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Walk With God Ministries

14 11月

燃えつくす火の中に立つ  ボブ・ソージ   11月14日


燃えつくす火の中に立つ

ボブ・ソージ


「神の燃えつくす火はあなたの人生の総てを燃やし、愛だけが残る」
祈りが生ける宇宙の神との会話であり、それがどんどんと深まり発展していく栄光の冒険であることを見出したときに、私の祈りの生活は全く変えられました。弱い者であるけれども主を心から慕っている礼拝者に対して、神は燃えるような情熱を持っておられます。その神の御前で、清い憧れの思いで心を燃やし栄光の中に立つことは、何にもかえがたく、それよりも素晴らしいことはないのです。

祈りがこのようなものであるという理解に、私が偶然行き当たった、というわけではありません。神がそうさせてくださったのです。神が突然私の前に現れてくださったのです。それは私が激しい試練を経験したときに、神がそれを使われて私の霊的DNAを書き換え、私の人生の方向を変え、私がずっと望んでいた(けれども、どうすれば発見できるのかが分からなかった)神との関係の入り口へと私を連れて行ってくださったのです。私は厳しい不幸に見舞われ、必死で神を求めていました。 餓死寸前の人間が食べ物をあさるように、私は生きるために聖書の御言葉を求めました。火のような試練が私を変えたのではありません。試練の中で神を必死で求めたことが、私を変えたのです。

今のシーズンの、神の御前での私の役目を適切に示している聖書箇所が二つあります。一つ目は、申命記10:8です。「そのとき、主はレビ部族をえり分けて、主の契約の箱を運び、主の前に立って仕え、また御名によって祝福されるようにされた。今日までそうなっている。」 私の一番の召しは、神の御前に立ち主にお仕えすることであると、私は今考えています。大きな課題とか、大きな志とか、何か他に急いですることがある、ということではないのです。ただ主の御前に立ち、主を愛するのです。

二つ目の箇所は、黙示録4:5です。「七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。」 この「御座の前で燃えている」というところを見たとき、私は心の中で叫びました。「主よ、私の人生もこの言葉で表わされるようになりたいです。私もあなたの前に立ち、あなたの御座の前で燃えたいです!」と。

私は自分が誰であるかを発見したのです。私は聖い者であり(自分が聖いというのではなく、神の御前にいるので私は聖いのです)聖なる方の御座の前に立ち、主の麗しさと御力を仰ぎ見、御座から流れる火(ダニエル7:10参照)が私の心に流れ込み、それが神の心に燃えているのと同じ情熱の火で私を燃やし、私の心は主の愛で点火され、今度は私の愛が火山の噴火のように主に向かって流れ出すのです。(ローマ5:5参照)

私は主の御前でとこしえに燃えるのです。私はいつもそこに立っていることでしょう。主の恵みの故に、私はそこから除かれないでしょう。この世の何物も、また、地獄からの襲撃も私をこの聖なる御座の前から動かすことがありませんように。私はもはや御座の前で燃えるという究極の特権を味わったので、もう他のことでは満足できないのです。

ただ立つ

神はあるシーズンには、私たちにただじっと立っているようにと言われるのです。何か大きなプロジェクトを追っかけるという興奮の方を私たちは求めるかもしれませんが、神はときどき私たちに、総ての活動をやめてただ立ちなさいと言われるのです。主はそれ以外の選択肢を与えてくださらないときがあります。周りの状況が、他の道を選択しようとしてもどうしてもできないようにさせ、私たちは神の御心という鎖に縛られた囚人のようになってしまいます。鎖から抜け出して次のことをしようとしても、どうしてもできず、ただ御座の前で、王なる主への聖なる愛に燃えて立っているのです。

普通よく「ただ立っていないで、何かしなさい!」と私たちは言います。私たちの人生が自分でコントロールできないような状況に陥ったときの一番の誘惑は(何をしたらいいかわからないとき)何かをしてしまう、ということです。人々は「停止している車を神様は操縦できないよ。だから、とにかく何かをはじめなさい。そうしたら神様が行くべき方向を示してくださるよ。」と言うのです。

確かにそういうときもあるかもしれません。しかし、主は私を違う道に導かれました。主は先ほどの言葉を逆にして、「ただ何かをしないで、そこに立っていなさい!」と私に言われたのです。つまりこういうことです。「何をしたらいいかわからない時は、ただ何かをしてはいけません!わたしを待ち望みなさい。わたしの御前に立ち、わたしに仕えなさい。わたしが話すまでは。わたしがあなたに話しかけたそのときに、あなたはそれに応答して動いてもいいのです。しかし、わたしが話すまでは、ただそこに立っていなさい。」

最近私は、「『もう十分だ。』と言わない火。」(箴言30:16) という箇所を読んではっとしました。神の中には決して満足することのない火があるのです。そして私の中にも神によって入れられた火があり、それも決して満足しないのです。私の中の火は、絶えずもっと神を求めて手を伸ばしています。それに応えて神の中の火ももっと私を求めてくださるのです。私たちは燃えるような愛の心を神にささげつつ、終わりのない冒険をして永遠をすごし、神もまたその輝かしい麗しさを、私たちに終わることなく次々に見せてくださるのです。

この危険なことをしてください。それは神の御前に一人で立つことです!主の「燃えつくす火」があなたの人生の総てを燃やしつくし、愛だけが残ります。私たちの神は「仕える者たちを炎とされる。」(ヘブル1:7)方なのです。
あなたがそれを望むなら、主はあなたをも炎としてくださいます。(終わり)


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