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Walk With God Ministries


22 06月

生きている殉教者になる ウエイド・テイラー    2013年6月22日


生きている殉教者になる

 

ウエイド・テイラー

 

ガラテヤ2:20「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」

「私は生きている、しかし私が生きているのではない。I live; yet not I」という言葉は、自分を完全に主に明け渡した人ならば、心の奥深いところで共感すると思います。

キリストと一つになることが、 このように高い次元で日常的に実現するためには、私たちは一つのプロセスを通る必要があります。イエスが主の御からだ(私たち)のかしらとしてはっきりと顕され、私たちは透明となって(見えなくなり)、人々はただ主だけを見るようになります。その時、主は私たちの人生を通してご自分のいのちを生き始められるのです。これが終末における「証人」であり、この世に大いに影響を与えるものとなります。

 

使徒行伝1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして...わたしの証人となります。」

「証人 witness」と訳されている言葉は、原語であるギリシャ語では「殉教者 martyr」を表しています。私たちは自己中心の、自分で生きるいのち(生き方)に死ねば死ぬほど、イエスのいのち(生き方)を表すものとなります。私たちはこの証人となるべき者であるのです。私たちがイエスとの個人的関係に入り、自分の意図と目的が主と一つになるときに、私たちの人生を通して主のいのちが人々に見えて来ます。

殉教者として(肉の)いのちを捧げる機会を与えられるものは多くはないでしょう。しかし私たちは皆生きている殉教者になることはできます。 「私は生きているが私ではない I live; but not I」という人生の証人となれるように、神は私たちを デザインし造ってくださいました。

 

いかにして主の証人になるか

 

「神は人をご自分のかたちimageに創造されました。」(創世記1:27)

しかし人は罪を犯すことによって、神のかたちimage(私たちの霊)を失いました。キリストの贖いの業により私たちの霊は回復されましたが、私たちはそれを育み霊的成熟を遂げねばなりません。

 

ローマ8:29「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。」

「同じ姿にされる  to be conformed」という言葉は、そのプロセスに私たちが服さねばならないものであることを示しています。

 

ピリピ3:13−14「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえれたなどとは考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前にものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」とありますが、この「上に召してくださる神の栄冠を得る press toward the mark for the high calling of God」という機会を与えられても、すべてのクリスチャンがそれに応答するわけではありません。それには条件があり、私たちのあがないに反対する敵によって強い攻撃を受けるからです。しかし、私たちがひたむきに前のものに向かって進み続け、すべての反対を押し切るならば、私たちは「勝利者 overcomer」となるのです。

 

創世記2:7「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は、生き物(living soul)となった。」

主はアダムの中に「(複数の)いのち」の息を吹き込まれました。それは人が地上のいのちと天上のいのちという二つのレベルのいのちで生きるように創造されたからです。原語ではここの「いのち」という言葉は複数です。人は「形造られ」(soul)、次に「息(spirit)を吹き込まれ」ました。人は神に依存して生きるように造られたので、見守られ保護された環境の中に置かれたのです。

アダムが「依存する」ことを選びとるためには、「依存しないで独立する」ことを選ぶチャンスも与えられねばなりませんでした。神に依存する状態にとどまることによって、彼の霊は主と交わることができ、それこそが主の意図されたことであり、又、願いでした。アダムが善悪を知る木の実を食べたとき、アダムの「霊」の部分が死にました。アダムの罪の結果として、人はただの「ちり(soul)」となり、はじめに人に吹き込まれた霊の「分与」なしには、誰にも、また何にも堅く結びつくことができなくなりました。 そして創造主の購いの業なしには、人は自分が創造された神の意図、目的には入っていくことはできないのです。

私たちが悔い改めイエスを自分の救い主として受け入れた時、アダムが失ったもの(霊)が回復され、私たちのうちで機能し始めます。

 

神の栄光を身に纏う

 

第一ペテロ2:2「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。」

 

霊的な乳飲み子である私たちの中に回復された霊の部分は、成長、成熟していかねばなりません。購いの業によって「新生」を経験した私たちには、二つの領域に対する 認識、自覚が初めて与えられます。即ち地上(魂の領域)と天上(霊的領域)です。前者は私たちの肉的ないのちのことです。

第一コリント15:49前半「私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように...」とあるように、私たちは簡単に地上の領域に対応し、その中で機能することができます。それは私たちの自然な環境であり生活です。しかし私たちの創造は地上の領域で存在するものと言うだけで終るのではありません。「二つのいのち(地上の魂のいのちと天上の霊のいのち)」が人の中に吹き込まれたからです。

そして第一コリント15:49後半「私たちは天上のかたちをも持つのです。」とあるように、私たちは「霊の領域」でも機能するように創造されたのです。しかし、私たちを魂の領域である地上に縛られたままにしておこうと暗躍する敵がいます。ですから、私たちが天上の領域で機能するためには主に依存する者にならねばなりません。そこにおいて私たちは主との関係をますます深めることができるのです。これは本当にすばらしことです。有限なもの(人間)が天の領域で無限な方(神)と親しく交わるのです。霊的ないのちという更に崇高な領域で霊的に成熟することによって、 イエスのいのちとミニストリーをこの世の人々に見える形で具現する「表現expression」に私たちはなれるのです。キリストのからだであるクリスチャンが皆で(ひとりの)イエスとなり、御父の栄光を具現し、神の千年王国を建設していくのです。

 

山上の変貌の際にイエスは、ご自分のうちにあるシャカイナの栄光を表されました。しかしその時はまだその栄光は私たちには与えられていませんでした。今、主の復活と昇天により、幕が裂かれ、私たちが主のシャカイナの栄光の中に入って主と一つになって共に輝く道が開かれました。最早「炎の剣」(創世記3:24)は私たちが主の栄光を経験するための妨げではなくなったのです。

アダムは自分が裸であるのを恥じて主の臨在から隠れたのだと言いました。この「裸」は衣服とは全く関係がなく、主の臨在の中に入り主と語りあうことを可能にしていた「シャカイナの被い」が失われたことを意味しています。

そこで主は彼らに別の「被い」を与えるためにけものを殺しました。それは過ぎ越しの小羊となり、そしてイエスの血潮となりました。私たちはイエスが与えてくださった罪の「被い」の中にとどまり主の赦しを受けることが出来ますが、アダム(私たち)が失った主の栄光で被われるまでには至っていないのです。

 

エペソ1:18「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか...あなたがたが知ることができますように。」

多くの人は、イエスの十字架の購いによる救いの被いを受けただけで満足し、居心地よくそこにとどまってしまいます。主は私たちが失ったもの、主のシャカイナの栄光をすべて完全に回復したいと願う人々を求めておられます。

第二テサロ二ケ1:10「その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け...」

イエスは栄光のうちに天に上られ、栄光のうちにもどって来られます。主の変貌の栄光を受けようと更に求める者たちは、終末において栄光の主の証人となり、彼らを通して、イエスご自身の大いなる臨在と力がこの世に表されるでしょう。

 

イザヤ60:1−3「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ、やみが地をおおい、暗やみが諸国のたみをおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」(終り)


10 01月

栄光の焦点 スタン・スミス 2011年1月11日


栄光の焦点

 

スタン・スミス

 

神は今、どんどんと「オープン・へブン/天が開かれる」という体験を神の民に与えていてくださいます。即ち、イエスのヴィジョンを見る、天使が訪れる、神の栄光にまみえるというような体験です。これらのことは以前にも時々は起こっていましたが、 神は現在、このような体験をもっと頻繁に、そしてもっと多くの人たちに与えておられます。

 

これはイザヤ60:1−2に書かれていることであり、この世が大いなる闇におおわれる時代に神の栄光が訪れるという約束の成就なのです。今の時代のために神が持っておられる目標、ゴールは、教会が光輝くことです。これを実現させるために、神はご自分のより大きな光を私たちの人生の中に注ぎこんでおられるのです。

 

私たちの多くにとってこれは今までになかった新しい体験なので、それを誤って解釈してしまう者も出てきます。天使を見た経験をすると、そこからオーバーな期待を抱いてしまう事もあり得ます。また見当違いな見方をしてしまうこともあります。しかし聖霊の賜物を聖書に基礎をおいて解釈しなければならないことを私たちが学んできたのと同じように、天が開くという体験もそれと同じ扱いが必要であることを私たちはこれから学んでいくことでしょう。

 

私自身が神との出会いを体験してから、私は聖書を新しい目で見るようになりました。それは3、40年前にカリズマ・ムーブメントが始まり教会が聖霊の賜物に対してオープンになった時に私たち多くのものに起こったことを想起させるものです。私たちはそのことが起こる以前に読んでいたのと全く同じ聖書を読んでいたのですが、なぜかそれは新しいもののように思えました。それまで象徴的に受け取っていた聖書箇所が、突然生き生きとして文字通りのものとなりました。

  

今それと同じような感覚があります。聖書に書かれていることは、私たちが思っていたよりも、文字通り真実であることを今私たちは見出しているのです。

 

今ここで私は、一つのなじみ深い聖書箇所が 、今教会で起こっている「天が開かれる体験」という光に照らされるときに新しく異なったものに見えることをお分ちしたいと思います。それは私たちが一つのものだけに焦点を当てることの重要さを語っています。分かりやすくするために、この聖句を4つのポイントに分けて書きます。

 

キーポイント#1:神にあなたのランプを灯してもらいなさい。そうすれば、神があなたを正しい場所に配置される。

イエスは言われます。「だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。」(ルカ11:33)

 

誰がランプを灯すのでしょうか? もし私たちが自分で灯すのならば、それが光る場所に私たちが自分で置かねばなりません。神が灯すならば、神が私たちを配置されます。

 

 

マタイ5:14で、イエスは私たちは世の光だと言われました。ヨハネ8:12では、イエスはご自分は世の光だと言われました。私たちは主から光をもらわなければなりません。主が私たちのランプに火を灯してくださるのです。イエスが燭台の上にランプを置くと言われたとき、その時それを聞いていたユダヤ人たちは神殿の聖所にある7つの灯皿のついた燭台のことを思い浮かべたかもしれません。聖所の火は何世紀も前に神によって与えられましたが、それを燃え続けさせるためには、祭司たちが灯芯を調え灯皿に油を満たすという務めを遂行せねばなりませんでした。

 

私たちのある者は神の火を何年も前に受け、それ以後はその火によって自分が用いられ影響を与えられるような場所に自分を配置する事に時間を費やしてきました。私たちのある者は油が少なくなり、その灯芯はくすぶっています。私たちはバーンアウト、燃え尽きているのです。しかし私たちはレビ人ではありません。私たちは新しい契約の保持者であり、イエスは私たちのランプにもう一度火を灯すことができるのです。それは実際にはどのような事を意味するのでしょうか?

 

キーポイント#2:あなたの目はランプである。あなたが何に焦点を当てるかによって、あなたがどれほど明るく輝けるかが決定する。

 

「良い目」とは、単純にただ一つのものを見つめる純粋な目のことです。それは私たちが真心をこめて純粋にイエスに焦点を当てるという意味です。イエスは「からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いとからだも暗くなります。」と言われました。(ルカ11:34)

 

何年も前のことですが、私は謙遜になろうと努力しました。しかし、それは勝ち目のない戦いでした。そしてやがて私は自分自身を見るのではなくイエスを見ることを学び始めました。主は謙遜なお方です。主に従っていくうちに私は主のように行動することを学びました。これは助けになることの一つです。

 

しかし、もう一つ私が謙遜について学んだことは、もし私が自分の心のうちを探るならば、謙遜は不可能になるということでした。ある時には私には謙遜がないことがわかりました。それよりもっと悪いのは、確かに自分には謙遜があることを発見しましたが、それを称賛した途端に私の謙遜はもう消えていくことでした。

 

何年も経ってから、私は 信仰に関しても同じことを学びました。自分は本当に信じているのかと自分の心を探ると、信仰は逃げていってしまいます。私が自分と自分が祈っていることの不可能さから目を離し、イエスを見上げると、信仰が自然に起こります。私たちがイエスに焦点をあてると、私たちのからだは謙遜と信仰の光で輝くでしょう。私たちが何かイエス以外のものに焦点を当てるときに、問題が起こるのです。

 

キーポイント#3:イエス以外のものに焦点を当てることは私たちの光を弱める

 

 主にだけ焦点を当てていることは努力のしがいがあることです。間違ったものに焦点を当てるならば、私たちのうちは暗やみで一杯になるでしょう。イエスは「だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。」と言われました。 (ルカ11:35)

 

私たちは全員このようなことを経験してきました。ミニストリーのあれやこれやの様々な問題に焦点を当ててしまうと、私たちの灯火は暗くなるのです。イエスに焦点を当てれば、明るく輝くのです。

 

時には霊的戦いをする中で、私たちに見えるのはサタンがしていることだけになってしまいます。私たちはダビデのようでなければなりません。彼は自分の肉の目を巨人に向けていましたが、心の目はヤーウェに焦点を当てることによってゴリアテに打ち勝ったのです。

 

私たちがイエスに焦点を当てるとき、私たちの霊的感覚が開かれます。しかし私たちが他のものに心を捕らわれてしまうとき、それを想像するようになってしまいます。それはちょうど静電気が起こると私たちの(神の御声を聞く)聴覚が妨げられ、曇りガラスを通すと私たちの視覚が曇るのと同じです。神からの指示をもっと明瞭に知るために、あなたの集中力をイエスから逸らすものは容赦なく断ち切ってください。

 

神はレビ人にウリムとトンミムを与えて民を導くようにされました。この二つの言葉は文字通り「光と廉潔 lights and integrities」        

という意味です。光は神が与える啓示です。廉潔は心の潔癖さ、単一さであり、動機の純粋さです。

 

イエスは父からの光と 一つのことを見つめる潔癖さとで生きておられました。主は当時の「宗教の霊に捕らわれた人たち」に抵抗されましたが、宗教家たちの堕落に焦点を当てられることはありませんでした。そうではなく、主は常に父がしておられることだけをじっと見ておられたのです。主は一つのことだけを見ておられたのです。

 

キーポイント#4:神の戦術は私たちをもっと明るい光にし、その光を輝かすことの出来る場所に私たちを配置すること。

 

自分を配置するのは私たちの仕事ではありません。私たちの仕事は主に焦点を当てることであり、そうすれば私たちのからだは光で一杯になります。もしサタンがやって来ても、サタンが「俺のものだ」と言える暗やみを私たちの中に見出すことはできません。

 

「もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかり(ランプ)が明るく輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。」ルカ11:36

 

私たちはイエスをどのくらいはっきり見ることが出来るでしょうか? どのくらい頻繁に? どのくらい一貫して? これが私たちの明るさを決める鍵でしょう。そしてその明るさによって神が私たちを配置される場所が決まります。神が天を開いておられる今、私たちはイエスに焦点を当て続けることに心しなければなりません。いろいろな現象が起こってくるでしょう。使徒行伝に書かれているようなことが。オープン・ヴィジョン、天使からのメッセージ、大きな奇跡など。それらが起こったときはそれを楽しみ、そこから力を得てください。しかし、それよってあなたがイエスから目を逸らせてしまうようなことは決してあってはなりません。主を見つめることがあなたのランンプを燃え続けさせるのです。(終わり)


08 11月

私たちは神の同労者 ビル・ジョンソン 11月9日


私たちは神の同労者

ビル・ジョンソン

 

 

すべての願望desire には父がいる

 

英語のdesireと言う言葉を分解しますとdeがofで sireがfatherですから、all desire is “of father” 「すべての人間の願望は父のもの、父に属する」と覚えておかれたらよいと思います。となると、私たちのすべき質問は「私の願望は神からのものか?」である前に「私は誰と親しく交わってきたかcommunion?」であるべきです。私たちは神と親しい交わりが持てると同じように、敵とも親しい交わりの関係が持てるからです。

 

数年前に私はある人からひどく侮辱を受けたことがあります。それを思い出した時、神がその人を裁いてくれたかどうかに考えがいくのであれば、その人に仕返しをしたいと言う願望が私の心をかき立てます。どうしてでしょうか?それは、私が苦々しく思うことの父と交わってきたからです。そのような願望は、私の心の中でその父の子どもとして存在してきたのです。

 

悪と交わることが私たちの心に悪い思い(願望)をつくりだすとすれば、神と交わりを持つことが、私たちの心にどれ程永遠の思いと究極的に神に栄光を返したいという願望をつくりだすと思われますか。これで気がつくことは、このような願望は命令されて出てくるものではないと言うことです。それは神と交わりを持つから私たちの心にそのような思いが出てくるのであって、これらの願望は神との交わりの関係によって生まれてくるものです。

 

この本を書いた主な目的は、クリスチャンが神と本当に親しい交わりを持ち、その交わりの中で生まれた願望で生きることをみなさんにお教えし、そのよな生き方をお勧めしたいからです。多くの信者は、自分の願望(欲望)というものの価値をうんと割り引いて、あまり値打ちのないものと考えています。そして、自分が神にすべてをささげていることを実証しようとし、自分の欲望はすべて自動的に否定し排除しようとします。それは確かに宗教的にアッピールします。しかし、自分をなくそうとするセルフレスなアプローチが行過ぎると、「自分のしたいこと」が神の御心である場合(神から来たもの)でさえも否定しようとします。こうして実際に、神とは、信者に夢とそれをかなえる力を与える父であるという事実を否定してしまうのです。

 

多くの人は、神の御国に入ることと神の国での生き方との違がよく見えていません。私たちは「自分の思いではなく、神の御心がなされますように」と言いながら、まっすぐで狭い道を通って御国に入ります。入り口は一つイエス・キリストです。真のいのちを見つける唯一の道はキリストにあり、自分を完全に主に差し出して中に入るのです。

 

しかし救いの狭い門を通って入った後の神の御国の中での生き方は全く違うのです。この中に入ってからは、主は私たちに「わたしはもはやあなたがたをしもべとは呼ばない・・・あなたがたを友と呼びました。」(ヨハネ15:15)と言われるのです。そしてその意味において「何でも欲しいものを求めなさい。あなたがたのためにそれがかなえられる。」(ヨハネ15:7)と言われたのです。

 

ここでの強調点は「何でも欲しいもの」にありますが、確かにイエスの言われることには重要な前提があることをよく理解しなければなりません。さもなければ、キリストを信じる信仰告白をさせることによって、もっと多くのセルフィッシュな人を造り出すことになりかねません。

 

十字架がよみがえりの前に来るように「自分を捨てて主の御心に従う」ことが「神が私たちの欲しいものをかなえてくださる」ことの前に必ず来なければなりません。

しかし、そのことの強調のし過ぎは別の危険性を生み出します。「自分を捨てること」を強調し過ぎると、クリスチャンは自分の願望が全く叶えられない者であると誤解されてしまい、それでは、この地上において私たちが真のキリスト(の福音)を正確にかつ効果的に伝え広めることが出来なくなります。

 

いのちの木

 

箴言13:12に「・・・望みがかなうことは、いのちの木である。」とあります。これはソロモン王が書いたと言われますが、まさにこの世で「望みがかなった」ことの例としてソロモンの右に出る者はいないでしょう。ソロモン王は「思っていた(心に願っていた)すべてのことを見事に実現した。」と2歴代誌7:11に書かれています。勿論、ソロモン王の人生の後半で彼が神に不従順な生き方をしたことの結果から学ぶことも出来ますが、それ以上に、彼の最初の頃の神への従順な生き方を喜ばれた神が、彼の望みのすべてをかなえられたという事実からこそ、私たちはより意義深い教訓を学ぶことが出来ると思います。

 

ソロモンの物語から創世記(エデンの園)にあるいのちの木とアダムとエバが持っていた永遠のいのちとの関係が思い起こされます。ここでキリストを信じる者がいのちの木によって「すべての望みがかなえられる」経験をすることが書かれています。キリストにおいて「すべての望みがかなえられる」ことの味を知った人は、永遠のいのち(を生きること)の前途perspectiveとそれが意味するアイデンティテイーが見えてきます。自分を捨てること、個人的トランスフォーメーション、自分の望みがかなえられること、という三つのプロセスが、私たちがキリストと共に永遠に支配するための訓練の場となるのです。

 

ヨハネ16:24で主は、私たちの望み(祈り)をかなえたいと言うお気持ちから「求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」と言われました。

道理で今の教会には喜びがありません。私たちの回復された心で祈る私たちの祈りが、地上において私たちが参加する神のご計画をあらわすのです。そして、その祈りが神によって聞かれて、かなえられる時に私たちに喜びが来ます。特に、神の超自然の力を必要とする祈りの場合には、それがかなえられた時の私たちの喜びは大変に大きいはずです。

 

喜びに満ちたハッピーな人たちと一緒にいることは楽しいことです。ですから、イエスは罪人たちの友達仲間であると言われ(ルカ7:34)彼の周りにいる人たちと大いに喜び楽しんだことがうかがい知れます。いつも毎日、イエスは一緒にいる人たちと、祈りが天の父によってかなえられる日々を過ごしたのですから、その喜びは特別に大きなものであったのです。イエスの喜び方は極端なものであったと言われますが、主の喜び方は、「叫び、飛び上がって喜ばれた」と書かれています。

そのようなイエスの近くにいるだけで喜びに満たされるのです。イエスを懐妊していたマリヤが近づくと、バプテズマのヨハネは彼の母親の胎内で喜び踊りました。

 

マルコ11:24に「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」と書かれていますが、私たちは祈っているときに神の臨在に満たされます。そのような臨在の中で浮んで来る願望に私たちは心を留めるべきです。主と深く交わっている時に何かが起こり、主が私たちの夢想したり願ったりする能力にいのちをくださるのです。主のご臨在に出会うことによって、私たちの心は新しくされ、その完璧にされた心のキャンバスの上に主が絵を描かれます。

神の地球におけるマスター・プランを具体化するために、私たちは神の同労者(一緒に働く者)co-laborersになるのです。私たちの持つ夢は神から独立したものではありません。むしろ神ゆえに存在するのです。神はご自身のご計画を設計し、それが「天で行われるごとく地でも行なわれる」ように私たちに示され、私たちがそれを実行して実現に至らせるのです。

 

私たちが主とより親密な関係を持つようになると、私たちの人生で起こることの大部分が、私たちの願望が実る結果として起こるようになります。それは単に天からの具体的な命令を受けてそれに従った主への従順の結果から起こることを超えたものです。神は私たちの望みとか願いを建上げていくことを好まれる方であるからです。

 

このクリスチャンのデスティニ-(究極の生き方)は、イエスの血潮が私たちにそのような生き方を可能にしてくださったずっと以前にダビデによって下記のように言い表されました。

 

「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」(詩篇37:4)         (終わり)

 

[訳者注:このメッセージはビル・ジョンソン師の著書Secrets to imitating God「神に似る者になるための秘訣」から抜粋要約したものです。]


20 09月

神の臨在(続) -ブラザー・ローレンスのこと 坂 達也 9月20日


神の臨在(続) - ブラザー・ローレンスのこと 坂 達也 先回書きましたように、私は久し振りにブラザー・ローレンスの本を手にする機会にめぐまれました。英文で95ページほどのこの高価な宝石のような小冊子を一度手にするとそれを簡単に下すことができません。惹き入られて読み進むうちに、再びぜひご紹介したい箇所がありましたので下記に訳してみました。 「ブラザー・ローレンスは、彼の霊的生活の基盤となるものは、神(の存在)を最も高揚された地位の方として心から(愛をもって)崇拝する彼の信仰にあることを私に打ち明けてくれました。このことが彼のこころの奥深くに確立されてからは、彼は日常のすべての行動を、ただ神への愛のために行うことが楽にできるようになりました。神に対する彼のこのような確固(熱烈)たる信仰は神に大きな栄誉をもたらすことであり、主が彼の祈りに答え、より多くの祝福を与えるためのドアをより大きく開くことになりました。」 ブラザー・ローレンスは「クリスチャンが、心のあまりこもらない日ごろの小さな祈りを機械的に繰り返し祈ることで毎日を過ごすとすれば、それは未だ弱い信仰である」と言います。そして、彼の言う確固たる信仰とは一日中一切を主に委ね切ることであると下記のように云っています。 「もし誰かが、自分自身と自分のすることのすべてを神にゆだね・ささげ・手渡す(surrender)なら〔それは神のためにすべてのことをすると決意することですが〕主はその人を、一切のまどわし、ごまかし、迷わすものdeception から守るであろうと言います。そして、主はそのような人が試練の苦しみに長く遭遇することを許さず、それに耐えることができるように脱出の道を備えてくださると言います。(1コリント10:13)」 つまり、そのような毎日を主と共に過ごす人には、神はすべてのことにおいて神の御心で彼が生きれるように導き、守り、平安と喜びの人生が送れるようにされると言うのですからすばらしいではありませんか。 そして、そうなるにはどうすればよいかについて、彼は「一日を通して、主のご臨在と共に過ごすためには、いつも主と話をする(主に話しかける)ことが必要である」とその秘訣を語ってくれます。この本ではブラザー・ローレンス自身が書いた部分と、彼の親友であるヨセフ・ド・ビューフォーが彼の云ったことを書いた部分がありますが、彼の友人はブラザーローレンスはこの「いつも主に親しく話しかける」ことの重要性を主張してやまなかったと言っております。 確かに私たちクリスチャンのうちには主が内住して下さっている以上、私たちにとって最も大事な「お客さま」で「共同生活者」である主にいつも親しくお話をするのは礼儀としても当然です。私は「主と個人的に深い交わりを持つこと」とはまさにこのことであると信じます。 私たちは「信仰が足らない、御声が聞こえない」と嘆くよりも、毎日傍におられる主ご自身に、本当に敬愛する親しい方として、何でも気が付いたことを気安く話しかけ、質問し、お願いする毎日を過ごすことを自己訓練することはそれ程難しいことではないと思います。勿論主に対する愛がなければできません。しかし後は堅苦しく考えないことです。 私の経験から言えば、たとえば私の好きな大リーグの野球、特に松井秀樹選手の出るロスアンジェルス・エンジェルスのゲームをテレビで見たい時は、私は主をお誘いして一緒に見てもらいます。そして、私なりの試合のコメントを主にお話したりします。最も親しい家族の長である父親以上の方ですから一緒に野球を見ることは、時と場合をわきまえてさえいれば、悪いことでも、主に怒られることでもない、むしろ主に喜んでいただける、より親しくなることであると信じるからです。 続いてブラザー・ローレンスの本を見てみましょう。 「ブラザー・ローレンスの心からのゴールは神以外に何も考えないことにあります。しかし、もし彼がある時間、神のことを考えないで時を過ごしていることに気が付いた時に、彼はそのことですぐ腹を立てないようにしました。そして時を待ち、神に自分の弱さを心から告白することによって、前よりももっと自信と喜びを持って神のところに返ることができました。又、その神の臨在から離れていた期間、彼自身が楽しく満足できる心の状態にいなかったことに気が付くのでした。 又、もし彼にあまりよくない考えが頭に浮かんだり、彼がそれに誘惑されそうになるとき、彼は直ぐにはパニックになったり、あるいは誘惑に勝てない自分を不甲斐ないと思わないようにします。なぜなら、過去の経験から、神を呼ぶべき時間が来るまでは慌てないで待ち、正しいタイミングで神を呼ばわることが、忠実なる神の助けが得られることを彼は知っていたからです。その時が来て神に声をかけると、その悪い考えは直ぐに消えてなくなります、とブラザー・ローレンスは言います。 神が一切の面倒をみてくれるという信頼のゆえに、ブラザー・ローレンスが外に出て(苦手で)慣れない商用をしなければならなくなったとき、彼は全く心配しませんでした。神は必要なときにどうすべきかを、刻銘に正しく鏡に映して見えるほど鮮明な絵にして見せてくれることを彼は経験していたからです。彼は前もって心配しなくても、神がいざという時には絵にして見せてくれることを既にかなりの間経験していたのです。このような経験を持つ前の彼は、自分自身の力で前もって対処方法をできるだけ細かく準備して出かけていました。 今は彼のするすべてのことが(神の御心にそって平安のうちに)静かに起こり、それによって、彼はますます愛する主の臨在に近い関係になっていきました。 この世の仕事を忙しくしている時であっても、神とのコミュニケーションを中断せずに神を意識し続ける習慣がついている彼が、たまに神から心が離れるような場合は、神から彼に注意信号の「呼びかけ」が届きます。それは、神が彼の心に神のイメージを溢れさせるのです。それによって彼は神が彼を呼んでいることに気が付かされるのでした。このようなときに彼の心は主の前で火のように燃え、喜びに満たされて、主に賛美の叫び声を上げて歌い、踊りたいような衝動にかられるのでした。 ほとんどの人にとっては、日常生活の忙しい行動が神とのコミュニケーションの妨げとなるところを、ブラザー・ローレンスは、むしろそれを通してより神に親密になると感じていたのです。彼にとって考えられる最悪の事態とは、神の臨在の感覚をなくすること でした。」 ブラザー・ローレンスが上記で言っていることは、あるいはイエスキリストが「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。...」(ヨハネ5:19-20)と言われたことに通じるのではないでしょうか。 主は、ブラザー・ローレンスを通して、人間の私たちにもイエスご自身と同じ生き方が出来ることを示して下さったのであると信じます。 私は創世記6章に出てくるエノクが「神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」(6:24)と書かれていますが、神とエノクの関係はブラザー・ローレンスが神と持った親しい関係と同じかそれ以上のものであったと思います。そしてあまりにも親しく、いとおしいエノクを、神はもっと近くに来てもらいたくて天に挙げられたのでありましょう。私たちも神とそれ程の親しい関係になれるのです。そうすれば、私たちもサタンの治外法権の世界で神のみに従って生きる「神の子」となれるでしょう。(終わり) トップへ戻る
18 11月

著書の紹介


新たに増版発売中
「主を見つめて待つ」 Contemplative prayer
         - 霊に目覚め・神の声を聞く方法 - 坂 達也 著

  2003年4月27日発行・2008年5月1日第二版発行
                   120ページ・定価 900円+税


推薦文 
   「クリスチャニテイーはリレーションシップである(P-106)と著者が定義しているごとく、「イエス様との個人的人間関係を深めたい」と願っている方々に、本書は大きな手がかりを与えてくれます。それはただの理論としてではなく、著者自身が主から受け取り、日々実践している主との深い交わりの秘訣を、御言葉の霊的理解と共に本書は鮮やかに解き明かしています。」 
                     新城教会 牧師 滝元 順

   「『主の御声を聞く』必要性を強調する本書には、終末迫る昨今の日本の教会に対する主からのメッセージが記されていると信じます。御言葉からだけでなく、著者の長年の実践から、非常に具体的な方法が記されており、霊性の訓練のための貴重な実用書でもあります。多くの方が読まれ、実践されることをお勧めします。」
                     蓬莱キリスト教会 牧師 佐藤経夫

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新刊 「キリストの弟子」 
       - 教会の完成を目指して - 坂 達也 著
    
                     (A5版 約240ページ) 定価 1500円+税


2008年1月より日本全国のキリスト教関係書店にて発売開始されました。この本の購読にご興味のある方はご一報ください。



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