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16 5月

預言的約束と祈りの関係( #1) マイク・ビクル(IHOP ディレクター) 2015年5月16日


預言的約束と祈りの関係( #1)

 

マイク・ビクル(IHOP国際祈りの家ディレクター)

 

 

喜んで与えてくださる神

 

多くの預言的約束は、主からの招きであり、結果を保証するものではありません。主が「わたしはこれこれをしたい。もしあなたがわたしと共に働くならば、あなたの人生に対する私の計画は完全に成就するであろう。」と言われるのです。ある預言の約束は完全に保証されているものであり、私たちがどのように応答したとしてもそれは成就します。しかし多くのものは、主からの招きです。私たちがそれに十分に応答できないときは、私たちの人生に対する神のご計画は完全には成就しません。

 

イエスはルカ12:32で当時の人にとっては考えられないことを言われました。

「小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。 Do not fear, little flock, for it is your Father’s good pleasure to give you the kingdom.

当時、ユダヤ人たちは神が自分を愛していてくださる父であるという認識はなく、又、王とか預言者ではなく普通の小さな群れを通して御国を喜んで与えてくださるというのは非常に驚きでした。

マルチィン・ルターは次のように言っております。

「祈りとは気が進まない神を説き伏せることではなく、喜んでしたいという神の思いをしっかり掴むことである。 Prayer is not overcoming God’s reluctance but laying hold of His willingness.」

時として私たちは、「祈りとは私たちが神を説き伏せ、神も私たちを説き伏せようとすること」と考えるのです。しかし、神は「それを与えるのは私の喜びである。もしあなたが共に協力するならば、わたしが預言的言葉をもってすでに定めたように、あなたはわたしの計画をフルに歩むことになるであろう。」と言われているのです。

 

3種類の預言的約束

 

私たちは、今神がこの世代に計画されておられる預言的約束が成就するように、とりなし勝ち取らねばなりません。預言的約束には3種類あります。即ち、聖書に書かれた預言的約束、国々に与えられている預言者を通してその国、その世代に与えられる預言的約束、そしてあなたやあなたの家族あなたのミニストリーに対して与えられている個人預言の約束です。私たちはこの3種類の神の約束を信じてしっかりと握りしめ、決して途中で投出たりしないで、それが成就するまで戦うのです。

ここで注意せねばならないのは、私たちのミニストリーの土台は聖書に書かれているイエスであり、イエスとの交わり、イエスの十字架の御業です。預言の言葉はあなたを鼓舞し、困難な時にもくじけない力を与えてくれるでしょう。しかし、土台は聖書に書かれている御言葉です。

 

人はよく「私は御使いの訪れがほしい。」と言います。しかし天使の訪れや神の御声があなたに聞こえるのは、天使が伝えようとしている神の任務が非常に困難なので、あなたが途中であきらめないで最後まで遂行するためにはそのような劇的な確証、励ましが必要だからです。ですから私はこう言うのです。「5分間の天使の訪れを受けて、50年間困難な任務に就きたいのですね。」するとみんな「ちょっと考えさせてください。」と言います。

聖書の御ことばが信仰の最終的な権威であり、それは預言的約束に関してもそうです。もしあなたが天使から何か聞いたとしても、聖書の御言葉の中にそれがはっきりと確認できないのであれば、その言葉に従うべきではありません。

 

現代の国々への預言と個人的預言は、2人又は3人の証人によって確認されねばなりません。正確な数字は分かりませんが、私のもとへは毎週5つから20くらいの私に対する個人的預言が送られてきます。毎週です。あるものは、「栄光があなたにやってくる、神はあなたを喜んでおられる....」というものであり、またあるものは、「神は悲しんでおられる。もう栄光はあなたのミニストリーから去るであろう。ミニストリーは崩壊するであろう....」というようなものです。過去25年間毎週このように両極端な預言を受けてきたのです。ですから、私は明確な神からの確証がないかぎり、それは奥の棚において置くのです。もし神がその預言の中から何か一つを「これは確かにわたしからの預言であるから見なさい。」と私に示したいのならば神はそれがおできになる方ですから、安心して棚に置いてあります。

預言を受けたときに、神からの明確な確証がないならば、それに関して祈り始めることを私はしません。ただ誰かが「私もそんな気がします。」と言うような曖昧な確認では私は動きません。私たちはしっかりと目をさまし、預言が真に神からのものだと確認したならば、それを心にしっかりと抱くのです。

 

前述のように預言の言葉はそれが必ず起るというのではなく、多くの場合神からの招待状です。32年前、私は24/7の絶え間ない礼拝に関する主の御声をはっきりと聞きました。聖書の中にはイスラエルの王によって絶え間ない祈りと賛美が捧げられたことが多く書かれていますから、それは聖書的なことであり、また歴史を通しても行われてきたことです。新約時代、使徒たちは深く祈りに没頭していました。それは今のクリスチャンがいう「祈り」のレベルとは全く違う深いものでした。昼夜を通しての祈りは新約の教会においては「ノーマル」だったのです。

神は私に「あなたにそれをしてほしい。」と言われました。それは神からの招きでした。それが実際に起るかどうかの保証はありませんでした。神の招きに対して私たちは「いいえ、できません。」とも言えるのです。「神よ、もしあなたがしたいのなら、ポンとどこかに出現させたらいいではないですか。私はしたくないです。」とも言えるのです。神の招きには人間側からの協力が求められているのです。このように神からの預言的約束の多くは、あなたに対する招きなのです。

預言的約束と祈りの関係

 

預言的約束は、私たちが忍耐をもって戦い抜き、ミニストリーに困難を覚える時にも忠実にやり続けるのを助けてくれます。力強い主からの約束を確信し、祈りによってそれを握り続けないと約束は実現しないでしょう。神の預言の約束と私たちの忍耐ある祈りとは、深く結びついているリアリティーです。約束があなたを祈りに導き、祈りが約束を実現させるのです。

 

神からの尋常ではない招待によりあなたの心は強く動機づけられるのです。勿論あなたが弱くなる時もあるでしょうか、それでもあなたはその任務に対しての情熱をもち続けることができるのです。特に神があなたに預言的な激しいヴィジョンによって与えられた任務は、あなたがもう止めたいと試みられるものです。それは非常にチャレンジの多い困難なものであるからです。ですから神はご自分がどれほどそのことに情熱をかけておられるかをあなたに示されて、あなたが最後までやり遂げるように励まされるのです。

 

第一テモテ1:18「私の子テモテよ。以前あなたについてなされた預言に従って、私はあなたにこの命令をゆだねます。それは、あなたがあの預言によって、信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。」

 

パウロはここで「あなたがあの預言によって...勇敢に戦い抜くためです。」と言っています。テモテが以前受けた預言を思い出すことによって心を燃え立たせるように、そして祈り続け、預言の約束が成就することを信じ続けるようにと勧めています。

私たちは聖書に書かれている預言的約束を一番重要視します。1から10の段階でいえば、10です。しかし私たちは個人に与えられた預言的約束を無視するわけではありません。あなたは多くの個人預言を受けられたかもしれませんが、それは勿論明確な確証が無ければなりません。でも主がそれを確証されるならば、それを無視してはいけません。神はその預言をあなたが受け取り、神と共にその実現のために祈り続け戦い取ることを望んでおられるのです。

 

神のパートナーとなる3つの段階

 

1.まず神がご自分の望まれることを発表される。御言葉により、又いろいろな方法で、神は私たちの心に語りかけられる。私たちが自分で思いつくことではなく、すべて神の考えであり、神がイニシャティブをとられ始められることである。

 

2.私たちがその神の招きに従順にしたがい、信仰の祈りによって応答する。これは一週間とかではなく、何ヶ月も、あるいは何年にも渡ることも多く、私たちは聖霊の励まし、預言の約束の励ましによりそこから逸れないで祈りつづける。

 

3.神が私たちの祈りに答えてくださり、祈ったことを現実にこの世に現してくださる。これは段階的に起ることもある。

 

例えば、1.神が「わたしはあなたの街にリバイバルを送る」と言われ、2.人びとがそれを信じ受け取って聖霊の励ましにより熱心に祈り、3.神がその祈りに答えてリバイバルを起こしてくださる、というようにです。

つまり、神がすべてのプロセスを司っておられるのであり、パウロの次の言葉はこのことをよく表しています。

ロマ11:36「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。(From Him, through Him and to Him are all things.) どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」

 

多くの人はリバイバルが起るという確信がないので、あまり祈りません。私は多くの牧師と話す機会がありますが、彼らは「どうしたら信徒たちがもっとリバイバルのために祈るようになるでしょうか。」と訊きます。その問いに対して私は「聖書に書いてある終末のリバイバルについて説教をしてください。」と答えます。聖書にはリバイバルという言葉こそ使われていませんが、終末に主が起こされる聖霊の傾注について多く書かれています。主が来られる前に主がされることを話すのです。人びとがその真理を知る時、祈りへの確信と情熱が彼らの内にわき起こります。確信と情熱が大きければ大きいほど、人びとは主に心から祈り求めるようになるのです。(続く)


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