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Walk With God Ministries


29 09月

霊的な橋  ビル・ヨント   9月29日


霊的な橋

ビル・ヨント


天使がキリストのからだの中に架けられた霊の橋を点検中、天の父は「わたしの栄光の重さにこれらの橋は耐えうるだろうか?」とつぶやかれた

辞書によれば、橋とは「河川などの障害物の上に通路として作られる構造」と説明されています。
あなたは、神から「行きなさい。」と命じられたところに行くための道が、障害物でふさがれているように感じていますか?
人々はそれぞれ人生の道をたどっていますが、その途中の橋が壊れてしまっていて、立ち往生している大勢の人がいるのを、私は感じます。

戦時には、敵が相手の国を麻痺させたいなら、その国の人々をつなげている橋を破壊します。人々はお互いに連絡がとれなくなると、敵の激しい攻撃に対してほとんど力がなくなるからです。


崩れそうな橋

私は幻で、キリストのからだを結びつけている関係のかけ橋が、長年修理を怠っていたため、今にも崩れそうになっているのを見ました。この橋がもし崩れてしまったならば、人々は立ち往生してしまうのです。いろいろな人間関係が新たにされ、回復され、強められなければ、多くのクリスチャンは、御国を築くための目的やゴールにたどりつけないのです。

私たちが「その橋(ある人との人間関係)はなくても、目的地には行けるから大丈夫だ。」、と高をくくっていたものが、それが約束の地に辿り着くことができる唯一の橋であることがわかってきたのです! 私はそれを幻の中で見たとき、一つのことわざを思いだしました。それは、「あなたなしでは私はどこにも行けません。 あなたも、私なしにはどこにも行けません。」というものです。そして、お互いが好きであろうと嫌いであろうと、「これらの橋はどうしても修理し新しくせねばならないのだ!」というはっきりしたリベレーションをいただいて、私たちのお互いへの反発は薄れはじめました。

橋の点検中は、夢、ヴィジョン、ミニストリー、そして神の栄光さえ遅らされる

霊的なかけ橋である人間関係が崩れて、そのとき怪我をしたり傷を負ったりした人の叫びが大きくなり、天の門にまで届いたのです! 天使たちが「橋の点検者」として任命され、人間関係という多くの橋の基礎構造を注意深く点検し、橋が、栄光にむかってこの橋を渡ろうとしている多くの人たちの重さに耐えられるだけの強度があるかどうかを、調べるように遣わされました。

多くのクリスチャンが、一見、お互いを赦しあっているような格好をしていましたが、本当には和解してはいませんでした。多くのものは遠く離れたところからは愛しあっていましたが、神が建てあげるようにといわれた橋の工事に、積極的に参加するためにお互い同士近づくことは避けたいようでした。

あなたの後ろの橋を燃やすな!

主が、私たちみんなに「あなたの後ろの、どの橋も燃やすな。」といっておられるのを感じました。「私の人生に、もうこの人は不用だ。」と考えて、その人をあなたの人生から抹消してしまってはいけません。2年ほど前のことですが、別のミニストリーをしているある人に私は腹を立て、彼も彼のミニストリーも、もう私には不用であるから切捨ててもいい、と考えていました。彼との関係を打ち切ろうとしたとき、主が語られました。「あなたはこれから5年後に、あなたの目的を達成するために、彼と彼のミニストリーを必要とするであろう!」と。

奇跡の橋が作られている!

愛する者たちと、あるいは、敵とさえ和解しようと努力してきた人たちは、神がその舞台裏でずっと忠実に働いていてくださったことがもうすぐわかるでしょう。愛しがたい者を愛してきた人に、主は誉れをあたえます。修復するのは不可能だと思われた崩れた橋が奇跡的に修復されるのを、忠実な者たちは見るようになるでしょう。関係が修復されることを信じて、望みえないときに望みをいだき続けた忠実な者たちは、その奇跡を目の当たりにして、神の愛は橋を作る力を持っていることを、改めて知るでしょう!

人に踏まれるための橋もある!

2本の木と3本の釘で、イエスは私たちのために橋を作られた!

多くの壊れて崩れた橋の修復現場に十字架が取り戻されるのを私は感じます。自分に死ぬことが、これらの橋を強化し支える力となるでしょう。私たちは、へりくだって他の人を尊び、彼らのミニストリーや夢を自分のものより上に評価しなければなりません。これらの橋を建てるために、十字架と釘がいつも使われるようになり、やがてこの橋は神の栄光の重さにも耐えられるようになるでしょう。
橋を架ける人たちを歓迎いたします。どうか、釘3本と木を2本持ってくるのを忘れないでくださいね。(終わり)


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23 09月

とんだ伏兵   坂 柚実子   9月23日


とんだ伏兵

「小鳥の歌で 夜が明けまーす
 森の中の りすのおうち、、、、、」
という童謡がありますが、ハワイの朝は普通はかわいい小鳥の歌ではじまります。

ところが、このマンションでむかえた最初の朝、多分4時半ころ、けたたましい何かの鳴き声に主人も私もびっくり。引越しで疲れて熟睡していた二人をたたきおこすのに十分な声でした。

それは、窓の前の椰子の木で寝ていたらしい鳥たちが、朝の会議(?)を始めた声でした。まだ外は薄暗く、何の鳥かも何羽いるのかもわかりませんでしたが、とにかく、すごい大声でおしゃべりなのです。このマンションは道路から少し離れていて、静かだと思ったのですが、とんだ伏兵がいたものです。「鳥を撃ち殺したい」と私の人生で初めて思った瞬間でした。これから毎日これで起こされるのか、と、かなり悲壮な思いになりました。

彼らはしばらく早朝会議をしたあと、一日の仕事をしに飛び立ちます。そして、夕方、少し暮れかかったころに、三々五々御帰宅されます。誰かが帰ってくるたびにワーワーギャーギャーと歓迎の声(本当は多分寝る枝を確保するための小競り合い)をあげます。そしてその日にあったことをひとしきり報告しあって(?)、それから静かな眠りにつきます。

この鳥は、私が前まえから「かわいくない鳥だなぁ、、」と思っていたコモン・マイナーというムクドリの一種だということが毎日の観察で判明してきました。主人が「あの鳥は歩くねぇ。」とハワイに来てすぐの時に表現した鳥で、鳩くらいの大きさなのですが、足が鳩より長く、「この鳥は歩くが、ときどきホップもする」という説明がありましたから、主人の観察力も捨てたものではなかったわけです。鳩も歩くと思いますが、このマイナーが歩く姿はとっても格好悪いのです。そしてオウムのように物まねが上手で、飼っている人もいるとか。電話の音を上手にまねるので、家の人がいつもだまされるという話も聞きました。マイナーの鳴き方は、croak (ガーガー)、squawk(ギャーギャー)、 chirp(チュッチュッ) click (カチッカチッ)whistle(ピーピー)と多彩であり、夫婦喧嘩(ちなみに一生つがう)のときはscreech(キーッ)と鳴く、、、と書かれていました。

毎日この鳴き声に起こされるか、と思いきや、私たちはすぐに慣れてしまって、朝までぐっすり寝ることができるようになりました。そして夕方彼らが帰ってくると、「子供たちが帰ってきたよ。」と二人でにこやかに迎えるようにもなったのです。出先で同じ鳥を見ると、うちの子供かな、などと思ったり、だんだんいとしささえ感じるまでなったのです。人の心はかわりますね。(実は、いつも同じ鳥たちが帰ってくるのか、行き当たりばったりの違う鳥たちが帰ってくるのかわかりません。専門家でないので。) 終わり


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22 09月

女性によるブレークスルー フランシス・フランジペイン 9月22日


女性によるブレークスルー

フランシス・フランジペン

初めに一つお断りしておきますが、神によって与えられている秩序の範囲内ならば、私は教会で女性が自由に活動することを勧めています。私がこれから書こうとしていることは、神が女性に特別に与えられた元来の恵みを解き放ち強調することにあります。主はこれまでにも、リバイバルを起こすために女性のこの力を用いられたのです。

創世記に書かれている男女の区別

神が人間を創造されたとき、神は男に恵みを与えられましたが、女にはそれとは別であって、しかもユニークな恵みを与えられました。神はアダムに地上の生き物に名前をつけるように言われ、「 人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった(創世記2:19)」のです。 生き物に名をつけたというのは、犬を見てそれをスポットと呼んだ、ということではありません。アダムは、物事を組織化し管理する能力を持つ者として創造されたので、彼の周りの世界を識別し定義づけることができました。名前をつけることによって、アダムは生き物すべてを把握することが出来たばかりでなく、人間の生活に秩序と組織を与えたのです。

アダムという最初の人の中には、潜在的にパワフルな女性の素質も内在していました。アダムが眠っている間に、御霊は彼からあばら骨をとりました。主はそのあばら骨から女をアダムの伴侶として造りあげました。女はただアダムにふさわしい存在だったというだけでなく、アダムの創造的能力をもっと拡大させるものとなりました。実際、アダムの世界に以前は存在しなかった多くの新しい恵みを、女はもたらしたのです。その最大のものは、彼女はみごもって子供を産む能力を持っていたということでした。

「神は神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(創世記2)」ということは、忘れてはならない大事なことです。勿論、ある意味で、アダムもイブもそれぞれが神のご性質を備えていました。どちらも自分一人でも考え、話し、夢を見、創造したりできました。しかし、アダムとイブが一つになり、お互いの強さや恵みを尊重しあうときに、人類は神のご性質をもっと完全に表わすことができるのです。

アダムが最初の女性を見たとき、彼は「これこそ、今や、私の骨の骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。(創世記2:23)」と言いました。アダムのつけた「女」という名前は、「この生き物は、男という種類の中のユニークな変種である」と、アダムが認めて、それを表わすために使ったものでした。私の妻は「イブはアダムより一つ高級になったと思ったらいいのよ。」といいます。まぁ、ある意味では妻は正しいといえましょう。というのは、イブは二回精錬されているからです。アダムは土から造られましたが、女は土からではなく男から生まれました。女のほうがもっと複雑で感情的にも洗練されているのです。

ほどなくアダムは彼の伴侶の偉大な力を知りました。それは子供をみごもりこの世に新しい命を生み出す能力でした。この特性を知って、アダムは彼女を「イブ」と名づけました。それは「いのち」という意味でした。イブはいのちの新しいはじまりに不可欠な役割を果たしたのです。「それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。(創世記3:20)」とあります。

リバイバルの必要性

主はアダムに、すべてのものに名前をつけて回りの世界を組織づけ確立するという基本的な能力を与えました。そして女には、みごもりそして産むというユニークなキャパシティーを与えました。それぞれの主な能力は、男は確立し、女は産み出すということです。このような特性はただ「人間」に与えられたものではなく、神のご性質を反映しているものだということを忘れないでください。周りの世界に秩序を与えるという男の能力、つまり、不ぞろいのものに定義をつけ組織立てるのは、神が持っておられる才能です。また、子供をみごもってお腹の中で育て命を産み出すという女の能力も、神の御性質なのです。

ここで、イブがまだ子供を産まない前に、アダムが女にイブ(いのち)という名をつけたことに注目してください。神は女に子供を産む能力だけでなく、いろいろな方法でいのちを放っていく能力を与えたのです。事実ある翻訳では、イブというのは「活気を添える、元気をつける」という意味だと言っています。アダムは一人のときは元気がありませんでした。アダムが一人でいるのはよいことではなかったのです。地上のどの生き物もできなかったのですが、イブはアダムを元気づけることができました。アダムは家を建てましたが、イブはその家を家庭にしました。アダムがイブに「いのち」という名をつけたとき、やがて最初に子を産んで母になるおんなを預言的にそう呼んだだけではなく、自分の経験からそう言ったのです。つまり、イブはアダムの世界という建物の中にいのちをいれてくれたのです。

これは一般的な話でしたが、霊的な領域のミニストリーに関しても男と女はこれと同じものを神から刷り込まれていることが分かります。イエスは12人の男たちと教会の基礎を築かれました。これは女性のリーダーは一人もうまれないだろうという事ではなく、神から男性に与えられた能力の一つが、前述したように、秩序をつくり組織することだからです。

それと共に、キリスト誕生の前に女預言者のアンナがいましたが、祈りと断食をして暮らしていました。これは私の考えですが、アンナは一人でとりなしをしていたのではなく、その時代の預言的とりなしのミニストリーのリーダーだった可能性があると思います。霊的に敏感であり、新しい始まりを解き放つことにおいて、女性はとりなし手としてより優れています。勿論、これは男性は祈らなくてもいいということでは決してありません! なぜなら聖書の中のもっとも素晴らしいとりなし手たちは男性だからです! 私は一般的にみた男女の霊的傾向を述べているのであって、神の御心を地上にもたらすためには男性も女性も絶対に必要なのです。

今日、多くの場面でサタンが進撃してきていて、私たちはそれと戦っています。戦争やテロリストとの戦いもありますし、この世のますます拡大する不正との戦いもあります。リバイバルが必要です。国を覚醒するためには、神が女性に与えた力が発揮されなければなりません。男性が法律をさだめ正しく治めようと努力してきましたが、それだけでは真に国家をトランスフォームすることはできないのです。神は女性の
15 09月

神を楽しんで生きる キャシー・ウォーターズ 9月15日


栄光の中で神様を楽しんで生きる

キャシー・ウォルタース

最近のことですが、ミニストリーのために西海岸のある空港に着いたとき、数人の婦人たちが「あなたが来てくださって本当に嬉しいです!」と、とても興奮した様子で出迎えてくださいました。そして、「私たちは神様からのタッチを本当に必要としているんです。」と言われました。私も夫のデイビッドも、このような言葉をしばしば聞きます。

実は、人々がこのように「神からのタッチ」を求める言葉を耳にすると、私は少し気がかりなのです。というのは、神は私たちに「タッチ」よりもっと素晴らしいものを備えていてくださるからです。それは神の栄光の中に生きるということです。人々が神を求めているのだ、ということはよく分かります。しかし、もし神の栄光の中に生きることをみんなが会得したなら、自分自身が神のタッチを与える者になることができ、他の人にそれを求める必要はなくなります。

考え方を変える

神はクリスチャンを祝福していてくださいますが、神がよしとされないことがあります。例えば私たちの宗教的な考え方がそうです。聖霊は真理の御霊ですから、真理に反する間違った考えの中に臨在されることはありません。神は、私たちが変えねばならない三つの考え方について私に示してくださいました。これは非常に重要なことです。

まず第一に変えねばならない物の考え方は、ほとんどのクリスチャンがしてしまっているものです。意識的であれ、無意識にであれ、私たちは、「自分の古い性質(古い人)を変えて自分を良くしよう」と努力をしています。イエスはそのようなことのために、この世に来られたのではないことを、本当には理解していないからです。イエスは古い人を十字架にかけてくださり、私たちが、すでに義と聖さのうちに造られている新しい人として、信仰によって歩めるようにしてくださったのです。

サタンは「そのように超自然的な領域で生きる資格は自分にはない」、と私たちが感じるように、常に働きかけるのです。でもサタンはうそつきであり盗人であることを忘れないでください。イエスによって私たちは100%、新しい人として生きる資格があるのです。神様が90%してくださったが、私たちが残りの10%をしなければならない、というのでは決してありません。神様が100%なのです。天使や天からの訪れ、神の馬車というような超自然的なことは、私たちの毎日の生活の中で普通に起こるべきことなのです。それらは、神の栄光の顕われだからです。

IIコリント3:18 「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
ユダ1:24 「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、」

私たちは神のトロフィーであり作品です。働くのは神であり、私たちの仕事は、主に総てを明け渡すことだけです。私たちは、自分で努力をしながら生きるのではなく、すでに神がしてくださったことの中に生きなければなりません。「主よ、あなたの栄光を注いでください。」と祈らないでください。主はすでにそれはされたのですから。自分の努力で栄光から栄光へと変わることはできません。私たちは主の御霊によって変えられるのです。

第二の間違った考え方は、「誤った責任感」です。私たちは、主から与えられたことだけに責任があるのです。それだけです! 重圧の霊は、私たちにはどうすることもできない事柄や人のことまで、責任を感じるように仕向けるのです。私たちは誰をも変えることはできませんし、誰かに何かをさせることなど絶対にできません。

過去に起こった多くのリバイバルが、この宗教の霊によって消滅させられました。例えば、ウェイルズ地方の大リバイバルのために、神は一人の若いリバイバリストを大きく用いました。彼は神の器であり、神の栄光が彼を通して流れ出ました。けれども、一年が過ぎた頃、彼は、人々が御霊にどのようにお応えするかということに関して、自分に責任があると思うようになってしまいました。自分が考えるとおりに人々が聖霊に応えない場合は、彼はその集会から立ち去ったり、集会を中止したりしたのです。彼のこの行動は、その地と民衆の上に重圧の霊を招いてしまいました。彼が自分のものではない責任まで抱え込んだからです。

私たちの責任とは、神が「しなさい。」と言われることを行い、「言いなさい。」といわれることを言い、「行きなさい。」と言われる所に行くことです。神が私たちに要求されるのはそれだけであり、そうしていれば、私たちは喜びをいつも保つことができます!

第三番目の宗教的な間違った考えは、「偽りの重荷」を私たちが担ってしまうことです。私たちはとりなし手として、ただ聖霊に委ねればいいのです。とりなしの霊の油注ぎをいただくときに私たちは霊的戦いをしますが、それは私たちが自分でしているのではなく、天からの油注ぎによってしているのです。私たちは宣言をしたり、笑ったり、泣いたり、床に転がって叫んだりするかもしれません。しかし、それが何であろうとも、重荷はやがて私たちから取り去られます。なぜならば、イエスこそが父の右座におられる究極のとりなし手であられるからです。

あるとき、私はフロリダのとりなしのグループに入っていました。ある日のこと私たちは霊的戦いをしていたのですが、重荷が非常に重く、それは私たちの上にのしかかる黒雲のように感じられました。ついに、一人の人がグループのために祈り、この偽りの重荷を投げ捨てました。みんな重荷が去る瞬間、それを実際に感じることができました。私たちはみんなで大笑いして、休憩をとることにしました。というのは、もう一度油注ぎを受けるために、時には休憩も必要だからです。

神は私たちにまず神を楽しむようにと召されているのです。結局のところ、もし主を楽しむことがなかったら、主に仕える意味がないではないですか。

あなたの考え方が聖霊の動きを左右する

以上3つの間違った考えが、聖霊が来てくださっても、また去ってしまわれる理由です。ある教会やミニストリーで力強い神の働きがあったとしても、2年くらい経つとそれが消えてしまうのは何故でしょうか? 人々はどうしてだろうと悩み傷つきますが、多くの場合神の動きを終結させてしまうのは、中絶の霊
10 09月

2008年 春の日本でのミニストリー予定  


2008年 坂 達也・柚実子による春の日本旅行は2008年4月ー5月を予定しております。詳細は検討中です。お祈り下さい。



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