WWGM

Walk With God Ministries


12 11月

2018年秋の日本訪問を終えて 坂 達也   2018年11月12日


2018年秋の日本訪問を終えて
坂 達也
 
 マタイ24:37ー44「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らは分からなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。・・・だから目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。・・・なぜなら人の子は、思いがけない時にくるのですから。」 
                         
 今世界はまさに、「見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおう」時となりました。そしてそれ程遠くない将来に「あなたの光が来て、あなたの上に輝く」のです。それゆえに、主が教会に「起きよ。光を放て。」といわれる世の終わりが確実に近づいて来ています。
 それは最後の大リバイバルが目前に迫って来ていることを意味し、しかも東西の預言者たちが、いよいよこの二、三年のうちにそれが始まると言うのです。私たちは、その期待と緊迫感を、アメリカだけでなく、日本でも今回強く感じました。そうであれば、今最も必要なことは、自分の教会とか地域にどのようにしてリバイバルを起こそうかと思い計ることではありません。(但しリバイバルへの祈りは大事ですが)なぜなら、主が私たち教会に言い残された言葉は「リバイバルを起こしなさい」ではなく「大宣教命令」であったからです。
 リバイバルを起こすのは主であり、私たちはその火を消すことなく、持続させねばなりません。しかし最も急務なことは、その大リバイバルから生まれてくるベイビー・クリスチャンを、私たち教会ができるだけ短期間に霊的に養育することであると信じるからです。「その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。」と主はマタイ24:19で警告されています。
 そのためには、私たちの周りのクリスチャンを今こそ最大限に弟子訓練し、乳飲み子を霊教育する多くのリーダーを立て上げるのが私たち急務ではないでしょうか。しばらく前に天に召されたボブ・ジョーンズ師は、天への入り口で主から「これから10億のベービーを生まれさせるから、あなたはもう一度この世に帰り準備しなさい。」と言われて、地上に戻って来ました。

 

 最近私たちのWWGMのブログ・メッセージではリック・ジョイナー師とか、ラリー・クライダー師のものを集中して掲載し、「霊的コイノニアの交わり」とかスモール・グループでのミニストリーの重要性を強調して参りました。なぜなら、週一度の礼拝の集まりだけでは「キリストの花嫁訓練とか弟子訓練」は十分にはできないからです。現にイエスご自身は12人の弟子を3年半の間に地上で育て上げましたから、10億の幼児が生まれるなら、そのために少なくとも一億の育ての親が必要です。しかも最後の大リバイバルは10億に止まりません。
 そこで重要なことは、そのスモール・グループでの集まりで養育係の中心となるのは、あくまで主ご自身であることです。このことをグループメンバーは先ず抜本的に認識する必要があります。そして、それぞれ個人が毎日主と直接交わって得たことを、週に一度のグループ会合で分かち合い、それが牧師に伝えられ、全てが一致して聖霊に導かれて主のご計画が実行に移されねばならないのです。
 そのためには基本的に、すべてのメンバーが主の預言的ビジョンと主の御声を聞く訓練をすることが先決であることは言うまでもありません。そして、そのように訓練されてゆくためにはグループごとに少なくとも1人の霊的に成長したリーダーが必要であると思います。
 就きましては、今回私たちが日本各地を回って語らせていただいたことを下記に要約してご報告させていただきます。
終末の教会に必要なノアの信仰
 神を信じるアベルをいきなり殺してしまったカインの子孫はその後どんどん「生めよ増えよ」で人口が増大しました。そして、悪魔の影響が強く作用した結果、その当時の人間の罪があまりにもひどくなり、彼らの心はいつも悪いことだけに傾くようになったと創世記6章に書いてあります。
 そこで神はついに「わたしが創造したひとを地の面から消し去ろう。」と決意しました。そして、当時一人だけ神に従う人間として残しておいたノアに箱舟を造らせた後、ノアとその家族を含めた八人と地上の動物・地をはうもの・鳥類のすべての種類からそれぞれ雄雌一対を箱舟に乗せた神は、地球上に前代未聞の大洪水を起こし、悪を極めた人類を一掃したのです。
 そこで主が8−9節で言われました。ノアは主の心にかなっていた。・・・ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。と。これだけでも充分に彼がどんな人間であったかが窺い知れます。上記で「その時代にあっても」と書かれている意味は、当時、地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた...実に、それは、堕落していた。すべての肉なるもの、地上でその道を乱していたからである。」と言う状態であったのです。そこで神はノアに「人も家畜も空の鳥に至るまでわたしが創造したものを地上から消し去ろう」と言い、ノアに一艘のゴフェルの木から箱舟を造るように指示しました。
 この船の大きさは長さ300キュピト、幅50キュピト、高さ30キュピトと言う三階建ての巨大な木造船でした。(注:但し原語で使われている cubit  と言う単位は元々「人の腕の肘から、手の指のくるぶし間の距離、あるいは中指の先までの距離」と言う曖昧な寸法であって、その実寸の解釈が聖書学者によってまちまちです。ほとんどの聖書で1cubit  =18インチ=46センチで計算していて、それによると箱舟の長さは140M、横幅23M、高さ14Mですが、ある注釈書によれば1cubit  =22インチで計算し、これらの寸法で箱舟の排水容量トンを計算すると最大3万4千トンになると書かれていました。私は少なく見積もっても2ー3万トンにはなると思いました。と言うのは昔、私のアメリカでのビジネスは、アメリカの国有林を入札して買い付け、それを切り出して自らの工場で製材したもの、あるいは丸太のままで、商社が用意する木材専用船に積み込んで日本に運んでいたので分かるのですが、箱舟はおよそ当時の専用船の大きさに匹敵します。)
 従って私はこのノアの箱舟の話を読む度に興奮し胸が躍ります。何故なら、ノアはこの巨大な木造船を造るのに、恐らく巨木の切り倒しから、運搬、それに製材経験も、造船技術に関する何の知識も無く、また必要な工具とか運搬車も無い時代に、神から言われて「やりましょう」と引き受けたのです。これは当時の人間にとっては先ず絶対に不可能な仕事でした。しかし、22節に「ノアは、すべて神が命じられた通りにし、そのように行った。」と書かれています。
 いや、ノアは考えたに違いありません。「人間には不可能でも、相手は全知全能の神がやれと言うのだから、すべて神に聞き、神に一切を教えてもらい、それを忠実に実行すればできる。」そう腹をくくったのです。ーこれこそ、マルコ11:23で、主が言われた「だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ。』と言って、心の中で疑わず、ただ自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」の信仰そのものではないでしょうか。
 ノアは、ひたすら神からの指示だけを頼りに毎日こつこつと造り上げたのです。山から何らかの方法で巨大なゴフェルの木を切り倒して運んで来る。それを製材・造作して建て上げる。寸法に切った木材を組み立て、その隙間にピッチを塗り込んで防水加工をする。一切を神に頼った。彼の仕事を助ける人は自分の家族以外には誰もいませんでした。何故なら彼の周りは、彼と家族を除いて皆、神が滅ぼそうとしているほど罪で堕落した人たちであったからです
 そこで、箱舟を造り上げるのにどの位の時間が掛かったのでしょうか。一般に100年とかそれより短いと言う人もいますが、私が読んだ二、三の注釈書(Bob Utley’s How it all begun Genesis 1-11,  The Teacher’s commentary,   Alfred Edersheim ’s Bible History: Old Testament)  等によれば、1ペテロ3:20、2ペテロ2:5等を引用して、神は120年間、辛抱強く箱船が出来上がるのを待ったと言う解釈をしています。後日ノアの三人の子どもたちが育って父親を助けたとしても、僅か数人でこれだけの仕事量に100年ー120年掛かることはうなずける話です。
 その上ノアは船を造る傍ら、船を造る目的は神の裁きが来るからだ、悔い改めなさいと説教しても(参考2ペテロ2:5)、恐らく誰も聞く耳を持たず、かえってノアを嘲笑するだけであったのです。クリスチャンとしてこれほどの忍耐を要する経験があるでしょうか。 私が驚嘆するのは、ノアは本当に神と毎日親しく会話できたことです。これこそ「WALK   WITH  GOD」で生きるライフ・スタイルの最高の見本と言えないでしょうか。
 当時の人々は、陸の上で巨大な船を造りながら、人々に世の終わりが来ると警告し続けたノアをからかい嘲笑するばかりで、洪水が押し寄せるその日まで分からずに死んで行ったのです。
 このノアの洪水と箱舟の話は決して単なるおとぎ話ではありません。事実その箱舟の遺跡を発見した人がいます。その人とは考古学者のロン・ワイエット氏で、私はヘンリー・グルーバー師に紹介されて、その人がポートランド大学で公演した際に会い、その発掘の話を詳しく聞きました。発見した場所は今のトルコに当るアララト山の高い山の斜面に遺跡が残っていると言います。
 実は、このノアの方舟の話が非常に重要な意味を持っていることは、本書の冒頭で引用したマタイ24:37−44をお読みいただければよくお分かりになるはずです。神はこの世の終わりに、頑なに真の神を拒否し続ける、ノアの時代と同じような不信仰な人間に対して「最後の裁き」の審判を下すことが聖書では明確に預言されています。しかも、最後の裁きは洪水によるのではなく火によるものであると預言され、2ペテロ3:3−13にこう書かれています。
 「終りの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。・・・何事も創造の初めからのままではないか。』こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。・・・・しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。・・・しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」

 

 神の人間創造のプロセスは、六千年経つ今の時点においても決して完成してはいません。神はET US  MAKE  MAN と言いましたが、その質的な創造行為はこの地球のすべての営みが終わる日まで続きます。何故なら、神がこの地球を造った理由は、ひとえに人間の創造を神の家族の一員として完成させるためであるからです。

 

 度々天を訪れるリック・ジョイナー師は、「地上で苦しみと試練を通して霊的訓練を受けた人と、受けないでベービークリスチャンのままで天に挙げられた人との間にできる霊的成長の差は未来永遠に残る。」と警告します。それは、主イエスが私たちに命じた「大宣教命令」による霊的訓練こそが、神がこの宇宙と地球を造り、そこに人間を生まれさせた究極の目的であることを示しているのです。次回はノアの時代の直ぐ前の時代に生きたエノクの信仰に触れたいと思います。(続く)

15 05月

エルサレムの平和のために祈ろう        坂  達 也       2018年5月15日


エルサレムの平和のために祈ろう
                 坂  達 也
5月14日は、イスラエル建国70周年に当たる特別の記念日でした。
その日のお昼頃でしたが、イスラエルの首都エルサレムで、アメリカの大使館がテルアビブからエルサレムに正式に移された記念式典が行われました。私はその実況中継を見てクリスチャンの一人として大変感動を受けました。
式典で最も称えられたことは、トランプ大統領の勇気ある決断力でした。トランプ氏はご存知の通り選挙でそれを公約し、昨年12月に大統領として正式にそれを実行する事を世界に公表しました。しかし、それを受けて世界(特にアラブ系諸国)は猛然と反発して参りましたが、それを敢えて押し切って、遂にエルサレムにアメリカ大使館の移動が実現に至った記念すべき日でした。
本件は過去において、1995年にアメリカ議会がイスラエルのアメリカ大使館をテルアビブからエルサレムに移すことを承認したにもかかわらず、最近の歴代3大統領はそれを実行しなかった経緯がありますから、この事がどれ程大きな勇気と決断を要するものであったかがこの式典を通してうかがわれ、大きな感銘を受けた次第です。
しかもこれに先立ち、トランプ大統領はイスラエルの最大の政敵であるイランとの核に関する六カ国合意契約を破棄する事を宣言していましたから、この式典と時を同じくして、パレスチナ自治区ガザで数万人規模の激しいデモが発生し、それを企画したハマスのテロリストに対してイスラエル防衛軍(IDF)が報復したため多大な死傷者が出たことは、十分予期された事件であったと思います。
 イスラエルとエルサレムの歴史は非常に複雑です。第二次大戦が終了し、イスラエルが独立国家として正式に1948年に誕生して以来70年が経った訳ですが、その首都は聖書的に言えば間違いなくエルサレムです。そして、このエルサレムこそは将来イエス・キリストが帰って来て、世界を統治する御国の永遠の首都となる場所であることは、クリスチャンの皆様はよくご存知です。
一方、歴史的政治的な立場からすれば、イスラエルは1967年の第3次中東戦争で、ユダヤ教やイスラム教、キリスト教の聖地が集中する旧市街を含む東エルサレムを占領。その後は併合したエルサレムを「不可分の首都」と位置づけてきました。但し、国際的な承認は得られていません。
これに対して、東エルサレムを将来に独立する際の首都とするパレスチナ側は当然ながら反発しました。1993年のイスラエルとパレスチナの「2国家共存」を目指すオスロ合意では、今後の交渉でエルサレムがどちらに帰属するかを決めるとしていました。そのため今回の米国の動きに、パレスチナ側は猛反発した訳ですが、これによって中東和平交渉の再開は一段と難しくなってきたことは否めません。そして、その理由がお互いに宗教的な事情が絡む以上、和解の余地はほぼ考えられない最悪の事態に立ち至った状態にあります。
一方アメリカにおいても、トランプ大統領の立場は苦しいものがあります。それはアメリカには宗教の自由が許されている以上、大統領が一宗教の立場を取ることは許されないからです。従って中間選挙をこの秋に迎えるアメリカは、国内の政治闘争による紛糾がますます深まると予想されます。しかし私たちクリスチャンの立場からすれば、トランプ大統領が取った今回の行動は、明らかに彼自身が正真正銘のクリスチャン信仰の持ち主であることを証明したと言えます。
ユダヤ教徒とクリスチャンの立場
ご存知の通り、詩篇122:6ー9には、こう書かれています。
「『エルサレムの平和のために祈れ。『おまえを愛する人々が栄えるように。
おまえの城壁のうちには、平和があるように。おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。』
私の兄弟、私の友人のために、さあ、私は言おう。『おまえのうちに平和があるように。』
 私たちの神【主】の家のために、私は、おまえの繁栄を求めよう。』」
ナタネヤーフ首相は昨日の演説で、イスラエルの首都はエルサレムであるが、そのエルサレムにおいて、戦いではなく、平和を望む、と言っていましたので、おそらく彼は上記の聖句を踏まえた「両者が平和裡に共存する」可能性を追求する用意はあると言っているのではないかと思います。しかし、パレスチナ側はあくまでエルサレムを自分の領土と主張すると思われ、そこには妥協の余地はほとんどないと言えます。
また、創世記12:3では、イスラエル建国の父アブラハムに対してあなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。」と明言され、それには異邦人の私たちも含まれていますから、真にキリストの神を信じる者であれば、イスラエルに反対する立場は取れないはずです。
さてそこで、私は日本とイスラエルの関係を憂慮します。一応今までは友好的に推移して来たようですが、最近日本国首相が、アラブ側に気を使ってか、日本は大使館をテルアビブからエルサレムに移動はしないと明言しました。しかし私たちクリスチャンとしては、日本が「羊の国」になるためには、名実共にイスラエルを完全にサポートする立場を明白に宣言する日が一日も早く来る事を願って止みません。
世界情勢は完全に終末の時代に入っている
つい先日アメリカは、イスラエルの東北側の隣国のシリヤを攻撃し、その背後にいるロシヤを刺激しました。その後にイスラエルとアメリカを目の敵にする東側の大国イランとの条約破棄を宣言したのです。これでイスラエルを取りまくアラブ諸国陣営と後ろ盾のロシヤに対抗して、イスラエルとそれを後押しするアメリカが対峙するという世界を分けての二大体制ーーこれはまさに聖書が預言する最後の時代に起こる「決戦体制」が出来上がりつつあると言えないでしょうか。
一方、アジヤでは中国が後押しする北朝鮮とアメリカが後押しする韓国、日本、台湾の体制が不気味な様相を呈しています。すなわち、ここでも二大勢力の対決ができつつあり、もしかすると黙示録8章9章の預言が当てはまり、戦争が勃発するだけでなく、更に激化して10章の預言に続く可能性があるようにも思えます。これらの章は、明らかに核戦争の様相に当てはまるとも考えられます。
正直なところ、私は中国が北朝鮮を簡単にアメリカ側に手離すとは考えられません。その点、北朝鮮問題の解決が今後難しくなる可能性が十分あり得るという気がします。但し、このように申し上げても私は世の終わりがすぐ来ると言っているのではありません。
むしろ、私が申し上げたいことは、終末のリバイバルと霊的アウェークニングは、前にも申し上げた通り、イザヤ書60章に書かれているように見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている」という暗闇の最も暗い最中に(2節)起こるのではないかと言うことです。であればこれから世界中がますます暗くなります。しかしその時に「あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光のうちに歩み王たちはあなたの輝きに照らされて歩む」と書かれている3節はリバイバルが来る時の様子ではないでしょうか。
 いよいよ世の中は未だかってない真っ暗な暗闇の中を通る時となるーーその時こそ、そのために主に整えられた私たち御国の精鋭が、主の良い御使いに助けられ、最後の大収穫に参加する一方で、世界の多くの国を主の御国となるように導く仕事に就く時であると信じます。
そのために私たちは、今こそ主に似た、へりくだって主にのみ仕える者にならねばならない、それはマタイの5章にある山上の垂訓の教えーー「心の貧しい者」「柔和な者」「義に飢え乾く」「あわれみ深い者」「心の聖い者」にならねばならないと思う次第です。(終り)

21 02月

リバイバルがやって来る!誰がその火を点け、      誰がその実となる未信者を導くのか (その二)             坂   達  也


リバイバルがやって来る!誰がその火を点け、

     誰がその実となる未信者を導くのか (その二) 

 

                坂   達  也

 

 

 先週はこの2月8−11日に開催されたモーニングスター・ミニストリーにおける「アドバンス預言カンファレンス」で語られたリバイバルとアウェークニングへの預言についてご報告し、特にジェロマイヤ・ジョンソン師のメッセージに焦点を当てました。

 そこで今回はその前日の講師であったポール・キース・デイビス師のお話をご紹介’します。

 

 師は前にもお話ししたかと思いますが、約3年前に奥さんが家を出て行かれ、その衝撃と悲しみの中で、首の付け根辺りの背骨を痛めるという大変な事態になり大きな手術を受けることになりました。一時は一人で立つことも歩くこともできず、痛みに苛まれ食べることすらままならなかったといわれます。また手術後の回復が思わしくなく、再び背中の手術が必要と医師に云われたのですが、師はそれを断りました。そのような大変な痛みと苦しみの最中にあった2015年6月の或る夜、9時過ぎでしたが、濃い主の臨在が彼の寝室を満たし、上を見なさいという声が聞こえて、見上げると天井が吹き抜けて天の御座に座っておられる御父を肉眼以上にはっきりと見ることができたと言われます。それは本当に生きておられる父なる神に会うという劇的な経験であったのです。師は「それは私が痛みと苦しみの頂点にいた時でした。私はその感激で1時間半泣き続けました。そしてそれ以来今に至る迄、その濃い主の臨在が私から去らないのです。」と言われます。

 

「御父は、『わたしはあなたを養子としてわたしの子どもにしたのではない。 あなたはわたしの朽ちることのない永遠不滅の「種」から生まれ(それは人間の精子を思わせる霊の精子)、実際にわたしの種があなたの中に入っている』と言われました。それは1ヨハネ3:9に書かれてある通りです。ですから天におられる父なる神は、私を養子という形で他人の子どもを引き取ったから子になったのではなく、実の『父の種から生まれた真の息子』であることを強調されて『我が子よ、わたしは決してあなたから離れず見捨てることはしない。』とはっきり言われました。ですから、キリストとともに死に、キリストとともによみがえった私たちクリスチャンは、真実『神の子』であり、天におられる主イエスの父と私の父は同じ父であるという明確な確信をいただきました。」と師は言われます。

そこに師は、御父と主イエスと自分の関係が特別なものー霊の関係は肉の関係より遥かに強いリアリティーを持つ超親密なリレーションシップーであることを感じることができたといいます。そして父の子である自分はこの世が造られる以前から、終末の時代の「この時間」に生まれて生きる、そして予め天で定められた時が来る迄は「決して死なない」というデスティニーを持っていることを確信したそうです。

 

 師は続けます。「この世の中には『永遠のいのちの霊の法則』と『罪と死の霊の法則』があることをはっきり霊的理解を持たないで生きてしまえば、私たちは死の霊の法則を甘んじて受取ってしまう。そのようになりかけていた私に対して主は『止めなさい!ストップしなさい。』といわれたのです。それは私があまりにも痛みが激しく耐えきれなくなったときに『主よ。どうぞ私をもう天に引き取ってください』と主に二度も嘆願したからでもあります。私が死の霊に脅かされ、それに同意していたことを知っておられた主ははっきりと『あなたを天に引き取る時は未だ来ていない。だから、永遠の命の霊によって生きなさい。』と私に命令されたのでした。主は『私たちは罪と死の霊の法則に縛られたまま、それを受け入れた生き方ーライフスタイルーを脱ぎ捨て、本来既に持っている「永遠のいのちの霊の法則」で生きねばならない。そうすれば病気とか悪魔の誘惑に負けることはない。そして神が定めた時が来る迄、全く健康な身体で生きることができる。』と私を強くたしなめられました。」

 

師は、自分は超自然の力で癒しのミニストリーを強調しようとして言っているのではないこと、むしろそのような力は『永遠のいのちの霊の法則』で生きる者には既に具わっていることを強調していわれたのです。私はこれを「霊的覚醒」と表現したいと思います。

 

しかし問題は、どうすればそのようにいのちの霊の法則で生きることができるのか、です。これは信仰の訓練であり、それはジムに通って毎日筋肉トレーニングをするのに似ていて、一日二日しても効果は目に見えない。しかしたゆまずその信仰の筋肉訓練を続けるなら必ず効果が現れ、本来持っている永遠のいのちの霊の法則で生きる生き方ができるようになる。筋トレを怠ればその結果も数日では現れないが、一月、二月怠ればお腹のベルトの穴の位置が変わり、遂にはズボンを新しく新調しなくてはならなくなるのと同じであるといわれました。

 それでは、その信仰のトレーニングの方法は何かといえば、それは先ず、命の霊の法則で生きる信仰の上にしっかり立つことから始めなさいと主は言われたそうです。その点ボーン・アゲインしたクリスチャンであっても、この世で生きている間は、この永遠の命の霊の法則と罪と死の霊の法則という二つの法則が重なり合っており、死の霊の法則の(誘惑に)陥らず命の霊の法則だけに堅く立って生きることによって、決して病気にならない、あるいは、それに打ち勝つことができるといわれます。

そして師は、チャック・ピアースがいわれることに同意して「今私たちは、新しい希望をいただいて、新しいシーズンに入ったのであり、主が「この新しいニュービギニングのシーズンを勝ち通しなさい。あなたの持つ新たな信仰の戦いの向こう側は勝利であり、その信仰があなたを既に勝利した側に立たせてくれている」といわれて励まされたとそうです。

 

そのための具体的に何をすればよいのかーその秘訣を主に聞くと先ず「毎朝起きたときに、聖書の御ことばから、いのちの霊の法則のことばを選んで、それを声を出して唱えなさい」といわれたそうです。そこで師は、最初に詩篇の103を選んでそれを口に出して高らかに宣言しました。そして、これを始めてから既に一年近く経つと師は言われたのですが、その師をテレビ画面で見ますと、全く見違える程元気になられ、私たちが4年前に師に会った時よりももっと若返ってはつらつ、生き生きとしておられるのを見て私たち夫婦は心から感動しました。

 

このデイビス師が極限の苦しみの頂点にいる時に真の神に出会い、真の神を知ることができたことに私は心打たれました。主イエスの苦しみたるやその昔キリストが十字架をかついでゴルゴサの丘に向かうシーンが映画で演じられたことを思い出しました。実際に主が味わられた苦しみはそんなものではないといわれますが、過去・現在・未来に存在するすべての生きものが苦しむ痛みの総計に有り余る苦しみを、創造者の神ご自身が私たちに代わって味わってくださったのです。そのような考えられない程極度の苦しみと痛みのほんの一部を私たちが味わせていただけるとすればーこれ以上の特権がこの世の中にあるでしょうか。この特権こそ、主の十字架を信じ、自分の十字架を担いで、喜び勇んで主の後を追って歩く人だけに与えられた「永遠の命の霊の法則で生きる」特権であると私は信じます。そのような苦しみを味あわせていただいた人は最も幸いな人、特別に選ばれた人ではないでしょうか。今そのような苦労の中を通されている人は幸いです。

 

そしてデイビス師の話しが終わる頃に静かに壇上に現れ、師の側に並んで立たれたのはリック・ジョイナー師でした。リック師は、この一、二年の間、膝の手術後、複雑な問題から同じような激しい痛みと苦しみを味わって来られました。その彼が、或る時痛みをこらえつつゆっくり歩いていると、一人の少女が近寄って来てリック師の膝には悪霊がついているのが見えると言い、その子が祈ると80%程の痛みが取れたという証しをされました。リック師は詳しいことは云いませんが、最近主から多くのビジョンを見せられて来たといい、それを今数冊の本に書き上げたところであると言いましたから、私はうなずけるのですが、激しい敵の攻撃を受ける最中に書かれたその本は、さぞすばらしい本ではないかとその本が出版されるのが楽しみです。

 

同じように、私はデイビス師がこの終末の時代にこれから大きく用いられることを今回の彼を見て確信しました。また今回のカンファレンスで彼から預言の油注ぎを受けて「永遠の命の種を持って生きる信仰に堅く立つ決意を新たにしたクリスチャン」こそが終末の時代に主のために大いに用いられる人に選ばれ加えられたことをも確信しました。今回の預言のカンファレンスを画面上ではありますが目の当たりに見て本当に励まされました。

再度申し上げますが、今苦しみの中を通されている方は大勢おられます。しかし、その人たちは特別に選ばれた人、主に用いられる人であることをはっきりとお伝えしたいと思います。私がここ数年知り合った方々の中にもそのような方がおられます。どうぞこのメッセージを読まれ励まされてくださるようお祈りしております。

このような苦しみ、痛みに遭う(主がそれを許される)時には、主がその人に特別の任務を用意されていると信じます。その逆境が大きければ大きい程、その荒野の体験が長ければ長い程、その人は主に大きくすばらしく用いられるのです。事実私は今迄、主に用いられた著名な信仰の持ち主で、苦しい荒野の試練と逆境を通されていない人を見たことがありません。(終り)


09 01月

新年に神が望んでおられることは私たちが「主と共に歩む」こと     坂  達 也


新年に神が望んでおられることは

        私たちが「主と共に歩む」こと

 

                  坂  達 也 

 

 

 新しい年に入って一週間が過ぎました。この間、前代未聞の猛吹雪と零下18度という極寒を体験しました。そして入居した家の下水がつまっていて、地下のシャワー室の下水口からトイレの汚水が逆噴するという緊急事態になりました。しかし極寒時に主は下水の詰りを修復するプラマーを直ちに送って下さいました。また、昨日は私たちの新居に待ちに待ったインターネットが入りました。

 

さて主が今、私たちクリスチャンのしていることのすべてを、改めて根本から見直すように仕向けておられることを、先週に引き続き、改めてひしひしと感じていることをお伝えします。それは、すべてのクリスチャンが今迄にして来たことが「人間業による偽物(フェイク)」であること、それを「霊的な本物」に取り替え改革するプロセスが急がれていることの証拠であるように思えます。

しかもそれは何一つ新しい考えによるものではありません。すべて初めから聖書に書かれていることの元々の意味に立ち返ることであり、そのためには先ず、私たちが長い間に少しずつではあってもどれ程大きくずれ落ちて「人間的になってしまっているか」に気が付く必要があります。

 

そこで申し上げられることは、神は「今の私たちクリスチャンがフェイクであること」を、最高の聖人君子のようなクリスチャンに言わせるのではなく、こともあろうにトランプ大統領のような、過去に多くの罪を犯し、無数の傷を持ち、言うことなすことがどう見ても「一見フェイクに見え、最もクリスチャンらしからぬ毒舌家」を立てて「フェイク暴露」に挑戦されたことです。しかもその真実を、最もフェイク・クリスチャンの多いアメリカで、全く腹の立つような方法で暴き出させたのですから、この世の中、今では世界中がおもちゃ箱をひっくり返したような喧々囂々の大騒ぎとなりました。しかしよくよく考えてみれば、そのこと自体が神でなければ絶対にできないことではないでしょうか。

トランプ大統領は恐らく世界有数の罪人のチャンピオンであったとしても、その彼は、そのことを神の御前で悔い改めました。そして、見せかけは最もまずい「よちよち歩きのベービークリスチャン」であるかもしれない彼が、その前の三代の大統領が国の立法府が承認しているにもかかわらず「エルサレムにイスラエルへの大使館を移す」という「世界で最も正しい、すべきこと」を実行できなかったことを自分はすると世界に向かって宣言したのです。クリスチャンとは正しいことを正しいと言い、それを愛をもって実行する勇気を持たねばならないことを、私たちはトランプ大統領から学ばねばならないと思います。

それを言えば、聖書の中で最も影響力のある人物とか王で、この人こそ「聖人君子」であると言える人が一人でもいるでしょうか。アブラハムにしてもダビデ王、またソロモン王にしても皆キズものの人間ばかりです。それ自体、神が聖書を通して「真の人間の正体」を暴露しているという厳粛な事実であるのです。

 

そこで「私たちがクリスチャンである」ことを最も端的に表す尺度が何であるかを考えてみたいと思います。私はそれは、クリスチャンにとって最も重要な行為である「祈り」がどのようになされているか、ひいてはその祈りが聞かれているかどうかーにあると信じます。私たちと神との間でなされる「祈り」とは「親しい会話であり」その「祈りの関係」の実態が、クリスチャンたる私たちと神なる父との関係を如実に表していると思うからです。真のクリスチャンとは、神と最も親しい親密な(人間)関係に入っているか、否かが真っ先に問われます。

就いては、その「私たちの祈り」について、カンサス州にある IHOPに所属するサムエル・ウィットフィールド師が最近書いた下記のメッセージを先ずご紹介させていただきます。

 

祈りの真の秘訣    サムエル・ウィットフィールド師

 

ルカ11:1−4にこのように書かれています。

「さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終ると、弟子のひとりが、イエスに言った。『主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。』そこでイエスは、彼らに言われた。『祈るときは、こう言いなさい。父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」

 

このルカ11章において、私たちは、イエスと弟子たちの間の親しい会話の様子を垣間見ることができます。イエスが祈っていた時、弟子たちはイエスと御父との会話に感銘を受け、祈り方を教えてくださいと頼んだのです。彼らへのイエスの答えは驚くべきものでした。

イエスは弟子たちの願いにやさしく応答し始めました。主は、ご自分の御父への祈りの生活は、自分が御子である故に「わたしに特有なもの」と簡単率直に答えることもできました。又、彼らの弱さ、罪、未熟さの故に自分のように御父との親密な関係はとても持つ事はできない、と言うことも出来たでしょう。しかし主は弟子を叱責したり、御父と弟子たちの関係は「そんなに親密ではない」などとは言わずに、シンプルで深い祈り方をやさしく彼らに教えたのです。

 

その祈りの初めの部分は、私たちが どのような期待をもって祈り始めればよいかを示しています。

 

ルカ11:2

そこでイエスは彼らに言われました。「祈るときはこう言いなさい。『父よ、御名があがめられますように。御国が来ますように』」と。

ここで主がいわれた言葉ですが 、私たちはこの「主の祈り」に実はあまりにも慣れ親しんでいるので、ついその重みを十分に理解しないまま通り越してしまい勝ちです。しかし主は、神に近づく時は、私たちも主と同じようにしなさいと教えてくださったのです。即ち、正しく祈るためには、神の御前で私たちはイエスと同じ「確信」をもって祈らねばならないということです。

 

祈りを学びたい時、私たちは祈り方に関していろいろな方法や教えを見つけようとします。どのような言葉を使えばよいのか、何をどのように祈ればよいのかと、正しく祈るためのフォーミュラ(法式とか定則)を必死で得ようとします。しかしイエスはそのようには始められませんでした。イエスは「関係」から始められました。祈りで用いる言葉や内容よりも、 祈る相手に 「確信」を持つことの方が余程重要であることを、イエスは知っておられたからです。

ほとんどの人は正しい祈りの方式とか型を見つけ出そうとしています。しかしイエスは、そのような態度で祈りに近づいてはならないと警告しておられるのです。

マタイ6:7−8

「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただ繰り返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」

 

祈りは「正しい言葉使いとか、その言い回しの決まり文句を唱える」ことから始めなければならないのではなく、「祈る相手に対する親しい関係を表す確信」から始めることが重要であるのです。神を、真に愛に溢れる善き父として見上げるならば、それは私たちの祈り方を革新的に変えます。私たちの祈りは心からの、正直なものとなり、なんでも包み隠さず言うようになる、そうして初めて、御父との親しい信頼関係を土台にした祈りとなるのです。

すなわち祈りは、華麗な言葉を用いたり正しい方式で祈るから聞かれるのではありません。神が私たちの父であるから聞かれるのです。

私たちが用いてもよい祈りの助けとなるものがあります。例えば、御ことばを祈るとか祈りのリストとかです。しかし、祈りは先ず御父との親しい関係に対する確信から始めねばなりません。そうでないと、祈りの言葉はただの空しい儀式になってしまいます。イエスはご自分と同じ親しさをもって神に近づくようにと、私たちに教えてくださったのです。

 

もしあなたがイエスなら、祈るときどのように御父に近づきますか。私たちもそれと同じように御父に近づき祈るべきです。あなたが今度祈るとき、イエスが父に対して持っておられるのと同じ確信を持って御父に近づいてください。祈りに関するいろいろな教えは確かに助けになります。しかし、実にこれこそが生き生きとした祈りの生活の始まりとなる、ならねばならないのです。(以上師のメッセージ終り)

 

神との親しい関係

 

上記のメッセージは当然といえば当然なことを言っているに過ぎないー単なる理屈だと思ってはならないと思います。この方が言わんとしていることは、私たちクリスチャンと神なる御父との関係が、本当にすべてを委ねて頼り切っている幼児とやさしい愛に溢れる父親(母親)との間にあるような「信頼関係」になっているかどうかが問われていると思います。

 

そこで私は今回の私たち夫婦が再びニューヨークの家族の元に移り住むために費やした2017年と今年に入っての約一年間の経験を通して私が学んだことを少しお分ちさせていただきます。

それはカリフォルニアに住んでいた約三年半は、落ち着いたクリスチャン生活を送ることに務め、何もない日はほとんど毎夜、夫婦で主の前に出て少なくとも30分から1時間余の時間を祈りに費やしました。そして私が前にも何度も申し上げて来たように、最後にマタイによる「主の祈り」をもって夫婦の祈りを終わるようにして来ました。勿論私たちは、それ以外にもそれぞれ示された時とか必要に応じて、異言を含む色々な形の祈りを毎日して来ました。しかしそれはほとんどの場合、家の中で時間を取ってのお祈りでした。ところが私たちの住まいを売りに出した後の手直し、売却、その後の引っ越し、そしてこちらに着いた後の古くて問題だらけの(それを見越して安く入手した)新しい住まいでの改修工事を始めたばかりですが、この間の年末年始の2−3ヶ月は、いつも家でしていた定番的「祈りのパターン」とか、型にはまった「祈りこみ」ができなくなりました。実はそれによって「祈りが足りないのではないか」という一抹の不安と、それでは「祈りは聞かれない?」という恐れを私が持ったことは否めない事実でした。

 

ところが実際に経験したことは、ほとんど未知の土地で、予測できない行動を必要とする多忙な生活を過ごす時に、逆に主からのとっさの「祈りの指示」がぱっぱっと聞こえてくる、そしてそれを祈ると、火急の場を救うための見知らぬ適任者が現れて適時に事態が処理されるのです。つまり主は私に祈らせ、即時に実行させるーこうした主との祈りの会話で話しが進転するーすべてを主が手配し、私はそれに従って行動しているだけーーという毎日を経験しました。そしてハタと納得したのは「そうだ、これが主と共に歩くことだ」という実感でした。

 ここで毎日を主と共に歩くこととは、歩いていても電車に乗っていても常に主に話しかけ、質問する、あるいは喜びと感謝を気軽に伝え、分かち合うことであると思います。親しい友人になることです。これが自然に身に付けば、一日中何をしていても、あるいは寝ていてさえ主は話しかけてくれるようになり、気軽に何でも答えてくれてどんどん指示が来るようになる、それが私の目標で、その味を今少し経験しております。

 

 

 もう一つの例を挙げます。実は、私は息子が取得した新しい家を訪ねた最初の日にその地を「祈りの歩行」するつもりでしたが、その時は紛れて忘れていました。そして住み始めて2、3日経った時、この買った古い家が予想していた以上に問題だらけであることから、私が息子と打ち合わせ中に、突然恥ずかしいことに感情任せに私がつい声を荒げて息子にどなってしまったのです。(息子をどなったのは何十年ぶりでした。)その時、祈りの歩行をしていないことに気付きはっとし、慌てて私のたちの宅地と数件の隣家との境界線を祈って歩きました。そして私は、主の臨在が戻って来て、息子を怒鳴るという全く恥ずかしい未熟な行為を悔い改めました。その後息子との関係は、すぐいつもの親しい良い関係にもどり、事はうまく進んでおります。

私はクリスチャンとして成熟することへの努力を私なりに努力して来たつもりでしたが、それが少しでも宗教的行為である限り、頭での努力だけでは真の「主との親密な関係」はでき難いことを改めて経験させられました。しかしその一方で私がやってきた「主を見上げて待つ」祈りとか、夫婦での主との交わる習慣、特に「主の祈り」を心から唱えることは、主との親密さを増すことに貢献していることを改めて感じている次第です。

 

最後に、上記のルカによる主の祈りの最後のところは、マタイ6:13によれば「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。(国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン)」となっております。それはその前にルカ伝でもマタイ伝でも書かれている「御国が来ますように。」につながっていると私は思います。

それは主をお迎えする前に、私たちがこの世を御国にする責任を主からいただいていることを真に自覚し、終末の最後の時代に生かされて、「主とともに歩みつつ」その責任を果たすことを主が期待しておられるのが「主の祈り」の意味であることに改めて気が付かされました。(終り)


16 10月

私たちの霊的履歴        坂 柚実子           2017年10月16日


私たちの霊的履歴

 

              坂 柚実子

 

 8月末から9月にかけての今回の私たち夫婦の3週間の日本伝道旅行中、WWGMを読んでいて下さる方々と会う機会を沢山頂きました。長年の友人知人はもとより、初めてお会いした方々もありました。ある昼食会には数人の初対面の方が集まってくださいましたので、まずお互いを知るために、各々が「霊的履歴」を話すということになりました。お一人おひとりが神の導きにより今の場所にいるということであり、現在は喜びのある信仰生活をしておられることを感じました。

 

又、ある会ではカトリックの方々とお会いし、カトリックとプロテスタントの違いなどを話しあうことができました。カトリックの方からはカトリックが持つ問題点を、またプロテスタントの私たちからはプロテスタントが持つ問題点を分ちあいました。その中で一人の方が「両方から『いいとこ取リ』はできないのでしょうか?」と言われ、私は、それこそ神が望まれていおられることではないかと思いました。

神は歴史を通して、そのときどきに必要な聖書の真理にスポットライトを当て、それを新しい啓示として与えてくださいます。新しい啓示から新しい教派が生まれたならば、生まれた教派はそれ以前の教派がすでに持っている啓示、真理、知恵をおろそかにせず、そこから学ぶべきことは全部学ばねば損であると思います。またそれ以前の教派は、神が他の人やグループに与えられた新しい啓示にも心を開いてこそ、神の与えようとしておられるすべての真理を受け取ることができるのだと思います。それが「宗教の霊」に打ち勝ち、生ける神との関係を保つ道ではないでしょうか。

 

宗教改革

 

 先日CGNジャパンのインターネット放送で、9月に開催された宗教改革500周年集会における新宿シャローム教会の牧師稲福エルマ先生のお話を聞くことができました。非常に感銘を受けましたので、ここでご紹介させて頂きます。師はカトリック教会が持っていた問題や間違いの故に宗教改革が必要であったことを説明された後、次にように述べられました。

 

「カトリックであろうと、正教会であろうと、またプロテスタントであろうと、同じような失敗を繰り返す危険があるのです。神様の臨在を失い、御ことばから離れ、だんだん形式的なキリスト教という宗教になってしまう危険性です。ですから改革、トランスフォーメイションは、今なお私たちの中に継続して起こって行かねばならないことをおぼえていきたいと思います。

 

中世はカトリック教会が支配しておりましたが、500年前にそれが大きく変革されました。ルターが立ち上がり、信仰によって人は救われることを説いたのです。しかしその変革はそれで終ったのではありませんでした。1600年代にも沢山の神の御わざが起りました。その一つはバプテスト運動であり、洗礼の真の意味が再び回復されました。1700年代に起こった御わざの一つはホーリネス・リバイバルであり、クリスチャンは聖さを求めるべきであることを唱えました。1800年代には福音派運動が盛んになり、すばらしい世界宣教へのヴィジョンが与えられるようになりました。1900年代にはペンテコステ運動として、それまで失われていた聖霊の力を受ける聖霊のバプテスマの真理が教会に回復されるようになり、これによって教会が更に大きく変革されました。もっと自由な教会、もっと生きた信仰、燃えるような礼拝を捧げる教会が世界に誕生するようになりました。1960年代にはカリスマ運動を通して、キリストのからだの一致という真理が語られました。その後も、癒しのリバイバル、讃美のリバイバル、『信仰の言葉』のリバイバル、祈りの家のリバイバル等々、神様は今もなお継続して、教会を回復しておられることを感謝いたします。

 

私たちは本当に変えられて、変えられて、トランスフォームするのです。その目的は何でしょうか。それはキリスト・イエスの栄光を顕す教会に私たちはなりたいと願います!

 

ハガイ2章9節に『この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。』とあるように、神様は世の終りの教会をますます栄光に満ちた教会にしてくださる、それは初代教会よりも更にまさるすばらしい教会になることを神様は願っておられることを信じます。

 

エペソ5章27節には『(イエス)ご自身で、しみやしわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。』と書かれています!アーメン!

日本の教会はそのような教会になっているでしょうか?まだではないでしょうか。ですから私たちは更に500年前に始まったトランスフォーメーションの御わざを祈り求め、完成されるように信じて祈っていきたいと思います!」

 

以上が稲福師の力強いメッセージです。教会がトランスフォームされ続ける必要性を説かれました。私はアメリカからの宣教師であられる師の、日本の教会に対する深い愛と情熱を感じました。

 

私たちの霊的履歴

 

 さて、今日は私たちの「霊的履歴」をお話ししたいと思います。

私は日本では、日本キリスト教団の教会に小さい時から結婚するまで通っていました。特に中学から大学までは南部長老派(日本キリスト教団に合流した教派の一つです)の宣教師によって設立されたミッション・スクールに通いました。そこで信仰深い先生方の導きで高校2年のときに信仰を持ちました。毎朝の朝礼で讃美歌を歌い、意味が本当には分からないままではありましたが、沢山の歌詞を心に蓄えることができました。今も思いがけない時に口から出てくるのは讃美歌です。

 

所属していた教会はアメリカからの宣教師によって開拓された小さな教会でした。彼が「土台」を「どどい」と言い、「大間違い」を「おまちがい」と言っていたのが今も耳に残っているのですが、日本語で毎週説教されるのは、ものすごい努力だったと思います。宣教師家族の犠牲的献身によって私は養われたのでした。

 

アメリカのオレゴン州で事業をしていた主人と1969年に結婚し、近所にあった北部バプテスト教会に繋がり、そこで主人も5年後に救われました。

私はそこで「cover to cover(聖書の表表紙から裏表紙まで全部そのまま信じる)」という概念や「妻は夫に従う」という聖書の教えを初めてちゃんと教えられた気がします。確かに妻が夫に従っている素敵な夫婦が沢山いました。

 

そしてやがてその教会のなかに日本語部を作りました。オレゴンには幾つかの教派の神学校があります。最初は、そこに日本から学びに来ている牧師や神学生たちにお願いして礼拝を続けましたが、最終的には主人が按手を受けて牧師となりました。これを通して他の教派の信仰にも触れることとなり、聖霊のバプテスマもこの期間に受けました。

 

1995年夏にヘンリー・グルーバー師夫妻と出会い、不思議な神のご計画により、その秋から日本にお連れすることとなりました。それから10年間、年に二回一ヶ月ほど、案内兼通訳として夫婦で日本に同行いたしましたが、それを通してグルーバー師から「祈りの歩行」の実践や様々な霊的教えを受けることができました。師は聖書をそのまま生きているような方であり、私たち夫婦の信仰に大きな影響を与えてくださいました。

 

2004年にハワイに移ったのを機に、バプテスト以外の教会を経験することができました。まず、フォースクエア派の教会に一年ほどおりましたが、そこは個人的な神との時間、デボーションを強調している教会で、すばらしいことにほとんどのメンバーがそれを実践していました。次に単立の聖霊派の教会に2年ほどおりましたが、そこはエド・シルボソ師の指導のもと、社会のトランスフォーメーションを目指している画期的な教会でした。次にイスラエルに重荷を持つハワイ人によるメシアニックの集会に参加し、安息日やユダヤ教の慣習、祭りを経験し、イスラエル•ダンスを楽しみました。そこで学んだことは聖書の理解を更に深めてくれたと思います。また、それを通じてイエスを信じないユダヤ人と知り合う機会もあり、彼らがクリスチャンや十字架に対して否定的な思いを強く抱いている理由を知ることができたのは、貴重な経験でした。

 

2012年にニューヨークの息子夫婦に子どもが生まれ、その手伝いに出かけました。私たちが住んだコンドミニアムはもともとユダヤ人が建てたところで、現在も住民の半数はユダヤ人という場所でした。一つのビルに2つエレベーターがあるのですが、金曜日の日暮れからの安息日になると、片方のエレベーターは「各階止まり」に設定されます。ユダヤ人にとって自分の階のボタンを押す事は、安息日に禁じられている「仕事」になってしまうからです。私たちはハワイでユダヤ人のことを学んでいましたので、そのような一見愚かに見える「宗教的慣習」も、ある種の尊敬の念をもって受け取ることができたのは幸いでした。

 

教会は息子たちと一緒にブルー・オーシャンというグループに属す教会に通いました。これは「青い海原」にいる多くのノンクリスチャンにも福音を届けるという意味で、「Fully Jesus-Centered. Fully Inclusive.」という考えでした。「イエスを中心とし、イエスを求めて来る人ならば誰も拒まない。」ということだと思います。韓国人牧師による英語の礼拝でしたが、牧師夫人が担当し力を注いでいる教会学校は、子どもの時からキチンと自分の頭で考えさせるという方針を打ち出していました。

 

 息子の転職に伴い、2014年にサンフランシスコの近くに移りました。そこで黒人と韓国人の夫婦が牧会する現在の教会に導かれました。ここはまさに人種の坩堝で、多分15カ国以上からの人びとが集っているのではないかと思います。韓国人、黒人、白人、メキシコ人、中国人、その他私たち日本人等です。黒人も「アフリカン・アメリカン(アメリカの黒人)」だけではなく、ナイジェリアやケニヤからの「アフリカン・アフリカン(アフリカ生まれのアフリカ人)」もいて、その違いも見ることができます。

私たちは長年アメリカで暮らしてきたにもかかわらず、黒人の方と親しく交わる機会が今までなかったのですが、この教会を通して、アメリカの黒人が持つ深い傷を少し理解できるようになったのは幸いでした。多くの違う文化を持つ者が一つの教会を形成していくのは、確かにチャレンジも多く、御霊の働きがなければ不可能なことですが、牧師夫妻の霊的指導によりこのような教会形成が進んでいることはすばらしいと思います。

 

以上私たちが経験してきた教会ですが、それぞれの教会での牧師や信徒との交わりによって教えられ、養われ、助けられてきました。又、教会の構成や運営の仕方も多様であり、それに関しても学ぶことができました。カトリックの教会の経験はないのですが、主人は長年、16世紀のカトリックの霊的な人々から、書籍を通じて多くを学んできました。

 

そして私たちは、アメリカの霊的指導者の本やビデオ、インターネットを通して今も多くを学んでおります。現在WWGMで皆様にお伝えしているのは、そのような人びとの預言や預言的教えであり、それらが少しでも皆様の信仰生活への励まし、助けになることを願っております。どうぞこれからもよろしくお願いいたします。(終り