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Walk With God Ministries


24 05月

ペンテコステの日を心よりお祝い申し上げます     坂  達 也 ・ 柚 実 子


ペンテコステの日を心よりお祝い申し上げます

 

       坂  達 也 ・ 柚 実 子

 

ハレルヤ! 日本の皆様は既にペンテコステ礼拝を済まされたと思いますが、アメリカは今日がペンテコステをお祝いする日曜日です。

ついては、皆さんの礼拝で次のことが起こりましたか。

 

その日には「突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。・・・すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。・・・ この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。」と使徒行伝2:2−6に書かれています。

 

私たちは最後のリバイバルはこのようにして起こると信じて疑いません。それは下記のヨエルの預言の通りです。

『神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう。また、上では、天に奇跡を見せ、下では、地にしるしを、すなわち、血と火と立ちこめる煙とを、見せるであろう。 主の大いなる輝かしい日が来る前に、日はやみに月は血に変るであろう。そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう。』(使徒行伝2:17−21)

 

そうです。聖霊が私たちの上に臨まれる時、私たちは力を受けます。

 

おめでとうございます。もう皆様方にはリバイバルへの準備が出来ておられますか。いよいよこれからは、皆様の集まりの上に「突然」大きな音とともに激しい風が吹き下ることがいつ起こっても不思議はありません。それを心から期待しております。(終り)


20 05月

預言の約束と祈りの関係 (その2)        マイク・ビクル        2015年5月20日


預言の約束と祈りの関係 (その2)

 

マイク・ビクル

 

 

1982年9月に私はエジプトのカイロのホテルに泊まっていたのですが、夜一人で祈っていたときに経験したことをお話しいたします。その時私は27歳で、セントルイスで牧師をしていました。主が24/7の祈りに関して語ってくださる少し前のことです。

 

私はその夜非常に劇的な霊的経験をしました。勿論私の人生でボーンアゲインしたことが最大の経験でしたが、これはその次に重要な経験でした。私の内に主の御声をはっきりと聞きました。肉の耳で聞いたわけではありませんが、単なる印象とかではなく、非常に鮮明に聞いたのです。主はこう言われました。

「わたしは全地でキリスト教というものの理解と表現を一世代のうちに変える」

この言葉は私のうちに矢のようにささり、主ヘの畏れに私は打たれ、主の臨在がそこにあふれていました。

 

「キリスト教というものの理解」という言葉を聞いたとき、それはノンクリスチャンがキリスト教をどのように見ているのか、ということを指していることが私にはわかりました。使徒5:5には「アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。」と書かれています。すべての人が教会に働いている聖霊の力を恐れたのです。

使徒5:13には「ほかの人びとは、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人びとは彼らを尊敬していた。」とあります。それほどに教会は人びとから一目置かれていたのです。

今世界の中で教会は力を持っていませんし、尊ばれてもいません。国家に対しても、都市に対して、家族に対しても、ほとんど影響力がありません。主はノンクリスチャンたちの教会をそのように見る目を変えると言われているのです。人びとは再びキリストのからだの中に神のすばらしさと同時に恐るべき力を見るようになるのです。

 

次に「キリスト教の表現」とは、教会がイエスのリーダーシップのもとで共にその命をどのように表すかということです。神は私たちを劇的に変えてくださり、教会は神の愛と力において一致し、一世代のうちに聖い民とされます。キリストのからだが集まるとき、そこに新しい姿が表されるのです。それは私たちが今想像する以上のものでしょう。ただ礼拝に集まるときだけではなく、世の中で、クリスチャンが二人三人と集まるときに、主の臨在がそこに現れるのです。大きな競技場が聖会で一杯になる時が来ると私は信じます。ある人が説教をして沢山の人が救われるという集会も確かにすばらしいのですが、それだけではなく、集まったすべての人のただ中で神が働かれ、しるしと不思議と奇蹟が起るということがもうすぐ起こると私は信じています。

神はその時、キリストのからだのすべての人を用いられます。小さいレムナントの群れがあそこに一つ、ここに一つ、というのではありません。

何故か「レムナントとは、即ち私が属しているグループだ」とみんなが思っています。しかし、世界には数えきれないほどのミニストリーが主のために仕えています。それぞれ異なる働きですが、皆全身全霊で主に仕えているのです。

 

頻繁に「リバイバルはどこから始まるか」という話を耳にします。どこから始まってもいいではないですか! いずれ全地がおおわれるのですから!

普通そのような話をする人は、リバイバルは自分のグループから、自分の国から始まると言うのです。しかし神はキリストのからだを全部愛しておられます。

 

「あの群れはもう霊的に死んでいる」と非難する人もいます。確かに死んでいるところもあるかもしれません。しかし、その死んでいる祈り会に激しい聖霊の風が吹けば一夜にして変えられるのです。ですから私は誰をもリストから消したりはしません。何故ならば、リバイバルは「いかに人びとがすばらしいか」ということではなく、「いかに神がパワフルで偉大であるか」ということだからです。「どの教団が」とか「どの教派が」とかいう話はまったく聖霊の働きとは関係ありません。「私の街からリバイバルが始まります。」という人にむかって、私は「すばらしい!他の一万ほど場所でも起こりますよ。」と言うのです。

 

ヨエルの預言について

 

使徒行伝2:16−20でペテロはヨエルの預言を引用しています。

「これは預言者ヨエルによって語られたことばです。『終りの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしに霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。』」

 

ペンテコステの日に120人が集まっていたときに聖霊が下り、一瞬にしてこの小さな祈りのグループは変えられました。このあと3千人が救われ、その後も多くの人が教会に加えられました。

16節を見てみますと、ペテロは「これは預言者ヨエルによって語られた言葉です。」と言っています。実にこれは非常に重要なポイントであり、ペテロは今起っていることはヨエルが預言したことだ、と言っています。「主の日が来る前に」地上のすべてのクリスチャンの上に聖霊が注がれるのです。そして奇蹟が空中にも地にも毎日のように現れるのです。物事はだんだんに少しずつ起ることもありますが、また突然起ることもあります。

「すべての人に」というのはイスラエルにとっては、全く新しい考えです。ヨエルはBC600年くらいの預言者でしたが、聖霊がすべての人に注がれると言ったのです!当時預言の霊は王と預言者に注がれただけでした。そして2、3の例外を除いては、すべてユダヤ人の成人男子にだけ注がれました。しかしヨエルは子どもにも注がれると預言しました。当時のリーダーたちは「えっ、子どもにも?」と思ったことでしょう。そして女性にも注がれ、なんと異邦人にまで注がれるというのですから、彼らは心底から驚いたことでしょう。これは本当にとんでもない馬鹿げた話だったのです。聖霊が異邦人の女の子どもに注がれるなど、当時は全く考えられないことでした。ヨエルは「まあ、見ていてごらんなさい。」と思ったことでしょう。

ペテロはヨエルの預言を120人に起ったことに対して引用しています。しかしヨエルの預言はすべての人に対する預言です。「でもペテロさん、ヨエルはもっとすごいこと、全地のすべての人に聖霊が注がれることを預言しているのですよ。」と私は言いたいのです。ペテロはたったの120人にヨエルの預言を当てはめているのですが、でもそれは確かに預言の完全な成就の始まりだったのです。使徒行伝を読む時は、これが最高だと思わないでください。これは出発点、発射台、始まりです。私たちはペテロが見たものより、ずっとすばらしいことを見るようになるのです。

 

愛する皆さん、私たちはこの預言の約束を握りしめ、これを忍耐強い祈りに変えねばなりません。また国家に与えられた預言や、個人的な預言もそれを信じて祈り続け、実現に至らしめるのです。なぜならば預言は神からの招待状だからです。(終)


16 05月

預言的約束と祈りの関係( #1) マイク・ビクル(IHOP ディレクター) 2015年5月16日


預言的約束と祈りの関係( #1)

 

マイク・ビクル(IHOP国際祈りの家ディレクター)

 

 

喜んで与えてくださる神

 

多くの預言的約束は、主からの招きであり、結果を保証するものではありません。主が「わたしはこれこれをしたい。もしあなたがわたしと共に働くならば、あなたの人生に対する私の計画は完全に成就するであろう。」と言われるのです。ある預言の約束は完全に保証されているものであり、私たちがどのように応答したとしてもそれは成就します。しかし多くのものは、主からの招きです。私たちがそれに十分に応答できないときは、私たちの人生に対する神のご計画は完全には成就しません。

 

イエスはルカ12:32で当時の人にとっては考えられないことを言われました。

「小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。 Do not fear, little flock, for it is your Father’s good pleasure to give you the kingdom.

当時、ユダヤ人たちは神が自分を愛していてくださる父であるという認識はなく、又、王とか預言者ではなく普通の小さな群れを通して御国を喜んで与えてくださるというのは非常に驚きでした。

マルチィン・ルターは次のように言っております。

「祈りとは気が進まない神を説き伏せることではなく、喜んでしたいという神の思いをしっかり掴むことである。 Prayer is not overcoming God’s reluctance but laying hold of His willingness.」

時として私たちは、「祈りとは私たちが神を説き伏せ、神も私たちを説き伏せようとすること」と考えるのです。しかし、神は「それを与えるのは私の喜びである。もしあなたが共に協力するならば、わたしが預言的言葉をもってすでに定めたように、あなたはわたしの計画をフルに歩むことになるであろう。」と言われているのです。

 

3種類の預言的約束

 

私たちは、今神がこの世代に計画されておられる預言的約束が成就するように、とりなし勝ち取らねばなりません。預言的約束には3種類あります。即ち、聖書に書かれた預言的約束、国々に与えられている預言者を通してその国、その世代に与えられる預言的約束、そしてあなたやあなたの家族あなたのミニストリーに対して与えられている個人預言の約束です。私たちはこの3種類の神の約束を信じてしっかりと握りしめ、決して途中で投出たりしないで、それが成就するまで戦うのです。

ここで注意せねばならないのは、私たちのミニストリーの土台は聖書に書かれているイエスであり、イエスとの交わり、イエスの十字架の御業です。預言の言葉はあなたを鼓舞し、困難な時にもくじけない力を与えてくれるでしょう。しかし、土台は聖書に書かれている御言葉です。

 

人はよく「私は御使いの訪れがほしい。」と言います。しかし天使の訪れや神の御声があなたに聞こえるのは、天使が伝えようとしている神の任務が非常に困難なので、あなたが途中であきらめないで最後まで遂行するためにはそのような劇的な確証、励ましが必要だからです。ですから私はこう言うのです。「5分間の天使の訪れを受けて、50年間困難な任務に就きたいのですね。」するとみんな「ちょっと考えさせてください。」と言います。

聖書の御ことばが信仰の最終的な権威であり、それは預言的約束に関してもそうです。もしあなたが天使から何か聞いたとしても、聖書の御言葉の中にそれがはっきりと確認できないのであれば、その言葉に従うべきではありません。

 

現代の国々への預言と個人的預言は、2人又は3人の証人によって確認されねばなりません。正確な数字は分かりませんが、私のもとへは毎週5つから20くらいの私に対する個人的預言が送られてきます。毎週です。あるものは、「栄光があなたにやってくる、神はあなたを喜んでおられる....」というものであり、またあるものは、「神は悲しんでおられる。もう栄光はあなたのミニストリーから去るであろう。ミニストリーは崩壊するであろう....」というようなものです。過去25年間毎週このように両極端な預言を受けてきたのです。ですから、私は明確な神からの確証がないかぎり、それは奥の棚において置くのです。もし神がその預言の中から何か一つを「これは確かにわたしからの預言であるから見なさい。」と私に示したいのならば神はそれがおできになる方ですから、安心して棚に置いてあります。

預言を受けたときに、神からの明確な確証がないならば、それに関して祈り始めることを私はしません。ただ誰かが「私もそんな気がします。」と言うような曖昧な確認では私は動きません。私たちはしっかりと目をさまし、預言が真に神からのものだと確認したならば、それを心にしっかりと抱くのです。

 

前述のように預言の言葉はそれが必ず起るというのではなく、多くの場合神からの招待状です。32年前、私は24/7の絶え間ない礼拝に関する主の御声をはっきりと聞きました。聖書の中にはイスラエルの王によって絶え間ない祈りと賛美が捧げられたことが多く書かれていますから、それは聖書的なことであり、また歴史を通しても行われてきたことです。新約時代、使徒たちは深く祈りに没頭していました。それは今のクリスチャンがいう「祈り」のレベルとは全く違う深いものでした。昼夜を通しての祈りは新約の教会においては「ノーマル」だったのです。

神は私に「あなたにそれをしてほしい。」と言われました。それは神からの招きでした。それが実際に起るかどうかの保証はありませんでした。神の招きに対して私たちは「いいえ、できません。」とも言えるのです。「神よ、もしあなたがしたいのなら、ポンとどこかに出現させたらいいではないですか。私はしたくないです。」とも言えるのです。神の招きには人間側からの協力が求められているのです。このように神からの預言的約束の多くは、あなたに対する招きなのです。

預言的約束と祈りの関係

 

預言的約束は、私たちが忍耐をもって戦い抜き、ミニストリーに困難を覚える時にも忠実にやり続けるのを助けてくれます。力強い主からの約束を確信し、祈りによってそれを握り続けないと約束は実現しないでしょう。神の預言の約束と私たちの忍耐ある祈りとは、深く結びついているリアリティーです。約束があなたを祈りに導き、祈りが約束を実現させるのです。

 

神からの尋常ではない招待によりあなたの心は強く動機づけられるのです。勿論あなたが弱くなる時もあるでしょうか、それでもあなたはその任務に対しての情熱をもち続けることができるのです。特に神があなたに預言的な激しいヴィジョンによって与えられた任務は、あなたがもう止めたいと試みられるものです。それは非常にチャレンジの多い困難なものであるからです。ですから神はご自分がどれほどそのことに情熱をかけておられるかをあなたに示されて、あなたが最後までやり遂げるように励まされるのです。

 

第一テモテ1:18「私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言に従って、私はあなたにこの命令をゆだねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。」

 

パウロはここで「あなたがあの預言によって...勇敢に戦い抜くためです。」と言っています。テモテが以前受けた預言を思い出すことによって心を燃え立たせるように、そして祈り続け、預言の約束が成就することを信じ続けるようにと勧めています。

私たちは聖書に書かれている預言的約束を一番重要視します。1から10の段階でいえば、10です。しかし私たちは個人に与えられた預言的約束を無視するわけではありません。あなたは多くの個人預言を受けられたかもしれませんが、それは勿論明確な確証が無ければなりません。でも主がそれを確証されるならば、それを無視してはいけません。神はその預言をあなたが受け取り、神と共にその実現のために祈り続け戦い取ることを望んでおられるのです。

 

神のパートナーとなる3つの段階

 

1.まず神がご自分の望まれることを発表される。御言葉により、又いろいろな方法で、神は私たちの心に語りかけられる。私たちが自分で思いつくことではなく、すべて神の考えであり、神がイニシャティブをとられ始められることである。

 

2.私たちがその神の招きに従順にしたがい、信仰の祈りによって応答する。これは一週間とかではなく、何ヶ月も、あるいは何年にも渡ることも多く、私たちは聖霊の励まし、預言の約束の励ましによりそこから逸れないで祈りつづける。

 

3.神が私たちの祈りに答えてくださり、祈ったことを現実にこの世に現してくださる。これは段階的に起ることもある。

 

例えば、1.神が「わたしはあなたの街にリバイバルを送る」と言われ、2.人びとがそれを信じ受け取って聖霊の励ましにより熱心に祈り、3.神がその祈りに答えてリバイバルを起こしてくださる、というようにです。

つまり、神がすべてのプロセスを司っておられるのであり、パウロの次の言葉はこのことをよく表しています。

ロマ11:36「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。(From Him, through Him and to Him are all things.) どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」

 

多くの人はリバイバルが起るという確信がないので、あまり祈りません。私は多くの牧師と話す機会がありますが、彼らは「どうしたら信徒たちがもっとリバイバルのために祈るようになるでしょうか。」と訊きます。その問いに対して私は「聖書に書いてある終末のリバイバルについて説教をしてください。」と答えます。聖書にはリバイバルという言葉こそ使われていませんが、終末に主が起こされる聖霊の傾注について多く書かれています。主が来られる前に主がされることを話すのです。人びとがその真理を知る時、祈りへの確信と情熱が彼らの内にわき起こります。確信と情熱が大きければ大きいほど、人びとは主に心から祈り求めるようになるのです。(続く)


10 05月

涙の部屋       ジェニファー・ミラー            2015年5月10日


涙の部屋

 

ジェニファー・ミラー

 

 

ある日私が祈っている時、主が私の霊の目を開いてくださいました。私は自分が天に引き上げられるのを見ました。私の目の前には非常に大きな家が立っていて、中には沢山の部屋があり、それが「天の父の家」であることがすぐ分かりました。御父の愛が私を家の中へと引寄せるのを感じたので、私は全速力で走って行き家の中に入りました。すると主ご自身が一つ一つ沢山の部屋を案内してくださいましたが、どの部屋も深い霊的意味で満ちていました。

 

主は家中で一番美しい部屋へと私を招き入れてくださいました。そこは「主との親密な交わりの部屋 the Intimacy Room」でした。それはすばらしく美しく豪華な部屋でした。そこに入たとき、私は圧倒的な愛に包まれ、ずっとそこにいたいと思いました。私は他のクリスチャンたちが家の中のいろいろな部屋にいるのを霊で聞くことができました。ある人たちは図書室で勉強をしていました。又ある人たちは霊的ぶどう酒の蔵で酔っていました。「親密の部屋が家中で一番美しいのに、なぜみんなここに来ないのだろうか」と私は少しばかり驚きました。

 

私はこの部屋の美しさを称賛しつつ眺めていましたが、ベッドの横の床に小さな木の上げ蓋があるのに気付きました。私にはそれは大層奇妙に思えました。というのは上げ蓋は少しも美しくなく、部屋には全くそぐわなかったからです。何故この部屋にあるのですかと主にお訊ねすると、「それはこの家の他の部屋に通じている入口です。」と主は教えてくださいました。私はどうして主はそれをこの部屋の中で最も美しいベッドのすぐ傍に置かれたのかをお尋ねしました。主は「わたしはほとんどの時を下の部屋で過ごすのでここに置いたのです。」と言われました。私は好奇心からそこにはどんな部屋があるのですかと訊ねました。主はそこは「涙を流して泣く部屋 the Weeping Room」だと教えてくださいました。

決して入ってみたいと思うような名前の部屋ではありませんでしたが、私の心は「もしそこで主が最も多くの時を過ごされる場所であるならば、私もそこに行きたい」と叫んでいました。「主と御一緒にそこに行けますか?」とお聞きしました。主は「その部屋に下りて行く人はほとんどありません。それはこの部屋のように豪華ではなく、孤独で、心地よくもないのです。それに部屋の入口のドアはとても小さいので、あなたは身を非常に低くかがめねば入れません。」と言われました。私は「どんな所でもかまいません。私はただ本当に主がおられる所にいたいのです。」と言いました。

 

それで私たちは小さな上げ蓋を開けてゆっくり暗い階段を下りて行き、とても小さな部屋の前に出ました。その入口のドアはとても小さかったので、私は膝を床につけて入らねばなりませんでした。部屋の中はとても簡素で、小さな木の椅子が一つあるだけでした。一方の壁に小さな窓がついていました。主はその椅子に腰掛けて、顔を窓の方に向けられました。私はこの部屋が涙の部屋と呼ばれる理由をすぐに悟りました。

その窓からは地上が見えて、人びとからの叫び声が一つ残らず聞こえるのです。全世界のすべての不正行為が見えます。すべての飢えた子どもが神に叫ぶ声、強姦されたすべての女たちの声、拒絶されたすべての者のうめき声、すべての祈りと叫びをその場所で同時に聞くことができるのです。主はその椅子に腰掛けて、すべてを見つめ、すべてを聞かれました。

すぐに私はとりなしの思いに圧倒されて泣き始めました。何時間も泣いていました。私は苦しんでいる人たちのために泣きました。しかしそれにも増して、ここで時を過ごされることを選びとっておられる王なるお方の麗しさに打ちのめされました。すべての叫びに心を留められ、憐れみに満ちておられる主、、、。

私はそこに座って主と共に泣いていると、次第に主の御こころをうちに感じ始め、私が持っていた自分本位なすべての願望が消え去って行きました。

主と共にその部屋にいた時、部屋にもう一つ別のドアがあることに私は気付きました。そのドアの向こうには何があるのですかと主に訊ねると、そこには「戦略の部屋 the Strategy Room」があると教えてくださいました。一瞬にして霊のうちに私はその部屋には終末のリバイバルのための神の戦略があることを悟りました。そのドアは閉まっていましたが、そこに知恵と啓示があることが私にはわかりました。

地上に御国を来らすための天の戦略の青写真がその部屋に広げられているのです。それはまるですべての人が捜し求めている秘密の部屋のようでした。皆が天からの戦略を求めています。私はすぐにその部屋の中に入っていいですかと訊ねましたが、主は厳かに、まだ私はそのドアから入ることはできないと言われました。私はもっと涙の部屋で時を過ごさねばならないのだ、と悟りました。神が貧しい人や傷ついた人に対して抱いておられる思いがわかり始め、自分の肉なる性質が取り去られていくならば、私はそのドアを通れるほどに十分小さくなれることを理解しました。

その時、私にすべてが明らかになりました。神の戦略を手に入れるための道はこれしかないのです。神との親密な関係を持ったとき、神は私たちをもっと深いレベルへと招いてくださいます。主は私たちを涙の部屋へと招き、そこで、私たちは主が見るものを見、主が感じられることを感じることを選ぶのです。そして私たちがそこで時を過ごし神の御心を知るときに、私たちの肉なるものはそぎ落とされて、戦略の部屋に入るドアを通れるほどに小さくなれるのです。

 

私はこの霊的経験を2年前にしたのですが、今神は教会の多くの者たちを親密の部屋から涙の部屋へと移しておられると思います。ですからやがて彼らは戦略の部屋へと導かれるでしょう。実際に、私たちは親密の部屋を去る必要はありません。あなたは親密さの深いレベルを見出すのです。多くの者はすでに涙の部屋へと自分を捧げ、傷ついた者への神の御心を熱心に求めました。彼らは今戦略の部屋へと招かれています。

私は一年ほど前にもう一度霊的経験をしました。大きな声が「時は今だ!」と言うのが聞こえ、私は霊のうちに戦略の部屋のドアが大きく開かれるのを見ました。地球規模の魂の大収穫を解き放ち、勝利する聖徒たちを通して地上に御国を打ち立てるための戦略へと神は今、私たちを招いておられます。私たちが戦略の部屋に入るとき、私たちは涙の部屋で見たり感じたことに心迫られ突き動かされると信じます。

ある人たちが私たちより先にすでに戦略の部屋に入ったことがあることを私は感じます。残念なことに、そのほとんどの人はそれが何のための戦略であったのかを直ぐに忘れてしまい、自分の王国を建てるためにその戦略を用いてしまいました。(ハガイ1:3−7参照)神は今、「自分の王国を建て上げる」という考えを拒絶するクリスチャンの一群を起こしておられます。この一群の者たちの心には、情熱と憐れみという焼き印がくっきりと押されています。彼らこそ神が戦略の部屋へと招いておられる者たちです。(終)


04 05月

主の任命    ベンジャミン・イスラエル • ロビンソン        2015年5月4日


主の任命

 

ベンジャミン・イスラエル•ロビンソン

 

 

仕えることの大切さ

 

多くの人が「自分には神からの特別な召しがあるから、神がそのための扉を開けてくださるまでは、何もしなくてよい。」と言います。それは世界的な預言者になるとか使徒になることかもしれませんが、何であれ、彼らは「小さな働き、奉仕は私にはできません」と言うのです。けれども、あなたが人に仕えることを始めない限り、神があなたをどのように召されるのか、どのようなデスティニーに導かれるのか分からないのです。人に仕え奉仕するプロセスにおいてそれは示されるからです。

モーセがそのよい例です。彼のデスティニーはイスラエルをエジプトから導き出すことでした。しかし彼はしゅうとのイテロから羊を飼うようにと言われました。モーセはそれに従い、誠実に仕えていた時に「燃える柴」の経験をしたのです。そして彼はイスラエルの解放者、偉大な預言者となりました。仕えていくことを通して、私たちは神からの自分への職務を見出します。これはダビデの人生でも明らかに見ることができます。

 

サムエルの油注ぎ

 

1サムエル16章を見ると、サムエルは一人で部屋の中で泣いていました。それは、彼がイスラエルの王として油注いだサウルが過ちを犯し、サウルにもイスラエルにももう希望がないように彼には思われたからです。サムエルは、サウルの失敗を嘆いていただけではなく、それは取りも直さず自分のミニストリーの失敗だったのです。このような事態を避けるために自分はどうすればよかったのだろうか、と考え、悔やみ、悲しんだのです。サムエルは多くの者の中からサウルを選び、ロバに関する預言を与え、油を注ぎ、イスラエルの前で彼を王にしたのです。ですからサムエルは責任を深く感じていました。

 

今サムエルは、一人で、神が一つ前の代にされたことが失敗したことを嘆き悲しんでいました。その時神が介入され、「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。」と言われました。この言葉からサムエルがかなり長い間悲しんでいたことがわかります。彼は恐らく何日もサウルのことで泣き、もうすべて終ったと感じていたのでしょう。神は「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角の油を満たして行け。」と言われました。サムエルは恐らく「もう私は誰にも油を注がない。サウルに油を注いだが彼は失敗した。私には誰を選んだらよいのか分からない。」と思っていたことでしょう。

 

しかし神は「わたしが前の代でしたことでいつまで泣いているのか。わたしは次の代の上にすでに手を置いているのだ。」と言われたのです。神はすでにダビデを選んでおられました。サムエルがダビデに油を注ぐずっと前に、神はダビデを選び、任命し、油を注いでおられたことを私たちは知らねばなりません。サムエル、家族、イスラエル、そしてダビデ自身が知るずっと前に、神はダビデに油を注いでおられたのです。

サムエルが遣わされたのは、神が永遠の中で既に成就されたものを、歴史の中の今という時に現すためでした。「わたしがすでに成したことの証人となる特権をサムエル、あなたに与えるのです。」と神は言われています。これが任命式(オーディネイション、按手礼)の意味です。

 

心を見られる主

 

サムエルは角に油を満たしエッサイの町に出かけました。エッサイは7人の息子を連れてきましたが、一番末のダビデには羊の番をさせておきました。エッサイはダビデを評価していなかったからです。彼は人の目に立派に見える息子たちを連れてきました。神も同じように見られると思い違いをしていたからです。私たちは神の御前で喜ばれる者がどのような者かを知らないのです。

私たちが人を見るとき、その人の過去と現在しか見ることができません。しかし神は私たちを永遠の中で知っておられます。

 

エッサイの7人の息子たちがサムエルの前に一人ずつ立ちましたが、神は「この人ではない」と繰り返し言われ、神はサムエルに「外見で人を判断するのはやめなさい。」と言われ、サムエルはエッサイにダビデを連れて来させます。ダビデは羊を飼っていた牧場から来ましたから、多分羊のような臭いがし、顔に泥がつき、頭には小枝がついていたことでしょう。サムエルは「主よ、この者ではないですよね。ご冗談でしょう。」と思ったと思います。しかし神は「さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ。」と言われたのでした。

 

前もってデスティニーを知らされる意味

 

興味深いことは、イスラエルの王として油注がれたダビデが、又羊飼いの仕事に戻ったことです。私たちにとって一番辛いのは、神はかなり前もってデスティニーを与えられることです。

例えば、アブラハムにまだ子どもが一人もいないときに、「あなたは多くの国民の父となる」と言われたことです。あるいは、ヨセフは家族全員が自分を伏し拝んでいる夢を見たけれど、兄たちは彼をエジプトに奴隷として売る相談をしていたことです。又、バプテスマのヨハネが生まれたとき父親がすばらしい預言をしましたが、彼は30歳頃まで荒野で野蜜とイナゴを食べて暮らしたことです。

 

神は私たちにデスティニーを前もって与えることが大好きです。その理由はあなたが次のことを知るためです。即ち、「デスティニーは、あなたの努力で一段ずつ階段を登って獲得するものではない。又あなたが何らかの資格、学位を取って獲得するものでもない。それはただ神が神のパワーによって成されることである。」という真理です。

 

あなたが「自分は失敗した、もう駄目だ」と思う時、神はあなたの人生の中のサウルというかすを取り除いてダビデを就任させているかもしれないのです。あなたが失敗したと思うその時こそが、あなたが昇格する時かもしれません。あなたは失敗したのではありません。あなたは失敗出来ません。あなたのデスティニーが失われることは絶対にありません。神は決してあなたに与えたデスティニーを忘れてはおられません。

 

胎内の任命

 

ダビデは非常に多くの困難や敵のわなに直面しました。ダビデはイスラエルの王の油注ぎを受けましたが、家族はそれを信ぜず、彼を羊のところへと追いやりました。

サムエルが少年ダビデに油を注いでから、彼がユダの王に任命されるまでにほぼ10年が経っていました。神の油注ぎとサムエルの油注ぎとは異なり、またサムエルの油注ぎとイスラエルの油注ぎは異なっています。

 

神はエレミヤ1:5で「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」と言っておられます。神はダビデが母の胎内にいる時から任命していました。神の油注ぎは永遠のうちにあるのです。しかし、サムエルによる油注ぎは、神が地上でダビデの任命を現すのにふさわしいと思われたその時点で行われたのです。神は「さあ今、わたしは人びとに知らせよう。」と言われたのです。しかし、神が地上で任命を明らかにされるのは、これから起ることのしるしにすぎません。実際にはあなたはまた前と同じように羊を飼うのです。

 

あなたが現される日

 

2サムエル5:3で「イスラエルの全長老がヘブロンの王のもとに来たとき、ダビデ王は、ヘブロンで主の前に、彼らとの契約を結び、彼らはダビデに油をそそいでイスラエルの王とした。」とあります。全イスラエルがダビデを王に任命した日は、彼の王権が全面的に現される日となりました。彼はその日丁度30歳になりましたが、彼はその後33年間イスラエルを治めました。23歳から7年間ユダを治め、30歳から33年間全イスラエルを63歳になるまで治めたのです。

2サムエル2:4に「そこへユダの人びとがやって来て、ダビデに油をそそいでユダの家の王とした。」とあります。ユダの油注ぎとは、小さなグループの油注ぎということです。神はまだあなたを世界には現されていません。神はあなたを少人数の人にだけの秘密にしておられるのです。大部分の人は神の油があなたの人生に注がれたことを知りません。しかしあなたが全イスラエルによって油注がれる時、神がたれ幕をさっと開いてあなたを人びとに現わします。私たちは神の現れを祈りますが、神はあなたの現れを待っておられるます。実際、すべての被造物は神の子たちの現れを待ち望んでいます。

 

あなたの油注ぎは、サムエルの角の油に頼る必要はありません。サウルがあなたに好意を持っているかどうかも関係ないのです。あなたは今職場や家庭で悪く言われ、これからもよいことが起るとは思えないかもしれません。しかし神があなたを建て上げておられるところでは、必ずあなたを貶めようとする人がいるのです。神はあなたを現されるその日、その時を必ず備えていてくださいます。

 

その時まで神は、私たちが何をすることを望んでおられるのでしょうか。主はダビデに「羊の群れに戻りなさい。そしてハープを奏でて賛美をしなさい。」と言われました。私は時々「神様、今から霊的眠りに入りたいです。あなたがこの問題を解決してくださる用意ができた時に起こしてください。その時まで眠らせておいてください。」と主にお願いしたいと思いますが、神様のやり方はそうではありません。ダビデはどんな時も羊のところに行き、ハープを手にとって「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。・・・」と歌ったのです。

 

私は自分のデスティニーを成就するために生きているのではありません。私は私の主を礼拝するために生きているのです。私のデスティニーは主の御手の中にあります。主が私の内に置かれたものを現す日は、主の御手の中にあるのです。(終り)