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Walk With God Ministries

07 12月

毒 う り    ボブ ・ ジョーンズ     Bob Jones        2013年12月7日


毒 う り

 

ボブ ・ ジョーンズ   Bob Jones

 

私は一つのビジョンの中で、主に仕える一団の若い預言者の仲間たちがいるのを見ました。その内の一人が野生のうりを鍋の中に入れていました。このビジョンを見て、私は直ぐにそれが第二列王記4章にあるエリシャの話であることに気が付きました。その話は第二列王記4:38-41にこう書いてあります。

「 エリシャはギルガルに帰った。その地は飢饉に見舞われていた。預言者の仲間たちが彼の前に座っていたときのこと、彼は従者に、『大きな鍋を火にかけ、預言者の仲間たちのために煮物を作りなさい』と命じた。39 彼らの一人が野に草を摘みに出て行き、野生のつる草を見つけ、そこから野生のうりを上着いっぱいに集めて帰って来た。彼らはそれが何であるかを知らなかったので、刻んで煮物の鍋に入れ、 40 人々に食べさせようとよそった。だが、その煮物を口にしたとき、人々は叫んで、『神の人よ、鍋には死の毒が入っています』と言った。彼らはそれを食べることができなかった。41 エリシャは、『麦粉を持って来るように』(麦粉=神の癒しの力のシンボル)と命じ、それを鍋に投げ入れてから、『よそって人々に食べさせなさい』と言うと、鍋には有害なものはなくなっていた。」【新共同訳】

 

これらの若い預言者の一団は、次の世代の人々に神のことば・預言を伝える人たちですが、敵がこの機会に、これらの若い預言者たち(指導者たち)を一度に殺してしまおうとしている処がここに描かれています。今まで多くの預言的指導者が毒うり-すなわち「宗教の霊」-を良い果実だと思い込んで収穫してきました。毒うりは一見よい野菜のように見えますが、その中身には死が詰まっているのです。ガラテヤ5:22-23に書かれているような御霊の実を採集する代わりに、間違った霊の野菜が煮物(彼らの食べ物)の中に多く入れられていることに気が付かないのです。ですから、このように良いものと悪いものとがミックスされたメッセージを語ることによって、それを聞く人たち(キリストのからだ)を混乱に陥れ霊的な死に至らせるという警告です。ですから、キリストのからだは現在まで、信仰、希望、愛の代わりに、苦々しくて、争いと嫉妬心を煽るような煮物(霊的食物)を食べて来たのです。

40節で若い預言者たちがエリシャに叫んだと同じように、今の教会(からだ)は預言的指導者に向かって、(本物であって混じりけのない)真理を知りたいと叫んでいるような気が私にはします。真の預言者(と言える人たち)は、今まで自分たちがそれを食べたゆえに未だ自分の中に残っている毒に気が付いたので、それを取り除くために聖めと洗浄の期間を持って来ております。伝染し易い霊的な病に預言者自身が侵されている間は、純粋な主のみ言葉を人々に語ることは彼らには出来ません。なぜならそのような状態で預言を語るなら、キリストのからだ全体が毒に汚染されてしまうからです。私たちはもっと聖められた器から間違いのない主の言葉を聞く必要があるのです。

 

癒しの力

 

エリシャは41節にあるように、神の癒しの力のシンボルである麦粉を持っていました。それを煮物の鍋に投げ入れてかき混ぜてから「さあ、食べなさい」と言い、その麦粉が解毒しました。宗教の霊は非常に長い間教会を支配して来ました。しかし私はこれから真の預言者が出て来て、それを力のあるやり方で阻止することによってその毒を除き、キリストのからだに多くの癒しをもたらすと感じております。私たちの仕事は霊的な食べ物の中に混じっている死に至る毒、すなわち宗教の霊を取り除くことです。

今は多くの偽の教義とか異端的なものが教えられておりますが、それらに対して真の預言者が一旦矯正をし始めると、それはきれいごとでは済みません。事実かなりの混乱を来たす事態となるでしょう。しかしこの問題を取り扱える人は、主に心から仕え、神の御心を真剣に捉らえて徹底的に追求する主のレムナント以外にはおりません。なぜならこれらの虚偽 untruthこそがキリストのからだを長い間毒し、結果として殺して来た、あるいはこれからも殺すことになるからです。

神に選ばれ、エリヤの霊の倍の霊をまとったエリシャ(第二列王記2:9-13)は飢饉に見舞われていたギルガルに帰って来ました。(38節)ギルガルとは原語で「信仰の場所」と言う意味ですが、私は現在の預言者が今まさに宿るべき場所であると信じます。神の霊感によって語られる神のみ言葉を聞くことに関しては、最近は飢饉の状態であったと言えます。なぜなら、多くの預言的な声として認められて来た昨今の預言者の多くが、間違った鍋から食べて来たからです。

「見よ。その日が来る。──神である主の御告げ──その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。」(アモス書 8:11)

今こそ多くの試練を通って来た真の預言的指導者が現れる時です。そして彼らが神からの真のメッセージを語り伝えることが「本物の食べ物」をキリストのからだに提供するのであり、その食べ物の持つ癒しの力が信者を開放に導くと共に、未信者を救いに導くのです。

 

成熟したレムナント

 

主は今、成熟したレムナントを召し、彼らに新しい権威を与えて用いようとしておられます。彼等は「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれない」(コロサイ 3:2)人たちですから、お互いが一致団結して主の召しに応えることの出来る人たちです。彼らがお互いに一致する時、教会の共通な目標であるコイノニヤ(一致した交わりの関係)を持つようになり、そのような彼らには上からの知恵が分与されます。このようなレムナントは1コリント2:6-10に見られます。

「しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。」

 

過去6-7年の間、教会は厳しい試練の中を通って来ましたが、それが今終わろうとしており、まさに新しいページが開かれようとしております。一つのシーズンが終り、新しいシーズンが始まろうとしているのです。これから出て来る人たちは聖霊から直接聞くことによって教会をリードするリーダーです。このようなリーダーが推進されると、神が何をなされたいか、そして、どのようにして行うかの理解が示されるようになります。

過去に起った事の善し悪しをとやかく言うことを止めて、皆が成熟し、皆が集まる会合で神の言われることを全員が聞けるようになって下さい。そうなることによって主の御計画と目的を皆が一致して実行に移せるのです。なぜなら、主のからだが主と完全に一致・同意出来るからです。そうするとこの新しく始まるシーズンが終わる頃には大きな業が行われるようになります。そのことがヨハネ14:12-13で次のように書かれています。

「 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。」

 

天の父はマッシュポテトが好き

 

1974年に天の父が「わたしはマッシュポテトが好きであり、あなたたち全員がそうなって欲しい」と私に言われました。それから40年経ちます。それはつまり、主のからだである私たちのすべてが一つのからだとして一致するようになって欲しいと父が望んでおられると言うことです。そうなると、より大きな業が数々起るようになり、しかもそれが一々誰々の力でなされたと言われなくなるのです。それは団体行為であり、聖霊のリーダーシップの元ですべての信者のからだが一つとなって機能することによって、神の力が顕れるようになるからです。父は、レムナントのグループが一致してマッシュポテトのような状態になることによって愛があらわされることを望んでおられます。そして、その愛とは父と子と聖霊のために顕れるのです。

 

トマトとポテト

 

トマトとポテトは同じ種属です。トマトは地上で成長して枝に実り「誰にでも見える愛」を代表していますが、ポテトは地下で成長するので目には見えません。それは「隠された愛」を代表し、唯父のみがそれをご覧になれます。今、父への隠された愛が目に見えるように顕す用意をして下さい。そこに父の「主のからだ」に対する愛が顕され、それがマッシュポテトであり、又、コイノニアであるのです。からだが愛によって一つとなる時、そこには個人としての信者それぞれの見分けはつきません。ちょうどマッシュポテトのように彼等は皆同じに見え、主のために交じり合うのです。私たちが父に対して持つこの愛がより大きな理解を私たちに与えてくれます。すべてのものは父の御手の中にあり、父の御心ですべてのことは行なわれるのです。父は将来起ることに関して、御自分の息子娘たちに特別な理解を与えることを選ばれるのです。

からだが団体として父に対する一致した愛を持つ時に、その理解が与えられます。二百人のイッサカルの息子たちがおりました。その一致した人たちに団体としての理解(将来への)が与えられました。成熟した知恵者が一致して集まる時、より高い神の知恵が与えられるのです。このより高い知恵を私は理解と呼びます。聖霊は過去45年から50年の間、キリストのからだの中から、今これから現れようとしている人たちを備えつつ整えて来ました。

煮物の鍋の中に癒しの麦粉を投げ入れ、宗教の霊が扱われる時、からだは癒され、団体としての愛であるコイノニアで一致するのです。新しいリーダーたちが現れてそれぞれの位置に着き、その力を発揮し出します。それによって新しいことがキリストのからだに起り始めるのを私たちは見ることが出来ます。私たちが過去から現在に至るまで見慣れて来た教会の礼拝(の形式とか風景)は終り、大きく変わることでしょう。私たちが今までと同じ道を歩きながら聖霊に新しい油そそぎを期待することは出来ません。古いやり方のシステムは終わらねばなりません。そうすることによって新しい始まりに入れます。唯一レムナントだけがその新しい始まりの中に入れるのです。次のステップへの飢え渇きがなければなりません。そして今までの試されて来た時代に不動の信仰で着実に歩み続けた人たちが次のレベルの権威へと前進します。そして宗教の霊を死なせることによって、多くの人たちがその指導者の後を追います。又、その宗教の霊が頭を持ち上げようとする時、主のからだがそれを識別し、その霊が再び人々に深い根を下ろすのを阻止するでしょう。なぜなら、聖なる火がそれを滅ぼすからです。(終り)


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