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23 5月

勝利を得る者へ        リック・ジョイナー         2016年5月24日


勝利を得る者へ

 

リック・ジョイナー

 

黙示録2、3章で主が7つの教会にメッセージを送ったときのパターンの一つは、それぞれの教会にいる「勝利を得る者、オーバーカマー(打ち勝ち、克服する者)」に主からの約束を与えることでした。教会のすべての者が「勝利を得る者」ではありませんでしたが、主は究極的にそのような者を召されているのです。ですから私たちも「勝利を得る者」になることを根本のゴールとすべきです

 

「勝利を得る者 オーバーカマー」とはどのような者でしょうか? それは即ちオーバーカム(打ち勝ち、克服する)者です。ですから何か克服するものがなければ私たちはオーバーカマーにはなれません。7つの教会では主がそれぞれの教会に対して叱責しておられる問題を克服した者たちがオーバーカマーであることは確かです。しかし、それだけではありません。その時代の大きな問題を克服した者たちは殆どの場合、すべての事(自分の弱点、不完全さを含め)を克服し勝利する生き方を確立しています。それは小さな問題、大きな問題、それに自分の肉の性質に勝利する生き方です

 

飛行機から地上の川を見ると、くねくねと曲がっていて、終点に辿りつくまでに直線よりも何倍もの距離を流れているのがわかります。それは水はもっとも抵抗の少ない道筋を流れていくからです。多くのクリスチャンの人生はこのようです。彼らは往々にして一番抵抗の少ない道を選んでいくのです。これはオーバーカマーの持つ性質と正反対です。

オーバーカマーとしての心構え、 覚悟は、義の道を歩むためにすべてのクリスチャンが基本的に持つべき態度です。オーバーカマーは、途中で止めてしまったり、障碍を避けて道を逸れたりはしません。彼らは問題に正面から取り組み克服していくのです。

 

これとは逆に、多くのクリスチャンは「すべて順調だったからこれは主からに違いない」という証しをよくします。これは未熟な霊的ベイビーにだけ適応できることです。聖書が語る真理は、「通常、あまりにも簡単に素早く起る事は取るに足りない事である」というものです。

これは私たちが聖書を読むならばわかることですが、聖書を読むクリスチャンは多くはありません。それは困難なことだからです。 希少価値があり入手が困難なものだけが宝物になるのです。神の御ことばの宝は手に入れるのが困難です。それはあたかも主と主の御こころを知る事に真剣でない者たちを締め出すためのフィルターの役目をしているかのようです。

 

主と主の御こころへの基本的な献身がない者は淘汰される時が来ようとしています。「主の御こころを知り、それを実行することを遮るすべての障碍物を私は克服する」という決意によって、この献身は表されます。もし主が私たちに容易な道を与えたかったならば、主は復活された時すぐにサタンを縛られたことでしょう。

すべて邪悪な者たちが生まれたり成長するのを差し止めることもできたでしょう。敵が主の小麦畑に毒麦を蒔くのを止めることもできたでしょう。主がそうしなかったのは、主と共に支配し治めるようにと主が整えておられる者たちに容易な道を与えたくなかったからなのです。

ヨハネに啓示を与え始めるにあたって、主がまず勝利する者、オーバーカマーにむかって語られたのは偶然ではありません。オーバーカマーの心を持つ者だけがその後の啓示を理解できるのです。簡単な抜け道を探し耳をくすぐるようなメッセージだけを聞く者にはこれに続く黙示録の内容を理解することはできないでしょう。

私たちの持つ一番の弱点を、キリストにあって克服するならば、その自分の持つ「最大の弱さ」を自分の「最大の強さ」にすることが出来るのです。聖書の中でそれを証言するのはダビデ王がエブス人に打ち勝った時の話です。エブス人は「めしいや足なえでさえ、あなたを追い出せる。」と言ってあざけりました。(第二サムエル5:6)    しかしダビデは彼らを征服したばかりか、彼らの首都であったエルサレムを自分の首都としました。彼はまたそこを自分の砦とし、シオン(要塞)と名付けられました。即ち、 私たちをあざけっていたものを 克服するならば、私たちはそれを強固な要塞にすることが出来るのです。(終り) ー 注:上記で付けられた下線は訳者によるものです。

 

訳者からの追記       坂 達也

 

 私は最後の時代に生きるクリスチャンに別名を付けるとすれば、それは「勝利を得る者、オーバーカマー」であると信じます。なぜなら最後の時とは、悪魔とこの世に完全に打ち勝ち、とどめを刺す時であるからです。悪魔に完全に打ち勝たれたのは我々の主イエス・キリストであり、私たちクリスチャンは「主(神)に似た者になる」ように造られていることを思い出して下さい。(創世記1:26)

 私はリックジョイナー師が、難解な聖書の最後の書「黙示録」の解説を始められたことに大いに期待し、いよいよこれからが楽しみです。

 

 この黙示録二ー三章で七つの教会=すなわち現在の全教会にあてはめられる=主からのメッセージの重要なポイントは既にジョイナー師が語られましたが、私が付け加えるとすれば、くりかえし出て来る「ことば」ー「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」「だから悔い改めなさい。」です。

 

 そしてこの黙示録には、私たちクリスチャン一人一人が、最後に神のみ前で「さばかれる」ことが書かれていることーこれは注目に値します。それは、クリスチャン一人一人が、神から与えられているデスティニー<それは天にある「数々の書物」「いのちの書」に記されています。(20:12参照)>と実際に生きた私たちの行いが、比べられるのです。このことに就いては次回に触れさせていただきます。


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