WWGM

Walk With God Ministries


30 05月

(続)クリスチャンよ、アメリカを取り返せ    坂  達 也     2016年5月30日


(続)クリスチャンよ、アメリカを取り返せ

 

                 坂  達 也

 

 先回の私のメッセージは、現実の世界で「神の御国のクリスチャンがどのように政治に参与すべか」という事に関わった問題を提起していますので、今回はその点を少し掘り下げてみたいと思います。尚、未だ先回のメッセージをお読みいただいていない方はぜひそれから先にお読みいただくことをお薦めします。

 

先ず言えることは、フランクリン・グラハム師もリック・ジョイナー師どちらも今はクリスチャンが積極的に国の政治に参加すべきであることを提唱していることです。しかし現実にグラハム師は保守派クリスチャン寄りの共和党を昨年脱党して政党には無所属であり、一方ジョイナー師は共和党に残って彼なりの政治活動を続けているという違いがあります。

クリスチャンが積極的に政治に参加する際の最大の問題は、この世の政治の世界とは、人間同士が犯す罪・過失の泥沼の中で「真実」と「うそ」をあばき合い、反対党とか違った意見を持つ人を公然と批判することが避けられない、いやむしろ、泥にまみれて「論争することが政治である」とさえ言えます。とすれば「さばいてはいけない」という聖書の教えだけを大前提としたいクリスチャンには全く不向きであるといえるかも知れません。

 

 そのよい例として、私は昨日の朝ジョイナー師のフェイスブックで見たことをお分かちします。それは常々民主党のクリントン候補を厳しく批判する判事ジェニン Judge Jeanine Pirro の名で知られるフォックス・ニュースの解説者のライブビデオを師が一昨夜紹介したのです。このビデオはクリントン氏が過去どれほど嘘をついて来たかをあばいたもので、それを紹介したジョイナー師もその意見に(それが真実であることを)同意するからこそ紹介して載せたものであると当然受け取られます。その結果、このビデオに対して読者からあっという間に三百人以上の読者から反響があり、中にはこのビデオを紹介したジョイナー師自身のスタンスを「人をさばくもの」であるという理由で批判・誹謗する投書が載っていました。もっともその後に別な人がその誹謗した投書者に対して「そういうあなたもジョイナー師さばいているのではないか」という投書も載っておりました。

選挙というものは、立候補者のやって来たことと、言っていることが「嘘か真実か」を問うこと、それを判断材料として「人を選ぶ」のですから、ある意味では「人をさばく」ために行われると言えます。従ってその材料を正しく識別・判断してアドバイスすることは絶対に必要です。そして多くの場合、人を批判する意見を言わざるを得ないことはやむを得ません。特にジョイナー師の場合は、牧師として選挙毎に「誰に投票すべきか」の意見を直接の教会員だけでなく全米のクリスチャンから問われ、又「神の声が聞ける」預言者としての意見を聞いて来る人が世界中におりますので、師はフェイスブックを通じてそれに対応し始めたようです。

 しかし、そんなフェイスブックなどクリスチャンは見るべきでない、あるいは答えるべきではないと多くの人は思うでしょう。しかし本当にそれが正しいのでしょうか。クリスチャンが政治に参加すべきであるなら、人々を正しい判断に導くように適切で正しい「善悪の判断」「神の知恵」と「霊的識別」を示して、むしろ積極的に国民を指導することが、御国の政治に参加することではないでしょうか。そういうことはしない、避ける、クリスチャンは聖書研究だけしていればよいと言うことになれば、主が厳しく批判したパリサイ人ー外側だけ聖い、頭だけの観念的クリスチャンになりかねないと私は思います。世捨て人になってはいけないのです。

 そこで私は一つジョイナー師を弁護したいと思います。それは彼はどんなに候補者を批判しても、必ずその人のために祈らねばならないことを強調します。特に過去7年間のオバマ大統領の言動には非常に厳しいですし、同じようにクリントン候補にもそうです。しかし、それだけに「クリスチャンはこの二人のために祈らねばならない」ということを忘れずに言って来た方です。私はその点ジョイナー師はポジテイブな「批判者」であると信じます。

グラハム師は、トランプ氏に批判的でテッド・クルーズ氏を推しました。ジョイナー師はトランプ氏、クルーズ氏両方を推し、やがてトランプ氏が両党から非難と攻撃の的になると、トランプ氏のよさを挙げて彼をサポートし、彼だけが最終候補者として残る事態となったとき、クルーズ氏が副大統領になることを歓迎すると言いました。

 

 そこで最後に申し上げます。私がアメリカに移住して以来、最も感激することの一つは、アメリカの大統領の就任式を見る時です。それは特に就任の宣誓で、片手をバイブルを手に置き、もう片方の手を挙げて宣誓する大統領が、天に誓う姿を見て感動しました。この習慣は今でも続いており、オバマ大統領でもそうしましたし、オバマ氏が選挙前に聖書を小脇に持って夫婦でクリスチャン教会に行く姿をメデヤに写真を撮らせたのも憶えております。しかしそのアメリカが今や、学校とか軍人がバイブルスタデイーをしたり、主の祈りを祈ることすら禁じられる国に成り下がったのです。国と国民のモラルが今や完全に荒廃していることに心から悲しみを憶えます。ついては、いつか日本にも立派なクリスチャンの首相が選出されることを心からお祈り致します。(終り)


27 05月

クリスチャンよ、アメリカを取り返せ         坂  達 也   2016年5月27日


クリスチャンよ、アメリカを取り返せ

 

               坂  達 也

 

 フランクリン・グラハム師がこの4月27日にアメリカのクリスチャンに向けて一つの重大なメッセージを発表しました。そのメッセージは、彼自身がそうであるように誠に率直なメッセージです。それは「クリスチャンが今こそアメリカを取り戻せ。今こそ国の政治に積極的に参加する時が来た!」というものです。

彼は今 Decision America 2016 tour というツアーを組んで全米50州を行脚しております。すべての州で祈りのラリー集会を開き、アメリカのリーダーたちが聖書の信条によって生きることを訴えているのです。

彼は「我々は今アメリカの歴史で最も大きな危機に面している。それは南北戦争、一次、二次世界大戦以上の危機です。それは人間の内面モラルにおける戦いです。もしクリスチャンが今立ち上がらなければ、私たちは手遅れになり大敗に至ります。」と悲痛な訴えを叫んでいます。

 彼は記者の質問に答えて「このツアーは我々の最初の予想『五百人も集まればよい』を超えて、今のところ最低で千五百人、最高で一万人が集まっています。ニューハンプシャー州の集会では、気温マイナス5度C、30マイル/時の寒風が吹きさらす場所で民衆が一時間以上も立ったまま真剣に私のメッセージを聞いてくれました。」と言っています。

 

「私は必ずしもトランプ候補を応援しているのではないが、彼の集会に集まる人は皆、今のアメリカに大きな不満と怒りを持って集まっている人たちであることが明らかです。党派を超えて民衆は立ち上がっているのです。ワシントンは完全に壊されている。政治家は選挙前は何とでも約束するが、選ばれたら何もしない。だから民衆は今回の選挙で怒りに燃え上がり、今回の選挙で何とかしなければ、アメリカの国はこれで終りを迎えると民衆は憂いてこのラリーに集まって来ているのです。彼らはアメリカに残された唯一の望みは神である、もはや神にしか望みはないと感じ始めています。私たちの集会では、集まった民衆皆でアメリカの罪への悔い改めと赦しを請い、私が招きをすると何百の人がキリストにのみ従うと誓い、救われています。そのような人たちに、これから政治に参加することを私は真剣に呼び掛けていて彼らは立ち上がっています。」

 

私は彼がこの声明文を発表する以前の三月頃でしたでしょうか、或る夜、たまたま彼が Fox News 社(共和党よりのクリスチャン保守派のテレビ局)を訪れ、ニュース・キャスターの一人に次のように語ったのを聞いていました。

「私は昨年共和党員を脱会しました。なぜなら、共和党は二年前に、長い間の念願であった上下両院で民主党を押さえて過半数に達したにもかかわらず、クリスチャン保守派が希望する法案を何一つ達成することが出来ない情けない党に成り下がったからです。勿論民主党はそれ以上に悪い。こうなったら、私はどの党にも所属せず、今こそ神に頼るしかない時が来たことを、国民の皆さんに訴えるために今夜訪ねて来ました。」と。

 

 そこで皆さん、このグラハム師以外にも、同じ志で立ち上がったクリスチャンがいることをお知らせしたいと思います。それはリック・ジョイナー師です。

 

私は元来ツイッターとかフェイスブックをしないのですが、家内に勧められ最近リック・ジョイナー師個人のフェイスブックを見るようになりました。知らなかったのですが、彼のフェイスブックを見ている人は何千何万人といるそうです。本当に今の時代は電子情報の時代ですね。下手に本とか集会で話すよりも、僅か数行でもいい、軽便なフェイスブックとかツイッターに書くメッセージの方が遥かに大きく早く世界に伝達し大変な影響力を持つことを知って驚いております。

 

リック・ジョイナー師はほとんど毎日のように、しかも多いときは一日に数回もフェイスブックにメッセージを載せています。私が読み始めたのは彼がトランプ大統領候補を積極的にサポートしている記事が目立つようになってからです。

彼はご存知のようにモーニングスター・ミニストリーという大きなミニストリーを創立し、彼自身が主から豊かに油注がれた使徒であり、又預言者として世界でも有数な「主の御国をこの世にもたらすミニストリー」を築き上げました。彼の著書は数十冊に及び、ビデオ・ライブストリーム等のメデイヤ、DVDとかCD、電子雑誌は、世界中で何百何千万の読者・聴衆を持っていると言われます。ですから、単なる牧師ではなく、むしろ神の御国をこの世に打ち立てるための使徒であると言うべき人です。従って教会活動としてのミニストリー以外に、世界の政治、軍事、文化あらゆる面に関心を持ち、中でもアメリカの政治には昔から深く関わって Oak Initiative というミニストリーを持って政界、クリスチャン議員とか軍人に広く、深く係わり合いながら多大なクリスチャンの影響(御国思想)を与えて来た人です。

 

そのジョイナー師が本日のフェイスブックで次のように書いておりました。

「オバマ大統領は今回のG7の集まりに際して『トランプによって世界のリーダーたちは騒いでいる Rttled 』と言いました。彼はトランプ氏のことを『何を言い出すか、し出すか、全く予想がつかない』という悪い意味で言ったのですが、こと外交政策においてはそのことが最も大きなアドバンテージの一つであるのです。それはちょうど野球のピッチャーが『玉がどこに飛んで来るか皆目わからない』という定評をとる時、そのことが打者に与える影響がどんなにピッチャーにとって有利であるのかと似ています。レーガン大統領は人格者として安定したよい人でしたが、彼の『引き金を引くときは速い』という定評がソビエトとか当時の敵対国との交渉に際しては、より有利な取引の結果を、より速くもたらすことに貢献しました。

現在のアメリカの敵対国は一つとして現在のアメリカのリーダーに対して『ゆらぐ』ことはありません。なぜなら彼らはアメリカのリーダーたちに対し全く敬意を感じていない(畏れ、恐れていない)からです。アメリカの今のリーダーたちはロシヤのプーテインから全く畏れられていないばかりか、三級の国々北朝鮮とかイランからもそう(あなどられているの)です。その点気弱で、他国から敬意を持たれる替わりに、好かれることを望んだカーター大統領も同じでした。今のアメリカのリーダーたちは世界中から力のないナイーブなリーダーシップであると見下げられています。

 

レーガンは世界の国々を騒がせましたが、彼が正式に大統領職に就くと直ぐにアメリカ人の捕虜が釈放され、世界において小さくなっていたアメリカの影響力がたちまち逆転して敬意が払われるようになりました。

今のアメリカは過去になかった程馬鹿にされ辱められるようになった結果、考えられないような悪い条件で条約を結ばされております。(イランとの条約を指す)ですから、今トランプが大統領になる可能性があることで世界に騒がれていることを聞いて私はとても励まされています。」

 

ところで最近そのジョイナー師が、他の五人程の友人と共に、トランプ氏をトランプ・タワーの事務所に訪ねました。トランプ候補はジョイナー師等を暖かく迎え彼らと懇談しました。又、彼の事務所のスタッフからも全員とてもよい印象を受けたとジョイナー師はフェイスブックに書いています。そして、これからも連絡を取り合うことを相互に約束して帰って来たそうです。何を話したのかは書いてありませんでしたが、ジョイナー師があるいは主からのメッセージを伝えた可能性もありますし、それでなくてもトランプ氏はジョイナー師が誰よりも彼をフェイスブック等でサポートしてくれていることを知って感謝の意を表したことは充分に考えられます。下手に莫大な資金をテレビ宣伝に費やすよりも、ジョイナー師は無料で全米の心あるクリスチャンに宣伝してくれているのですからこんな有り難い話しはないと思います。

 

 尚、本日トランプ候補は過半数1237名の投票を獲得したことで、彼が七月の党大会で共和党の指名候補に任命されることはほぼ確実となりました。しかしながら、彼を共和党最終候補として全員が一致賛同するに至っておらず、彼への批判勢力も保守派の人たちの間に根強く残っていますから予断は許しません。アメリカの二大政党による共和国制度が一旦は破壊される可能性もあると思います。

一つ言えることは、トランプ氏は彼の人格に問題があることに間違いはありませんが、私は彼は見掛けより純粋に国を愛する信念と決意をもって行動する、主が主の目的のために用いる可能性を秘めたクリスチャンであると信じます。もし彼はクリスチャンではないと信じる人に申し上げたいことは、たとえクリスチャンにふさわしくない人であっても、主はイスラエルを救うためにペルシャ王クロスを用いたり、主の栄光を表すためにバビロンの王ネブカドネザルを起用したことがあることを忘れてはならないと思います。つまり、今に至った最悪の状態に落ち込んだアメリカを立て直すには一時的にでも神がトランプ氏を用いることは十分あり得るとジョイナー師は考えており、私もトランプ氏が選ばれることに初めから平安があります。どうぞお祈り下さい。(終り)


23 05月

勝利を得る者へ        リック・ジョイナー         2016年5月24日


勝利を得る者へ

 

リック・ジョイナー

 

黙示録2、3章で主が7つの教会にメッセージを送ったときのパターンの一つは、それぞれの教会にいる「勝利を得る者、オーバーカマー(打ち勝ち、克服する者)」に主からの約束を与えることでした。教会のすべての者が「勝利を得る者」ではありませんでしたが、主は究極的にそのような者を召されているのです。ですから私たちも「勝利を得る者」になることを根本のゴールとすべきです

 

「勝利を得る者 オーバーカマー」とはどのような者でしょうか? それは即ちオーバーカム(打ち勝ち、克服する)者です。ですから何か克服するものがなければ私たちはオーバーカマーにはなれません。7つの教会では主がそれぞれの教会に対して叱責しておられる問題を克服した者たちがオーバーカマーであることは確かです。しかし、それだけではありません。その時代の大きな問題を克服した者たちは殆どの場合、すべての事(自分の弱点、不完全さを含め)を克服し勝利する生き方を確立しています。それは小さな問題、大きな問題、それに自分の肉の性質に勝利する生き方です

 

飛行機から地上の川を見ると、くねくねと曲がっていて、終点に辿りつくまでに直線よりも何倍もの距離を流れているのがわかります。それは水はもっとも抵抗の少ない道筋を流れていくからです。多くのクリスチャンの人生はこのようです。彼らは往々にして一番抵抗の少ない道を選んでいくのです。これはオーバーカマーの持つ性質と正反対です。

オーバーカマーとしての心構え、 覚悟は、義の道を歩むためにすべてのクリスチャンが基本的に持つべき態度です。オーバーカマーは、途中で止めてしまったり、障碍を避けて道を逸れたりはしません。彼らは問題に正面から取り組み克服していくのです。

 

これとは逆に、多くのクリスチャンは「すべて順調だったからこれは主からに違いない」という証しをよくします。これは未熟な霊的ベイビーにだけ適応できることです。聖書が語る真理は、「通常、あまりにも簡単に素早く起る事は取るに足りない事である」というものです。

これは私たちが聖書を読むならばわかることですが、聖書を読むクリスチャンは多くはありません。それは困難なことだからです。 希少価値があり入手が困難なものだけが宝物になるのです。神の御ことばの宝は手に入れるのが困難です。それはあたかも主と主の御こころを知る事に真剣でない者たちを締め出すためのフィルターの役目をしているかのようです。

 

主と主の御こころへの基本的な献身がない者は淘汰される時が来ようとしています。「主の御こころを知り、それを実行することを遮るすべての障碍物を私は克服する」という決意によって、この献身は表されます。もし主が私たちに容易な道を与えたかったならば、主は復活された時すぐにサタンを縛られたことでしょう。

すべて邪悪な者たちが生まれたり成長するのを差し止めることもできたでしょう。敵が主の小麦畑に毒麦を蒔くのを止めることもできたでしょう。主がそうしなかったのは、主と共に支配し治めるようにと主が整えておられる者たちに容易な道を与えたくなかったからなのです。

ヨハネに啓示を与え始めるにあたって、主がまず勝利する者、オーバーカマーにむかって語られたのは偶然ではありません。オーバーカマーの心を持つ者だけがその後の啓示を理解できるのです。簡単な抜け道を探し耳をくすぐるようなメッセージだけを聞く者にはこれに続く黙示録の内容を理解することはできないでしょう。

私たちの持つ一番の弱点を、キリストにあって克服するならば、その自分の持つ「最大の弱さ」を自分の「最大の強さ」にすることが出来るのです。聖書の中でそれを証言するのはダビデ王がエブス人に打ち勝った時の話です。エブス人は「めしいや足なえでさえ、あなたを追い出せる。」と言ってあざけりました。(第二サムエル5:6)    しかしダビデは彼らを征服したばかりか、彼らの首都であったエルサレムを自分の首都としました。彼はまたそこを自分の砦とし、シオン(要塞)と名付けられました。即ち、 私たちをあざけっていたものを 克服するならば、私たちはそれを強固な要塞にすることが出来るのです。(終り) ー 注:上記で付けられた下線は訳者によるものです。

 

訳者からの追記       坂 達也

 

 私は最後の時代に生きるクリスチャンに別名を付けるとすれば、それは「勝利を得る者、オーバーカマー」であると信じます。なぜなら最後の時とは、悪魔とこの世に完全に打ち勝ち、とどめを刺す時であるからです。悪魔に完全に打ち勝たれたのは我々の主イエス・キリストであり、私たちクリスチャンは「主(神)に似た者になる」ように造られていることを思い出して下さい。(創世記1:26)

 私はリックジョイナー師が、難解な聖書の最後の書「黙示録」の解説を始められたことに大いに期待し、いよいよこれからが楽しみです。

 

 この黙示録二ー三章で七つの教会=すなわち現在の全教会にあてはめられる=主からのメッセージの重要なポイントは既にジョイナー師が語られましたが、私が付け加えるとすれば、くりかえし出て来る「ことば」ー「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」「だから悔い改めなさい。」です。

 

 そしてこの黙示録には、私たちクリスチャン一人一人が、最後に神のみ前で「さばかれる」ことが書かれていることーこれは注目に値します。それは、クリスチャン一人一人が、神から与えられているデスティニー<それは天にある「数々の書物」「いのちの書」に記されています。(20:12参照)>と実際に生きた私たちの行いが、比べられるのです。このことに就いては次回に触れさせていただきます。


16 05月

豊かな人生の鍵は       ショーン・ボルツ           2016年5月16日


豊かな人生の鍵は

 

ショーン・ボルツ

 

ある時私は妻と話をしていました。彼女は私たちの将来の夢を描いて語っていたのです。 思い切り二人の未来を想像して恐れないで私に心を開き語ってくれていました。彼女は「今、その夢に」生きていました。

でも問題は私が「心そこにあらず」の状態だったことでした。私には大きなミニストリーをしないかという誘いが幾つかあり、私の頭はその事を思い巡らしていたからです。また、現在解決せねばならない色々な問題もあって、それも頭を離れませんでした。

新しいミニストリーの機会を掴むべきだろうか?しかし、そうすれば今より頻繁に家を離れることになることが気がかりだし、そうなれば、現在のミニストリーはどうすればよいのか?私たちの始めたばかりのビジネスはどうする?又、家族に関してのあの問題をどうすればよいのか? 経済的に心配はないのか? そしてこの背中の痛みは?」等々。自分の思いはそのように6つ程のことをあれこれと思い巡らしていて、その結果実際今自分がいる妻との時のことに集中出来なかったのです。

すると私の妻のシェリーはそれを感じて「あなた、聞いているの?」と訊きました。これは自分が愛する人から聞く最悪の言葉です。なぜならばその人が安心して話せるスペースをあなたが設けなかったということだからです。それはあなたが「今という時」とつながっていなかった証拠です。

 

イエスは、ヨハネ10:10で「わたしが来たのは、羊がいのち(life 人生)を得、またそれを豊かに持つためです。」とはっきり言われています。

豊かでよりすばらしい人生を送るためには、自分の人生のゴールや一番大切なこと、又自分のアイデンティティーとあなたがしっかり結びついている時にだけやって来ます。そのためには自分の時間とエネルギーを用いる優先順位を決め、あなたがしなければならないことをする中で、一緒に過ごすようにと神から与えられている人と先ず最も多くの時間を過ごすために、時間の境界線をはっきり設けることを学ぶ必要があるのです。

 

非常に裕福で万事がうまくいっているように見える人に会ったことがあります。 「あなたの成功の秘訣はなんですか?」と私は訊きました。きっと 何度も訊かれる質問だと思いましたが、彼の答えのシンプルさに私は驚きました。 彼は「私は人生のシンプルな目標と 優先順位を決め、その目標と人間関係をどんなことがあっても絶対に守りながら生活します。」と言ったのです。

 

マタイ5:8に「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」とありますが、これを「あなたの内なる世界(こころと思い)を正しくするものは幸いです。そうすれば外の世界で神を見るでしょう。」と訳している聖書もあります。

彼のアドバイスは本当にシンプルでしたが、私のように目標に集中できず、良いことだと思うとすぐに引き受けてしまう者にとっては、すばらしいアドバイスでした。

 

彼は優先順位と目標を決める重要性ばかりではなく、それから逸れないように自分を守る重要性も話してくれました。他のいろいろな事をすることは、自分が真に神から召されている仕事を成功させるために必要なエネルギ―を奪うだけでなく、彼が最も時間を共に過ごすべき人との時間をも奪ってしまうと彼は言いました。

 

私は彼のアドバイスを実践し、自分の目標と優先順位を紙に書きました。

1.すべてのことにおいて、妻と子どもが「自分は夫(お父さん)にとって絶対一番の優先順位だ」と感じるようにする。

2. 人々が神から能力を豊かに与えられ成熟するのを助けるような本を書き、そのような教材資料を整えることに私の仕事を集中する。

 

これで私ははっきりした目標を持つことが出来、自分が人生としっかり結びついたと感じ、何をするにもその時の「今」を生きるチャンレンジをもらいました。又、驚くほどすばらしい機会を与えられても、それが自分の真の目標のための貴重な時間やエネルギーを奪うものならば断る力を与えられました。

 

最近それを実践する機会がありました。それは10~12ほどの都市でのカンファレンスで話す誘いでしたが、その内容は今私がメッセージをしたい線ではありませんでした。又、もっと家にいて幼い子どもたちと時間を過ごしたり、自分のメッセージや資料を建て上げるという今の私の優先順位を守るものでもありませんでした。今その仕事を引き受けてリスクを取るだけの価値はありませんでした。いつか私のゴールが変る時がくれば、引き受けることもあるかもしれません。

 

あなたの優先順位や情熱のあることに対して「Yes」と言うために、何かに、また誰かに「No」と言うことができるようになります。一番大切なことに「Yes」というために、何千回も「 No」と言わねばならないかもしれません。

確とした目標、優先順位、アイデンティティーなしには、あなたは自分の人生のリズムをつかむことはできません。

もしあなたが神から召された人生の領域を定めないならば、その人生の「今」を生きることができません。クリスチャンとしてすばらしい人生を送るための力は、人生をただその時その時に合わせて反射的に生きるのではなく、最高の価値を生み出すものを積極的に追求することから生まれるのです。

 

私たちクリスチャンは、人生に翻弄される必要のない者たちです。計画を立てる自由を与えられているばかりか、その計画を天がバックアップしてくれるのです。神が私たちの内に入れてくださったものをいつも意識して守るならば、自分自身や社会と完全に結びついて生活し始めることができます。

その時、家族は第一とする目標が同じなので争う必要がなくなり円満になります。友人たちは自分の持つ高い優先順位を感じて喜びます。ビジネスやミニストリーはあれこれと手を広げることなく、集中して質の高さを求めていくので繁栄します。

 

神は常に「今」を生きておられる being fully present よい(模範の)例です。

神は遍在され、どこにでもおられますが、私たちの「時」と「空間」の中にいることを私たちにギフトとして与えることを選んでくださいました。神は私たちに集中して目を留めてくださいます。それは私たちが神の目標であり、神は天のすべてのものと共にその目標を堅く守っておられるからです。

私たちが神に近づくとき、神も近づいてくださいます。そしてもし私たちが神に集中するならば、神はすでに私たちに集中し注目しておられ、私たちの人生のすべての点ですばらしい関係をもってくださいます。私たちは神の優先順位一番であり、神は私たちとの時間を他のことには用いられません。神が来て下さらないことは決してなく、私たちが黙っているときでも神が何も話されないこともありません。それは私たちが神の優先順位の一番だからです。あなたは人生にしっかりつながっていると感じるように召されています。それはあなたの周りの世界はどうしてあなたがそのように繁栄するか訝しく思うほどです。

 

私たち夫婦は最近小さな結婚セミナーを開きました。彼女が自分の思いを心を開いてオープンに人々に話したとき、私は彼女の考えや夢と完全につながっていました。それが私のプライオリティーだからです。確かにまだ他の6つの事柄が私の注意を引こうと争っていましたが、それらのための私の処理機能のスイッチは切ってあり、妻のためのものだけにスイッチが入っていました。そして、つながっていることの力を私は知ることができたのです。(終り)


09 05月

愛が何よりも大切なもの   リック・ジョイナー           2016年5月9日


 

愛は何よりも大切なもの

 

リック・ジョイナー

 

黙示録2:4、5「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」

 

主はエペソの教会が「初めの愛」を失ったことを叱責しておられます。私たちはクリスチャンとして、同じ過ちを犯さないように一番に気を付けねばなりません。私たちはあまりにも「主のための仕事」に熱中するあまり、本来の召しである主との関係を深めることを忘れてしまうのです。これはすべてのクリスチャンや教会、ムーブメントが必ず遭遇する最大の問題です。当初「初めの愛」は大きな恍惚感を与えるので、私たちがいつも主に夢中になっていることは簡単です。しかし少しずつ主に慣れ親しんでくると、初めの情熱を次第に失っていきます。

 

まず主と「恋に落ちる」情熱を経験し、その後クリスチャンとして成長し主との関係を深めている人も、当初のあのように激しい情熱を持ち続けることは実際可能なのだろうか、と訝しく思うのです。人間同士が互いに惹かれ始めるときには、脳内にエンドルフィンが分泌され激しい情熱を引き起こし、ドラッグのような恍惚感を与えることが科学的にわかっています。

しかし、脳内のエンドルフィンには限りがあるので、数ヶ月のうちに消費されてしまいます。するとドラッグが切れたときのように、私たちはどっと落ち込んでしまい、「ハネムーンは終った」とか、「恋から覚めた」とか思うのです。実際はエンドルフィンが無くなっただけのことであり、二人の関係をもっと深い成熟したものへと移行させていく時なのです。この移行過程を経験した人たちは皆、成熟した愛が当初の愛にまさるものであると言います。

 

「初めの愛」の情熱が無くなることは、人間関係においては事実です。しかしながら、主はエペソの教会が初めの愛を失ったことを叱責されています。主にあって私たちは、初めに持った主への情熱を持ち続けることが実際にできるのです。私たちが主に出会ったとき、即ちボーンアゲインしたとき、エンドルフィンは分泌されなかったかもしれません。しかしそれよりずっとすばらしいもの、即ち聖霊を受けたのです。聖霊によるバプテスマを受ける時の恍惚感はドラッグで感じるものよりはるかにまさっています。

そしてすばらしい事にそれはドラッグで引き起こされるような幻覚ではないのです。私たちは主の無限の力の実体と慈しみに触れ、またそれに触れられるのです。イザヤ9:7で言われているように「その主権は増し加わり、その平和は限りない」のです。

私たちは生ける水の涌き上がる涸れることのない井戸を内に持つであろうと、主は言われました。それはいつか涸れてしまうとか減少するものではなく、私たちの人生の中でますます増えていくものです。

残念ながら殆どのクリスチャンは命の川から離れてしまう時期があると思いますが、そうある必要はなのです。もし離れてしまったときは、そのことを認めて、急いで当初の主への情熱に戻らねばなりません。キリストにあってこの川は決して涸れることはないのです。戻るためには私たちが当初していたことをせねばなりません。即ち聖書を読み、学び、主を知り、主の道を捜し求めるのです。そして人々に主のことを語り、他のクリスチャンとの絆を保つことです。他のクリスチャンとの交わりを保つことは、第一ヨハネ1:7が言っているように、光の中に住む者にとって不可欠なことであり、私たちはそのように召されています。

 

愛は行ないか、感情か?あるいはどちらも

 

初めの愛を持ち続けることは非常に重要であるので、主はエペソの教会に「もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」とまで言われました。それは即ち、もう主の教会ではなくなることを意味しています。ですから私たちは何よりもまずこのことを正さねばなりません。第二コリント13:5でパウロはこのように勧めています。

「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。—あなたがたがそれに不適格であれば別です。」

 

人間としての私たちの第一の仕事は神を愛することです。私たちは幾つかのことに関して自分を吟味し評価するべきですが、先ず一番にするべき最も大切な吟味は、主に対する愛が成長しているかどうかです。私たちが本当に成功した人生を送っているかどうかを決める主要なものはこのポイントです。

人生の道は愛が増し加わっていく道であり、それはまず神への愛から始まります。 私たちの主への情熱が大きくならないと、人々に対する愛も減少していきます。外面的には変らず主のために一生懸命働き偉大な業を成し遂げるかもしれませんが、第一コリント13章が言うように、愛がなければそれは何の値うちもありません。愛が重要であるのです。

 

人間同士の情熱的な愛は、私たちと主との関係のタイプ、或いは型として用いられています。聖書ではこれをひな型とか影(ヘブル8:5参照)と呼び、実物の影のようなものだと言っています。ですから私たちの神への愛は、人に対して抱く愛よりももっと確かな実質のあるものであり得るのです。それではどうすればこのように情熱的で焼き尽くされるような主への愛を抱きつつ、かつ毎日きちんと生活し機能することが出来るのでしょうか?

 

主への熱い情熱を抱いて普通に生活することは、初めは困難でしょう。不可能ではありませんが、難しいです。情熱的な主への熱い愛に捕えられた人たちのことを「あまりにも天国のことだけ考えていて、地上では役に立たない者」と人々は言ったのだと思います。確かにそのような人たちもいたと思いますが、もしそうだとすれば、彼らは人生のよい方を選んだのです。主はマリヤとマルタの両方を愛されたことを忘れてはなりません。「よい方」を持つためにマルタはもっとマリヤのようにならねばなりませんでした。しかしマリヤもマルタから学ぶ必要がありました。(勿論それはマルタの取った態度のことではありません。)私たちはマリヤとマルタのどちらかではなく、両方から学ぶ必要があるのです。

 

ヤコブ2:26に「行ないのない信仰は、死んでいるのです。」とありますが、行ないのない愛が死んでいることも真理です。家に帰ってきた夫が、家の中がメチャクチャで子どもは食事も与えられず世話もされていないのを見たらどう思うでしょうか?

夫が妻に「一体どうしたのか?」と聞くと、妻が「あなた(夫)への愛で一杯でただ座ってあなたのことを考えているだけで何もできなかったのです。」と答えたとしたら、どうでしょうか?

同じように夫が妻を愛するあまりただ座って妻のことを考えていたので、仕事ができず家族を養うことができないとすれば、どうでしょうか?

 

ハイディ・ベイカー師が言うように「愛は何かの形をとる」のです。まことの愛は行動を起こさせます。このことを考えてみてください。愛を命令することができるでしょうか?誰かに私を愛するように命令できるでしょうか? 神は私たちが神を愛するように命じられました。どうすれば出来るのでしょうか?

愛はただ感情だけではありませんが、確かに感情でもあります。妻や夫に「あなたを信仰で愛しています。」と言われてうれしいでしょうか?

 

主にあって私たちが成長するとき、私たちは感情と共に愛の行ないの訓練においても成長するのです。なぜならば愛は感情であると共に行ないでもあるからです。もし神が私たちに「わたしを愛しなさい」と命令されたとすれば、私たちは素直に神に従うことから始めねばなりません。もしそうするならば、感情はそれに伴ってきます。また他の人達は感情から始めて、その後に愛の行ないの訓練を学ばねばならないかもしれません。両方とも私たちの人生で第一に追求すべきことです。

主の愛のうちに歩むことが最高の人生であり、それ以外のすべての情熱やドラッグは偽物です。それよりも他にもっとよいことなどあるでしょうか?主にとっては私たちが何をするかよりも、どのような者になるかの方がより大切なのです。人間として私たちが持つ最高の目的は神を愛することです。私たちがこの目的を成し遂げて召された目的を達成するのはただ愛によってだけです。愛がなくてはすべての事は何の値うちもありません。愛が何よりも大切なのです。(終り)


 Page 1 of 2  1  2 »