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25 6月

「神の計画への服従・降伏」  十字架を抱きしめる     フランソワ・フェンロン


「神の計画への服従・降伏」

 十字架を抱きしめる             

            フランソワ・フェンロン

 

            

                                                    紹介と解説:        WWGM  坂 達也

 

    最初に著者であるフランソワ・フェンロン Francois de Fenelon をご紹介します。彼は1651年に生まれ、1715年に63歳で天に召されましたが、特筆すべきことは、同じ時期に、三人の主イエス・キリストとその十字架を愛する著名なフランス人が出ている事です。

 その一人は「霊的な導き」を書いたミカエル・モリノMichaeru Molinos 師、もう一人は 私が特に傾倒するジャンヌ・ガイヨンJeanne Guyon 夫人、それに、フェンロン師を加えての三人です。私はたまたまこの三人の残した著書を持っていますが、いずれも心から「十字架を抱きしめる」ことを最大の目標としていることにおいて共通しています。

  さて、この17世紀後半から18世紀の初めといえば、フランス史上最長といわれる、悪名高いルイ14世の時代と重なります。フェンロン師はこの文章を読まれればよく分かりますが、真に「自分に(魂)死んだ見本」のような愛の人で、ルイ14世の孫息子=彼は手の付けられないような荒々しい気性の激しい子供で=ほとほと持て余したルイ14世は、この子供の養育をフェンロンに委ねました。フェンロンはこの孫息子を見事に教育し、その功績を称えたルイ14世は、フェンロンに対して、当時の法王を通してカトリックの大司教の地位を与えました。しかし、この孫息子はフェンロンが死ぬ3年前に亡くなり、ルイ14世の後継とはなりませんでしたが、彼は死ぬまで、フェンロンを尊敬・崇拝したと言われ、フェンロンもガイヨン夫人もこの孫息子が後継王にならなかったことを大いに嘆いています。

 

 ついては、私自身の3冊めの本の「はじめに」で、私はパウロが書いた1テサロニケ5:16−18に触れ、特に17節の「絶えず祈りなさい。」の意味をご紹介しましたが、その折に、父と子を代表する「聖霊の神」は「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。・・・」(ガラテヤ2:20)を引用し、私たちが真のクリスチャンになれば、聖霊が、私たちの心の中に入って来られ、私たちと共に生きてくださり、毎日色々指示して下さることが実現する。すなわち、私たちクリスチャンは、「絶えず祈る」ことによって、すべて主の言われることに従っていれば、たとえ世の中がひっくり返ろうと、安心して「「いつも喜んでいられ、すべてに感謝しておられる」と説明しました。

 

 ガイヨン夫人の「イエス・キリストの奥深い経験をする」という本によれば、

(上記の)「絶えず祈る」ことによって、私たちがどんな状態で、どこにいて、何をしていても、常に神の臨在の中で生きることを経験し続けることができる、と言われます。

 

 ところで、ルイ14世と言えば、ジャンヌ・ガイヨン夫人を悪名高いバステイーユ牢獄に裁判無しで閉じ込められ、そこで夫人は6−8年過ごしたと言われますが、この間にフェンロンはガイヨン夫人と密接に連絡を取り、励まされたと言います。

 それでは以上でフェンロン師の紹介を終わり、以降は彼の書いた「神の計画への服従・降伏ー十字架を抱きしめる」の本文に入ります。

 

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 みなさんが色々なトラブルに陥っている事を、私は本当にお気の毒に思います。しかし、そのトラブルが、神様は必ず皆様のためにお働きになっておられる証拠であることを私は知っています。

 それは、神様があなたを心から愛しているからであり、それゆえにあなたが苦しむのをを惜しまないということを忘れないでください。

神様はあなたを愛しています。それゆえに、イエス・キリストの十字架をあなたの上に置いてくださっているのです。

 

   あなたがどんな啓示を受けようと、どんな感動的な体験をしようと、それがあなたを正しく導くものでなければ意味がありません。

どんな啓示を受けようと、どんな感情的な経験をしようと、それがまさに現実的で絶え間ない「自分に死ぬ」という実践に結びつかなければ、価値はありません。すなわち、自分自身の「自己中心の性質」に死ぬことを、現実的かつ継続的に実践しなければ意味がないのです。残念なことに、苦しみなしに「自分に死ぬ」ことはできません。

 そして、自分中心の性質がまだ少しでも生きているなら、「自分は完全に死んだ」とは言えないことは確かであるのです。

 

 神があなたにもたらす「自己死」は、あなたの心の奥底にまで突き刺さり、あなたの霊と魂を分断します。

  神はあなたの内面に、あなた自身には見えないものをすべて見ておられ、特に致命的な打撃を与えるべき場所を正確に知っておられます。

 神は、あなたが最も諦めたくないものに真っ直ぐに向かって来ます。痛みは、生命があるところでのみ感じられるものです。そしてこの状況では、その生きているところこそが まさに死を必要とする場所なのです。

 

  あなたの父なる神は、すでに死んでいるものに切り込むことで時間を無駄にしません。もし父があなたをそのままにしておきたいのであれば、必ずそうされるでしょう。父は、あなたの古い罪の性質を 破壊しようとしておられるのです。それはあなたの生きているものに切り込むことによってのみ達成できるのです。

 

 しかし、あなたが最初に神を信じ、自分を捧げたときに永遠に放棄したはずの、邪悪な欲望だけを神が攻撃するとは思わないでください。むしろ、神はあなたが感じている素晴らしい自由の感覚とか、今、あなたに精神的な安らぎを与えているもののすべてを取り去ることで、あなたを試すかもしれません。

 

  あなたは抵抗しますか?それへの答えは絶対にノーです。神のなさる すべてを受け入れるのです。「あなた自身の(魂の)死」を自ら率先して志願してください。なぜなら神は、あなたが神にそれを許す範囲でのみ、あなたが必要とすることがらを神は実行されるからです。神があなたの人生に起こそうとしている霊的な進歩を拒否すべきではないのです。

 

  今、神が喜んで下さるその喜びのために、あなた自身が頼っている神の喜ばないすべてのものを、放棄してください。それは霊的なものを含めてです。

 

信仰の薄いあなたたちよ!何を恐れているのですか?

 自分のよいと思っている力を奪われたとき、神がより良いご自分の御力をあなたに与えないとでも恐れているのですか?

あなたが持っている小さな力をなぜ主は取り去ろうとしているのか、分からないのですか?それは神があなたの全面的な供給者となるためであるからです。

 

 霊的なレッスンは痛みを伴うかもしれませんが、主はあなたの信仰を浄化し、神があなたのために用意した「神の仕事」を完遂するために必要な最もよい完璧な「神の手段」を用意したおられるのです。

  私は、クリスチャンの教会の「なすべき仕事」を前にしてあらゆるこの世的な助けの手段を神が遮断するのを、見て来ました。

 神は嫉妬深い神です。神はあなたに必要な最高のものを用意される方です。

 

  主のご計画に一切身を任せましょう。神は、あなたを連れて行こうとするところに、あなた自身が導かれることを、あなた自身に期待し、それのみをあなたに待ち望んでおられます。

 自分で人に助けを求めるときは注意が必要です。

  神があなたに与えるようにとその人に与えるものしか、彼らは、あなたに与えることができないことを忘れないでください。

   蛇口から水が飲めなくなったからといって、なぜあなたが困るのでしょうか?あなたは今「永遠に流れ出る泉」からふんだんに飲むように導かれているのです。(続く)


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