WWGM

Walk With God Ministries


11 12月

信仰がそれを可能にするーー神を完全に信頼することによって クリスタル G.H.ロウリー


信仰がそれを可能にするーー神を完全に信頼することによって

 

クリスタル GH.ロウリー

 

 

ヘブル11:19「アブラハムは、神が人を死者からよみがえらせることもおできになる、と信じたのです。それで彼は、その信仰によってイサクを死者の中から取り戻したのです。これは象徴的な型です。」(意訳)

 

神の声を知る

 

私たちは、物事に対する考え方・見方を、常識とは違ったやり方に変えて行かねばなりません。自分の生き方・考え方を、この世的、常識的な基準で行うならば、物事をはっきりと「信仰の目で見る」という見方が汚され曇らされます。ですから何であっても私たちが、物事への見方を信仰の目で見るようになれば、その信仰的な考え方が私たちの心と魂の中に取り込まれ、育まれ大きくなって行くのです。

この世が指し示す方法や方策が必ずしもすべて間違っているというわけではありません。しかし、 この世的な観点から物事を見始めるようにしないことが肝要です。すなわち私たちは、「神の声を知る」という土台からスタートせねばなりません。これが人生のすべてにおいて鍵となります。

大抵の場合私たちが「信仰」ついて考えるとき、それは「普通世の中の人々が考えるようなロジック(論理的で、理屈にあったこと)とは異なるだろう」と考えます。 「信仰で一歩踏み出すこととは、クレイジーと思えるような事を神は私たちにさせるのだ」と私たちは思いがちです。

しかし私が強調したいのは、もし自分の思考パターンが変革されれば、神が「せよ」と言われることがすべて通常のことのように思えるようになるのです。それが出発点です。歪められた考え方から出発するのではありません。真理であり純粋であられる神ご自身から出発するのです。ですからそれがロジカルでないことはあり得ないのです。

 

神をどのように喜ばせるか

 

ヘブル11:6「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」

神に喜ばれるには、神を信じなければなりません。つまり神を信じ信頼することが不可欠です。 信頼することなしにその人と関係を持つ事ができるでしょうか?健全な関係を築くためにはその人を信頼する信仰が必要です。そうでないとよい関係にはなりません。例えば、相手を信頼することなしに健全な結婚生活ができるでしょうか?結婚がうまく行くためには絶対に信頼が必要です。

神と私たちの関係においてもそれは真理です。私たちは神にのみ信頼せねばなりません。もし神への信頼という信仰が100%でなければ、私たちは完全に神を信頼してはいないのです。神が言われることは真理です。神は人のように偽りを言うことは決してありませんから、神のことばは絶対的な真理です。神は私たちの造り主です。私たちがどのように機能するかをご存知です。

神は私たちに何が必要かをご存知です。神は私たちが必要なものはすべてご存知です。神は私たちのすべてをご存知です。製品を作る人がそれを使用するためのマニュアルを作るように、神は私たちを完全に働かせる方法をご存知です。

 

信仰の父

 

アブラハムや彼が辿った信仰の旅路を思うとき、本当に多くのことを教えられます。アブラハムは信仰の父と呼ばれます。信仰についてより理解し自分のものとしたいならば、私たちは彼の人生から学び彼の信仰を調べてみるべきでしょう。

あなたがアブラハムだったらどうでしょうか。彼は故郷を出て約束の地へ行きました。どこに行くのか知りませんでしたが、出かけたのです。神は彼が多くの国の父となると告げました。

神は彼の子孫は天の星や海辺の砂のようにおびただしくなると言いました。アブラハムに約束された子孫の数は驚くべきものです。しかし、彼は年老い、サラも年を取っていました。彼らには子どもがなく、サラは子を産むには年を取り過ぎていました。アブラハムは一人の子を何十年も待ちました。待っている間にアブラハムは「年寄り」から「すごい年寄り」になってしまいました。お分かりでしょうか?アブラハムはただのお話の中の人物ではなく、実在していた人なのです。そしてついに、アブラハムとサラは約束の子イサクを授かりました。イサクから子孫が生まれました。イサクは賞品であり贈り物でした。彼は神の約束の最初のものでした。多くの子孫を得るために彼は不可欠でした。

 

信頼する決意

 

しかし、神はアブラハムにイサクを生け贄にするように命じられました。何ですって? そんなことがあり得るでしょうか?イサクは約束の子です。イサクが生け贄になったら、空の星や海辺の砂のようにおびただしい数の子孫がどうやって生まれるのでしょうか?イサクにはまだ子がいませんでした。アブラハムとサラにもっと子が生まれるのでしょうか?人間の思いの中にはこのような思いが起り始めることでしょう。

しかし驚くべきことにアブラハムは神に従ったのです。彼は従うことを嫌がりませんでした。私たちはこの話にあまりにも精通しているので、アブラハムがひとりの人間であったことを忘れてしまいそうになります。しかしアブラハムが私たちと同じ人間であったことを知るならば、私たちはここからすばらしいことを学べるのです!

アブラハムはひとりの人間にすぎませんでした。しかし、約束のものを取り去られるという事態に直面したときでも、彼はなお従ったのです。これがほとんどの人が信仰の崖からころげ落ちてしますポイントです。しかしアブラハムは堅く心に決めていました。彼は神に信頼することを、すでに堅く決意していたのです。彼は神が自分にとってすべての源であることを知っていました。これは本当にパワフルなお話です!

 

神のタイミングは完全

 

アブラハムがイサクに刀を振り下ろそうとしたとき、雄羊が丁度その時にあらわれました!神のタイミングは常に完全です。神を信じる信仰によって、神の完全なタイミングに働いていただくならば、私たちは完全な状況を生み出す結果が得られるのです。雄羊が生け贄としてささげられ、イサクは祭壇で殺されることはありませんでした。

もしアブラハムが友人たちからアドバイスを受けていたならば、どうだったであろうかと想像します。もしアブラハムが当時の専門家からアドバイスを受けたならば、多分確実に神に従うことと反対のことを言われたと思います。

アブラハムの友人たちやアドバイザーたちからのすべてのアドバイスは、この世が「良いアドバイス」と呼ぶものであったことでしょう。それは心配してくれる友人たちや専門家が良かれと思って与えてくれたアドバイスでしたが、「違う出発点」からのものだったのです。それは神の声を知ることに基づいていないのです。

 

この世の常識で生きるというベースラインを神のライフラインに変える

 

詩編101:6に「私の目は、国の中の真実な人たちに注がれます。彼らが私とともに住むために。全き道を歩む者は、私に仕えます。」とあります。もし私たちが誰かからアドバイスを受けたいならば、その人が真実で全き人であることを100%確信せねばなりません。その場合でさえ、神の声を知ることを土台にせねばなりません。それが私たちのベースラインです。それが私たちのライフラインです。

確かにアブラハムは神の声を聞いて知っていたのです。彼は神を絶対的に信頼していました。アブラハムは一生神と共に歩み、神を信頼し、信仰によって生きたことにより、自分の考えを変革できたのです。彼はロジカルと言われるこの世のベースラインを退けて、神の声に従うことがロジカルな最高の基準と受け入れたのです。信仰する対象は何でもいい、誰でもいいと言う訳ではありません。私の言う信仰とは神への絶対的信仰です。

絶対に神への信仰によってのみ生きると決意したとき、私たちは自分の考えを変革するのです。御ことばと神の声を自分の人生に注ぎ込むとき、それは生き生きと盛んになり成長します。信仰が人生の中に常に蒔かれ成長するならば、それはロジカルなものとなるのです。信仰は約束のものへのライフラインとなり、私たちは「信仰がそれをロジカルなもの、最も理にかなっている考えとしてくれた。」ということができるようになるのです。(終り)


03 12月

「ただ一度のまなざしで」 フランシス・フランジペイン 2018年12月3日


「ただ一度のまなざしで」

 

フランシス・フランジペイン

 

 

雅歌6:10「このしののめのように見え、月のように美しく、太陽のように輝き、恐るべき事、旗を立てた軍勢のような者はだれか。」

人間は単に「宗教」を信じれば満足するようには創造されておりません。

自分の魂の奥底にある強い渇望を満たすためには「宗教」は不十分であることが、はっきりわかる時がくるのです。「宗教」は私たちを満足させないばかりか、イエスをも満足させません。キリストは私たちを実際に個人的に知りたいと思っておられることが聖書に書かれています。

 

マタイ7:22−23

「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」

 

あなたは「でも、主はちゃんと私たちを知っておられます!」というでしょう。勿論、主は全知であられますから、すべてをご存知です。しかし主は愛ゆえに、

主と常に一つに結び合わされた花嫁として私たちを知ることを願い求めておられるのです。主は私たちをご自分の血潮の代価で買い取られたのですから、私たちの魂、私たちの秘密、私たちの夢を所有する権利を持っておられます。主は誰も見ていないときのありのままの私を求めておられます。しかし、力づくでそれをしようとはされません。それは愛の方法ではないからです。

主がまず私たちを愛してくださった故に私たちは愛するのです。主がまず永遠の愛を誓ってくださった故に、私たちも誓うのです。キリストと共に生きる私たちの人生(愛によってキリストと私たちが一つとなる人生)だけが唯一キリストを満足させる教会のデスティニーです。終末の時代に私たちを支えるのは、キリストと一つになること以外何もないのです。

 

神は愛です

 

私は主を恐れることを知っていますし、それが真の知識の初めであることも知っています。そして主を恐れることを喜びとしています。しかしヨハネが言っているように、私たちは皆、神が私たちに持っておられる愛を知り、また信じる必要があります。

第一ヨハネ4:16「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は、神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」

 

パトモス島でイエスの足元に倒れて死者のようになった使徒が、後に「愛には恐れがありません。(第一ヨハネ4:18)」と言っていることを考えてみましょう。「聖なる恐れ」は私たちを罪から遠ざけ、義しく歩むための強い力になることを主は知っておられます。

しかし主に近づくためには、私たちは神への恐れ以上のものを知る必要があるのです。私たちは「私たちに対する神の愛」を知らねばなりません。第一ヨハネ4:18に「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。」とあります。私たちはこの「恐れを締め出す神の全き愛」を知らねばならないのです。この愛だけがキリストの花嫁をデスティニーへと導くことができるのです。

 

神の御こころ

 

今この文を読んで、「神を求めキリストに近づきたい」という思いがあなたの心に沸いてきたかもしれません。そのような思いが起こり、「主の臨在を求めよう」とあなたが感じたその時、キリストのこころの中にも何かが起こるのです。

主は「私の妹、花嫁よ。あなたの一度のまなざしであなたは私の心を奪った。(雅歌4:9)」と言われます。

あなたが 主を見るとき(それがほんの一瞬、「主と共にいたい」と願っただけであっても)、主の胸はときめき高鳴るのです。これが、「主と共にいたい」という私たちの願いに対するキリストの応答なのです。

イエスはただ悪を滅ぼすために地上に帰って来られるのではありません。主は花嫁のために来られるのです。終末における私たちの務めは、単に携挙や艱難ために備えをするだけではなく、キリストご自身をお迎えする備えをすることです!

黙示録19:7「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。」

 

お分かりでしょうか、私たちの準備はキリストのためなのです。花嫁は、どんなことが世界を襲うのかという恐れでおののいてはなりません。花嫁はこの世に来られる方への愛で満ち溢れているのです!私たちは単なるデイトではなく結婚のために整えられているのです!イエス・キリストにとって花嫁(教会)ほど重要なものは他には何一つありません。主が死なれたのは花嫁のためであり、生きてとりなしをされているのも花嫁のためなのです。

主の愛は私たちを完全に贖う力を持っています。私たちが果たすべき最も尊い務めは、私たちの一瞬のまなざしにさえ胸をときめかせてくださる主に、全てを臆することなく投げ出しお委ねすることです。

 

(祈り)主よ、告白いたします。私は忙しさのために集中できず、私がしなければならないことにだけ心を騒がせていました。実際あなたのために働くことをさえ、あなたの御臨在に留まることの代わりにしていました。私の魂を愛する主よ、悔い改めます。あなたが私を知っておられるように、私もあなたを知ることを願います。主よ、御そばにまいります。(終り)