その内の一人が野生のうりを鍋の中に入れていました。このビジョンを見て、私は直ぐにそれが第二列王記4章にあるエリシャの話であることに気が付きました。その話は第二列王記4:38-41にこう書いてあります。

「 エリシャはギルガルに帰った。その地は飢饉に見舞われていた。預言者の仲間たちが彼の前に座っていたときのこと、彼は従者に、『大きな鍋を火にかけ、預言者の仲間たちのために煮物を作りなさい』と命じた。39 彼らの一人が野に草を摘みに出て行き、野生のつる草を見つけ、そこから野生のうりを上着いっぱいに集めて帰って来た。彼らはそれが何であるかを知らなかったので、刻んで煮物の鍋に入れ、 40 人々に食べさせようとよそった。だが、その煮物を口にしたとき、人々は叫んで、『神の人よ、鍋には死の毒が入っています』と言った。彼らはそれを食べることができなかった。41 エリシャは、『麦粉を持って来るように』(麦粉=神の癒しの力のシンボル)と命じ、それを鍋に投げ入れてから、『よそって人々に食べさせなさい』と言うと、鍋には有害なものはなくなっていた。」【新共同訳】

 

これらの若い預言者の一団は、次の世代の人々に神のことば・預言を伝える人たちですが、敵がこの機会に、これらの若い預言者たち(指導者たち)を一度に殺してしまおうとしている処がここに描かれています。今まで多くの預言的指導者が毒うり-すなわち「宗教の霊」-を良い果実だと思い込んで収穫してきました。毒うりは一見よい野菜のように見えますが、その中身には死が詰まっているのです。ガラテヤ5:22-23に書かれているような御霊の実を採集する代わりに、間違った霊の野菜が煮物(彼らの食べ物)の中に多く入れられていることに気が付かないのです。ですから、このように良いものと悪いものとがミックスされたメッセージを語ることによって、それを聞く人たち(キリストのからだ)を混乱に陥れ霊的な死に至らせるという警告です。ですから、キリストのからだは現在まで、信仰、希望、愛の代わりに、苦々しくて、争いと嫉妬心を煽るような煮物(霊的食物)を食べて来たのです。

40節で若い預言者たちがエリシャに叫んだと同じように、今の教会(からだ)は預言的指導者に向かって、(本物であって混じりけのない)真理を知りたいと叫んでいるような気が私にはします。真の預言者(と言える人たち)は、今まで自分たちがそれを食べたゆえに未だ自分の中に残っている毒に気が付いたので、それを取り除くために聖めと洗浄の期間を持って来ております。伝染し易い霊的な病に預言者自身が侵されている間は、純粋な主のみ言葉を人々に語ることは彼らには出来ません。なぜならそのような状態で預言を語るなら、キリストのからだ全体が毒に汚染されてしまうからです。私たちはもっと聖められた器から間違いのない主の言葉を聞く必要があるのです。

 

癒しの力

 

エリシャは41節にあるように、神の癒しの力のシンボルである麦粉を持っていました。それを煮物の鍋に投げ入れてかき混ぜてから「さあ、食べなさい」と言い、その麦粉が解毒しました。宗教の霊は非常に長い間教会を支配して来ました。しかし私はこれから真の預言者が出て来て、それを力のあるやり方で阻止することによってその毒を除き、キリストのからだに多くの癒しをもたらすと感じております。私たちの仕事は霊的な食べ物の中に混じっている死に至る毒、すなわち宗教の霊を取り除くことです。

今は多くの偽の教義とか異端的なものが教えられておりますが、それらに対して真の預言者が一旦矯正をし始めると、それはきれいごとでは済みません。事実かなりの混乱を来たす事態となるでしょう。しかしこの問題を取り扱える人は、主に心から仕え、神の御心を真剣に捉らえて徹底的に追求する主のレムナント以外にはおりません。なぜならこれらの虚偽 untruthこそがキリストのからだを長い間毒し、結果として殺して来た、あるいはこれからも殺すことになるからです。

神に選ばれ、エリヤの霊の倍の霊をまとったエリシャ(第二列王記2:9-13)は飢饉に見舞われていたギルガルに帰って来ました。(38節)ギルガルとは原語で「信仰の場所」と言う意味ですが、私は現在の預言者が今まさに宿るべき場所であると信じます。神の霊感によって語られる神のみ言葉を聞くことに関しては、最近は飢饉の状態であったと言えます。なぜなら、多くの預言的な声として認められて来た昨今の預言者の多くが、間違った鍋から食べて来たからです。

「見よ。その日が来る。──神である主の御告げ──その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。」(アモス書 8:11)

今こそ多くの試練を通って来た真の預言的指導者が現れる時です。そして彼らが神からの真のメッセージを語り伝えることが「本物の食べ物」をキリストのからだに提供するのであり、その食べ物の持つ癒しの力が信者を開放に導くと共に、未信者を救いに導くのです。

 

成熟したレムナント

 

主は今、成熟したレムナントを召し、彼らに新しい権威を与えて用いようとしておられます。彼等は「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれない」(コロサイ 3:2)人たちですから、お互いが一致団結して主の召しに応えることの出来る人たちです。彼らがお互いに一致する時、教会の共通な目標であるコイノニヤ(一致した交わりの関係)を持つようになり、そのような彼らには上からの知恵が分与されます。このようなレムナントは1コリント2:6-10に見られます。

「しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。」

 

過去6-7年の間、教会は厳しい試練の中を通って来ましたが、それが今終わろうとしており、まさに新しいページが開かれようとしております。一つのシーズンが終り、新しいシーズンが始まろうとしているのです。これから出て来る人たちは聖霊から直接聞くことによって教会をリードするリーダーです。このようなリーダーが推進されると、神が何をなされたいか、そして、どのようにして行うかの理解が示されるようになります。

過去に起った事の善し悪しをとやかく言うことを止めて、皆が成熟し、皆が集まる会合で神の言われることを全員が聞けるようになって下さい。そうなることによって主の御計画と目的を皆が一致して実行に移せるのです。なぜなら、主のからだが主と完全に一致・同意出来るからです。そうするとこの新しく始まるシーズンが終わる頃には大きな業が行われるようになります。そのことがヨハネ14:12-13で次のように書かれています。

「 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。」

 

天の父はマッシュポテトが好き

 

1974年に天の父が「わたしはマッシュポテトが好きであり、あなたたち全員がそうなって欲しい」と私に言われました。それから40年経ちます。それはつまり、主のからだである私たちのすべてが一つのからだとして一致するようになって欲しいと父が望んでおられると言うことです。そうなると、より大きな業が数々起るようになり、しかもそれが一々誰々の力でなされたと言われなくなるのです。それは団体行為であり、聖霊のリーダーシップの元ですべての信者のからだが一つとなって機能することによって、神の力が顕れるようになるからです。父は、レムナントのグループが一致してマッシュポテトのような状態になることによって愛があらわされることを望んでおられます。そして、その愛とは父と子と聖霊のために顕れるのです。

 

トマトとポテト

 

トマトとポテトは同じ種属です。トマトは地上で成長して枝に実り「誰にでも見える愛」を代表していますが、ポテトは地下で成長するので目には見えません。それは「隠された愛」を代表し、唯父のみがそれをご覧になれます。今、父への隠された愛が目に見えるように顕す用意をして下さい。そこに父の「主のからだ」に対する愛が顕され、それがマッシュポテトであり、又、コイノニアであるのです。からだが愛によって一つとなる時、そこには個人としての信者それぞれの見分けはつきません。ちょうどマッシュポテトのように彼等は皆同じに見え、主のために交じり合うのです。私たちが父に対して持つこの愛がより大きな理解を私たちに与えてくれます。すべてのものは父の御手の中にあり、父の御心ですべてのことは行なわれるのです。父は将来起ることに関して、御自分の息子娘たちに特別な理解を与えることを選ばれるのです。

からだが団体として父に対する一致した愛を持つ時に、その理解が与えられます。二百人のイッサカルの息子たちがおりました。その一致した人たちに団体としての理解(将来への)が与えられました。成熟した知恵者が一致して集まる時、より高い神の知恵が与えられるのです。このより高い知恵を私は理解と呼びます。聖霊は過去45年から50年の間、キリストのからだの中から、今これから現れようとしている人たちを備えつつ整えて来ました。

煮物の鍋の中に癒しの麦粉を投げ入れ、宗教の霊が扱われる時、からだは癒され、団体としての愛であるコイノニアで一致するのです。新しいリーダーたちが現れてそれぞれの位置に着き、その力を発揮し出します。それによって新しいことがキリストのからだに起り始めるのを私たちは見ることが出来ます。私たちが過去から現在に至るまで見慣れて来た教会の礼拝(の形式とか風景)は終り、大きく変わることでしょう。私たちが今までと同じ道を歩きながら聖霊に新しい油そそぎを期待することは出来ません。古いやり方のシステムは終わらねばなりません。そうすることによって新しい始まりに入れます。唯一レムナントだけがその新しい始まりの中に入れるのです。次のステップへの飢え渇きがなければなりません。そして今までの試されて来た時代に不動の信仰で着実に歩み続けた人たちが次のレベルの権威へと前進します。そして宗教の霊を死なせることによって、多くの人たちがその指導者の後を追います。又、その宗教の霊が頭を持ち上げようとする時、主のからだがそれを識別し、その霊が再び人々に深い根を下ろすのを阻止するでしょう。なぜなら、聖なる火がそれを滅ぼすからです。(終り)