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Walk With God Ministries


28 02月

不平を言うか感謝するか      マイク・ビクル            2016年2月28日


不平を言うか感謝をするか

 

マイク・ビクル

 

私と妻のダイアンは、3週間の休暇を終えて帰ってきましたが、その後で全スタッフの会議があり、そこで休暇の報告をしました。休暇がどれほど楽しかったか、そしてその理由は妻が一緒にいると本当に楽しい人であるからであり、彼女は私にとって神からのすばらしいギフトであると話しました。そこに新婚の夫婦がいたのですが、会議が終ってから夫の方が「あなた方はもう38年も結婚をしておられるのに、そんなに奥さんとの時間を楽しんでおられるのですか!私たちもそうなりたいです!」と言いました。その奥さんも「私もいつまでも一緒にいると楽しいような妻になるように努力します。退屈な妻だと思われないようにします。」と言いました。

 

そこで私はこう言ったのです。「確かに妻が退屈でないのは事実ですが、それが妻と一緒にいるのが楽しい一番の理由ではありません。あなたは自分の伴侶が素敵で面白くて優しい人だったら、すばらしい結婚生活になるだろうと思っておられるかもしれません。でもそれとは違う最も大切なポイントがあるのです。何だと思いすか?当てて御覧なさい。」

新婚夫婦は「一緒に祈ることですか?」と言いました。確かにそれは大切なことですし私は妻と一緒に祈ります。しかしそれがポイントではありません。

「神を愛することですか?」確かに、すばらしいことで私も神を愛しております。でもそれが私の言うポイントではありません。新婚夫婦はわからないという顔をしました。

 

38年間結婚生活の中で私が一番大切だと信じるのは何だと思いますか?それは夫婦の会話やコミュニケーションの中にほとんど「不平不満、愚痴」の要素が無かったことです。新婚夫婦は「えーっ、本当にそれがポイントですか?」と驚いたようでした。

そうなのです、それが結婚生活を楽しくする一番のポイントです。皆さんの結婚生活のコミニケーションの中に、どれだけ不平不満や皮肉な言葉、態度があるかどうかが大きく影響するのです。38年前に結婚したときに、「不平不満を口に出すこと」に対して私たちは戦いを挑んだのです。勿論完全には出来ませんでしたが、常に勤勉にそれを続けてきました。

 

ピリピ2:14に「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。」と書かれています。そしてそのように一見小さいと思われるような良い種を蒔いた人が収穫する祝福の実について15節で説明されています。「それはあなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」14節にあるただ一つのことを実行するだけで、このようにすばらしい結果を私たちは得るのです。

即ち、あなたがたは非難されることなく、純真な者となり、この世の中や、教会においても抜きん出て輝く者となるのです。闇の中に輝く光は人々に行く道を示し、生き方を示します。何とすばらしいことでしょう。

 

不平を言ったりつぶやく事は、罪のない些細なことのように思えます。雅歌2:15に私たちの人生のぶどう畑を荒らす子狐の事が出てきます。大きなスキャンダルでなくても、不平不満という小さいことが人生を破壊していくのです。「誰だってぶつぶつ不平くらいいいますよ。そんな大げさなことではないでしょう。

少しむかむかしたことを吐き出すだけですよ。」と言われるかもしれません。

でも、パウロはそれとは全く違う見解を持っていました。まず第一に不平を言うことによって、あなたの胸がすっきりすることはありません。実際のところ、不満を口にすることによって、それはあなたの心の中にしっかりと根をおろしてしまうのです。少しずつ、あなたの心の奥へと入りこんで行くのです。

これは小さなことに見えますが、実はあなたの結婚生活、友人関係、仕事、神の召しなどに対する最大の敵です。そのようには見えませんし、敵はあなたがずっとそれに気付かないように願っているのです。

 

喩えて見ましょう。ある人が医者に行ったところ、ほんの小さな点が見つかります。癌でした。この患者は医者に「小さなものですよね。私は何も感じないし、元気に暮らしています。運動もしているし、エネルギーもあるし、、、別に悪いところがあるなんで、感じませんよ。」と言います。でも医者は「この小さな点は、小さいままではありません。やがてはあなたのいのちにかかわります。」というでしょう。

 

これと同じように不平という種は、一見小さくて何の害もないように見えますが、立腹、人間関係の破壊、傷ついた人生という実をならせます。始まりは小さいかもしれませんが、大きな刈り取りがあるのです。パウロが14節で「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。」と言っていますが、彼はただ何となく「すべてのこと」と言っているのではなく、本当に「すべてのこと」を意味しているのです。「不平不満」をあなたの一番の大敵だとしっかりと認識し、この敵と真剣に怠らずに戦ってください。これが私が新婚夫婦に伝えたかったことです。

 

不平を言うことは、私たちすべての者にとってとても自然なことです。物事のポジティブな面よりもネガティブな面に焦点を合わせる習性です。私は人生の大事件のことを言っているのではなりません。日常茶飯事に関する私たちの態度です。「不平」が育まれる空気を容認することー友人関係、結婚生活、家庭、仕事関係など、「すべてのこと」において大切なのです。

 

次にパウロは「疑わずに (without disputing争わないで、抵抗しないで)」と言っています。それは大論争や大きな意見の相違のことを言っているのではありません。パウロは些細な争いのことを言っています。それは結婚生活や家庭生活、仕事場、ミニストリーで始終起ります。パウロは「小さなことで不平をいう、争う」という二つのことを真剣に拒否しなさい、そしてあなたの心や人とのコミュニケーションの中でこの二つの要素を持ち込まないならば、あなたは輝くと言っているのです。

 

私たちは罪のうちに生まれましたから、不平不満、争いはとても自然なことです。赤ちゃんは生まれたとたんに、「もっとほしい、今すぐに!」と言って泣くのです。私たちはそのような心を持って生まれてくるのです。多くの人は「不平を言うなと言われても、私はみんなが不平不満や皮肉を言い合う家族の中で育ったのです。それが家族のコミュニケーションのスタイルでした。両親もそのような話の仕方でしたし、私たち子どもにもそのように話しました。彼らが近所の人や教会の人、職場の人のことを話す時もそうでした。」というのです。殆どの人は批判、皮肉、不平のトーンで話をするのが自然な環境で育ったのです。ですからパウロが力を込めてそのようなものをあなたの人生から取り除きなさいと言っているのです。あなたの心の中で不平不満、争いの思いが起ったならば、一歩退いて、それを口に出したときに起るであろうマイナスの結果を考えなさいと勧告しているのです。

 

ちょっとおかしなことですが、私が20歳のときに牧師になってくれと田舎の小さな教会から頼まれました。私は「とんでもない、私はまだ20歳ですよ。」と断ったのですが、それでもいいというので引き受けました。メンバーは100人くらいでしたが、私は経験がないので、難しい問題がいろいろありました。あるとき年配の(40代の人でしたが、20歳の私にはそう感じられたのです)夫婦が「先生、私たちの結婚のことで相談したいのです。夫婦のセックスのことです。」と言って来ました。私は本当にとまどいました。でもどうにかせねばなりません。そこである大きな結婚セミナーがあったので、それに参加して学ぶことにしました。1977年のことです。一週間のセミナーには沢山の講師がいて私は本当に多くのことを学び、ノートに沢山筆記しました。そして「さあ、私は牧師として結婚生活のことも教えられる!」という気持で帰ってきました。

 

その2ヶ月後に妻のダイアンと私は出会いました。彼女は半年ほど前にクリスチャンになったばかりでした。でも私はすばらしい結婚に関するノートを持っていたので、知ったかぶりをして彼女にいい所を見せたいといろいろと結婚について話しました。彼女は私の知識に感銘を受けました。私はただ前の晩にノートに書いてあることを一生懸命憶えて、それを次に日に「すばらしい結婚生活の秘訣」を彼女に話していただけなのです。

私たちは短い婚約期間のあと結婚しました。彼女は私がすぐにそれらの「秘訣」を実行できると勘違いしていました。でも私はただ暗記をしただけで、一度も実行したことはなかったわけです。でもこれは神からの奇襲のようなもので、私がどうしてもそれを実行しなければならない状況を与えられたわけです。彼女は「あなたが話してくれたことを、私たちの結婚に実行していきましょう。」と言いました。彼女はとてもかわいかったので、私はそうしたいと思いました。

 

そしてその一つが不平不満を言わないということでした。私は結婚、家庭の中で絶対に不平や皮肉をいう雰囲気は作らないと決意しました。そして38年が経ちましたが、それは結婚当初にした最も重要な決意の一つでした。勿論完璧にできたわけではありませんが、真剣に勤勉に努めたのです。私は次の4つのことを彼女に誓いました。これは結婚以外のすべての人間関係においても用いることができます。

 

1.意見の相違、争いが起きたときは、両方の心に平安がくるまで、それに関して話をしない。夫はその件についてそのままうやむやにせず、必ず(数時間後とか翌日に)話して解決することを約束する。両方、又片方が興奮しているときに話をするとよい結果は得られない。

 

2.夫は「小さな日常生活のこと、例えば、何を食べるか、いつ食べるか、芝生を刈る、お皿を洗う、どのレストランに行くか、修理屋をよぶ、ゴミを出す、などの何百、何千という小さなことがらに関しては、私はあなたの言う通りにします。」と誓う。これもセミナーで学んだことですが、人生の大問題とかではない小さなことに関しては争う必要はないのです。例えば私が行きたくないところにダイアンが行きたいと言う時は、私は少なくとも顔では笑ってうれしそうに「行きましょう!」と言うのです。どちらでもいい事に捕われないで、もっと人生の大筋を見なければなりません。

 

3.夫は一家の頭で責任者であるから、何か二人の間で問題が起ったときは、どのような事情であってもいつでも夫がまず先にあやまる。謝る会話を夫から始める。自分が妻の気持を察しなかったとかいうような、どんな小さな落ち度でも謝って仲直りのきっかけを夫が作る。

 

4.自分が気にいらないことを相手に分かってもらわねばならない時には、その伝え方に大切なことが3つあります。声の調子(批判、皮肉がない)タイミング(二人の心が穏やかなとき)そして比率です。比率は、10の肯定的な言葉に対して否定的な言葉は1であるべきです。親子の間でも肯定的な言葉と矯正の言葉が1:1の割合であるならば、その関係は傷つくでしょう。「彼のためだから注意しているのです。」と言われるかもしれません。それは本当でしょう。でも彼を成長させるにはそれに加えて10の褒め言葉、肯定的な言葉というビタミンを与えねばならないのです。否定的な言葉だけを与えては成長しません。

 

不平をいう心とは何でしょうか。それはもって生まれた性格ではなく、変えることができるものです。それはマインドセットであり、肯定的な情報よりも否定的な情報に敏感に作用してしまう心です。確かに「もっと・・・であれば良いのに・・」ということは人生に沢山あります。しかし、私たちはキリストのからだの一員として、神がなさろうとしておられる一番の大筋を忘れてはいけません。私をイライラさせる人、それは妻か、友人か、近所の人か、会社の人かもしれませんが、その人は神のご計画の中ですばらしいことをしています。それにも拘わらず、あなたはその人にイライラさせられることだけに焦点を置いてしまっているのです。パウロはそのマインドセットから解放されなさいと言っているのです。

確かに不平を言うマインドセットから解放されるには少し時間がかかるかもしれませんが、それは可能であり、あなたの結婚生活やすべての人間関係を劇的に変えてくれるのです。(終り)


22 02月

障害物はあなたの夢を拡大する      グラハム・クック       2016年2月22日


障害物はあなたの夢を拡大する

 

グラハム・クック

 

私たちは、神が私たちに対して持っておられる情熱によって動かされ生かされています。私たちは「神に愛されている者、神の愛しい者」であり、神の愛を100%受けている者であることを学びつつあります。その神の情熱が私たちのアイデンティティーです。

私たちは戦う勇士であり、勝利を得る者であり、圧倒的な勝利者なのです。御霊なる「私たちの内なる人 inner man 」が持つ神の御性質は、私たちを奮起させ、油注ぎと力と知恵のあふれる地に住まわせて下さるのです。

私たちはキリストの内にあって主に似た者となることを学んでいます。主を追い求めるとき、私たちのヴィジョンがますます明らかになり、私たちはその目標にむかって歩き始めます。その旅路の中で私たちは、祝福、賜物、機会、主の臨在、油注ぎ、力、権威等々のすばらしものに出会うのです。

 

しかしながら私たちは、艱難、反対、戦い、迫害等の様々な障害にも出会います。しかし、信じられないかもしれませんが、これらの障害は全部私たちにとって益となるものです。というのは、これらのすべての状況や事態は、私たちがイエスにあってすべての面で成長するようにと意図され計画されたものであるからです。一つひとつが重要であり、私たちはその問題について御父と語りあう機会を得ます。そして私たちが愛と祈り心をもって御父と話し合うときに、私たちは神の知恵を学ぶのです。

神との親密な関係の中で、私たちは神がどのように物事を見、どのように考え、事をどのようにすることを好まれるかを見出すのです。

神が私たちに向かって語られる言葉は、私たち自身が宣言をする際に用いるべき言葉のベースとなるものであるからです。

私たちが人生の旅を続けていくとき、私たちはいつか必ず何らかの障害にぶつかります。

 障害は私たちが立ち止まって考えるように意図されています。

もし自分の思いのままにするならば、私たちは同じ方向にどんどんと進んで行く事でしょう。しかし障害が起ると私たちは立ち止まり、周りの状況を調べます。その時、聖霊に訊ねるべき質問があります。即ち、「この障害は何のためですか?」という質問です。

障害は私たちのために果たすべき目的を持ち、そして恐らく神が私たちに解き放って与えたいものがある時に現れます。私たちは御父がその障害を用いて私たちに得させたいと望んでおられる物を、しっかり受け取らねばなりません。

 

時には神ご自身が私たちの前に障害を置かれます。その場合の神の目的は、私たちのヴィジョンをもっと広げ、私たちの夢を更に高いレベルで実現させるためです。私たちは同じレベルに長く留まり続けるべきではありません。

もし自分のアイデンティティーが成長していないならば、今の霊的レベルがした成長のチャンスの場にもう一度戻らねばなりません。

もし現在の霊的レベルで何かを学んだにも拘わらず、それを生活の中で常に用い、ライフスタイルを変革させるのを怠っていたとすれば、私たちは同じレッスンをもう一度受けねばなりません。なぜならば、私たちが得たのは単なる頭の知識であり、キリストにある戦略的ないのちの交換はなされていなかったからです。

 

ある障害は、もっと私たちの目標を高くして更に大きなヴィジョンを持たせようとして、主が私たちの前に置かれます。ですから私たちが現在持っている神との関係、神の体験を今より超えてより大きなものとするために、神はもっと大きな障害を用意されるのです。その障害は神の許可のもとに出現したものであり、神が見ておられる姿に私たちが成長するように助けるものであるのです。

 

問題を克服するためには、それを異なる地点から眺める必要があります。障害が自分に起きた地点からではなく、神が立っておられる場所の視点を持つのです。私たちは聖霊との交わりの中ですばらしい質問をすることを学んでいます。

私の一番好きな質問は「主よ、あなたは今私のためにどのようなお方になりたいのですか? What do You want to be for me now?」というものです。この質問

をすることによって、神が私たちに対して持っておられる御思いを探ることができます。

もし障害が私たちの向上のために現れたとしたらどうでしょうか?

私たちのヴィジョンは更に高いレベルになる必要があり、主との関係においても更に深く親しい場所へと進んで行ける者と自分を見なければなりません。

 

障害は私たちの夢を阻むもののように感じられるかもしれませんが、実際は私たちが今持っているアイデンティティーに戦いを挑んでいるのです。この障害は私たちにとって益なのです!

ですから、私たちは神の見解、視点を探り出さねばなりません。

それは私たちが感謝を捧げるとき、もっとはっきり見えるようになります。又、私たちのために神が一層のチャレンジを感じておられると知るとき、神が私たちのために備えておられる一層高いビジョンを私たちはもっと力強く思い描くことができるのです。私たちの夢はもっと大きくされねばなりません。障害は私たちの夢を拡大するプロセスの一部です。

 

あなたが今度障害に出会った時、自分に次にように問うてください。

「この障害は何のためなのか?」「私の中の何が成長せねばならないのか?」「この障害を乗り越えるにはどうすればよいのか?」「今この時に神が私のために備えていてくださるものは何なのか?」

すばらしい質問は知恵と啓示の御霊を呼び起こしてくれます。(終り)


15 02月

聖霊のレーダー    フランシス・フランジペイン           2016年2月15日


聖霊のレーダー

 

フランシス・フランジペイン

 

 

ルカ8:17「隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現れないものはありません。」

 私たちの内なるキリストの平安は、単に神が与えてくださる(私たちが持つべき)特質というだけではなく、私たちが神の言語でコミュニケートするための器官でもありのです。というのは、聖霊は私たちと通信するために平安を用いられるからです。もし周りの状況が私たちに警報を発する必要があるような時、主は、私たちの内なる平安を取られ乱されます。しかしその状況に対して私たちが正しい対処をすれば、それが正しい判断と選択であったことを私たちの内に平安をもたらすことによって確証されます。このように、「キリストの平和(peace of Christ)が、あなたがたの心を支配する (rule) ようにしなさい。」(コロサイ3:15)という御ことばの意味は、主が、私たちに警告したり、私たちの判断が正しかったかどうかを知らせてくれることによって、主が私たちの心迄支配して下さるという意味です。すなわち、私たちが心の中でどう行動すればよいかを思いめぐらす時に、キリストの平安が霊的レーダーとして働き、私たちの判断力をより効果的にしてくれるのです。

私たちがボーンアゲインした時、私たちは一つの宗教に心を捧げたのではなく、聖霊を通してキリストご自身に心を捧げたのです。神の御霊が実際に私たちのいのちの中に入り、その時、聖霊と共に神の内なる平安も入ってきたのです。これは決して小さなことではありません。なぜならば福音は「平和の福音(Gospel of  Peace エペソ6:15)」と呼ばれているからです。

 勿論、私たちの霊のガイドシステムを正確に導く回線は、私たちの「神の御ことばの知識」です。ですから、私たちはしっかりと神の御ことばに基礎を置かねばなりません。ここで私たちは心霊能力のことを話しているのではなく、私たちとキリストとの交わりの一部分をなす霊的機能のことを話しているのです。

 

聖書に、イエスは人々の思いや動機を「ご自分の霊で見抜いた。」(マルコ2:8)」と書かれています。ですから、私たちが発達させたい機能は霊的なことであり、魂の部分ではありません。それは勿論オカルトから借りて来たようなものでは絶対にありません。神の御ことばと共に働いて、あなたの霊的レーダーは隠れた問題や危険を察知するある種の探知機となるのです。このように、自分の霊を悩ましているのが何であるかを認識するための助けとなる聖霊の導きを、あなたは信頼することができます。

一つの例をお話しします。私がある大学で聖書研究を導いていたとき、一人の若者が入って来て座り、その研究会に参加しました。彼は外見はきちんとしていましたが、私の内なるレーダーが注意信号を出しているのを私は感じました。私は聖書研究を中断して、彼に魔術やオカルトをしていないかと皆の前で訊きました。彼はしていないと言いました。確かに彼の外見は何もあやしくなかったのですが、私の霊のうちの警報は止みませんでした。私はもう一度彼に同じ質問をしました。彼は魔術には何も関与していないと再び否定しました。私は聖霊が彼のコートのポケットに焦点を当てているのを感じたので、彼にコートのポケットには何が入っているのかを訊ねました。今度は彼は正直に答えて、鶏の足を二つポケットから出しました。彼はオカルトの儀式をしてきたところだったのです。彼は謙虚な態度になり、私たちは彼の救いのために共に祈ることができたのです。

 

ある人たちは「神が自分に語られることはない」と言いますが、それは真実ではありません。彼らは御霊の言語をまだ学んでいないだけなのです。聖霊が来られるときは、天からのコミュミケーションを携えてこられます。夢やヴィジョン、預言はすべて神との交わりのしるしです。ですから、あなたは神があなたとコミュニケートできることを信じなければなりません。あなたに必要なのは、神があなたの霊に与える印象、影響を解釈する能力です。神の御霊があなたに言われていることを感じ取ることが、つまるところ、あなたが真の霊的見分けをするための源、よりどころなのです。この点において、ヨハネの次の言葉を思い出してください。

「私は、あなたがたを惑わそうとする人たちについて以上のことを書いて来ました。あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、—その教えは真理であって偽りではありません。—また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」第一ヨハネ2:26、27

ここで少し全体を通して考えてみましょう。私たちは「内なる証人」を持ち、その証人が、私たちが決断、判断するのを助けるために平安を与えてくださっています。しかしながら、この「平安による結合」を私たちが持つからと云って、私たちのリーダーや他の人々が、神に用いられて、私たちに与えてくれる助言を無視してよいと言うことではありません。私たちは自分の意志に対する主権は保たねばなりませんが、私たちを訓練し整えるために、神はいろいろなミニストリーを(教会に)与えてくださっているのです。(エペソ4:11−12)

とは云っても、最終的に神の真理に対して「アーメンその通りです」というのは聖霊の油注ぎです。

 

私たちの目標は、「内なる証人」を発達させることです。なぜならばそれが神の御ことばの知識と一つとなる時、私たちは信仰の戦いのための兵器庫にパワフルな資源を持つことになるからです。御霊と御ことばは常に一致することを忘れないでください。ですからあなたが神の御ことばを学び、記憶し御霊に歩むならば、あなたはどんどんと見分けの力を増して行くことができます。(終り)


08 02月

2016年世界を変革する5つの霊的傾向  リック・ジョイナー     2016年2月8日


2016年世界を変革する5つの霊的傾向

 

リック・ジョイナー

 

主から示されてきた事が、御霊により偉大な影響力を持って素早くもたらされることを私は祈っています。御霊によってもたらされるものは、世界の様々な問題に対する解毒剤です。今までこの世が見たこともないすばらしい、そしてエクサイティングなことです。一人ひとりは皆主のご計画の「一部」しか見ることはできませんが、これは私が見た2016年に現れ始める最も重要な5つの霊的トレンド(傾向)です。

 

1. 教会の新たな変革の輪郭がはっきりしてくる

 

私はこのことに関して、今まで何年間も幻を見、また語ってきました。そしてこれがどのような形で実現するのかを次第にはっきりと見るようになりました。

教会の最大の変革の一つであり、又最も大きな影響を与えるものは、キリストのからだが主から召されている通り「主の軍隊」となり、軍隊の姿を取り始めることです。私はこの事をテーマにした「Army of the Dawn 夜明けの軍隊」という著書を出版したところです。主が地上を歩かれた時以来の福音拡大のための偉大な戦力を私たちは見るでしょう。

私が主から見せられた教会の改革の二番目は、キリストのからだが召されている「町」になるために起ることです。教会生活に変革がもたらされ、今まで見られなかったような深い絆で信徒たちが結ばれるようになります。それはエクレシア(教会の組織、運営)よりも、コイノニア(交わり)を基礎とするのです。

これはエクレシアの必要性が無くなるというのではありませんが、第一ヨハネ1:7にあるように、私たちはエクレシアではなく、コイノニアを持つことによって光の中を歩むことができるのです。光の中を歩んでいるかどうかは、コイノニアによって決まります。何故ならば、コイノニアは、組織を土台としているのではなく、先ず第一に愛が土台となるからです。組織と運営の必要性が無いわけではありませんが、荷車の前に先ず馬をつないで、正しい土台の上に教会を建て上げるということです。その結果は本当にすばらしいものとなるでしょう。

それによってキリストのからだにもたらされる交わりと団結は、教会を「山の上にある町」となし、世の人々の注目を集めるでしょう。それは一世紀以来の最も偉大な社会的団体、あるいはそれ以上のものとなるでしょう。「この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。(ハガイ2:9)」とあるように、世界の混沌が深まり行く中で教会は暗やみを照らす光となる召しを遂行していくでしょう。コイノにアの交わりは大変すばらしいものとなり、クリスチャンは毎日集まりたいと思うほどになるでしょう。

クリスチャンの生活共同体(コミュニティー)が再び形成されるようになり、独自の組織、施設を持ち、更には独自の経済を持つようになるでしょう。

勿論それがこの一年のうちに起るのではありませんが、私たちはその兆しを見るでしょう。ついには、どんなスポーツや娯楽、催しも、教会生活の楽しさやエキサイトメントとは比べ物にならなくなるでしょう。

 

2. 真の使徒的権威を持つリーダーたちの協議会(複数)が形成され始める

 

このことを私が初めて示されたのは1987年でした。これはある程度はすでに幾つかの場所で起っていると思いますが、まだ主が私に見せてくださったレベルには達しておりません。今年私たちは本物を見始めるでしょう。しかしまだ形成途上の段階です。ついにはこれらの協議会は、教会に並々ならぬ権威といのちを解き放つ助けとなるでしょう。教会を正しい聖書的土台にしっかりとつなぎとめ、偉大なミッションやミニストリーを建て上げるための安定した堅実さを教会に与えるでしょう。

今年はリダーたちの会合の上に神の恵みが増し加えられるでしょう。特に教団教派を超えたものが祝福され、キリストのからだに必要な交流、情報や意見の交換によって互いに影響を与え合い、互いの益となるでしょう。

 

3.御国の経済が形成され始める

 

最終的には、キリストのからだは独自の経済を持つようになり、それはコンスタントに強くなっていくでしょう。ですから、クリスチャンは誰一人として「けもののしるし」を心配する必要はありません。しかしながら、これはただ「けもの」に対抗するだけのものではなく、来るべき神の御国の経済の基礎をも築いているのです。それは、経済の最も偉大な原則である「愛は決して絶えることがない。Love never fails.(愛は決して失敗しない。) 第一コリント13:8」を土台として築かれるものです。

世界の市場はこれからも揺らぎ、暴落し、崩解しますが、御国の経済は決して衰えることはありません。御国は必ず「増し加わる イザヤ9:7」ものだからです。真に御国の上に建てられたものは、それが何であっても必ず増し加わります。安全な投資場所を探している人にとって、今台頭してきている御国の経済ほど安全で良いところはありません。「それは一体どこにあるのですか?」と訊く人は、御国が見えない人であり、御国が見えない人にはその経済も見えないのです。神の御国が見える人は、その経済が台頭してきたときにそれを見ることが出来ます。

ボーン・アゲインしなければ御国を見ることはできませんが、ボーン・アゲインしても御国が見えない人がいます。御国を見るためには、御国の鍵を用いねばなりません。その鍵とはマタイ6:33です。「だから、神の国とその義をまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」

 

4.新しい世代の預言者と教師が世界的な権威と影響力をもって現れはじめる

 

聖霊が今働いておられます。すべての真の聖霊のムーブメントに見られる特徴の一つは、真理と聖書(聖霊の書いたベストセラーです)に対する愛が増し加わることです。それと共に、キリストのからだのために教師として召され、御ことばを深く学び、様々な事柄に対する知識と理解を蓄積した人たちが、教会を建て上げるために用いられ、教会をこの時代にあるべき姿に整えていきます。主はまことに最上のぶどう酒を最後までとっておかれたのです。主が主の民にこれから与えてくださるものの質は、今までのものとは比べ物になりません。

 

この世の知識が大いに増し加わっています。御霊において解き放たれようとしているものも、それを反映しています。知識、真理、知恵、悟りを愛する者が生きるのに今ほどすばらしい時代はありません。聖書に対する愛はますます深まり、人々に広がっていき、それは今始まりつつある神のすべてのムーブメントを養い強めるのを助けます。

預言的啓示もまた、今までなかったほどになります。使徒行伝2:17−18にあるように「終りの日に」主は御霊を注がれ、「夢、幻、預言」を老人、若者、男、女に与えられるのです。新しい預言の波が解き放たれるのを私たちは見始めるでしょう。これは「終りの日に」起ることです。なぜならば、その時私たちは預言によるはっきりした導きと指針が必要だからです。時として、主がある所には行くなと言われたり、行くつもりのなかった所に行けと言われるのを聞くのは、私たちの生死を分かつ鍵になるかもしれないのです。これからの時代にはすべての人が聖霊に対する敏感さを必要とするでしょうし、またそれを得るのです。

私はこれから預言的働きをする者たちが登山をしている幻を見ました。彼らはほんの少し登るとその足場を固め、岩に深く杭を打ち込み、山に自分の身体を固定すると共にお互い同士しっかりとつながり合っていました。そしてまた少しだけ上に登り、同じようにしました。以前のように山のあちこちで一人ずつばらばらに登っているのではありません。これからの預言者たちは主の家の山に、そしてお互い同士しっかりと結びついていくでしょう。

 

 

5.非常に多くのクリスチャンが情熱とフォーカスをもって立ち上がってくるので、霊的大覚醒が始まったと言われる

 

エジプトにもたらされた災いは黙示録に書かれているものと類似しています。それは時代の終りに起る災いがエジプトの災いと同じ目的を持っているからです。即ち、神の民を解放する目的です。今までの数年間、ある者たちは目を覚まして、他の何よりもまず神の御国を求め始めました。彼らはキリストのからだの他の者たちが覚醒するのを助ける力強いメッセンジャーとなるでしょう。

覚醒し励ましを受けた教会は、歴史上最も強い伝道力となります。この霊的覚醒が進むにつれて、多くの新しい信者が起るでしょう。この時代の終りに起こる大収穫の最初の段階に今私たちは入っています。それは歴史上かつてなかった大収穫となります。国々の霊的、道徳的枠組みを変革し、世界中で教会を根底から変革します。そして教会は地を変革し、来るべき王のために道を備える助けとなるのです。(終り)


01 02月

神から受けたものを保つ方法     グラハム・クック        2016年2月2日


神から受けたものを保つ方法

 

グラハム・クック

 

 

神の御国にでは、あなたが神から受けるものはすべて、人に与えるために受けるのです。

私たちは自分が変革される道を学んでいますが、その鍵となる原則はこれです。「キリストにある私たちの経験は、それを人々に分け与えることを通して私たちの内に確立される。」その経験を自分の内だけに留めておくと、時が経つと消え失せてしまいます。しかし、それを人に与え続けるならば、もっと豊かにあなたに返ってきます。(ルカ6:38参照)

 

この原則を人間関係に当てはめると非常に興味深いものがあります。神が私に与えて下さったものを用いて人々を解放していくと、私の内のギフトが実際に増し加わり、もっと 豊かに(人に)与えることができるようになるのです。

以前は、私は内なる御国からではなく、周りで起っていることや、周りの人々の態度によって自分の感情を左右されていました。当然のことながら、それはよい結果を生みませんでした。私のリアリティーは内なるキリストから来ることを私が学び始めた時、周りにいた人たちは皆ホッとしたに違いありません。

 

神がご自分の性質を絶えず私に配分してくださっているので、私は単に人々の言動にその都度反射的にリアクトするのではなく、事前に自分の態度を予め定めることができます。私もあなたも神のご性質を前もって配分しておくことができるのです!

いろいろな日々の状況に、 私は「用心深く、悲観的に、否定的に、敵意をもって、攻撃的に、けんか腰で」臨んだことが何度もありました。「やっつけられないようにしろよ」とか「人のいいなりになるなよ」というような態度です。そのような気持で事に臨むならば、その結果は私の態度によって初めからすでに決められてしまっています。そして私は自分で蒔いたものを自分で刈り取ったのです。

けれども私が前もって充分な時間をかけ「御霊の実」を人々に割り当てる時には、私が彼らを主に祝福された状態に導き入れることができるので、彼らはどのような状況下にあっても、神の臨在を受け取りその中で神の御声を聞くことができます。

聖霊は人生を生きる天才であり、すべてのプロセスを司っておられます。この点において聖霊と共に祈ることによって、私の中の善意以外の(個人的な)動機はすべて完全に拭い去られます。そして動機と行ないにおいて私は聖くされるのです。

 

一つ私の個人的な経験をお話ししたいと思います。私の人生の悪夢のような一時期を、主は逆転させ、相手の人に癒しをもたらし、又私が大きく成長する力を与えてくださいました。ちょっと辛い話ですが、とても面白くもあります。あなたのお役に立てたらと思います。(訳者注:主がグラハム師の前に、師が一番いやがりイライラさせるような人ライオネルを敢て送り込んだのです。)

 

ライオネルは私を非常にいらいらさせ、立腹させました。手短かに言いますと、彼は私のメンターになることが自分のミニストリーであると堅く信じていたのです。彼は私を指導訓練して大いに繁栄させるために神から遣わされていた、と言うのです。ところが問題は、彼が用いた訓練方法は、全部私自身が作成したものだったことです!

彼は人々の前で私に手をおいて祈ったのですが、それは私が祈りのクラスで教えた「最も効果的な祈り」として私が考案した祈り方 crafted prayersそのものを用いた祈りでした。

いや全く腹立たしいのです! ある時私は「聖書のみ言葉からの預言」というクラスで、私たちの召しとデスティニーを形造るために「一生役立つ座右の銘的な」聖句 life verse」を神がどのように与えてくださるのか教えていました。そしてその時、私の人生で非常に重要であった幾つかの聖句を話したのです。ところがライオネルはその聖句を使って、私に偽の預言をしたのです。 全く腹の立つことにー彼は、何とかして自分が「グラハムのメンターである」ことを人にみせびらかそうとしたのです。

彼は私と出会うといつも、私に向かって指を鳴らし、私のCDや本の中から引用して、神が私に知らせたいことを声高に教え始めるのです。私のいらいらは頂点に達しました。

何週間も経ってから、私は主が優しくこう言われるのを聞きました。「ねえ、グラハム、わたしがあなたを連れて行きいと望んでいる所では、あなたはもっと忍耐が必要ですよ。」と。それは謎めいたミステリーで、意味が隠されている言葉であり、私の頭を離れませんでした。数週間後、もっとはっきりした主のメッセージを受け取りました。「グレイ(神がグラハムを呼ばれる愛称)、ライオネルとあなたは二人とも同じものを必要としているんだよ。」

天が崩れ落ちると同時に足の下の落とし穴が口を開いたようでした。その時私は神からのものではない悪い言葉(異言)を口から出していたかもしれません。でも腹を抱えて大笑いしている神に向かって怒り続けるのは本当に難しいものです。

神は私と一緒に笑う時もありますが、時に又私のことを笑う時もあります。どちらにせよ、神は私を微笑ませてくれます。神の喜びは深く伝染するものですね。

 

神のコメントを聞いたときの私の腹立ちを持続することは到底無理でした。私はいつもまつわりついているライオネルに対してもっと忍耐することを学ぶことを、しぶしぶながら考え始めました。ここがポイントですが、もし神があなたに何かを学べと言われたときは、それに関して何か喜べることを探してください。喜びは強力な(腹立ちを押さえる)麻酔薬です。

私はライオネルに対して忍耐を分ち始めました。彼はそれによってものすごく励まされました。私に対する彼のミニストリーは見るからにうまく行っていました。彼は勇気を得て、私の人生の他の領域までメンターとして力を発揮してきました。私は自分の子どもっぽさを見せないようにして、聖霊に助けを求めました。二人で出席する集会が予定されている時は、何日も前から忍耐を彼に向けて割り当てました。

 

彼は会場の左側の一番前の列に座るのを好みました。私はその全部の椅子に手をおいて祈りました。ところが彼は今度は右側に移りました。私はそこで彼を祝福しました。次に彼は後ろの方に座りました。

しかし彼に割り当てた私の忍耐は心からのものではなく、状況に左右されてしまうものだということが分かり始めました。神に真剣に従わねば二人とも成長できないのです。私は彼に忍耐したかったのではなく、彼を忍耐強くしたかったのでした。できれば彼が喉を痛めて声が出ないようになって欲しかったのです。

 

御霊の実に逆らえるものは何もありません。私は自分のこころを主と共に御霊の実へと進ませました。私は自分の忍耐を、神からの恵みの一つとしてライオネルを祝福するために用いるのではなく、彼から自分を守る盾として用いていたことに気がつきました。

神が、ある人に対して、あなたがどのような者になって欲しいかを本当に理解するようになると、あなたは最早、その人が何をしようといらいらしなくなります。

私は神がライオネルを(無条件に)どれほど深く愛しておられるかに気が付きました。そして、私がその事に敏感になればなる程、私の彼に対する忍耐は強まり、彼はあまり私をいらいらさせなくなりました。私たちの関係は良くなってきたのです。しかし、ブレークスルーはまだ来ませんでした。私はライオネルを私の忍耐のためのプロジェクトとして見るのではなく、ただイエスのために彼を心から愛する必要があることに気が付きました。そうなると私たちが変えられるまでの時間を計るストップ・ウオッチは必要ありません。私は時間を気にしなくなりました。

 

その後何ヶ月も経って私が道を歩いていると、神が「あなたの忍耐をあなたの前に置きなさい。」と言われるのを聞きました。「えっ、何ですって!どうやって?」と思わず私は口に出しました。神は「息を吐くときはあなたの前方の空間に空気を押し出すでしょう。忍耐をそのようにするのです。忍耐はあなたの霊の中にあるのですから、それを口に出して前に向かって語りなさい!」と言われました。私は口の中でもぐもぐと「忍耐」と言いました。すると神は(私に対する愛をこめて)笑われました。私は主がどれほど私を愛しておられるのかをしばしば忘れていますが、時に、主が私に学ばせようとされる主の愛とその情熱に心打たれます。私は次の数分間、忍耐ということばを私の前に何度も吐き出していました。そして主に「なぜ私は今こんなことを道路上でしなければならないのですか?」と訊ねると、主は「ライオネルがその角を曲がったところをこちらに向かって歩いて来つつあるからです。」と答えられました。

主が「ライオネル」と言われた時、私は心を打たれました。名前の言い方に愛が溢れていたからです。私は今までより2倍がんばって「忍耐」を前方に送り出しました。角を曲がるとライオネルが60メートル先にいるのが見えました。彼も私を見つけて、指を鳴らしました。私は縮まっていく二人の距離にむかって、もっと「忍耐」を送りました。突然、彼は何かにぶつかったように立ち止まりました。近づくと、彼は訝しげな顔をして頭を振っています。私は「大丈夫ですか?」と聞きました。

すると彼は目に涙を浮かべ「私にはミニストリーがありません。私の兄弟たちは皆私よりずっと頭がいいんです。私は人々に認めてもらいたいんです。友達もいません。」と言うのです。

私は彼のために祈りましたが、その時何かが変ったのです。それからの数ヶ月に彼の私へのミニストリーは段々少なくなっていきました。6ヶ月後に彼は違う街で新しい仕事を見つけました。それはライオネルの内に神の臨在が濃くなり、彼が神の恵みを天から引き下ろす事ができるようになったからだと私は思います。

 

御霊の実は人々の周りの環境を変え、彼らの内の霊的空気を変えます。

又、人々の信仰をかき立て、人間関係を変えるのです。そして自分の中にある否定的なものを克服します。私たちが神とパートナーになるとき、人生の中で起る状況を通して神の empowering な力を得ることができるようになります。それは私たちがブレークスルーの霊に協力するからです!(終り)