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Walk With God Ministries


26 01月

2014年への期待 坂  達 也          2014年1月26日


2014年への期待

 

                 坂  達 也

 

新年を迎えてから今までの三週間に、本年に対する三つの預言を既に御紹介して来ましたが、この辺りで私自身が今特に強く感じていることをお分かちさせていただきたいと思います。と言いますのは、私は昨年秋から今年に掛けてかなり多くの預言を読ませていただきましたが、そのどれよりも強く私の心を打ったのは、はっきりした預言の言葉ではなく、モーニングスター・ジャーナル1月号に載っていたダッドレイ・ホール Dudley Hallと言う方の短いメッセージでした。それでは先ず私が要約したホール師のメッセージをお読みください。

 

「パッションを持つ -ダッドレイ・ホール 

 

御子(キリスト)は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。」(コロサイ1:15)

コロサイ人への手紙に書かれている生き方を見て、それが熱狂的passionate な人たちの生き様であるという結論に達しない人はいないと思います。現代のクリスチャンのクリスチャニティーに対するカジュアルな(普段着的な)アプローチは、1世紀に生きたクリスチャンの生き方とは全く別なものであり、新約聖書に書かれていることは今の時代のクリスチャニティーとは無縁のもののように思えます。

他の信者の面倒を見るために自分の家と持ち物を売ったり、自分の首を切り落とす権力を持っている権威者の前に引き出されても、堂々とキリストだけが自分が仕える主であると言い切る大胆さを持つ、あるいは悪辣で卑怯な仕打ちをする敵を愛しその悪行を心から赦すことなど、今の時代には考えられないことです。

現代のクリスチャンは、今のこの世的カルチャーの考え方 value system をほとんどそのまま受け入れてしまっているような生き方をしています。イエスがクリスチャンに与え、期待している生き方は、決してカジュアルで何気なく暮らす unintentional クリスチャンによっては生きることは不可能です。イエスの期待に応えるには情熱 passion が必要です。

 

人間の体内に情熱を起させるのは心から怒りを覚えるか、それとも愛によるか、そのどちらかです。この世の中の不平等に義憤を覚えて革命を起こした人たちはおりますが、聖書には人の怒りは神の義を実現するものではないと書かれていますから(ヤコブ書1:20)イエスに仕えるための燃えるようなエネルギーと動機を与える情熱 passion となるのは愛です。

イエスは、御父の愛に全面的に信頼を持ち、何が起こってもひるむことのない不動の信念によってすべてのことに立ち向かいやり遂げられました。その確信は日頃から御父を深く親密に知る知識から来ています。まさに主を深く知ることは主を愛することであると言う真理です。

 

私たちに主に対する全き信頼が必要な時には、主は、その必要を充たすために、主ご自身を私たちに表して下るので、私たちは、その時私たちに必要な主のお考えと見方=「主の状況展望 perspective 」を得ることが出来るのです。こうして私たちが神によって示される慈愛、うるわしさ、神の望んでおられることを一目でも(霊的に)見ることが出来る時はいつでも、私たちの内に熱烈な情熱が一段と輝き炎え上がるのです。」(要約終り)

 

主にしがみつくヤコブ 

 

私は1月22日の早朝、主の御前に出た時に、前触れもなく突然「ヤコブのように主にしがみついて、主の祝福をいただくまでは主を離しません。」と言う思いがこみ上げて来ました。

そして、天へのはしごを見上げている自分を見ていました。とっさに私は、これこそ今年私がするべきことである、と言う自分の決意を表すものであることが分かり興奮しました。

私たちは皆それぞれに、神からいただきたい賜物を長い間祈り続け、その祝福の約束を信仰で受け取っておりますが、その実現が遅れています。私もそうです。その祝福をいよいよ今年から受け取り始めることは、多くの預言者によって言われております。しかし、唯待っているだけではなく、主にしがみついて受け取るパッションが必要であると言う強い思いが私に与えられたのです。

 

そのために主は、私たちもヤコブと同じように先ず「もものつがいを」はずされる必要があることを語っておられます。もものつがいをはずされたヤコブは、全身全霊で一層主にしがみついて思い切って主と格闘しました。これを見て主は「あなたは勝った」と宣言されたのです。すなわち、自分の肉の力には頼らずに、主にのみすべてを頼る心が出来た時に、私たちはヤコブと同じように戦いに勝つて、主の祝福を受ける用意が整うのではないでしょうか。

 

びっこをひくイスラエル-それは私たちの名だ

 

創世記32:24-31に出て来る上記の話は、私たちと非常に深い関係があります。先ず、ヤコブの前に*主イエス・キリストが現れた(聖書には*「ある人」としか書いてありませんが主イエスを代表する御使いであると言われています。)のは、ヤコブがイスラエルの国境を越えてイスラエルに足を踏み入れる直前の出来事であることです。これは、私たちクリスチャンが今イスラエルと言う名の主の御国 kingdom に霊的に入ろうとしていることを表しているように思います。

次に、*主御自身が現われてヤコブと取っ組み合いをしましたが、ヤコブのもものつがいをはずした後に、尚食い下がって離れないヤコブに自分の名前を敢えて言わせました。そしてヤコブと言う名前が意味する「だまして勝とうとするこの世的にずる賢い」という彼の性格を変え、新しいイエスに似た性格を象徴するイスラエルと言う名前を彼に与えました。イスラエルと言う名の意味は「神の皇太子、神が支配する、勝つ、神と共に支配する God’s prince, God rules or prevails 」です。ヤコブは神の御国に入るために「御国の王であるイエスと共に支配する人」と言うすばらしい名前をいただいたのです。又、イスラエルと言う名はイエスの別名の一つでもあります。(イザヤ49:3、ホセヤ11:1、マタイ2:15、16、出エジプト記4:22等)特にイザヤ43:7「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」を見れば、私たちすべての異邦人クリスチャンの名前もイスラエルであると言えると思います。

 

すなわちヤコブはこの時点で主と出会いクリスチャンになったと私は信じます。それだけではなく、私はヤコブは「キリストの弟子」になったと思います。なぜなら、彼はキリストと格闘すること(霊的に執拗に祈り、主と対話すること)を通して、人間的なずる賢い性質から「キリストに似た者」と言う性質に変えられた状態がここに表されていないでしょうか。それは主と密着して個人的な薫陶を得る弟子訓練を受けることによって、成熟したキリスト者となることを象徴していると思うからです。

そして「びっこをひいている」と言うことが重要です。それは肉に死んでいる(ガラテヤ2:20、コロサイ3:3)ことが象徴されているからです。

 

主に対して熱烈な愛を持っにはどうすればよいのか

 

上記の例でヤコブは主キリストに対する愛をどのように持ったのでしょうか。先ず言えることは、主なる神が、ヤコブに個人的に(御使いとして)現われて下さったことです。これは大変なことであると思います。神とは当時さばきの神として恐れられるのが通常であったと想像されますが、その恐ろしいはずの神が自らヤコブの相手をしてくれ、本当に身近に実際に肉の形で彼と取っ組み合いをして下さったのです。ヤコブは最初は恐れを感じたかもしれませんが、そのうちに、その密接なスキンシップによるもみ合いを通して直ぐに恐れが消え、むしろ主のやさしさ、思いやり、情愛の深さを強く肌で感じ始めたと思います。何をしても神に勝てないことはヤコブも最初から分っていたでしょう。しかし、主が相手になってくれて、安心して思い切りもみ合うように励まされ勇気を得たと思うのです。夜明けまでそれが出来て楽しかったと思います。

いや、もっと言えば、熱烈に神が好きになり、このような愛の神なら自分も心から愛せると確信したかも分かりません。私は、神は個人的に知り合える方であり、それも身体ごとぶつかり、もみ合いまでして下さるお方であるのです。そして、そうする時に神の対する親しさが私たちのうちに猛烈に沸いてこない方がおかしいと思います。

 

しかし、愛のパッションと言へば普通、西洋的な猛烈で熱烈な愛と言う印象を受けますが、聖書で強調されているのは、むしろ静かで堅実ないつまでも変わらない steadfast  な愛であり、この忍耐強さの方がより重要であると思います。そこには長期に渡っての「忍耐強さ」「辛抱強さ」が強調されています

愛の章と言われる1コリント13章には愛の定義が書かれていますが、その中でも「寛容であること(英語では patience=忍耐)」「すべてを我慢すること」「すべてを耐え忍ぶこと」が強調されていると言っても差し支えないでしょう。これらが最も重要な愛の特質であると私には思えます。少なくとも主イエス・キリストから感じられる愛はこのようなものです。キリストほど私たちのために苦しみを耐え忍び、忍耐された方は他におられません。従って私たちクリスチャンが一番積まねばならない徳は「忍耐」です。そのためには時間が必要です。忍耐強さだけは性急・気短では得られるものではないからです。

 

神はなぜ時を遅らせるのか

 

今、暗くて長いトンネルを通っている最中の方は大勢おられます。と言うより、暗さと長さの程度の差はあれ、トンネルとか荒野を通されないクリスチャンはいないと思います。神は最も正確な預言者でありながら、時には、その預言された時を敢えて「遅らす、 delay される」方であると思います。すなわち、神はすべてを見通されている方でありながら、その時を敢えて遅らせる場合があるのです。なぜでしょうか。私はそこに預言の目的があるからであると思います。

預言の重要な目的の一つは、私たちを励ますためです。(1コリント14:3)ですから多くの預言者は「今は何々のシーズン」と言う言い方で時がはっきりしているようでしていない預言をします。いつ「主が帰って来られるか」の期日は誰でも知りたいでしょうが、はっきりした時は聖書には書かれていません。その理由は、もし書いてあれば、極端な言い方をすれば、私たちはクリスチャンとして努力すべきことを止めてしまう可能性があるからです。

私たちがオレゴン州に住んでいた頃、子供を連れて車でカリフォルニア州によくバケーションに行きました。その道程が長いことは分っていても子供たちは「後どのくらい?」と何度も聞きます。目的地に近づくに従ってその質問の間隔は短くなります。それに対して私たちは色々な言い方で子供が希望をもって辛抱できるように励ましの答えを与えて納得させようとしました。―そんな経験を持たれた方は大勢おられると思います。つまり預言は「もう少しの辛抱だ、頑張れ」と言う神からの励ましのメッセージでもある訳です。

 

時が遅れるのは私たちの責任

 

私たちクリスチャンの最終目標は「イエス・キリストに似た者になること」、別な言い方をすれば、私たちが神の愛を受けて「愛の人間になること」というこの一言に尽きると思います。しかし、私たちが本当に「神の愛」の人間になることとは「霊的に成熟する」ことを意味します。霊的に成熟するためには長い時間を掛けて「寝かせる」必要があることを私たちは知っております。そのよい例がワインです。本当によいワインを造るには、先ず自然の形でよく熟したぶどうからワインを醸造しますが、その一応完成したとも言えるワインを、尚も理想的な環境の下で寝かせれば寝かすほど深いこくのあるワインに成熟して行きます。中には何十年、何百年も掛けたワインから、とても美味で値段が付けられないほどすばらしいものが出てくると言われます。

私たちの内にはぐくまれる「神の愛」はこの高価で絶妙に成熟した「味」のワインに例えることが出来ないでしょうか。クリスチャンとは、私たち自身が、どこを切っても完全に漬かった「神の愛」の香ばしい香りを放つ漬け物になっていなければなりません。それは一夜漬けでは決して出来ないのです。と言うことは、私たちクリスチャンを成熟させるプロセスにおいて、神の時間表が遅れる一端の責任は、私たち自身の気短さ、性急さにあることを私たちは十二分に心得なければならないと思います。主は私たちを心から愛するがゆえに、少々時間を遅らせても、私たちの霊的成熟が充分に熟すまで待たれる愛の神です。

 

今年、神は素早くことを運ばれる

 

しかし、主はなさるとなれば、今年は事を思いの他素早くなさることが充分に考えられます。すなわち、今までとは違うテンポで事を運ばれる可能性が高いですから、常に主を見上げて、いつでも受けて立てるだけの心の準備をしている必要があります。

そのことを私たちは新年早々、既に経験しつつあります。と申しますのは、私たちの息子夫婦とその子供(孫)が仕事の関係でこの2月初旬にニューヨークからサンフランシスコに移住することになりました。ついては私たち夫婦もニューヨークを間もなく出ることになりますが、ハワイに戻るのかサンフランシスコに移るのかは、今のところ未定です。又、日本を訪れることも祈っております。詳しくは後日御報告しますが、取り急ぎ私たちの家族のためにお祈りいただけますようお願い申し上げます。(終り)


19 01月

2014年への預言のことば -天に新しい門が開かれる-    ダグ・アディソン       2014年1月19日


2014年への預言のことば -天に新しい門が開かれる-

 

ダグ・アディソン

 

2014年、神は天の領域へと導く新しい門を開かれます。それはより深い啓示とより大きな力に入ることの出来る門です。今年は新しいシーズンに入る最初の年で、今までの数年間神の御国が経験してきた霊的に渇ききった季節が終わります。あなたの霊的賜物、夢、ビジョン、スーパーナチュナルな遭遇が増すことが期待されます。今年はあなたが新しいレベルに引き上げられる機会が開かれ、あなたが今までにやって来たことの成果が見え始めるでしょう。

以上の幻の後に私がよく見ると、目の前に一つのドアーが開かれていました。そして、最初に聞いた声がラッパのような声で「ここに上がって来なさい。この後必ず起る事をあなたに示そう。」と言うのが聞こえました。(黙示4:1参照)

 

神の三つの動き

 

これからの数年にわたって神は段階的に事を起こされますが、最初の段階である新しい神の動きを私たちは見始めるでしょう。今年、神は2008年から始まった霊的旱魃を終らせます。私は夢を見ました。その中で、御使いが私に現われ「(霊的)湿度計は今8を指しており、8と言う数字は新しい始まりを意味する。」と言いました。

「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。」イザヤ44:3

新しい神の動きの第一段階は、疲れた者の元気を回復させる時を用意することです。この時期にあなたは幾つかの小さな霊的刷新mini-renewals を経験するでしょう。それは主の臨在とあなたが与えられている賜物においてです。期待が長びき心が病んだ状態にある多くの人々は回復のエネルギーを充電される必要があるからです。

神の動きの第二段階は、神を求めている人々に神が用意されたすべてのものを、その人々の上に聖霊の新しい雨として降らすことです。この動きによって起ることは非常に奇異に見えます。それはあらゆるタイプの人たちが神に引き寄せられ始めるからです。その動きの最中に一つの新しい世代が生まれ、その人たちは神の愛と力、包容力に目覚めていきます。

更に次の段階では、私たちが今までに経験したことのないような神の力がもたらされます。新しいレベルの神の炎のような臨在と癒しがあらわれます。これは新たな癒しのムーブメントの出発で、奇跡、しるしと不思議、深い啓示が伴います。

 

2009年に対する預言のことば

 

神が2009年に私に与えられた預言の多くは、翌年2010年に成就されるはずのものでしたが、実際には今まで延期されていたことを神は示されました。そこで私は自分の日記を調べてみると、確かにその通りであり、それらの多くの預言が今実現されていることを知りました。ですからあなたも、私が2009年当時に受けた預言を調べて見て、今これからそれらの預言が、あなたの上により大きなレベルで成就することを期待し受け取って下さい。

 

人を非難する代わりに和解しなさい

 

過去数年間、人を責める悪霊が教会を支配して来たために、教会は霊的に不健康な状態になっています。ある問題が起きた時、私たちがそれを解決することを求めるよりも相手を非難してしまうとすれば、神がその人に持っておられる計画と目的を理解せずにその人が悪い人であることを(悪霊に同意するかのように)決め付け、認めてしまうことになるのです。サタンに付けられた名前の一つは黙示録12:10にある「信者の告発者」です。私たちは他人を非難するのではなくてその人を建て上げるように充分注意する必要があります。神は否定的な鋭い非難とか告発を相殺して余りある豊かな和解の霊を解き放っておられるのです。聖書は多くの箇所で、人々を呪うよりも祝福するように語っています。(ロマ書12:14)

「これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちを御自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。」(2コリント5:18)

 

ハッピー・バースディー

 

今年は誰もが自分の誕生日に神から新しい贈り物を受けます。これは既に受けている賜物が更に大きく増し加えられるか、又は新しい賜物、例えば、癒し、預言、仕える等を受けるかです。ですから、神からのあなたへの誕生日の贈り物を、より大きな神の臨在と共に受け取る用意をして下さい。あなたは神の臨在が新たに増し加えられるというプレゼントを期待できるのです。

 

賜物と召しが配分し直される Rearranged

 

贈り物を与えることの一環として、神は今年、今まで他の人々に与えられていた賜物と召しで用いられてなかったもの、或いは天に召された人たちの賜物と召しの多くを解き放ち、他の人たち-それは自分を高く上げることをせず、プライドのない、へりくだって神を求めている人たち-に与えられるでしょう。神は(神の前で)へりくだって来た人たちを引き上げられるでしょう。その中には自分が引き上げられるなどとは全く予期していなかった人たちがいます。そのような賜物と召しを与えられる人たちは、人生とミニストリーとビジネスにおいて突然、急速に進展します。その反対に、自分の生活やミニストリーにおいて他人を利用して自分が得をして来たような人たちは衰退を経験するでしょう。神の愛はそのような人たちの上にも注がれ続けられるでしょうが、以前に持っていたような優位さは失うでしょう。

 

イゼベルの霊が明るみに出される

 

2014年には教会、政府機関、ビジネス全般を通じてイゼベルの霊が明るみに出されます。人々の間に不和分裂を起こし分派させることを常套手段としている人たちがあらわにされます。今まで神の動きに何度も抵抗し阻んで来た人たち、即ち、イゼベルの霊特有の粘着的蝕手を使って組織を操って来た人たちが神によってあらわにされます。

 

神の新しい今年の課題

 

 神は今年、クリスチャンによって傷付けられ、拒否されて来た人たちに癒しと和解をもたらすと言うことを課題としておられます。残念なことですが、キリスト教によって傷付けられた人たちはかなり多くの数にのぼります。神の愛はすべての人に対して注がれており、私たちはそれを最も必要とする人たちに示さねばなりません。神は霊的に見捨てられた人たちを今御自分に引き寄せようと、あらゆる階層・分野の人たちを地引網で底から救い上げようとしておられるのです。

この神の課題に参加するためには、今まで他人から否定され傷ついた人たちを私たちが無条件で愛し、その人たちと一緒に喜んで歩まねばなりません。霊的に見捨てられた人たちに救いの手を差し出すという神のこの新しい提案に本気で参加する気持ちがあるならば、私たちにはそのための多大な愛とあわれみが要求されます。そうです、刺青のある人、鼻や唇にピヤースしている人、ゾンビや吸血鬼 にはまっている人、ゲイ、レスビアン、ニューエイジに走る人、又クリスチャンの多くが受け入れていない様々な政治政党活動にかかわる人、このような人々の中に入って行くクリスチャンを今神は用意しておられるのです。神は又、女性が社会に出て行ってパワフルに用いられるよう、彼女らに新しい権威のあるポジションを与えつつあります。

 

金融・財政破たん Financial Ruin から解かれる

 

5年前にアメリカや世界中の多くの国々が大きな経済的落ち込みを経験しました。2008年の9月はアメリカ史上、破産する会社の数が最も多かった月の一つに達しました。そのどん低から私たちは今、5年間の回復を見ようとしています。この間に損害を蒙った人々に対して神は回復の機会を与え、失ったすべての損失を取り戻すようにされます。又、御国の経済作戦が天から解き放たれ、その戦術に聞き従う人たちは劇的な回復を経験するでしょう。

非常に重要なことは、アメリカの経済破綻は避けられないとか、アメリカはもう駄目になるというような否定的な意見を私たちが信じ込まないことです。今こそアクションを起こす時です。それはイサクが創世記26章で経験したことに似ております。地が大飢饉に襲われた時、イサクは神の言われることに耳を傾け、その当時ほとんどの人が取った行動とは違う道を選んだのです。その結果彼は飢饉であるにもかかわらず100倍の収穫を得たことが12節に書かれています。「イサクはその地に種を蒔き、その年に100倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。」

 

2014年は神が私たちをあわれまれる年です。他人をないがしろにし彼らを更なる暗闇へと追いやることをせず、他人を愛しその人にあわれみを示す人を神は引き上げあわれんで下さるのです。今は生きているのがうれしくてわくわくするようなすばらしい時です。なぜなら、もしあなたが今までに苦しんで損害を蒙ったのならば、それらの損害や敵の度重なる攻撃に対して今、神がそれを充分に償って下さる時であるからです。あなたがしなくてはならないことは、すべて神に聞き、それに応え従うことです。あなたの前に開かれる新しい黄金の門(複数)を通って歩いて下さい。

今年はブレーク・スルーの年であり、回復に向かって方向転換する年です。どうぞ神の豊かな祝福を受け、あらゆる必要な賜物をいただいて、今年を主にある成功の年として下さい。(終り)


13 01月

「2014年は詩篇67の年」と主は言われる    ボブ・ハートレー 2014年1月13日


「2014年は詩篇67の年」と主は言われる

 

ボブ・ハートレー (記述者: マイケル・サリバン)

 

この数週間にわたって私は一連の「主の訪れ」を経験しました。それを通して神が示して下さったことは、第一にまず神は私たちに対して熱烈な愛と期待(希望)を持っておられることでした。そして、その神の情熱を具体的に実現する御計画を実行する時がいよいよ来たことを示されました。その御計画は、イザヤ42:13に次のように書かれています。

「 主は、勇士のように出で立ち/戦士のように熱情を奮い起こし/叫びをあげ、鬨の声をあげ、敵を圧倒される。」【新共同訳】

 

それは過去において私たち神の子どもたちが経験して来た「みじめなクリスチャニテイー」を「希望に満ちたクリスチャニティー」に置き換えることを実践することです。そのために神はこれから5千万人の「希望の変革者”Hope Reformers”」を立て上げて、世界中の国と都市のあらゆる生活環境に送り込み、大いなる神の御国の祝福を実際に具現化して行くとおっしゃるのです。

 

すなわち具体的に、主はこう言われました。「あなたたちは今までのクリスチャンとしての歩みと考え方を捨てなさい。そしてもう一度よくわたしを見上げなさい。」

「今まであなたたちが経験して来た『敗北する、みじめなクリスチャン信仰 a retreating, misery Christianity 』から『主の熱烈な愛と希望に満たされ、あなたが主によって根本的に造りかえられるクリスチャン信仰 reforming Christianity』に変わる時が来たのです。」

 

そう言われた後で、主は「今年2014年は詩篇67の年である。」と言われました。

そこで先ず詩篇67を見てみます。

「1 どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。 セラ 2 それは、あなたの道が地の上に、あなたの御救いがすべての国々の間に知られるためです。3 神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。4 国民が喜び、また、喜び歌いますように。それはあなたが公正をもって国々の民をさばかれ、地の国民を導かれるからです。 セラ 5 神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。6 地はその産物を出しました。神、私たちの神が、私たちを祝福してくださいますように。7 神が私たちを祝福してくださって、地の果て果てが、ことごとく神を恐れますように。」

 

それに続いて主は「詩篇67とは五番目の状景である」と言われました。その意味を私が思い巡らしていると、すかさず聖霊が私を昔体験した時の状況の場面につれて行かれました。それは1982年の一月に、救われたばかりの私が初めて天に挙げられると言うドラマティックな体験をした時のことです。その時私が見せられたのは地上で起っている四つの違った状景のビジョンでした。それは嘆き、悲劇、絶望、死と言う四つが、それぞれに満ちている状景でした。私は神によって見せられたこの四つのシーンによって心が引き裂かれ、それが大きな悩みとなって来ました。しかし、今回私は、それに加えるべき五つ目の状景を見たのです。

最初の四つの状景もリアルでしたが、五つ目の状景はより一層の現実感がありました。私はイザヤが見たように―と言ってもその時の私はイザヤ書を読んでいなかったのですが―高く上げられた主を見たのです。万能の主は天より高く、その栄光の輝きは見ている私を形容できないような圧倒的臨在感で満たしました。主は本当に喜びに満たされ、心から祝い、そうです、腹の底から笑っておられました。

 

私はこの五つ目の状景と最初に見た四つの状景があまりにも対照的なのでひどく困惑し、主に「あなたが見せて下さったあのひどい悪に満ちた人間の苦しみの状景は一体何なのですか。」と訊ねました。すると、小さな黒い点が私の見ていたビジョンの左下のコーナーから現れました。その点は右上に浮き上がるかのように移動してやがて急に消えてしまいました。すると主は権威をもって「あの黒点は今までに存在して来たすべての悪の存在evil being とその活動の歴史のすべてを代表するものである。しかし『わたし Who I Am 』の圧倒的な存在に比べれば、それは全く一時的に浮遊して通り過ぎるに過ぎないちっぽけな黒点でしかないのです。」と言われました。

 

主は今年から、私たちそれぞれ個人の霊的成熟の目標に合わせた主の御計画に沿って、段階的に主の御性質の色々な面を見せて下さり、私たちをそれぞれ個人的に教え導き、助けて下さるとおっしゃいます。そして詩篇121:1-8を示されました。

「1 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。2 私の助けは、天地を造られた主から来る。

 3 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。4 見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。5 主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。6 昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。

7 主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。

8 主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」

 

主は言われました。「あなたがたが希望と愛をもってどのように戦えばよいかを教えましょう。」「わたしに聞きなさい。『もしわたしに仕える者が、唯シンプルに最後まで希望と愛にだけ焦点を合わせて生きるとすればこの世の中がどのようになるでしょうか。』と。」「喜びと愛と、希望とわたしと共に冒険する心を持ってわたしに着いて来なさい。」(終り)

 

 

訳者注:上記の文章はボブ・ハートレイ師が主から与えられた預言の一部を要約したものです。ハートレイ師はアメリカのミズーリ州カンサスシティーにある Hartley Institute/Deeper Waters Ministry の代表者で、過去にマイク・ビクル師の  Metro Christian Fellowship で牧師の一人として働き、後に独自のマーケットプレイス・ミニストリーを設立して、その分野で現在広く活躍しておられます。


08 01月

2014年はローラーコースターのような年 リック・ジョイナー 2014年1月8日


2014年 明けましておめでとうございます

 

いつも御愛読いただいている皆様へ、先ずは遅ればせながら、私たちWalk With God Ministries 一同より、謹んで新年の御挨拶を申し上げます。

私たちは今年と来年の二年間を教会が霊的に成熟・完成する途上で、未だかって無かったほど重要な年になると言う認識を持っております。その二年間の年頭に当たって、今まで以上に私たちのインターネット・ミニストリーをより充実した内容にするべく努力させていただくつもりでおりますので、どうぞよろしく御指導・御支援賜りますようお願い致します。

さて、昨年秋からこの年始にかけて、アメリカにおいては、例年に比べてより多くの霊的指導者が続々と新しい年に対する預言と抱負を語っておられるように見受けますが、本年度最初の預言としてモーニングスター・ミニストリー主幹であるリック・ジョイナー師のメッセージを下記のようにお伝え致します。どうぞ本年も宜しくお願い申し上げます。

 

                                                坂  達 也・柚実子

 

 

 

2014年はローラーコースターのような年

 

リック・ジョイナー

今年はどんな年になるかを祈り求めた時に示されたのはローラーコースター(ジェット・コースター)のビジョンでした。その意味は、今年は上昇する時と下降する時があると言うことです。それなら預言者でなくても誰にでも予想のつくことであることは明らかです。しかし、励まされたことは、そのローラーコースターに乗った私たちが年の終りに最も高い地点に到達して終わったことでした。すなわち、今年は高い地点に上げられる年であると言うことです。ですから急降下の時が何回か来ても、決してそれに失望しないで下さい。たとえ急速な下降線をたどる時でも、しっかりとつかまっていて下さい。必ず上昇しますから。

 

数ヶ月前にボブ・ジョーンズ師が、この冬は非常に厳しいハードな冬になるだろうと言っていましたが、現に今そうなっています。この文章を書いている私の住む南カロライナ州の自宅の屋外の気温が今摂氏零下13度です。未だかってこんなに寒くなった時は私の記憶にはありません。しかし、すばらしいことはどんなに厳寒な冬であっても必ず春が来ることです。

私が見たローラーコースターは、次の山と谷を越えるのはとても無理だと思われるほど激しく脱線寸前のような揺れ方で激動していました。しかし、乗客を乗せた乗り物はばらばらに分解することなく終着駅に無事到着しました。私はローラーコースターに乗るのは好きですが、こんな激しく揺れるコースターには乗りたいとは思いませんでした。

しかし乗っている私たちには乗らないで済むと言う選択の余地はないのです。この世で今最も強固なシステムを持っていると誇る組織でも、後一日持ち堪えられるかどうかが分からないほど揺れ動いている状態です。それが持ち堪えているのは、ひとえに、神が今の世界を私たちのために支えていて下さっているからです。その意味で本当に私たちは今祈りを止める訳にはいかない状態にあるのです。

私の見たビジョンでは、ローラーコースターの終点に一つのプラットホームがありました。それは一見揺れ動くコースターと変わりないほど不安定に思えましたが、私たちがコースターからそのプラットホームに降りて歩いて行けば行くほど強く安定したものになって行きました。ホームの反対側には一連の美しく輝いた列車が停まっていて、私たちはそれに乗り込みました。それは私が今まで見た中で最も美しく、又最もよく整備された列車でした。

しかしながら、私たちを乗せて動き出したその列車がプラットホームを離れると間も無く、長くて暗いトンネルに入りました。そのトンネルは長くて出口が見えませんでしたが、登り坂になっており、この列車は非常に力のある山岳を登る列車であることが分かりました。私たちは暗いトンネルをどんどん登っており、最初しばらく慣れるまでは少しびくびくするような気持ちでした。これが私が見たビジョンの終りでした。

 

夢とかビジョンでは、列車(トレーン)はしばしばトレーニング(訓練)を意味します。私たちは、今は未だ古くて激しく揺れるローラーコースターに乗っている状態であるかもしれませんが、私たちを乗せて走っている乗り物は、私たちが到達すべきところに連れて行くためのトレーニングをする列車であるのです。それはエペソ4章-「聖徒たちを整えて奉仕のための働きをさせる」(4:12)と言うみ言葉を物語っています。私たちが長くて暗いトンネルを通って行く間どこに連れて行かれているのか見えませんが、とにかく登っているのです。この列車が私たちが到達しなければならないところに運んで行ってくれるのです。

それは、あなたはどこをどう歩くかは分からなくても、あなたの求めているものは知っていると言う「信仰の歩み」に似ています。それは、信仰の歩みを歩き始めたアブラハムと同じです。彼はどこに行くのかは分からなくても、人間ではなく「神が建設している都市」を目指していました。

人間が建たてた都市でも感銘させるようなよい印象を与えるものもあるかもしれません。しかし、一度神が建てている都市のすばらしさを見たなら、人間が建てている都市は全く比較にもならないのです。神が建てているものを見るには神の啓示、黙示が必要です。ヨハネは高い山の頂に連れて行かれるまではバビロンを見ていました。しかし山の頂で新しいエルサレムNew Jerusalemを見たのです。それはアブラハムが見た都市でした。その都市は未だに建設中です。その建設途上にあるものに属することが私たちにとって最も高い召し(calling)なのです。 あなたはそれが見えているでしょうか。

聖書の黙示録で分かるように。新しいエルサレム New Jerusalem とはキリストの花嫁です。ダン・ポッター師が最近話していましたが、婚礼の式が始まる数分前までは、キリストの花嫁ともあろう人たちが信じられないほど取り乱していることがあり得るのです。しかし、その最後の数分の間に、花嫁としてのすべてが整い、瞬く間に全く美しくて完全な姿に変えられる、それはまるで大変な奇跡を見ることであるかもしれないのです。私たちは今は最後の最後まで、無様な姿でしかないかもしれませんが、最後の瞬間には奇跡的に「しみもしわもない」姿に整うように神がして下さるかもしれないのです。ですから決して諦めないで下さい。(終り)