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31 03月

宗教の霊に打ち勝つーその4         リック・ジョイナー   2013年3月31日


宗教の霊に打ち勝つ その4

 

リック・ジョイナー

 

光の天使

 

パウロがコリントのクリスチャンに「宗教の霊で働く者たちを警戒せよ」と言いましたが、それは始ったばかりの教会に律法主義というくびきを負わせようとする者たちに対する警告でした。彼は次にように説明しています。

 

こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります。」(第二コリント11:13−15)

 

「光の御使い」という言葉は「真理のメッセンジャー」とも解することができます。最も偽り深く恐ろしい変装は、義のしもべになりすまし、 真理を破壊することを目的に 用いることです。サタンは聖書を引用し知恵を用いることに長けていますが、その知恵は知識の木の知恵であり、人を殺すものなのです。彼は人の欠点や落ち度を的確に指摘することが出来ますが、それはその人に解放といのちを与えるのではなく、その人をズタズタにしてしまうようなやり方でするのです。

 

宗教の霊から力を得た「光の御使い」は、まず最初に人の正しいところではなく間違っているところを探そうとします。この霊は通常、羊を守り真理や主の栄光を守るようなふりをしてやってきますが、実は邪悪で批判的な霊であり、常に分裂や破壊という結果を招くのです。

 

批判とか批評は一見知恵のように見えますが、実は最も卑劣なプライドの一つなのです。私たちが誰かを批判する時、本当のところは「自分は彼よりは良い」と宣言しているのです。私たちはある面では他の人よりまさっているかもしれません。もしそうだとすれば、それはただ神の恵みによるのです。真の神の恵みを理解するクリスチャンは、決して人を見下すような道を探すことはせず、むしろ人を建て上げる方法を探すのです。

 

宗教の霊と殺人

 

アダムとイブが善悪の知識によって生きることを選びとったとき、彼らは宗教の霊を受けたのです。その最初のあらわれは「自分中心」でした。即ち彼らは自分自身を見始めたのです。彼らがこの実を食べたあとカインが生まれましたが、カインは聖書の中で宗教の霊によって支配された者の最初のモデルです。

 

カインは「地を耕すもの(創世記4:2)」でした。彼の思いは「地」にあったのです。宗教の霊は、私たちを天の領域ではなく地の領域に焦点をおくように常に企むのです。「カインの子孫」は目に見えるものによって物事を判断し、「目に見えない方を見るようにして忍び通す者(ヘブル11:27)」を理解することができません。

 

黙示録13章には二番目のけものが「地から上って来た」とありますが、これはカインの霊の子孫は地を耕す者であるからです。「地に思いをおく、地のことだけを考える」ことは、歴史上最も邪悪なけものの一つを生み出すのです。

 

カインは又、自分の労働の実を主に捧げようとしました。主はその生け贄を拒絶し、アベルの血の生け贄は受け取られました。私たちの労働の実は、決して主への捧げものとして受け入れられることはできません。神が小羊の血だけを生け贄として受け入れられることは始めからの神の御こころでした。カインは訓戒を受け入れて悔い改めることをせず、アベルを嫉妬し殺害しました。自分の働きによって生きようと試みる者は、往々にして、小羊の義により頼む者に対して激しい怒りを抱くものです。

 

パリサイ人の中のパリサイ人であったタルソのサウロが、クリスチャンに対して怒り狂ったのはこの理由によります。パリサイ人が人生をかけて築き上げてきたものを最大限に脅かす者、それがクリスチャンだったのです。それ故にパリサイ人たちはクリスチャンの存在に耐えることができなかったのです。自分の業を土台にしている宗教は、いとも簡単に暴力化するのです。キリスト教と称するセクトで、キリストの十字架の業を自分の業に置き換えてしまった教義をもつものも、これと同じです。

 

主は、兄弟を憎むならばそれは殺人と同じであると言われました。(マタイ5:21−22参照)宗教の霊によって駆り立てられる者が、人を実際に殺す以外の方法でその人を滅ぼそうとすることはありがちなのです。教会やミニストリーに対して浴びせられる批判、非難の多くは、カインにアベルを殺害させたと同じ霊が怒り狂う結果なのです。

 

真のメッセンジャーのテスト

 

エゼキエル37章で、エゼキエルは乾いた骨の谷に連れていかれ、これらが生きることができるか、と主に訊かれました。次に主は「骨にむかって預言せよ」と命じられました。彼が預言すると、骨は集まってきて生き、大いなる軍隊となりました。これは真のミニストリーが合格せねばならない重要なテストです。真の預言者は、乾涸びた骨の中にさえ偉大な軍隊を見ることができねばならないのです。エゼキエルは骨にむかっていのちを預言し、骨がいのちを得て軍隊になるまで預言し続けたのです。宗教の霊を持つ偽りの預言者は、骨にむかって「お前たちはどれほど乾涸びているか」を告げ、彼らを罪に定め絶望させるだけであり、彼らにいのちを与えるとか、今の状況から抜け出す力を与えたりはしないのです。

 

使徒と預言者は、「建て上げ、また崩す権威」を与えられています。しかし、まず建て上げることをしないならば、崩す権利はないのです。霊的に人々を養い、建て上げてきた人以外には、私たちに責任のある人たちを正す権威を与えてはなりません。「預言者」と言われている人であっても、人々を建て上げる心を持たないならば、その人はミニストリーから取り除かれるべきだと私は思います。

 

しかしながら、エリの悲惨な例に見るように、羊を養い世話はしても彼らの間違いを正さないならば、その牧者はわざわいです。真の神の恵みは、「人のあら探しをする不義」と「(神が罪と定めたものを承認してしまう)聖ではないあわれみ」という両極端の中間にあるのです。この両極端のどちらもが、宗教の霊の結果である可能性があるのです。(続く)


24 03月

宗教の霊に打ち勝つ - その3 – リック・ジョイナー      2013年3月24日


宗教の霊に打ち勝つ - その3

リック・ジョイナー

 

宗教の霊が用いるプライドという土台

宗教の霊が偽装する姿の中で最も偽り深く破壊的なものの一つに理想主義があります。理想主義は ヒューマニズムのとる一つの形であり、人間に端を発しているものです。一見それは、最高の水準を求め神の栄光を追求しているように見えます。しかし理想主義は恐らく、真の啓示と真の恵みに対して最大の毒をもつ敵なのです。それは、人々が神の恵みと知恵の中へと成長することを阻み、神の栄光を追い求めつつもまだそこまで到達していない人々が立っている土台を攻撃し破壊してしまうからです。

 

私たちが理想主義を掲げるならば、神が人に求めているもの、又それを達成するためにその時点で与えておられる恵み以上の水準を、その人に対して押しつけてしまうのです。 このような宗教の霊に支配されている人は、例えば、自分と同じように一日に2時間祈らない人を断罪してしまう可能性があります。人がそのくらい祈るのは神の御こころかもしれませんが、どのようにしてそこまでに達するかが、実は一番重要なのです。神の恵みは まず一日に10分祈るように私たちを招かれるかもしれません。やがて私たちはそれによって主の臨在で大いに祝福され、更にもっと主と共に時を過ごしたいと思うようになり、10分、そして1時間が過ぎても祈りを止めたくなるのです。そしてついに2時間祈るようになったとき、それは私たちが祈りを愛し主の臨在を愛するからであり、恐れとプライドからではないのです。

 

理想主義に根ざした宗教の霊を持つ人は、通常、「完全な教会」を探します。そしてそれ以下の教会に参加することを拒みます。他方、聖霊に導かれる人も又、教会に対しては高い望みを持つかもしれませんが、どのように小さな仕事にも自分を捧げ、その奉仕によってその教会のヴィジョンと成熟度が増すように助けようとします。聖霊は「助け主 helper (ヨハネ14:26)」と呼ばれます。聖霊によって真に導かれる人は、ただ高い所から教会を批判するのではなく、 自分が手伝えることはないかと常に探します。

 

宗教の霊がプライドを土台としている場合、それは完全主義によってはっきり証明されます。完全主義はすべての事柄を黒か白かに区別したいのです。ついには、すべてのもの(人、教え等々)は、100%正しいか100%間違っているという極端な判断をするようになります。もしそのような基準を人々や或いは自分自身に課するならば、私たちは重大な惑わしに落ち込むことになります。

 

宗教の霊を持つ者は、非常に正確に或る事に関しての問題点を指摘することが出来ますが、それはすべて建て上げられたものを崩すだけのものであり、 殆どの場合問題に対する解決策はもってはいません。すでに存在するものの進歩を止め、将来の発展を阻む失望落胆の種を蒔くのが、敵の策略です。これは「もし山頂まで登れないのなら、最初から登らない方がよいのだ。ただ自分に死ねばよいのだ」というメンタリティーに人々を陥らせるのです。しかしこの「死」は神が求めておられる「日々自分の十字架を負う」というものではなく、それを曲解し歪められたものなのです。

 

完全主義者は、自分にも他者にも、真の成熟と成長の息の根を止めてしまうような基準を課すのです。真の神の恵みは、山頂まで私たちを一歩一歩導いてくれるものです。神は私たちが登っていくとき、何回かつまずいたからといって 私たちを断罪されたりはしません。神は恵み深く、憐れみ深く、私たちを立ち上がらせてくださり、私たちが又進んでいけるように励ましてくださるのです。私たちは勿論頂上まで行き着くというヴィジョンを持たねばなりませんが、それと同時に、登り続けている限り、まだ頂上に達していないことで自分を断罪するべきではありません

 

ヤコブは「私たちはみな、多くの点で失敗するものです。(ヤコブ3:2)」と言っています。 主のために働くためには私たちは完全になるまで待たねばならないとしたら、誰一人としてミニストリーをする資格のできる者はいないでしょう完全なる従順と悟りを常に私たちの目標とするべきではありますが、それは決して私たちのうちに見つけられるものではなく、「完全なるお方」の中に私たちが完全にとどまることによってのみ可能なのです。

 

私たちは今「ぼんやり映るもの(第一コリント13:12)」や部分的にしか物事を見ていないのですが、信仰や教えに関して更に正確に知ることに対しては常に心を開いていなければなりません。すべての惑わしの中で最も大いなる惑わしの一つは、「自分はすでに理解において完璧である」とか「自分は物の考え方、認識、行動において100%正しい」と思ってしまうことです。宗教の霊を持つ人は、通常、「自分は更なる理解に対してオープンである」と言い張るのですが、殆どの場合、それは彼らの教えに対して人々をオープンにするためであり、自分は他の考えに対して頑に心を閉ざしたままでいるのです。

 

主の弟子養成のスタイルは、「私に従う者はしばしば間違いを犯すが、その間違いから学ぶ機会を私は与える」というもののようです。もし自分の子供がまだ小さいのに完全に成熟することを要求するとすれば、その子が成長する道を阻み窒息させてしまいます。教会においても同じなのです。私たちは確かに間違いは正さねばなりませんが(それによって学ぶのですから)、その方法はその人を励まし自由を与えるような矯正でなければならず、罪に定めてその人の芽を摘んでしまうようなものであってはなりません。

 

恐れとプライド

宗教の霊が、恐れとプライドの両方を土台として働くときは、最もパワフルで人を大きく惑わす霊となります。このような宗教の霊に縛られている者は、失敗をした時は深く落ち込み後悔の時を過ごしますが、これは偽りの悔い改めでしかなく、更なる自己卑下という結果を生み、自分は主に受け入れられるためにもっと生け贄を捧げねばならないと思い込むのです。又彼らは、往々にして、次にはその逆の反応を示し、自分が他のクリスチャンよりも優れていると信じ込み、他の意見、教えを受け入れなくなります。又、人からの勧告も聞くことができなくなります。彼らの意見、立場のよりどころは、真の信念からというよりは外からのプレッシャーによります。

 

この種の宗教の霊は非常に巧妙で捉えにくく、それに対処、言及、対決しようとするあらゆる試みからすりぬけてしまいます。プライドに対して言及すると、恐れ、不安の念がその人のうちに起り、同情をひこうとしてきます。恐れに対して言及すると、信仰のふりをした宗教のプライドが頭をもたげます。

 

偽の「霊の見分けの賜物」

宗教の霊は通常、偽の「霊の見分けの賜物」を人に与えます。この偽の賜物は、ある人に対する神の御こころを知りその人を助ける道を与えるのではなく、その人の悪いところを見つけて喜びそれによって力を得るのです。これこそまさに宗教の霊が教会に最大の打撃を与える方法の一つなのです。宗教の霊によるミニストリーは、癒しや和解ではなく、分裂やダメージを教会に与えるのです。宗教の霊の知恵は善悪を知る木に根ざすものであり、その言うところは真理かもしれませんが、それは人を殺す霊をもって人に作用するのです。

 

この偽の「霊の見分けの賜物」は、疑いと恐れを原動力とします。 疑いは自分は拒否されたという思い、自分の縄張りを守りたい思い、不安感、自信のなさ等に根ざしています。真の見分けの賜物は、愛によってのみ機能するのであり、愛以外のすべての動機は、霊の見分けを歪めてしまいます。誰かがある人、又はあるグループに対して裁きや批判をする場合は、いつでも私たちは(その人が裁いている相手に対して愛し仕えていたことを知っている時は別として)その言葉を無視せねばなりません。(続く)


10 03月

ボブ・ジョーンズ師に聞く (聞き手: リック・ジョイナー師、ポール・キース・デイビス師)       2013年3月10日


ボブ・ジョーンズ師に聞く

(聞き手: リック・ジョイナー師、ポール・キース・デイビス師)

 

以下はこの2月23日に、モーニングスターで行なわれた預言的パネル・デスカッションでジョーンズ師が最初に語ったメッセージをまとめてお伝えするものです。尚、この後1時間ほど三師によるデスカッションが続きますが今回は省略します。

 

ボブ・ジョーンズ師:モーニングスター・ミニストリーが到達すべき場所まで導かれると、次にはモーニングスター・ミニストリーは、神が用いようとしておられる多くの教会を到達すべき場所へと導き始めます。その「場所」とは何でしょうか。愛です。あなたがミニストリーをする時にあなたの中に必要なもの、それがあなたのところへ来るのです。それは愛です。多くの異なるグループの人が集まっている皆さん、それは丁度軍隊のようですが、その人たちである皆さんのひとり一人の意識と霊を愛が支配し始めると、次のようなことが起こり始めます。今までですと、ミニストリーが必要な人があなたの前に現れても、その人のところに行って祈ることにしりごみしていたもの―自分を必要以上に卑下することは最も悪いことです―が、もしあなたがその人に対して愛を持つなら、その人にミニストリー出来るようになるのです。それはあなたが「主の愛のからだ」になるからです。愛があなたの内に成熟する時にはあなたの良心はきれいでなければなりません。

 

次に愛によってなされる業は何ですか。信仰です。信仰が何をするのでしょうか。イエスは自分からは何もなされませんでした。彼自身は何のしるしや奇跡も行ないませんでした。彼は常にご自分のパパを呼び出す信仰を持っておられたのです。つまり、イエスは愛を持ち、信仰を持っておりました。その信仰で父の心の思い(父がなさりたいこと)が分かるのです。同じようにあなたが愛と信仰を持っていれば、誰かのために祈る時に、パパを呼んで、パパがその人に対して何をしようとしているのか、その思いを下さるのを待てばよいのです。パパはあなたのパートナーです。天のパパほどよいパートナーがいるでしょうか。あなたが地上でパパの声になる、これこそパパが地上のパートナーとしてのあなたに望んでいることです。あなたがパパのパートナーとして、地上でしるしと奇跡を起こすことが天の父に栄誉をもたらすのです。その意味ではあなたはイエスと同じ立場にいます。しかもイエスが持っておられたのと全く同じ特質をあなた自身も自分の内に持っているのです。

 

そのあなたの内にあるイエスと同じ特質があらわれるために、あなたはあなたの「古い人」を超越しなければなりません。しかし私は言います。これから非常に多くの人が古い自分を超えるのを私は見るでしょう。

あなたが誰かを愛している時、あなたは勇気を持ってその人のために祈るでしょう。そのような時に、誰も天の父があなたにどうすべきかを伝えることがあなたには分っていないとは思わないでしょう。

それで私は前回死んだ人を生き返らせた時のことを思い出しました。私は友人と一緒にあるレストランにいて鶏料理を楽しんでいました。すると突然、近くに坐っていたひとりのご婦人が床に崩れ落ちました。人々が集まり彼女を抱き上げましたが、彼女は息をしなくなっていると言うのが聞こえました。私はただ坐って見ていました。すると、私の中で声が聞こえて来ました。その声は「あなたはそこにただ坐っているだけで何もしないのですか?」そのような時に遭遇するほとんどの人が私と同じことをすると思います。そこで私は立ち上がってそのご婦人の席に近づき「私はミニスターです。」と言いました。その一声でそこに集まった人たちはさあっと私のために道を空けてくれました。そこには三人の娘さんが集まっており、倒れたお母さんの誕生日のお祝いをしていたと言いました。

そこで私の頭には何も思いが来ませんでしたので、主に聞きました。「私はどうしたらよいのか(頭に指を差して)ここでは分りません。でもあなたが私をここに連れて来られたに違いありません。そうでなければ私に語りかけることをなさらなかったでしょうから。そこで私はどうしたらよいのでしょうか?」と。そして(主は何もおっしゃらないので)私は異言で祈り始めました。周りの人は皆私のしていることに注目していました。私は、主は目的があって私をここに呼ばれたのだと考えながら祈り続けました。そして5分ぐらい祈ったと思ったのですが、実際は少なくとも25分は祈ったはずです。と言うのは、その町の反対側にある場所(教会?)から誰かが駆けつけて来て、急病人の世話を私から引き継いでくれたのですが、その場所からレストランまで来るのに少なくとも車で20分は掛かるからです。私はそこを立ち去る時に死んだご婦人の頬に血の気のバラ色が戻って来たのを見ました。彼女は生き返りました。後で分かったことは、彼女を救急車で病院に運んで、彼女の持病である心臓発作が起ったことが分りましたが、(精密検査の結果)彼女の心臓の問題はすっかり無くなっていることが判明しました。

 

そこで、私はその婦人に起こったことと何の関係があるのでしょうか。私はただ立ち上がってその人のところに行き祈っただけです。どう祈ればよいか理解して祈ったでしょうか。ノーです。私は霊で祈り、彼女は生き返ったのです。二週間後に私は彼女と会いその後の様子を聞きましたが、全く問題ありませんでした。レストランにいた人たちは彼女に何が起こったかを目撃しました。私たちは彼女を全く知りませんでした。私がしたことはただ祈っただけです。しかしそこに残った人たちは、自分たちの今までのやり方を変えねばならない。そのために新しい教会を起こそう、と話していたそうです。私が知っているのはそれだけです。

 

お分かりになられたと思いますが、私たちがしなければならないことは、必要を持つ人に対して私たちが先ず充分な愛を持つことであると思います。それは誰にでも言えることで、誰もがいつかはそのような機会にぶつかるはずです。あなたの充分な愛が主に伝わり、父の心の思いをあなたが聞くことが出来ます。私はそのようなミニストリーをする時が来たと信じます。既にそれが分かった他の教会もいると思いますが、このモーニングスターのグループがこのことを取り上げて開花する時が来ていると思います。なぜなら、最近夢で見たのですが、しるしや奇跡を起こすのは私ではなく、あなたがたであったからです。あなたがたが愛で充たされて行動する時に、それから信仰が出て父の心を聞きます。その時、父の心とあなたの心の間に合意が出来る、それによって過半数が成立します。私が言わんとしていることは、祈って、聖霊が父の心の思いをあなたに語って下さるのを待つ。それからその父の思いを実行する。――私は、それがこのモーニングスターで起り始めると思います。私は子どもが癒しのミニストリーで用いられるのを見て来ました。父の心を知って実行する限り、ベイビーでも父の心は分り、立派に癒しを行うことが出来ます。

 

私は思うのですが、私たちがしなければならないことは、イエスを愛することです。私たちが主イエスを愛すれば、父は子であるイエスを心から承認しているのですから、もし私たちが本当に主を愛していれば、父はあなたを心から承認して下さるはずです。そうであれば父は、あなたに必要な「知識のことば」とか必要なものを何でも与えて下さるのです。今はそれが起ろうとしています。私は、モーニングスターでこの三月のいつかからそのようなミニストリーが始まると予期しています。もう既に始めている教会/ミニストリーもあると思いますが、実際にこれが開始されたのは昨年の秋遅くからであったと思います。

私たちがその場所に到達して、今はそのようなミニストリーをすることのコミットメントをする時です。主はその時期が今年の初めに起ると言われました。ですから、あなたが今年成熟したいと思うことについて祈って下さい。又今年あなたがどんなことで用いられたいかを祈って下さい。その上で、あなたがそのあなたの願いを変えないことを主にコミットするのです。そして、あなたがコミットしたことに対してこれから一年間ずっと父を求め続けて下さい。

 

次に、あなたの一生で、あなたが父にしていただきたいことを祈って下さい。あなたが主によって生かされているあなたの人生の目的をあなたに示して下さるように祈って下さい。そして主からその答えを聞いたら、あなたはどんなことがあってもあなたのコミットしたことを守って下さい。あなたが守れば、主はあなたにコミットしたことを守られます。その主が守られるコミットメントはあなたに対してだけでなく、あなたの子どもたち、あなたの孫たち、曾孫たち、又その子どもたちに対してまでも守られます。

ですから、あなたが今ここでなさねばならないことは、信仰における「打ち破りbreak through」です。その打ち破りは、父があなたの人生を所有してどのように用いるかを示す啓示revelationとして示されます。あなたはそれを今年聞くことが出来ます。もしあなたが愛を持つなら、信仰が来て、その信仰によって、父があなたの人生に対して持つておられるご計画を啓示されます。それはあなただけではなく、あなたの子どもたち、その子どもの子どもたちの人生に対するご計画も明らかにされるのです。

 

これから、この地球にものすごい揺り動かしが来ます。しかしあなたの子どもたち、その子どもたち、又その子どもたちは生き永らえます。その揺り動かしを通り抜けるのです。と言うことは、あなたが今していることは、これから出て来る次の世代に(神の子どもとしての)模範と信望prestigeを残すことです。これからの試練の時代は、ほとんどの人が考える以上に長く続くと思います。しかしあなたの子孫は(守られて)それを通り抜けます。あなたが率先して通り抜けるのです。それはあなたがた(家族)だけでなく、他の人とも一緒に通り抜けるのです。

 

これが本日、主が私に話されたことです。人々に伝えて下さい。私たちが先ず、内に充分な愛を持つ。それが信仰を呼び、その信仰によって、父が私たちの人生を用いてご計画を進めるために必要な啓示を私たちに下さいます。(終り)


06 03月

宗教の霊に打ち勝つ ― その2          リック・ジョイナー           2013年3月6日


宗教の霊に打ち勝つ ― その2

 

リック・ジョイナー

 

大いなる惑わし

 

宗教の霊の惑わしの性質の中の最たるものの一つは、それが人々の神への熱心さを土台にして働くということです。私たちは「神への熱心さが悪いことなどあり得ない」と考えがちです。しかし、「私たちの神への熱心さは何が理由か」ということが実は問題なのです。

 

パウロはローマ10:2で「私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。」と言っています。パリサイ人ほど熱心に祈り、断食し、神に関することに熱心であった人たちは世界中探しても他にはいませんでした。しかし、神に対して、またメシアなるイエスが来られた時に、彼らほど激しく攻撃した者もいなかったのです。

タルソの若者サウロが神の教会を迫害していた時、彼は神への熱心さに突き動かされていました。 本当に熱心な者を止めるのは難しいものです。そのような者に対する敵の策略は、彼らが熱心さのあまり行き過ぎるようにさせることです。敵の策略の第一ステップは、彼らが自分の熱心さを誇るようにしむけることです。私たちに与えられた賜物や特質がいかにすばらしいものであっても、敵にそそのかされてそれを誇るならば、私たちは敵の手に落ち賜物を悪用するようになるのです。

 

主が地上におられた時、 主にとって悪霊は全く問題ではありませんでした。悪霊がイエスに出会うとすぐさま主の権威を認め、憐れみを乞うたのです。驚くべきことに主の最大の敵となったのは、熱心で保守的な宗教家たちのグループでした。神の御ことばに最も熱心であった者たちが、御ことばなるお方が肉体となって彼らの間に住まわれた時、御ことばを十字架につけたのです。今もそれと同じことが起こっています。

 

すべてのカルトや偽りの宗教を全部合わせたとしても、今までに教会内に侵入した宗教の霊ほどには神の働きに対して攻撃をしたり阻んだりはしませんでした。カルトや偽りの宗教は容易に識別が出来ます。しかし宗教の霊は、 今までに起こった恐らくすべてのリバイバルやムーブメントを邪魔したりその道を曲げて来ました。そして今も殆どの教会の中で大きな顔をして居座っているのです。

 

宗教の霊が足がかりとする土台

 

他の多くの敵の要塞と同じように、宗教の霊は基本的に二つの土台の上にその働きを建て上げます。即ち「恐れ」と「プライド」という土台です。私たちがイエスの十字架を通して神に承認され受け入れられるという道ではなく、主に承認されるために自分が働くようにと宗教の霊はクリスチャンをしむけるのです。ですから宗教の霊は私たちと神との関係を、キリストの十字架による生け贄によるのではなく、自分の努力によって築かせようとします。このように私たちを駆り立てる動機は、恐れ又はプライド、あるいは両者が合わさったものです。

恐れとプライドは、人類が罪に堕ちたことよって起こった二つの根本的結果であり、それから解放されるためには通常長いプロセスを要します。主がイザベルにさえ「悔い改める時(黙示録2:20−21)」を与えたのはそれが理由です。聖書の中のイザベル(アハブ王の妻)は非常に宗教熱心な女性でしたが、それは偽りの宗教でした。 彼女が悔い改めるための時を主が与えたのは、この霊の根が非常に深いからであり、完全に悔い改め解放されるには時間がかかるからでした。

 

しかしながら、主はイザベルに時間を与えはしましたが、テアテラの教会に対して、彼女をなすがままにさせていることを(20節)叱責しておられます。私たちが宗教の霊を持つ人たちに対して忍耐することはよいのですが、彼らが悔い改めをするのを待つ間、 彼らが私たちの中で働くのを放っておいてはいけないのです! もし、この霊に対して早急に対処することを怠るならば、それは他のどんな攻撃よりも、教会に、私たちのミニストリーに、家族に、又私たちの人生にダメージを与える可能性があるのです。

 

罪責感という土台

 

サムエルを育てた祭司エリは、罪責感を土台とした宗教の霊で神に仕えた人のよい例です。彼の主に対する熱心さは非常に激しかったので、契約の箱がペリシテ人によって奪われたことを知らされた時、ショックで倒れ息絶えたのでした。彼は一生の間、大祭司として主に仕えようと努力した人でした。サムエルが初めて預言を与えられた時、その預言は聖書の中で最も恐ろしいものの一つであり、しかもそれはエリに対するものでした。(1サムエル3:13−14)エリの主への熱心さは、彼が父親として無責任であったことの代償として生け贄や捧げものをするという形であらわれていました。罪責感は主への熱心さに拍車をかける作用をし、生け贄や捧げものは自分の失敗や罪を贖うためのものとなります。イエスの十字架のみが私たちの罪を贖うことができるのですから、これは十字架に対する侮辱です。このような熱心さは、たとえ 生け贄を永遠に捧げ続けたとしても、決して主に受け入れられるものではありません。

 

主はここで「エリの罪は赦されることはない」とは決して言っておられないことに私たちは注目せねばなりません。主はただエリが生け贄や捧げものをすることによって自分の罪を贖おうとする試みは絶対に成功することはない、と言われたのです。エリと同じように、 自分の罪や失敗、無責任な行動等を償おうと

することを土台とした主への熱心さをもつ多くの人々がいます。しかしながら、世界中すべての生け贄をもってしても、ほんの小さな失敗さえも贖うことはできません。

 

自分の生け贄によって神に受け入れられようとする試みは、宗教の霊にむかって大きく扉を開くことになります。なぜならばこのような奉仕はイエスの血潮を土台としておらず、自分で罪の贖いをしようとするからです。もちろんこれは私たちが主を喜ばせるために働いてはいけないという意味ではありません。しかし、主を喜ばせたいという私たちの動機は、それによって自分が受け入れられるためであってはならないのです。主が喜んでくださることだけを目的とすべきです。一方は神を中心とした動機であり、他方は自分を中心としています。これは十字架を回避しようとするものであり、自分中心の非常に破壊的行為です。(続く)