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Walk With God Ministries


27 09月

ワーシップソングの作成     レオナルド・ジョーンズ       2015年9月28日


ワーシップソングの作成

 

レオナルド・ジョーンズ (於 モーニングスター・ミニストリーズ ワーシップカンファレンス)

 

ある人が次のように言いました。

「イエスは、 私たちはこの世にいるけれど、この世のものではない  (We are in the world but not of theworld.)と言われた。しかし、多くの場合、現在の教会は、この世のものになってしまっているが、この世の中にはいない (We are of the world, but not in  the world.)という状態だ。」即ち「私たちはこの世と同じことをしているにもかかわらず、この世とコンタクトしていない」ということです。

あなたがこの世とコンタクトするとき、「あなたがたのうちにおられる方が、この世のなかにいるあの者よりも力がある(1ヨハネ4:4)」という真理が輝き、神がこの世の中に力をもって侵入してこられるのです。この世が教会の中に侵入してくるのと反対ですね。私は24時間神にワーシップを捧げることは本当にすばらしいと思います。しかしそれと同時に私たちの光をますの下に隠さないようにとイエスは言われました。この世の中で光を輝かせることも大切です。

教会の中でワーシップの務めをする人も、砂の中に頭を突っ込んで、この世でどのような音楽が流れているのか全く無知であってはなりません。この世でも本当にすばらしい曲が作られているのです。

今年の3月にブラジルに行ったのですが、その時ある婦人が「今私の教会で歌っているワーシップソングをもっとすばらしいものにするには、どうすればいいでしょうか?私が作るワーシップソングはみな同じような感じなのです。」と私に訊きました。

私が「あなたはいつもどんな音楽を聞いていますか?」と訊ねると、いまよく歌われている世界のワーシップソングを聞いているとのことでした。「あなたは本当に心から、現状を抜け出すことを願っておられるのですか?」と訊ねると「はい、そうです。」というので、私は思い切って次のように申し上げました。

「私が今から言うことは、多分あなたには気に入らないと思いますが、これからはどんなワーシップソングも聞かないでください。」と言いました。彼女は「じゃあ、セキュラー・ミュージックを聞けと言われるのですか!?」とひどく驚いた様子でした。私は「もしあなたにそれが出来るなら、そうしてください。でもセキュラー・ミュージックを聞きたくないならば、何も聞かないでください。ただギターをもって主の前にでてください。」と言いました。

 

私たちはこの世で起っている音楽を知らねばなりません。もし4つのコードだけで作られた曲ばかり聞いていたら、あなたもそういう曲を作るようになってしまうのです。昨日私は、ジェイムス・テイラーの曲を聞いていました。そのコード進行がすばらしいと思ったので、インターネットでその弾き方を本人が教えているビデオを見つけて勉強しました。(今はそのようなビデオが沢山ありますから、何でも学べます)

そして、どうしてこの曲がこのように魅力的なのだろうか、と考えました。そして分かったのは、彼の曲は最後に落ち着くところまでに、回り道をするのです。普通はCから始まったとしたら、そのあと2つか3つ位のコードを通ってCに帰結するのですが、彼の曲は次々に違うコードを用いて、最後に帰結するときは、聞く者はやっと辿りついたと安堵のため息をつくのです。長く待つのでとてもうれしく感じるわけです。

 

クリスチャン・ソングを作る人は、繰り返しの部分に早く行こうと焦ります。ビートルズの「ストロベリーフィールズ」という曲を調べたところ、あるテーマ・メロディーに戻るまでに59音符ありました。クリスチャン・ソングの平均は8小節で同じメロディーが出てきます。これが同じことを繰り返しているという印象を与えます。一段目を聞いたならば、8小節先にまた同じメロディーが出てくるので、すぐに歌えます。

神は私たちがただ歌を作る(write a song)のではなく作曲(compose)することを願っておられるのだと私は思います。多くの方は「ワーシップソングは、シンプルで皆が歌えるものでなければならない」と言います。それは立派な理由のように聞こえます。でも私はデイブ・マシュウのコンサートに行ったのですが、彼の歌はとても難しいにも拘わらず、会場にいた全員が彼と一緒に歌っていました。何故でしょうか?

彼の歌は非常にすばらしく興味を引くものであったので、人々は何度もCDを聞いて覚えてしまっていたのです。私たちは「人々が簡単に歌えるもの」を作ろうとするのではなく、「人々がどうしても歌いたいと思うもの」を作らねばなりません。

 

私が作った「ヤーウェ」という歌の繰り返しの部分は、「こんなに高い音を出せる人はあまりいないだろう」と思っていたのですが、2回目にその部分になった時には、全会衆が上のGを歌えたのです。それはみんながそれを切実に「歌いたい!たとえ喉がつぶれても私は歌うんだ!」と感じたからなのです。

神はこの世に影響を与える歌をあなたに与えたいと願っておられます。この世の人々がその歌によって神と出会うとき、あなたは本当によい歌を作ったことがわかるのです。

 

今、クリスチャンのソングライターは、「現在世界の教会でよく歌われているワーシップソングは何か」を調べて、その流れの歌を作っています。その結果、ほとんどの歌が同じように私には聞こえます。

ジョニー・へルサーの「No Longer a Slave」という歌を運転中に聞いたのですが、すぐに何か他のワーシップソングと違うと感じました。その時私はトウモロコシ畑を走っていたのですが、前方に小さなつむじ風が起ってその歌の間中、トウモロコシ畑の上を行ったり来たりして、トウモロコシが踊ったのです。この曲が終ったと同時につむじ風もおさまりました。私はジョニーに電話をしてすぐにそのことを伝えました。ジョニーは他のワーシップソングは何も聞かず、ただいつもギターを持って主の前で礼拝するのです。

 

ギターでもピアノでも、声でも、とにかく主の前で礼拝するのです。残念ながら、天から歌が棚ぼた式に落ちてくるということはありません。神があなたに与えたいと思っておられる歌は、あなたが時間をかけて受けるものなのです。私も素早く曲が与えられることはほとんどありません。早くできる曲というのは、多分私がそれまでの人生でずっと暖めてきたものだと思います。

「すばらしい歌を作るぞ」と意図せずに、ただ主と共に時をすごして歌ったり演奏したりするのです。突然一つのメロディーが聞こえてくることがあります。それを弾きます。すると何かが打ち破られるのです。(聞こえたものをすぐに弾くためには賜物と訓練が必要です。)

 

神は私の人生のその時々の経験、思い、葛藤、苦しみに即した歌をくださいます。ある時、私はギターでバッハのチェロの曲を練習していました。弾きながらテレビのニュースを見ていたのですが、人々が殺し合う残忍な映像を見て、私の心は痛み悲しみました。私は「主よ、あなたはどれほど嘆き悲しんでおられることでしょう。あなたほど繊細でない私の心が、これだけ痛むのですから。」と申し上げ、「あなたの御国が来ますように、Let Your kingdom come」とずっと弾いていたバッバの旋律に合わせて歌い始めました。

ですからこの曲は祈りから生まれたのです。決してヒット曲にはならないでしょう。なぜならば、これを弾きこなせる人はほとんどいないからです。私はヒットさせるために曲を作るのではありません。私は主のために作るのです。神があなたに与えてくださる曲は、大勢の心に響くものではないかもしれません。そんなことは気にしないでください。残念ですが、今のワーシップソング業界にはお金への誘惑が入り込んでしまっています。ですから「こんな風な曲にすれば、きっとヒットしてお金が儲かるだろう」と考えてしまう誘惑があるのです。けれどもあなたがワーシップソングを作るときの動機がお金であってはなりません。結果として収入があれは、それはすばらしいことですが、それが動機であっては絶対なりません。

なぜならば、あなたが作る曲のジャンルの可能性はものすごく広いのですが、ヒットさせるためには、今の教会に受け入れられるためにその範囲を非常に狭めねばなりません。音楽には本当に沢山のスタイルがあるにもかかわらず、現在教会で歌われているものは非常に限られているのです。

神はすべての人々を愛しておられます。この世のすべての人々に触れるためには、本物でなければなりません。もしモーニングスターやベテル、ヒルソングの歌を真似るだけならば、本物ではなくなります。

 

本物であるためには、あなたは主のもとに行かねばなりません。パウロも主と出会ってから一人で荒野に行き、主と時を過ごしました。彼は他の人が受けた啓示ではなく、自分で啓示を受けたかったのです。それがパウロの書簡が聖書の中に多い理由です。今ここにおられるミュージシャンの幾人かを主は荒野に呼ばれると思います。外面的には今までと何も変らず、同じ仕事をし、同じ場所にいるかもしれませんが、主とだけ時を過ごす場所へとあなたは導かれるでしょう。

 

私はモーニングスター・ミニストリーに25年前に来ましたが、5年前から世界に出て行くようになりました。

それを始めてから3、4ヶ月経ったときに、主が毎朝私を起こされるようになりました。時計を見るといつも3時41分でした。それが毎日です。目覚ましをかけたのでもありません。ある時は目が覚めても絶対にしばらく時計を見ないようにしたのですが、ふっと目が時計にいくと3時41分なのです。そしてパッチリと目が覚めるのです。他にすることもないので、ギターを手にとって弾き始めました。これが何ヶ月も続いたのです。ついに私は3時41分にはどんな意味があるのかと主に尋ねました。「3、4、1、three four oneとは、all three of us (Father, Son , Holy Spirit) is for one(you).  We are all for you. わたしたち、父、子、聖霊はあなたの味方ですよ、という意味です。」と主は答えてくださったのです。もしそれを誰かから聞いたら「へえ、そうですか。なるほどね。」としか思わないでしょうが、主が直接語られたのですから、私にとってすばらしい啓示でした。これは6ヶ月ほど続きました。私は毎朝驚くべきすばらしい時を主と過ごしたのです。

 

私は「Prospective」というCDを出しましたが、そこに収められた曲はすべてその期間に生まれたものです。一つ一つの曲が、主が私を導かれた霊的旅路の表現でした。例えば、ある朝ある一連のコードを弾きながら主を礼拝していました。主は私の味方であって敵ではないことを学んでいた頃でした。目を閉じていたのですが、私はそれまでの自分の人生を目の前に見ました。それはほとんどが悪いことでした。私は主に「主よ、あなたを礼拝しようと思うのですが、私のことが見えるのです。」と申し上げました。主は「あなたの事であなたが出来ることは何もありません。ただわたしを礼拝しなさい。There is nothing you can do about you. Just worship me.」と言われました。

そこで私は一連のコードを弾いていると言葉が出てきました。

It is finished

There is nothing left for me to do but worship

It is finished

What’s there that I have to do

You are so perfect

 

I see a broken person

You see a warrior bride

I see things I’ve done

You see what’s inside

I see there’s no way out

You see there’s one way in

I see me struggling

You see me free from sin

There’s nothing going to keep me from You

Nothing going to pull me back

Nothing I can do about me

It’s all about You

It is finished, finished

 

しばらくギターを弾いて歌ううちに、この歌が生まれてきました。この歌詞は私を本当に慰めました。私は普通一つの歌詞を作るには随分時間がかかりますが、この時は40分くらいで出来上がりました。主は「あなたが自分を見るようには、わたしはあなたを見ていない。」と何度も言われました。私たちが主を見るときは、自分のした事を通して見ます。しかし主は私たちを主のなされた十字架の業を通して見られるのです。

 

私の歌はほとんどこのようにして生まれます。その内の幾つかは数人のシンガーによって取り上げられ歌われましたが、ほとんどはそうではありません。でも誰か一人でもその歌によって神に触れられる人があればいいのです。皆さんの作る歌は大勢の人に触れるものではないかもしれませんが、他の誰も触れることができなかったある一人の人に触れるかもしれないのです。ですから、他の人が作った歌を真似るのではなくて、主と共に時を過ごして主から本物をいただくことが本当に大切です。

 

私が歌詞を作るときのパターンは何もありません。祈りのときに私の口から主に与えられたよい表現が出てくるときがあります。その時すぐに携帯に録音しておきます。私の携帯には千個くらいそれがたまっています。メロディーも同じようにします。何か旋律やコードが私の頭に浮かんでくると直ぐに携帯に録音しておきます。このようにすべて与えられたものを記録しておくのです。そうでないと忘れてしまいます。一つの表現、一つの旋律が人々を解放する可能性を持っているのです。ですからすべて覚えておかねばなりません。

私の歌は一つ一つがとても違います。自分のスタイルを作ろうとするのではなく、ただ主に聞いて作るからです。主を待ち望めば主は歌を下さいます。主と共に時間をすごして、深い本物の歌をいただいてください。(終り)

 


21 09月

古いリバイバルの井戸を掘る       ダッチ・シーツ        2015年9月21日


古いリバイバルの井戸を掘る

 

ダッチ・シーツ

 

地上における主の目的を達成するために主は、ある一人の人とか一つのムーブメントではなく、多くの世代の遺産と働きを用いられることは聖書に明らかです。(ヘブル11:39—12:2)

幾世代にもまたがる御計画をもって働かれる主は、私たちが先人の築いた土台を尊び、その土台の上に建て上げることを望んでおられます。創世記26章には、イサクが井戸を掘るときは、初めは新しい井戸を掘らなかったと書かれています。イサクは父アブラハムが掘った古い井戸を再興する相続権と責任が自分にあることを認識していました。その井戸はペリシテ人によってアブラハムの死後ふさがれていました。

主が現れてアブラハムへの祝福と同じ祝福をイサクにも語られたのは、彼が父の井戸を再び掘った後のことでした。それからほどなくして、主はイサクのしもべたちが新しいイサクの井戸を掘るのを許されました。

 

私は10年以上、幾世代にもまたがる共同作業について教えて来ました。私たちの世代に神がもっておられる目的を成し遂げるためには、先の幾つもの世代を通して神がされたことを忘れずに尊び、それを土台にして進むことが大切なことを、人々に教え励まして来ました。そして最近の幾つかの出来事を通して主は、今の世代に新しい主の栄光の流れを解き放つために、歴史上のリバイバルの井戸の水をもう一度汲むようにと私を再び招いてくださいました。

数ヶ月前、私はケンタッキー州の小さな丸太小屋スタイルの教会に招かれたのですが、そこは1800年代末期に起ったケイン・リッジ・リバイバルの場所だったのです。当時聖霊のパワフルな動きがあり、何万という人が御ことばを聞いて神の栄光を経験したいという飢え渇きを持ってワゴンに乗り何日間も掛かってケンタッキーの丘まで来たのです。

そのキャンプ・ミーティングでは、何十人という説教者が広い丘全面で同時に語り、非常に重い神の臨在に圧倒された人が大勢草の上に倒れるという風景がしばしば起りました。このリバイバルは幾つかの南の州やそれを越えた場所にも拡大して行き、アメリカに二回目の大霊的覚醒を生み出して行く助けとなったのです!

ケイン・リッジの次に主は私をウエ—ルズに送られたのですが、それは非常に興味があることでした。というのはウエ—ルズは歴史上非常に重要なリバイバルが起ったところだからです。

 

一つの井戸から次の井戸へ

 

ウェールズ地方はリバイバリストのエヴァン・ロバーツが神の火のバプテスマを受け、1900年代初頭に起ったウェールズ・リバイバルのリーダーとして主から任命された場所です。その霊的傾注で非常に多くの人が革新的に救われ、ウェールズは社会的変革を経験しました。犯罪がなくなったので、裁判官や警官は何も仕事がなくなり、彼らは福音伝道のコーラスグループを結成して、色々な場所に行ったのです!

 

町の中でも神の臨在は非常に強く、酒場は閉鎖され、スポーツ大会は中止され、何千人という酒飲みの炭坑夫たちはイエスを信じ、その中の何百人もがすべてを捨てて外国のミッション伝道のために命を捧げました。1900年代以後起った世界中のリバイバルはすべて、このウェールズ・リバイバルをその源としていたと言われています。

 

ウェールズは又、リバイバルの歴史に大きく貢献したリース・ハウエルズの出身地でもあります。彼の自伝「Rees Howells Intercessor」に書かれているように、とりなし手として彼の人生は、私を含め多くの人や祈りのムーブメントに大きな影響を与えてきました。炭坑夫だった彼はウェールズ・リバイバルによってパワフルに変革され、宣教師になり、その後の人生を彼の世代に与えられた神の目的のために捧げました。それはとりなしの祈りによってでした。

1924年にハウエルズはウェールズ聖書大学を創立し、彼が主から学んだことを人々に教えました。その場所はやがて万国祈りの家となり、ハウエルズと共に学生と職員が祈りによって世界の戦いに参加したのでした。この小さな大学内から発信されたものは、間違いなく世界史の流れに影響を与えました。そこに残された祈りの遺産を私たちが今日しっかりと掴むようにと主は招いておられるのです。

 

御国のための戦い

 

第二次世界大戦中に祈ったハウェルズのとりなし手たちは、ヒットラーやスターリン、ムッソリーニといった専制君主に率いられた政府を覆う悪魔の力を打ち破るために必要な霊的戦いを戦いました。彼らはまた1948年にイスラエルが国家となるかどうかを決める国連の採決のためにも熱心に祈りました。ハウェルズの死後も、彼の息子サムエルがリーダーとなって、熱心なとりなしが続けられました。キューバのミサイルの危機やアメリカとソ連の冷戦状態の間も彼らは祈りました。そして1940年代、50年代、60年代のしるしと奇蹟のムーブメントを祈りによって招き入れたのです。

 

彼らのとりなしは、モーセが丘の頂でヨシュアの戦いを勝利に導いたとりなしに喩えることができるでしょう。聖書にはモーセが神の杖を手にもって掲げている間はヨシュアの率いるイスラエルが優勢でしたが、モーセがその手を下ろすと敵が優勢になりました。この杖(神の権威と力の象徴)を掲げるというモーセの預言的とりなしに主は忠実に応答してくださり、戦場での勝利は解き放たれたのです。(出エジプト17:8−16)それと同じように、ハウェルズのとりなし手たちは天における霊的権威を休むことなく掲げ続け、それによって戦場の兵士たちは奇蹟的な打ち破りを経験し、勝利をおさめることができたのです。

特に第二次世界大戦において、神はハウエルズに次に何が起るかを教え、又、とりなしの祈りを何処に戦略的にフォーカスすればよいかという預言的洞察を与えられました。毎日授業が終ると熱心なとりなし手たちは、何時間もとりなしの産みの苦しみで戦い、時には夜を徹して祈りました。彼らは前線で戦っている兵士や国々のリーダーたちが経験している厳しさや自己犠牲のレベルと同じほどに、自分たちも霊的な領域で戦うことを決意していたのです。

 

ハウェルズはとりなしへの神の召しを達成することを、熱意をもってこう語っています。「もし私が兵士として戦わない時、他の方法で兵士たちを助けることが出来る道を知っていながらそれをしないならば、私が彼らの代わりに死ぬべきです。彼らはあなたや私のために死に直面しています。もし彼らが、私たちが彼らのために苦しむ以上に苦しむとすれば、それは私たちにとって一生の恥となるでしょう。」

ハウェルズと学生たちは霊的戦いを戦うために彼らの命を捧げました。それはあたかも実際に戦いの前線に召されたかのようでした。そして次々と与えられる祈りの課題毎に、これら隠れたとりなし手たちは祈り続けて勝利し、その結果戦場では多くの劇的な逆転が起り、世界は目を見張って驚き、安堵のため息をついたのです。

 

リバイバルの歴史の研究者、とりなしの教師、この国を神の目的へと祈りを通して覚醒させる任務に召されている者として私は、ウェ—ルズ地方を訪ねてその霊的井戸から水を飲むことを長い間強く願って来ました。今回ケイン・リッジでの働きの後、ウェールズ聖書大学を訪れることが出来たばかりか、歴史的リバイバルの井戸を再び神に捧げる式典に招かれたのは私にとって大きな喜びでした。

 

世界中から集まったリーダーを代表して私はハウェルズのエベン・エゼルの記念の石(1サムエル7:12)を再び神に献げる栄誉を受けました。イスラエルの勝利を記念して預言者サムエルがしたように、ハウェルズは神の摂理と憐れみを常に忘れないように大きな石を設置したのです。

大理石の片側には「信仰は実体である Faith is Substance (ヘブル11:1)」、もう片側には「ジェホバ・ジャイラ Jehovah Jireh」と彫られていました。式典の中でこの石が校内の中心に移され油注がれた時、私たちは主の栄光を感じることができました。

その聖なる瞬間に、私はパワフルに神に出会いました。私たち多くの者を世界中からこの地に呼び集め、この歴史的井戸から飲ませてくださる主の慈しみに私は圧倒されました。私はハウェルズの祈りの遺産を守り続けることを誓い、地上の悪の巨人らを排除する祈りのムーブメントを建て上げ、第三の霊的大覚醒の波を起こすために私の命を捧げることを、もう一度神に誓ったのです。

 

ウェールズ聖書大学内で祈りの歩行をした時、エバン・ロバーツが神と出会った教会堂で私は主と交わりました。その時、聖霊が「今の世代の中で誰が代価を払うのだろう?」と問うているのが聞こえました。今も聞こえます。当時世界を征服しようとしていた悪魔的力、主権と戦って勝利するために、神はハウェルズやとりなし手たちを用いられました。今日、イスラム、共産主義、人身売買、堕胎、性的倒錯というゴリアテが私たちの戸口に立っています。これほどの重大な危機は今までありませんでした。私たちの内にハウェルズの時代と同じ勇士の霊が立ち上がらねばなりません。祈りの戦いをすると共に、預言的な声を発する勇士の霊です。神がご計画を持っておられることは確かです。神は不可能な事態の中で常に偉大な事をされるのです。  神がウェールズの霊的井戸を回復させたのは、地上の国々に再び祈りの勇士とリバイバルの霊を解き放っておられるからだと私は信じます。まもなくとりなしの新しい活発な動きが始まり、ひざまずいて天に訴え、御国の戦いをし、今まで見た事もない最大の霊的覚醒がついには起ることを私は信じます。

皆さんもその一員です! あなたは霊的遺産を受けることができます。若い方々、今は特にあなたが立ち上がる時です!主は現代のゴリアテを倒し世界の国々の未来を勝ち取るための油をあなたに注いでおられます。「私は代価を払います!」という者たちを主は探しておられます。とりなしという大きな代価を払う戦いのために人生を投資する者のために、主は御力をあらわしてくださるからです!(第二歴代誌16:9)(終り)


14 09月

神の軍隊        リック・ジョイナー           2015年9月14日     


神の軍隊

リック・ジョイナー

 

神は戦いの神です。神の称号の一つに「Lord of host 万軍の主」というものがありますが、他のどの称号よりも多く聖書の中で用いられています。

「Lord of host 万軍の主」とは「軍隊の主」ということです。イスラエルがエジプトを出たときは規律のない雑多な集団に過ぎませんでしたが、紅海に来たときには軍隊として行進していました。神が彼らをそのようにされたのです。荒野を進んでいくときもそのようでした。彼らの中には秩序がありシステムがありました。

 

神の軍隊として私たちが正しく行進することが非常に重要です。それはただ整然とパレードが出来ることではなく、司令官の命令をキチンと聞き、すぐに正しく応答することです。軍隊の中ではどのように言動しなければならないかを知り、規則をしっかりと把握していなければなりません。戦略や戦法を学び、それを実際どのように適応していくかを明確に知る必要があります。どのくらい進軍しているかも把握せねばなりません。また戦いに必要な物資も蓄えねばなりません。もし計画した戦略がうまく行かないならば、戦いの途中で計画を立て直すことも必要です。目的を果たさない戦いをすることは全く無意味です。

 

軍隊で行われていることで、私たちモーニングスター・ミニストリーが召されている目的に適応できることがあります。軍隊にとって必要不可欠なものは情報収集です。敵の戦略、戦法に関する知識を得る能力です。教会は地上のどの機関やどの軍隊よりも、最も効果的でパワフルな情報収集能力を持たねばなりません。軍隊の失敗成功を決めるのはこの能力に掛かっています。歴史をみれば明らかですが、よい情報を得ることで、多くの不利な状況をもくつがえすことができます。イスラエルは敵の王たちが寝室で話すことを知る預言者を持っていました。王たちは誰がスパイかといぶかりました。彼らが預言者たちに知られないで事をすることはできなかったのです。

 

私たちは旧約の預言者よりもすぐれた契約の下にいるのですから、更によく出来るはずなのです。第2コリント3章には、私たちにはモーセの栄光よりもさらに優れた栄光があると書かれています。私たちはもっと栄光を見るはずなのです。旧い契約のもとで行われていたものよりもずっとすばらしい預言のミニストリーを私たちは持てるはずなのです。私はそれがまさに起ろうとしていると信じます。私たちにそれが起るのです。

 

「私はそれほど賢くない」とか、「それほど義しくない」、「神学校に行っていない」というような言い訳をするならば、神は怒られます。モーセが燃える柴で神に召された時も、そのような言い訳をしたのです。神はその時「ああ、お前はとても謙虚でいいね。」と言われましたか?違いますね。出エジプト4:14に、主の怒りがモーセに向かって燃え上がったとあります。どうしてでしょうか。それはモーセはが自分の不十分を神の十分さより上に置いたからです。彼は自分の不十分さは神の十分さよりも、もっとパワフルであると言ったのです。皆さん、神は愚か者を用いられるのではないですか?

その点で私たちはみな資格がありますね。弱い者はどうでしょうか?

新約聖書の中でパウロは私たちの弱さが一番の資格だと言っています。皆さんの中で、旧約の預言者たちよりもすぐれた預言者になる人がいるのです。それが第2コリント3章の教えです。

 

旧約の預言者たちは、自分が知らずに大きな出来事が起ったときは驚いたほどでした。私たちはスポーツの結果を予め知ってスポーツ欄に一週間前に書けるべきです。(笑)天候についてもそうです。

これからそういう事が起ると思います。勿論、その知識をギャンブルに使わないことをまず学ばねばなりませんが。私たちは過去にゲームの結果を正しく預言したこともありますが、それはほんの小さなことです。これからはもっと重要なことを預言するようになるのです。

 

私たちは主と同じように必要なことを何でも予見することができるようになります。主はすべてのことを見ることがお出来になります。私たちは主の目、主の耳を持つことができるのです。又、見たもの聞いたものを理解する心を持つことができます。

 

英国のウィンストン・チャーチル首相のことを話したいと思います。彼は預言的な声でした。彼の預言はまったく驚くべきでした。彼は英国のための預言者であり、その時代のために預言者、地上を城壁の上で見張る者でした。神は旧約の預言者たちを城壁の上の見張り人として立てられました。見張り人は高いところに立ち、人々より先だって敵が押し寄せるのを見つけ人々に警告を発したのです。又、王が来るのも人々より先に見えたのです。「王が来られる!

王が来られる!王を迎える備えをせよ!」と人々に警告したのです。

 

私たちも礼拝や集会、カンファレンスの中で何が起るかを、予め知ることもあります。チャーチルは全世界のための見張り人でした。彼は20世紀に起ることを非常に正確に預言しました。彼の死後に起ることもです。皆さんの中にも彼のように用いられる事ができる人がいるのです。しかしまず、私たちは自分の家族、自分の会社や職場の人のための見張り人にならねばなりません。多くの人が「私は世界のための預言者となる」と言いますが、その反面自分の住んでいる地域や自分の教会を見張ることを怠っているのです。世界の預言者になるかもしれませんが、今のレベルから一足飛びになるのではありません。今自分が置かれている場所で忠実であることが大切です。

 

チャーチルは「政治家は次の選挙のことを考えるが、真のリーダーは次の世代のことを考える」と言いました。彼は第一次世界大戦、第二次世界大戦が始まる理由や時を正確に預言しました。彼の言葉は信用されず、人々に憎まれ彼は議会を離れましたが、個人として戦争のために必要な情報を集め、戦略を考えたのです。多くの情報員を雇い、スパイをドイツに送りました。ドイツがどのくらい戦闘機や戦車を持っているか、戦略はなにか、指揮官はどのような者か、すべての情報を得たのです。彼が送ったスパイは007でした。ジェイムス・ボンドはチャーチルがドイツに送り込んだスパイをモデルにしています。彼は英国政府よりも正確な情報を得たのです。時至って英国は彼の力を認識し、必要として、彼をリーダーに選びました。

 

彼は1920年代に原子爆弾を預言しました。ワイヤレス、テレビ、ロボット、テロ、エレクトリック・グリッドがまだない時にそれを破壊する戦争を予見しました。もしアメリカのエレクトリック・グリッドが破壊されたならば、これは大変な事態になりますが、チャーチルはそれを預言したのです。彼は又メディアの堕落、虚偽の氾濫を預言しました。1922年にイスラム過激派が将来起ることを預言しました。これら彼が見たものはすべて人類を破滅させるものという共通点があります。その意味で彼は「城壁の上の見張り人」の油注ぎを受けていたのです。

 

第一次世界大戦が終ったとき彼は次にように言っています。「人類はかつてなかったような危険な所に立っている。徳が高まることはなく、知恵のある指導者もなく、人類を破滅させる道具を手に入れてしまった。」

 

私が海軍にいたときに乗っていた戦艦は航空母艦でしたが、地球上のすべての人類を破滅できるだけの核爆弾が積み込まれていました。海軍が持っていたすべての核爆弾を合わせれば全人類を25回破滅させるに十分でした。アメリカの全戦力ではなく、海軍だけでそうだったのです。そしてソ連も沢山持っていました。それらの核兵器は廃棄処分をしたものもありますが、多くはまだ存在しています。勿論、神は全人類を破滅させることはお許しになりません。しかし、人類は賢くなっていませんし、世界はもっと危険な状態になっています。ですから今、城壁の上の見張り人が絶対に必要です。

 

チャーチルのように事態を鮮明に把握し、正確な預言、ヴィジョンを持つことが必要です。私は今ここにいる皆さんに中からそのような方が起こされることを信じています。街のため、教会のため、国のための見張り人です。古の預言者のように敵の戦略を知り、彼らを待ち伏せてやっつけるのは愉快だと思いませんか。この教会のための見張り人はいつも敵の策戦を見抜いて教会を守っています。家族を攻撃しようとする敵の戦略を見抜いて、家族を守るのです。

 

そのためには時間を無駄にしないで、主と深く交わる時を多く持たねばなりません。今は携帯電話を通して私たちの言動はすべて把握されています。コントロールするのが非常に簡単にできる時代になったのです。しかし、私たちには聖霊がおられます。聖霊はすべての敵の策略を無にする力があるのです。私たちはパワフルな神に仕えているのです。確かにエレクトリック・グリッドが破壊されるのは今のアメリカにとって最大の危機ですが、神はそれに対処できる力を与えてくださると信じます。そのためには「みずからへりくだり、悔い改め、祈る」ことが不可欠です。

 

預言者、見張り人が絶対に必要です。私たちのミニストリーは話をするだけではなく、実際に出来る限り早く預言の教えと訓練をしていきたいと思います。今、まわりの人と共に国のため、州のために祈り、主が何かを示してくださるか聞いてください。見張り人が見つけるのは敵だけではなく、王が来るのも見るのです。悪いことだけではなく、神がどのようにすばらしいムーブをされるのかも聞いてください。神は求めるならばすべての人に与えてくださいます。(終り)


06 09月

主が最も嫌われるのは「生ぬるいクリスチャン」                坂  達 也     2015年9月6日


主が最も嫌われるのは「生ぬるいクリスチャン」であること

 

               坂  達 也

 

 私は最近、この世の中、それも特にクリスチャン国であるはずのアメリカにおいて、どうして世の中のモラルと、それを律するはずの政治が、ここまで頽廃してしまったのかに大きな疑問を持って参りました。

 と言うのは、50年以上アメリカに住んで来た私には、しばらく前迄は全く考えられないような事態に今のアメリカが変わり果てていることがどうしても信じられないのです。それに、これはアメリカだけの話ではありません。世界中でそのモラルの退廃が起こっています。

 今のアメリカでは堕胎を公然と許すどころか、最高裁判決で、公に同性結婚の権利を認めるだけでなく、それに反対する行為 ー 同性結婚の司式を拒否する牧師とか、同性婚結婚式に出すお祝いのケーキを作らないお菓子屋さんは罰せられる ー と言うのです。

 又、民衆の政治に関する不信感はつのる一方です。最近の世論調査では、アメリカの国会議員と国会政治への信用と人気は、何と20%台に迄落ち込んでいるそうです。それに対照的なのが、共和党大統領に立候補した毒舌家のドナルド・トランプ氏の人気です。他のほとんどの共和党立候補者からどのように批判されようと、又ミディヤからどのように叩かれようと、むしろ叩かれれば叩かれる程、彼の人気は上がる一方です。しかもそのトランプ氏を追い上げているのが、クリスチャンの医師として大変尊敬されてはいますが、政治のプロでは全くないベン・カーソン氏(黒人)です。口だけうまい政治家よりも、世に認められるだけの実績を持つ実業家に政治も任せた方がまだましだと言う世論でしょうか。

 そこで私は主に、上記の疑問と共に「どうして主はアメリカがそうなることを許されたのか」を聞いてみました。すると主は、その責任はクリスチャンと教会自体にある、クリスチャンがあまりにも「なまぬるいクリスチャンのままであること」を当然のように許しているからである、とおっしゃいました。しかも主は、それを放置しておられるのではなく、むしろ、とことんクリスチャンがそれに気が付いて一刻も早く目覚めるのを待っておられると言われるのです。(アメリカの政治家にも両党議員にかなりのクリスチャンがいるのですが、その人たちが生ぬるいということにもなります。)

 

 ところで今朝、久し振りにマダム・ガイヨンの本を手に取りました。そして、私の目に飛び込んで来たのは、「モーセと燃える柴の中に立つ主との出会い」に関する彼女のメッセージでした。モーセは柴が燃えているのに「燃え尽きていない」ことに気が付き、いぶかしく思いました。ガイヨン師は「この炎は主の愛そのものです」と言います。

 モーセはその時羊飼いとして羊の群れを連れてホレブの山に来ていました。主は羊飼いです。主は羊である私たちを、燃える炎のような熱烈な愛で愛されます。そして、その愛を、「主の羊飼い」でもあるクリスチャンの私たちの中に入れられますが、その激しい愛の炎は決して柴である私たちを焼き尽くさない、神の愛とはそのような愛であると師は説くのです。

 主の愛は、私たちがどんなに未熟で、人をさばく行為をし続けたとしても(それは神のさばきを受けるに充分値します)決してその愛を消すことなく、忍耐をもって私たちを愛し続けてくださいます。ですから私たちはクリスチャンでいることが出来ます。これは何とすばらしい主のめぐみでしょうか。

 

 主はモーセをイスラエルの民の羊飼いに任命する前に、モーセの前に現れて、この教訓を先ず示されたのでした。そして主は、いぶかるモーセの質問に答えて「ここ(神の山)に近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」と言われました。(出エジプト3:5)

 ガイヨン師は、「あなたの足のくつ」とは神の愛以外のあなたの持つ人間的愛 affectionのすべてを意味すると言い、神の山を主と共に歩む「主の羊飼い」である私たちは、先ずそれらのすべての人間的愛情という靴を脱ぎ捨て、あなたの内に燃えるものは唯一、見返りを期待しない無私、無条件・無償の「神の愛」だけにならねばならないと言われています。これが真のリーダーになる条件であるのです。

 

 そこで、はたと気が付いたのですが、モーセと燃える柴に関するガイヨン師の説く「熱烈な無償の愛」と「クリスチャンが生ぬるいか、熱いか」とは密接に関係していると言うことでした。今は終末の時代です。そうであれば、主からラオデキヤの教会に宛てたメッセージが、今こそが問われる時代であると信じます。

 「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであって欲しい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」(黙示録3:15、16)

 ここでお断りしておきたいことは、クリスチャンがどんなに「宗教的」に熱心になっても、「なまぬるい」ことには全く変わりはないと言うことです。むしろ、クリスチャンが宗教的に熱心であればある程、その人は、宗教的に正しくない相手のあら探しに熱心になりがちです。そこにおいて、私が最初に述べたモーセが見た炎に燃えた柴が、実は燃えていない、そこに真のキリストの愛があると申し上げたことが問われると思うのです。

 なぜなら、真にキリストの愛に満たされている人は、無条件で、すなわち相手がどのように悪い場合でも、それを真っ先には問わず、性急に批判せず、さばかずに、やさしく愛し続ける愛に燃えている人であり、そのような人こそ、むしろポジティブで建設的な意見を出して人を引っぱって行く人、そのような人こそ最高に主の愛に似た「激しい愛のパッション」を持つ「熱いクリスチャン」であると思います。

 私たちは時に、クリスチャンとして「人がどうあるべきか」を宗教的に知り過ぎているが故に、特に家族とか、教会内での親しい人間関係とかで、「相手を赦せない」「黙っているべきではない、一言言うべきだ」と考え、相手を「さばく」誘惑に負けてしまいます。そうであるなら、その人こそ人間的な「生ぬるいクリスチャン」です。なぜなら、そのようなクリスチャンは未信者のこの世の人々と全くと言ってよい程変わらないからです。そんなクリスチャンに、主は「天の御国を地に建て上げる」仕事が任せられるでしょうか。

 この「相手をさばいてしまう」誘惑を押さえるには、先ず主の愛をもっと多くいただいて、その主の溢れる愛で隣人を愛することを実行することです。誘惑に負けて「言いたいこと」をつい口に出すと、自分の柴は燃えないかもしれませんが、相手のクリスチャンの柴に火をつける、つまり相手を「傷つける」結果になりかねません。

 私が申し上げるまでもなく、今は何をさておいても、先ず家族が、そして教会員同士が完全に赦し合い、主の愛に満たされて、一致・和解する時ですね。それによって、主の家族である皆が真にひとつ心になり、増々熱心に主だけを見上げ、主に従い、天の御国を、天の人間関係を地にもたらそうではありませんか。今はクリスチャンこそが、国の政治・経済とか社会のすべての面で、主と共に世に打ち勝つ最終的な「勝利者」とならねばならない時です。

 これから、いよいよ「火で洗練された金をわたしから買いなさい」(3:8)と言われる時に入ろうとしています。それは燃えるような愛で満ちた熱烈なクリスチャンになることであり、よもや「生ぬるいクリスチャン」にとどまる、あるいはなり下がることだけはないようにしたいと願うものです。(終り)