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Walk With God Ministries


30 11月

霊を見分ける賜物の必要性 ジヨン・マーク・プール 11月30日


霊を見分ける賜物の必要性

ジヨン・マーク・プール

今日、「キリストのからだ」において、特に預言の働きに関して、最も必要とされている賜物は何かといえば、それは霊を見分ける力です。
ヘブル5:12-14「 実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。 乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。 固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。」

見分けとは何でしょうか

サンディー・ワーナー師は見分けの力を次のように説明しています。
「見分けるとは、ギリシャ語で、法的判断、識別、論争することです。それは、完全に分ける、撤退する、反対する、分け隔てる、決断する、躊躇する、抗争する、違う意見を言う、疑う、判断する、偏り見る、ためらう、動揺する等を意味する単語から派生しています。

ですから、もしあなたが何かを識別しようとするとき、ためらったり動揺するとすれば、それは当然です。この言葉が表しているのは、見分けの賜物を使う人が通るプロセスをあらわしているのです! 実際は悪いものであるにもかかわらず外見が良いと、そのことは識別する人の霊を困惑させます。彼は肉の目ではそれは良いものであるという外的サインを受け取るのですが、彼の霊はその外見に対して疑問を持ち、反発し、躊躇し、相争い、相違し、迷っているのです。物事を霊的に見分けるということは、その人が肉的に見るものと、霊的に識別するもととの間に内面的な戦いを引き起こすものなのです。

神の御国であなたが、欲しい時にはいつでも飲みやすいミルクが哺乳瓶一杯に満たされて出てくるのを、ただ待てばよいというミルク飲みの幼児であるならば、信仰生活の中で霊の見分けの賜物をいただけるなどとは決して思わないほうがいいでしょう。私たちは子供のときは、子供のように振る舞い、子供のように話しました。でももう御国の子供時代を終えて霊的大人にならねばならないのです。つまり、子供だったときは子供のように考えましたが、大人になったら、子供っぽいことはもうしてはならないのです。

一コリント13:12-13「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。」

愛をもって父は必要な訓練をされる

父なる神は愛する故に私たちを訓練してくださいます。その訓練によって私たちは御言葉の硬い食べ物を食べることができるようになり、霊を見分ける力を持つようにされ、預言者にどのように生き、どのように動けばいいのかをいつも聞かなくても自分でわかるようになります。

私たちが生き生きとするのは、キリストが満ち満ちておられるからであって、預言者から与えられた言葉で満たされているからではないのです! 確かに預言は必要であり、預言の賜物も預言者という役目もあります。しかし、私たちは、自分で主の導きを聞いて、それに従っていくことができる大人のクリスチャンにならねばならないのです。預言者はあなたのそばに常にいて毎日あなたに語ってはくれません。でも安心してください。イエス・キリストという大預言者が、いつもそばにいて適切な御言葉をくださいますから!

ヘブル12:6-8には、主が愛するものを懲らしめることが、はっきりと書かれています。「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。」

赤ちゃんは神の御言葉の硬い食べ物を見分けることができない

ヘブル4:12-13「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」

霊の見分けに関する真理を本当に把握するためには、私たちは、まず「心の一新」をすることによって変革される必要があります。ミルクを今までふんだんに与えられていた幼児や若者から急に哺乳瓶を取り上げて、彼らの口に硬い肉の塊を押し付けることが好ましいことでしょうか。そんなことをしたら、彼らは硬い肉を咀嚼する力がなくて、喉に詰まらせて死んでしまうことでしょう。硬い肉を食べることは、キリストのからだが「見分ける力を持つ」ために、序々に慣れていかねばならないプロセスです。

このプロセスが完了したならば、(そのためには、従順、自分に死ぬこと、今までの肉の習慣を断ち切ることが必要)、私たちは霊の見分けの訓練の本番に入ることができます。あなたの中で「見分ける力」はしっかりと根をはり、あなたの心を神の深みに向けて開かせるでしょう。この「霊を見分ける力」はあなたに対して誰かがどう思っているかを知るというような低級なものではありません。見分けをオカルトの世界の魔術と混同してはいけません。彼らは誰かの秘密を知ってその人を自分の支配下に入れようとするのです。「霊を見分ける力」は聖霊の重要な賜物であり、キリストのからだのすべての分野において必要なものですが、預言の賜物を持っている人、また、預言者として今働いている人たちにとって特に重要です。

第一コリント12:10「ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。」

「霊を見分ける力」は聖霊が下さる賜物ですが、神の御言葉という硬い肉をよく噛んで御言葉の基礎を築くことなしにこの賜物をいただくことはできません。また、この賜物を適切に使う力を持つためには、正しい訓練や指導をうけて、人間として霊的に成長しなければなりま
23 11月

これからの時代にもっとも価値ある賜物 リック・ジョイナー 11月23日



これからの時代にもっとも価値ある賜物

リック・ジョイナー

キリストの教会は現在、過渡期(トランジション)を迎えています。過去数世紀の間に形作られてきた教会の形態では、これからの時代を生き抜くことはできません。主がバプテスマのヨハネを賞賛されたように、私たちも今までの教会が成し遂げてきた多くのことに対して敬意を払うべきです。しかし私たちは、これからは違うタイプのリーダーに従っていくべきであり、主はそのようなリーダーを今起こされています。一方は衰え、もう一方は盛んにならなければならないのです。

たとえあるリーダーが以前力を発揮していたとしても、今の過渡期には別のタイプのリーダーが求められます。過渡期のリーダーには、時を見分け、今どのように対処して行けばいいかを知る知恵が必要とされます。主は、天気が変わるしるしを見分けられても時のしるしがわからない者たちを叱責されました。最近は、天気予報はどんどん正確になってきましたが、教会が時を見分ける力は、概してそれに追いついてはいないようです。しかし、必ずその時がきます。どのようにしてそれは起こるのでしょうか?

第一歴代誌12:32には「イッサカル族から、時を悟り、イスラエルが何をなすべきかを知っている彼らのかしら二百人。」と書かれています。イッサカルはヤコブの12人の息子の一人で、イスラエルの12部族の一つとなりました。どうしてこの部族が、時を悟り何をすればよいかという知恵を持っていたのでしょうか? その答えは、創世記49:14,15に書かれています。ここは、ヤコブが息子たちに預言をしている箇所ですが、彼はイッサカルに対して次のように言っています。

「イッサカルはたくましいろばで、彼は二つの鞍袋の間に伏す。彼は、休息がいかにも好ましく、その地がいかにも麗しいのを見た。しかし、彼の肩は重荷を負ってたわみ、苦役を強いられる奴隷となった。」

イッサカルは、休息の地が好ましく、その地が麗しいのを見たにもかかわらず、困難な仕事に従事し奴隷とまでなったのです。彼がこのように人に仕える心を持っていた故に、主はイッサカルの子孫を信頼し、来るべき時代にもっとも価値ある賜物を彼らに委ねようと思われたのです。その賜物とは即ち、時を知り、何をすればよいかを知る知恵でした。

備えと訓練

現在は情報時代なので、情報こそが一番重要なものであるといわれてきました。しかし、他のすべての情報を一まとめにしたものよりも、未来に関する正しい情報と何をすればよいかという知恵が、本当は一番価値のあるものであることが、やがて明らかになることでしょう。ヨセフがエジプトの総理大臣に昇格したのは、将来に関するパロの夢を解き明かすことができたことと、それに対してどうすればよいかという知恵の言葉の両方を持っていたからに他なりません。この二つの賜物を合わせ持つ者たちは、これからヨセフと同じように、影響力のある地位を与えられていくことでしょう。

多くの人が自分はヨセフのミニストリーをするように召されていると感じているようで、私のところに来てそのように言われる方がよくあります。しかし、そのためにヨセフが通ったような準備期間を通りたいという人にはあまりお目にかかりません。ヨセフは自分の兄弟たちから拒絶されたばかりか、奴隷として売られたのです。さらに奴隷になったばかりか、主人の妻から偽りの罪を着せられ投獄されてしまいました。それでもまだ、あなたはヨセフのようなミニストリーをしたいと思われますか?

よく私が言うことですが、沢山の人が高いレベルの権威と影響力を持つために必要な訓練を受けることを拒んだので、多くの賜物を持っていたのにもかかわらず、あまり実を結ばないで人生を終えるのを私は見てきました。一般的な原則として、短期間に簡単に入手できるものほど、その重要性は低いのです。ですから、もし私たちが本当に重要なミニストリーをしたいと思うならば、それは多分、短期間にとか、簡単には起こらないでしょう。信仰と忍耐をもって約束のものを手に入れた人たちを熱心に見習うようにと言われるのは、そういう理由です。大切なミニストリーであればあるほど、それを達成するためには、より大きな信仰と忍耐が必要とされるのです。

「自分はミニストリーの楽しい部分だけをすればいい、実をならせるために必要なつらい仕事など自分はする必要はない」と高をくくっていた人が、残念ながら沢山います。彼らが多くの賜物を持っていたにもかかわらず、挫折感に満ちた悔いの多い人生を送っているのは、こういう理由からなのです。彼らはほんの少しの間、明るく輝いたかもしれませんが、流れ星のようにすぐに消えてしまったのです。彼らには実質が伴わず、人格、知識、知恵に欠け、長期間火を燃やすために働き続けるという献身もないのです。彼らは多くの場合、晩年を挫折感のうちに過ごします。なぜならば、彼らの今の人生はむなしく将来は暗いので、過去に住むしか仕方がないからです。

「イッサカルの子孫」になるためには大変な努力が必要ですが、その苦労を厭わない人はそう多くはおりません。使徒パウロがテント作りをした理由はここにあります。テント作りなどは偉大な使徒に全く無駄な時間の浪費をさせるものだと、私たちは考えるかもしれません。しかし、もしパウロが現実的な地道な仕事をしながらそれを主への礼拝に変えていくことを喜んでしなかったならば、主は彼に偉大な啓示をお与えにはならなかったことでしょう。もし私たちが真実な者であるならば、自分が教えることを生きなければならないのです。

ヴィジョンを持つのは楽しいことですが、そのヴィジョンを実現させるために困難な努力を進んでする人は少ないのです。また、細かいことに気をとられて、ヴィジョンを失ってしまう人もよくあります。私たちのワーシップ・リーダーであるダン・ポッターが、ダビデ王に関する彼の重要な洞察を話してくれました。ダビデは預言者でした。もし、彼がその賜物だけに力を注いだら、もっとも偉大な預言者になっていたかもしれません。彼はまた、音楽家であり詩人でもありました。もしそれだけに集中していたら、もっとも偉大な作曲者となっていたかもしれません。しかし、彼は王、統治者として召命を受けていたのであり、その分野で彼は最も偉大な功績を残したのです。預言者であること、また、音楽家であることは、彼の究極の召命を果たすために役立ちました。しかし、彼は第一のことを第一としてゆるがせなかったのです。


23 11月

歌は世につれ……   坂 柚実子  11月23日


歌は世につれ……

日本での一ヶ月の伝道旅行を終えて、無事ハワイに戻ってきました。
いろいろな教会にグルーバー先生と共にお伺いしたり、また、主人がメッセンジャーとして招かれたりいたしましたが、皆様のお祈りに支えられて、全行程を終えることができました。心より感謝いたします。

日本に行くと、そのときに流行っている歌が聞こえてきます。ずっと前は、「山口さんちのつとむ君」とかでしたし、ちょっと前は「団子三兄弟」でした。去年は「たらこの歌」でしたね。
今回、ある小学生の男の子に「今、学校で流行っている歌は何?」と尋ねたら、何と「千の風になって」という答えが返って来ました。この歌が日本で非常に愛されたことはニュースで知っていましたが、子供の間でも流行っているというのは、ちょっと驚きでした。

この歌は、キリスト教界ではアニミズムだ、ニューエイジだ、といって物議をかもし、また仏教界では、お墓参りに関して「そこに私はいません。」と歌われたので大変迷惑したそうです。死んだ人の言葉が歌詞になっているという点が今までにないものであり、それで宗教界をも揺すぶったということでしょうか。

この詩はメアリー・フライというアメリカ人が、ヒットラー政権下のドイツからアメリカに逃れてきたドイツ系ユダヤ人である友人のマーガレット・シュワルコフのために、1932年に書いたものだそうです。それは、マーガレットが、病弱のために残してきた自分の母親がドイツで死んだことを知って、「自分は母親のお墓にいって、さよならも告げることができない。」といって嘆くのを見て、そこにあった買い物袋の端に、走り書きしたものだそうです。メアリーさんは友人を慰めたくて、お墓にいけなくても大丈夫、と言いたかったのでしょう。

死後の世界といえば、グルーバー先生はある祈祷会中に霊で天国に行くという経験をしておられます。パウロが第二コリントの12章で語っていることでしょうか。私は通訳者として何度も天国の様子を 先生から聞く機会を与えられましたが、それは本当は言葉では表すことのできないすばらしいところに違いありません。

グルーバー先生は日本でお寺の住職や神社の神主さんと話をするのが大好きです。その理由を今回初めて知ったのですが、それは、彼らにも自分が経験した天国の様子をお話したいからだそうです。
次回はグルーバー先生の天国の話を書くことにします。
(終わり)

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21 11月

2007年秋の日本旅行から帰って来て  坂 達也 11月21日


2007年秋の日本旅行から帰って来て

坂 達也

 今回私たち夫婦は先ず沖縄に飛び、その後、関西から東北地方まで合わせて16の教会を訪れながら、丁度一ヶ月かかって日本の各地を旅行して来ました。この間、教会の建物の外でも個人的に多くの人にお会いしました。こうした触れ合いを通して強く感じたことは、日本にもいよいよ聖霊が顕著に働かれていると言うことでした。それは教会の集会とか礼拝で主のご臨在を今まで以上に強く感じたと言うことではありません。

それはむしろ、多くの教会での親しい方たちとの交わりを通して、その中の何人かの方が、おやっと思うほど霊的に変えられ、強められていることを感じたのです。
ある姉妹は体中に転移した末期の癌でいつ倒れてもおかしくない状態でしたが、行き倒れになることを覚悟の上で、遠くで病に伏せる二人の人を励ますために別々の機会にお見舞いに出かけて行きました。その人は主から個人的にそうするようにと指令を受け、旅費をあてがわれ、主の大使として出かけて行きました。

又、大きな主の奇跡を体験した人ともお話しする機会がありましたが、その方からは、主を個人的に知っている人に特有の信仰の自信と余裕-それは主がその人の中に生きておられることが分かる「主の薫り」―を感じました。又ある方は、自分が神の「永遠の命」の中に生かされていることを堂々と証されておりました。それは下手な牧師の説教よりも説得力がありました。
そのような人たちは、それぞれが受けた試練・艱難を通して、自分の人生を「主に委ねる」ことを学んだ人たちであると思います。彼らの顔は輝いていました。主を個人的に体験している人たちには、主に従うときにだけ味わえる「信仰の味」が分かるのです。その美味しい味を一度覚えた人は、もう止められなくなります。

 「自分の人生を自分で生きている」ことに何ら疑問を持たず、神を思うのは日曜日や必要が生じた時だけという、言ってみれば、困ったときの神頼み的クリスチャンが、ある日突然自分で生きることの拙さ加減と、力の無さ、あるいはその味気なさに気がついたらどうなるでしょうか。その人は自分の神に対する考え方が根本的に間違っていたことに気がつかされるでしょう。

 人々にそう気づかせる業を、今、聖霊が世界中でなさっておられます。多くのクリスチャンが、今聖霊から霊的な挑発(プロヴォーク)を受けているのです。それは

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

の信仰で生きることへの挑発でありチャレンジです。

このチャレンジをしっかりと受けとめるには、自分で生きるのではなくキリストに生きていただく味を知ることが必要です。これがイエスからいただける真の福音なのです。多くのクリスチャンは今まで、頭の中では「自分に死なねばならない」ことを学んではいても、それを実際に生きる経験を持ったことがなかったのです。ところがそのようなクリスチャンが、父親としての神の愛を始めて個人的に経験したと言いましょうか、自分と神との距離が急に縮まるのを感じ始めたのです。彼らは全面的に神に生きていただくことのすばらしさに気がつき、それを人生のゴールにすると言う希望を見出したのです。

その意味で、今回、多くの方が主ご自身に対して魅力を感じ、引き寄せられ、慕い、飢え乾くことを覚え始めていることに気がつきました。私は本当に勇気づけられ、励まされました。
これからそのようなクリスチャンが日本でも爆発的に増えることを期待します。教会とはクリスチャン個人の集まりです。その個人が聖霊によって変えられて行く顕著な兆しを見るときに、日本中で教会のトランスフォーメーション が起る日が間近いことを肌で感じた次第です。(終わり)

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14 11月

燃えつくす火の中に立つ  ボブ・ソージ   11月14日


燃えつくす火の中に立つ

ボブ・ソージ


「神の燃えつくす火はあなたの人生の総てを燃やし、愛だけが残る」
祈りが生ける宇宙の神との会話であり、それがどんどんと深まり発展していく栄光の冒険であることを見出したときに、私の祈りの生活は全く変えられました。弱い者であるけれども主を心から慕っている礼拝者に対して、神は燃えるような情熱を持っておられます。その神の御前で、清い憧れの思いで心を燃やし栄光の中に立つことは、何にもかえがたく、それよりも素晴らしいことはないのです。

祈りがこのようなものであるという理解に、私が偶然行き当たった、というわけではありません。神がそうさせてくださったのです。神が突然私の前に現れてくださったのです。それは私が激しい試練を経験したときに、神がそれを使われて私の霊的DNAを書き換え、私の人生の方向を変え、私がずっと望んでいた(けれども、どうすれば発見できるのかが分からなかった)神との関係の入り口へと私を連れて行ってくださったのです。私は厳しい不幸に見舞われ、必死で神を求めていました。 餓死寸前の人間が食べ物をあさるように、私は生きるために聖書の御言葉を求めました。火のような試練が私を変えたのではありません。試練の中で神を必死で求めたことが、私を変えたのです。

今のシーズンの、神の御前での私の役目を適切に示している聖書箇所が二つあります。一つ目は、申命記10:8です。「そのとき、主はレビ部族をえり分けて、主の契約の箱を運び、主の前に立って仕え、また御名によって祝福されるようにされた。今日までそうなっている。」 私の一番の召しは、神の御前に立ち主にお仕えすることであると、私は今考えています。大きな課題とか、大きな志とか、何か他に急いですることがある、ということではないのです。ただ主の御前に立ち、主を愛するのです。

二つ目の箇所は、黙示録4:5です。「七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。」 この「御座の前で燃えている」というところを見たとき、私は心の中で叫びました。「主よ、私の人生もこの言葉で表わされるようになりたいです。私もあなたの前に立ち、あなたの御座の前で燃えたいです!」と。

私は自分が誰であるかを発見したのです。私は聖い者であり(自分が聖いというのではなく、神の御前にいるので私は聖いのです)聖なる方の御座の前に立ち、主の麗しさと御力を仰ぎ見、御座から流れる火(ダニエル7:10参照)が私の心に流れ込み、それが神の心に燃えているのと同じ情熱の火で私を燃やし、私の心は主の愛で点火され、今度は私の愛が火山の噴火のように主に向かって流れ出すのです。(ローマ5:5参照)

私は主の御前でとこしえに燃えるのです。私はいつもそこに立っていることでしょう。主の恵みの故に、私はそこから除かれないでしょう。この世の何物も、また、地獄からの襲撃も私をこの聖なる御座の前から動かすことがありませんように。私はもはや御座の前で燃えるという究極の特権を味わったので、もう他のことでは満足できないのです。

ただ立つ

神はあるシーズンには、私たちにただじっと立っているようにと言われるのです。何か大きなプロジェクトを追っかけるという興奮の方を私たちは求めるかもしれませんが、神はときどき私たちに、総ての活動をやめてただ立ちなさいと言われるのです。主はそれ以外の選択肢を与えてくださらないときがあります。周りの状況が、他の道を選択しようとしてもどうしてもできないようにさせ、私たちは神の御心という鎖に縛られた囚人のようになってしまいます。鎖から抜け出して次のことをしようとしても、どうしてもできず、ただ御座の前で、王なる主への聖なる愛に燃えて立っているのです。

普通よく「ただ立っていないで、何かしなさい!」と私たちは言います。私たちの人生が自分でコントロールできないような状況に陥ったときの一番の誘惑は(何をしたらいいかわからないとき)何かをしてしまう、ということです。人々は「停止している車を神様は操縦できないよ。だから、とにかく何かをはじめなさい。そうしたら神様が行くべき方向を示してくださるよ。」と言うのです。

確かにそういうときもあるかもしれません。しかし、主は私を違う道に導かれました。主は先ほどの言葉を逆にして、「ただ何かをしないで、そこに立っていなさい!」と私に言われたのです。つまりこういうことです。「何をしたらいいかわからない時は、ただ何かをしてはいけません!わたしを待ち望みなさい。わたしの御前に立ち、わたしに仕えなさい。わたしが話すまでは。わたしがあなたに話しかけたそのときに、あなたはそれに応答して動いてもいいのです。しかし、わたしが話すまでは、ただそこに立っていなさい。」

最近私は、「『もう十分だ。』と言わない火。」(箴言30:16) という箇所を読んではっとしました。神の中には決して満足することのない火があるのです。そして私の中にも神によって入れられた火があり、それも決して満足しないのです。私の中の火は、絶えずもっと神を求めて手を伸ばしています。それに応えて神の中の火ももっと私を求めてくださるのです。私たちは燃えるような愛の心を神にささげつつ、終わりのない冒険をして永遠をすごし、神もまたその輝かしい麗しさを、私たちに終わることなく次々に見せてくださるのです。

この危険なことをしてください。それは神の御前に一人で立つことです!主の「燃えつくす火」があなたの人生の総てを燃やしつくし、愛だけが残ります。私たちの神は「仕える者たちを炎とされる。」(ヘブル1:7)方なのです。
あなたがそれを望むなら、主はあなたをも炎としてくださいます。(終わり)


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