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Walk With God Ministries


31 03月

預言の召し ビル・ジョンソン


預言の召し

 

ビル・ジョンソン

 

 

 預言的で霊的見分けが出来る人たちは「真の預言の油注ぎ」と「疑いをもたらし、自分の意見を通す怒りの霊」とをはっきりと見分けねばなりません。人生の最大のチャレンジの一つは、あなたが愛し仕えている人が持つ怒りと同じ怒りを自分も持ってしまわないようにすることです。それはとても難しいことです。

 例えば、あなたが貧しい人を一生懸命助けているならば、金持ちに対して腹を立てないでいるのは困難です。もし裕福な人たちへのミニストリーに召されているならば、きちんと働かない人たちに腹を立てないでいるのは困難です。大学生へのミニストリーをしているならば、保守的政治グループに腹を立てないのは困難です。老人にミニストリーをしているならば、若者に腹を立てないのは困難です。インディアンにミニストリーをしているならば、彼らに不正を行ったものたちに腹を立てないでいるのは困難です。

 

 私たちの働きの実は、私たちがどれだけ人びとを愛し、折りに適った神のことばを与えることができるかによって決まります。

自分の考えを押しつけたり、自分の益になるからではなく、彼らの益のために100%神から受けたことばを語るのです。そして彼らが持つ怒りを自分は持たないことです。歴史上、私達がどれほどこの国のカルチャーに良い影響を及ぼすことができるかは、私たちが「怒り、立腹」という感情をどれほどコントロールできるかにかかっています。これが真理です。(注:自分に死ぬ必要がある)

 

イザヤ60章は私の人生を変えた大好きな箇所であり、現在の教会のための預言だと思いますが、その一つ前の59章21節は、60章に書かれていることが起こるための舞台を作っています。

 

「『これは、彼らと結ぶわたしの契約である。』と主は仰せられる。『あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしにことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない。』と主は仰せられる。」

 

「神の御霊が人びとにくだること」と「神のことばが彼らの口にあること」の密接な関係がここでも言われていることに留意してください。神の御霊が私たちに留まっている証拠は、私たちの口から神のことばが発せられることなのです。イエスは「わたしは父の言われることだけを言う。」と言われ

(ヨハネ8:28)、私たちが話すべきことの基準を示されました。地上を歩かれ人の中で、一番すばらしい独自の考えを持っていた人は、多分イエスだったことでしょう。けれども主は自分自身のことばは何も語られなかったのです。

 

 ヨハネの福音書7:18には「自分から語る者は、自分の栄光を求めます。」とあります。自分から語るとは、御父が語られていることに耳を傾けようとせず、自らのことばを語り、それによって密やかに名を上げようとする行為です。

 

使徒行伝3を見てみましょう。2章の聖霊の大いなる注ぎの後のことです。24、25節に「また、サムエルをはじめとして、彼に続いて語ったすべての預言者たちも、今の時について宣べました。あなたがたは預言者たちの子孫です。また神がアブラハムに、『あなたの子孫によって、地の諸民族はみな祝福を受ける。』と言って、あなたがたの先祖と結ばれたあの契約の子孫です。」とあります。イザヤ59章はイスラエルに与えられた言葉でしたが、預言的には「贖われた者たち、即ち教会」に対して言われたことばです。そして使徒3:25は明らかに教会へのことばであり「あなたがたは預言者たちの息子、娘です」と明言しているのです。

 

これは「あなたや、あなたの子孫、あなたのすえのすえの口にわたしのことばを置く」という契約の成就です。神が私たちに御霊をくださり、いずれの世代においても地上に神のことばを宣言し解き放つことが出来るようにされたのです。私たちが受け継いでいる相続財産が何なのかを知ることは重要です。まず神が「私たちがどのような身分の者であるか」と言っておられるかを知らねばなりません。自分の「神にあるアイデンティティー」を知るときに、自分の受けている相続財産を用いることができるのです。それは傲慢でもなく、自己中心でもなく、自分に自信があるということでさえありません。神があなたを「預言者の息子、娘である」と言っておられるのです。それによってあなたは「神の御霊を受け」「神のことばを語る」正当な権利があります。この二つは同じことなのです。

 

イエスは肉となったことばであり、神の臨在は神のことばと同じです。神の臨在をあなたが感じる時はいつでもそこに神の声がある。そして神の声があるときはそこに臨在があるのです。

 

 イザヤ51:12、13「わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。あなたは何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは。天を引き延べ、地の基を定め、あなたを造った主を、あなたは忘れ、一日中、絶えず、しいたげる者の憤りをおそれている。」

 

 神は私たちが恐れるとき、やさしく慰めてくださる方ですが、この箇所では「わたしが慰めると言っているのだから、あなたには恐れる権利はない!」と厳しく言われています。あまり聞きたくないことばかもしれませんが、時として神はこう言われるのです。

 

 もし私が内向的になり「どうしよう、こんなことになって私の人生はどうなるのだろう。」とつぶやき始めるならば、私は恐れで一杯になってしまいます。恐れは時として自己中心の表れです。それは天を引き延ばされた方を見失っていることだからです。その方が「わたしが慰める」と言っておられるのです。私たちが恐れるのは神を見失った証拠です。この箇所で神は私たちの「人に対する恐れ」を取り扱っておられます。「人に対する恐れがなくなるように祈ってください」と頼まれるとき、私はもちろん祈りますが、人への恐れに対処するためには「神を恐れること」を知ることが必要です。両方を一度に恐れることはできません。

 

 人を恐れるとき、あなたは「神への恐れ」を「人への恐れ」と取り替えてしまっています。人への恐れを持ってしまったとき、私たちはその罪を告白し、悔い改めねばなりません。それによって人への恐れから解放され自由になるのです。人を恐れることから神を恐れることへの転換は、直ぐにできることです。

 

15節「わたしは、あなたの神、主であって、海をかき立て、波をとどろかせる。その名は万軍の主。わたしは、わたしのことばをあなたのくちに置き、わたしの手の陰にあなたをかばい、天を引き延べ、地の基を定め、『あなたはわたしの民だ。』とシオンに言う。」

 

 神はご自分が祝福した者たちを守る方です。祝福した者が敵に食い尽くされるのを見放す方ではありません。祝福し、守ってくださる方です。主は「わたしがあなたの口にわたしのことばを置いた、わたしの手の陰であなたをかばう」と言われます。そしてそれを通して「天を引き延べ、地の基を定める」と言われます。これは「天にあるごとく地にもなさせたまえ」という祈りの旧約聖書版です。神は「天を地にもたらすプロセス」とそのための手段を語っておられるのです。一つの世界(天)にある現実をもう一つの世界(地)にもたらす方法であり道具です。それは即ち「わたしがあなたの口にわたしのことばを置いた」とあるように私たちが神のことばを宣言することに他なりません。

 

モーセは「すべての民が預言者ならよいのに」と祈りました。イエスは、預言者や霊の父祖たちは私たちが見ているものを見たいと切に望んだと言われました。モーセはあなたや私が生きている今という時代、神のすべての民が預言的な油を持つ時代を夢見ていたのです。私たちの預言は第一に自己中心であってはならず、次に人を暴いたり痛めたりするものであってはなりません。それは人のデスティニーを呼び出すためのものです。主を知らない人であっても、私たちの口を通して神がその人の中にある尊い金塊を呼び起こし、その人の人生が変えられてきたことを、私たちはこの数年間に幾度となく見てきました。彼らはそれまで聞かされていた偽りではなく、神の真実のことばを受け取って、方向転換ができたのです。今ここにいる皆さんすべてに対して、神は力強い、ポジティブな正しいことを宣言されています。私たちがそれを聞き、しっかり受け止めたとき、私たちは変ることができるのです。主は私たちが主の御声を聞くようにと召してくださっています。今は「神の声を聞くこと」ほど嘲られていることはありません。しかし私たちは神の御声を聞きながら、それに従って生活するという預言的な生き方ができるのです。それははっきりした大きな御声とか、壁に字があらわれたというものではないかもしれません。しかし、神の臨在、御霊の臨在の中で生きるライフスタイルを始めるとき、あなたは主の思いを思い、主のことばを語り始めるのです。それは頑張って一生懸命に神の御声を聞くというのではありません。実際、私は頑張ると何も聞くことができません。神を聞くことは努力からではなく、降伏することからくるのです。あなたが自分の決意と努力で(即ち肉で)求めるのに疲れたときに、神は語ってくださいます。

 

 

エペソ4:29「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」

ここにある「恵み grace」とは神の特別の厚意です。あなたが誰かを励まそうとして口から出したことばを神が承認されるとき、神はその人に恵み、特別の厚意をそそそがれるというのです。

仕事関係の人、或いは近所の人に、何か励ましのことばを語ったり、神がその人の人生にしておられることを告げたり、その人のすぐれた才能を認めたりするとします。そのようにあなたが人の徳を養うことばを口からを出すならば、神はそこに恵みを置き、厚意を置いてくださるのです。

神は「わたしの息子、娘が、わたしからの励ましをこの人に伝えたのだから、わたしは勿論それをバックアップせねばなりません。」といわれるのです。

 

 預言的ライフスタイルとは、常に神の臨在と共に歩み、神の思いを自分の思いにしていくことです。そして人びとの徳を高めることばを口から出す時、神がそのことばのバックアップをしてくださるのです。 (終り)

 

(以上はジョンソン師が礼拝で語られたメッセージから取りました。)


27 03月

ハバカク書に書かれた危機    ICEJ会長 ユルゲン・ビューラ


ハバカク書に書かれた危機 Habkkuk’s Crisis

         ICEJ会長 ユルゲン・ビューラ

                    International Christian Embassy Jerusalem

 

 

 世界的なパンデミックは、経済だけでなく、信者としての礼拝や交わりのあり方にも影響を与えています。2020年のアメリカの選挙は、アメリカを新たな道に導いたように見えますが、それはすでに、アメリカと西欧世界が設立されたユダヤ・キリスト教の価値観を脅かしているようにも見え、多くの人が「この中で神はどこにいるのか」と問いかけています。特に、アメリカの選挙で多くの人が異なる結果を求めて祈り、さらに多くの人がコロナ・パンデミックの終息を求めて執り成していることから、そのように感じています。

 

私にとって、ハバクク書はかつてないほど今日的な意味を持っています。預言者ハバククは、世界を理解できない時代に生きていました。そして何よりも、神を理解できない時代に生きていたのです。この記事をお読みになる際には、ハバクク書全体を祈りながら読み、聖書を用意しておくことをお勧めします。今日、私たちの多くが共感できる預言書の3つの章をご紹介しましょう。

 

ハバクク書は、ヘブライ語聖書の他の預言書とは異なります。預言者ハバカクは、イスラエルに向けられたメッセージを受け取ったのではなく、悩める神の人と創造主とのごく個人的な対話をしているのです。

 

ハバククの危機

 

冒頭(ハバクク1:2-4)から、ハバククは神に向かって不満を訴えます。”どれだけ助けを求めても、あなたは聞いてくださらないのですか” 預言者は単刀直入に言います。主よ、私の祈りは答えられません。また、不正が蔓延し、争いや対立が絶えない状況を、神はただ見ているだけだと感じています。彼は、神の民と律法が麻痺し(4節)、この地での影響力を失っているのを見ていて、正義の代わりに、不正と暴力が支配しているのを見ています。

 

神の最初の応答

 

神の反応(1:5-11節)は、神の人が期待していたものとは明らかに違っていました。神は彼に、これからイスラエルだけでなく、国々の間で起こることを観察するように指示しました。”私はバビロン人(カルデラ人)を…あの冷酷で気性の荒い人々を起こす」(1:6)。彼らは行く先々で破壊し、捕虜にするためにやってくる。つまり、神は彼に言われたのです。”今が悪いと思っているのか?待っていなさい、これからもっと悪くなる。…. 私はその真っ只中にいる」と言われたのです。

 

実際、神はハバククに言われました。”わたしは、あなたが言われても信じないようなことを、あなたの時代に行っている(ハバクク1:5)。”

 

神の人

 

一歩下がって、ハバククがどのような人物であったかを見てみましょう。彼は、週に一度、わざわざ教会に行って宗教上の義務を果たすような、普通の日曜日の教会通いをする人ではありませんでした。彼は、自分の祈りがすぐに答えられないことに不満を持つ人ではありませんでした。私たちは、古代の偉大な神の人の一人を扱っているのです。ハバククは、聖書に書かれた数少ない人物の一人です。彼の「正しい人は信仰によって生きる」(2:4)という宣言は、新約聖書で最も引用される旧約聖書の箇所の一つです。彼は祈りの人であり、彼の時代にはほとんどいなかったように、神の声を聞いていました(彼はエレミヤの同胞でした)。

 

この稀有な神の人こそ、自分の祈りが答えられないことを目の当たりにしたのである。彼の「いつまで泣いていようか」(1節)は、イスラエルのリバイバルのために何年も祈っていたにもかかわらず、何も起こらなかったという絶望感です。そして正直なところ、それは現代の多くの親愛なる神の男性と女性の状況かもしれません。彼らは何十年もの間、次のリバイバルを期待し、祈ってきました。実のところ、アズサ・ストリートやウェールズのリバイバル、ウェスリアンやピエティストのリバイバルのようなリバイバルが、多くの西洋諸国で見られなくなって久しいのです。”How long” は、今日の多くの信者の叫びかもしれません。

 

そして、預言者に対する神の応答はさらに不可解でした。”言っても信じないだろう!” 最近、新しい預言者の声の一つが聞かれたのを覚えています。世界的なパンデミックを預言した預言者たちはどこにいたのか?” その女性は、真摯に答えていました。”その女性は、「世界的なパンデミックが起こると神様に言われても、私は信じなかったでしょう」と真摯に答えていました。私は彼女の正直な気持ちに心を打たれました。

今日、多くの人々が預言者の役割を疑問視しています。特に、先日のアメリカの選挙では、多くの預言者がトランプ氏の2期目の勝利を預言していました。ハバカクのように、自分たちの愛する国にこのような劇的な変化が起こるとは信じていなかったことでしょう。後から見ると、彼らを批判するのは簡単です。しかし、彼らの多くを個人的に知っている私は、彼らがハバククのように、アメリカの復興を最も望んでいたことを知っています。彼らは、私やイスラエルの多くの人々と同じように、ドナルド・トランプ氏がもう一期、イスラエルを強化し続け、アメリカだけでなく他の国々でもキリスト教の価値観を強化してくれることを願っていました。

 

ハバククの第三の応答

 

しかし、神の返事の後、ハバククはさらに動揺しました。異教徒のバビロン人が神の民を裁くことが許されるのか?これは、彼にとって非常に不愉快なことでした。”悪人が自分よりも正しい者を飲み込んでいるのに、なぜあなたは黙っているのですか」と預言者は問いかけました(1:13)。

しかし、その後、ハバククはある決断をしました。それは、預言者にとっても、彼のメッセージ全体の見通しとトーンにとっても、画期的なものとなりました。

 

見張り塔

 

ハバククは、自分が今、神からの言葉を切実に必要としていることを認識していました。古いパラダイムや概念はもはや通用しないことを理解していました。焦点は、神に尋ねることから、神から聞くことに移ったのです。

神は今も語りかけていますが、私たちは、神が今の世界で行っている新しいことを聞くために、心の方向を変える必要があるのかもしれません。聖書には、世界に困難な時代が訪れるという記述がたくさんあることを、私たちは覚えておく必要があります。不法行為が増え、主は地震や戦争、さらには疫病を通して世界を裁かれ、最終的には世界的に仕組まれた聖徒戦争さえも起こるでしょう。先のことはわかりませんが、私たちは西洋の教会にとってより困難な状況になる新しい季節に入っているのかもしれません。しかし、私たちが神に近づき、神の顔を求めるとき、神は私たちに近づき、私たちの嘆願に答えてくださると約束されているのです。

ハバククは、いつものように祈るのではなく、自分の時代のための神の洞察を受けるために、見張り台に上がりました。私たちは、2020年の変化の多くが元に戻らないものであることを認識する必要があります。これまでうまくいっていたことが、今日、あるいは明日にはうまくいかないかもしれません。今こそ、私たち一人一人が自分の監視塔に登り、かつてないほどに主に祈ることが求められているのです。

 

光の家 ライトハウス

 

ハバククが耳を傾けると、神は彼に語りかけました。神の新しい啓示は、預言者の視点を変えました。神はご自分の目的を変えられたのではなく、神がどのように世界を見ておられるかを預言者に分かるようにされたのです。主は預言者に、自分に伝えようとしていることを他の人が読めるように分かりやすく書き記すように言われました(2:2)。つまり、神は彼に自分の疑問に対する答えだけではなく、彼が聞いたことが他の人にも役立つことを教えてくださったのです。ハバククの祈りの見張り塔は、他の人々を導く灯台となりました。神は、イサカルの子らのように、激動の時代に彼を用いられました(1歴代12:32)。このユニークな部族は、自分たちが生きている時代や季節を理解し、また自分たちがすべきことを知っていました。その結果、人々は彼らの命令に従うことになりました。神は今日、このような灯台のような人々、つまり、この嵐の時代に希望と方向性を与えることのできる人々を探しておられます。

 

正しい人は信仰によって生きる

 

同時に、神はハバククにご自身の不動の目的を確認されました。”幻・ビジョンは定められた時を待ち、終わりに向かって急ぐ。遅いと思えば、それを待ちなさい。それは必ず来る。遅れることはない。…. しかし、正しい人はその信仰によって生きる。” (ハバクク2:3-4)

揺り動かしは必ず来る、と神はおっしゃいましたが、それでも義人は信仰によって生きるのです。 この困難な時代に私たちに最も必要な資質は信仰です。今の時代の混乱やチャレンジによって、あなたの信仰が奪われないようにしましょう。私たちの周りが混沌としているにもかかわらず、神は御座に座っておられます。これは、イスラエルの偉大な王の一人が悲劇的な死を遂げたとき、イザヤが見た光景です。彼は、主が御座に着き、その衣の列が神殿を満たしているのを見ました(イザヤ6:1)。

あるいは、預言者ダニエルの言葉に置き換えると、死に直面し、バビロンのすべての賢者や魔術師が知恵の限りを尽くしたとき、ダニエルは信仰に満ちて、…「しかし、天には神がおられる!」と宣言しました。ダニエル2:28)混乱の中、経済的苦難の中、そしてすべての答えのない疑問の中では、イエス・キリストへの信仰こそが私たちを支えてくれるという意味です。義人は信仰によって生きるのです!

 

神はまだ働いておられる

 

最後に、神は信じられなくなっていたハバククに確信を与えました。裁きと混乱の中にあっても、神の人類に対する救いの目的は継続しています。闇を突き破る力強い光のように、神は告げます。”水が海を覆うように、地は主の栄光を知ることで満たされるからだ」。ハバクク2:14)これは単なる未来の神学的、預言的な記述ではなく、神の救いの目的に積極的に参加するように神が招いているのです。

 

ハバククの新たな信仰

 

預言者ハバククの最初の反応は、神の御心を受け入れることでした。”あなたの報告を聞きました(3:2)”。それでも彼は気に入らず、恐れとおののきに満ちていました(3:2+16)。しかし、彼は神が働いておられることを見ることができました。彼は疫病やパンデミックが「神のかかと(うしろ)」にあるのを見て(3:5)、主が地を訪れるようになって高い所が揺らいだのです。しかし、ハバククは、主はご自分の民を滅ぼすためではなく、救いの戦車に乗って来られたこと(3:8)、神は “油を注がれたご自分の民の救いのために出て行かれたこと(3:13)”を理解していました。

 

ここ数十年で最も偉大なリバイバルが起こったのは、西欧の民主的で自由市場の国ではなく、ラテンアメリカやアフリカ、そして中国やイランのような場所、さらに最近では激動のアラブ世界など、いまだに貧困と戦っている発展途上国であることを考えさせられます。

先日、毎週開催されている「グローバル祈祷会」の中で、フィリピン支部長のスティーブン・ミルプリ牧師から素晴らしい証しを聞きました。去年の11月から12月にかけて、私たちは彼の地域が台風で壊滅的な被害を受けた後、その地域のために祈りました。村全体が完全に水没し、多くの人々がすべてを失いました。多くの人々がすべてを失いました。しかし、彼はこの被災地でリバイバルが起こり、彼の教会だけで3000人以上の人々がイエス様を主と救い主として受け入れたことを報告してくれました。

神様は不思議な方法で働かれます。しかし、神は働かれるのです。 ですから、ハバククは困難な時代の中で、神の信仰を受けました。彼のイスラエルのリバイバルへの渇望は消えるどころか、むしろ強められました。”主よ、私はあなたのうわさを聞き、主よ、あなたの御わざを恐れます。この年のうちにそれをくり返し、この年のうちにそれを示し、激しい怒りの中でもあわれみを忘れないでください。” (ハバクク3:2)

もしかしたら、西欧の教会にとって最高の時は、これから起こるのかもしれません。主の働きは、いかなる地上の政府にも依存しません。パンデミックと大きな政治的変化の中で、ハバククの祈りを私たちの祈りとしようではありませんか。主よ、あなたの働きを復活させ、お怒りの中でも憐れみを思い出してください。

 

ハバククの態度は、冒頭の一見正当な不満とは違っていました。彼は、聖書の中でも最も深い信仰の表明をすることができました。”いちじくの木に花が咲かなくても、ぶどうの木に実がならなくても、オリーブの実がならなくても、畑に食べ物がなくても、羊が群れから切り離されても、家畜小屋に牛がいなくても、私は主を喜び、私の救いの神を喜びます。(ハバクク3:17ff)

彼の信仰と喜びは、もはや状況に左右されません。主がご支配されているのを見たからです。 自分の失望や理解不足、さらには揺らぐ信仰に絶望しないでください。ハバククのような偉大な神の人でさえ、自分が生きていた時代に苦しんでいたことを思い出してください。苦しんでいた預言者のこの本は、私たちが主の前で訴えれば、主は本当に答えてくださると招いているのです。

 

最後に、ハバククはもう一つの深い言葉を残し、これが彼の本の終わり方です。

“主である神は私の力であり、私の足を鹿のようにし、高い所を踏ませてくださる。” (ハバクク3:19, ESV)

 

混沌と揺れ動きは、ハバククにとっては勝利の領域となりました。神はその御力で彼を強め、”高い所 “を踏む “鹿のような足 “を与えられたのです。

覚えておいてください。私たちが見張り塔を管理することで、主はそれを他の人のための灯台に変えてくださるかもしれません。そして、最も重要なことは、主を信じ続けることです。「正しい者は信仰によって生きる」のですから。(終わり)

 


06 03月

今こそ必要な移式祈りのテント        坂 達 也


今こそ必要な 移動式・祈りのテント

                  坂 達 也

 

 この記事は、確か2008年前後、今は天に移住した家内の柚実子が書いた記事ですが、先日たまたま懐かしいこの記事に出会いましたので、改めてご紹介させていただきます。私たちは2004年にオレゴン州から娘のいるホノルルに移住して来た後、暫くした頃のお話です。

 

 

プレイヤー・ショール     柚実子

 

   私たちがホノルルのメシアニック・ジューの集会に集うようになってから三ヶ月ほどが経ちました。私がその昔結婚してアメリカにきたときに、幼い甥が「ゆみこおばちゃんの目はもう青くなった?」と姉に聞いたそうです。それと同じで私たちが何か「メシアニック・ジュー」という違う人種、違う種類のクリスチャンになったように思う人もあるかもしれませんが、そんなことはありません。

 

「メシアニック・ジュー」とはイエスをメシア(キリスト)と信じるユダヤ人のことです。イエス様の12弟子もみんなメシアニック・ジューでした。私たちは異邦人ですから、本来の意味でのメシアニック・ジューではありませんが、霊的にはそうである、という人もいます。

 

この集会はいわゆる「教会」ではなくて、ミニストリーという形を取っていますので、メシアニック・ジューの見地からの学びをしたい人が自由に出入りしています。集会の時間も金曜の夜ですので、日曜日には普通の教会に集う人たちも多くいます。リーダーは牧師ではなくラビといいます。ラビであるダニエル・バーガス師はもともとアセンブリー・オブ・ゴッドの牧師だったのですが、ご自分もユダヤ系アメリカ人であり、ユダヤ人に対するミニストリーを始めるためにラビの資格をイスラエルで取得されたのです。

 

まず集会で気がつくことは、多くの人がタリートという祈りのためのショールをかけていることです。早速私はニューヨークの息子に頼んで「母の日のプレゼント」として買ってもらうことにしました。ニューヨークはユダヤ人が多く、きっとそんなお店もあるだろうと思ってのことでしたが、息子はインターネットでイスラエルに注文したそうです。息子には「ハワイは暑いから、ウールとかではなくて涼しげな薄い生地にしてちょうだい。」という注文を私は出したので、二週間後にイスラエルから送られてきたものは、かげろうの羽のように透き通るものでした。

 

プレイヤー・ショール(Talith)の意味を調べてみました。Talithとは小さなテントという意味で、モーセが神と会った会見の幕屋の小型だそうです。ショールを頭からかぶることで一人用のテントを作り(密室ですね)そこで祈りを唱えて親しく個人的に神と出会うことができるのです。これで思い出したのが、ジョン・ウエスレーの母スザンナのことです。彼女は沢山の子供(19人いたそうです。そのうち8人は夭折。)を育てる多忙な生活の中で、祈るときはエプロンを頭にかぶって密室のかわりにしたということですね。子供たちはお母さんがエプロンをかぶっていたら話かけない約束だったとか。

私の透き通るショールでは、あまりテントの役に立たないようなので、がんばって裏をつけました。めでたし、めでたし。

 

その他にも、ショールの房のついた四隅は「翼」と呼ばれ、マラキ4:2の「その翼には癒しがある。」はそのことであり、イエスの衣のすそにさわった長血の女はそこに癒しがあることを信じていたこと、マルコ6:56でも病人がイエスの着物の端にさわって癒された、など、興味深いことがわかりました。

申命記22:12に「身にまとう着物の四隅に、ふさを作らねばならない。」とあるように、昔はショールではなく衣に直に房をつけたようです。

 

また、男性が自分の「翼」で女性をおおうことは結婚を意味し、ルツ記3:9に「あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください。」とはそういう意味であるそうです。今もオーソドックス・ジューの結婚式では花婿が花嫁をプレイヤー・ショールで覆い、これから花嫁を守ることを表すそうです。

 

ですからプレイヤー・ショールが必要だったのは、私ではなく主人だったのですね。早速主人のために大きなプレイヤー・ショールを注文しました。私をおおって守ってもらうために。以上です。(柚実子の記事おわり)

 

 

 この記事の中に出てくるタリットは、私もよく買ってもらったこのショールを羽織って、礼拝の時に前に出て踊りました。というのは、当時このメシアニック・ジューの教会のラビであるダニエル・バーガス師がいつも最初の礼拝が始まると、このショールを羽織ってバンドのすぐ前で縦横無尽に踊るのがとてもよくて、私も他の人たち数人と一緒に前に出て、よく踊りました。

Talithとは小さなテントという意味で、そのショールを頭からかぶることで一人用のテントを作り(密室)そこで親しく個人的に神と出会うことができる、と上記で柚実子が説明してくれている通りです。

 

 私が特に今思うことは、このタリットこそは、私たちクリスチャンが今、最も必要としているものであることです。

 そのことが出エジプト記33:7−11にこう書かれています。「モーセはいつも天幕を取り、自分のためにこれを宿営の外の、宿営から離れたところに張り、そしてこれを会見の天幕と呼んでいた。だれでも主にお伺いを立てる者は、宿営の外にある会見の天幕に行くのであった。モーセがこの天幕に出て行くときは、民はみな立ち上がり、おのおの自分の天幕の入り口に立って、モーセが天幕に入るまで、彼を見守った。モーセが天幕に入ると、雲の柱が降りて来て、天幕の入り口に立った。主はモーセと語られた。民はみな、天幕の入り口に雲の柱が立っのを見た。民はみな立って、おのおの自分の天幕の入り口で伏し拝んだ。主は、ひとが自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。モーセが宿営に帰ると、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が幕屋を離れないでいた。」

 

 この聖書箇所は、目で見える形で、私たちクリスチャンは全員「ひとが自分の友と語るように、顔と顔とを合わせて主と語る」ことができるし、しなければならないことを教えてくれています。特に出エジプト記31:13に書かれている「安息を守らなければならない」時=終末の今こそがその時です=ヨシュアはそれを知っていた人でした。(終わり)