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21 1月

死に至るまでも(そのニ) ダニエル・コレンダ                    2019年1月21日


死に至るまでも(そのニ)

 

ダニエル・コレンダChrist for all Nations)

 

 

真の福音とは

 

ティーンエイジャーの頃、私は過激なクリスチャンで、仲間と一緒に「全ての人に福音を伝えよう!」と張り切っていました。サタンから逃げるのではなく、サタンを捜しに出かけて行き、その結果色々な問題を起こしました。ある時、ニューエイジのショップに出かけました。「そこにいるサタンを追い出して、そこにいる人達を救いに導きリバイバルを起こそう!」という意気込みでした。友人二人と一緒に店に入ると、片隅にピアノがあるのが目に入りました。私は当時ワーシップ・リーダーだったので、「ワーシップ・ソングを弾けば、主の臨在が満ちて、敵は慌てて逃げ出し、店中の人たちは救われるに違いない」と考えました。そこで私はピアノを弾きながら「イエスよ、あなたは聖なる方・・・」と歌い始めました。イエスの名を聞けば、サタンは恐れて逃げ去ると考えたからです。

 

しかし驚いたことには、店のオーナーが私の横に立って一緒に歌い始めたのです。私は「えっ、どうして?」と訝しく思い、ピアノを弾くのをやめ、「あなたはクリスチャンですか?」と訊ねました。彼女は「いいえ、私は魔女よ。」と言うのです。「でも、あなたはイエスの歌を歌いましたよね?」と私は驚いて訊きました。「そうよ。だって私たちはイエスが大好きですもの。」というので、私は「イエスが大好きって、どういう意味ですか?」と訊きました。すると彼女は、「イエスはすばらしい人でしたよ。悟りをひらいたグールーで、超越した人でした。大好きです。」と言いました。

 

私はその日、大変貴重なことを学んだのです。それは「みんなイエス様が大好き」ということです。イスラム教の人も、仏教の人も、ニューエイジの人も、無神論者さえ、皆イエスは大好きなのです。どうしてかおわかりでしょうか?

それはみんな「自分が考える自分のイエス」が好きなのです。「善良な人」「グルー」「話の中の人」「偉人」「預言者」等々、皆勝手なイエス像を作りあげています。しかし、あなたは「自分勝手に考える自分好みのイエス」を持つことはできません!イエスは聖書に書かれているイエスだけです!それ以外のイエスは、イエスでは全くなく、偽物です!

十戒の2番目は「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。」です。私たちは最早偶像を造ってそれを拝むことはしないでしょう。しかし、この戒めを現代版にすれば「あなたの神をあなたの形に造ってはならない。」となります。自分勝手に、自分の気分や好み、願望に従って神を形造ってはならないのです。

 

すでに死んでいる人達

 

マタイ5:29−30「もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」

 

私は皆さんに「殉教するために出かけなさい」と言っているのではありません。ジョン・チャウのような人たちが殉教したのは、矢が胸に刺さったときではありません。彼らは出発する前からすでに殉教していたのです。彼らはすでに自分に死んでいたので、誰も彼らから命を奪うことはできませんでした。これこそイエスが私たちすべての者に望むことです。肉体的に殉教するかどうかの問題ではなく、私たちが自分の命を主に明け渡しているかどうかです。

あなたが「私は出かけて行ってイエスのために命を捧げます」と言ったとしても、コンピューターを消すことも、ポルノを見るのを止めることも出来ないならばどうでしょうか。イエスは「あなたの目があなたをつまずかせるならば捨てよ」と言われているのです。これがキリスト教です。冗談ではありません。

 

本物の聖霊

 

1995年にフロリダのペンサコーラでリバイバルが起こったとき、多くのメディアが取材に来ました。ある番組が、そこで救われて聖霊に満たされ劇的に変えられた若い女性とその家族にインタビューをしました。その家族はそれまでずっと伝統的な教会に通っていました。自分達の娘が聖霊に満たされ、異言を語り身体を振るわせている様子を見て、両親は言いました。「私たちは、これは神の業だとは思いません。なぜなら、聖霊は家族の中に分裂をもたらすような方では絶対ないからです。」と。しかし私たちは自分勝手な聖霊を造ってはならないのです。イエスがどのように言われているか見てみましょう。

 

マタイ10:34~39「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについてこない者はわたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」

 

砕かれる者

 

マタイ21:44「また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。」

 

ここに究極の福音があります。私たちは砕かれるか、それとも粉みじんになるかのどちらかです。(broken or crushed)

あなたに与えられている選択肢はこの二つだけで、中間はありません。ある時私は、ワーシップソングを流しながら仕事をしていたのですが、突然「You saved me and now I am better off(あなたが私を救ってくださったので、物事がうまくいくようになった)」という歌詞が耳に飛び込んできました。「better off よくなった、うまくいくようになった」とは死刑を免れた者がいう言葉ではありません!

問題は救いが何であるかを私たちが理解していないところにあります。イエスが十字架で死んだのは、私たちが「少しうまく」暮らせるようになるためでしょうか?違います!地獄に行くことが決まっていた私たち罪人を解放し自由にするために、主は最も残酷な死を遂げられ、そして私たちにも十字架を担ぐようにと言われたのです。

 

イエスの血を飲む

 

ヨハネ6:53「イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。』」

 

イエスはこれを、血を食することを律法で固く禁じられているユダヤ人に向かって言ったのです。主はそれを4度も繰り返し言われ、ユダヤ人を激怒させました。イエスは人の気分を害さないように話す方ではありませんでした。

 

あかしの言葉とは

 

冒頭にあげた箇所をもう一度見てみましょう。

黙示録12:11「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至までもいのちを惜しまなかった。」

 

ここにある「あかし」とは、自分が救われたときのことを話す証ではありません。これはギリシャ語では「marturias」であり、英語のマーターと同じで殉教という意味です。即ち、信仰の故に裁判にかけられている者の口から出ることばであり、イエスを否まないで信仰を貫くならば「死に至る」ことを覚悟したことばです。最終的にあなたが殉教するかどうかが問題ではありません。私たちのある者は、殉教の特権(そうです、特権です)に与るでしょう。でも他の者はそうではないでしょう。「主のために死ぬか?」ではなく、「今主のために生きているか?」が問題なのです。主のために生きられないのなら、主のために死ぬことなどできません。

 

最後にパウロのことばを見ましょう。

第二テモテ4:6~8「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは義の王冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」

 

有名な箇所ですが、最後の「私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」という文に目を留められたことがありますか?

誰でも主のためにいのちを注ぎ出し、勇敢に戦い、走りぬき、信仰を守り通した者には義の王冠が待っているのです。あなたは自分のいのちを愛することもできますし、或いは主の現われを愛することもできます。しかし両方を愛することはできないのです。

 

現在キリスト教界ではしばしば福音は「良い選択肢の一つ」としてしか伝えられていません。説教者は人々が救われることだけに力を注ぎ、「救われるとは、何かを捨てることであり、犠牲を伴うことである」とは教えていませんし、勿論十字架を担うなどとは教えていません。ですから人々は「福音とは、素早く簡単に、安楽で幸せな人生を与えるもの」と思ってしまうのです。そして更に恐ろしいことがあります。私たちは今の世代に「自分のいのちを捨てても惜しくないほどの真の福音の尊さ偉大さ」を伝えない故に、彼らが福音に関心を持たないのだとしたら、何という悲劇でしょうか。

上よりの火が祭壇に下るのは、いけにえが供えられた時です。何もない祭壇に火は下りません。どうか私たちが福音のためにいのちを捧げ、イエスの足元で砕かれるようにと祈ろうではありませんか。(終り)


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