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Walk With God Ministries

06 9月

主が最も嫌われるのは「生ぬるいクリスチャン」                坂  達 也     2015年9月6日


主が最も嫌われるのは「生ぬるいクリスチャン」であること

 

               坂  達 也

 

 私は最近、この世の中、それも特にクリスチャン国であるはずのアメリカにおいて、どうして世の中のモラルと、それを律するはずの政治が、ここまで頽廃してしまったのかに大きな疑問を持って参りました。

 と言うのは、50年以上アメリカに住んで来た私には、しばらく前迄は全く考えられないような事態に今のアメリカが変わり果てていることがどうしても信じられないのです。それに、これはアメリカだけの話ではありません。世界中でそのモラルの退廃が起こっています。

 今のアメリカでは堕胎を公然と許すどころか、最高裁判決で、公に同性結婚の権利を認めるだけでなく、それに反対する行為 ー 同性結婚の司式を拒否する牧師とか、同性婚結婚式に出すお祝いのケーキを作らないお菓子屋さんは罰せられる ー と言うのです。

 又、民衆の政治に関する不信感はつのる一方です。最近の世論調査では、アメリカの国会議員と国会政治への信用と人気は、何と20%台に迄落ち込んでいるそうです。それに対照的なのが、共和党大統領に立候補した毒舌家のドナルド・トランプ氏の人気です。他のほとんどの共和党立候補者からどのように批判されようと、又ミディヤからどのように叩かれようと、むしろ叩かれれば叩かれる程、彼の人気は上がる一方です。しかもそのトランプ氏を追い上げているのが、クリスチャンの医師として大変尊敬されてはいますが、政治のプロでは全くないベン・カーソン氏(黒人)です。口だけうまい政治家よりも、世に認められるだけの実績を持つ実業家に政治も任せた方がまだましだと言う世論でしょうか。

 そこで私は主に、上記の疑問と共に「どうして主はアメリカがそうなることを許されたのか」を聞いてみました。すると主は、その責任はクリスチャンと教会自体にある、クリスチャンがあまりにも「なまぬるいクリスチャンのままであること」を当然のように許しているからである、とおっしゃいました。しかも主は、それを放置しておられるのではなく、むしろ、とことんクリスチャンがそれに気が付いて一刻も早く目覚めるのを待っておられると言われるのです。(アメリカの政治家にも両党議員にかなりのクリスチャンがいるのですが、その人たちが生ぬるいということにもなります。)

 

 ところで今朝、久し振りにマダム・ガイヨンの本を手に取りました。そして、私の目に飛び込んで来たのは、「モーセと燃える柴の中に立つ主との出会い」に関する彼女のメッセージでした。モーセは柴が燃えているのに「燃え尽きていない」ことに気が付き、いぶかしく思いました。ガイヨン師は「この炎は主の愛そのものです」と言います。

 モーセはその時羊飼いとして羊の群れを連れてホレブの山に来ていました。主は羊飼いです。主は羊である私たちを、燃える炎のような熱烈な愛で愛されます。そして、その愛を、「主の羊飼い」でもあるクリスチャンの私たちの中に入れられますが、その激しい愛の炎は決して柴である私たちを焼き尽くさない、神の愛とはそのような愛であると師は説くのです。

 主の愛は、私たちがどんなに未熟で、人をさばく行為をし続けたとしても(それは神のさばきを受けるに充分値します)決してその愛を消すことなく、忍耐をもって私たちを愛し続けてくださいます。ですから私たちはクリスチャンでいることが出来ます。これは何とすばらしい主のめぐみでしょうか。

 

 主はモーセをイスラエルの民の羊飼いに任命する前に、モーセの前に現れて、この教訓を先ず示されたのでした。そして主は、いぶかるモーセの質問に答えて「ここ(神の山)に近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」と言われました。(出エジプト3:5)

 ガイヨン師は、「あなたの足のくつ」とは神の愛以外のあなたの持つ人間的愛 affectionのすべてを意味すると言い、神の山を主と共に歩む「主の羊飼い」である私たちは、先ずそれらのすべての人間的愛情という靴を脱ぎ捨て、あなたの内に燃えるものは唯一、見返りを期待しない無私、無条件・無償の「神の愛」だけにならねばならないと言われています。これが真のリーダーになる条件であるのです。

 

 そこで、はたと気が付いたのですが、モーセと燃える柴に関するガイヨン師の説く「熱烈な無償の愛」と「クリスチャンが生ぬるいか、熱いか」とは密接に関係していると言うことでした。今は終末の時代です。そうであれば、主からラオデキヤの教会に宛てたメッセージが、今こそが問われる時代であると信じます。

 「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであって欲しい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」(黙示録3:15、16)

 ここでお断りしておきたいことは、クリスチャンがどんなに「宗教的」に熱心になっても、「なまぬるい」ことには全く変わりはないと言うことです。むしろ、クリスチャンが宗教的に熱心であればある程、その人は、宗教的に正しくない相手のあら探しに熱心になりがちです。そこにおいて、私が最初に述べたモーセが見た炎に燃えた柴が、実は燃えていない、そこに真のキリストの愛があると申し上げたことが問われると思うのです。

 なぜなら、真にキリストの愛に満たされている人は、無条件で、すなわち相手がどのように悪い場合でも、それを真っ先には問わず、性急に批判せず、さばかずに、やさしく愛し続ける愛に燃えている人であり、そのような人こそ、むしろポジティブで建設的な意見を出して人を引っぱって行く人、そのような人こそ最高に主の愛に似た「激しい愛のパッション」を持つ「熱いクリスチャン」であると思います。

 私たちは時に、クリスチャンとして「人がどうあるべきか」を宗教的に知り過ぎているが故に、特に家族とか、教会内での親しい人間関係とかで、「相手を赦せない」「黙っているべきではない、一言言うべきだ」と考え、相手を「さばく」誘惑に負けてしまいます。そうであるなら、その人こそ人間的な「生ぬるいクリスチャン」です。なぜなら、そのようなクリスチャンは未信者のこの世の人々と全くと言ってよい程変わらないからです。そんなクリスチャンに、主は「天の御国を地に建て上げる」仕事が任せられるでしょうか。

 この「相手をさばいてしまう」誘惑を押さえるには、先ず主の愛をもっと多くいただいて、その主の溢れる愛で隣人を愛することを実行することです。誘惑に負けて「言いたいこと」をつい口に出すと、自分の柴は燃えないかもしれませんが、相手のクリスチャンの柴に火をつける、つまり相手を「傷つける」結果になりかねません。

 私が申し上げるまでもなく、今は何をさておいても、先ず家族が、そして教会員同士が完全に赦し合い、主の愛に満たされて、一致・和解する時ですね。それによって、主の家族である皆が真にひとつ心になり、増々熱心に主だけを見上げ、主に従い、天の御国を、天の人間関係を地にもたらそうではありませんか。今はクリスチャンこそが、国の政治・経済とか社会のすべての面で、主と共に世に打ち勝つ最終的な「勝利者」とならねばならない時です。

 これから、いよいよ「火で洗練された金をわたしから買いなさい」(3:8)と言われる時に入ろうとしています。それは燃えるような愛で満ちた熱烈なクリスチャンになることであり、よもや「生ぬるいクリスチャン」にとどまる、あるいはなり下がることだけはないようにしたいと願うものです。(終り)


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