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Walk With God Ministries


20 10月

ダビデとエリアブ   ビクトリア・ボイセン  10月20日



ダビデとエリアブ

                                  ビクトリア・ボイソン

ダビデは兄たちのいる戦場に行ったとき、ゴリアテがイスラエルを嘲笑している言葉に憤りを覚え、その事態を何とかしたいと願いました。しかし、ダビデは巨人と戦う前に、自分の兄であるエリアブからの攻撃に打ち勝たねばなりませんでした。
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Iサムエル17:28-30 をお読みください。

私は息子のコールとこの聖書の箇所を読んでいたのですが、私が「ダビデとエリアブ」というタイトルを読むやいやな、彼は「違うよ、お母さん、ダビデとゴリアテだよ!」と直してくれました。確かに私たちはみんなダビデが巨人ゴリアテを倒した話を聞いてきましたが、その少し前に、兄エリアブがダビデを言葉で攻撃してきたのです。 ですから、ダビデはゴリアテと戦う前にエリアブの激しい叱責に打ち勝つ必要があったのです。

ダビデは神の力を信じていました。しかし、エリアブはそうではありませんでした。彼はダビデの言動の動機を疑ってダビデを諌めるのは、自分に知恵があるからだと思ったのです。自分の心におこったダビデにたいする非難の思いは、ダビデの人生を洞察することができる自分の賜物だと勘違いしました。自分は弟が分かっている、と思ったのです。ダビデが生まれてからずっと一緒に暮らしてきました。面倒もみてきたことでしょう。しかし彼はダビデの心を本当には悟ることができなかったのです。

エリアブは、ダビデの神への信頼を傲慢、うぬぼれと誤解してしまいました。ダビデがみんなの前でただ大口をたたいているだけだと思い、怒ったのです。ずっとダビデと一緒に暮らしては来ましたが、父の牧場で羊を飼うしか能のない弟としてしか彼を見ることは出来なかったのです。ダビデが羊を飼っているときに巨人をも倒すことができる勇士として神が彼を訓練しておられたことを、エリアブは知らなかったのです。

Iサムエル17:34-37をお読みください。

誰も知らないうちに神はダビデを信仰の勇者として訓練しておられました。信仰の勇者とは自分の力や知恵に頼るのではなく、神の力と知恵に頼る者です。神はダビデに人間のやり方ではなく、神のやり方で戦う方法を教えました。 神は彼に信仰と石投げを使うようにと教えられました。 人々からよろいや剣をすすめられましたが、ダビデはそれらに慣れていませんでした。(Iサムエル17:39参照)


神による訓練

私たちが望みさえすれば、神ご自身が私たちを訓練し神のやり方で生きる方法を教えてくださいます。神は他の人たちの経験を使って私たちを訓練されることも多々ありますが、神が私たちと一対一になって教えたいと願われる特別のときがあるのです。(ヨハネ16:13参照) 私たちが試練の中を通っているときに、ご自身で一歩一歩導きたいと願われます。主から教えを受ければ受けるほどもっとそれを受けとる力が与えられます。

エリアブは時代にふさわしい勇士になりたいと願ったでしょうし、確かに人々の目にエリアブは立派な勇士と映ったと思います。彼は自分こそ戦いに必要な腕を持っているという自信があり、ダビデでは駄目だと思ったのです。サムエルさえ、エリアブこそイスラエルの次の王として神が選ばれたものだと思ったほどでした 。しかし、神はサムエルに「エリアブの容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。」といわれました。「主は人が見るようには見ないからだ。人はうわべをみるが、主は心を見る。」(Iサムエル16:7)

エリアブは羊飼いにすぎないダビデが、巨人ゴリアテと戦うことが出来ると思ったということだけでも猛烈に腹が立ちました。ダビデが強い信仰をもって語るのはうぬぼれだと思ったのです。兄弟の中で一番年長で背も高い自分でさえゴリアテと戦うなどとは考えもしないのに、一番チビの弟がそんなことを考えるとは、何というあつかましさであろうと思ったのです。ダビデの話はうぬぼれにすぎず、その動機も絶対に悪いものであるに違いないと決めつけました。エリアブはゴリアテに焦点をあて、ゴリアテにかなうものはいないと決論づけました。しかしダビデの焦点は神に当てられていたのです。エリアブはダビデが自分自身を高く評価しすぎていると思いましたが、実際のところは、エリアブこそ主をあまりにも小さく考えていたのでした。


告発者から遠ざかれ

ダビデのような立場に立たされことがありますか? あなたの意図したことは良いことであり、動機も正しかったのに、周りの人があなたの言動を誤解するというようなことです。あなたが神に全幅の信頼を寄せているのを、「それはプライドだ。」といい、あなたに自分の分をわきまえるように忠告しなければならないと彼らは思うのです。 エリアブがダビデにおまえはただの羊飼いにすぎない、と言ったようにです。「荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。」(Iサムエル17:28)


エリアブのような人は、自分の口に疑いや不信仰を語らせてしまいます。「神からの召命をあなたは決して成就することはできない。」と、様々な理由を駆使してあなたに伝えようとします。「神が約束されたものをあなたは決して手に入れることはない。」と、彼らは自信をもって言うのです。エリアブは自分はダビデを熟知していて、彼に何か特別な才能などない、と信じ込んでいました。しかし、ダビデが野原で羊の番をしていたときに神がダビデの心を主のこころにかなうように形作り、彼の信仰を建て上げていたのですが、エリアブはその場にはいなかったのです。


ダビデが人生の中でもっとも重要な決断の一つをしたのはこの時でした。彼はエリアブに背をむけて他の人に話しかけたのです。


敵は、私たちはミニストリーをする力もなく適してもいないと考える人たちを私たちの回りに探して、彼らを使って私たちの人生の目標を台無しにする言葉を話させます。彼らを使って私たちがどれほど力不足であるかを指摘させ、大したことは絶対できないという理由の数々を述べ立てさせるのです。

しかし、神もまた声をもっておられるのです。主は私たちの将来や心の動機を見通すことができます。私たちは耳を主に向けねばなりません。そうすれば主からのすべての命令に聞き従う勇気を主は私たちにくださいます。 今まで私たちが一緒にいた人から離れて自由になり、神の与えてくださった使命の中を私たちが歩きだすのを主は待っておられます。


あなたは巨人を倒せる

愛する皆さん、神はあなたを巨人を倒す勇者として見ておられます。 主はあなたを勝利者だと見ています。主はあなたにやってみなさいと薦めておられます。敵の偽りには耳をふさいで、主があなたを見ているように自分を見てください。主はあなたのユニークさをキリストの身体を立てあげるために用いたいと思っておられるのです。


神はあなたの人生の目標は非常に偉大であることをあなたが確信するようにとずっと働きかけてこられました。しかしそれと同時にあなたの周りの人たちはあなたは大した器ではないとみなしていたのです。彼らはたしかにあなたには油注ぎがあることは認めても、神があなたのために立てている大きな計画を想像することはとてもできないのです。彼らにあなたの人生のゴールは絶対に見えないのです。ですから彼らにわかってもらおうとするのはやめなさい。それはあなたと神との間のことなのですから。主は御計画が実現してくるまでは人には秘密にしておきたいのです。


もしダビデがエリアブの言うことを聞いていたならば、ゴリアテを倒してはいなかったでしょうし、王にもなっていなかったでしょう。私たちの人生目標がうまれ出るのを待っている間、人の意見に背を向けて神の声を聞かねばなりません。神はダビデにイスラエルの王座をすでに約束されていましたが、ゴリアテを倒すまではダビデは人々にほとんど知られていませんでした。ダビデが信仰でこのように一歩踏み出したことにより、神は彼の名を広めました。やがて王になるための基盤を神が与えたのです。信仰と主に従順なる行動の一歩一歩が主によって与えられた目標へと私たちを近づけるのです。ここでデビデが一歩を踏み出していなかったならば、イスラエルの王座には着かなかったかもしれないのです。

今あなたの人生の中でのゴリアテは何でしょうか。神はあなたに何をせよといわれていますか。それが何であれ必ずや「おまえには出来るはずがない」、と責め立てる敵の声が聞こえてくるでしょう。 敵は主が備えられたあなたの人生の目標を壊したいのです。負けてはいけません。敵があなたを落胆させようとしたならば、かえってそれによって勇気づけられなさい。敵はあなたがその目標を達成することが出来ると思うからこそ、わざわざ時間をかけてあなたを失望させようと攻撃してくるのですから。

次のように祈りましょう。

愛するお父様、敵の声ではなくあなたの声が聞けるように助けてください。私のヴィジョンを変えてください。あなたが見てくださるように自分を見ることができますように。他の人たちをあなたの恵みの光の中で見ることができますように。私のまわりのすべての人の中にあなたのご計画を見ることができますように。(終わり)

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11 10月

主のみ言葉を信じる    JP ジャクソン   10月11日


主の御言葉を信じる

ジョン・ポール・ジャクソン

自分がどのくらい成熟した大人になったかを知りたいならば、問題を一つ見つけて見ればすぐにわかります。 人の徳(新しい性質)というものは、平穏なときにはぐくまれますが、それが真に身につくか着かないかは、問題が起こったときに私たちがどう対処するかにかかっています。誰かに感情を刺激するボタンを押されると、内的感情の温度は急上昇し、私たちは自分の「肉」をどのように扱うかという大変重要な選択を迫られる情況に置かれます。

この選択をせねばならないときには、一人の人が必ず肉に死なねばなりません。 そして、その一人の人とは常にあなたなのです。 あなたは感情の嵐の只中で軽率に行動してしまった後にその過ちを自覚して肉に死ぬか、あるいは、神に従ってその場ですぐ死ぬことを選ぶこともできます。どちらにせよ、あなたは死なねばならないのですから、出来るだけ早く済ませてしまったほうがいいのではないでしょうか。


神と結ばれた心

悔い改めには必ず自分に死ぬことが要求されます。自分が悪かったことを認めて赦しを請うことは、文字通り自分のたましいを死刑に処することです。 ナイフが自分と罪を切り離すために入ってくるとき、私たちのたましいがびっくりして息を止めるのを感じます。こんなひどい仕打ちを受けるようなことをしたのでしょうか、とたましいは泣き言をいい、注意をしないと私たちはたましいをかわいそうに思い、CPRを始め、息を吹き返させようとしてしまいます。 悔い改めは自分が正しいとする権利をとりさり、コントロールする権利をうばいます。それはあるときには不公平だと思えることもあります。あるときには問題の解決から後退しているように感じることもありますが、そうではありません。

自分の成熟度のテストを受けて失敗した場合、神は私たちが成功することよりも、努力をしたことを喜んでくださっているのだということを、私たちは忘れがちになります。失敗したことで自分が嫌になり、イライラし、自責の念にかられ、恥と思い、人から拒絶されたと思ってしまい、神からも見捨てられたように感じてしまうのです。 最悪の場合は自分と神との関係が薄れてしまったかのように考えてしまい、自分がよくならなければ、神は自分に近づいてくださらないと思ってしまうのです。 神は私たちの内に住んでおるのですから私たちが感じることを神も感じておられるのだ、ということを忘れてしまうのです。

主は私たちの感情を感じることができるお方です。主は無感情な神ではありません。主は感情で満ちておられ、私たちのために感情を動かしてくださる方なのです。主は私たちが何をしているかを見られ、物事が私たちの思うように行かなかったり、私たちが傷ついたりすると悲しまれます。私たちがストーブに触って火傷をしたり、友達に笑われたりすると、主は悲しまれます。主はすべてを見ておられ、私たちが流す血の一滴一滴、すべての心の痛みを、私たちと一緒に感じていてくださるのです。

霊的成長を遂げるためには、イザヤ63:9を言葉通りに信じて受け取らねばなりません。「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、」とあります。主は私たちの悲しみをご存知なだけではないのです。私たちの悲しみを見て、それは大した問題ではないといって、すぐに私たちに悲しみから立ち直ることを要求する方ではないのです。主は実際に私たちの悲しみを経験されるのです。たとえそれが疫病のように嫌うべきこと、即ち、私たちが故意に犯した罪のための悲しみであったとしてもです。

御ことば通り信じる

私たちが霊的に「うまく」やっているときには、神が愛していてくださることを信じるのは難しいことではありません。しかし、失敗したあとにそう信じるのは困難です。自分が穢れていると感じるときに、主は私を美しいといってくださることを信じるのはほとんど不可能です。敵は私たちの思いの中に侵入してきてささやきます。 自分は人間のくずだ、まったくもう救いようがないほどどうしようもない人間だ、と感じるのです。そしてそのときに又、自分に死ぬかどうかの選択を迫られることになります。

その選択とは次のようなものです。主の御ことばとおりに信じるか、それとも自分の頭で物事を捉えてしまい、「もしかして主は聖書の中に書かれている通りに実際に慈しみ深い方であるかも知れない。」という可能性を無視してしまうか、という選択です。 私たちが自分を愛するようにではなく、「もしかして」主は「わたしはあなたを愛する」 という主の御ことばとおりに私たちを愛してくださっているかもしれないのです。

私たちが痛みの中で呻いているとき、たとえそれがどのような痛みであったとしても、主はひざまずいて私たちの足を洗い、傷を包帯で包み、そっとキスをして「大丈夫だよ」と言ってくださるのです。
そのときに私たちの徳(新しい性質)が懐妊されます。それは、私たちが完全な時にではなく、「主は私を愛していてくださる!」と心の底からわかったときにです。(終わり)

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05 10月

静まることの大切さ    グラハム・クック   10月7日


静まることの大切さ(Crafted Prayer より抜粋)

グラハム・クック 

静まることこそ天と私たちの間のコミュニケーションのチャンネルを開くものです。私たちはみな絶えず頭の中で何かを話しています。私の友人のイギリスの心理学者ジム・マックニーシュ氏は、これを「頭の中の騒音 ヘッド・ノイズ」と呼んでいますが、それは内部の声であり、私たちの生活のサウンド・トラックです。絶えず流れている一方的な意識の流れ的な会話で、私たちの人生の一時一時にコメントを言っているようなものです。

私が今話そうとしている「静まること」とは、どこか静かな場所に行くことではなく(確かにそれはしばしば助けにはなりますが)、あなたのこの頭の中の声を黙らせることなのです。その声を黙らせるには訓練が必要ですが、神の御心を知るためにはどうしてもそれが必要ですし、主が共にいてくださいますから、あなたにも出来ます。

私たちが性急にとりなしの祈りを始めてしまうと、このヘッド・ノイズをそのまま祈りにしてしまいます。主の御前で「静まる」ことをせずに自分の力で祈ってしまい、自分が直面している状況のプレッシャーやパニック状態の重荷を負ったままで神のドアの前に来てしまうのです。私たちはごちゃごちゃと沢山の言葉を祈り、静かになることはほとんどありません。これは全く神のなさることと正反対なのです。

神はいつも静かにしておられ、めったに話されません。主が私たちのうちで話されること(speak in us)と主が私たちにむかって話されること(speak to us)とは違います。「主が私に語られた。(spoke to me)」という表現を私たちはよく使いますが、実際にはそれは私たちの霊の中に蓄えられた言葉、考え、思い、会話、聖句などの中から神がそのときに選んであなたの意識の中に思い起こさせてくださるものなのです。コンピューターの中にファイルを導入するように、私たちの中にすでに蓄えてある宝を主が引き出してくださるのです。「ああ、本当にそうだ。主が語ってくださったに違いない。」と私たちは思います。それが内なる声(speak in us)です。

神は静まった心の中で時々語ってくださり、主が語られるときは重大事なのです。主があなたに語られる(speak to you)ときには、神はあなたに何かを確かに分与されます。そしてそのとき主の臨在感は深いのです。主が一度話されると地が創造されました。神が語られると確実に何かが起こり、何かが揺り動かされ、何かが創造され生み出されます。主が私たちに語られるとき、主の臨在のダイナミックな剰余が私たちのうちに必ず残り、それは全く特記すべき事件となります。

詩篇46:10で神はダビデに「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」といわれました。困難な状況におかれていたダビデに語られたこの言葉は、深い主の臨在をもたらしました。46篇が地震の描写で始められ、「静まれ」で終わっているのは興味深いことです。神だけが地震の最中に静けさについて語ることができるお方です。あなたの人生が足元からガタガタと崩れていくときに、神だけが「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」と語ることができるのです。

神を知ることは平安と静けさを通して与えられます。神は私たちを戦士として戦場に送ることを望まれますが、もしそれに先立って静けさを見出していなかったならば、戦場でどうやって平安を見出すことができるでしょうか。敵に対する一番の武器は安息です。なぜならば安息により私たちは神のうちの秘密の場所に隠れることが出来るからです。サタンは想像を絶するほどの敵意と悪意をもって私たちを憎んでいますが、バカではありませんから、あなたを至聖所の中までは絶対に追いかけてはきません。そこは主の臨在の場でありそこに行けば主と対決しなければならないことをサタンは知っているからです。私たちは主ご自身を避難所、砦、秘密の隠れ場とすることによって、敵が私たちに触れることができないようにする方法を学ぶ必要があります。敵があなたを見つけられなければ、あなたに害を加えることもできないのです。神はあなたのためにご自分の中に秘密の場所を備えていてくださいます。

主と共に歩むためには、あなたはパニックになってはいけないのです。主と共に歩むためには、心配したり不安になったりすることがあってはなりません。秘密の隠れ場が私たち一人ひとりのために用意されています。たとえどんなことが起こっても、主とともに生きることができる場所を、主は愛であるゆえに愛をもって備えていてくださいます。主はそれがどこにあるかを私たちに教えたいのです。なぜならば神の子たちが秘密の場所に入ったならば、その時こそ人生を心から楽しむことが出来るからです。どんな困難が襲っても彼らはそのチャレンジに立ち向かうことができます。静まることなしには私たちの神の経験は限られたものになります。(この神の前で)静まることは主に安息するための先駆けとなる準備であり、それは主の臨在の中に絶えずとどまるための霊的訓練を意味します。この安息、この静けさ、この神のうちにある秘密の隠れ場こそが、主との絶えざる交わりを与えてくれます。これが聖書のいう絶えざる祈りなのです。(終わり)


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