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Walk With God Ministries


14 01月

死に至るまでも(その一) ダニエル・コレンダ (Christ for all Nations) 2019年1月14日


死に至るまでも(その一)

 

ダニエル・コレンダ (Christ for all Nations)

 

 

黙示録12:11「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」

 

 ご存知のように私は伝道者ですので、あまり外交的で耳に心地よい話ができません。牧師の役目は悩んでいる人を安らかに心地よくすることですが、伝道者の役目は安らかにしている人のこころを揺さぶり悩ますことです。ですから今から話すことはある人々にとっては嫌な話かもしれません。しかし、私は神が私たちを揺さぶって目を覚まさせてくださることを願っています。

それは「心地よいキリスト教」から「本物のキリスト教」へと移行させてくださることを願っています。すなわち「新年はあなたにとってすばらしい年となります」というメッセージではなく、「自分の十字架を背負って歩きなさい。」というメッセージをします。

 

ジョン・アレン・チャウの殉教

 

皆さんはジョン・アレン・チャウ(John Allen Chau)という若者をご存知でしょうか。この世のほとんどのメディアが、彼の身に起こったことを大きく報道したのは驚くべきことでした。しかしその多くは間違った報道であり、多くの混乱がありました。2018年11月17日に26歳のジョンは福音のために命を落としました。彼はインド洋のノース・センチネネル島に福音を伝えに行き、原住民に弓矢で殺されました。島の住民はすべての文明から自分たちを隔離し、外からの侵入に対して非常に攻撃的でした。2006年には、漂流して島に近づいた舟に乗っていた二人の漁師が彼らに殺されました。2004年にその地域に起こった津波の被害を調査をしていたインドのヘリコプターに向かって彼らは弓を射ました。ヘリコプターが何であるのかを知らなかったのでしょう。彼らが外部との接触を極端に嫌っていたのは明らで、インド政府は島と周りの海域を立ち入り禁止区域と定め、住人と接触することを違法としました。

 

ジョン・アレン・チャウは、18歳のときからこの島に行ってイエスの愛を伝える準備をしてきました。18歳の時彼は心にその召しをはっきり受けたのです。それからの10年間、彼がしたことはすべてその目的のための備えでした。オクラホマ州タルサや南アフリカで貧しいユースのためのボランティア活動をしました。イラク北部でシリアからのクルド人の難民の子どものための宣教師となりました。オーラル・ローバート大学でヘルス・サイエンスの学位を取得しました。医学、言語学、民族学を学び、宣教師訓練学校では僻地で生き延びる訓練も受けました。健康を保つための栄養学を学び肉体を鍛えました。一年に100冊以上の本を読み、精神的にも島での生活に備えました。そして実際に島に出かける前には13の予防接種をし、更に自らをしばらく隔離して何の病気も持ち込まないようにしました。彼は自分で知るかぎりのことをして、島の人々に福音を伝える準備をしたのです。彼は原住民と知り合い、友情を培い、必要ならば彼らの中に何年も住んで彼らの原語を学び、聖書を翻訳したいと考えていました。すべて彼らをイエスのもとに導くためでした。

 

多くのメディアが伝えたのとは反対に、ジョンは一人で行こうとはしていませんでした。メディアは、「ジョンは自分がメサイヤであるかのように一人で行ってヒーローになりたかったのだ」と報道しました。私たちはジョンと長年親しかった女性の友人に連絡をしました。彼女によれば、ジョンの死が報道されてから何日間も、多くのジョンの友人たちが深く嘆き悲しんで彼女に連絡してきて、彼らがジョンに一緒に島に行ってほしいと頼まれたことを告げたそうです。彼らは恐れて誰も行かなかったのです。

ジョンの決意は驚くべきものでした。多くの障碍がありました。島に近づくのが違法であること、又、たとえそれが合法であったとしても島にたどり着くのは非常に困難であり危険であること、一人きりであったこと等々、すべてのことを彼は乗り越えたのです。彼はインドに行き、そこの漁師に頼んで木製のモーターボートで、夜の闇にまぎれて島から800メートルほどのところまで行ってもらいました。漁師はそれ以上は行きたくないというので、彼はカヌーに乗り換えて、島に着きました。

 

ジョンの母親は彼の日記をワシントン・ポスト紙に渡しました。インターネットで誰でも見ることが出来ますが、ロビンソン・クルーソーのような冒険記です。ワシントン・ポストの記事から少し引用してみます。

 

「彼は10月16日にアドマント(インドの漁村)に着いた。11月14日の夜、漁師に金を払い彼らの船でパトロール船のサーチライトを避けながら島に向かった。翌朝日が上ったとき、彼は一人カヌーで島に上がると、女性たちは何か話していたが、弓矢をもった男たちがやってきた。『私はジョンといいます。あなたがたを愛しています。イエスもあなたがたを愛しています。』と叫んで、またカヌーで漁船までもどった。二日目に彼は 魚、はさみ、安全ピン、というようなギフトを差し出した。花の冠のようなものを被った男性が彼に叫んだので、彼はワーシップソングや讃美歌を歌うと、彼らは黙った。若者が彼に矢を放ち、それは彼の聖書に当たった。彼はマングローブの林の中を逃げ、また漁船までもどった。『主よ、この島の住民はあなたのことを聞いたり読んだりする機会がないままなのです。』と彼は日記に書いた。三日目には彼は自分が殺さることを覚悟した。美しい夕日を見ながら、彼は『私が夕日を見るのはこれが最後だろうか。』と泣きながら書いた。次の日、彼はまた漁師に海岸まで連れていってもらった。その後漁師たちは島の男たちがジョンの死体を引きずり埋めるのを目撃した。」=引用終り=

 

私たちはジョンと非常に親しかった友人に聞いたのですが、ジョンにとってイエス・キリストが全てであり、彼はすべてを主に捧げきっていたのでした。彼と親しかった人達は彼を「無私で愛情深く勇気がある者」と表現しています。「様々な困難な状況の中でも、彼は常に人の話に耳を傾け、ゴシップなどしたことがなく、彼が怒ったのを見たことはなかった」と人々は言います。

私は100億のジョン・チャウがいたらいいのにと願います。犠牲と殉教の霊を持つ世代が福音を全世界に宣べ伝えることを願います。行きやすいところにはすでに福音が届いています。ですからこれからはジョン・チャウの大胆さと勇気を持つ軍隊が必要なのです。ただ人々をわくわくさせ心地よくさせるためではなく、命をも惜しまない犠牲と殉教の御霊が注がれることを望みます。

 

彼に対する社会の反応

 

このすばらしい若者の死に対するメディアの批判を見て、私は深く悲しみました。彼らは一面しか伝えておらず、非常に不公平な報道でした。彼らはジョンを「クレイジーでおろかで甘い考えを持った若者」と表現しました。批判はキリスト教界の中でも同じでした。あるユース・パスターは「ジョンは危険な幾つかのイデオロギー(観念)に憑かれ、非常に愚かな行動へ走った。」と言いました。「危険な幾つかのイデオロギー」とは、例えばイエスの「大宣教命令」のことでしょうか?

 有名な聖書学校の学部長をしている人は、「ジョン・チャウのしたことは、ミッション活動の中でも極端にうぶで愚直な甘い考えの行動であった。」と言いました。彼は象牙の塔で安楽椅子に座り、誰かが血を流し死んで行くのを遠くから眺め、「神学的に考察」しているだけなのです。しかし、もっと悪いのはSNSの中で言われたことです。「彼は全く愚かである」「他の文化を尊重しなかった」「民族の伝統的価値を尊重しなかった」「植民地にしようとした」等々、キリストの命令を実行した一人のクリスチャンに対して、多くのクリスチャンが投げかける言葉を読んで、私は心から驚嘆し嘆きました。

 

私たちは道を見失ったのでしょうか。一体なにが起こっているのでしょうか。犠牲と血を求める福音を私たちは忘れたのでしょうか。イエスに従い世界に影響を与えるためには代価を払わねばならないことを忘れたのでしょうか。「すべては自分が幸せになるため」という福音に染まってしまったのでしょうか。「私が心地よく、楽しく生活できて、今最高の人生を送るための福音」に堕落してしまったのでしょうか。キリスト教は人々の救いのためにご自分のすべての血潮を注ぎだした方の上に立っていることを忘れたのでしょうか。主は血潮の染まった十字架で最もむごい最後を遂げられたのです。彼こそ最も過激に生きた人だったのです。彼こそがキリスト教の創設者なのです。

 

私たちの信仰は、むごい殉教の死を遂げた使徒たちによって伝達されたことを忘れたのでしょうか。

初代教会以来200年間、教会の父祖たちは信仰のために火あぶりにされ、のこぎりで引かれ、十字架にかけられ、拷問にあったのです。ネロの庭園で彼らがたいまつとして焼かれたのを私たちは忘れてしまったのでしょうか。競技場でライオンのえさにされたのを忘れたのでしょうか。異教の地に福音を携えて入った人たちが弓矢で殺されたのを忘れたのでしょうか。キリスト教は常にリスクをともなう危険な行動によって広まっていったのです。皆さんが今クリスチャンンとして教会で座っているのは、何百万人というジョン・チャウが、あなたの国に行ってあなたの先祖、親族に命をかけて福音を伝えたからなのです。

 

初代教会では多くの者が殉教の死を遂げました。教父の一人であるターチュリアンは「殉教者の血は教会を生む種である。」と言いました。ヘブル11:35~38節を見てみましょう。「またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました。また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖でつながれ、牢に入れられるめに会い、また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした。荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。」

 

これこそが私たちが受け継ぐべき遺産です。私たちの信仰のために、多くの者が血の代価を払ったのです。メディアはジョン・チャウをクレージーと呼ぶかもしれません。クリスチャンは「彼の考えは甘かった、愚かだった」と言うかもしれません。しかし聖書は「この世は彼らにふさわしい所ではなかった、彼らに住んでもらう価値がなかった」と言うのです。

 

新しい世界宣教の波

 

私は今までに無かったような大きな世界宣教の新しい波が起ころうとしているのを感じています。しかし、それが起こるためには、今まで以上の犠牲を払わねばならないのです。17世紀のジョン・エリオットのように、ジョン・チャウがその模範、原型となるでしょう。世界にはキリスト教の教会が一つもない地域があるのです。キリスト教が違法であり、キリストを伝えるためにはすべてを捨てなければならない地域があるのです。

35節に「釈放されることを願わないで」とあります。彼らは釈放されるよりは死を選んだのです。「私のために命を与えてくださった方のために、私も命を捧げたい。」と彼らは言ったのです。これは現代のアメリカ人の耳には「極端で過激」に聞こえます。でもこれが聖書に書かれているキリスト教です。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と主は言われました。十字架とは拷問と死です。キリストのために命までも捨てる、という精神はどこに行ってしまったのでしょう。

 

「そのような事は遠い昔に遠い場所で起こったことだ」と思われる人がいるかもしれません。しかしこの10年に一億人のクリスチャンが殉教しているのです。今も毎月数百人のクリスチャンが殺され、200人が誘拐され性的暴行を受けています。毎週66の教会が襲撃され、160人のクリスチャンが裁判なしに拘束されています。歴史を通してキリストのために死んだ77億のうち、半数がこの100年で死んでいるのです。

 

これは私にとっても身近なことです。アフリカでの私たちの伝道集会でイエスを信じた人が、その会場を出るまでに殺されたこともあります。救われて家に帰ったときボーイフレンドに殺された女性もいます。彼らにとってクリスチャンになるのは、ただ「週に一度教会に行く」とか、「たまに祈る」とかではなく、すべてのものを捨てることなのです。又、半月前、私たちのミッションチームはナイジェリアからコンゴまで8週間車を運転して行きましたが、内戦が起こっている地域を銃弾を避けながら越えていき、夜は車の上で寝て、食べるものは死んだ動物でした。そしてまた8週間かけて戻ってくるのです。帰りに銃弾を3発受けた者がありましたが、奇蹟的に助かりました。このような事が毎日福音のために起こっているのです。

人々はそれはあまりにも極端で過激なことだ、何でそこまでしなくてはならないのか、と言います。しかし福音を聞いて救われた人の喜びの笑顔のために、私たちは命をかけるのです。皆さんはあまりにも極端すぎると言われるかもしれませんが、私はそれをキリスト教と呼びます。私はそれが普通のこと、ノーマルなキリスト教だと思います。(続く)

訳者注:ダニエル・コレンダ師は、クライス・フォー・オール・ネイションのプレシデントCEO として現在世界中で活躍しておられますが、皆様よくご存知の世界的に有名なエヴァンジェリストであるレインハード・ボンケ師の後継者として、世界で最も危険な僻地を中心に、野外集会によって既に2100万人の人々を救いに導いておられます。今回のメッセージは昨年末のモーニングスターミニストリーでの集会で語られたものです。


07 01月

今世界が抱えている深刻な問題=グローバリズムとナショナリズム=をどう対処すべきか 2019年1月7日                   リック・ジョイナー


今世界が抱えている深刻な問題=グローバリズムと
        ナショナリズム=をどう対処すべきか
                   リック・ジョイナー
はじめに                     坂 達也
 リック・ジョイナー師は昨年の12月14日に一つの夢を見ました。その夢から覚めた時、とっさに彼は「これは今までに経験した中で最も重要かつ信頼できる主からの霊的啓示ではないか」という気がしたそうです。それは「天からの見方によるアメリカ共和国の歴史」というものでした。夢の中で大きなスクリーン上を歴史の流れが右から左へと順次映し出されてゆき、時代を追ってそれを見ていると、やがて現時点にまで来ました。その時スクリーンには金色に輝いた鮮やかな字で「第二次アメリカ市民/革命戦争は避けられない。それは正しく、そして成功する」と書かれていたそうです。
第一次アメリカ市民戦争とは南北に別れて戦った南北戦争のことです。ジョイナー師は「私たちは既に今、この第二次市民戦争の最初のステージに入っていることは疑う余地もない。しかしこの夢を見るまでは、この戦争が『避けられない』事態に至るまでには未だかなりの時間があると思っていましたが、すでにその時が来ている事がはっきり示されたのです。従って私たちの戦術は、今までは『そういう事態を避けよう』であったのを、今は『その戦争には絶対に勝たねばならない』に変更する緊急事態に直面している」と言います。
そして「第一次市民戦争では、目的のものを勝ち得たのではなかったがゆえに、いまでも人種差別の課題だけでなく、貧富の差、政治的対立等を含むあらゆる面で未解決の課題が尾を引いて来た。」と言って、今こそアメリカは真の自由と正義を勝ちとる時が来ていると大いなる警報を鳴らしています。以下は、師の「プロフェテイク・プロスペクト」から抜粋したものです。
グローバリズムとナショナリズム
リック・ジョイナー 
2014年に私が、2016年に選出される次期大統領に関して祈っていた時、神は名前は言われませんでしたが、その大統領は「八方から襲ってくる敵と戦える者」であり、「自分の国を愛する者」であると言われました。これまでは世界的にグローバリズムが力を増していましたが、これからはアメリカのみならず世界的にナショナリズム(国家主義、愛国主義)が強くなることだと私は解釈しました。今回はこの両者の違いを説明したいと思います。
グローバリズム
多くの人はグローバリズムに概ね賛同していますが、それが自分たちの生活に影響を与え始めると、その現実に非常に驚き大きく反発します。ですから私たちは、グローバリズムとは一体何であり、どのような影響をもたらし、何処に向かって行くのかを、前もってしっかりと知る必要があります。グローバリズムは世界統一政府(One World Government)へと向かって行きます。「全世界を統治する権威を立て、人類が一丸となって世界が面している諸問題を解決していかねばならない」という考えです。
その良い点は、国々の間に会話と協力を生み出すことですが、問題点の方が絶対的に多いのです。これは今日世界にはびこる最も脅威的な思想だと思います。
聖書の中に表されている世界統一政府には二つあります。一つは反キリストにすべての人類が服従する反キリスト統一政府であり、それは世界の崩壊をもたらします。もう一つは神の御国であり、それも世界的統一政府です。主は王の王であり、世界を統治されます。 アメリカは、神ご自身がこの地を統治される日まで、聖書に書かれている神の方法で国を治めることを土台に建国された国です。
私たち主を信じる者はその日を待ち望んでいますが、その日が来るまでは、私たちは幾つかの権力と戦っていかねばなりません。
マルクス主義
一つはマルクス主義(共産主義)で、それが完全に機能するためには全世界が一つに統治される One World Governmentになる必要があります。私もティーンエイジャーの時はマルクス主義者で、沢山本を読み研究しました。しかし研究の結果、それがどれほど間違っているかが分かりました。マルクス主義を取り入れた国家の民衆は悲惨な生活を強いられています。恐ろしいことにアメリカでは今ほとんどの大学でマルクス主義が説かれ若者を洗脳しています。
社会主義
次にセキュラーなヒューマニズムがあります。これは共産主義的社会主義(ソーシャリズム)で人々をコントロールをしていきます。社会主義の一部は政府の政策に取り入れられてよいこともありますが、100%の社会主義であるならば、政府は破綻します。基本的な経済学を知っていれば、社会主義がいかに馬鹿げたことかはわかるはずです。最初はうまくいくように見えます。イギリスのサッチャー氏は「社会主義の問題点は、いつかあなたは他人のお金を使い果たしてしまうからです。」と言いました。経済的、政治的方策として社会主義は必ず破綻します。
シャリア法
もう一つのグローバリズムの形はイスラム教のシャリア法です。イスラムという言葉の意味は服従です。イスラム教の究極の目標は、全世界がアラーに服従し、シュリア法に従うことです。イスラム教を真に信じる者は過激派であり、この究極の目標のために命をささげています。確かにそれは間違ったことですが、多くのクリスチャンが「雨が降ったから」というだけで教会に行かないのに比べ、彼らの献身が勝利を与えているのは否めません。
私の友人の預言者が、ベルリンの壁が壊される前に「マルクス主義とイスラム原理主義が一つになるであろう」という神の言葉を聞きました。(当時イスラム原理主義などは社会的には出現していませんでした。)両者が一つになることは非常に恐ろしいことですが、今それが現実になってきています。
ナチのような愛国的社会主義(ナショナルソーシャリズム)においては、リーダーはどんどんと暴君になり、人民の思想や行動をコントロールし、すべての国民を同化しようとします。共産主義の国に行かれたことがありますか。ベルリンの壁が壊された直後に私は行きましたが、街には色彩がありませんでした。すべてがくすんだ緑と灰色でした。すべての建物、歩いている人たちもみな同じに見えました。私がその理由を訊いたところ、人々が最も恐れたのは「目立つことをして人と違うように見られること」だったのです。もし目立つならば、「皆と同じでなければならない」というプレッシャーの中で攻撃される標的になったのです。
全体主義による統一 、人間的なグローバリズムはすべての面において絶対的同一化を人間に課し、人々の個性や自由な思考を完全に押しつぶします。個人の自由は極端なグローバリズムとは絶対に共存はできないからです。グローバリズムがコントロールを強めていくならば、かならずそのようになって行きます。それはグローバリズムは全体主義的コントロールなしには、決して機能しないからです。
ナショナリズム(国家主義、愛国主義)
では次にナショナリズムを見てみましょう。何故ナショナリズムがより聖書的なのでしょうか。まず神が求めておられる一致というのは多様性の中にある一致であって、同一化による一致ではないのです。グローバリストの目標は、「すべての者を同一にする」ということですが、神は私達一人ひとりを違うように造られ、多様性を愛されています。神はすべての人類の多様性を通してご自分を表されたいのです。人類がみな同じになるのではなく、ユニークな一人ひとりが全員で神を表していくのです。それぞれの違いを敬い、認めて、お互いから学び合う事こそが神の望まれる一致です。
又、国土、国の領域に関しては次のような聖書箇所があります。
使徒17:26「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。」
申命記27:17「『隣人の地境を移す者はのろわれる。』民はみな、アーメンと言いなさい。」
箴言13:22「善良な人は子孫にゆずりの地を残す。」
子が相続するものは、土地であり、伝統であり、歴史です。勿論歴史の中には良い物だけではなく悪いものや醜いものもあります。誇ることの出来ないものもあります。しかしそれらも教訓として失ってはならないものなのです。すべてが私たちが受け継ぐべき分なのです。
エペソ6:2−3「『あなたの父と母を敬え。』これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、『そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。』という約束です。」
この箇所は「あなたのすばらしく完全な父と母を敬え」とは言っていません。どんな親であっても敬えと言っています。私たちは自分で親や先祖を選ぶことは出来ませんし、自分の生まれる国を選ぶこともできません。しかしどのような親や国であっても敬うべきこと、学ぶべきことが必ずあります。グローバリズムはそのようなそれぞれの国の伝統歴史を否定していくものです。
極端になる危険性
ナショナリズムは、それ自体はその国独自の伝統と文化、習慣、政策などを保持しようとすることで、決して悪いことではありません。けれども、ナチはナショナリズムにソーシャリズムや人種差別を混ぜ合わせました。これは恐ろしい組み合わせでした。宗教とナショナリズムを一緒にしている国家もありますが、これも非常に恐ろしいことです。それによって人々をコントロールしようとしていて、それは絶対に避けねばならないことです。
今、私たちはナショナリズムの方に進んでいます。それは正しいことであり、聖書的であり、神の御こころだと信じます。しかし何事もそれが極端になる時に悪となり危険なものになり得ることを私たちは知らねばなりません。歴史を見ればそのような前例が沢山あるのです。
EUで起こっていること
グローバリストは「私たちは一致を保つためにほんの少しコントロールするだけだ。」と言います。確かにEUにおいても最初は各国の政治、文化にはほとんど干渉しませんでした。しかし今や威圧的な全体主義の法案が可決され、コントロールが強まってきて、その抑圧に反発する国が起り始めました。私はEUはやがて解体すると思います。確かにそこから良いことも生まれましたが、今は全体主義が大きくのしかかってきています。今やEUの移民政策を批判することさえ犯罪とされたのです。イスラム教を批判することも犯罪です。その反対に聖書の真理を語るならば「ヘイトスピーチ」とし告発されます。明らかに全体主義的コントロールの方向に進んでいて、これがグローバリズムです。
アメリカの現状
今アメリカはリベラル派と保守派(コンサーバティブ)にニ分されています。リベラル派は、人々のすべての問題を解決し、守り、必要を満たすのは政府であると考えます。それに対して保守派は、それは個人の責任であり、自分に必要なものは自分で調達するという考え方です。基本的に言うならば、政府が人々の面倒を見ようとすればするほど、人々をコントロールせねばならなくなります。それは実証されていて、リベラルな左翼が人々をどんどんとコントロールする方向に行っているのは当然の成り行きです。「政府が私の面倒は皆見てくれる」と考えるならば、あなたは恐ろしい専制政治を迎えることになるのです。
ハリケーン・カテリーナでの教訓
私たちが2005年、ハリケーン・カテリーナに襲われた地域に救援に行ったときのことです。救援物資を運んでいき、毎日何千人にも食糧を与えるようになりました。人々が寝ることができる場所も作りました。全部でニ千五百万円相当の物資を送りました。そこですぐに歴然としたのは、それまで自分で働いて生計を立てていた人と、政府からの援助で暮らしていた人との態度の違いでした。これは人種とかとは関係がありません。政府のお金で暮していた者たちは、たとえそれが健康な若者であっても、トラックから荷を下ろすとか、キッチンで働くとかを手伝ってほしいというと、気が狂ったように腹を立てました。そして「テレビが見えない、電気がない」とか文句ばかり言うのです。ボランティアの学生にむかって大声で怒鳴り散らすのは、本当に驚くべき異常な光景でした。自分のランチも学生に持ってこいと命令するのです。
また 、ハリケーンが襲ったとき他の街に出かけており、戻ったときに家族全員が亡くなっているのがわかった男性がおりました。彼は悲しみのあまりよろよろと歩いていました。しかし翌日にトラックが到着して皆が荷を下し始めたとき、真っ先に手伝い始めたのは彼だったのです。彼は自分で働いて生計を立てていたので、必要を見たときには手伝わずにおれなかったのです。その後も彼は何でも手伝ってくれました。
ハリケーン・カテリーナという災害において私たちは、人々が陥る最も忌まわしい状態(自分では何もしないで、すべて他の責任にする)と、最も気高い精神(悲しみで身体が動かないような時にも人のために自分の出来ることをする)とを見たのです。
政府がどれほどお金があったとしても、もしあなたが希望を政府においているならば、大きなリスクや危険を伴うのです。私は人々の面倒を見てくれる政府を感謝しております。しかし政府がすべての重荷を負う事はできません。出来ることには限りがあリます。今世界で健全だと言われる国家であっても、揺れ動いています。災害が起こったとき、人々は政府に助けを求めます。しかし今は世界であまりにも多くの災害や艱難が起り、そのすべてに対処できる政府などありません。私たちはもっと信頼できる方に頼らねばなりません。それは主なるキリストご自身です。主こそ私たちが頼るべき方です。主への信仰の中を歩むのです。そうすれば私たちは裏切られることはありません。(終り)